幕府海軍

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幕府海軍
幕府海軍所属を示す中黒の旗
幕府海軍所属を示す中黒の旗
期間 1845年弘化2年)–1869年明治2年)
国籍 徳川葵 江戸幕府
蝦夷共和国
忠誠 征夷大将軍
軍種 海軍
任務 海防
兵力 艦船 約60隻
上級部隊 海岸防禦御用掛(1845年 - 1859年)
軍艦奉行(1859年 - 1865年)
海軍奉行(1865年 - 1867年)
海軍総裁(1867年 - 1869年)
主な戦歴 天狗党の乱
長州征討
阿波沖海戦
寺泊沖海戦
宮古湾海戦
箱館湾海戦
解散後 箱館戦争敗北後、解体
新政府軍に併合
幕府海軍
Flag of the Tokugawa Shogunate.svg
幕府海軍所属を示す中黒の旗
創設 1845年弘化2年)
解散 1869年明治2年)
派生組織 大日本帝国海軍
本部 江戸
指揮官
征夷大将軍 徳川家慶
徳川家定
徳川家茂
徳川慶喜
海軍総裁 蜂須賀斉裕
稲葉正巳
矢田堀景蔵
関連項目
歴史 天狗党の乱
長州征討
阿波沖海戦
寺泊沖海戦
宮古湾海戦
箱館湾海戦
Flag of Japan.svg
国籍旗として用いられた日の丸
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幕府海軍(ばくふかいぐん)は、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。長州征討などで活動し、慶応3年(1867年10月14日大政奉還で幕府が消滅し、明治元年(1868年4月11日江戸開城後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。

沿革[編集]

黒船以前[編集]

異国船の来航が頻繁になったことに伴い、弘化2年(1845年)、老中阿部正弘海岸防禦御用掛(海防掛)を設置し軍制改革を実施した。しかし、海防策では海防組織に農兵隊を編成するなどの内容であり、諸外国の圧力に抗するには不十分であった。

海上戦力は特に劣勢で、船手組などの下に、少数の関船小早といった在来型軍船があっただけだった。最大の軍船である関船「天地丸」(76挺)は寛永7年(1630年)竣工の船齢200年を超える老朽船で、将軍御座船として華麗な姿ではあったが、軍艦としての実用性は失っていた[1]。一部では大型軍艦を建造するべきとする大船策を主張する者もあったが、海防掛などの主流派は、多数の小型船を用いる小船策を適当とし、新型軍船整備や洋式船の導入には消極的であった。例外として、ジェームズ・ビドル艦隊来航後の嘉永2年(1849年)、浦賀奉行所用にスループ系統の和洋折衷船「蒼隼丸」とその同型船が建造された程度であった。

黒船来航[編集]

嘉永6年(1853年)に黒船来航を迎えると、幕府は「大船建造禁令」を解除し、諸に軍艦建造を奨励した。自らも浦賀造船所で「鳳凰丸」の建造に乗り出した。この時期までの洋式船建造は、主に書物を参考にして、日本人のみの手で進められた。

安政元年(1854年)、阿部正弘は大久保忠寛(一翁)を海防掛目付に登用した。大久保は勝海舟の海防意見書に着目、その内容は海軍の創設と、そのための軍艦購入と、海軍生養成の提言である。幕府はこの提言を採用し海軍創設に乗り出した。長崎奉行水野忠徳は、直ちにオランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウス(後の初代駐日オランダ理事官)と交渉、軍艦の発注とオランダ海軍による操艦訓練の合意を得た。

安政2年(1855年7月、幕府はオランダから寄贈を受けた蒸気船観光丸」を練習艦とし、オランダ海軍から派遣されたライケン大尉以下22名を教官とする長崎海軍伝習所を開設した。所在地は長崎奉行所西役所(外浦町、現・長崎市江戸町の長崎県庁舎所在地)、伝習諸取締に永井尚志が任命され、全国より集まった伝習生から総督(学生監督)に矢田堀鴻、永持亨次郎、勝海舟が選ばれた。

安政4年(1857年3月、永井尚志と105名の生徒は「観光丸」で長崎を出港し、神奈川に入港した。同年7月、彼らと「観光丸」によって築地講武所内に軍艦教授所(後の軍艦操練所)が開設された。勝は長崎に残り、幕府がオランダに発注した「ヤパン号」(咸臨丸)と、それに同乗するカッテンディーケを団長とする36名の第二次教師団を待つことになった。「ヤパン号」は同年9月に到着し、江戸からの27名の第2期伝習生を迎えた。長崎伝習所は安政6年(1859年)に閉鎖されたが、同年に軍艦奉行の役職が新設された。

安政7年(1860年1月日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行を乗せアメリカ軍艦「ポーハタン号」にて太平洋を横断、「咸臨丸」も副使木村喜毅(芥舟)、教授方取扱(艦長格)の勝とジョン・ブルック大尉以下アメリカ海軍軍人11名などを乗せて出航し、日本人乗組員の遠洋航海実習、アメリカ海軍の実情視察という成果を上げた。

文久の軍制改革[編集]

文久 元年(1861年5月、軍制改革を推進するため10名の軍制掛が任命された。海軍に関しては軍制掛の1人である軍艦奉行の木村を中心に改革の計画立案が行われた。同年6月、軍艦組が設置され、軍艦頭取に矢田堀鴻、小野友五郎伴鉄太郎が任命され、後に荒井郁之助肥田浜五郎、木下謹吾(伊沢謹吾)らが軍艦頭取に加えられた。文久2年(1862年7月に船手組が、同年8月には小普請組288名が軍艦組に編入された。同年、関船などの在来型軍船は全廃された[1]

