慶應義塾
慶應義塾(けいおうぎじゅく)は日本の学校法人。福澤諭吉が1858年に中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾が起源。シンボルマークは、ペンマーク。
「義塾」の意味[編集]
中国においては、「義塾」とは公衆のために義捐金で運営される学費不要(無月謝)の学塾を意味し、14世紀半ばの元末に書かれた陶宗儀『輟耕録』にみられるという[1]。
日本における「義塾」の先駆は、天明7年(1787年)、のちに蝦夷地探検で功績を挙げる当時17歳の近藤重蔵が、同志と協力して年少子弟のために開いた私塾の名称「白山義塾」であるとされる[2][注釈 1]。また、掛川藩儒員松崎慊堂の日記「慊堂日暦」の文政8年(1825年)1月25日の条に、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れて「義塾の事を議す」とあり、さらに、寺門静軒が天保3年(1832年)に著した「江戸繁盛記」4篇学校の項には、「官学外儒門の義塾」との用例があるという[3]。
蓋此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く — 「慶應義塾之記」より
「彼の共立学校の制」とは、英国のパブリックスクールを指すものとされ、従って慶應義塾の「義塾」とは、中国伝統の語に英国の近代私立学校の概念を付加したものと解されている[1]。
明治時代には、慶應義塾の影響により日本全国で「義塾」を称する私塾が設立されたが、『慶應義塾百年史』 下巻によれば[4]、同塾以外にも、幕末期に「義塾」を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している。「明治時代の義塾の一覧」を参照
塾訓[編集]
- 独立自尊
従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級(「ミッヅルカラッス」)が国家を牽引し発展させるあり方に独立国のモデルを見た福澤諭吉は「一身の独立なくして一国の独立なし」[5]と論じ、まずは各人の独立を旨とし、塾訓とした。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条[6])。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本をいい表すものともされる[注釈 2]。
- 実学の精神
「常に学問の虚に走らんことを恐」れた福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味であると誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日にいう「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる[7]。「役に立つことを主眼に置く学問」が実学と見なされることが多く、今日その意味でも流通しているが、福澤は、新しい事物や事柄の表層だけをなぞって実際的な利便だけを追求する学問については、特に語学、工学の勉学における失敗例を挙げながら、こうしたものを軽薄な虚学として福澤は退けている。こうした、基礎学力がないとどんな知識もものにならないとの考えから福澤は学びの手順を明確に示しており(「学問の目的を爰に定め、其術は読書を以て第一歩とす。而して其書は有形学及び数学より始む。地学、窮理学、化学、算術等、是なり。次で史学、経済学、脩身学等、諸科の理学に至る可し。何等の事故あるも此順序を誤る可らず」[8])、この考え方は慶應義塾だけではなく、近代日本の学制の制定に大きく影響している。他に建学理念に「実学」を謳う大学は数多くあるが、英吉利法律学校(現・中央大学、創立者増島六一郎らと共に、馬場辰猪ら福澤門下が前身である三菱商業学校と明治義塾にて教育)、商法講習所(現・一橋大学、創設に際して福澤が森有礼に助力)、東京専門学校(現・早稲田大学、創立に際して矢野文雄が助力)には福澤の間接的影響があり、今日でも残っている例である。
- 半学半教
ある程度学びを修めた者が後生を教え、学び合い教え合う理念であり制度。私塾としての財政圧迫を救い、塾生の学費を低く抑えるねらいがあった(「社中素より学費に乏しければ、少しく読書に上達したる者は半学半教の法を以て今日に至るまで勉強したることなり。此法は資本なき学塾に於て今後も尚存す可きものなり」[8])。やがて社中協力の重要な理念として残ってゆく。塾中に先生と呼ばれるのは福澤諭吉一人で、塾生、教員、義塾社中を、正式行事に際して、時にはニックネーム的に、みな互いに「〜君」と呼び合う習慣はここに発しており、今日も残っている。同時に、卒業者も教員も学び続けることをやめてはいけないと釘を刺す訓辞でもある(「然るに年月の沿革に従ひ、或は社中の教師たる者、教場の忙しきに迫られ、教を先きにして学を後にするの弊なしと云う可からず。方今世上の有様を察するに、文化日に進み、朋友の間にても三日見ずして人品を異にする者尠なしとせず。斯る時勢の最中に居て、空しく一身の進歩を怠るは学者のために最も悲しむ可きことなり。故に今より数年の間は定めて半学半教の旨を持続せざる可らず」[8])。
- 社中協力
元々慶應義塾の経営難に際して資金を調達するために苦肉の策として作った結社としての制度であり、一私塾を法人化するきっかけともなった(当時福澤は「会社」と命名)。これが教員、塾生、塾員を慶應義塾社中として助け合い協力するという理念に発展した。これは、たびたびに渡る慶應義塾の廃学の危機を救うとともに、日本中の大学が同窓組織を作る先駆的な例となった。
- 一貫教育
慶應義塾では幼稚舎から大学・大学院に至るまで設置している。慶應義塾は小学校、中学校、高等学校、大学・大学院の各段階に相当する学校を複数設置している。大学の各学部学科には塾内進学者の定員が設けられており、進学希望者の数がその定員をオーバーした場合には、当該進学希望者の学業成績順で入学者が決定される。そのため、成績が足りないという理由で希望の学部学科に進学できない者もいる。その場合は、空きのある第2志望以下の学部学科へ入学することになる。なお、必ず慶應義塾大学に進学しなければならないという制約はなく、推薦を辞退した上で他大学を受験することは可能である(医学部進学希望者は慶應義塾大学(医学部のみ)への推薦入学権を留保したまま他大学の医学部・医科大学のみを受験できるなど、一定の例外はある。詳細は各一貫教育校のホームページを参照のこと。)。
- 塾生皆泳
慶應義塾には『塾生皆泳』という言葉があり、「泳ぐ技能を身につけることが、人として備えるべき重要な素養のひとつである」という水泳教育の理念がある。塾生は水泳技術を身につけ、泳げないことが理由で命を落としたり、溺れている人を救えないことがないように、というのがその教えである。
- 慶應義塾の目的
慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝・紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を元に、福澤自身が書き直したものである[9]。内容は以下の通り。
- 慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず
- 其目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し
- 之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして
- 之を口に言ふのみにあらず躬行実践
- 以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
- 以上は曾て人に語りし所の一節なり 福澤諭吉書
この一文は、福澤諭吉が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托したもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明にいい表したものと解されている[9]。
設置している学校[編集]
大学[編集]
- 慶應義塾大学(三田、日吉、矢上、信濃町、湘南藤沢、芝共立の各キャンパス、およびサテライトキャンパスとして新川崎タウンキャンパス、鶴岡タウンキャンパス、浦和共立キャンパス、慶應大阪リバーサイドキャンパス、慶應丸の内シティキャンパス) - 男女共学
中学校、高等学校併設校[編集]
- 慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部(神奈川県藤沢市) - 男女共学、中高一貫校
高等学校[編集]
- 慶應義塾高等学校(神奈川県横浜市) - 男子校
- 慶應義塾女子高等学校(東京都港区) - 女子校
- 慶應義塾志木高等学校(埼玉県志木市) - 男子校
- 慶應義塾ニューヨーク学院(ニューヨーク州ウェストチェスター郡) - 男女共学
中学校[編集]
小学校[編集]
過去に設置していた学校[編集]
- 大阪慶應義塾(1873年 - 1875年) → 徳島慶應義塾(1875年 - 1876年)
- 京都慶應義塾(1874年 - 1875年)
- 慶應義塾医学所(1873年 - 1880年)
