渡邊昇

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渡辺 昇
Noboru Watanabe (Viscount) 01.jpg
生年月日 1838年5月1日
出生地 肥前国大村
没年月日 (1913-11-10) 1913年11月10日(75歳没)
死没地 東京府
出身校 五教館
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
子爵
剣道範士
親族 渡辺清(兄)

在任期間 1877年1月12日 - 1880年5月4日

在任期間 1880年5月4日 - 1881年10月31日

在任期間 1884年5月7日 - 1898年12月20日

選挙区 子爵議員
在任期間 1904年7月 - 1911年7月
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渡辺 昇[注釈 1](わたなべ のぼる / のぼり、天保9年4月8日1838年5月1日) - 大正2年(1913年11月10日)は、江戸時代末期の大村藩士、、明治時代の政治家、また剣術家。元は武常と名乗った。東民其鳳位階勲等正三位勲一等華族に列し、子爵に叙された。剣道の称号範士

肥前国大村に生まれる。江戸神道無念流剣術道場・練兵館に入門し、桂小五郎の後を受けて塾頭を務める。尊王攘夷倒幕運動志士として活動し、坂本龍馬の依頼で薩長同盟を周旋した。明治政府では、大阪府知事元老院議官会計検査院長貴族院議員を歴任した。また、大日本武徳会商議員を務め近代剣道の発展に尽力し、最初の剣道範士号を授与された。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

幕末期の渡辺昇

大村五騎に数えられる上級藩士・渡辺家の出身。大村藩参政渡辺巖の二男として生まれる。兄は渡辺清。昇は幼少時から大兵肥満で、異相の少年であったという。8歳で文武館に、12歳で藩校五教館に入校する。剣術一刀流を藩の師範役・宮村佐久馬に師事した(実際の指導者は宮村の実子・柴江運八郎であった)。

安政元年(1855年)、斎藤弥九郎の三男・歓之助が大村藩の剣術師範役となり、藩校の剣術流儀が神道無念流に統一された。昇は大村城下の歓之助の屋敷内の道場・微神堂で神道無念流を学び、膂力を恐れられた。

安政5年(1858年)春、江戸藩邸勤めになった父に従い、江戸へ出る。安井息軒・三計塾に入って長州藩士・桂小五郎と知り合い、桂の勧めで斎藤弥九郎の剣術道場・練兵館に入門する。弥九郎の長男・新太郎に学び、塾頭の桂と共に「練兵館の双璧」と称された。

翌年に桂が帰藩すると昇が塾頭となり、文久元年(1861年)まで務めた。「朝から晩まで相手代われど主代わらず」と言われたほど稽古熱心であった[1]天然理心流第4代の近藤勇とも親交を持った。近藤の道場試衛館道場破りが現れると、助けに駆けつけることもあったという[2]。このころ、昇は尊王攘夷思想に傾倒し、道場で仲間と政局を論じ合った。

倒幕運動[編集]

大村藩に帰藩後、勤王を名目に密かに「三十七士同盟」を結成する。元治元年(1864年)9月21日、梅沢武平とともに元締役・富永快左衛門を暗殺した。同年には大村藩の藩校改革も進めた。長崎土佐浪士坂本龍馬と会談し、坂本から薩長同盟の必要性を説かれ、長州藩への働きかけを頼まれる。昇は長州の説得に奔走し、長崎で長州藩と坂本を引き合わせ薩長同盟の成立に尽力した。

兄の清とともに大村勤皇党を率い、京都でも坂本龍馬、桂小五郎、高杉晋作西郷隆盛大久保利通ら諸藩の志士と交流する。品川弥二郎の命令で盛んに人を斬った。近藤勇の率いる新選組の隊員も殺したが、近藤自身は昇が佐幕派の刺客に狙われていることを知ると、ひそかに警告に訪れたという[2](もっとも、昇は大村に帰藩していて不在であった)。大佛次郎の小説『鞍馬天狗』のモデルはこの頃の昇という説がある。

慶応3年(1864年)、三十七士同盟の同志・針尾九左衛門松林廉之助が襲撃され、針尾は重傷を負い、松林は死亡する。事件は佐幕派の犯行とされ、昇は粛清によって強引に藩論を尊王にまとめ上げる(大村騒動)。

明治維新後[編集]

政治[編集]

明治政府では長崎裁判所諸郡取調掛、待詔局主事中弁弾正大忠に就任、浦上四番崩れ福岡藩贋札事件の対応に当たる。その後盛岡県権知事大阪府大参事、大阪府知事を歴任する。明治10年(1877年)、西南戦争抜刀隊が編成されることを知ると、大阪府知事であった昇は府内で剣術道場を開いていた元新選組隊士・谷万太郎を隊長に推薦した。

