リー・クアンユー
| リー・クアンユー Lee Kuan Yew 李 光耀 | |
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1975年 | |
| 生年月日 | 1923年9月16日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 2015年3月23日(91歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 |
ケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジ ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス |
| 前職 | 弁護士 |
| 所属政党 | 人民行動党 |
| 称号 |
旭日大綬章(1967年) 桐花大綬章(2015年) |
| 配偶者 | クワ・ゲオ・チュー(1950年 - 2010年) |
| 親族 |
リー・シェンロン リー・ウェイリン リー・シェンヤン |
| 在任期間 | 2004年8月12日 - 2011年5月21日 |
| 首相 | リー・シェンロン |
| 在任期間 | 1990年11月28日 - 2004年8月12日 |
| 首相 | ゴー・チョクトン |
| 在任期間 | 1959年6月3日 - 1990年11月28日 |
| 大統領 |
ユソフ・ビン・イサーク ベンジャミン・ヘンリー・シアーズ チェンガラ・ヴェーティル・デヴァン・ナイール ウィー・キムウィー |
| 在任期間 | 1954年11月21日 - 1992年11月1日 |
| 後任者 | ゴー・チョクトン |
| 選挙区 |
タンジョン・パガーGRC タンジョン・パガーSMC(1955年 - 1991年) |
| 在任期間 | 1955年4月2日 - |
| 得票差 | 無投票当選 |
リー・クアンユー(英語: Lee Kuan Yew, 漢字表記、中国語: 李 光耀、日本語読み:り こうよう、 1923年9月16日(旧暦8月6日) - 2015年3月23日)は、シンガポールの政治家、同国初代首相。
概要
[編集]リー・クアンユーは、シンガポールの「建国の父」として広く知られている。1965年のマレーシアからの予期せぬ独立という困難な状況下で初代首相に就任し、水や天然資源すら持たない発展途上の小島であったシンガポールを、わずか一世代で世界最高水準の生活水準を誇る経済大国・世界的金融センターへと変貌させた。
その卓越した指導力と冷徹なまでの現実主義、そして深い地政学的洞察力から、20世紀から21世紀初頭における「世界最高の政治家の一人」として国際的に極めて高い評価を受けている。ヘンリー・キッシンジャー、マーガレット・サッチャー、鄧小平、バラク・オバマなど、イデオロギーや陣営を問わず各国の有力な指導者たちが彼の見識に深い敬意を払い、国際情勢についての助言を求めたことでも知られる。
国内においては、英語を公用語とする言語政策、厳格な法治主義と強力な汚職防止体制、能力主義(メリトクラシー)の徹底などを推進し、多民族国家の統合と経済成長を両立させた。人民行動党(PAP)による一党優位体制や言論統制といった強権的な手法(開発独裁)については一部で批判もあるが、彼が築き上げた無駄のない国家運営の手法は「シンガポール・モデル」と呼ばれ、多くの国々に多大な影響を与えた。
彼の卓越した公共政策とガバナンス(統治能力)の理念を次世代のアジアおよび世界の指導者たちへ継承するため、2004年にはシンガポール国立大学に「リー・クアンユー公共政策大学院(LKYSPP)」が設立された。個人崇拝を嫌った彼が生前に自身の名を冠することを許した数少ない機関の一つであり、現在も世界中から集まる官僚や政治家たちが、彼が遺した実践的な政策学を学んでいる。
生涯
[編集]自叙伝によると、客家系華人の4世にあたるという。曽祖父のリー・ボクウェン(李沐文)は、同治元年(1862年)に清の広東省からイギリスの海峡植民地であったシンガポールに移民した。本人は自分のことを「実用主義者」「マラヤ人」と称している。不可知論者[1]。
英語を話す家系に生まれたクアンユーは、幼くして英語教育を受けた。祖父のリー・フンロン(李雲龍)からは、クアンユー(光耀)の華名とともに、Harryという英語名も授けられ、家族や親しい友人からは、現在でも“Harry”と呼ばれ親しまれている。このような華人家族は当時のシンガポールでは一握りのエリートで「海峡華人」と呼ばれる。
彼は幼少期には中国語ができず、中国人の友人はほとんどいなかった。 彼が一緒に遊んでいたのはマレー人で、福建語が入り交じったマレー語で話していた。
妻のクワ・ゲオ・チューとは1950年9月30日に結婚し、2男1女をもうけた。「私より優れた頭脳を持つのは妻だけだ」と冗談交じりに発言している。
2人の息子はいずれも国内で高官の地位に就いた経験がある。陸軍准将であった長男のリー・シェンロンは、2004年より首相兼財務大臣の地位に就き(財務大臣は2007年に兼任を解く)、シンガポール政府投資公社の副議長も務めている(クアンユーが議長)。次男のリー・シェンヤンは、国内最大の通信企業であるシングテルのCEOを務めていた。現在は退任している。シンガポール航空やDBS銀行のような政府関連企業の持株会社であるテマセク・ホールディングスが、現在シングテルの株の56%を保有しており、そのテマセク・ホールディングスは、長男シェンロンの妻であるホー・チンが社長を務めていた。国立脳神経科学院を運営している長女ウェイリンは、独身を貫いている。妻のクワ・ゲオ・チューは、以前Lee & Lee法律事務所を夫と共同運営しており、クアンユーの弟であるデニス、フレディ、スアンユーの3人は、同事務所のパートナーだった。他にもモニカという妹がいる。
このような同族支配体制である現状に、クアンユー自身は縁戚者に対する持続的な特恵は存在せず、おのおのの能力に見合った地位に置いているのだと主張している。
評価と功績
