陳嘉庚

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陳嘉庚
Chenjiageng.JPG
廈門大学にある銅像
プロフィール
出生: 1874年10月21日
同治13年9月12日)
死去: 1961年8月12日
Flag of the People's Republic of China.svg 中華人民共和国北京市
出身地: 清の旗 福建省泉州府同安県
職業: 実業家
各種表記
繁体字 陳嘉庚
簡体字 陈嘉庚
拼音 Chén Jiāgēng:北京語
Tân Kah-kiⁿ:福建語
和名表記: ちん かこう
発音転記: タン カーキー
英語名 Tan Kah Kee
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陳 嘉庚(タン カーキー)は、中国英領マラヤの実業家・政治家。胡文虎と並び称される南洋華僑の巨頭。南洋華僑籌賑祖国難民総会(南僑総会)を組織して重慶の国民政府中国共産党を支援し、排日運動を率いた政治活動家、郷国である中国及び華僑の教育に労した教育・慈善活動家としても知られる。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

福建省同安県(現:廈門市)出身[1]

実業[編集]

1891年、17歳でシンガポールに渡り、父親の米問屋を手伝う[1]

1907年、イギリス支配下あったマレー半島の山地500エーカーを購入、パイナップルを植樹した[2]。このとき試験的にゴムの苗を購入し、畑に植えたことがゴム業参入の契機となる[2]

1909年、陳が経営する「陳嘉庚有限公司」は、パイナップル園をイギリス人に売却し、数千エーカーの土地を購入、本格的にゴム栽培に参入する[3]

1916年にはパイナップル工場の一角と精米所をゴム製造工場に改築し、1921年に新規にゴム製造工場を設立。タイヤ、レインコート、ゴム靴を製造、販路は南洋から中国本国、遠くはカナダにまで及んだ[要出典]

1921年から1926年にかけて、陳が経営するゴム園は1万6千エーカーに達し、社員6,000人、支店数は80店舗の企業に成長した[要出典]

マレー半島における華僑ゴム業の最盛期であった1909年から1926年頃まで、陳が最大の栽培業者であるとともに最大のゴム製造業者であった。陳はゴム王と呼ばれた[要出典]

1929年、世界恐慌の中で、ゴム価格が下落、ゴムは生産過剰に陥り、陳も販路を喪失した。パイナップル工場も不況に陥った[要出典]

1933年2月、「国際ゴム調整委員会」の成立を待たずして陳嘉庚有限公司は破産した[4]

政治活動[編集]

1923年9月、「南洋商報中国語版」を創刊。発行部数は1万8千部、特に排日色が濃いとされる新聞だった[5]

若くして孫文中国革命同盟会に参加[1]

1937年に日中戦争が始まると、翌1938年10日に東南アジアの華僑代表が集まって結成された南洋華僑籌賑祖国難民総会(南僑総会)の主席に選ばれ、救国公債の募集、難民救済のスローガンの下、中華総商会や各地の郷党会などを動員して資金・物資を集め、援助資金・物資として中国の国民政府に送るとともに、英領マラヤ日貨排斥などの排日運動を展開し、抗日救援活動を続けた[6][1][7]

排日運動に乗じて、共産党支持者によるストライキが各産業の工場に広がったため、英植民地当局が運動の取締を強化し、陳らは国外退去命令を受けた[8]

汪精衛の日中和平工作に反対[1]

1940年3月[9]、戦線慰問として重慶を訪問するが、蒋介石政府の腐敗や共産党との内部対立を目の当たりにして失望[1][10]。同年12月に帰南するが、以後は運動をややトーンダウンさせたとされる[11]

1941年12月、太平洋戦争が始まると、英当局からの協力要請を受けて中華総商会を中心に同月30日に発足した星洲華僑抗敵動員総会の主席に就任[12]

1942年2月、シンガポール陥落前にシンガポールを脱出し、占領期間中はスラバヤに逃れていたが、戦時中の日本では「南洋華僑社会の大親分、黒幕」とみなされ、シンガポール華僑粛清事件では、「陳嘉庚の支持者」は処刑対象者とされ[13]、「陳嘉庚を知っているか」との質問に「知っている」と答えて処刑された人がいた[14][1]

[いつ?]中国共産党の根拠地・延安を訪問[1]