- 慶應義塾夜間法律科(夜間・1879年 - 1880年・同科を開設した相馬永胤ら4名が独立、専修学校に統合される形で閉鎖)
- 慶應義塾商業学校(夜間・1891年 - 1948年)
- 慶應義塾商工学校(1905年 - 1949年) → 慶應義塾中等部
- 慶應義塾日吉工業学校(旧・藤原工業学校、1943年 - 1945年) + 慶應義塾三田工業学校(1944年 - 1945年) → 慶應義塾工業学校(1945年 - 1949年)
- 慶應義塾大学予科(1920年 - 1949年)
- 慶應義塾高等部(大学専門部・1922年 - 1945年)[10]
- 慶應義塾獣医畜産専門学校(1944年 - 1949年) → 慶應義塾農業高等学校(1948年 - 1957年) → 慶應義塾志木高等学校
- 慶應義塾第一高等学校(1948年 - 1949年) + 慶應義塾第二高等学校(1948年 - 1949年) → 慶應義塾高等学校
- 慶應義塾大学附属医学専門部(1944年 - 1952年)
- 慶應義塾大学医学部附属看護婦養成所(1917年 - 1945年) + 慶應義塾大学医学部附属産婆養成所(1922年 - 1945年) → 慶應義塾大学医学部付属看護婦産婆養成所(1945年 - 1950年) → 慶應義塾大学医学部附属厚生女子学院(1950年 - 1990年) → 慶應義塾看護短期大学(1988年 - 2003年) → 慶應義塾大学看護医療学部
- 慶應義塾外国語学校(1942年 - 2013年)
一時経営に参画したことがある学校一覧[編集]
- 藍謝堂(明治4年)1871年
- 亮天社(明治8年)1875年
- 立志学舎(明治9年)1876年
- 三菱商業学校(明治義塾)(明治11年)1878年
- 神戸商業講習所(明治11年)1878年
- 簿記講習所(明治12年)1879年
- 慶應義塾夜間法律科 → 専修学校 (旧制)(明治13年)1880年
- 三田英学校(明治13年)1880年
- 耕余義塾(明治20年)1887年
- 国民英学会(明治21年)1888年
- 高山歯科医学院(明治23年)1890年
概説[編集]
- 慶應義塾の設立
18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が行われた。明和8年(1771年)、青木昆陽の門人である藩医・前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この中屋敷内であった[11]。その同じ中屋敷内に80年余を隔て成立した「蘭学塾」が慶應義塾の原点である。その後、藩主が変わった中津藩では主に国学、漢学が重視され、幕末の藩政改革では長崎の警備を任ぜられた。三重津海軍所を設置した鍋島閑叟侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩から見ると中津藩は立ち遅れた状況にあった。
幕末の中津藩江戸藩邸では、当主、奥平昌服が江戸汐留の上屋敷に居住し、祖父で薩摩藩島津家より養子に入った奥平昌高が中屋敷に隠居所を構えていた。昌高は蘭癖大名と評されていたが、単なる物好き程度ではなく、日蘭辞書『蘭語訳撰』(『中津辞書』)の刊行に尽力するなど本格的な蘭学研究者であった。その影響があってか、のちに統計学者として有名になる杉亨二が中津藩に招かれ、中屋敷において藩士に蘭学教授を行っていた。しかし、1853年(嘉永6年)のマシュー・ペリー黒船来航の時、米国の開国要求に対する江戸幕府の対応をめぐって、昌高が7月に開国論を、翌月当主の昌服が鎖国論を主張した。この両者の対立は、藩の中を二分するほど大きな対立を生み、その後、杉亨二の辞任を引き起こす結果となった。このとき、中津藩砲術師範を務めていた佐久間象山の下で西洋砲術を学んだ中津藩士・岡見彦三は、蘭学教育の継続を強く望み、知人の薩摩藩蘭医・松木弘安(のち寺島宗則)に、安政2年の大地震(安政の大地震)で失った住居の代わりとして、岡見所有の築地小田原町の持ち屋を無償で貸すことを条件に、蘭学教授の仕事を依頼した。しかし、安政4年4月になると、松木は参勤交代による藩主の就国に侍医として随行することになり、蘭学教授の仕事を続けることができなくなった。そこで、当時大坂の適塾(大阪大学の源流)で塾長を務めていた福澤諭吉に白羽の矢が立ち、福澤は藩から江戸での蘭学教授の仕事を命ぜられるに至ったのである。現在、開塾の地の近くには創立100年を記念して、『慶應義塾発祥の地記念碑』が建てられている。1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」および江川英龍の「韮山塾[12]」等の旧私塾の流れを汲んでいる。
- 前期鉄砲洲時代
1858年(安政5年)、中津藩より江戸築地鉄砲洲(現、東京都中央区明石町)にあった中津藩中屋敷内での蘭学教授を命ぜられた福澤諭吉は、塾長として蘭学を学んでいた適塾がある大坂から、早速中津に戻り母に報告、大坂に戻って助手を務める同行者を求め、岡本周吉(古川正雄)・足立寛・原田磊蔵らを連れて同年10月中旬、江戸に到着した。福澤の書簡(安政5年11月23日付宛名未詳)によれば、当初は3、4年の任期と心得ていたようである。汐留の上屋敷に出向いた福澤は、江戸定府の藩士・岡見彦三の支持で中屋敷の長屋を与えられ、そこで蘭学を教えた。足立寛や今泉みねの回想によると、長屋は二階建てで一階は六畳一室と台所など、二階は15畳ほどであったという。開塾当初の協力者は、村田蔵六(大村益次郎)の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介、久留米藩医・松下元芳、中定勝(大阪府仮病院医員)、山口良蔵などやはり適塾に連なる人物が多い。
- 福澤諭吉の渡航

安政6年(1859年)の冬、福沢諭吉は日米修好通商条約の批准交換のために使節団のメンバーに加わり、米軍艦ポーハタン号とともに航行する咸臨丸に乗船して渡米した。(この時、福澤は、軍艦奉行木村摂津守の従者として同行)。使節団がワシントンを訪問している間、福澤はサンフランシスコに3週間ほど滞在し、修理が完了した咸臨丸でハワイから日本に帰国した。
文久2年1月1日(1862年1月30日)、幕府は竹内下野守を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者は松木弘安・箕作秋坪など。一行は仏・英・蘭・普・露・葡の各国を歴訪し、イギリスでは大英博物館やロンドン万博などを見学して多くの知見を得た。
慶応3年(1867年)、福沢諭吉は使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会の随員として郵便船コロラド号で横浜から再渡米し、ホワイトハウスでジョンソン大統領との謁見を果たした。この間、中津藩士・島津祐太郎宛の書簡で、大量に英書や物理書を塾に持ち帰ったため、塾生が同じ版本を持って授業が受けられるようになり、それまでの教授法にも新紀元を開くに至った。
- 前期新銭座時代
文久元年冬から同三年秋までは芝新銭座(現東京都港区浜松町)の借家に塾が置かれていた。この塾がいつ築地鉄砲洲から移転したかについては足立寛の回想にもはっきりしない。福澤は既に江戸定府の中津藩士となり、江戸幕府の外国方にも出仕しており、この時代は藩命による塾教師から本格的な学塾経営者への移行期と捉えられている。入門帳(入社張)の記録がはじまったのは、文久3年(1863年)の春からである。
- 後期鉄砲洲時代
文久3年秋から1867年(慶応3年)末まで中屋敷内旧藩主隠居所に塾が置かれていた時代をいう。文久3年9月23日に幕府より諸藩へ、出府藩士の江戸市中住居禁止命令が出され、これを受けて福澤も藩邸内に戻ったと推測される。この移転について『福翁自伝』には何も経緯が記されておらず、格式を重んずる中津藩としては幕府に出仕する身とはいえ、旧藩主の隠居所を許可するとは考えがたく、藩側に貸与を進める意図があった。この時代の学塾運営は、英国の公立学校を参考に、中津へ帰郷し小幡篤次郎、小幡甚三郎、服部浅之助、小幡貞次郎、浜野定四郎、三輪光五郎らを連れ、横浜の外字新聞の翻訳、諸藩から依頼の翻訳、仙台藩の大童信太夫を通じた奥羽越列藩同盟との関係などが見て取れる。また、幕府の開成所から移ってきた永田健助によるとこの頃の塾の蔵書は「経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった」[13]といい、幕府の学問所と同等の水準があった。
- 紀州塾
後期鉄砲洲時代に、紀州藩から藩命を受けて同藩が建築費用を負担して設けた塾舎。藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲洲時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[14]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称していた[15]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名、慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている[注釈 3][16][17][18][注釈 4]。
- 後期新銭座時代