明治13年(1880年)5月、元老院議官に就任する。参事院議官・財務部勤務を経て、明治17年(1884年)5月、会計検査院長に就任する。明治20年(1887年)、欧米の金融事情を視察するため渡欧する。同年5月、子爵を叙爵される。明治31年(1898年)3月、勲一等旭日大綬章を受章する。明治37年(1904年)7月、貴族院子爵議員に選出され、明治44年(1911年)7月まで在任した[3]

剣道[編集]

明治16年(1883年)9月、東京府麹町区紀尾井町皇居付属地に、宮内省の道場・済寧館が落成した。華族・顕官の主導する「宮内省剣術」は、抜刀隊の活躍以降興隆していた「警視庁剣術」に拮抗する勢力となった。昇は山岡鉄舟と並ぶ宮内省剣術の代表的人物であった。もっとも、昇は長い竹刀、山岡は短い竹刀を使用して対照的であった。身長約6(約180cm)の昇が、4尺3(約130cm)を超える長竹刀を大上段に構え、袈裟がけや、防具外れにも打ち込むため、対戦相手から恐れられた。

明治28年(1895年)4月17日、渡辺が発起人の一人となり、日本武術を振興する「大日本武徳会」を結成。明治35年(1902年)5月、大日本武徳会から第1回の剣道範士号を授与された[注釈 2]。行動が専横であるとの批判もあったが、会員獲得のため全国を巡り、明治39年(1906年)には大日本武徳会剣術形(日本剣道形の前身)を制定するなど剣道普及に尽力した。

また、東京麻布の自邸にも、微神堂という道場を設け、剣道を指導した。高弟の堀田捨次郎は明治34年(1901年)、第6回武徳祭大演武会で昇の仇を討つべく園部秀雄と戦い、面を2本奪って見事勝利したという。昇の息子の八郎は小学3年生頃に剣道を始めたが、そのころ昇は一線を退き、離れたところから笑顔で見守っていたという。

晩年[編集]

晩年は、幕末期に斬った敵の亡霊に苦しめられ、書生に体を揉ませなければ眠れなかった。良い心地で寝ていた者を斬ったのが後々まで夢となって苦しめられたという。「手向かって来た者を斬ることや、戦って斬ったのは何とも思わないが、どうも無心に居る者を斬ったのは何としても忘れられず、心持ちが悪い」と語った[4]

栄典[編集]

位階
勲章等

親族[編集]

渡辺清(左)と昇(右)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 歴史人物としての表記は「渡辺昇」、存命時代に活字印刷において正字体に統一された表記が「渡邊昇」、本人は「渡邉昇」あるいは「渡辺昇」と署名している。
  2. ^ 第1回の剣道範士は7名(渡辺昇、三橋鑑一郎柴江運八郎石山孫六得能関四郎坂部大作高尾鉄叟)で、渡辺が筆頭であった。

出典[編集]

  1. ^ 幕末百話
  2. ^ a b 月刊剣道日本』1978年9月号「特集天然理心流と近藤勇」、スキージャーナル 11頁
  3. ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、60頁。
  4. ^ 堂本昭彦高野佐三郎剣道遺稿集』スキージャーナル、1989年。
  5. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  6. ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
  7. ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
  8. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  9. ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
  10. ^ 『官報』第4420号「叙任及辞令」1898年3月30日。

参考文献[編集]

  • 新人物往来社編『剣の達人111人データファイル』 新人物往来社、2002年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会、2002年。
  • 清水昇『幕末維新剣客列伝』 学研パブリッシング、2010年。
  • 外山幹夫『もう一つの維新史 -長崎・大村藩の場合-』 新潮社 1993年
  • 田端真弓・山田理恵 「幕末期大村藩における剣術流派改変の経緯に関する研究:嘉永7(1854)年の斎藤歓之助の招聘を中心に」(『体育学研究』第56巻第2号 日本体育学会 2011年)
  • 田端真弓・山田理恵 「大村藩における西洋式軍事訓練導入過程と武術」(『鹿屋体育大学学術研究紀要』第44号 2012年)

外部リンク[編集]

公職
先代:
岩村通俊
日本の旗 会計検査院長
第3代:1884年5月7日 - 1898年12月20日
次代:
山田信道
日本の爵位
先代:
叙爵
子爵
渡邊(昇)家初代
1887年 - 1913年
次代:
渡辺七郎