肥田昭作
ひだ しょうさく 肥田 昭作 | |
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生誕 |
1842年11月25日(天保13年10月23日) 武蔵国江戸(現・東京都) |
死没 | 1921年(享年80) |
国籍 | 日本 |
別名 | 昭敷、玄次郎 |
出身校 | 慶應義塾 |
職業 | 実業家、官吏 |
配偶者 | いね(肥田浜五郎養女) |
子供 | 金一郎(長男)、玄次郎(次男)、サン(長女・名生昌妻)、くに(三女・梅崎延太郎妻)、ろく(養女) |
肥田 昭作(ひだ しょうさく[1][2][3]、1842年11月25日(天保13年10月23日) - 1921年(大正10年))は、明治時代の日本の文部官僚、実業家。旧名昭敷[4]、玄次郎[5][6][7](玄二郎[8]、鉉次郎[5][9])。
第四大学区第一番中学(京都大学の前身の1つ)学長、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)、東京英語学校(東京大学教養学部の前身)校長、第十五国立銀行(旧三井銀行の前身の1つ)副支配人、第百十九国立銀行(旧三菱銀行の前身)および壬午銀行頭取を歴任した。
来歴
[編集]天保13年(1842年)10月23日、江戸に生まれる。田安家典医・安井元兆の次男であり、元碩とも称したが、のちに幕臣肥田浜五郎の婿養子となった[10][11][12]。慶応4年(明治元年・1868年)4月、福澤諭吉が主宰する慶應義塾に入社。翌年には義塾の教員を務めている[11][6][9]。
明治3年(1870年)7月、前年に新政府が設けた大学の中助教に転じ、12月に大助教に昇任。翌明治4年(1871年)4月、大学権少丞兼大助教となり[13]、大学が廃止され文部省が置かれた同年7月に文部権少丞兼文部大助教に更任されたのち、8月に文部省七等出仕、明治5年(1872年)1月に文部省六等出仕となった[14]。この間、大学南校監督兼英学教員を経て明治4年5月に大阪出張を命じられ、大阪開成所(学制制定後の明治5年8月に第四大学区第一番中学と改称)の事務を担当。明治5年6月、大阪巡幸の折に同校へ臨幸した明治天皇一行を管理者として出迎えたほか、同年9月に改めて第四大学区督学心得の肩書きで大阪出張を命じられ、第一番中学の規則改正、第四大学区医学校廃止にともなう第一番中学への引き継ぎなどにあたった。10月には第一番中学の学長となったが、病のため翌月にこれを辞している[8][15]。その後は文部本省に勤務し、用度局長を経て明治6年(1873年)9月に会計課長兼准刻課長、翌10月に准刻課長専務となった[16]。明治7年(1874年)9月、東京外国語学校長に転じ、12月には新設の東京英語学校長に異動。翌年4月まで東京外国語学校長も兼務した[17]。明治8年(1875年)5月、文部省六等出仕を免じられ、改めて東京英語学校長兼東京外国語学校長に就任。東京外国語学校には同年8月まで、東京英語学校には明治9年(1876年)12月まで在職した[18]。
退官後は実業界に進んだ。はじめは銀行業を手がけ、明治10年(1877年)5月の第十五国立銀行開業に先立ち熊谷武五郎らとともに副支配人に就任。簿記掛となった[19]。明治13年(1880年)4月、郵便汽船三菱会社が三菱為替店を開くと元締として招かれ、為替事業を統括。経済界の不況に際し明治17年(1884年)に為替店の廃止が決定されたのち、明治18年(1885年)5月に三菱会社が第百十九国立銀行の経営を継承するとその頭取となり、明治22年(1889年)2月まで在職[20]。明治22年から翌年7月まで立憲改進党の機関銀行である壬午銀行の頭取も務めた[21]。その後鉄道事業に転じ、明治23年(1890年)10月から明治31年(1898年)3月まで日本鉄道理事委員を、明治26年(1893年)7月から明治28年(1895年)9月まで播但鉄道取締役を歴任した[22]。またこの間、明治14年(1881年)6月に設立された明治生命保険の発起人となり、明治30年(1897年)1月まで監査役(明治27年1月までは検査掛)[23]。明治20年(1887年)4月に三菱為換店の倉庫業務を継承し東京倉庫が設立された際も発起人となり、明治29年(1896年)7月まで取締役を、明治22年9月から12月にかけて取締役会長事務取扱を務めている[24]。
