セイロン沖海戦

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第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 南方作戦 > セイロン沖海戦
セイロン沖海戦
HermesSinking.jpg
沈没するイギリス空母ハーミーズ
戦争太平洋戦争
年月日:1942年4月5日~4月9日
場所インド洋セイロン島
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 イギリスの旗 イギリス
オーストラリアの旗 オーストラリア
オランダの旗 オランダ
指導者・指揮官
南雲忠一中将
小沢治三郎中将
J・サマヴィル中将
戦力
空母5
戦艦4
重巡洋艦7
軽巡洋艦3
駆逐艦19
潜水艦5
航空機350
空母3
戦艦5
重巡洋艦2
軽巡洋艦4
駆逐艦15
航空機180
損害
零戦4機
九九式艦爆10機
九七式艦攻2機
空母1
重巡洋艦2
駆逐艦2沈没
輸送船多数沈没
航空機50機
南方作戦
ベンガル湾南西に位置するセイロン島

セイロン沖海戦(セイロンおきかいせん)は、1942年4月5~9日インド洋セイロン島沖で日本海軍イギリス海軍の間で行われた戦闘インド洋作戦の過程で発生した。連合国軍側の呼称はインド洋空襲(Indian Ocean raid[要出典]。本記事では、セイロン沖海戦前後に日本海軍が実施および計画した通商破壊作戦(ベンガル湾機動作戦[1]、B作戦[2])についても述べる。

概要[編集]

セイロン沖海戦は、太平洋戦争初期の1942年(昭和17年)4月上旬に、インド洋セイロン島海域で行われた日本海軍とイギリス軍の戦闘。南方部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)が発令したセイロン島方面機動作戦(3月9日)とベンガル湾機動作戦(3月14日)により、南方部隊指揮下の南雲機動部隊(指揮官南雲忠一第一航空艦隊司令長官、正規空母5隻基幹)と馬来部隊(指揮官小沢治三郎第一南遣艦隊司令長官、巡洋艦6、軽空母1、駆逐艦4)は、4月初旬よりインド洋で機動作戦を実施した[3][4]。南雲機動部隊は4月5日にセイロン島のコロンボを、9日にトリンコマリーを空襲し、大きな戦果をあげた[4]。また馬来部隊は4月6日にベンガル湾で商船20隻以上を撃沈する戦果をあげた[4]。だが南雲機動部隊の戦術には問題点も散見され、ミッドウェー海戦に影響を残した[4]

イギリス海軍は暗号解読により東洋艦隊(司令長官ジェームズ・サマヴィル中将)をもって邀撃したが、艦隊主力同士が交戦する機会はなかった[4]。東洋艦隊本隊とわかれて行動していた重巡洋艦2隻(5日)、空母ハーミーズと駆逐艦1隻ほか(9日)が、南雲機動部隊の攻撃により撃沈された[4]。イギリス東洋艦隊はセイロン島とモルディブ諸島の拠点から、アフリカ東岸のキリンディニ港マダガスカルまで後退した(インド洋の戦い)。

背景[編集]

日本[編集]

1942年(昭和17年)3月9日の時点で日本軍はジャワ島を攻略し(蘭印作戦[5]、第一段作戦(南方作戦)の南方資源地帯占領は想定より早く終了、バターン半島攻略ビルマ方面をのぞき最終段階にあった。 第二段作戦の検討は始められていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と[6]オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まってなかった[7][8]。 さらに、日本と日独伊三国同盟を結ぶナチス・ドイツは、インド洋に日本海軍の戦力を投入してイギリスの後方撹乱を期待、海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議している[9][10]連合艦隊司令部では2月20日から23日にかけてインド洋侵攻作戦の図上演習を行い、セイロン島の占領・英国東洋艦隊撃滅の計画をたてる[11][12]。しかし、セイロン攻略作戦に自信を持てない日本陸軍や、米豪遮断を目指す海軍軍令部の反対により連合艦隊のインド洋方面作戦計画は後退を余儀なくされた[12]

当時、ビルマ攻略を目指す陸軍第十五軍は首都ラグーンを占領しており[13][14]、今後、全ビルマ制圧作戦を進めるには海路からの軍需品輸送が不可欠であった[15][16]。 しかし、インド洋にあるセイロン島にはイギリス軍の二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーがあり、日本の海路からの輸送をイギリス艦隊が阻止してくることが予想できた。そこで海上交通保護のため北部スマトラ島アンダマン諸島を占領して航空基地を建設するとともに[17]、セイロン島の二大拠点とイギリス東洋艦隊に打撃を与えておく必要性が生じた[16]