[編集]リー・クアンユーへの評価は、彼が成し遂げた圧倒的な経済的成功への称賛と、その過程で用いられた強権的な統治手法への批判とが常に表裏一体となっている。しかし、資源のない小国を一代で先進国へと押し上げた手腕については、支持者・批判者を問わず、歴史上稀に見る「国家建設の天才」として一致した見解が得られている。
「建国の父」としての偉業
[編集]- 第三世界から第一世界へ: 1965年の独立当初、シンガポールは天然資源皆無、国防能力欠如、民族対立の火種を抱えた「生存不能」と目される島国であった。リーは「プラグマティズム(実利主義)」を徹底し、外資導入による工業化、英語の公用語化、厳格な法支配を断行した。その結果、わずか30年あまりで国民一人当たりのGDPを宗主国イギリスをも凌ぐレベルへ引き上げ、「シンガポール・ミラクルの建築家」と称される。
- クリーンな政府と能力主義: 腐敗が蔓延していたアジア諸国の中で、汚職を徹底的に排除する「クリーンな政府」を実現した。公務員の給与を民間企業のトップレベルに設定して優秀な人材を確保し、人種や出自に関わらず能力のみで評価される「メリトクラシー(能力主義)」を国家運営の根幹に据えた。
政治哲学:「シンガポール・モデル」とアジア的価値観
[編集]- 開発独裁の成功例: リーの統治スタイルは、経済発展と社会秩序を最優先し、そのために個人の自由や言論を一定程度制限するというものであった。これは「開発独裁」の最も成功したモデルとされ、中国の鄧小平による改革開放政策や、ルワンダのカガメ政権など、後の多くの権威主義的指導者に手本として参照された。
- アジア的価値観の提唱: 1990年代、彼は欧米流の自由民主主義が必ずしも普遍的な正解ではないと主張し、規律、家族、社会の調和を重視する「アジア的価値観 (Asian Values)」を提唱した。「西洋の個人主義は社会的退廃を招く」とし、秩序ある社会こそがアジアの繁栄に適しているという彼の主張は、世界的な論争(「文明の衝突」論争など)を巻き起こした。
国際的な「賢人 (Grand Master)」としての地位
[編集]- 地政学の戦略家: シンガポールという小国の指導者でありながら、その透徹した国際情勢分析は世界の大国指導者から求められた。リチャード・ニクソンからバラク・オバマに至る歴代米国大統領、中国の指導者たち、そして日本の歴代首相が、アジア情勢における彼の助言(「リー・クアンユー・ドクトリン」とも呼ばれる洞察)を求めた。
- 米中の架け橋: 冷戦期から冷戦後にかけて、アメリカと中国双方と太いパイプを持ち、両超大国の「通訳者」あるいは「仲介者」としての役割を果たした。ヘンリー・キッシンジャーは彼を「同時代で最も卓越した戦略的思想家の一人」と評し、マーガレット・サッチャーは「スエズ以東で最も偉大な英国人(のような政治家)」と称賛した。
批判と論争
[編集]- 権威主義と人権: その輝かしい実績の一方で、野党勢力や批判的なメディアに対しては容赦のない弾圧を行ったことでも知られる。名誉毀損訴訟を用いて政敵(J.B.ジャヤレトナムやチー・スーンジュアンなど)を政治的・経済的に破滅させたり、国内治安維持法(ISA)を用いて裁判なしでの拘束を行ったりした手法は、欧米の人権団体やリベラルな知識人から「恐怖による統治」「明るい北朝鮮」などと厳しく批判された。
- 優生学的思想: 1980年代には「大卒の母親が優秀な子供を産む」として、高学歴女性の出産を奨励する政策(大卒母親への優先的な学校選択権付与など)を導入し、国内外から「優生思想的である」「エリート主義の行き過ぎ」との猛反発を受けた。この政策の一部は後に撤回されたが、彼の遺伝や知能に対する決定論的な考え方は生涯変わらなかった。
リー・クアンユーは、マキャベリズムを地で行く冷徹なリアリストであり、国民に対しては慈父であると同時に厳格な教師でもあった。彼が作り上げた「管理された民主主義」に対する賛否はあれど、東南アジアの湿地帯に、世界最高水準の生活水準と安全性、そして強固な国家ブランドを持つ都市国家を現出させた事実は、20世紀における最も驚異的な政治的偉業の一つとして歴史に刻まれている。
青年時代
[編集]テロク・クラウ小学校、ラッフルズ学院を経て、ラッフルズ大学で学んでいたが、太平洋戦争中の1942年に日本軍によるシンガポール占領とイギリス植民地政府の崩壊に伴い大学が閉鎖され、学業を中断せざるを得なくなった。その間はタピオカを利用して作った“スティックファス”という接着剤を闇市で売って生計を立てていた。
また、リーによれば、シンガポール華僑粛清事件の際、自身も集合場所に集められ粛清に巻き込まれかけたが、禁区内の友人宅で1日半ほど待機していたところ、審査済とされ難を逃れたという。
さらに、日本語と中国語の学習を始め、翌1943年から1944年までの間、日本側と協働して、昭南特別市の報道部において、連合国の通信を盗聴した内容を翻訳する業務に従事した。
戦後の1945年にイギリスへ留学。ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジで法律学を専攻し(後に名誉校友となる)、1949年に首席で卒業した後は、短期間ではあったがロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも通い、同年に帰国した後は弁護士資格を取得し、“Laycock and Ong”という法律事務所に勤務した。
政治活動
[編集]初期
[編集]勤めていた法律事務所の上司ジョン・レイコックが親英政党・進歩党の候補者として立法審議会選挙に立候補した。この時に運動員を務めたことからの政治的経歴が始まる。しかし党が大衆、特に華人系の労働者階級の支持を得られず、リーは党に将来性がないことを直感した。1953年にレンデル新憲法が選挙権をシンガポールで生まれた全ての人々に付与することを決め、中国語話者の有権者が著しく増加した際に、この傾向は特に明確なものとなった。
労働組合や学生自治会の法律顧問として雇われていた際、華人系の住民と繋がりをもつようになり、労働組合の運動指導者にまでなり、これがリーにとって大きな転機となった(後にリーが創設する人民行動党は、この歴史的な絆を、ストライキの際の交渉手段として利用することとなる)。1950年には「イギリスを追い出し独立を達成できるのはマラヤ共産党だけである」と演説している。共産主義には疑問を感じていたが、マラヤ共産党の抗日・反英運動への貢献は認めている。
