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矢内原忠雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
矢内原 忠雄
(やないはら ただお)
1956年度東京大学入学式にて
人物情報
生誕 (1893-01-27) 1893年1月27日
愛媛県越智郡富田村(現・今治市
死没 (1961-12-25) 1961年12月25日(68歳没)
東京大学伝染病研究所附属病院
東京都港区白金台
学問
時代 明治時代 - 昭和時代
学派 無教会主義
研究分野 植民政策学
研究機関 東京帝国大学経済学部
主要な作品 『帝国主義下の台湾』(1929年)
『聖書講義』(1948年-1959年)
影響を受けた人物 新渡戸稲造
内村鑑三
吉野作造
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矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年明治26年〉1月27日 - 1961年昭和36年〉12月25日)は、日本経済学者植民政策学者東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章無教会主義キリスト教の指導者としても知られる。長男は哲学者法政大学名誉教授の矢内原伊作、三男は経済学者慶應義塾大学名誉教授の矢内原勝

人物・生涯

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青年期

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愛媛県越智郡富田村(現・今治市[1]に四代続いた家系の医者の子として生まれる。教育熱心な父の影響で、神戸の従兄弟(望月信治)の家から兵庫県立神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)に通学して卒業。1910年(明治43年)に旧制第一高等学校に入学。在学中に無教会主義者の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門を許され、キリスト教への信仰を深めていった。東大に入学後は、吉野作造民本主義や、人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受け、思想形成を行っていった。ちなみに、矢内原が卒業した神戸中学校の在校当時の校長鶴崎久米一は、札幌農学校で新渡戸稲造と同期の入学生である。一高を出て大学に入る間の夏休みに、一人で富士山に登っている。1913年(大正2年)20歳の時であった[2]

壮年期

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1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属される。同年5月友人のすすめで西永愛子と金沢で結婚式を挙げた。新居浜時代は新婚生活時代でもあった。翌年5月長男が生まれ伊作[注釈 1]と名付けた[3]。当時の別子銅山には、後に住友を辞して無教会主義のキリスト教伝道者となる黒崎幸吉が先に赴任しており、黒崎の伝道集会で聖書講義を行ったりもした。1920年(大正9年)、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部に呼び戻され助教授となる[4]。彼は、学者になって何か社会に貢献することを神から示された道として決心した[5]。同年秋に欧州留学に旅立つ。イギリスドイツパレスチナ旅行・フランスアメリカなどへの留学を経て、1923年(大正12年)予定を早めて帰朝し、肺結核で療養中の妻を見舞った(妻は1か月半後の3月26日に24歳で死去)。同年教授に就任し、植民政策を講ずることとなった。1年後、幼い子どもたちのことも考え堀恵子と再婚する。

矢内原の植民政策学は、統治者の立場から統治政策として考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に分析し、帝国主義論の一環として扱っている点に特色がある。前任者の新渡戸の学風を発展的に継承しているものといえよう。その研究の結実の代表的なものが、各言語に翻訳された『帝国主義下の台湾』(1929年)である。このような矢内原の姿勢は、しだいに軍国主義的な風潮が強まる中で体制との緊張関係を深めていくこととなった。

矢内原事件

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矢内原の辞職を報じる『東京朝日新聞』

1937年(昭和12年)、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌9月に「国家の理想」と題する評論を寄せた。国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことなど、今日では日本でも常識化した民主主義の理念が先取りして述べられていた。

しかし、この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられた。また、同じ頃、矢内原が個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載された南京事件を糾弾する目的で行われた彼の講演[6]の結語(「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」)も、不穏の言動として問題となった。11月24日土方成美教授会で、矢内原の言論活動を非難した。結局1937年(昭和12年)12月に、事実上追放される形で、東大教授辞任[7]を余儀なくされた。12月1日に辞表を提出、12月4日に退官。 1936年(昭和11年)6月20日に岩波書店から発行されていた『民族と国家』は、1937年(昭和12年)12月1日、矢内原が辞職した当日に内務省により発禁処分[8]。自費出版を試みるも1938年1月20日発禁処分。

辞職後は、『通信』に変えて『嘉信』を毎月定期的に発行した[注釈 2]。毎日曜日、自宅で若者に対して聖書の講義をしたり、月一回の帝大聖書研究会を行った。1939年(昭和14年)から土曜学校を開いた[9]。また、キリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けた。

1941年(昭和16年)11月5日の夜、東京芝のフレンド教会で新渡戸稲造記念講演が行われ、矢内原が「新渡戸先生の宗教」という題で講演している[注釈 3]

1945年(昭和20年)8月15日、矢内原は終戦の詔勅山中湖畔で聞いて、これから新しい時代がくるのだから、平和のために働かなければねばならないと感じた[11]