このほか鉱山事業にも携わり、明治22年、前年に前島密らによって設立され壬午銀行内に本店を置く鉱山会社・両潤社の社長に選出された[25]。また明治23年に福島県の高玉金山を買収。大正7年(1918年)10月に久原鉱業に売却するまで長男金一郎らとともに経営にあたり、大正2年(1913年)には肥田鉱業合名会社を設立し代表社員となっている[26]。大正10年(1921年)死去[1][2][27]。
肥田は有力な初期福澤門下生の1人であり[2]、明治6年に福澤らが明六社を設立すると門下では古川正雄、秋山恒太郎に続いて社員となったほか[28]、明治7年6月の三田演説会創立、明治13年1月の交詢社創立に関わった[29]。慶應義塾維持のため明治14年1月に義塾仮憲法が定められると仮理事委員に選ばれ、仮憲法に代わって義塾規約が制定された明治22年11月には評議員に選出。明治28年10月まで務めている[30]。明治会堂の建設や義塾維持資金の募集などについて相談を受け、細倉鉱山への投資の仲介役となるなど、福澤とは個人的にも親交が続いた[31]。
親族
[編集]- 安井家
- 肥田家
- 父:浜五郎(1830 - 1889) - 諱は為良。造船技術者、幕臣、海軍機技総監。長崎海軍伝習所に学び、軍艦操練所教授方出役・教授方頭取出役、軍艦頭取、軍艦役、軍艦頭並、軍艦頭を歴任。明治に入ると新政府に出仕し、工部省造船頭兼製作頭、海軍大丞兼主船頭、宮内省御用掛、宮内省御料局長官兼内匠頭を務めた。また咸臨丸乗組士官として万延元年遣米使節に随行し、元治元年(1864年)には造船所設立準備のため渡欧。明治4年(1871年)にも岩倉使節団理事官として欧米に派遣された[34]。
- 母:喜代(1845 -) - 幼少期の浜五郎の養父・福村総右衛門の娘[35][36]。渡辺嘉一の養伯母[37]。
- 妻:いね(- 1885) - 浜五郎の養女。実父は浜五郎の兄・謙吉[12][40]。
著作
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『福沢諭吉門下』。
- ^ a b c 『福沢諭吉事典』。
- ^ 『明治時代史大辞典 3』。
- ^ 金井之恭ほか共纂 『明治史料 顕要職務補任録 下巻』 成章堂、1903年5月増補再版、568頁。
- ^ a b 田村、311頁。
- ^ a b 『慶應義塾150年史資料集 1』。
- ^ 慶應義塾編 『福澤諭吉書簡集 第一巻』 岩波書店、2001年1月、ISBN 4000924214、212頁、228頁、236頁。
- ^ a b 『大阪中学校一覧 明治十四年十五年』 3頁。
- ^ a b 『慶應義塾150年史資料集 2』。
- ^ a b c 『第五版 人事興信録』。
- ^ a b 『慶應義塾出身名流列伝』。
- ^ a b 土屋、280頁。
- ^ 『特定研究「日本近代化」資料 任解日録』 東京教育大学特定研究「日本近代化」研究組織、1970年4月、157頁、190頁。倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、32-34頁、45-46頁。
- ^ 『太政官日誌』明治4年第48号、2丁裏。同誌明治4年第52号、8丁表。同誌明治5年第7号、3丁表。前掲 『学制の研究』 262-264頁、269-272頁。
- ^ 「大學南校一覧/明治文化研究会発行」、hdl:20.500.12000/37800。
「肥田権少丞大阪出張申立」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治四年・第三十九巻」)。
東京大学文書館所蔵 「文部省及諸向往復 明治五年分二冊之内甲号」 79丁表、139丁裏。
「肥田昭作辞表ニ付申立」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治五年・第五十巻」)。
「大阪開成所一覧表上梓公布伺」(『大阪府教育百年史 第四巻 史料編(3)』 大阪府教育委員会、1974年3月)。