人民行動党の創設
[編集]1954年11月21日、“ビールを飲むブルジョアたち”と称した英語教育を受けた中産階級グループと共に人民行動党を創設した。党の創設は容共的な労働組合との政略的な連携を通じたものだった。これは英語教育を受けた層は容共派からの多くの支持が必要だった一方で、マラヤ共産党が違法とされており、共産主義者たちがカモフラージュするための非共産主義政党を欲していたことに起因する。この連携をリーは“政略結婚”と称した。両派の共通の目的は、自治に賛成する世論を喚起し、イギリスによる植民地支配に終止符を打つことだった。
結党式は、ビクトリア記念ホールで開催され、会場は1500人にも及ぶ支持者と労働組合員たちで埋め尽くされた。リーは党書記長 (Secretary-General) となり、後述する1957年の一時期を除いて、1992年までこの地位を保持する。結党式には、マレー人及びムスリムが支持層の統一マレー国民組織 (UMNO) のトゥンク・アブドゥル・ラーマンや、華人系の住民を代表するマレーシア華人協会のタン・チェンロクが、新党に信頼を与えるためのゲストとして招請された。
当時のムスリムと共産主義者との蜜月は、リーが回顧録で後に制定するシンガポールの国旗の三日月は国内のイスラム教徒に配慮し、五つの星は国内の共産主義者に配慮して中華人民共和国の五星紅旗をモデルにしたと語っていることにもあらわれている[2]。
野党時代
[編集]1955年の初当選以降は、野党指導者としてデービッド・マーシャル率いる与党の労働戦線による連立政権に対抗し、ロンドンでマーシャルと彼の後継者であるリム・ユーホクによって二度にわたって開催されたシンガポールの未来に関する会議にも人民行動党代表として参加した。
一方で、リーの容共的な側近たちは、しばしば過激な行動に出る集会に参加したことから、リーは彼らから距離を置くようになったが、その一方で事あるごとに政権与党を無能であると批判し続け、この頃からリーは党内外の政敵たちと戦わざるを得ないようになった。
1957年に容共派が偽の党員たちを利用して党権を掌握すると、リーは一時的に書記長の地位を追われるが、リム・ユーホクが共産主義者たちの一斉検挙を命じたため、リーは書記長に復帰した。
リーが次の選挙に備える間、党内の共産主義による脅威は一時的に取り除かれたが、これと同時期に、リーは共産主義陣営のリーダーであるフォン・チョンピクと初めて密会の席を設けた。
自治政府時代
[編集]1959年6月1日の総選挙で、人民行動党は51議席中43議席を獲得した。シンガポールは、国防と外交を除いた国内問題に関する自治権を得るようになり、6月3日にリーは首席長官だったリム・ユーホクに代わって、シンガポールの初代首相に就任した。首相に就任する前には、リム・ユーホク政権下で逮捕されたリム・リンシオンとデヴァン・ナイルの釈放を要求して、実現させている。
リーは教育や住居、失業などさまざまな問題の解決に取り組み、住宅問題に関しては「住居及び開発委員会 (Housing and Development Board, HDB)」を設立した。
マラヤ連邦の首相であるラーマンが、1961年にマラヤ連邦とシンガポール、サバ州、サラワク州を含む連邦の形成を提案した後、リーはマラヤ連邦との合併を実現するべく、イギリスの植民地支配を終えるための運動を開始した。そのために、1962年9月1日に実施された国民投票の結果を利用し、そこでは、投票者の70%がリーの提案を支持したという結果が出されており、住民の大多数がイギリスからの完全独立を望んでいるということを如実に表していた。
リーはこれらの運動の間に、合併に対して強硬に反対し一説では破壊活動にも関与していたとされる容共派のグループを壊滅に追い込んだ。
マレーシア時代
[編集]1963年9月16日、シンガポールは晴れてマレーシアの一部となったが、連邦は短命に終わる。UMNOによって支配されているマレーシア政府は、シンガポールの住民の大多数を占める華人系住民の包含と、マレーシアにおける人民行動党の政治参加に懸念を抱くようになった。リーは公然とブミプトラ政策の「マレー人などの土着民を優遇するマレーシア」に反対し、人民行動党のスローガンとして「マレーシア人のためのマレーシア」を主張した(当時シンガポール島の華人系住民もマレー人も含めて「マレーシア人」であり、マレー人のみへの優遇政策を批判した)。このことから双方の関係は悪化してしまい、UMNOの中にはリーの逮捕を主張する者もいた。
人種間の対立は激しさを増し、預言者ムハンマドの誕生日である1964年7月21日には、マレー人と華人系住民が激突し、23人が死亡、100人以上が負傷するといった事態も発生した[注釈 1]。同年9月にはさらに大規模な暴動が発生し、事態の収拾を図るため、双方のリーダーであるリーとラーマンが、そろって公の場に姿を見せることを強いられた。食糧を含む物資の輸送に著しい困難を来すようになり、物価が劇的に上昇し、国民の生活にさらなる困難を招いた。
事態の解決は絶望的な状況になり、首相であるラーマンは「中央政府への忠誠を示さなかった州政府とは、全ての関係を断ち切る」といった方針から、シンガポールをマレーシアから追放することを決定した。リーは連邦に留まろうと頑ななまでに打開策を考え続けたものの、失敗に終わった。1965年8月7日、リーはマレーシアからの分離に合意する文章に署名した。
このことは、マレーシアとの合併だけが、シンガポールが生き残るために重要と考えていたリーにとって、大きな打撃となった。そして、8月9日にシンガポールの独立を発表するテレビ中継の中で、
私にとって、今は苦渋の時です。生涯、私は二つの領域の合併と統一を信じてきました。私リー・クアンユーは、自由と正義の原則、多くの人々の福祉と幸福の探求、平等な社会を築くことに基づき、本日1965年8月9日に、シンガポールが永久に主権民主主義、ならびに独立国家であることを宣言いたします。 — リー・クアンユー