慶応4年1月から明治3年末までの再び芝新銭座に塾が置かれた時期をいう。塾舎は前期とは異なった場所で、新に越前丸岡藩有馬家の土地四百坪を購入した。慶応3年6月に鉄砲洲一帯が外国人居留地に指定され、中津藩中屋敷も立ち退かねばならなくなったため[19]、木村摂津守とその用人大橋栄二の世話で有馬屋敷を購入することができた。慶応4年には元号をとって『慶應義塾』と命名。同年四月頃までに奥平屋敷の長屋をもらい受け、約百五十坪の塾舎を四百両ほどの費用で完成した。授業は既に七曜制を用い、教科も(修心論・経済・歴史・地理・窮理・算術・文典)などを設置、「数理」を基本とした授業体系を確立した。1865年(慶応元年)頃の塾生数を示すものとしては、同年6月6日に入塾している立田革の懐旧談にて、『私の出府当時の江戸の洋学界は、芝新銭座江川塾(江川太郎左衛門)・下谷箕作塾(箕作家)其他二三あれど、生徒の数は大抵二三人多くも五六人、義塾は二十二三人の塾生あり、先づ江戸にて一等盛な洋學塾と評して差支ない。』とある。入塾生の傾向からみて、元治元年までの入塾生数がごく少なく、尚且つ九州出身者がその七割を占めるといった傾向を示していたのに比較して、この頃は入門者も月平均四・三八人となり、藩別にみても九州の比率が相当低くなってきている点などから推察すると、この頃から既に慶應義塾は江戸では最大の洋漢學塾の観を呈し始め、九州出身者中心の塾といった傾向から、全国的學塾に移行した。
- 三田移転
福澤が発疹チフスに罹ったことから明治4年初頭から三田へ移転を開始。三田は島原藩邸のあった広壮な地域で、これまで新銭座を中心として奥平屋敷や吉田賢輔の上杉麻布邸、柏木忠俊の斡旋による江川太郎左衛門長屋や、その他寺院などに分散していた宿舎を一つに統合できた。在学生323名、東京府下における最大の私塾となった[13]。移転後芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲り、現在は『福沢近藤両翁学塾跡』(港区浜松町)の碑が立っている。明治6年5月、慶應義塾を訪れた福山藩の藩儒江木鰐水も「塾本、島原公邸、在三田、地勢高爽、前臨品川海、砲台在目前、右望品川後之山、左望江戸諸勝、皇居亦左近、(中略)而与諭吉氏登楼並講堂之楼、皆勝景、眺望雄豁美麗[13]」と嗟嘆している。
- 医学教育
新銭座時代から慶應義塾医務部が既に設けられており、薬品や医学者を揃えた。近藤良薫(のちの横浜十全病院長)・安藤正胤、印東玄得(のちの大学東校教授)・田代基徳(のちの軍医医監、陸軍軍医学校長)・栗本東明(長崎病院眼科医長兼内科医長)といった医学者を育てている。
各教育機関の詳細な沿革については、各教育機関の記事を参照。
年表[編集]

- 1858年 - 福澤諭吉、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学塾を開設[注釈 5]。
- 1860年 - 福澤諭吉、遣米使節団に随行(第1回洋行)。
- 1861年 - 鉄砲洲から芝新銭座に移転。
- 1862年 - 福澤諭吉、遣欧使節団に随行(第2回洋行)。
- 1863年 - 再び鉄砲洲に移転。蘭学塾から英学塾に改める。
- 1864年 - 福澤諭吉、幕府外国奉行翻訳方となる。
- 1866年 - 中津藩中屋敷内に紀州塾を建築。
- 1867年 - 福澤諭吉、幕府の軍艦受取委員の随員として渡米(第3回洋行)。
- 1868年 - 芝新銭座(現在の港区浜松町)に移転し、「慶應義塾」と呼称。『慶應義塾之記』を発表[20]。
- 1869年 - 汐留出張所を設置。幼年生のために童子寮を設ける。
- 1870年 - 汐留出張所を麻布龍源寺に移転。芝山内広度院に分塾設置。江川太郎左衛門屋敷の長屋を借り受けて「外塾」設置。
- 1871年 - 芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲渡、三田にある島原藩中屋敷跡の現校地に移転[注釈 6]。『慶應義塾社中之約束』を制定[21]。
- 1872年 - 初の外国人教員を招請。出版局を開設(主任朝吹英二)。
- 1873年 - 正則・変則の両科新設[注釈 7]。医学所を設置(1880年閉鎖)。大阪慶應義塾を設立(1875年徳島に移転し、1876年閉鎖)。
- 1874年 - 卒業の制度を実施。京都慶應義塾を設立(翌年閉鎖)。和田塾(のちの幼稚舎)開設。
- 1875年 - 正則・変則両科を本科・予備とする。三田演説館開館。
- 1877年 - 西南戦争により塾生減少[注釈 8]。和田塾を幼年局と称し、1880年頃まで女生徒も在学。
- 1878年 - はじめて卒業式を行う。
- 1879年 - 夜間法律科を設置[注釈 9]。
- 1880年 - 「慶應義塾維持法案」を発表[22]。予備科(のち三田予備校)を設置[注釈 10]。幼年局を幼稚舎と改称する。交詢社結成。
- 1881年 - 「慶應義塾仮憲法」を制定。明治十四年の政変により義塾出身者が多数下野。この年の塾生数476名[注釈 11]。
- 1882年 - 『時事新報』創刊。
- 1883年 - 徴兵令改正により兵役免除の特典を失う。
- 1885年 - 塾章を制定[23]
- 1886年 - 最初の運動会(陸上競技会)を開催[24]。皇太子(のちの大正天皇)が幼稚舎に来校。
- 1889年 - 「慶應義塾規約」を制定。第1回評議員会開催。
- 1890年 - 大学部が発足し、文学・理財・法律の三科を設置[注釈 12]。従来の正科・別科を普通部と称する。
- 1891年 - 慶應義塾商業学校開校(夜間)。
- 1892年 - 剣術・柔術・野球・端艇・弓術・操練・徒歩から成る体育会が発足。最初の水上運動会を開催[24]。
- 1894年 - 初めて炬火行列を行う[25]。
- 1896年 - 普通部学科課程を改め、正科を高等科(3年)・普通科(5年)とする。微兵に関する特典適用さる(文部省告示第十八号)。11月16日の評議員会において大学部廃止案を否決[注釈 13]。
- 1897年 - 慶應義塾生徒隊を結成[26]。幼稚舎が小学校令準拠の教育機関(6年制)となる。
- 1898年 - 大学科(高等科と大学部を統合)・普通学科・幼稚舎の16年の一貫教育制度樹立[注釈 14]。大学科に政治科を増設。塾旗として三色旗を制定[23]。『慶應義塾学報』創刊(1915年『三田評論』と改題)。
- 1899年 - ドイツ・アメリカ合衆国に留学生6名を派遣。幼稚舎で制服・制帽を正式に定める[27]。
- 1900年 - 「修身要領」を発表。普通部で制服と制帽、大学部で洋服と記章付き帽子の着用を義務化する[28][29]。大晦日に世紀送迎会(第1回)開催。
- 1901年 - 福澤諭吉死去。同窓生(社中)を中心として慶應義塾維持会を設立。大学部文学科廃止(1904年復活)。
- 1903年 - 三田綱町球場にて最初の慶早戦。
- 1904年 - 大学部が専門学校令準拠の教育機関となる[30]。旧塾歌を制定。
- 1905年 - 慶應義塾商工学校開校。
- 1906年 - 大学院を設置。
- 1907年 - 義塾規約を変更し、財団法人組織とする。創立50年記念式典を挙行。
- 1908年 - 学事評議会設置(1920年廃止)[31]。
- 1909年 - 開校記念日を4月23日と定める。
- 1910年 - 各科に主任制度を設ける[32]。『三田文学』創刊。森鷗外と上田敏を文学科顧問とし、さらに永井荷風などの文壇人を教壇に迎える。
- 1912年 - 創立50周年を記念して図書館が竣工。出版局を義塾直営とする。
- 1913年 - 福澤先生記念日を命日(2月3日)から誕生日(1月10日)に改める。表門(現在の東館の場所)を石柱鉄扉の西洋式の門に改める[33]。
- 1915年 - 三田大講堂が竣工。
- 1917年 - 大学部各科主任を学長と改称[34]。大学部医学科を設置(学長・北里柴三郎)[35][注釈 15]。普通部が三田綱町(現在の中等部所在地)に移転。広尾寄宿舎竣工(のちの幼稚舎校地の一部)。
- 1918年 - 医学科附属看護婦養成所開設[36]。
- 1919年 - 四谷区西信濃町に医学科新校舎を開設。看護婦養成所も同地に移転[37]。
- 1920年 - 大学部が大学令による大学(文学部・経済学部・法学部・医学部)に昇格。各学部に部長を置く。同時に大学予科と大学院を設置。大学評議会を設置。大学病院開院。
- 1922年 - 専門学校令による大学部を専門部と改称[38]。医学部附属産婆養成所開設。
- 1923年 - 慶應義塾協議会を設置[注釈 16]。
- 1925年 - 専門部を高等部と改称。東京六大学野球連盟結成。
- 1926年 - 現在の塾監局竣工[39]。東京府荏原郡矢口村に新田運動場開設。
- 1927年 - 大学評議会、予科・普通部・商工学校・幼稚舎の郊外移転方針決定[40]。応援歌『若き血』誕生(堀内敬三作詞・作曲)。
- 1928年 - 林毅陸塾長、私立大学を代表して即位礼に参列。
- 1929年 - 福澤先生誕生地記念碑を建立(大阪)。
- 1930年 - 第1回連合三田会大会を開催。
- 1932年 - 創立75年記念式典挙行、秩父宮雍仁親王、犬養毅首相など3千名参列。『福澤諭吉伝』全4巻を皇室に献上。
- 1934年 - 神奈川県橘樹郡日吉村(現横浜市港北区)に日吉校舎を開設、大学予科を移転する[注釈 17]。「福澤先生誕生百年並に日吉開校記念祝賀会」を挙行。
