ノート:日本の原子爆弾開発

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第2次大戦中の原子爆弾開発[編集]

福島県石川郡石川町の橋本悦雄さんが中心となって石川町立歴史民俗資料館に、昭和20年4月から終戦の同年8月15日まで、陸軍の指導の下、同町で理化学研究所が旧制私立石川中学(現学法石川高校)の生徒を学徒動員させ、ウラン鉱を採掘していたと写真などを公表しています。このことを、本文に書いてはいけないのでしょうか?kamehameha 2007年8月15日 (水) 18:41 (UTC)[返信]

記述しても問題ないと思います。ネットで検索すると2007年8月14日付の新聞記事として複数紙に掲載されています。新聞記事には記述が無い鉱山名等があればなお良いと思います。--SRIA 2007年8月16日 (木) 09:20 (UTC)[返信]

2013年に石川町教育委員会より『ペグマタイトの記憶』(橋本悦雄著)が発行され、理研飯盛研究室のウラン鉱調達、陸軍第八技術研究所の山本洋一少佐の機密公文書など二号研究に関する未公表の資料が多量に記載されているので、参考にされることをおすすめします。--111.90.14.210 2014年2月5日 (水) 08:11 (UTC)[返信]

海軍の原爆開発研究を理解するために[編集]

海軍の原爆開発研究には、多くの人が関わり、話のすじも込み入っているので、良く整理しないと頭が混乱します。理解するためには二つに分けて考えると良いでしょう。一つ目の研究は海軍技術研究所の伊藤庸二大佐が主導した研究です。この研究の中身は「核物理応用研究委員会」です。伊藤大佐は「そんな事やっている場合じゃないだろう、レーダーの方をちゃんとやれ」と言われて、泣く泣く中止しています。委員会のメンバーの中には京大関係者は入っていません。したがってこれは「F研究」ではありません。もう一つは戦争末期になってから艦政本部の火薬専門家たちが主導し、京大の荒勝研究室と共同で行った研究で、こちらが「F研究」です。ほとんどの資料には「海軍と京大が共同でF研究を行った」程度しか書いてありません。「海軍の原爆開発研究」イコール「F研究」と思われがちですが上記の通りF研究と、F研究に関係ない部分があることをご理解ください、と偉そうに書きましたが、私は資料を読み込んで今回やっと理解したところです。 上のIPは私のログイン忘れです。--Tatsubou会話2016年5月27日 (金) 12:02 (UTC)[返信]

熱拡散分離塔が焼失した日付けについての考察[編集]

熱拡散分離塔が空襲で焼失した日付は、手持ちの資料では、『昭和史の天皇 4』では4月13日、『スクープ!五十年目の証言』では4月16日、『Researcher 研究と開発』では4月13・14日、常石敬一『理研におけるウラン分離の試み』では4月13日、になっています。この種の作業をやっていると出典同士が相互に矛盾することはしばしばあります。どれを採用するかについては、多数決が良いとは限りません。出典が子引き、孫引きになっていて、源は一つということもあるからです。確信が持てるものがあれば、それを採用すべきですが、それがない場合は「各論併記」しかないでしょう。

このケースでは『昭和史の天皇』がもっとも信用できます。これは、実際に消火に当たった理研仁科研の山崎文男氏の体験談の録音テープを文字化したものだからです。さらに言えば、当時山崎氏は家族を疎開させて同じ仁科研の朝永振一郎氏ほか2名と一緒に理研の近くの下宿で共同生活をしていました。4月12日の夜、空襲で下宿が火事にになり、消火しようとしましたが、素人では力が及ばず全焼してしまいました。茫然としていると、理研の方で火の手が上がるのを見つけ、朝永氏と一緒に駆けつけ、消火を手伝うとともに、大事な熱拡散分離塔がある49号館に延焼しないように、材木を片付けたりしてなんとか延焼を食い止めました。鎮火したので人々は安心して休んでいると、残り火が燃え上がり、気が付くと49号館は手がつけられないほど燃え上がり、結局全焼してしまいました。正確にいうと空襲があったのは4月12日で、熱拡散分離塔が焼失したのは4月13日未明となります。しかし、大事なことは熱拡散分離塔が焼失した、ということであって、それ以上はトリビアになるので4月13日にしておきます。なお、5月15日は東京大空襲によれば空襲が無かった日なので、出典の著者の記憶違いと思われます。--Tatsubou会話2016年5月28日 (土) 11:18 (UTC)[返信]

研究の開始時期[編集]

理研が航空本部から正式に研究を依頼されるにあたって、公式の文書が存在したはずです(重要な研究を口頭で依頼することはあり得ない)。しかし、ほとんどの文書は終戦時に焼却処分されました。したがって、いつ依頼されたかは、関係者の記憶にたよらざるを得ません。手元には次の資料があります。

