肥田昭作

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肥田 昭作(ひだ しょうさく、天保13年(1842年)10月 - 大正10年(1921年))は明治時代日本文部官僚実業家東京外国語学校東京外国語大学の前身)、東京英語学校東京大学教養学部の前身)の校長を務めた。別名元碩[1]昭敷[2]玄二郎[3](玄次郎、鉉次郎[4])。

来歴[編集]

岳父の肥田浜五郎

田安家奥医師・安井元兆の次男として江戸に生まれる。肥田浜五郎の養女・いねの婿となった[1]のち、明治元年(1868年)4月に江川英武を証人として慶應義塾に入塾し、ほどなく義塾の教員となった。

明治3年(1870年)7月、大学中助教に就任し、12月に大学大助教、翌明治4年(1871年)4月に大学権少丞兼大助教に進んだ[5]。同年7月に大学が廃止され文部省が設置されると文部権少丞兼文部大助教に更任され、翌8月に文部省七等出仕、明治5年(1872年)1月に文部省六等出仕となった[6]。この間、明治4年7月から大阪開成所(明治5年8月に第四大学区第一番中学校と改称)の事務取扱を命じられ、明治5年(1872年)10月には学長に任命されたが、病のため辞任している[7]。その後、文部省用度局勤務を経て[8]明治7年(1874年)2月から9月まで准刻課長を務め、9月には東京外国語学校長に就任。12月に新設の東京英語学校長に転じ、さらに翌年4月まで東京外国語学校長を兼務した[9]。明治8年(1875年)5月、文部省六等出仕を免ぜられ、改めて東京英語学校長兼東京外国語学校長に就任。東京外国語学校には同年8月まで、東京英語学校には明治9年(1876年)12月まで在職した[10]

退官後は実業界に転じ、明治10年(1877年)に第十五国立銀行副支配人・簿記掛に就任[11]。明治13年(1880年)3月に三菱為替店元締となったほか、第百十九国立銀行頭取、壬午銀行頭取、明治生命保険監査役を歴任した。また鉄道・鉱山事業にも携わり、明治23年(1890年)10月に日本鉄道会社理事、明治26年(1893年)7月に播但鉄道株式会社取締役に就任[11]。明治23年以降は福島県高玉鉱山を経営し[11]、晩年は杉本正徳が社長を務める三有鉱業に関係した。

妹・銈は蘭学者川本幸民の次男・清一の妻[1]。高玉鉱山経営者で中山競馬倶楽部理事長を務めた肥田金一郎は長男。

著作[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 肥田昭作氏」(三田商業研究会編 『慶應義塾出身名流列伝』 実業之世界社、1909年6月)
  • 土屋重朗著 『近代日本造船事始 : 肥田浜五郎の生涯』 新人物往来社、1975年4月
  • 堤健男著 『肥田浜五郎』 中央公論事業出版、1977年7月
  • 「肥田昭作」(丸山信編 『福沢諭吉門下』 日外アソシエーツ〈人物書誌大系〉、1995年3月、ISBN 4816912843
  • 坂井達朗 「肥田昭作」(福沢諭吉事典編集委員会編 『福沢諭吉事典』 慶應義塾、2010年12月、ISBN 9784766418002
  • 宮地正人 「肥田昭作」(宮地正人ほか編 『明治時代史大辞典 3』 吉川弘文館、2013年2月、ISBN 9784642014632

関連文献[編集]

  • 「肥田玄次郎」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月)
公職
先代:
(新設)
日本の旗 東京英語学校
1874年 - 1876年
次代:
服部一三
先代:
(新設)
日本の旗 第四大学区第一番中学
1872年
次代:
奥山政敬