- 1935年 - 塾長の諮問機関として学事顧問制度を設ける(林毅陸、神戸寅次郎、川合貞一、気賀勘重が就任)。
- 1936年 - 高松宮・同妃、医学部を視察[41]。
- 1937年 - 幼稚舎が福澤家広尾別邸の場所に移転[42]。
- 1940年 - 現塾歌を制定(翌年発表)[43]。三田綱町1番地の徳川達孝伯爵邸跡に綱町研究所を開設[注釈 18]。
- 1942年 - 外国語学校を開設。
- 1943年 - 大学予科の修業年限を2年に、普通部・商工学校・商業学校の修業年限を4年に短縮する。塾生出陣壮行会を挙行。
- 1944年 - 財団法人藤原工業大学を統合し、工学部を設置[注釈 19]。大学附属医学専門部を設置[44]。獣医畜産専門学校を開校。高等部の学生募集停止。商工学校と商業学校の生徒募集停止。慶應義塾工業学校開校。
- 1945年 - 看護婦養成所と産婆養成所が合併し、医学部附属看護婦産婆養成所となる[45]。戦災と日吉校舎の接収に伴い、旧陸軍登戸研究所跡地を借用(登戸仮校舎)[46]。普通部が幼稚舎校地に移転(1952年まで)。高等部廃止。
- 1946年 - 常議員会を設置。大学予科主任を大学予科長、普通部主任を普通部長、商工・商業・工業学校各主任を各学校長、幼稚舎主任を幼稚舎長と改称。東京高等工学院の校舎を借用(三ノ橋仮校舎、1949年まで)[47]。工学部が川崎市久本鴨居町に移転(溝ノ口仮校舎、1949年まで)[48]。
- 1947年 - 創立90年記念式典を挙行(昭和天皇臨席)。普通部と幼稚舎が新学制に移行。中等部(新制中学校)を設置。獣医畜産専門学校が埼玉県北足立郡志紀町(現志木市)に移転[注釈 20]。福澤邸跡地に福澤記念園開園[49]。慶應義塾通信教育図書株式会社設立。
- 1948年 - 通信教育課程を設置。新制第一高校・第二高校(三ノ橋)、農業高校(志木)を設置。中等部が三田綱町の普通部跡に移転。旧制普通部最後の卒業式と修業式を挙行[注釈 21]。慶應工業会発足。旧制商業学校廃止。
- 1949年 - 第一・第二高校を統合[注釈 22]、慶應義塾高等学校設置。大学は学制改革に伴い、文学部・経済学部・法学部・工学部からなる新制大学となる。日吉校舎の接収解除、同時に高等学校を日吉へ移転。また工学部を西多摩郡小金井町に移転。旧制獣医畜産専門学校廃止[50]。旧制商工学校・工業学校廃止。
- 1950年 - 福澤諭吉50回忌式典を挙行。郵政省から福澤諭吉8円切手が発行される[51]。慶應義塾女子高等学校開校。看護婦産婆養成所を女子厚生学院に改組[45]。大学の一部講義を日吉で開始、日吉は高等学校と学部学生の教養課程、三田は学部学生の専門課程のキャンパスとなる[注釈 23]。旧制大学の繰り上げ卒業式を挙行。
- 1951年 - 学校法人設置認可。新制の大学院設置。塾史編纂所設置。
- 1952年 - 医学部が新制大学へ改組。旧制医学専門部廃止[44]。普通部の日吉移転完了。
- 1954年 - 三田キャンパスに福澤諭吉胸像を設置[52]。
- 1956年 - 塾長・学長分離問題起こる。5月15日を福澤先生ウェーランド経済書講述記念日と定める。
- 1957年 - 大学商学部を設置。慶應義塾農業高校を普通科高校(慶應義塾志木高等学校)に転換。
- 1958年 - 日吉記念館竣工(2017年解体)[53]。慶應義塾発祥の地記念碑除幕。創立100年記念式典を挙行(昭和天皇臨席)。郵政省から10円記念切手が発行される[54]。
- 1959年 - 三田キャンパス南門(新設)が正門となる。
- 1961年 - 旧制慶應義塾大学廃止。
- 1964年 - 塾旗の規準を定める[55]。芝新銭座の慶應義塾跡に福澤・近藤両翁学塾跡記念碑を建立。
- 1965年 - 学費改訂と塾債発行から大学紛争が勃発。さらに米軍研究資金導入や大学立法を巡って紛争が長期化、1973年には工学部と通信教育課程を除くすべての学部で卒業式を中止する事態となる。
- 1967年 - 三田演説館が重要文化財に指定される。
- 1968年 - 慶應義塾命名100年記念式典を挙行[56]。
- 1969年 - 慶應義塾図書館が重要文化財に指定される。塾史編纂所を塾史資料室に改組。
- 1971年 - 福澤邸跡地に福澤諭吉終焉之地記念碑を建立[57]。
- 1972年 - 大学工学部が矢上キャンパス(日吉キャンパスの北隣)に移転[注釈 24]。
- 1974年 - 伊勢慶應病院開設(2003年閉院)。太平洋戦争の空襲で焼失した図書館のステンドグラスの復元成る。
- 1975年 - 独立自尊記念時計塔を建立(三田)。ユニコーン像復元(中等部)。
- 1981年 - 工学部を理工学部に改組。
- 1983年 - 創立125年記念式典を挙行。塾史資料室を福澤研究センターに改組[58]。
- 1988年 - 女子厚生学院を慶應義塾看護短期大学に改組。
- 1990年 - 湘南藤沢キャンパスに大学環境情報学部・大学総合政策学部を設置。ニューヨーク高等部を開校。
- 1992年 - 湘南藤沢キャンパスに藤沢中等部・高等部を開校。
- 2000年 - 三田キャンパス東館竣工。「幻の門」を移設[59]。新川崎タウンキャンパス開設。世紀送迎会(第2回)開催。
- 2001年 - 看護短大を看護医療学部に改組。福澤公園に旧制四学校(商業学校・商工学校・工業学校・高等部)記念碑を建立。
- 2004年 - 法科大学院開設。
- 2008年 - 創立150年記念式典を挙行。学校法人共立薬科大学と合併、芝共立キャンパスに薬学部を設置。日吉キャンパスに大学院システムデザイン・マネジメント研究科、メディアデザイン研究科を設置。大阪リバーサイドキャンパスを、大阪市福島区の再開発地区「ほたるまち」に開設。
- 2011年 - 塾長任期を2期8年までとする。東日本大震災の被災地への支援活動を実施[60]。
- 2013年 - 大阪リバーサイドキャンパスを大阪市北区大深町のグランフロント大阪ナレッジキャピタル(北館タワーC 10階)へ慶應大阪シティキャンパスと改称し移転。横浜初等部開校。外国語学校廃止。
- 2016年 - 殿町タウンキャンパス開設。
- 2020年 - 新・日吉記念館竣工[61]。
慶應義塾の三藩[編集]
慶應義塾の三藩(けいおうぎじゅくのさんぱん)とは、幕末 - 維新期に慶應義塾を支えた所縁のある3つの藩[62][63]。紀州藩・越後長岡藩・中津藩の三藩を指す。入塾した藩士はのちに塾長や要職を歴任しているため、慶應義塾の基礎となっている。廃藩置県後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、越後長岡藩・紀州藩・中津藩(慶應義塾の三藩)を中心とした士族が十中八九であった[64]。
越後長岡藩[編集]
単身上京して新銭座に入塾した藤野善蔵(のち塾長、長岡洋学校主催)の影響が大きいと伝えられている[65]。長岡藩は戊辰戦争後に藩校崇徳館などで教育改革を進めて江戸の慶應義塾に多くの学生を送った。この結びつきは、大参事として維新後の長岡を指導した三島億二郎が福澤諭吉の思想に共鳴し交流が密であったことも一因であった。
- 主な藩士:牧野鋭橘(越後長岡藩藩主)、城泉太郎(長岡藩家臣、のち塾長)、渡部久馬七(のち塾長)、蘆野巻蔵(のち塾長)、小林寛六郎(「米百俵」で知られる小林虎三郎の弟)、小林雄七郎、秋山恒太郎、名児耶六都、外山脩造、栗山東吾、牧野鍛冶之助、稲垣銀治、三島徳蔵、曽根大太郎、中島武藤太、高野弥次郎、小林見義、山田鶴遊
紀州藩[編集]
藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲洲時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[66]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称していた[15]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名.慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている。
- 主な藩士:小泉信吉(のち塾長)、松山棟庵(のち塾長、医師)、草郷清四郎(紀州藩騎兵指揮官)、前田政四郎(紀州藩騎兵仕官)、岸幹太郎(徳川家家令)、和田義郎(慶應義塾幼稚舎創始者)、三宅米吉(歴史学者)、巽孝之丞、中井芳楠(銀行家)、長屋喜弥太(軍目付、陸軍少佐)、小川駒橘(内務官僚、長崎師範学校校長)
中津藩[編集]
中津藩は福澤諭吉の出身藩であり、いうまでもなく学問の主流を成した藩である。藩主奥平昌邁、藩校進脩館、豊前国から多数の藩士が塾生となった。
学校法人共立薬科大学との合併[編集]
2006年11月、慶應義塾は学校法人共立薬科大学と合併についての協議に入った[67]。その後両学校法人の間で協議が重ねられた結果、2007年3月に両学校法人の合併を決定し、合併契約書を締結した[68]。これに伴い、両学校法人では2007年9月までに文部科学省から合併認可を得、その後に共立薬科大学の廃止認可申請および慶應義塾大学薬学部、同大学院薬学研究科の設置認可申請を実施。これらの手続きを経て2008年4月に両学校法人は合併し、慶應義塾大学に薬学部と大学院薬学研究科が設置された。両学校法人は「この合併には双方にメリットがある」としている。慶應義塾大学にとっては、既存の医学部、看護医療学部に薬学部、薬学研究科が加わることにより、同大学の医療分野の教育、研究の一層の充実を図ることができる。一方共立薬科大学にとっては、慶應義塾大学病院を使って実習を行えるようになるなど、より充実した環境のもとで薬学に携わる人材を育成できるというメリットがあるとしている[69]。