と市民に語り掛けた上で、シンガポールの独立を宣言した。独立自体が、かつてのマレー独立運動の盟友であった、ラーマンからの追放宣言に等しかったこともあって、生放送の最中には、自制心を失って泣きだす場面もあった[注釈 2]。
首相時代
[編集]1965年8月9日に、マレーシア議会は、マレーシアの州としてのシンガポールとの関係を断ち切る決議を可決し、これにより、独立国家としてのシンガポールが成立した。天然資源の欠乏や水源の乏しさ、国防能力の脆弱さなど、リーとシンガポール政府が取り組まなければならない問題は山積していた。
自叙伝によると、リーはマレーシア時代に不眠症に悩まされ続け、シンガポールの独立直後は、病気で倒れたこともあった。
イギリスのハロルド・ウィルソン政権で、高等弁務官を務めていたジョン・ロブから、シンガポールの国家としての資質について懸念されたこともあったが、その際リーは「シンガポールについて心配する必要はありません。我々は、どんな苦境に置かれたとしても正気でいられる理性的な者たちです。我々は、政治というチェス盤の上でどんな行動を起こす際も、可能な結果を全て導き出します」と国家運営に関する自信を述べている。
多数の死傷者を出した六四天安門事件の中国共産党による鎮圧に対しては「100年の混乱から中国を救うなら私も20万人の学生を撃つ」と述べて肯定した[3]。中華人民共和国(中国)と非公式な関係だった1980年代から、中国の指導者鄧小平とは中華民国(台湾)の蔣経国総統との仲介役を務めるなど、個人的に親しく(1990年11月に中華人民共和国と国交正常化して、中華民国と国交断絶)、蘇州工業園区の設立で鄧小平の改革開放に協力し、2010年にはシンガポールでの鄧小平記念碑の除幕式を当時中国国家副主席の習近平とともに行っている[4]。
国防政策
[編集]建国当初のシンガポールは、共産主義者やインドネシア、シンガポールをマレーシアの支配下に置くことをもくろんでいたUMNO過激派など複数の脅威によって、立場が脆弱だった。国防面に関して、リーはスイスを手本として、非同盟と武装中立を国是とすることを宣言した。同時に、ゴー・ケンスイに国軍創設の準備を命じ、他国に指導や訓練、軍事施設の設立などでの援助を要請した。
1967年に、イギリスがシンガポールならびにマレーシアに駐留する軍隊を撤退もしくは削減するとの宣言をしたことに伴い、シンガポール政府は職業軍人以外にも必要兵力を満たすため、2年間の兵役を義務付ける国民役務 (National Service) の実施を発表した。1968年1月にフランス製の戦車であるAMX-13を若干数、1972年には最新式戦車を99台購入した。1969年には、イギリスからBAC 167 ストライクマスターを購入し、テンガ空軍基地でパイロット養成のための基礎訓練を実施した。
言語政策
[編集]リーは、ビジネスや行政、異なる人種間における共通語として、植民地時代の遺産である英語(イギリス英語)を使用し続けた。一方で華語(標準中国語=マンダリン)・マレー語・タミル語も公用語として公認した。公立学校における授業では、英語が使用されているが、同時に生徒自身の民族語を習得するための授業も行われている。しかし、この様な言語政策は、奇妙な英語である「シングリッシュ」が使われる素地にもなった。
1979年からは、華人系住民を対象とした華語普及運動(講華語運動、Speak Mandarin Campaign)を開始した。これにより放送では基本的に全ての番組で華語が使われるようになった。この結果、華語以外の中国語方言の伝承が妨げられ、現在では若い世代の大部分は方言を流暢に話すことができず、祖父母の世代の人間と会話をする際に若干の困難を伴うことがある。
家族計画
[編集]1960年代後期には、シンガポールの増大する人口が、発展中の経済に負担をかける可能性があるとして、「子供は2人まで」という家族計画を推奨するキャンペーンを展開し、子供のいる夫婦からは不妊手術が受けられるように主張する声が多く上がった。
ほかにも、大卒女性の出産を推奨するなどの優生思想に基づく選別的な教育制度を実践した。回顧録では「多民族社会では、ある民族の知能指数 (IQ) が他よりも低いというベルカーブ仮説は動かしがたい現実だったからです」と主張している。
マレーシアとの関係
[編集]
マハティール・ビン・モハマドが次期マレーシア首相に就任することが確実となった1978年に、リーはデヴァン・ナイル大統領(当時)を通じて、マハティールにシンガポールを訪問するよう促した。以降も両者は親密な関係を築くようになり、ともに西洋の価値観と対決するアジア的価値観を唱えたことでもこの仲は注目された。マハティールは民主行動党の華人のリーダーとのつながりを絶つようリーに要求し、引き換えにマハティールはマレーシアにおけるシンガポール人の情勢に干渉しないと約束した。
1981年12月に、マハティールは国内を一つの時間帯に統一するため、マレー半島の標準時を変更し(マレーシア標準時)、リーもこれに同調した。マハティールとの関係は1982年以降非常に良いものとなった。
カンボジアとの関係
[編集]リーは、1978年のベトナムのカンボジア侵攻に反対した[5]。シンガポールは、1978年から1989年までベトナムの占領軍と戦っていたポル・ポト派に援助を提供し、ベトナムを非難する国際キャンペーンを組織した。リーは回顧録の中で、1982年に「シンガポールはAK-47、手榴弾、弾薬、通信機器をクメール・ルージュに提供した」と述べている[6][7]。
首相退任後
[編集]1990年11月、ゴー・チョクトンに首相の座を譲り、上級相となった。2004年8月、ゴーの上級相就任により、内閣顧問となった。人に勧められて警世のために回顧録を著し、『日本経済新聞』の「私の履歴書」に登場した(1999年1月分)。回顧録の日本語版は、日本経済新聞社から出ている。リー・クアンユー回顧録[上]では原爆投下については「広島と長崎に原子爆弾が落とされなければ、数十万人に上るマレーとシンガポールの民間人や、日本人でさえも数百万人が犠牲になっていただろう」と述べている。