日本側は、インド洋に展開するイギリス海軍は、空母2隻・戦艦2隻・重巡洋艦3隻をはじめ、軽巡と駆逐艦も行動しており[18]、沿岸の基地には約300機の航空機が配備されていると考えていた[19][20]

3月9日、連合艦隊(司令長官山本五十六大将)は南方部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に対し、セイロン島方面機動作戦の実施を命じた[5][21](聯合艦隊電令作第86号)[22]。 近藤長官は3月14日に発令したインド洋機動作戦要領(南方部隊電令作第139号)の中で、丙潜水部隊(指揮官市岡寿第二潜水戦隊司令官)に対してセイロン西方海面の哨戒と通商路攻撃を指示していた[23][24]。だが潜水艦の数が足りず(伊7、伊2、伊3、第8潜水隊)[25]、セイロン島とインド南岸の泊地を偵察させるにとどまった[21]。 それでも、貨物船6隻・小型帆船4隻を撃沈した[12]

近藤長官直率の南方部隊本隊(第二艦隊旗艦〈愛宕〉、第4駆逐隊第1小隊[26]〈嵐、野分〉)は4月4日にペナンを出発[27][28]、アンダマン諸島南西方面に進出した[29]。 また日本海軍の基地航空隊はアンダマン諸島や北部スマトラ島に展開し、機動部隊の作戦を支援した[17][30]

連合国[編集]

イギリスは、1941年12月のマレー沖海戦で英国東洋艦隊旗艦戦艦プリンス・オブ・ウェールズが沈み、極東の最重要拠点シンガポールも失陥した。大損害をうけたイギリス海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。しかし、本国艦隊からの増援を受け、戦艦5隻と空母3隻を基幹とする大艦隊となっていた。日本軍最大の敵はアメリカ太平洋艦隊であったが、日本にとりインド洋のイギリス海軍は日本への資源供給地となったオランダ領東インドの安全を脅かす存在であった。仮にセイロン島が日本軍の手に落ちた場合、インド洋の交通網が遮断され、中東の連合国軍補給ルートの遮断、スエズ運河の陥落、アフリカにおける枢軸国軍の勝利する可能性が高かった[31]

連合国はイギリス軍が従来よりコロンボを拠点として現存艦隊主義をとって、ビルマ方面に進攻する日本軍ににらみを効かせていた。だがシンガポール陥落は不可避となっており、イギリス軍は新たな拠点の整備にせまられた。セイロン島西岸のコロンボは施設は充実するが商業港のため混雑、東岸のトリンコマリーとモルディブ諸島南部のアッドゥ環礁を重要な候補地とした[32]

連合軍から見て、日本軍は広い行動選択の自由を持っており、次の侵攻がどこかを特定するのは重要だった。イギリス首相ウィンストン・チャーチル首相はダドリー・パウンド第一海軍卿より3月8日にはセイロンが脅威にさらされているという情報を受けていた。この問題に対処するためイギリス海軍は東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代する人事を行い、インド洋に展開する空母インドミタブル戦艦リヴェンジロイヤル・サブリンに対し、空母フォーミダブル、戦艦ラミリーズレゾリューションウォースパイト等の増派をはじめた[33]。サマヴィル中将は27日にウォースパイトに将旗を掲げた。

イギリス軍は当時コロンボにあった極東連合部(FECB)により、通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており、日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い、地点符号の特定に成功した。これにより3月22日には4月1日にセイロン島を攻撃する予定を知った。サマヴィルは待避のため30日にコロンボから艦隊を出港させ、アッドゥ環礁に向かわせたが、日本艦隊の規模は不明であった。彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合、それへの対処は絶望的であるとし、中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響というものだった。そのため、規模の大きくない攻撃にのみ対処するため、艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり、艦隊現存主義を維持する方針が決められた。3月28日、戦艦ウォースパイト、空母フォーミダブル、巡洋艦エンタープライズ、コーンウォール、ドラゴン、キャルドン、駆逐艦6隻がコロンボを出港、翌日、空母ハーミーズ、巡洋艦エメラルド、駆逐艦2隻が出港し洋上でR級戦艦6隻と合流した[34]。英艦隊は4月2日まで艦隊の連携を高める演習を繰り返した[34]