戦後、シンガポールに戻ると、陳は中国共産党を強く支持し、『南僑日報』を創刊して左派運動の宣伝を始めた[15]

1949年に中華人民共和国が成立すると、陳は中国に戻り、廈門に住んで集美大学の運営に携わり[15]全国人民代表大会委員となって北京で没するまで華僑対策に尽力、「愛国老人」と呼ばれた[1]

教育・慈善活動[編集]

陳は教育にも熱心で、南洋華僑中学英語版廈門大学など多くの学校を創設した。

  • 1912年、故郷である福建省廈門集美学校という小学校を設立、後に中等部、専門部、高等部を併設。
  • 1917年、林義順と共にシンガポールに南洋華僑中学を開校。
  • 1923年、廈門市の省政府から公用地を譲受け、私財を投じて廈門大学を創設。

人物・評価[編集]

リー (1987, pp. 10-11)は、陳はマラヤで華僑の抗日闘争を指揮した古参の指導者だったが、中国への帰属意識が強く、マラヤの独立運動に関与し、それによってマラヤに住む華人の権利を守ろうとする意識は希薄だった、と評している。

親族[編集]

  • 娘婿の李光前英語版(Lee Kong Chian)は、ゴム事業を継ぎ、中国の対華僑工作に協力した[1]
  • 弟の李玉栄(Lee Geok Yong、1896-1965)は、『南洋商報』社長で、日本占領時代に逮捕されたが、拷問に屈せず協力を拒否し、戦後同紙を復刊した[1]
  • 李玉栄の長男・李有成(Lee Eu Seng)と弟の李茂成(Lee Mau Seng)は『南洋商報』を主宰していたが、1971年に李茂成、1973年に李有成が「中華中心路線をとり、共産主義を宣伝した」容疑で逮捕され、李茂成は1973年にカナダに移住した[1]
  • 南洋大学英語版設立に貢献した陳六使英語版(Tan Lark Sye)は、陳の族弟で親北京派の人。
  • 甥の陳共存(Tan Keong Choon)は中華総商会会頭を務めた。

著書[編集]

『南僑回憶録』1945年[1]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 荒井 1978, p. 361.
  2. ^ a b 根岸 1942, p. 233.
  3. ^ 根岸 (1942, p. 233)。イギリス領マラヤでは、1876年に初めてゴム苗がマラヤに到着して以降、イギリス政府主導のもと移民などによるプランテーションが活況を呈し始めており、林文慶、林義順、曽公水、陳楚楠らが各地にゴム園を創業した(同)。
  4. ^ 根岸 1942, p. 235.
  5. ^ 根岸 1942, p. 238.
  6. ^ 林 2007, pp. 34-35.
  7. ^ 熱帯文化協会 1941, pp. 13-15.
  8. ^ 熱帯文化協会 1941, p. 15.
  9. ^ 熱帯文化協会 (1941, p. 17)では「5月」
  10. ^ 熱帯文化協会 1941, pp. 17-18.
  11. ^ (熱帯文化協会 1941, pp. 17-18)。同書では、陳が本来の事業の上に新聞を経営し、また中華総商会など公共団体の運営に携わっている上、圧政的な暴威を振るっているため、相当反感を抱いている者も居るのではないか、と指摘し、胡文虎の方が人望があり、日本との関係も深い、と評価している。
  12. ^ 林 2007, pp. 35-36.
  13. ^ 林 2007, p. 101.
  14. ^ 林 2007, pp. 84-85.
  15. ^ a b リー 1987, p. 10.

参考文献[編集]

  • 林, 博史 『シンガポール華僑粛清』 高文研、2007年ISBN 978-4-87498-386-7
  • リー, クーンチョイ 『南洋華人‐国を求めて』 花野敏彦訳、サイマル出版会、1987年ISBN 4377307339
  • 荒井, 茂夫「陳嘉康と胡文虎―南洋華僑の両巨頭」、『「南十字星」10周年記念復刻版—シンガポール日本人社会の歩み』、シンガポール日本人会、1978年3月、 361頁。
  • 根岸, 佶 (1942). 華僑襍記. 朝日新選書. 3. 朝日新聞社. NDLJP:1276423Closed Access logo alternative.svg. 
  • 熱帯文化協会 (1941). 最近のシンガポール事情 : 附・南洋華僑に就きて. 熱帯文化協会. NDLJP:1096857オープンアクセス.