2008年5月、フォーブスへの寄稿で「一部の国の指導者が中国の人権問題とチベット問題を理由に、北京オリンピックの開幕式をボイコットすると圧力をかけているが、何の根拠もないものだ」と欧米各国の行動に対して非難し、さらにリーは「チベットに抱く西側の人々のイメージは『ロマンチックな理想郷』であり、『ヒマラヤとダライ・ラマ』の地だ。しかし、中国にとってのチベットは『封建社会』であり、『後進地域』なのだ。中国はチベットを支配して以来、インド的な身分制度や農奴を廃止し、医療施設、学校、道路、鉄道、空港などを作り、少なくともチベットの生活水準を上げてきた」と語ることによって、西側メディアの中国批判を牽制した。
晩年
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2011年5月14日には上級相のゴー・チョクトンと、二人同時に閣僚ポストから退く意向を表明した[8][9]。
(今回の選挙で)われわれは新しい政治的状況を知るに至り、そしてそれがどのように未来に影響を与えるか考慮しました。われわれはシンガポールの発展に貢献しました。複雑で難しい状況の中、シンガポールをさらに前進させる若者たちの時代がやって来たのです。首相や彼を支える若い世代のリーダーは、新鮮でクリーンな基盤を持つべきです。若い世代は、汚職がなくしかも実力主義(知的エリート階級の)の政府を持つこと、加えて高い生活水準を享受すること以外にも、自分自身に影響を及ぼす決定により多く携わりたいと願っています。重要な分岐点となる今回の選挙の後、 私たちは、内閣を去る決意をしました。そして、完璧に若返った内閣に、未来のシンガポールを形作りつつあるこの若い世代と前進してもらうことにしました。
しかし、この若い内閣たちは古い世代のためにも存在していることを忘れてはいけません。この古い世代は、シンガポールに貢献してきたのであり、十分に省みられなければなりません。 — リー・クアンユー、ゴー・チョクトン共同辞任声明 日本語訳[10]
死去
[編集]2015年3月23日、肺炎のためシンガポール総合病院で死去した。91歳没
同年3月29日にシンガポール国立大学で国葬が執り行われた。彼の死に際しては、アメリカのバラク・オバマ大統領が「歴史の巨人」と称えたほか、中国の習近平国家主席、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領など、世界各国の首脳からその類まれな指導力と戦略的眼力に対する惜しみない追悼の言葉が寄せられた。国葬には各国の元首や首脳級が多数参列し、「史上最大規模の弔問外交」と呼ばれるほどの規模となった。

日本からは安倍晋三内閣総理大臣(当時)が国葬に参列した。当時、日本の国会は翌日(30日)に2015年度の国家予算案の承認決議を控える極めて多忙な時期であったが、安倍はシンガポールとの関係やリー・クアンユーのアジアにおける多大な功績を重んじた。政府内には日程の厳しさから参列に慎重な声もあったものの、安倍本人の強い意思により、3月29日早朝に日本を出発してシンガポールでの滞在時間はわずか約5時間、翌30日未明には帰国するという異例の「日帰り」の強行日程を組んで国葬に駆けつけた
評価
[編集]1990年11月28日に自ら首相を辞任して以降も、同年にゴー・チョクトン政権の上級相、2004年にはリー・シェンロン政権の内閣顧問を務めるなど、晩年に至るまでにシンガポールにおいて絶大な影響力を保った。
第二次世界大戦に関する対日歴史認識についてリーは、日本軍がイギリスに勝ち、白人神話を打ち砕いたと評価する一方で、日本軍の占領政策は過酷で非人道的だったとし、占領されていた三年半、日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、英国の保護下のほうがよかったと思うようになり、日本人に幻滅したと日本軍の占領政策を批判している[11][12]。
戦後のリーは、過去の占領期の記憶を直視しつつも、日本との協力関係を重視し、未来志向的な関係構築を訴えた。彼は、日本が「歴史の1ページをめくり、隣国との平和のためにその可能性を果たす」と述べ、アジアにおける日本の建設的役割を評価している[13]。また、シンガポール政府はJICAとの連携を通じて「21世紀の日・シンガポール・パートナーシップ」を推進し、産業人材育成や生産性向上などを通じて相互の信頼と協力を深めてきた[14]。こうした一連の姿勢は、過去への批判を単なる感情的反発に終わらせず、歴史を教訓として将来の友好と協調に生かそうとする、国家指導者としての成熟した対応として、シンガポール国内でも高く評価されている[15]。
リークアンユー公共政策大学院の設立
[編集]2004年、リーの80歳の誕生日に合わせ、シンガポール国立大学(NUS)に「リー・クアンユー公共政策大学院」(英語: Lee Kuan Yew School of Public Policy、略称: LKYSPP)が設立された。今日、同院はアジアにおける公共政策・国際関係研究の最高峰として、米ハーバード大学ケネディ・スクールに比肩する国際的評価を確立している。
命名に至る葛藤と実利主義
[編集]リーは生涯を通じて、自身に対する個人崇拝や偶像化を徹底的に退けてきた。存命中に自身の名前を公共施設や道路、空港(チャンギ国際空港への命名案など)に冠することを一切許可しなかったことは有名である。
しかし、同大学院の設立に際し、当時の内閣や大学側から「世界トップクラスの教育機関として優秀な教員と留学生、そして多額の寄付金を引き寄せるためには、リー・クアンユーという名前が持つ圧倒的な国際的ブランドと信頼が必要不可欠である」という強い説得を受けた。リーはこれに対し、「自身の名誉のためではなく、シンガポールという国家のブランド価値を高めるという実利的な目的」にのみ資すると判断し、例外的に命名を承諾した。これは彼の徹底した「プラグマティズム(実利主義)」を象徴するエピソードとなっている。
「シンガポール・モデル」の学術化とソフトパワー
[編集]同大学院の主要な役割は、リーが実践した「優れたガバナンス(Good Governance)」や「効率的な国家運営」を学術的に体系化し、次世代の指導者に伝えることにある。