戦闘経過[編集]

艦隊出撃[編集]

3月30日に瑞鶴より撮影された写真。写真右より金剛榛名霧島比叡飛龍蒼龍赤城

3月26日スラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾Staring-baai)から出撃した南雲機動部隊は[35][36]オンバイ海峡を通過しジャワ島の南方からインド洋に入った[19][37]。対するイギリス軍の問題点は色々あったが、その一つにリヴェンジ級戦艦など旧式艦の航続力・真水が作戦期間を支えるに十分ではない事があり、4月2日には戦艦群が帰港を具申していた[38]

連合軍は、暗号解読は行っていたものの、依然として日本軍の動きがつかめず、誤報・作戦延期の可能性も考えられたため、東洋艦隊は作戦を中止して帰港した[38]。問題は何処の港で補給を行うかであった[39]。商業港で混雑したコロンボ、防空施設の貧弱なトリンコマリーに帰港して真珠湾攻撃における米太平洋艦隊の二の舞を恐れたサマヴィル中将は2日、艦隊主力をアッドゥ環礁へ待避させることにした[38]。同時に、改装中、急遽出撃したドーセットシャーにコロンボでの工事再開を命じ、その護衛に8日到着予定の船団護衛を控えたコーンウォールをつけた。また、小型空母ハーミーズをトリンコマリーに向かわせ、5月に予定されているフランス植民地のマダガスカル島攻撃準備をなすように命じた。

アッドゥ環礁に到着してまもなく、セイロン島南東海上に日本軍機動部隊発見との報告が入った[40]。サマヴィル中将は燃料補給中で、かつ速力の遅いリヴェンジ級戦艦を分離せざるを得なくなった[40]。東洋艦隊は空母(フォーミダブル、インドミタブル)、戦艦ウォースパイト、巡洋艦(コーンウォール、エメラルド、エンタープライズ)を主力とするA部隊と、リヴェンジ級戦艦4隻と他の巡洋艦のB部隊にわかれ、B部隊の指揮は次席指揮官アルガノン・ウィリス少将がとった[40]。サマヴィル中将はA部隊を率い、19ノットで進撃を開始した[40]

セイロン島攻撃を前に南雲機動部隊は補給部隊を分離、帰路の補給地点にむかわせた[41]4月4日夕刻(現地時間では午後3時)、セイロン島の南東700km付近に迫っていた南雲機動部隊はカタリナ型双発飛行艇に発見された[42]。飛行艇は「日本艦隊発見」の電報を打った後[41]、上空直衛の零戦により撃墜された[43][44](脱出者は磯風に収容)[45]。この電報は「赤城」でも傍受し、南雲部隊は奇襲の要素が失われた事を知ったが、特段の措置は取らなかった[46]が、敵機に発見されたため、明朝の敵機来襲や敵母艦部隊、潜水艦などの攻撃が考えられることから、攻撃隊の編制は変更が行われた[42]。当初のコロンボ攻撃に兵力を集中する案から、五航戦の艦攻隊など兵力の半分が不時の会敵に備え待機することになった[47]

コロンボ空襲[編集]

空襲下のドーセットシャーとコーンウォール。

1942年(昭和17年)4月5日朝、南雲機動部隊はコロンボ南方200海里に進出し、淵田美津雄中佐を指揮官とする第一攻撃隊(艦攻54、艦爆38、零戦36)でコロンボを空襲した[42][48]。艦攻は800キロ爆弾を搭載した。午前8時30分以降、各艦(赤城〈艦攻17、零戦9〉、蒼龍〈艦攻18、零戦9〉、飛龍〈艦攻18、零戦9〉、瑞鶴〈艦爆19、零戦9〉、翔鶴〈艦爆19〉)から攻撃隊が発進した[42]。二航戦(蒼龍、飛龍)の艦爆、五航戦(瑞鶴、翔鶴)の艦攻と零戦は、逃げ出してきた艦艇の攻撃[49]や、イギリス空母が出現した時に備えて飛行甲板上で待機した[42]

