日本占領時期のインドネシア

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日本占領時期のインドネシア
蘭領東印度(蘭印)
大日本帝国による軍事統治

1942–1945
 

日章旗 菊花紋章
標語
八紘一宇
国歌
君が代
インドネシア・ラヤ (非公式)
大日本帝国の最盛期領土(ピンク)における、蘭印ことオランダ領東インド(暗赤色)
首都 ジャカルタ
言語 日本語, インドネシア語
政府 軍事占領
歴史・時代 第二次世界大戦
 •  オランダ軍降伏 1942年3月9日
 •  大東亜戦争 1941-1945
 •  ジャワ沖海戦 1942年2月
 •  スラバヤ沖海戦 1942年3月1日
 •  PETAのブリタル反乱 1945年2月14日
 •  日本の降伏 1945年9月2日
 •  インドネシア独立宣言 1945年8月17日
通貨 オランダ領インド・ルピア
現在 インドネシアの旗 インドネシア

日本占領時期のインドネシア(にほんせんりょうじきのインドネシア、英:Japanese-occupied Dutch East Indies)では、第二次世界大戦中の1942年3月から1945年9月終戦にかけて大日本帝国が占領した「蘭印」と通称される当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)について説明する。

この時期はインドネシア史における最も重要な時代のひとつである。オランダ領東インドは1819年以来オランダの植民地にされていた。しかし、ドイツによってオランダ自体が1940年に占領されてしまったため、大日本帝国軍に対抗して同植民地を守る能力がほとんどなく、ボルネオへの最初の攻撃から3か月も経たずに日本の陸海軍がオランダ軍および連合軍を圧倒した[1]。当初は、大部分のインドネシア人が喜んでオランダの植民支配からの解放者として日本側を歓迎していた。しかし、日本の戦争遂行にあたりインドネシア人が更なる艱難辛苦に耐えるよう期待されていることを悟るにつれて、その感情は変化していった。 1944年から1945年にかけて、連合軍の主な部隊はインドネシアを迂回しており、ジャワスマトラのような人口の最も多い地点に入って戦うことがなかった。そのため、1945年8月の日本降伏時にも、インドネシアの大半が依然として日本の占領下にあった。

この占領はインドネシアで初となるオランダにとっての深刻な課題であり、オランダの植民地支配を終わらせるものとなった。また、その終結時までの変化は非常に多彩かつ尋常ならざるもので、その後の経緯としてインドネシア革命がほんの3年前には実現不可能な方法で可能になった[2]オランダ人と違って、日本人はインドネシア人の政治との関わりを村レベルにまで促進した。 特にジャワとスマトラで日本人は多くの若いインドネシア人に教育を施し、訓練させて武装させ、そして彼らの民族主義的指導者たちに政治的発言を与えた。このように、オランダ植民地体制の破壊とインドネシアのナショナリズム促進の両方を経験させた日本の占領が、太平洋戦争での日本降伏から数日以内にインドネシア独立宣言に至るだけの状況を作った[要出典]

しかしながら、オランダはこのインド領を奪還しようと画策して、外交的、軍事的、社会的な厳しい戦いが5年にわたって行われ、最終的には1949年12月にオランダがインドネシアの主権を認めることとなった。

背景[編集]

第二次世界大戦中に日本人が作成した、蘭印で最も人口の多いジャワ島を描いた地図。

1942年までインドネシアはオランダによって植民地化されており、オランダ領東インド諸島(日本では「蘭印」)として知られていた。1929年、インドネシア民族主義の黎明期にインドネシア国民党の指導者スカルノモハマッド・ハッタ(後の初代大統領と副大統領)は太平洋戦争を予見し、インドネシアにおける日本の進駐が独立にとって有利に働くかもしれないと考えていた[3]

日本人は自分たちが「アジアの光」であるとの言葉を広めた[注釈 1]。19世紀末の日本は技術や社会の近代化に成功した唯一のアジア国家で、大半のアジア諸国が欧米の権力支配下にあった時も独立を保ち続け、日露戦争ではロシアという欧州の力を打ち負かしていた[5]支那事変の後、日本は東南アジアに目を向けて他のアジア諸国に「大東亜共栄圏」を提唱、これは日本のリーダーシップ下における一種の交易圏として説明された。20世紀前半に日本人はアジアにおける影響力を徐々に拡大し、1920年代から1930年代にかけてはインド諸島とのビジネスを確立した。小さな町の理髪師、写真スタジオ、セールスマンから、大規模百貨店やスズキ (企業)三菱グループといった企業までが砂糖取引との関連で進出した[6]