戦後

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敗戦後の1945年(昭和20年)11月4日東京帝国大学経済学部教授会は矢内原の復職を決定[12]。度重ねた要請で復帰した。辞職してからちょうど8年後であった。休職になっていた大内、有沢、脇村らも復帰した。担当する植民政策論を国際政策論に名称を変更した。

その後1946年(昭和21年)社会科学研究所長、1948年(昭和23年)経済学部長、1949年(昭和24年)教養学部長を歴任し、1951年(昭和26年)、南原繁の後任として東京大学総長に選出される(1957年(昭和32年)まで2期6年務めた)。1952年(昭和27年)には、学生劇団「ポポロ」公演にて摘発された私服警官のメモから警察による系統的な学内スパイ活動が露見し、東大側と警察が全面対立したが(東大ポポロ事件)、矢内原は総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取った。一方、学生のストライキに対しては厳しい姿勢を示し、ストライキを計画指揮した学生(学生自治会委員長、学生大会議長、ストライキ議案提案者の3名)は原則として退学処分とする「矢内原三原則」を打ち出した。この原則を適用され退学処分を受けた者に、江田五月今井澄などがいる。この「矢内原三原則」は東大紛争で廃止に至るまで、学生と大学当局の間でしばしば対立の原因となった。事件に関し衆議院行政監察特別委員会に東大学長として証人喚問された[13]

晩年

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多磨霊園にある矢内原家の墓

退任後の1958年(昭和33年)に名誉教授の称号を授与され、その後も精力的に講演活動を行う。1960年(昭和35年)11月、姫路野里教会で「生死の問題」と題して講演している。教会における最後の講演となった。翌年の6月、東大教養学部学友会主催の講演会で「人生の選択」という題で東大生に対する最後のメッセージを残している。同年7月、札幌市民会館において北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題してを講演し、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」、そして「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結んでいる。また、退職後は、学生問題研究所を創設し、その所長として学生の生活や思想の調査・研究に取り組んだ[14]

晩年の人生論に、1961年(昭和36年)NHK放送の「子供のために」の中で子供を大事にする思想的根拠として次のように述べている。「人生というものは、人を従えることが成功のように思われがちでありますけれども、実はそうではなく、人に仕えることが人生の意味である」[15]

1961年(昭和36年)12月25日、胃癌のため入院先の東大伝染病研究所附属病院で死去[16]。68歳。なお、法政大学名誉教授で著名な詩人矢内原伊作慶應義塾大学経済学部名誉教授・作新学院大学長の矢内原勝は子息である。矢内原家は、食事時に私語をせず厳格な忠雄を子息たちは恐れていたという。

没後、蔵書の一部が矢内原勝によって琉球大学附属図書館に寄贈され「矢内原忠雄文庫」となっている(1988年(昭和63年)に650冊、1995年(平成7年)に199冊)[17]

東大駒場Iキャンパス内には、かつて「矢内原門」があった。矢内原は東京大学教養学部長時代に、自身が一高時代に学んだ経験から、襟を正して正門からというノーブレス・オブリージュと正攻法を普段から学生たちに教えていた。しかし、東大が「きけ、わだつみのこえ」世代の太平洋戦争からの帰還学生たちが社会主義を標榜した学生運動の全学ストライキ突入を行い、授業を行えなくなった際は、「特別に門以外の場所を通行してよい」と発言した。そしてストライキの最中、向学心の有る諸君は特別に垣根を飛び越えて門のうちに来たれ、と学生に呼び掛けた。この門は今は「矢内原公園」にその名を残している。

エピソード

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左から三谷隆信河合栄治郎、矢内原忠雄(1911年)

矢内原は一高基督教青年会・弁論部の先輩である河合栄治郎に男子学生同士の相思相愛の恋心を抱いており、「敬愛する河合さんと美しき赤城の上に清き生活を送らんとの念は馬鹿に強くなった。河合さんは、はじめて「忠雄さん」なる語を用ひられた」「星は一つも見えぬ暗い夜だ、運動場のゆるき傾斜に僕は河合さんに抱かれ夢の如く赤城の清き交りを思つた。前面の人家も連山の如く見えた。あゝほんとに夢心地であった。時間の観念も頭にない。眠くもない、さして寒くもない、恍惚としていた」と、16時間連続で抱き合って星を見ながら黎明の中始発の汽車の汽笛が鳴り始めるまで耳元で囁きあい、河合から「忠雄さん、あくまでもpureであって下さい。僕は君のpureなるを愛します」と言われ、語り合った幸福な思い出を日記に書き記している。[18]