天候はあまり芳しくなかったが、日本軍攻撃隊は待ち受けていたイギリス機を排除した(日本軍記録51機撃墜、零戦1喪失)[48]。つづいて港湾施設と飛行場を攻撃し、駆逐艦テネドスと仮装巡洋艦ヘクターの2隻を撃沈した[50]。他に潜水母艦1隻、商船1隻(日本側は他に複数隻撃破と記録)が損傷した[50]。 日本側は、合計7機(艦爆6〈瑞鶴5[51][52]、翔鶴1[53]〉、零戦1〈蒼龍〉)[50]を喪失した。 また、攻撃途上でイギリスのフェアリー ソードフィッシュ雷撃機隊と遭遇し数十機撃墜を報じた(イギリス側記録6機喪失、8機とも)[54]。ブリストル・ブレンハイム14機は出撃したが、会敵しなかった[54]

5日午前9時、サマヴィル中将はコロンボ空襲の連絡を受け、ドーセットシャーとコーンウォールにA部隊への合流を命じた[40]

午前11時18分、地上軍事施設には甚大な損害を与えたが、湾内の艦船に対する爆撃効果は十分ではないと判断した攻撃隊総指揮官淵田中佐は[55]、「第二次攻撃の要あり」と一航艦司令部に打電した[56][57]。 淵田の報告を受けた南雲長官は1152(日本時間)に、各空母で雷装で待機させていた攻撃隊を爆装に転換し、第一次攻撃隊収容後にただちに発艦するように命じた[57]。 しかし1300(日本時間)に利根の九四式水上偵察機から「敵巡洋艦らしきもの二隻見ゆ」の報告が入った[57][58]。南雲長官は利根・筑摩から索敵機を発進させるとともに[58]、爆装を命じた攻撃隊を再び雷装させるように命じた[57]。 1350、阿武隈水偵から「駆逐艦2隻発見」の報告が入る[57]。 この際、先任参謀大石保中佐は駆逐艦ならばコロンボで打ち漏らした商船群への攻撃を優先すべきと主張した。これに対し、航空参謀源田実中佐は駆逐艦であろうと海上武力を優先すべきと主張し、南雲長官は源田案を採用した[59]山口多聞少将からも「攻撃隊発進の要ありと認む」と赤城へ意見具申があった。 機動部隊司令部は爆装準備が整っていた急降下爆撃隊53機(赤城17、蒼龍18、飛龍18)を、そのまま発艦させた[60][61]。また五航戦(瑞鶴、翔鶴)に「艦攻および艦爆約半数をもって攻撃せよ」と命じ、出撃予定時刻は1700と報告された[57]

14時55分、利根水偵は「敵巡洋艦はケント級なり、敵巡洋艦付近に敵を認めず」と報告する[60][62]。イギリス東洋艦隊主力と合流すため南下していたイギリス巡洋艦2隻は[60]江草隆繁少佐率いる九九式艦爆53機の急降下爆撃により[35][63]、約30分ほどで撃沈された[64]。 17時には南雲機動部隊より第二次攻撃隊(前述)が発進する予定だったが、巡洋艦の撃沈報告と偵察機から「敵巡洋艦の南西方向50海里に進出するも敵を見ず」との情報があったことにより、発進は取りやめとなった[65][66]。南雲機動部隊は南東に退避した[67]。イギリス巡洋艦の生存者は、サマヴィル中将が派遣した軽巡洋艦エンタープライズと駆逐艦2隻によって30時間後に救助された[68]