  1. 中根良平「歴史秘話サイクロトロンと原爆研究(前編)」:陸軍航空本部の委託研究として1943年1月に始まったものです。
  2. 鈴木辰三郎「スクープ五十年目の証言『原子爆弾の開発を命ず』」p.93:1943年春ごろ、仁科研究室より待望の報告書がまとまったとの連絡を…
  3. 橋本悦雄「ペグマタイトの記憶」p.50:1943年5月「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した。
  4. 「昭和史の天皇 4 日本の原爆」p.83:安田中将はいったん第一航空軍司令官に出て、航空総監になったのは十八年五月一日だから、十八年初めという鈴木氏の記憶は五月ごろのあやまりだろう。

航空総監部には上記4.のとおりの人事が記されているので、総合的に判断して、正式な依頼は5月とするのが適正と考えられます。

マンハッタン計画のバーグラフ:マンハッタン計画の始まりは、『昭和史の天皇 4』に出ていた1946年6月18日を採用しました。これも出典によりいろいろです。そもそも、どの時点をもって始まりと解釈するか、という根本的な問題がありますが、この記事で論議することではないと思うので追及はしないでおきます。--Tatsubou会話2016年6月24日 (金) 12:35 (UTC)[返信]

原爆は仁科博士が安田部長に進言はしていない[編集]

2016年5月19日の版で私が修正したのですが、また元に戻っています。原爆を最初に着想したのは、仁科博士でなく、安田部長であることは、「昭和史の天皇 4」の78ページから数ページにわたって当事者の証言をもとに詳細に述べられています。現在の出典は誤りと思われます。もし、ご希望があれば、「昭和史の天皇 4」の当該ページをスキャンしてお送りしますので、ウィキメールで御連絡ください。--Tatsubou会話2016年10月13日 (木) 03:13 (UTC)[返信]

追記:上記の誤りはどうも英語版 (en:Japanese nuclear weapon program) から来ているようです。英語版にはいろいろ問題があります。仁科と安田が汽車で出会ったとありますが、日本語の資料のどこにもそんなことは出ていません。また、日本の原子核物理学の始祖を彦坂忠義としていますが、彦阪の学説は異端として学界に認められていません。英語版はいずれ直さなければならないと思います。--Tatsubou会話2016年10月15日 (土) 04:43 (UTC)[返信]

「仁科博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に原爆を進言した」という伝説はなぜ生まれたか[編集]

英語版en:japanese nuclear weapon program16.14,25 March 2009 版以降「1940年初夏、仁科は列車の中で安田武雄に出合い、核兵器製造の可能性について語った」という意味の記述があります。日本語版では 2006年9月3日 (日) 02:08 から 2016年5月2日 (月) 07:51 の版に「1940年に理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている」という記述があります。 なぜこのような事が書かれているのか、原因を探していましたが、”震源地”と思われるものが見つかりました。1955年8月7日の朝日新聞の「原子雲を越えて」というシリーズ記事中に次のような記述がありました。

話は戦前にさかのぼる。昭和15年も半ば過ぎたある夏の日、新宿から立川に向う通勤列車の二等車で、こんな話がささやかれていた。「例のウラン爆弾のことだが・・・・」と、理研の仁科博士。「ほう、いよいよ出来そうだとでも」とヒザを乗り出したのは陸軍航空技術研究所長安田武雄中将(現アジア製作所社長)である。いつになく興奮の面もちだ。「核分裂の実験データが十分でないので、まだはっきりとはいえないが、ウラン爆弾はどうにか出来そうに思える。あなたがその気なら、わたしのところでウラン爆弾製造のための実験的研究をはじめてもよいと思うんだが・・・・・」。こうして、日本の原爆研究は真剣な問題になっていった。日本の原子力研究前史の序章は、ここらへんに置いて間違いなさそうだ

この会話は一目で作文であることが判ります。なぜって?この会話、誰が聞いていたの? この記事には突っ込みどころがいくつもあります。学者である仁科が軍人である安田に爆弾の開発を持ちかけることはあり得ません(立場が逆でしょ)。仁科博士は平和主義者でした。ニ号研究が始まってからも「(核エネルギー)は爆弾みたいにしないで、熱源というか動力源として使うには非常にいいんだが」と、たびたび口にしていたと飯盛里安が述べているます(出典あり)。また、軍人ともあろう人が国家機密に関わることを、列車の中で軽々しくしゃべったら軍法会議ものでしょう。英語版の内容は朝日新聞の記事を下敷きにしている可能性が大です(列車で出会ったという共通点から)。それが日本語版に逆輸入されて拡散して行ったと思われます。 今後、この記事に加筆される方は出典の信頼性に十分配慮してください。日本の原爆については怪しげな情報がたくさんあります(例えば、ウラン鉱石を積んだドイツの潜水艦は実は密かに日本に到着していたとか)。--Tatsubou会話2016年11月2日 (水) 06:48 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

日本の原子爆弾開発」上の3個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

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ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月5日 (木) 22:37 (UTC)[返信]