蒙古聯合自治政府
- 蒙古聯合自治政府
(1939年-1945年)
蒙古自治邦政府
(1941年-1945年) - 蒙古聯合自治政府
(1939年-1945年)
蒙古自治邦政府
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1939年 - 1945年
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(国旗) 
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公用語 中国語(北京官話)、モンゴル語、日本語 首都 張家口市 時間帯 UTC +9
蒙古聯合自治政府(もうこれんごうじちせいふ)は、1939年に内蒙古(南モンゴル)に樹立された自治政府。首府は張家口。1941年以降は蒙古自治邦政府(もうこじちほうせいふ)と称した。
歴史[編集]
蒙疆地区には1937年、蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府が設立されたが、利害関係を調整して活動の円滑化を図るため、1937年11月22日、3自治政府によって蒙疆聯合委員会が設立された。
しかし、この委員会が十分に機能しなかったため、政府そのものを統合、一体化しようという機運が高まり、1939年9月1日、駐蒙日本軍の主導のもとで、3自治政府が統合して蒙古聯合自治政府が樹立され、初代の主席にはデムチュクドンロブ(徳穆楚克棟魯普、徳王)が就任した。首都は張家口に置かれ、名目としては中華民国臨時政府・汪兆銘政権といった傀儡政権下の自治政府という位置づけだった。この統合により総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル族は15万4203人となった。
日本は、特定地点に防共目的で日本軍を駐屯し、内モンゴルを特殊防共地域とする方針を発表していた(1938年12月「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明))[1]。主席のデムチュクドンロブ(徳王)は就任宣言において「防共協和および厚生に最善の努力を行使」と謳った[2]。その後、1940年11月30日に、日本は中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)と日華基本条約を結び、南京国民政府は共同防共を実行するための蒙疆への日本軍の駐屯を認めた。
蒙疆連絡部[編集]
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| 蒙古聯合自治政府が発行した紙幣(左)と硬貨(右) | |
1938年11月28日、第1次近衛内閣は、対中国中央機関としての興亜院の設置を閣議決定した。翌年3月10日、張家口に興亜院蒙疆連絡部が設置された。同年6月20日、後に第68代・69代総理大臣となった若き大蔵官僚の大平正芳が、蒙疆連絡部経済課主任(同年10月、経済課長)として着任し、1940年10月まで日本の大陸経営の一端を担ってきた。大平の重要な職務のひとつは、興亜院が主導する阿片政策の遂行であった。結局、蒙疆地区は、アジアの阿片供給源として位置づけられた。
首脳人事[編集]
- 主席
| 代 | 氏名 | 在任期間 |
|---|---|---|
| 1 | 徳王 | 1939年9月1日 - |
- 最高顧問
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 主な前職 | 主な後職 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 金井章次 | 1939年9月1日 - 1941年11月27日 | 満州青年連盟理事長代理、 浜江省総務庁長、 間島省長、 蒙疆聯合委員会最高顧問 |
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| 2 | 大橋忠一 | 1941年11月27日 - 1942年9月3日 | 満州国参議府参議、 日本国外務次官 |
日本国衆議院議員、 駐カンボジア大使 |
| 3 | 神吉正一 | 1945年2月26日 - | 満州国国務院総務庁次長、 蒙古聯合自治政府総務庁長 |
弁護士 |
経済[編集]
軍事[編集]
内蒙軍は、1929年に組織された900人の徳王の親衛隊を発端とする。しかし、これらの武装は貧弱で、張学良から与えられた銃や山砲しか装備していなかった。その後日本軍の支援を受けて軍事組織としての体裁を整えていく。
綏遠事件の際には内蒙軍は10000人が9個師団(うち8個が騎兵師団)として拡充編制されており、李守信に指揮された満州国興安軍が熱河省から越境すると察哈爾省や綏遠省の匪賊や脱走兵が参加した。これらは王英の指揮の下4個旅団に編制され、大漢義勇軍と称した。
綏遠事件の敗北の後、内蒙軍は総兵力が20000人ほどの8個の小規模な師団に再編制され、日中戦争の開戦初頭には、綏遠省の攻撃(チャハル作戦)に参加した。その後これらの兵力は太原作戦にも参加した。
1939年には軍内部の漢人をまとめた3個旅団からなる「蒙古鎮圧部隊」が作られ、匪賊掃討などの後方任務に当てられた。1943年、旧第4・第5蒙古師団が新第8蒙古師団に、旧第7・第8蒙古師団が新第9蒙古師団に再編制された。軍の総兵力は4000から10000人程度であり、全て騎兵であった。これを支援する小規模の重装備部隊が日本人によって運用されていた。つまり、この頃の内蒙古政府は合計5個師団を保有していたが、ほぼ民兵や治安維持部隊であり、3個連隊編制は名目上のものであった。各師団の1個連隊のみが任務に従事できる状態であったと考えられている。
1944年には日本軍はこれを察哈爾守備隊として4個師団8000人体制に再編制した。終戦時には、内蒙古政府は2個歩兵師団と4個騎兵師団、3個中国人独立旅団と1個警備連隊を保有していた。
駐蒙軍[編集]
- 第26師団
- 独立混成第2旅団
- 第4独立警備隊
行政区画[編集]
参考文献[編集]
倪志敏「大平正芳と阿片問題」『龍谷大学経済学論集』第49巻第1号、2009年9月。
出典[編集]
- ^ 近衛首相演述集 近衛文麿、厚地盛茂 1939年
- ^ 朝日東亞年報 昭和十三→十六年版 朝日新聞社中央調査会 1941年