5日15時30分、サマヴィル中将は敵艦隊が北方100マイルにあるとの報告を受けていた。イギリス東洋艦隊は日本軍に対し交戦を企図しているように見せかけながら、実際にはそれを避けると言う難しい方針の下にあった。さらに現実問題として、南雲機動部隊は東洋艦隊より圧倒的に優勢であった[69]。そのため、雷撃機による夜襲を行うため索敵を行う[70]。 18時17分敵機発見の報があり、艦隊は北西に針路をとった。A部隊とB部隊は6日の払暁に合同し、針路を南東に向けた[69]。この時点では日本艦隊がアッドゥ環礁まで追撃をかけてくる可能性を考慮していた。この日の夜、イギリス本国の海軍省は電報を送り、イギリス東洋艦隊の増強圧力が日本軍に対して効果を持たなかった事が明らかになったと告げた。同時にセイロン島への帰港禁止と、R級戦艦の東アフリカ派遣を命令した[68]。 サマヴィル艦隊の放ったソードフィッシュ複葉機は、5日の16時過ぎに南雲機動部隊を発見していた[54]。敵空母の存在が疑われたが、南雲司令部は索敵の不備には思い至らず、漫然と敵の複葉機を見逃した[71]。機動部隊では19時9分ごろ[72]に敵機発見の信号があったが、上空の直掩機はこれを発見できなかった。 19時29分[73]、飛龍から零戦6機が発艦、ソードフィッシュ2機を発見、1機は撃墜したが、他は太陽方向視界外に逃した[74]。敵艦上機2機が触接したので、付近に敵空母が存在する疑いがあるとした[75]。 英機動部隊攻撃のため、6日には早朝から広範囲の索敵を行ったが、敵艦の発見報告は無く、既に遠方へ退避したことも考えられたため、英機動部隊攻撃を断念した[76]。南雲機動部隊は警戒を厳重にしながら南東方向に退避、コロンボから450海里圏外を北上してツリンコマリ攻撃に向かった[77]。その後もセイロン - アッドゥ間に居るとされた日本艦隊を避けるため、イギリス東洋艦隊は索敵警戒を行いながら迂回航路を取って8日23時にアッドゥ環礁に入り、燃料補給を行った[70]。日本側も索敵は行っており、5日から8日にかけて日英双方が互いを捜したが接触はなかった。

トリンコマリー空襲[編集]

イギリス側の方位測定班は8日朝、赤城の符丁を観測した。15時17分、カタリナがセイロン島東方400マイルに敵艦隊を認め、この情報によりトリンコマリーの艦船は脱出を始めた。

4月8日、南雲機動部隊は、トリンコマリー港に近づく間、英空軍の飛行艇に接触された[78]。兵力、位置、意図も完全に察知されていたが、英主力部隊の出現を期待して強襲することになっていた[79]。コロンボ空襲時の巡洋艦出現から周囲に空母がいて新たな敵の出現は確実と判断しており、飛行隊の約半数を控置するように計画を変更していた[80]

9日午前9時(日本時間)、南雲機動部隊は、トリンコマリーの東方海上約200海里から第一次攻撃隊(艦攻91、零戦41)を発進させた[81]。攻撃隊は1000頃からセイロン島北部のトリンコマリーへの空襲を開始した[81]。飛行場と港湾を強襲し、迎撃機のほか飛行場の地上機、港湾施設を破壊した[82][83]。第一次攻撃隊は零戦3機(瑞鶴2[51]、翔鶴1[84])、飛龍艦攻1を喪失した。

10時8分、敵飛行艇が触接していることを発見、直掩機がこれを撃墜した[85]。攻撃後の10時55分、榛名水偵から南方海域に空母一隻と駆逐艦三隻を発見した報告があった[81][82]。午前11時43分、高橋少佐式の第二次攻撃隊(艦爆85機〈赤城17、蒼龍18、飛龍18、瑞鶴14、翔鶴18〉、零戦6機〈蒼龍3、飛龍3〉)が発艦して[81][82]、13時30分にハーミーズ以下を発見した[86]。 ハーミーズとオーストラリアの駆逐艦ヴァンパイアは逃走を試みたが、間もなく艦爆隊に発見され撃沈された[87]。ほかに、同じく退避中のタンカー2隻とコルベットホリホックも撃沈された[88]。なお、ハーミーズは修理中のため搭載機は陸上基地に展開していた。赤城ではハーミーズがハリケーンの救援を求める電報を傍受した[87][89]。ハーミーズ攻撃の際、急降下爆撃は45機が投弾、日本軍記録命中弾37発、命中率82%を記録した[81][90]

ハーミーズに対する攻撃成果[91]
赤城 艦爆隊 投弾2発 命中2発
飛龍 艦爆隊 投弾11発 命中9発
瑞鶴 艦爆隊 投弾14発 命中13発
翔鶴 艦爆隊 投弾18発 命中13発