矢内原は31歳の時、二番目の妻となる堀恵子に「あなた今頃はもうスヤスヤ御やすみでせう。鳩の夢でも御覧ですかしら。(…)今はねもう午前一時に近いのです。私今まで勉強して居りました。近処の松の山が風がゴーッとなつて居り、二階の雨戸もガタガタ言って居ますがそれが一層しづかさを増します。私こんな静かな時に一人居るのが一番うれしいのです。」と愛の手紙を書き送っている[19]。東大在学時代には雨の日曜日が好きであること、内村鑑三の柏木聖書研究会の帰りに「それに空の雲がすてきであった。水蒸気の豊富な雲が夕日の光を吸ひとつて赤く輝いた。路の水たまりも為に赤くなつて居る。詩編第十九編、ラスキンの解釈を思ひ出した。」と手帳に書き記している[20]

矢内原と親交があった長谷川町子は、矢内原が長谷川の妹の結婚式と妹の夫の葬式の司式を務め、「(矢内原は)厳格なお顔の割に、可愛い物がお好き」であり、矢内原が晩年に入院した際には長谷川がクマの玩具を見舞品として贈ったと『サザエさんうちあけ話』の第29章で触れている。

著作

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単著

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編集

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翻訳

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共著

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共編

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著作・講演集

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  • 『ヒューマニズムとニヒリズム』 (講演)、早稲田大学基督教青年会主催、1948年
  • 『米国視察談』 (講演)、早稲田大学主催、1950年
  • 矢内原忠雄全集』全29巻(岩波書店、1963-64年)
  • 『嘉信』 第1-7巻、みすず書房、1967年
  • 『聖書講義』 第1-8巻、岩波書店、1978年
  • 『基督者の信仰』 第1-8巻、岩波書店、1982年
  • 『信仰と学問――未発表講演集』 新地書房、1982年
  • 『矢内原忠雄』 日本平和論大系第10巻、日本図書センター、1993年
  • 『土曜学校講義』 第1-10巻、みすず書房、1998年
  • 『矢内原忠雄』 日本の説教第11巻、日本キリスト教団出版局、2004年

記念論文集

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伝記

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脚注

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注釈

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  1. ^ アブラハムの子イサクで、ヘブライ語で「笑う」と言う意味。
  2. ^ これは真理の敵ファシズムに対する宣戦布告を意味した。[9]
  3. ^ この日は、御前会議で帝国国策遂行要領が決定された。つまり、12月初旬に米英欄に対しての開戦を決意したのである。[10]

出典

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  1. ^ データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム
  2. ^ 鴨下重彦他 2011年 69ページ
  3. ^ 鴨下重彦他 2011年 20ページ
  4. ^ 東京帝国大学一覧 從大正9年至大正10年』東京帝国大学、1921年、616頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940171/317 
  5. ^ 鴨下重彦他 2011年 21ページ
  6. ^ 矢内原忠雄 (1937). “神の国”. 通信 47号. (矢内原忠雄『国家の理想―戦時評論集』岩波書店、1982年、に収録)
  7. ^ 東京帝国大学一覧 昭和13年度』東京帝国大学、1938年、371頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446288/193 
  8. ^ 執筆論文が問題化、東大教授を辞任『東京朝日新聞』1937年(昭和12年)12月2日夕刊.『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p729 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  9. ^ a b 鴨下重彦他 2011年 31ページ
  10. ^ 鴨下重彦他 2011年 35-36ページ
  11. ^ 鴨下重彦他 2011年 38ページ
  12. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、346頁。ISBN 4-00-022512-X 
  13. ^ 第13回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第28号 昭和27年6月14日
  14. ^ 鴨下重彦他 2011年 60-61ページ。なお、講演「人生の選択」と「内村鑑三とシュヴァイツァー」は『人生の選択 矢内原忠雄の生涯』 大学セミナー・ハウス 1963に収録
  15. ^ 鴨下重彦他 2011年 74ページ
  16. ^ 『朝日新聞』 1961年12月25日付夕刊7面
  17. ^ 沖縄資料ガイドブック”. 琉球大学附属図書館. p. 30. 2021年9月18日閲覧。
  18. ^ 関口安義 (2013). “評伝 矢内原忠雄(三)”. 都留文科大学研究紀要 第77: 6. 
  19. ^ 『矢内原忠雄全集 第29巻 (書簡,補遺,年譜)』岩波書店、1965年、37頁。 
  20. ^ 『矢内原忠雄全集 第27巻 (初期の文章)』岩波書店、1965年、488-490頁。 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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学職
先代
(新設)
日本の旗 東京大学教養学部長
1949年 - 1951年
次代
麻生磯次
学部長事務取扱
先代
舞出長五郎
日本の旗 東京大学経済学部
1948年 - 1949年
次代
有沢広巳
先代
(新設)
日本の旗 東京大学社会科学研究所
1947年 - 1949年
東京帝国大学社会科学研究所長
1946年 - 1947年
次代
宇野弘蔵