同年、国産蒸気船千代田形」の建造を開始。さらに、留学生のオランダ派遣、軍艦の海外発注(アメリカ:「富士山」「東艦」、オランダ:「開陽丸」)を実施した。多数の中古船の輸入も進められた。新たな海軍士官学校として、元治元年(1864年)に神戸海軍操練所も開校されたが、これは翌慶応元年(1865年)には閉鎖されてしまった。

また8月、艦船370艘、乗員61,205人という海軍大拡張計画が提案されたが、採択されることはなかった。

幕府海軍の艦船は、国内での部隊や物資、要人輸送などに活躍した。天狗党の乱第二次長州征討が起きると艦隊を実戦出動させ、艦砲射撃などを行った。第二次長州征討では小規模な海戦も経験したが、あまり成果を上げなかった。

慶応の軍制改革[編集]

第二次長州征討の敗戦後の慶応2年(1866年)8月以降、15代将軍徳川慶喜の下で再び大規模な軍制改革が行われた(慶応の改革)。

幕府中枢への総裁制度導入により海軍局が設置され、従来の海軍組織の上に乗る形で老中格海軍総裁が置かれた。また、軍艦奉行の上に海軍奉行が新設された。海軍階級俸給制度を確立し、服章の規定を定めた。築地の軍艦操練所は海軍所と改称した。

海外発注した新鋭艦も加わった幕府海軍の戦力は、国内の各藩の海軍力を遥かに上回った。「開陽丸」や「富士山丸」に匹敵する戦闘力を持つ軍艦は、他藩には存在しなかった。東アジア各国の中でも最大規模に達した。またイギリスからトレーシー顧問団を招聘したが、戊辰戦争の勃発により本格的な教育は実施できなかった。

大政奉還後[編集]

慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古の大号令を経て翌明治元年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いが発生した。旧幕府海軍は、江戸から現地への部隊輸送や大阪湾の海上封鎖に活躍した。陸上での開戦時、主力は大坂天保山沖に停泊していたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣に無断で旗艦「開陽丸」に乗って江戸へ引き揚げたため、江戸に移った。

新政府軍が江戸を占領すると、「富士山丸」、「朝陽丸」、「翔鶴丸」、「観光丸」の4隻は新政府側に引き渡された。しかし、徳川家に対する政府の処置を不満とする榎本武揚ら抗戦派の旧幕臣は、残りの軍艦「開陽丸」「回天丸」「蟠竜丸」「千代田形」に、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(「咸臨丸」「長鯨丸」「神速丸」「美賀保丸」)を加えて品川沖脱走新選組奥羽列藩同盟軍、松平定敬らを収容し蝦夷地北海道)に逃走した。榎本らは箱館五稜郭に拠り、蝦夷島政府を設立した。翌明治2年(1869年)、箱館戦争に敗北し、残された所属艦船は新政府に引き渡された。

戦歴[編集]

幕府艦船の掲揚法[編集]

初期の掲揚法の「旭日丸
改正後の掲揚法の「咸臨丸

初期の幕府海軍艦船は、日本船の総印として日の丸の旗を掲げ、別に幕府所属であることを示すために白紺の吹流しや黒帯の入った旗を用い、さらににも黒帯を染め入れていた。これは、「鳳凰丸」などの整備に伴い、嘉永7年(1854年)に制定された方式である。嘉永6年8月1853年9月頃)の浦賀奉行からの献策に基づいている。日の丸(朱の丸)は、従来から幕府御用船の標識(海外では国籍旗とみなされる)として用いられてきたものである。他方、白地に黒帯は、徳川氏の祖先とされる新田氏源氏中黒旗に由来する[2]

その後、安政6年(1859年)に掲揚法は改正され、幕府艦船であることを示す標識は、中黒の長旗に変更された。中黒の帆は廃止され、以後は白帆を用いることとされた[3]

所属艦船[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 日本海事科学振興財団 「御座船(ござぶね)“天地丸(てんちまる)”」『船の科学館 もの知りシート』 日本財団図書館による電子版。
  2. ^ 安達裕之『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』平凡社〈平凡社選書〉、1995年、281-283頁。
  3. ^ 前掲 安達(1995年)、285頁。
  4. ^ 推定模型 旭日丸 (あさひまる) - 幕末と明治の博物館
  5. ^ スクーナー君沢形1855年 - 船の科学館
  6. ^ 『函館市史』通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世

参考文献[編集]

  • 『海軍歴史Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』勝海舟全集第8・9・10巻、講談社、1973 - 74年。
  • 小池猪一編著『図説総覧海軍史事典』国書刊行会、1985年、2 – 9頁。
  • 篠原宏『海軍創設史 - イギリス軍事顧問団の影』リブロポート、1986年。ISBN 4-8457-0206-1
  • 土居良三『軍艦奉行木村摂津守 - 近代海軍誕生の陰の立役者』中央公論社中公新書1174〉、1994年。ISBN 4-12-101174-0

関連文献[編集]

  • 朴栄濬「幕末期の海軍建設再考--勝海舟の「船譜」再検討と「海軍革命」の仮説」軍事史学38-2、2002年9月。
  • 朴栄濬「近代日本における海軍建設の政治的起源--阿部正弘幕閣の海軍建設評議と初期海軍建設政策を中心に」国際関係論研究19、2003年3月。
  • 新津光彦「幕府海軍創設の経緯と歴史的意義 - どのような要因、方法、人物によって築かれたのか」政治経済史学536、2011年6月。
  • 高久智広「幕末期の幕府の艦船運用と兵庫津--「御軍艦御碇泊」御用をめぐって」日本史研究603、2012年11月。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]