まだ投弾していなかった機は周囲の艦船を目標とし、豪駆逐艦バンパイア、哨戒艇ホーリー、商船2隻(タンカー)を撃沈。

  • バンパイア:投弾16発、命中13発
  • ホーリー:投弾6発、命中1発
  • 大型商船:投弾12発、命中11発
  • 小型商船:投弾6発、命中5発
セイロン沖での攻撃全体の成果[92]
赤城 艦爆隊 投弾17発 命中16発(1機投下不能)
蒼龍 艦爆隊 投弾18発 命中11発
飛龍 艦爆隊 投弾18発 命中13発
瑞鶴 艦爆隊 投弾14発 命中13発
翔鶴 艦爆隊 投弾18発 命中13発

この間、イギリス空軍のブレニム爆撃機[93](第11中隊のブリストル・ブレンハイム双発爆撃機)[78][94]、一部資料ではウェリントン爆撃機9機が南雲機動部隊を奇襲した。このとき日本側ではトリンコマリー攻撃から第一次攻撃隊が帰還しており、これも「ハーミーズ」攻撃に向かわせるべく補給をし、攻撃機に魚雷を積んでいる最中で、イギリス軍機に全く気付いていなかった[95]。イギリス空軍機は南雲機動部隊旗艦赤城を狙って編隊爆撃を行い[96]、投下された爆弾は挟叉したものの命中しなかった[97][98]。日本軍は直掩の零式艦上戦闘機により爆撃機5機を撃墜したが、指揮官機(飛龍分隊長、能野澄夫大尉)が防御砲火で撃墜された[98]。9日の戦闘における日本側損害一覧は、艦爆4、艦攻1、零戦5であった[88]

馬来部隊の通商破壊作戦[編集]

また、南雲機動部隊の活躍は、ベンガル沖での馬来部隊(第一南遣艦隊基幹)の作戦の助けにもなった[99]。馬来部隊はアンダマン諸島・ニコバル諸島の占領作戦を終えたあと、ビルマのラングーンに対する輸送作戦を実施していた[100]。 同時期、馬来部隊指揮官小沢治三郎海軍中将(第一南遣艦隊司令長官、旗艦「鳥海」)は南雲機動部隊のインド洋進出に呼応し[101][102]、ベンガル湾機動作戦を開始した[103][104]。 馬来部隊の作戦目的はインド洋→ベンガル湾→カルカッタに至る通商路を攻撃する事で、ビルマ方面の連合軍を牽制し、アンダマン諸島への反攻企図を阻止することにあった[103][105]。 作戦参加部隊は下記の区分に分けられる[106][107][108]

  • 馬来部隊機動部隊
    • 北方隊:熊野、鈴谷、白雲
    • 中央隊:鳥海、由良、龍驤、朝霧、夕霧
    • 南方隊:三隈、最上、天霧
  • 補給隊
    • 綾波、汐風、日栄丸
  • 警戒部隊
    • 軽巡洋艦:川内
    • 第十九駆逐隊第一小隊[107]:浦波、磯波[注釈 1]
    • 第十一駆逐隊[107][109]:初雪、白雪、吹雪、叢雲

馬来部隊主隊(鳥海、由良、龍驤、第三水雷戦隊)は3月26日、メルギーに進出した[110]。 4月1日にメルギーを出撃してベンガル湾へ進出[111][112]、警戒部隊(第三水雷戦隊)はアンダマン諸島近海で待機した[113][114]。 機動部隊(北方隊、中央隊、南方隊)は4月6日より作戦を開始した[115]。各隊は、通商破壊作戦とインド本土に対する空襲を敢行した[104][116]。一連の作戦で、日本軍記録23隻を撃沈した。このうち4月6日は航行中の商船を次々と攻撃し[117]、21隻・137,000トン撃沈、その他8隻大破という大戦果を挙げている[12]。撃沈した21隻について各隊別の内訳は下記の通り。

  • 北方隊:商船8隻
  • 中央隊:商船8隻
  • 南方隊:商船5隻

馬来部隊機動部隊は4月7日から8日にかけて合流し[113][118]、4月11日にシンガポールへもどった[119][120](翌日、第一南遣艦隊旗艦を鳥海から香椎に変更)[104][121]。 この作戦を区切りとして、馬来部隊(第一南遣艦隊)に派遣されていた各部隊・各艦は指揮下を離れることになる[122](4月10日附で南西方面艦隊を新編)[123][124]。 ベンガル湾機動作戦に参加した各部隊は、それぞれ内地に帰投した[125][126]

海戦後[編集]