1931年に日本人の人口は居住者6949人でピークに達し、その後は主に日本とオランダ領インド政府との間の経済的緊張から漸減していった[7]。特にムスリム系政党のインドネシア人民族主義者との関係を築くべく多くの日本人が同政府から派遣され、インドネシア人民族主義者達も日本訪問の支援を行っていた。こうしたインドネシアでの民族主義奨励は、日本側のより遠大な「アジア人のためのアジア」という計画に向けた一部だった[6]。大部分のインドネシア人がオランダの人種に基づく植民地システムを廃止するという日本の約束に期待する一方、オランダ支配下で特権的地位を享受していた中国系インドネシア人(インドネシア華僑)はこれを楽観視できなかった。また、ファシズムに対抗するソビエト連邦の統一戦線に追従していたインドネシア共産主義の地下組織メンバーも懸念を示していた[8] 。1930年代後半における満州および中華民国への日本の侵略は、反日運動を支援するための資金を準備したインドネシア華僑の間に不安を引き起こした。オランダの諜報機関もインドネシアで暮らしている日本人(en)を監視した[9]

1941年11月、インドネシアの宗教的・政治的グループ組織かつ労働組合でもあるMadjlis Rakjat Indonesia(インドネシア人民会議)は、戦争の脅威に直面してインドネシア国民の動員を求める覚書をオランダ領東インド政府に提出した[10]。 同政府はこのインドネシア人団体を国民の代表とは見なさなかったため、その覚書は拒否された。僅か4ヵ月も経たぬ内に、日本側がこの群島を占拠していった。

侵攻[編集]

日本側の蘭印進軍、1942年

1941年12月8日、オランダ亡命政府[注釈 2]が日本に対して戦争を宣言した[12]。1月には、アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)将軍の指揮の下、東南アジアにおける連合軍を調整するためのABDA司令部が結成された。侵攻に至るまでの数週間でオランダの政府高官は、政治犯、家族、個人的職員を連れてオーストラリアに亡命した。日本軍が到着する前には敵対するインドネシア人グループ間での対立があり、そこでは人々が殺害されたり、行方不明になったり、隠れ潜んだりした。中国人およびオランダ人が所有していた財物は荒らされたり破壊された[13]

1942年初頭における日本の侵攻は迅速かつ完璧なものだった。1942年1月までに、スラウェシカリマンタンの一部が日本の支配下となった。2月までに日本人はスマトラへの上陸を完了し、そこで現地のアチェ人にオランダに反抗するよう推奨した[14]。2月19日、既にアンボンを占拠した日本側の東方支隊はティモール島に上陸し、クパン近くの西ティモールに特殊落下傘部隊を降下させた。そして12月には侵攻してきた連合軍を追い出すためにポルトガル領ティモールのディリ地域に上陸した[15]。2月27日、日本阻止を目的とした連合軍海軍最後の奮闘は、ジャワ海域の戦いでの敗北により一掃された[16]。1942年2月28日から3月1日にかけて、日本軍はジャワ島北海岸沿いの4地点に一斉上陸した[17]。最も激しい戦闘が、アンボン、ティモール、カリマンタン、ジャワ海域での侵攻地点で行われた。バリのようにオランダ軍がいない場所では戦闘が行われなかった[18]。3月9日、オランダ軍司令官は総督のアリディウス・チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタックハウエル(en)と共に降伏した[14]

日本側によって描かれたバタヴィアにおける日本軍突入の概要

日本の占領は当初、大日本帝国軍旗を振って「日本は私たちの兄」「万歳大日本」などの支持を叫ぶインドネシア人から楽観的な熱意で歓迎された。日本軍が進駐するにつれて、反体制的なインドネシア人が事実上全ての群島地域でヨーロッパ人グループ(特にオランダ人)を殺害するようになり、より大きなグループの居場所については日本軍に確実に知らせていた[19]。 著名なインドネシア人作家のプラムディヤ・アナンタ・トゥールは次のように述べている。「日本軍の到着と共にほぼ全員が希望に満ち溢れていた、例外はオランダ人のために働いていた者だけだった」[20]

占領[編集]