歴代塾長一覧[編集]
1881年の塾長職制度化後の歴代塾長一覧。慶應義塾評議員会において選出される。慶應義塾規約により塾長は慶應義塾の理事長と慶應義塾大学の学長を兼ねるとされる[70]。
現在の塾長の任期は4年で、2011年の規約改正により再任は通算2期までとなった[71]。
氏名 | 就任時期 | 略歴 |
---|---|---|
浜野定四郎 | 1881年− 1887年 | - |
小泉信吉 | 1887年− 1890年 | 横浜正金銀行支配人 |
小幡篤次郎 | 1890年− 1897年 | 英学者 |
鎌田栄吉 | 1898年− 1922年 | - |
福澤一太郎 | 1922年− 1923年 | 福澤諭吉長男 |
林毅陸 | 1923年− 1933年 | - |
小泉信三 | 1933年− 1946年 | 経済学者 |
高橋誠一郎 | 1946年− 1947年 | 元・経済学部長 |
潮田江次 | 1947年− 1956年 | 元・法学部長、福澤諭吉孫 |
奥井復太郎 | 1956年− 1960年 | 元・経済学部長、都市社会学者 |
高村象平 | 1960年− 1965年 | 元・経済学部長 |
永沢邦男 | 1965年− 1969年 | 元・法学部長 |
佐藤朔 | 1969年− 1973年 | 元・文学部長 |
久野洋 | 1973年− 1977年 | 元・工学部長 |
石川忠雄 | 1977年− 1993年 | 元・法学部長 |
鳥居泰彦 | 1993年− 2001年 | 元・経済学部長 |
安西祐一郎 | 2001年− 2009年 | 元・理工学部長 |
清家篤 | 2009年− 2017年 | 元・商学部長 |
長谷山彰 | 2017年− 2021年[72] | 元・文学部長 |
伊藤公平 | 2021年[72]− | 元・理工学部長 |
事務部門[編集]
慶應義塾の事務は、塾監局が中心となって担当している。形式的には学事センターも塾監局に属する組織であって、大学に属する組織ではない。三田以外の各キャンパスに所在する事務室も塾監局の支部の扱いである。ただし、大学病院のある信濃町キャンパスについては、従前は医学部事務局が塾監局の支部として存在していたが、病院経営改革に伴い、大学病院事務局(病院経営ボードに直属)と信濃町キャンパス事務室(塾監局の支部)とに分割されている。
塾監局の系統に属さない組織としては学生総合センターやメディアセンター(図書館)等があり、これらは主として大学に属する組織である。
近年は上記以外にも塾監局の系統に属さない組織(塾長室、広報室、研究支援センター等)が増加している。
なお、慶應義塾の職員は、大学病院や信濃町キャンパス、矢上キャンパスの技術系の職員を除いて、上記の組織の系統の違いに関わらず異動がありうる。
式典、記念行事[編集]
世紀送迎会[編集]
- 1900年12月31日、福澤諭吉の提案で、三田山上の慶應義塾にて19世紀と20世紀の「世紀送迎会」を開催。風刺画などで19世紀を振り返り、20世紀の幕開けとともに「儒学者の夢」「階級制度の弊害」「蓄妾の醜態」という3枚の風刺画に一斉射撃して点火、「二十センチュリー」という花火が夜空に浮かび上がるなど趣向を凝らしたものであった[73]。
- 2000年12月31日には、100年前の送迎会に倣い三田山上で「第2回世紀送迎会」を開催。自らの意思で世紀を飛び超えるという意味で、21世紀の幕開けより6時間早い午後6時に「カウントアップ」し、新世紀の幕開けを祝った[74]。
創立150年式典の開催[編集]
- 2008年11月8日、日吉キャンパスで明仁天皇・美智子皇后臨席の元で創立150年記念式典が開催された。司会を務めたのは塾員である石坂浩二と遠藤玲子。式典には塾生・塾員約1万人のほか、ハーバード大学、ケンブリッジ大学の代表者等、慶應義塾にゆかりのある国内外の来賓が数多く参列した[75]。式典の模様は三田キャンパス、湘南藤沢キャンパス、大阪リバーサイドキャンパスに中継され、さらにはインターネットを通じて全世界にも同時中継されている[76]。式典において明仁天皇は「今後も国の内外で活躍する人材を数多く育て、送り出すことを期待しています」とおことばを述べた[77]。天皇家と慶應義塾とは、元塾長の小泉信三が天皇の教育係であった等の点で接点があり、塾が主催した「小泉信三展」でも天皇皇后夫妻が来塾している[78]。ちなみに、創立90年と100年の節目においては昭和天皇が式典に臨席している[79]。
- 記念式典翌日には同じく日吉キャンパスにおいて連合三田会大会が開催され、加山雄三、紺野美沙子、櫻井翔などの塾員が登場した[80]。
- 2009年1月10日から3月8日まで、東京国立博物館で「慶應義塾 創立150年記念 『未来をひらく 福沢諭吉展』」[81]が開催された。同展カタログ『未来をひらく福澤諭吉展』(監修:前田富士男アートセンター所長、米山光儀福澤研究センター所長、小室正紀福澤研究センター前所長)は、第6回ゲスナー賞銀賞を受賞した。
主な建造物[編集]
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慶應義塾は日本の教育機関として有数の歴史を持ち、さらに移転や大規模な建替えを伴う再整備事業を行っていないため、由緒ある建造物が多数現存している。この節ではそうした建築物の中から特筆すべきものを紹介している。
三田キャンパス[編集]
1871年(明治4年)芝新銭座より三田(島原藩中屋敷跡)に校舎を移転した。これ以降三田キャンパスは慶應義塾の中心地となる。三田演説館(1875年)、創立50年記念図書館(1912年)など歴史的にも重要な建造物が存在する。
- 1858年(安政2年) - 福澤諭吉、築地鉄砲洲に「蘭学塾」創始
- 1861年(万延2年/文久元年) - 鉄砲洲から芝新銭座に移転。
- 1863年(文久3年) - 再び鉄砲洲に移転し、蘭学塾から英学塾に改める。
- 1868年(明治元年) - 慶應義塾と命名。
- 1871年(明治4年) - 三田へ移転(島原藩邸跡)
- 幻の門
- 現在東館の位置する場所に存在した門。1959年南校舎が建造され、同時に南門が正門として規定されるまで、事実上同門が正門として機能した。「幻の門」の名称はこれ以降用いられるようになった。
名称のいわれについては諸説あり、酔った学生がふざけて夜中門標を持ち去り、いくら新しいものを設置してもそのつど盗られるので、ついには門標なしの門となりこの名が慣用的に付けられたとする説。このほか「たとえ外見こそはそまつでも、これこそ青春のあこがれと理想を迎え入れる大きな門がそびえ立つように感じられ、これが形式にとらわれない義塾の精神と相通じるように思えて、これを「幻の門」と呼んで歌いあげたものだといわれる」(堀口大學『百年史』)などもある。
現在残る石造りの門が設置されたのは1913年(大正2年)であり、それ以前は旧島原藩邸時代の木造の黒い門が建っていた。2000年(平成12年)、東館の設置に伴い、同館アーチを潜り抜け、左に曲がった石畳の坂道の上に移設されている。坂道の端には福澤諭吉が馬を繋いだ「馬留石」が存在する。
カレッジソングに『幻の門』(作詞:堀口大学、作曲:山田耕筰1933年(昭和8年)春、ワグネルソサィエティーと応援団共作)がある。
- 三田演説館
- 木造瓦葺、洋風、なまこ壁、床面積58坪余 (192.16m2) で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余 (290.34m2)。
- 1876年(明治8年)5月1日 - 竣工(現在の図書館旧館と塾監局との中間に存在)
- 1924年(大正13年) - 稲荷山(現在の場所)に移築
- 1947年(昭和22年)5月 - 修復工事実施
- 1967年(昭和42年)6月 - 重要文化財に指定
- 1995年(平成7年) - 解体修復工事実施
- 稲荷山
- 現在、三田演説館が設置されている高台をいう。
- 名称のいわれとしては同所にかつて稲荷祠が存在したことによる。江戸末期各藩は財政的に逼迫し、拝観料を徴収する目的で屋敷内に淫祠を奉った[82]。現在の三田キャンパスがある島原藩も藩邸南部の江戸湾を一望できる高台の同所に稲荷祠を設けた。明治時代初期、敷地が慶應の所有になっても稲祠は残り、塾内でこの高台を「稲荷山」と呼んだ。現在、祠は存在しないが名称のみが残っている。
- 慶應義塾図書館・旧館
- 三田演説館と並んで慶應義塾大学を象徴する建造物の一つである。1907年に創立50周年記念事業として1908年起工、1912年竣工された。詳しくは独立記事慶應義塾図書館・旧館を参照のこと。
- 塾監局
- 1926年(大正15年)9月竣工、鉄筋コンクリート造地階共4階建、延740余坪 (2450m2)
- 総務部(総務担当、広報担当)、人事部、経理部、管財部、学事センター、基金室、塾員センター、入学センター、一貫教育支援センター、学術事業連携室、塾長室(企画・広報担当、秘書担当)、人事部、第3会議室、国際連携推進室、経営改革プロジェクト室、学術事業連携室、ハラスメント防止委員会事務室