コロンボ基地並びにトリンコマリー軍港を破壊された東洋艦隊はセイロン島、アッドゥ環礁のいずれも危険と判断、A部隊をボンベイに、B部隊を船団護衛のためアフリカ東岸モンバサキリンディニ港に向かわせた[127]。さらにインド洋東側での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。 インド洋作戦は第一段作戦(南方作戦)に付随した最後の作戦にあたった。以後、日本海軍は第二段作戦として短期決戦と米豪遮断作戦を並行して推し進め、インド洋方面では海軍による大規模攻勢は行われることはなかった。

作戦終了後、第一航空艦隊では夕闇迫るインド洋上の飛行甲板に整列して、戦死した戦友のために一分間の黙とうを捧げた後、進路を東にとって内地に帰還した[128]。途中、第五航空戦隊(空母〈瑞鶴、翔鶴〉、警戒艦〈萩風、舞風、秋雲〉)[129]はMO作戦のため台湾に向けて分離した[98][130]。五航戦はドーリットル空襲に対処したあと兵力を再編してMO機動部隊(本隊〔第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第7駆逐隊1小隊〈潮、曙〉〕、航空部隊〔五航戦〈瑞鶴、翔鶴〉、第27駆逐隊〈時雨、白露、有明、夕暮〉〕、補給部隊〔東邦丸〕)となり[130]、南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)に編入されて珊瑚海へむかった[26]珊瑚海海戦[131][132]

潜水艦作戦にも変化があった。4月10日の第二段作戦第一期兵力部署が発動され、丙潜水部隊は先遣部隊(第六艦隊)に戻されて本土に向かった[133]。以後、新設の第八潜水戦隊などがインド洋に展開することとなる[133]。潜水艦のほかにも、特設巡洋艦(報国丸、愛国丸)による通商破壊作戦がおこなわた[134]。 その後インド洋では、フランスを占領下に置いていたドイツからの依頼を受けて、少数の潜水艦がマダガスカルの戦いに投入された。これは仏領マダガスカル島におけるヴィシー・フランス軍イギリス軍の間で行われた戦闘であった。5月末、甲先遣隊の潜水艦と特殊潜航艇甲標的によるディエゴ・スアレス奇襲作戦が実施され、英戦艦ラミリーズが大破・タンカー1隻が沈没している[134]。このようにイギリス連邦の通商遮断作戦を行った[135]

一方、ドイツとイタリアでは、このセイロン沖作戦以降、有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に対し不満が高まった。クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請、ついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えた[136]。野村は「北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む」と報告した[136]。イタリアのベニート・ムッソリーニ首相も、「更ニ一層密接ナル協力ヲ希望ス」として、日本海軍がイギリス東洋艦隊を撃滅することを希望した[136]

大本営軍令部)は6月22日の大海指第107号により「作戦に支障のない限りあらゆる使用可能兵力および機会を利用して、極力敵の海上交通を破壊擾乱し、敵の屈服を促進する」旨を連合艦隊に指示した[137]。連合艦隊は電令作第174号により「インド洋方面海上交通破壊戦(B・作戦)」[137][2]の実施を南西方面艦隊(司令長官高橋伊望中将/第二南遣艦隊長官兼務、旗艦「足柄」)に下令する[138][139]。 当時の日本海軍は母艦航空隊の再建に尽力しており(珊瑚海海戦で第五航空戦隊の消耗大、ミッドウェー海戦では赤城・加賀・蒼龍・飛龍喪失)、とりあえず空母を使用しない本作戦が実施されることになった[139]。作戦目的は、インド洋方面通商破壊作戦、敵兵力の減殺、敵艦艇の拿捕回航であった[137][140]。 また連合艦隊はB作戦と並行して、ココス諸島やセイロン島の攻略の検討をはじめた[141]。一連の日本海軍のインド洋方面作戦重視には、同盟国(ドイツ、イタリア)との連携という意味合いもあった[141]。作戦前の7月14日、第一南遣艦隊司令長官は小沢治三郎中将から大川内傳七中将に交代する[138][142]。7月16日、南方部隊指揮官(南西方面艦隊長官)は南方部隊電令作第6号によりB作戦の実施を第一南遣艦隊司令長官に命じた[2]