占領期に現地インド人のベインハームラ・ルイ・フェキトール(en)に発行された日本の身分証明書

植民地軍は収容所送りにされ、インドネシア側の兵士は解放された[要出典]。 日本軍による植民地運営でオランダ人管理者がそのまま維持されることを期待して、大半のオランダ人は去るのを拒んでいた。ところが彼らは強制収容所に送られ、日本人またはインドネシア人の交代要員が上官および技術的地位として動員された[21]。日本軍は港湾や郵便などのインフラおよびサービスを政府の統制とした[18]。10万人のヨーロッパ民間人(と若干の中国人)が拘禁されたうえ、8万人のオランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカの同盟軍兵士が捕虜収容所に行き、そこでの死亡率は13-30%だった[14]

(以前オランダ植民地政府に勤務していた現地公務員や政治家で構成された)インドネシア人の支配階級は日本の軍当局と協力し、日本側はそのまま現地の政治エリートたちに権力を維持させて、新たに到着した日本の産業工場や企業および軍隊に彼らを雇用した(蘭印における補助的な軍隊や警察の上級職は日本軍によって運営されている)。インドネシア人の協力により、日本の軍事政権は大規模な群島の水路および空路を確保することができ、その島を連合軍の攻撃(オーストラリアから襲来する可能性が最も高いと考えられる)に対する防衛拠点として使用することができた[22]。日本の植民地支配者はインドネシアを3つの地域に分けた。スマトラ島は第25軍の配下に置かれ、ジャワ島とマドゥラ島第16軍の配下に、ボルネオ島とインドネシア東部は第二艦隊 (日本海軍)によって統治された。第16軍と第25軍はシンガポールに本部を構え[2]、統治命令がスマトラ島のみに縮小されて本部がブキティンギに移る1943年4月まで英領マレーを統治した。第16軍はジャカルタに本部を置き、第二南方艦隊はマカッサルに本部を置いた。

ジャカルタの収容所、1945年頃

居住地域や社会的地位によって占領の体験には大きな差があった。戦争の遂行に重要だと考えられる地域に住んでいた多くの人々は拷問従軍慰安婦、恣意的な逮捕および処刑、などの戦争犯罪を経験した。泰緬鉄道やサケティ-バヤ鉄道(en)などでインドネシアから何千人もの人々が日本軍の計画による強制労働者(ロームシャ)として連れ去られ、虐待や飢餓によって苦しんだり死亡することもあった。ジャワでは400万-1000万人のロームシャが日本軍によって労働を強制された[23]。約27万人のジャワ人労働者が他の東南アジアの日本領地に派遣され、ジャワに帰国できたのが5万2千人だけのため、その死亡率は80%とされている[要説明]

何万人ものインドネシア人が、飢餓状態あるいは奴隷労働者として働いているか、住む家を追われていた。それに続く独立戦争では、独立が達成される前に数万いや数十万の人々[注釈 3]が日本軍、連合軍、および対立するインドネシア人との戦いで死亡することになった[24][25]。後の国連報告は、日本による占領中の飢饉と強制労働の結果、インドネシアでは400万人(3万人の抑留されたヨーロッパ民間人も含む)が死亡したと主張した[26]。オランダ政府の調査は、日本軍がどのようにインドネシアで女性を慰安婦として強制雇用したかを説明した[27]。そこでは日本軍の売春宿で働いているヨーロッパ人女性200人から300人のうち「およそ65人はほぼ確実に売春を強要された」と結論付けていた[28]。 他の若い女性(およびその家族)は、収容所や戦時中の社会で様々な圧力に直面しており、仕事として売春提供したことは認めたが、その性質(強制的だったか否か)が明示的に述べられていないものも多い[29][30][31][32][33][34][35][36]

オランダ領インド・ルピア紙幣。日本占領時の通貨

事実上、ジャワの全鉄道路線、鉄道車両、および産業施設は接収され、日本や満州に送られた。占領時期のイギリスの諜報機関報告は、戦争の取り組みで使用される可能性がある材料全ての重要な輸送に注目していた。

学生(Pemuda)を地下活動に導いたスタン・シャフリルに次ぐ、唯一の著名な反対派政治家は左派のアミル・シャリフディン英語版で、彼はマルクス主義者や民族主義者との関係を通して地下のレジスタンス運動を組織するため1942年初頭に25,000ギルダーをオランダ人より与えられた。1943年に日本軍がアミルを逮捕するもインドネシアで人気があったことから、戦争遂行にとっての重要性が日本側に認識されていたスカルノの介入もあって処刑をかろうじて免れた。スラバヤに拠点を置くアミルのグループ以外で、連合側に味方する最も積極的な活動集団は、中国人、アンボン島民、マナド市民だった[37]