- 南校舎(新)
- 創立150年記念事業として建設された。建物のデザインとしては旧南校舎同様のモダニズム様式を踏襲している。
- 設計において全体のイメージは半世紀に渡って塾員、塾生に馴染みの深かった旧南校舎にエレメント、素材感を一致させることで建築物としての「記憶」を継承させ、訪れる塾員に違和感を抱かせないように配慮されている。講義室(大小)、グループ学習室、5階に多目的ホール(680名収容)を設置し大規模授業の他、学会、シンポジウム、講演会など様々な場面で活用可能である。3階には社中交歡 萬來舍 (590.43m2) がある。2011年3月竣工。
- 南校舎(旧)
- 1959年、創立百年記念事業として建設。
- 長く三田キャンパスを代表する建造物であり、最も大きな建築物であった。完成に伴い南側の門が正門となる。外壁はコンクリート打ちっぱなしの典型的なモダニズム建築であった。36室(2,721人収容)。
- 東館
- 2000年(平成12年)に完成
- 旧図書館の赤煉瓦のイメージで建てられている。かつていわゆる「幻の門」が存在した場所にある。三田通りから台地上にあるキャンパスに至る傾斜を跨ぐ形で建設されており、アーチの上部にはラテン語で福澤諭吉の「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」=「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の言葉が刻まれている。
- G-SEC Labには米国の作家で医師のマイケル・クライトンの名を冠した「クライトンカフェ」が存在する。その経緯についてはマイケル・クライトン#エピソードを参照のこと。
- 三田研究支援センター、プロジェクト室、グローバルセキュリティ研究所、プロジェクト室、交流スペース、G-ホール、小会議室
- 南別館
- 2009年3月竣工
- 「未来先導館(仮称)を含む南校舎建て替え事業」に伴う事業として、南校舎建て替え工事期間中の代替教室確保を目的に建設された。
- 図書館新館(三田メディアセンター)
- 1982年(昭和57年)竣工。地上6階・地下5階。設計は槇文彦。1983年のBCS賞受賞。文・経・法・商学部の専門領域に関する人文・社会科学分野の資料を所蔵。閲覧室、開架式書庫、グループ学習室、AVホール、インター ネットやデータベース検索のためのエリア、AVコーナー・AV編集室
- 南館(法科大学院棟)
- 2005年3月竣工、地上11階、地下5階でsemiac免震システムを採用。大成建設によるRC造。建築面積2,097m2、延べ床面積18,467m2。法科大学院、教室、模擬法廷、自習室や教員室、メディアセンター(図書館) (2005年)平成17年開館)。
- ルーフ・テラス部に「ノグチ・ルーム」が移設されている。
- 新萬來舎
- 竣工:1951年(昭和26年)
- 設計:谷口吉郎、イサム・ノグチ
- 萬來舎は明治9~20年頃まで現在の塾監局付近に存在した建物であった。その後現在の場所に再建されたが、1945年(昭和20年)戦災により焼失してしまった。1951年(昭和26年)谷口吉郎、イサム・ノグチの合作により「新萬來舎」として再建され、南館建設に際して2005年(平成17年)同館屋上に移築され、今日に至っている。庭園およびノグチのモニュメントも一部同所に移動し展示してある。
- 大学院棟
- 敷地面積:4.8ha、延床面積:8,787m2
- 創立125年記念事業として建設された。
- 講義室、ゼミ室、教員用研究室、産業研究所、東アジア研究所、メディア・コミュニケーション研究所、司法研究室、会計研究室、大学院生研究室、共用パソコン室、国際センター事務室、日本語・日本文化教育センター事務室
その他[編集]
- 西館
- 三田文学編集部、体育会事務室、業務監査室、労働組合三田支部、体育会本部
- 北館
- 1994年竣工。大会議室、ホール、北館ホール(240人収容)、ファカルティクラブ
- 第一校舎
- 1937年竣工。訪問教員用研究室、教職課程センター研究室
- 研究室棟
- 1969年竣工。学部長室、学部長秘書室、研究支援センター本部、談話室、会議室A・B、研究室個室・事務室
- 教員の在室状況を1階の電光掲示板で確認出来る。
- 研究連携推進本部 先導研究センター
- 論理と感性の先端的教育研究拠点、市民社会におけるガバナンスの教育研究拠点、市場の高質化と市場のインフラの総合的設計、社会イノベータコース/学生支援GP、パネルデータ設計・解析センター(パネル調査共同研究拠点)、三田研究支援センター分室
- ※建物そのものは賃貸である。
- 東別館
- 西別館
- 労働組合本部
- 慶應義塾大学出版会、慶應義塾大学通信教育部事務局分室、慶應インターナショナルレジデンス
- 5階建、上部3階は「慶應インターナショナルレジデンス」
- 慶應義塾大学出版会・マーケティング・センター
- 地上3階、地下1階
日吉キャンパス[編集]
日吉キャンパスは1934年(昭和9年)に大学予科を設置したのが始まりである。第二次世界大戦中は建物のいくつかが海軍の施設(軍令部第3部、人事局、建設部隊等、連合艦隊司令、海軍総隊司令部、航空本部等)として活用された。移転直後から敷地の地下に地下壕が建設され現在も残る。
キャンパスの入口に門は存在せず、キャンパスを囲む塀はなく一部においては市街地と境界が入り組んでいる場所もある。キャンパスは敷地面積10万坪を誇り、構内には貴重な自然が温存されている。日吉駅から日吉記念館に至る幅22m、長さ220m中央道路脇には100本の銀杏並木があり、黄葉の季節には市民の憩いの場となっている。銀杏並木は1997年第7回「横浜市まちなみ景観賞」を受賞。
- 第2校舎
- 214、221、224、231、234教室、生物学教室、物理学教室、化学教室
医学部予科校舎として1936年(昭和11年)竣工。設計は曾禰中條建築事務所で施工は上遠合名会社、清水組が行なう。構造はRC3階建て。正面に円柱を持つ列柱廊が存在する。建物の一部にはアール・デコの装飾が確認される。
- 協生館
- 創立150年記念事業として2008年8月に完成。塾員、塾生のほか広く市民に開放されている施設を含む。CASBEE横浜(横浜市が環境に優しい建物として認証する制度)の第1号として最高位「Sランク」認定されている。
- 慶應義塾専用施設
- 大学体育施設 (B1F)(50mプール、飛び込みプール)
- 大学院施設 (3-6F)
- 経営管理研究科(ビジネス・スクール)
- システムデザイン・マネジメント研究科、
- メディアデザイン研究科
- 研修宿泊施設 (7F)
- 塾員・塾生以外に開放している施設
- 慶應義塾運営施設 (2F)
- 藤原洋記念ホール
- イベントホール
- 多目的教室
- 社会・地域連携施設 (B1-2F)
- コミュニケーション・プラザ
- 開放型体育施設(セントラルウェルネスクラブ)
- 保育支援施設(ベネッセチャイルドケアセンター日吉(横浜市認可保育園・一時保育施設))
- 飲食施設:TULLY'S慶應日吉店、HUB慶應日吉店、クイーン・アリス ガーデンテラス日吉
- 物販施設:ローソン 慶應日吉店
- クリニック:日吉メディカルクリニック 内科・リウマチ科・消化器科・整形外科・耳鼻咽喉科
- 慶應義塾専用施設
- 来往舎らいおうしゃ
- 2001年(平成13年)竣工。清水建設設計・施工。
- 地上7階建て、3階までは共同研究室が中心、4-7階は個人研究室。教員専用のレファレンスライブラリーエクステリアは列柱と大きなガラスが特徴、エントランス側は吹き抜け空間が設けられている。
- 日吉第4校舎独立館
綱島街道側桜並木アプローチ
- 慶應義塾創立150年記念事業の一環として2009年3月竣工、4月22日(水)に開所式開催。綱島街道側の土手の斜面を削って用地を確保して建設された。設計・建設は鹿島建設。綱島街道側桜並木アプローチは協生館に続きCASBEE横浜第3号として最高位「Sランク」を認定されている。
- 同建物内には「日吉コミュニケーション・ラウンジ」が開設された。ここには和室「日吉の家」、ラウンジ、(3) インフォメーションスペース、(4) 学生活動支援スペース、(5) 日吉グローバルスタジオなどが含まれる。同施設は塾員、塾生に開放され授業や課外活動等に活用されている。
- 日吉図書館(日吉メディアセンター)
綱島街道側より
- 1985年(昭和60年)竣工。船をモチーフとして設計されている。蔵書数約60万冊。
- 日吉記念館
- 1958年(昭和33年)11月8日の創立100年記念式典の会場として設計され、1958年(昭和33年)10月竣工。その後各種式典の場として活用される。
- 老朽化に伴い建て替え、2020年3月に竣工。同年の卒業式がこけら落とし。収容人数は1万人。
- 藤山記念館
- 1958年(昭和33年)塾員藤山愛一郎の寄付により図書館として建てられた。ラウンジ、会議室、パソコン室、大会議室。
- 日吉新図書館の開館まで藤山記念図書館として使用していたが、現在は藤山記念館と名称を変え、多面的に利用されている。正面右脇に愛一郎の父で同じく塾員の藤山雷太の像がある。
- 経営管理研究科(ビジネス・スクール)旧校舎
- 1978年(昭和53年)に開設.