- アジア的視点の発信: 西洋の政治理論をそのまま適用するのではなく、アジアの歴史的・文化的背景に即した政策立案を重視しており、「アジアの世紀」における知の拠点としての役割を担っている。
- 国際的なネットワーク: 世界中(特にアジア、アフリカ、中東)から現役の官僚や若手リーダーを受け入れており、修了生たちが自国で要職に就くことで、シンガポールの統治知見を広める「ソフトパワー」の拠点としても機能している。
「生きた教科書」としての活動
[編集]リー自身、晩年まで同院の「特別フェロー(Distinguished Fellow)」を務め、単なる名誉職に留まらない深い関わりを持った。
- 対話セッション: 頻繁にキャンパスを訪れ、学生や教授陣と「ダイアログ(対話)」を行った。そこではオフレコを条件に、極めて冷徹かつ鋭い地政学分析や、自身の過去の政治決断の裏側を赤裸々に語り、学生たちに強い刺激を与え続けた。
- 歴史的場所への帰還: キャンパスが置かれたブキ・ティマは、かつてのラッフルズ・カレッジ(NUSの前身)の所在地であり、若き日のリーが学び、生涯の伴侶となるクワ・ゲオ・チューと出会った場所でもある。自身の出発点とも言えるこの地が、自らの哲学を次世代へ語り継ぐ場となったことは、彼の人生における象徴的な幕引きの一つとなった。
日本との関係
[編集]リー・クアンユーは知日家としても知られるが、その対日感情は単なる好意ではなく、「愛憎半ばする」複雑な経験と、冷徹なまでの**実利主義(プラグマティズム)に基づいている。彼は日本を「シンガポールの生存と繁栄のために不可欠なパートナー」と位置づけ、戦後の和解と経済協力を強力に推進した。
日本軍占領下の体験(1942–1945)
[編集]- 生死の境: 1942年、日本軍によるシンガポール占領直後に行われた華僑粛清(シンガポール華僑虐殺事件)の際、リーは集合場所に集められ、処刑場行きのトラックに乗せられる寸前であった。機転を利かせ「家に忘れ物を取りに帰りたい」と憲兵に申し出て許可を得て、そのまま逃亡・潜伏して難を逃れた。この経験は彼に「権力とは銃口から生まれる」という冷厳な現実を刻み込み、平和主義よりも力による安全保障を重視する政治哲学の原点となった。
- 日本への評価: 彼は日本軍の残虐性を激しく憎んだ一方で、その組織力、規律、集団としての団結力には畏敬の念を抱いた。後に「英国軍があっさり降伏したのに対し、日本軍は死ぬまで戦った。この精神力と組織運営は学ぶべきだ」と述懐しており、この「敵から学ぶ」姿勢が後のシンガポールの厳格な社会規律に影響を与えたとされる。
「許そう、しかし忘れない」と戦後賠償
[編集]- 血債問題: 1960年代、シンガポール独立前後に華人社会で日本軍による虐殺への補償(血債)を求める声が高まった際、リーは群衆の怒りを理解しつつも、それが将来の日本からの投資を阻害しないよう慎重にコントロールした。
- 解決と和解: 1967年、日本政府との間で血債協定(5000万シンガポールドルの無償供与など)を締結し、公式に決着をつけた。彼は市街地に「日本占領時期死難人民記念碑」を建立し、除幕式で「我々は許そう、しかし忘れない (We can forgive, but we will never forget)」と演説し、過去の清算と未来志向の両立を国民に訴えた。
経済成長と「日本に学ぶ」
[編集]- 投資の誘致: 独立直後の失業問題を解決するため、日本の製造業を積極的に誘致した。石川島播磨重工業(IHI)による造船所建設や、セイコー、松下電器(現パナソニック)などの進出は、シンガポールの工業化の礎となった。特に松下幸之助とは個人的な親交を深め、その経営哲学に共鳴した。
- 生産性向上運動: 1980年代、リーは日本の労使関係や労働倫理をモデルにした「生産性向上運動」を展開した。日本の「交番制度(Koban)」を参考にした地域警察システムや、品質管理サークル(QCサークル)の導入、さらには企業への忠誠心を重視する姿勢など、日本の社会システムを積極的にシンガポールへ移植しようと試みた。これはマレーシアのマハティール首相が提唱した「ルックイースト政策」とも共鳴する動きであった。
外交・安全保障と歴史認識
[編集]- 地域のバランサー: リーは、アジア太平洋地域におけるアメリカのプレゼンス維持を支持する一方で、台頭する中国へのカウンターバランスとして、日本が政治的・軍事的に「普通の国」としてより大きな役割を果たすことを期待した。
- 歴史認識への苦言: 親日的な姿勢の一方で、日本の政治家の靖国神社参拝や歴史教科書問題に対しては、厳しい苦言を呈することもあった。「日本が過去の行為をあいまいにすることは、近隣諸国(中国・韓国)との不信感を増幅させ、日本自身の国益を損なう」と繰り返し警告し、ドイツのように明確な謝罪を通じて近隣諸国と和解することを推奨した。
晩年と皇室・政界との交流
[編集]- 勲章: 日本との長年の関係強化への貢献により、1973年に勲一等旭日大綬章、死後の2015年には桐花大綬章(外国人に与えられる最高位の勲章の一つ)が授与された。
- 個人的な交流: 福田赳夫、中曽根康弘、宮澤喜一など歴代の日本首相と深い親交を持った。また、皇室とも交流があり、天皇明仁(現上皇)や皇太子徳仁(現天皇)がシンガポールを訪問した際には手厚く接遇した。
- 最後の日本観: 晩年のリーは、少子高齢化が進む日本経済の停滞を懸念し、「日本は移民を受け入れなければ衰退するだろう」と率直な分析を残している。それでもなお、東京の清潔さ、安全性、サービスの質の高さ、そして日本料理を愛し、頻繁に日本を訪れることを楽しみにしていた。
言語
[編集]リー・クアンユーは「言語こそが国民統合と経済発展の鍵である」という信念を持ち、生涯を通じて多言語の習得と維持に並々ならぬ情熱を注いだ。彼自身の言語能力と学習歴は、シンガポールの二言語政策(英語+母語)の基礎となっている。自身も、数ヶ国語を話すマルチリンガルである。
- 習熟度と背景: リーの最も得意とする言語(マスター・タング)。幼少期より家庭内では英語(および少量のマレー語)が話されており、ラッフルズ・カレッジおよびケンブリッジ大学での教育を通じて、極めて流暢かつ格調高い「クイーンズ・イングリッシュ」を身につけた。