神陵史資料研究会『史料神陵史 : 舎密局から三高まで』神陵史資料研究会、1994年、140-141, 187, 134-136, 190-192, 201頁。 NCID BN11307703。全国書誌番号:95038707。 - ^ 『御官員分課住所 早見鑑 文部省教部省』 出雲寺万次郎、1873年5月、3丁表。東京大学文書館所蔵 「文部省往復 明治六年分四冊之内丙号」 743丁表。同 「文部省往復及同省直轄学校往復 明治六年分四冊ノ内丁号」 224丁表、229丁裏。
- ^ 「旧東京外国語学校及同校所属高等商業学校沿革畧記」(『文部省第十三年報附録』)。
- ^ 『太政官日誌』明治8年第68号、3頁。『文部省雑誌』明治8年第13号、1頁。同誌明治8年第19号、6頁。『教育雑誌』第28号、文部省、36頁。
- ^ 霞会館編 『華族会館史』 霞会館京都支所、1966年8月、555-556頁。田村、317-319頁。
- ^ 三菱銀行史編纂委員会編 『三菱銀行史』 三菱銀行、1954年8月、19頁、38-39頁、45-49頁、51頁。『三菱社誌 16』。
- ^ 小川功「〈論文〉関西鉄道会社建設期の地元重役による経営改善推進 : 明治二三年恐慌下の京浜資本家の蹉跌と地元資本家の焦燥」『研究紀要』第33巻、滋賀大学経済学部附属史料館、2000年3月、42頁、CRID 1390854882598046080、doi:10.24484/sitereports.119365-59900、hdl:10441/8292、ISSN 02866579。
「役員改撰」(『読売新聞』第4706号、1890年7月25日、2面)。 - ^ 『日本鉄道史 上篇』 鉄道省、1921年8月、757頁。『日本鉄道史 中篇』 鉄道省、1921年8月、313頁、483頁。
- ^ 明治生命保険 『明治生命八十年史』 明治生命保険、1963年7月、16-19頁。明治生命保険相互会社編 『明治生命八十年史 資料』 明治生命保険相互会社、1963年7月、359-360頁。
- ^ 三菱倉庫編纂 『三菱倉庫七十五年史』 三菱倉庫、1962年5月、42-45頁、197頁。
- ^ 「社長改撰」(『読売新聞』第4244号、1889年3月1日、3面)。「両潤社」(『東京経済雑誌』第409号、1888年3月10日、雑録欄)。「両潤社」(赤井良知編輯 『東京百事便』 三三文房、1890年7月)。
- ^ 「高玉鉱山」「高玉鉱山鴬坑」(農商務省鉱山局編纂 『本邦重要鉱山要覧』 日本鉱業新聞社、1918年12月)。「高玉鉱山」(商工省鉱山局編纂 『本邦重要鉱山要覧』 美登利商会、1926年7月)。「合名会社登記簿第一冊第八号」(『官報』第211号、1913年4月16日、広告欄商業登記)。佐藤精一 「高玉金山」(『郡山地方史』第15・16集合併号、郡山地方史研究会、1986年3月)。
- ^ 『明治時代史大辞典 4』。
- ^ 戸沢行夫著 『明六社の人びと』 築地書館、1991年4月、ISBN 4806756903、53頁、76-77頁。
- ^ 松崎欣一著 『三田演説会と慶應義塾系演説会』 慶應義塾大学出版会〈福澤研究センター叢書〉、1998年4月、ISBN 4766406915。『交詢社百年史』 交詢社、1983年10月。
- ^ 慶応義塾編 『慶応義塾百年史 上巻』 慶応義塾、1958年11月、770頁。慶応義塾編 『慶応義塾百年史 中巻(前)』 慶応義塾、1960年12月、32頁。慶応義塾編纂 『慶応義塾五十年史』 慶応義塾、1907年4月、450-452頁。
- ^ 慶應義塾編 『福澤諭吉書簡集 第三巻』 岩波書店、2001年5月、ISBN 4000924230、27-28頁、33頁、354頁。同 『福澤諭吉書簡集 第六巻』 岩波書店、2002年1月、ISBN 4000924265、116-117頁、292-293頁、302頁、324-325頁、437-438頁。
- ^ a b 川本裕司、中谷一正著 『近世日本の化学の始祖 川本幸民伝』 共立出版、1971年6月、217頁、212-213頁、218-219頁、239頁。
- ^ 「安井哲之助」(『慶應義塾150年史資料集 1』)。「安井哲之助」(『慶應義塾150年史資料集 2』)。「安井哲之助」(『福沢諭吉門下』)。
- ^ 「肥田浜五郎」(日本歴史学会編 『明治維新人名辞典』 吉川弘文館、1981年9月、ISBN 4642031146)。「社員肥田浜五郎君の実伝」(『交詢雑誌』第329号、1889年5月)。