- 現在は大学院としての機能は協生館に移り、2009年7月現在、建物だけが残っている
教育施設[編集]
- 第3校舎
- 外国語教育研究センター、ラボ、301-336
- 第4校舎A棟
- J411-J447
- 第4校舎B棟
- 学生総合センター、国際センター、学事センター、学生相談室、J11-39
- 第5校舎
- 第6校舎
- 4階建、グリーン食堂、J611-643、ゼミ1、ゼミ2
- 第7校舎
- 701、703、704教室、理工学部基礎教室、日吉インフォメーションテクノロジーセンター、パソコン室
- 第8校舎
- 811、812、831教室、心理学研究室、美術研究室、音楽学研究室
- 学生団体部室、トレーニングルーム
- 日吉会館(慶應義塾高校)
宿泊、居住施設[編集]
- 下田学生寮 (Shimoda Student Village)
- 地上4階建て、延べ面積約1万m2。
- 1階:体育会共用スペース(部室・食堂・トレーニング施設・浴室等)2-4階:宿舎(体育会棟・留学生棟)
- 体育会野球部合宿所
- 2008年4月4日完成
- KBSハウス
- KEIO NESTLE HOUSE
厚生施設[編集]
- 保健管理センター
- 塾生会館(課外活動棟)
- 食堂棟
- 1階:生協食堂(遊遊キッチン:472席・テラス席220席)、イタリアントマトカフェジュニア(114席)、2階:グリーン食堂(グリーンズマルシェ:531席)、さぼてんExpress(30席)、喫茶売店、3階:公認学生団体のための集会室
- 購買施設棟(生協購買部)
屋内運動施設/スポーツ関連施設[編集]
- 体育館
- 柔道場・剣道場
- スポーツ棟
- 体育研究所、卓球場
- 柔道場(慶應義塾高校)
- スポーツ医学研究センター
野外運動施設[編集]
- ラグビー場(日本ラグビー発祥の地)
- 慶應義塾体育会馬術部
グラウンド
(慶應義塾高等学校)
そのほか[編集]
- 地下壕入り口
- 弥生時代住居址群
- (第六天古墳横穴式石室の玄室部)
信濃町キャンパス[編集]
1917年(大正6年)医学科予科が三田に開設され、その後医学部の拠点を信濃町に移転する。戦時中は東京都北多摩郡武蔵野町に疎開し、戦後信濃町に戻る。1995年(平成7年)までは四谷(地区)と呼ばれていた[83]。東門と西門を貫く通路を挟んで、北側に教育施設、南側に臨床施設が設置されている。臨床施設は1号棟、中央棟を中心に枝の様に各種臨床施設が付随している。
施設は老朽化が進んでいる建物もあり創立150年記念事業の一環として、建て替え計画が進行しており、2020年まで継続的に改修工事等が続く予定である[84]。2018年3月、臨床研究棟・6号棟・7号棟の敷地部分に新1号館が竣工、リハビリテーション棟の建設が予定されている。
- 1号館
- 2018年(平成30年)3月竣工。10階建て地下2階、798床。医学部創立100年に向け、全ての医療チームが結集する、クラスター診療を実現する施設として建設された。
- Ⅰ期棟とⅡ期棟からなり、連絡通路で結ばれている。
- 6-10階は病棟となっている。
- 2号館
- 1987年(昭和62年)竣工、11階建て1,056床、当時最新のコンピュータを利用した総合医療情報システムを稼働させるための施設として建設された。
- B1-2は業務部門、1,2階は外来施設、3,4階は手術施設、5-10階までは病棟が占め、11階には会議室、レストランが存在する。
- 3号館(臨床研究棟II)
-
- 北棟
- 地上6階、地下1階(2011年1月竣工)
- 低侵襲療法研究開発センター、病院情報システム部、内科系臨床施設
- 南棟
- 地上6階(2012年4月竣工)
- 中央臨床検査部門、放射線診断科核医学部門、予防医療センター、腫瘍センター、免疫統括医療センター、病棟
- PETを備えている。
- 北里記念医学図書館(信濃町メディアセンター)
- 1937年(昭和12年)に医学部創設に功績があった北里柴三郎博士の威徳を顕彰し建設計画が立ち上がった。広く全国の塾員に募金を募り集まった三十万円を基に和田順顕に設計を依頼する。1944年(昭和19年)、慶應義塾大学に建物が寄贈され、医学部図書館となる。平成16年(2004年)に信濃町メディアセンターと名称変更し今日に至る。医史学の資料として「富士川文庫」、「石黒文庫」等が存在する。北里講堂では慶應医学賞の授与式が行われている。
- 総合医科学研究棟
- 2001年(平成13年)竣工、地下2階、地上9階、塔屋1階、延べ床面積 24400平方メートル
- 主な施設として、リサーチパーク 56ユニット、RI実験センター、中央機器管理部、動物実験センター等がある。
- 臨床研究棟
- 2008年(平成20年)2月竣工、地上5階・地下1階、延べ面積約5,600平方メートル。
- 大スパンモノコック構造を採用し、内部空間に柱がなく、また内部の仕切りを自由に組みかえられる工法を採用している。
- CCR(クリニカル・リサーチ・センター)が位置する。
- 医学部予防医学教室(第3校舎)
- 竣工は1929年(昭和4年)、信濃町キャンパスに現存するものでは最も古い建造物である。
- 構造は鉄筋コンクリート造4階建て設計は曾禰中條建築事務所、施工は清水組によってなされた。
- 現在でも一部の講義は本校舎内で行われている。
臨床施設[編集]
- 中央棟
- 1963年(昭和38年)竣工
- 1号棟
- 1965年(昭和40年)外来病棟として竣工、A、B2棟からなる。
- B棟は建物東側に螺旋状の避難通路があり、災害時にはバリアフリーで患者の避難が可能となっている。この建築様式は後に東海大学医学部付属病院にも採用されている。
- 旧リハビリテーション棟
- 病院情報システム部、リハビリテーションセンター
- 内分泌検査棟
- 包括先進医療センター棟
- 第1,第2MR棟
- SIGNA 1.5T, SIGNA 0.5Tが設置されている。
- CTスキャナー棟
- 霊安室
教育・研究施設[編集]
- 東校舎
- 1957年(昭和32年)竣工
- 第二校舎
- 1961年(昭和36年)竣工
- PBLルーム
- 新教育研究棟
- 1996年(平成8年)竣工
- 講堂、セミナールームは各種研究会や会合に利用されている。
- 本館臨床講堂
- 臨床講義用階段教室
- 日本ワックスマン財団
- 1957年11月21日設立[85]
- 1952年12月、セルマン・エー・ワックスマン博士がノーベル生理学医学賞授賞式の帰途「北里柴三郎生誕百年祭」の招聘により来日した際に設立された。
- 孝養舎
- 看護学部の校舎として使われている。主に1・2年次は湘南藤沢キャンパス (SFC)・看護医療学部校舎を3・4年次の学生は本校舎を使用する。
学生総合センター、学事課、自習室、体育室
- グラウンド
- ミュージアム
- 犬舎
- ボイラー室
その他(厚生施設など)[編集]
- 三四会館
- 三四会事務局
- 慶應稲荷大明神
- 1933年(昭和8年)鎮座
- 慶應義塾塾内に存在する神社であり、受験シーズンには慶應義塾ほか医、歯、薬学部(慶大に限らず)合格祈願の受験生の参拝が見られる。(仔細については単独記事「慶應稲荷大明神」を参照のこと)
慶應稲荷大明神脇白梅
- コーヒー・ショップ
- STARBUCKS COFFEE
- 花屋
- HANAKITA
- 生協売店
- 購買部が存在し、外部に医療用品を含めた自動販売機が設置されており夜間の需要に対応している。
- グリーンズカフェ
- 職員食堂
矢上キャンパス[編集]
- 創想館
- 2000年(平成12年)に竣工。地下2階、地上7階、塔屋1階建築面積 2,978m2
- 延床面積 21,286m2。施工は錢高組が担当。セミアクティブ免震構造を採用し、日本免震構造協会賞・技術賞(特別賞)を受賞している。名称は、理工学部の理念を実現する、「創造と想像の拠点」といった意味が込められている。
- 地階閲覧室は全館閉館後も24時まで開室している。
湘南藤沢キャンパス[編集]