南カリマンタンでは、ポンティアナック事件が起きる前、インドネシア人民族主義者とオランダ人による日本軍への反乱計画が発覚した[38]。一部の資料によると、これは1943年9月に南カリマンタンのアムンタイ(id)で起こり、イスラム国家の創設や日本人の追放が含まれていたが、同計画は(日本軍によって)潰された[39][40]

1943年に、日本人は王族の一員であるスルターンのTengku Rachmadu'llahを処刑した[41]。1943-44年のポンティアナック事件(マンドール事件としても知られる)にて、日本軍はカリマンタンでマレーのスルターン全員を含むマレー人エリートおよびアラブ人、中国人、インドネシア人、オランダ人、インド人、ユーラシア人の大量逮捕を行った。彼らは日本の統治を倒そうと企てたことで告発され、その後全員処刑された[42][43]。イスラーム教のペムダ・ムハマディヤ(Pemuda Muhammadijah)などの民族集団や組織のすべてが日本軍を転覆させて「西ボルネオ人民共和国(Negara Rakyat Borneo Barat)」を創設する計画に関与していた、と日本軍はうそぶいて主張した[44]。日本軍は 「互いに敵対していたスルターン、中国人、インドネシア政府関係者、インド人、アラブ人が、日本軍を皆殺しにするため一丸となった」と主張し、計画された反乱の「首謀者」の一人としてポンティアナックのスルターンを名指しした[45]。最大25人の貴族、ポンティアナックのスルターンの親族、ほか多くの著名人が計画の参加者として日本側に名指しされ、その後マンドール(Mandor)にて処刑された[46][47]。ポンティアナックのほかにも、サンバス、ケタパン、メンパワなど各地のサルターン全員が日本軍によってそれぞれ処刑された[48]。この事案は「12Dokoh(ジャワ語で12の垂れ飾り)」として知られている[49]

ジャワ島で、日本軍はシャリフ・モハマド・アルカドリというスルターンの息子であるシャリフ・アブドゥル・ハミド・アルカドリ(en)を投獄した[50]。処刑時期にジャワにいたため、このハミド2世は彼の家族の中で殺されなかった唯一の男性となったが、一方で日本軍はポンティアナックのスルターンであるムハンマド・アルカドリの男性親族28人全員を処刑した[51]。日本人によって処刑されたポンティアナックのスルターンの親族29人の中には、ポンティアナックの王位継承者がいた[52]。1944年後半に、同事件に関与しておりその残虐行為で知られていた、ナカタニという名前の日本人男性をダヤク族が暗殺した。ポンティアナック・ムハンマド・アルカドリの4番目の息子、ペンゲラン・アゴーンともう一人の息子ペンゲラン・アディパティが、この事件で両方とも日本人に殺害された[53]。日本側は公開処刑にて、この両名を斬首した[54][55]。日本人によるポンティアナックのマレー人エリートの殲滅は、代わりに新たなダヤク族エリート出現の道を作った[56]。メアリー・F・ソマーズ・ヘイドゥーズによると、1945年5月から6月にかけて、サンガウ(en)にいた何人かの日本人がダヤク族による反乱で殺害された[57]。ジェイミー・S・デヴィッドソンによると、多くのダヤク族および日本人が殺害されたこの反乱は1945年4月から8月にかけて起こり、「マジャン村(Majang Desa)戦争」と呼ばれた[58]。ポンティアナック事件は、学者によって2つの事件に分けられ、異なる日にいくつかの段階で発生した集団殺害や逮捕に従って様々に分類されている。このポンティアナック事件はカリマンタンにいる中国人コミュニティに悪い影響を与えた[59][60][61][62][63]

アチェ州ウラマー(イスラム法学者)は、1942年2月にオランダ側と対立して反乱を、そして1942年11月には日本側と対立して反乱を起こし、オランダ軍と日本軍の両方と戦った。この反乱は全アチェ宗教学者協会(PUSA)により主導された。この暴動で日本人は18名が死亡したが、一方で彼らはアチェ人を最大100人または120人超にわたり大量殺害した[39][64]。この反乱はバユで発生し、Tjot Plieng村の宗教学校を中心に起こった[65][66][67][68]。同反乱中の11月10日と13日に、迫撃砲と機関銃で武装した日本軍はBuloh Gampong TeungahおよびTjot Plieng村にて、トンクゥ・アブドゥル・ジャリルの下で刀を振るうアチェ人に襲撃された[69][70][71][72][73][74][75]。1945年5月、アチェ人は再び反乱を起こした[76]