- ^ 『近代日本造船事始: 肥田浜五郎の生涯』土屋重朗 · 1975 p33
- ^ 「肥田籌一郎」(『第六版 人事興信録』)。土屋、33-34頁。6版肥田籌一郎には福村の記述見当たらず
- ^ a b 肥田籌一郎『人事興信録』6版、1921年
- ^ 「肥田籌一郎」(内尾直二編輯 『第十二版 人事興信録 下』 人事興信所、1939年10月)。土屋、281頁。
- ^ 渡辺嘉一『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ 慶應義塾編 『福澤諭吉書簡集 第四巻』 岩波書店、2001年8月、ISBN 4000924249、296頁。
- ^ 「肥田金一郎氏」(山田仁市編輯 『馬事功労十九氏事蹟』 日本競馬会、1943年3月)777-778頁。「肥田金一郎」(松本順編輯 『第九版 人事興信録』 人事興信所、1931年6月)。
- ^ 「肥田玄次郎」(内尾直二編輯 『第七版 人事興信録』 人事興信所、1925年8月)。「肥田玄次郎」(内尾直二編輯 『第十一版 人事興信録 下』 人事興信所、1937年3月)。
- ^ 土屋、286頁。
- ^ 「梅崎延太郎」(内尾直二編輯 『第十四版 人事興信録 上』 人事興信所、1943年10月)。
- ^ 『第六版 人事興信録』。
参考文献
[編集]- 「肥田昭作氏」(三田商業研究会編 『慶應義塾出身名流列伝』 実業之世界社、1909年6月)
- 「肥田昭作」(内尾直二編輯 『第五版 人事興信録』 人事興信所、1918年9月)
- 「肥田昭作」(内尾直二編輯 『第六版 人事興信録』 人事興信所、1921年6月)
- 「択善会の崩壊」(田村俊夫著 『渋沢栄一と択善会』 近代セールス社、1963年11月)
- 土屋重朗著 『近代日本造船事始 : 肥田浜五郎の生涯』 新人物往来社、1975年4月
- 「第百十九国立銀行頭取肥田昭作ノ請ヲ聴シテ傭ヲ解キ豊川良平ヲシテ其後ヲ襲ハシム」(三菱社誌刊行会編纂 『三菱社誌 16』 東京大学出版会、1980年5月)
- 「肥田昭作」(丸山信編 『福沢諭吉門下』 日外アソシエーツ〈人物書誌大系〉、1995年3月、ISBN 4816912843)
- 坂井達朗 「肥田昭作」(福澤諭吉事典編集委員会編 『福澤諭吉事典』 慶應義塾、2010年12月、ISBN 9784766418002)
- 「肥田玄次郎」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月)
- 宮地正人 「肥田昭作」(宮地正人ほか編 『明治時代史大辞典 3』 吉川弘文館、2013年2月、ISBN 9784642014632)
- 「肥田昭作(追補)」(宮地正人ほか編 『明治時代史大辞典 4』 吉川弘文館、2013年10月、ISBN 9784642014649)
- 「肥田昭作(鉉次郎)」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 2 教職員・教育体制資料集成 基礎資料編』 慶應義塾、2016年3月)
関連文献
[編集]- 堤健男著 『肥田濱五郎』 中央公論事業出版、1977年7月
- 早稲田大学大学史資料センター編 『大隈重信関係文書』 みすず書房、2013年3月、ISBN 9784622082095
- 「福澤諭吉と文部省の秋山恆太郎、肥田昭作そして北畠治房権中判事」(大家重夫著 『著作権を確立した人々』 成文堂〈成文堂選書〉、2003年5月、ISBN 4792331773 / 第2版、2004年3月、ISBN 4792331854)
外部リンク
[編集]- 古典籍総合データベース - 早稲田大学図書館。大隈関係文書の肥田昭作書翰が閲覧できる。
ビジネス | ||
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先代 牟田口元学 |
壬午銀行頭取 1889年 - 1890年 |
次代 三枝守富 |
先代 川田小一郎 取締役会長 |
東京倉庫取締役会長事務取扱 1889年 |
次代 荘田平五郎 取締役会長 |
先代 若林永興 |
第百十九国立銀行頭取 1885年 - 1889年 |
次代 豊川良平 |