- 使用スタイル: 彼の英語は論理的かつ法的な正確さを持ち味とし、世界各国の指導者やメディアとの対話、著述活動のほぼ全てで使用された。晩年はシンガポール独特のイントネーションを含みつつも、明快で力強いスピーチスタイルを確立した。
- 学習の動機: シンガポールの国語であり、人口の多数を占めるマレー系住民の支持を得るため、そして当時目指していたマラヤ連邦との合併を実現するために不可欠な政治ツールとして習得した。
- 習熟度: 成人してから本格的に学習を開始したが、驚異的な集中力で習得し、マレー語での演説や議会答弁をこなすレベルに達した。「マレー語ができる華人政治家」という存在は、当時のマレーシア指導層(トゥンク・アブドゥル・ラーマンら)との信頼構築に大きく寄与した。
- 学習の苦闘: リーは「ババ・チャイニーズ(海峡華人)」の家庭に育ったため、幼少期は中国語を全く話せなかった。彼が本格的にマンダリンの学習を始めたのは32歳(1955年頃)からである。これは、当時のシンガポールで政治的影響力を持っていた「華校生(中国語教育を受けた層)」や共産主義勢力に対抗し、彼らの心を掴むために必須だったからである。
- 生涯学習: 彼は中国語学習を「生涯の課題」と位置づけ、首相退任後も、90代で亡くなる直前まで毎日個人レッスンを受けていたことは有名である。この学習体験は著書『Keeping My Mandarin Alive』に詳述されている。
- 政策への反映: シンガポールの華人社会における方言(福建語など)の使用を減らし、共通語としての北京語普及を目指す「講華語運動(Speak Mandarin Campaign)」を1979年に開始した。
- エピソード: 中国の鄧小平と会談した際は、通訳を介しつつも、重要な局面では英語を使用した。これは自身の中国語能力が英語ほど精緻なニュアンスを伝えられないと判断したためである。
- 福建語(Hokkien): 当時のシンガポール華人の多数派が福建系であったため、選挙戦で大衆の支持を得るために泥臭く習得した。独立前の激動期、街頭演説で福建語を駆使して共産主義者と対峙し、聴衆を熱狂させたエピソードは伝説となっている。しかし、後の教育政策では「英語と北京語」を優先し、方言の使用を公的な場から排除する方針をとった。
- 客家語(Hakka): リー家のルーツは客家(ハッカ)にあるが、政治的な有用性は福建語ほど高くなかったため、公の場で使用する機会は限定的であった。
- 学習時期: 1942年から1945年の日本軍占領時期(昭南島時代)に学習した。
- 習熟度と活動: 生活のために日本語学校に通い、優秀な成績で修了証を取得した。その語学力を活かし、日本の国営通信社である「同盟通信社」の編集部で、連合軍の電報を翻訳・傍受する業務に従事していた。戦後は使用する機会が失われたため、会話能力は失われたとされるが、この時期に日本人の組織力や規律を目の当たりにしたことが、後の国造りに影響を与えたと述懐している。
家族
[編集]リー・クアンユーの家族は、シンガポールの政財界・学術界において重要な地位を占める人物が多い。リー家(Lee Family)は、しばしばシンガポールで最も影響力のある一族として知られる。
祖父母・両親
[編集]- 祖父:リー・フンリョン (Lee Hoon Leong): 英語教育を受けた実業家で、英国文化に傾倒していた。リー・クアンユーに対し、西洋式の教育を受けさせ、将来はイギリス紳士として成功することを望んだ人物。
- 父:リー・チンクン (Lee Chin Koon): シェル石油の倉庫管理者などを務めた。妻や息子に比べて性格は穏やかだが、ギャンブル癖があり、家庭内の実権は妻が握っていた。リー・クアンユーとの関係は、母との関係に比べると希薄であったとされる。
- 母:チュア・ジム・ネオ (Chua Jim Neo): (1907–1980)。著名なプラナカン(海峡華人)料理の研究家であり、『Mrs. Lee's Cookbook』の著者。非常に意志が強く、賢明な女性であり、リー・クアンユーの人格形成や教育熱心な姿勢に多大な影響を与えた。
配偶者
[編集]- 妻:クワ・ゲオ・チュー (Kwa Geok Choo / 柯玉芝): (1920–2010)。
- 関係性: ラッフルズ・カレッジおよびケンブリッジ大学での同級生であり、リーが唯一「知的に対等」と認めた生涯のパートナー。法学部ではリーを上回る成績(首席)を修めた才女。
- キャリア: リーと共に法律事務所「Lee & Lee」を設立。不動産法・信託法の専門家として活躍した。
- 政治的役割: 表舞台に出ることは好まなかったが、リーの演説原稿の推敲を行い、シンガポールがマレーシアから分離独立する際の「分離協定」や「水供給協定」の草案作成において、その法的知識で決定的な役割を果たした。
- 晩年: 彼女の死後、リーの健康状態は急速に衰えたと言われている。
子供
[編集]リー・クアンユー夫妻には2男1女がいる。
- 長男:リー・シェンロン (Lee Hsien Loong / 李顕龍)
- (1952年生まれ)。ケンブリッジ大学(数学で首席)、ハーバード大学(行政学修士)卒。
- 経歴: シンガポール軍准将を経て政界入り。第3代シンガポール首相(2004年-2024年)。父の政治路線を継承しつつ、現代的な国家運営を行った。
- 家族: 最初の妻ウォン・ミンヤン(黄名揚)とは死別。現在の妻はテマセク・ホールディングス元CEOのホー・チン (Ho Ching / 何晶)。
- 長女:リー・ウェイリン (Lee Wei Ling / 李瑋玲)
- (1955年生まれ - 2024年死去※)。
- 経歴: 著名な小児神経科医、てんかんの専門家。国立神経科学学院(NNI)の元所長。
- 人物: 生涯独身を通し、両親の晩年の介護を自宅で担った。父譲りの率直な物言いで知られ、しばしば新聞コラム等で政府の方針や兄(シェンロン)に対し異論を唱えることもあった。特に父の遺言である「オクスリー・ロード38番地の旧宅取り壊し」を巡って兄と激しく対立した。
- 次男:リー・シェンヤン (Lee Hsien Yang / 李顕揚)
- (1957年生まれ)。ケンブリッジ大学、スタンフォード大学(修士)卒。
