中川元

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なかがわ はじめ

中川 元
第二高等学校長時代の肖像
生誕 (1852-01-07) 1852年1月7日嘉永4年12月16日
信濃国伊那郡飯田城下(現・長野県飯田市
死没 (1913-09-28) 1913年9月28日(61歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 教育者官僚
肩書き 従三位勲二等
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中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代日本教育者文部官僚第四高等中学校金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、は槐陰。

経歴[編集]

信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る[1]1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。師範制度の調査とともに、文部大書記官としてパリ万博に派遣された九鬼の世話係を務めた[1]

1881年11月に帰国し、二等属として文部本省に奉職する。1885年4月には文部権少書記官に昇進する。文部省普通学務局書記官視学官文部大臣秘書官等をへて参事官となる。1889年の文部大臣森有礼刺殺事件の際には森の随行員として事件に遭遇[1]1891年第四高等中学校1893年第五高等中学校1900年第二高等学校校長、1911年仙台高等工業学校を歴任した。

1912年11月18日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2]。その他、師範学校条令取調委員、文部省予算説明調査委員等を務めた。

孫に中川浩一[3]

栄典[編集]

位階
勲章等

著作[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 中川浩一「西野文太郎殺害事件始末:森有礼刺傷とのかかわりにたって」『茨城大学教育学部紀要 人文・社会科学』第27号、茨城大学教育学部、1978年、29-35頁、ISSN 0386765XNAID 120005514460 
  2. ^ 『官報』第92号、大正元年11月19日。
  3. ^ 『フランスとの出会い: 中江兆民とその時代』富田仁、三修社, 1981, p224
  4. ^ 『官報』第578号「賞勲叙任」1885年6月6日。
  5. ^ 『官報』第3507号「叙任及辞令」1895年3月12日。
  6. ^ 『官報』第4456号「叙任及辞令」1898年5月11日。
  7. ^ 『官報』第5997号「叙任及辞令」1903年6月30日。
  8. ^ 『官報』第7547号「叙任及辞令」1908年8月21日。
  9. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
  10. ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
  11. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。

参考文献[編集]

  • 塚原嘉藤編 『中川元先生記念録』 故中川先生頌徳謝恩記念資金会、1918年3月
  • 赤羽篤ほか編 『長野県歴史人物大事典』 郷土出版社、1989年7月、ISBN 4876631263

関連文献[編集]

外部リンク[編集]