インドネシアの民族主義[編集]

大日本帝国軍による訓練を受けているインドネシアの若者

戦争の数十年前、オランダ人がインドネシアで小さな民族主義運動を圧倒的に鎮圧するのに成功したが、日本人は来たるべきインドネシア独立に向けた基礎を示して見せた。占領期に、日本人はインドネシアの民族主義的感情を奨励および支援して新たにインドネシア人の機関を創設し、スカルノのような民族主義の指導者らを後押しした。インドネシアの民族主義に備わった開放性は、日本人によるオランダ植民領の大部分の破壊と組み合わさって、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争の根幹となった[24]

とはいえ、占領から2か月以内は国家名称としてインドネシアという単語の政治的使用を日本側は禁じており、また彼らは民族主義的な(赤と白の)インドネシアの旗の使用を許可しなかった。実際、「国の政治組織や政府に関するいかなる議論、組織、思索、宣伝」が(メディアにおいても)厳禁とされた。彼らはオランダ領東インドを3地域に分け、それを「南方領土」[注釈 4]と呼んだ。1943年に東京がフィリピン独立に向けた準備をしている間、彼らは同時進行でインドネシアの島々をより大きい大日本帝国に併合することを決定した。太平洋戦争が転機を迎える1944年末まで、日本側はインドネシアの独立を真剣に支持していなかった[77]

日本の政権は、ジャワ島のことを政治的には最も洗練されているが経済的には最も重要度の低い地域だと認識しており、そこの人材が日本の主な資源となった。このように、またオランダの抑圧とは対照的に、日本はジャワ島にてインドネシアの民族主義を奨励したことで現地の政治的洗練度を高めた(戦略的資源が豊富なスマトラにおける同様の民族主義奨励は後回しとなっており、ただそれが明らかになったのは日本が戦争で負けた後だった)。ただし、海軍の支配下にある外側の島々は、政治的には発展途上ではありながら日本の戦争遂行にとっては経済的に重要視されており、これら地域はインドネシア全域の中で最も圧制的に統治されていた。これらの経験とそれに続く民族主義の政治問題化の違いは、独立した直後(1945-1950年)に起きたインドネシア独立戦争の過程に大きな影響を与えることになる。

大日本帝国とインドネシア民族主義運動の間を取り持つスカルノの同盟関係を検証した1966年のABC レポート

西側連合軍と対立する戦争遂行で、支持を得ながらインドネシアの人々を動員するため、日本の占領軍はインドネシアの民族主義運動を奨励してインドネシア人の国家主義的指導者を採用した。1943年4月16日にスカルノハッタキ・ハジャル・デワンタラたちが動員センター の人々の支持を集めるために呼ばれ、1944年3月1日に Jawa Hokokai と入れ替わった。これら動員集団の中には、ロームシャとして強制労働に送られた人もいた。

日本軍はまた、インドネシアの若者に郷土防衛義勇軍(Pembela Tanah Air:PETA)と呼ばれるボランティア軍を結成したり、軍事訓練および武器の提供を実施していた。インドネシアの若者に施した日本の軍事訓練はもともと大日本帝国の権力崩壊に対応した現地での支援集めを目的としていたが、後のインドネシア独立戦争ではインドネシア共和国にとって重要な資源となり、また1945年におけるインドネシア国軍の形成につながった。

1945年4月29日、ジャワ島における第16軍 (日本軍)の司令官である原田熊吉中将は、第16軍支配下にある地域の独立を確立させる初期段階として、独立準備調査会(Badan Penyelidik Usaha Persiapan Kemerdekaan:BPUPK)を設立した[78]

新たに発現されたインドネシアの民族主義に加えて、来るべき独立闘争と国内革命にとって等しく重要となったのが、日本側が組織した経済的、政治的、社会的解体とオランダ植民地国家の壊滅である[24]

占領の終結[編集]

降伏の条件を聞いている日本の司令官

マッカーサー最高司令官は1944-45年にジャワを解放すべく連合国軍と共に戦おうとしたが、統合参謀本部およびルーズベルト大統領からの命令が下りなかった。 そのため日本の占領はポツダム宣言受諾による降伏で正式に終結し、その2日後にスカルノがインドネシア独立を宣言した。しかしインドネシア軍はその後4年間、独立に向けて今度はオランダと戦うことになる。