- 経歴: 元シンガポール軍准将。その後ビジネス界へ転じ、シングテル(SingTel)CEO、フレイザー・アンド・ニーヴ(F&N)会長、シンガポール民間航空庁(CAAS)会長などを歴任。
- 政治的対立: 父の死後、姉ウェイリンと共に、兄シェンロンと「旧宅取り壊し問題」で公然と対立。2020年の総選挙では野党・シンガポール前進党(PSP)への支持を表明し、事実上の政治的亡命に近い形で英国へ渡るなど、リー家の分裂が表面化した。
- 妻: リム・スエット・フェン (Lim Suet Fern / 林雪芬)。国際的な企業法務弁護士であり、大手法律事務所モルガン・ルイス・スタンフォードのパートナー。
孫
[編集]- リ・ホンイー (Li Hongyi / 李鴻毅): シェンロンの息子。マサチューセッツ工科大学(MIT)卒。政府機関GovTechの上級職に就く。
- リ・シェンウー (Li Shengwu / 李縄武): シェンヤンの長男。オックスフォード大学、スタンフォード大学を経て、ハーバード大学経済学部助教授。叔父であるシェンロン政権の司法制度を批判し、法廷侮辱罪に問われたことがある。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ “Days of reflection for the man who defined Singapore: A transcript of Minister Mentor Lee Kuan Yew's interview with The New York Times”. Today (Singapore): pp. 14–17. (2010年9月13日). オリジナルの2010年9月13日時点におけるアーカイブ。
- ↑ Lee Kuan Yew (1998). The Singapore Story: Memoirs of Lee Kuan Yew. Singapore: Times Editions. pp. 342–343. ISBN 978-981-204-983-4.
- ↑ “Lee and Li”. ウォール・ストリート・ジャーナル. (2004年8月20日) 2019年10月23日閲覧。
- ↑ “Commemorative marker of Deng Xiaoping unveiled in Singapore”. 中国日報. (2010年11月14日) 2015年9月21日閲覧。
- ↑ Régnier, Philippe (1991). Singapore: A City-state in South-East Asia. University of Hawaii Press
- ↑ “LKY's account shows Singapore supported Khmer Rouge initially before dumping them”. The Online Citizen (2019年6月11日). 2020年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月24日閲覧。
- ↑ Richardson, Michael (2000年9月29日). “Singaporean Tells of Khmer Rouge Aid”. The New York Times. 2018年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月24日閲覧。
- ↑ “シンガポール、リー・クアンユー顧問相が辞任へ”. 読売新聞. (2011年5月14日) 2011年5月14日閲覧。
- ↑ “シンガポールのリー・クアンユー顧問相、閣僚ポスト辞任を発表”. ロイター. (2011年5月16日) 2011年8月28日閲覧。
- ↑ “MM Lee, SM Goh to retire from Cabinet”. ザ・ストレーツ・タイムズ. (2011年5月15日) 2011年8月28日閲覧。
- ↑ National Archives of Singapore, "Transcript of Interview of Mr. Lee Kuan Yew", 17 March 1965
- ↑ George P. Landow, "Lee Kuan Yew’s First-Hand Experience of Japanese Brutality", Postcolonial Literature in English, University of Singapore
- ↑ Ministry of Foreign Affairs Singapore, "Transcript of PM Lee Hsien Loong’s Toast Speech at the Akasaka State Guest House in Tokyo", 2016
- ↑ Japan International Cooperation Agency, "Japan–Singapore Friendship and Cooperation", JICA, 2015
- ↑ シンガポール外務省「Japan–Singapore Relations: A Forward-Looking Partnership」, 2018年.
外部リンク
[編集]| 公職 | ||
|---|---|---|
| 新設 | 1959年 – 1990年 |
次代 ゴー・チョクトン |
| 先代 ホン・スイセン |
1983年 |
次代 トニー・タン |
| 先代 S. ラジャラトナム |
1990年 – 2004年 |
次代 ゴー・チョクトン |
| 新設 | シンガポール共和国内閣顧問 2004年 - 2011年5月21日 |
廃止 |
| シンガポール国会 | ||
| 新設 | 国会議員 タンジョン・パガー 1959年 – 1991年 |
廃止 |
| 国会議員 タンジョン・パガーGRC 1991年 – 現在 |
現職 | |
| 党職 | ||
| 新党結成 | 人民行動党書記長 1954年 – 1992年 |
次代 ゴー・チョクトン |