1990年(平成2年) 神奈川県藤沢市に湘南藤沢キャンパスを設置、総合政策学部・環境情報学部を開設
- アルファ館(本館)
- 学部長室、事務室
2001年(平成13年) 看護医療学部を開設
芝共立キャンパス[編集]
2008年(平成20年) 学校法人共立薬科大学との合併により薬学部・大学院薬学研究科開設芝キャンパス、浦和キャンパスが慶應義塾の施設として新たに加わることになった。
- 1号館
- 正面玄関が設置されている。交通の頻繁な日比谷通りに面しているが、道路までの間に芝公園がありそれが緩衝地帯の役割をなして騒音を防いでくれている。
- 屋上庭園が設けてあり、そこから東京タワーの夜景を楽しむことができる。
- トレーニングジム、学生ホール、食堂、売店、事務局、マルチメディア講堂、屋上庭園、薬用植物園分園、体育館(多目的ホール)
- 2号館
- 記念講堂、学生相談室、講義室、実習室、実験動物飼育室
- 3号館
- 2000年(平成12年)竣工
- セミナー室、教員研究室、実験室、マルチメディア・コンピュータ室、芝共立薬学図書館(薬学メディアセンター、蔵書は製本68,000冊)、附属薬局、事務局(総務課、経理課)、生体防御薬学研究センター
その他のキャンパス[編集]
参考文献[編集]
- 慶應義塾 『慶應義塾五十年史』1907年(明治39年)
- 慶應義塾 『慶應義塾七十五年史』1932年(昭和7年)
- 慶應義塾 『慶應義塾百年史』 全6巻、1958-1969年(昭和33-44年)
- 石田潤一郎著、増田彰久写真 1980年『日本の建築 明治大正昭和7 ブルジョワジーの装飾』(三省堂)
- 慶應義塾大学三田情報センター編1972年『慶應義塾図書館史』(慶應義塾大学三田情報センター)
- 『慶應義塾史事典』2008年(平成12年)
- 加藤三明、山内慶太、大澤輝嘉 編著 『慶應義塾 歴史散歩 キャンパス編』 慶應義塾大学出版会、2017年 ISBN 978-4-7664-2469-0
- 加藤三明、山内慶太、大澤輝嘉 編著 『慶應義塾 歴史散歩 全国編』 慶應義塾大学出版会、2017年 ISBN 978-4-7664-2470-6
脚注[編集]
- 注釈
- ^ 正しくは「白山義学」か。渋江抽斎・森立之『經籍訪古志』安政3年(国書刊行会編刊『解題叢書』1916年所収、10頁)及び村尾元長『近藤守重事蹟考』1893年、2頁を参照。なお、義学と義塾は同義。
- ^ 独立自尊の4字は、福澤諭吉の戒名「大観院独立自尊居士」にも取り入れられている。この名は、高弟・小幡篤次郎の撰によるとされる。
- ^ 紀州藩は親藩だったために、幕末には長州征伐に出陣したりするのだが、地理的環境から京都、大阪を通じて反幕勢力の状態も知り、彼らに倣って早くから英学を採り入れたのである。鎌田栄吉の自伝によると廃藩前に紀州藩で福澤諭吉を破格の待遇で招こうとしたのだが、すでに慶應義塾を開いていたので不可能だった。そして紀州出身で福澤門下の松山棟庵が和歌山に帰って藩立の共立学舎という英学校を作った。その助教がやはり慶應出身の吉川泰次郎(後の郵便汽船三菱会社社長)だった。明治五年になって藩学は県学となって吉田政之丞が慶應から帰って来て、数人の助手を抱えて英学を教えた。鎌田栄吉はここで理学初歩、地理初歩に初まって、ギゾーの文明史、テーラーの英国史、ウエーランドの経済書などをすべて慶應流で教えられたとのことである。前記のように旧藩時代から小泉信吉(横浜正金銀行の創立者)らが福澤門下となっていたが、「福翁自伝」にも塾には紀州の学生が多いと書いている。当時の慶應義塾では福澤の属した中津藩出身者、越後長岡藩出身者、紀州藩出身者が学生の主流だったということである。また、岸幹太郎(徳川家家令)、草郷清四郎(紀州藩騎兵指揮官)、三宅米吉(歴史学者)、巽孝之丞ら初期の藩士だった
- ^ また、維新後の和歌山における慶應義塾を範にとった変則中学の展開や、中井芳楠・長屋喜弥太が創設した私塾自修社(後の自修学校)、同地の義田結社「徳義社」の結成など、紀州藩との密なる関係がみてとれる。
- ^ 開校当初は塾生の代表が塾長となり、学生として在籍する傍ら教壇に立つことが多かった。
- ^ 明治維新後に洋学・特に英語を学習する生徒が殺到し、校舎の増築がままならなかったため。
- ^ 正則科は修業年限7年、変則科は満17歳以上を入学の条件として修業年数を定めなかった(歴史:[慶應義塾])。
- ^ 鹿児島出身の塾生のなかには西郷軍に加わり戦死した者もいたという(『慶應義塾百年史』 上巻、726頁)。
- ^ 翌年専修学校の開校にともない廃止され、一部の学生は専修学校法律科2年に編入された(学校法人専修大学 『専修大学百年史』 下巻、1696頁)。
- ^ 三田英学校、錦城学校を経て現・錦城学園(慶應義塾150年史資料集編集委員会 『慶應義塾150年史資料集 2 基礎資料編』 2016年、25頁)。
- ^ この頃、攻玉社・同人社と共に「三大義塾」として並び称され、代表的な各種学校となる。
- ^ このときハーバード大学から教員3名を招聘した(『慶應義塾七十五年史』 164頁)。
- ^ 大学部は定員割れの状況が続いていたため、中上川彦次郎などは大学部を廃止して高等科を拡充すべきだと訴えていた(『慶應義塾百年史』 中巻(前)、189-199頁)。
- ^ 翌年大学科を大学部、普通学科を普通部と改称(『慶應義塾百年史』 中巻(前)、269頁)。
- ^ 当初は三田の旧普通部教室を主に使用した(『慶應義塾七十五年史』 223頁)。
- ^ 常議員会の設置により1946年廃止。
- ^ 東京横浜電鉄(現東急電鉄)が誘致し、校舎用地の提供を受けた(『慶應義塾百年史』 中巻(後)、297-330頁)。
- ^ 当初は文学部心理学研究室、法学部法律鑑定部などが置かれ、1943年からは慶應義塾大学亜細亜研究所の施設となったが(1946年廃止)、昭和26年(1951年)から慶應義塾女子高等学校となった(『慶應義塾百年史』 中巻(後)、522-523頁)。
- ^ 藤原工業大学は藤原銀次郎の寄付により1939年に開校、当初から慶應義塾への統合を前提としていた。
- ^ 旧東邦電力の東邦産業研究所跡地を、同窓の松永安左エ門による寄付によって取得。
- ^ 5年卒業生と4年修業生は旧制最後の大学予科へ、3年修業生は新制高校へ進学(『慶應義塾百年史』 下巻、177-178頁)。
- ^ 一校あたりの定員数制限が緩和されたため(『慶應義塾百年史』 下巻、166頁)
- ^ キャンパスの使用方法が戦前の予科(新制の高等学校3年および学部1・2年に相当)と大学の区分に戻る。
- ^ 旧小金井キャンパス跡地の一部はグラウンドとして学生や地域住民に利用されたが、1991年までにすべて売却された(『慶應義塾 歴史散歩』 キャンパス編、148頁)。
- 出典
- ^ a b 「慶應義塾百年史」上巻、245頁
- ^ 「慶應義塾百年史」上巻、244頁
- ^ 幕末・維新学校研究会『幕末維新期における学校の組織化に関する総合研究1』1990年所収の名倉英三郎論文
- ^ 「慶應義塾百年史」下巻、805頁・補遺1「義塾一覧」の解説及び一覧表参照
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- ^ [慶應義塾豆百科] No.60 独立自尊
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- ^ 東京国立博物館 - 展示 表慶館 慶應義塾創立150年記念 「未来をひらく福澤諭吉展」
- ^ 文政12年(1829年)の記録(大郷信斎『道聴塗説』第19編)には、「三田島原侯の別邸に住む老狐は、数百年の星霜を経ていて神霊に通じる力がある」との噂を載せている[慶應義塾豆百科] No.32 稲荷山
- ^ [ステンドグラス] 義塾の学園祭、その起源を探る ~三田祭、四谷祭、秋祭、矢上祭、芝共薬祭~
- ^ 新病院棟建設 | 慶應義塾大学病院
- ^ 日本ワックスマン財団 概要