アメリカ側がジャワでの戦争を抑制したことで、確かに日本人、ジャワ人、オランダ人、アメリカ人の多くの命が救われた。ただし、マッカーサーが自分のやり方を採用してアメリカ軍がジャワを占領した場合、インドネシアの独立はより迅速かつ円滑に達成されただろうとする説もある[79]。後年の国連報告書は、日本による占領の結果としてインドネシアでは400万人が死亡したと記している[80]。1944-45年にかけて、ジャワでは約240万人が食料不足で死亡したとされる[81]

西側の囚人を収容している捕虜収容所の解放は迅速ではなかった。戦後における収容中の状況はそれ以前の収容下よりも良好だった。というのも今回は赤十字社の補給品が利用可能になったためで、また連合国軍が日本側を最も凶悪で残忍な占領者の本拠地としたこともある。戦後4ヶ月の拘留を経て、西側の被収容者はインドネシアを去ることを条件に解放された[要出典]

この送還プロセスは大部分の個人にとって約1年、しばしば2年以上かかったものの、ほとんどの日本軍兵士および植民地管理の文民が戦後日本に送還された。数千人以上の肉体労働や治安維持活動といった戦争犯罪に関する選別および約1038人の個人に対する戦争犯罪裁判を経て、彼らは残りの日本の船で日本に送還された。約1000人の日本人兵士が自分達の部隊(当時は連合軍の指揮下)から脱走し、彼らは自分自身を現地のコミュニティに同化させた。これら兵士の多くはTNIや他のインドネシア軍事組織に加わり、アブドゥル・ラクマン(市来龍夫)を含むこうした元日本兵の多くはインドネシア独立戦争で死んだ[82][83][84] [85]

裁判での日本人兵士たち

武力衝突の最終段階は1945年10月、日本がインドネシア側に譲渡した町や都市の支配権を、連合軍との降伏条件に基づいて取り戻そうとした時に始まった。日本の憲兵隊は10月3日にペカロンガンで共和党の若手議員(Pemuda)を殺害し、また日本軍の部隊は西ジャワ州バンドンから共和党の若手議員を追放してイギリスに都市を引き渡したが、日本人が関与した最も激しい戦闘はスマランで起きた。10月14日、イギリス軍がこの都市を占領し始めた。退却した共和党軍は報復として、捕らえていた130人から300人の日本人捕虜を殺害した。日本人500人とインドネシア人2000人が殺害され、日本はイギリス軍が到着して6日後にこの都市をほぼ占領した[86]

私はもちろん、我々の連絡線や重要地域を防護するために日本軍を武装させておく必要があることは理解していました(中略)...とはいえ、空港から町まで9マイルにわたり、道路を警備している1,000人以上の日本軍の部隊に出くわしたことは私にとって大きな衝撃でした[87]

マウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵 が1946年4月のスマトラ訪問後に言及した、降伏日本軍人(JSP)[注釈 5]の利用。

1949年までに、オランダ当局は1038人の容疑者(蘭印占領に関与した拘束日本兵)に対して448件の戦争犯罪裁判を行った。そのうち969人(93.4%)が有罪となり、うち236人(24.4%)が死刑判決を受けた[88]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本軍は1942年にジャワを占領後、「アジアの光日本、アジアの母体日本、アジアの指導者日本」という三つのスローガンを掲げた三A運動を展開した[4]
  2. ^ 1940年の欧州ではドイツ進軍の影響から、オランダ政府が女王と一緒にロンドンに亡命しており[11]、これがオランダ亡命政府 (Dutch government-in-exile)と呼ばれる。
  3. ^ 独立戦争におけるインドネシア側の推定死亡者数は4万5千から10万人、そのほか民間人の死亡者数が2万5千人超で最大10万人にのぼる可能性があるとされる。詳細は英語版en:Indonesian National Revolution#Impactsを参照。
  4. ^ これは蘭印だけを指す用語ではなく、マレー、グアム、パラオなど、大日本帝国軍が太平洋南側に進駐した占領地一帯のことを「南方領土」と呼んでいた。具体的な領土拡大(戦線)の経緯は南方作戦を参照。
  5. ^ 敗戦後の日本兵の扱いは、戦争中に拘束された「捕虜(Prisoners of War:PoW)」、戦争後に拘束された「降伏日本軍人(Japanese Surrendered Personnel:JSP)」、そして「戦争犯罪容疑者(war criminal)」に分類される。

出典[編集]

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参考文献[編集]

外部リンク[編集]