B作戦は第一南遣艦隊司令長官(旗艦香椎)を指揮官とし、 主隊(巡洋艦〈香椎〉、海防艦〈占守〉、駆逐艦〈春風〉、特設巡洋艦〈清澄丸〉、特設水上機母艦〈相良丸〉、駆潜艇7号)、 第七戦隊(司令官西村祥治少将[注釈 2]。鈴谷、熊野)[注釈 3]、 第十六戦隊(司令官原健三郎少将。名取、鬼怒)[注釈 4]、 第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将。軽巡〈川内〉、第11駆逐隊〈吹雪、白雪、初雪、叢雲〉、第19駆逐隊〈浦波、綾波、敷波〉[注釈 5]、第20駆逐隊〈天霧、朝霧、夕霧、白雲〉)[143]、第二水雷戦隊より第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)、第四水雷戦隊より第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)[144]が、7月31日までにマレー半島のメルギーに集結した[145][146]。7月28日附の兵力部署は以下のとおり[2][147]

  • 主 隊:大川内中将 - 香椎、春風、占守、駆潜艇7号、相良丸、清澄丸
  • 機動部隊:指揮官原健三郎第十六戦隊司令官[148]
    • 中央隊:原健三郎少将 - 第十六戦隊(名取、鬼怒)、第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、叢雲)
    • 南方隊:西村祥治少将 - 第七戦隊(熊野、鈴谷)、第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)
    • 北方隊:橋本信太郎少将 - 第三水雷戦隊(川内、第19駆逐隊〈浦波、綾波、敷波〉、第20駆逐隊〈天霧、朝霧、夕霧、白雲〉)
  • 航空部隊:第二十一航空戦隊司令官多田武雄少将[149] - 基地航空隊(第二十一航空戦隊、第四十航空隊、第二十三航空戦隊)
  • 潜水部隊:第三十潜水隊司令 - 第30潜水隊(伊165伊166[150]
  • 補給隊:旭東丸特務艦長 - 初鷹、雁、旭東丸、日本丸

連合艦隊司令部は、水上部隊が輸送船20隻、潜水艦部隊が50隻を撃沈すると予想した[151]。当時、イギリス海軍は東アフリカに空母イラストリアスを配備しているだけだったが、8月1日に日本軍飛行艇がセイロン島南方に「戦艦1と空母2隻を含む敵機動部隊、付近に巡洋艦・駆逐艦各2隻」を発見した[144][152]。大川内長官はB作戦発動を3日延期した[152]。8月5日から6日にかけて英軍機の偵察があり、潜水艦1隻の存在も通報された[152]。大川内長官はB作戦の発動を延期[138]、B作戦部隊はメルギーで待機した[153]。 作戦決行直前の8月7日、連合軍はガダルカナル島フロリダ諸島に来攻(ウォッチタワー作戦[154]ガダルカナル島の戦いがはじまる[138][152]。8月8日、連合艦隊はB作戦の中止を決定した(連合艦隊電令作第198号)[155]。南西方面艦隊・第一南遣艦隊に臨時編入されていた各部隊・各艦は指揮下を離れ[152][156]、それぞれトラック泊地やソロモン諸島へ向かった[146][155]

以降、ソロモン・ニューギニア方面が不安定となると、インド洋方面に投入される戦力は激減した[141][157]。日本海軍の潜水艦が「交通破壊活動を細々と実施する」状態になった[141]。ドイツとイタリアは日本が作戦を中止した事に不満を高め、真珠湾攻撃でアメリカを戦争に引きずり込んだ事や同盟国のアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判、ついには「こんなことならアメリカに対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難した[157]。このため、日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼしている[157]

参加兵力[編集]

日本軍[編集]

南方部隊本隊

指揮官:第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将(旗艦「愛宕」)

南方部隊機動部隊(通称、南雲機動部隊)[158]

指揮官:第一航空艦隊司令長官南雲忠一海軍中将(近藤長官麾下)

馬来部隊

指揮官:第一南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将

  • 北方隊(指揮官:第七戦隊司令官栗田健男海軍中将)
    • 第七戦隊第一小隊 - 重巡洋艦:熊野(栗田司令官旗艦)、鈴谷
    • 第二十駆逐隊(第三水雷戦隊所属) - 駆逐艦:白雲
  • 中央隊(指揮官:馬来部隊指揮官小沢治三郎第一南遣艦隊長官
    • 第四戦隊 - 重巡洋艦:鳥海
    • 第五潜水戦隊 - 軽巡洋艦:由良
    • 第四航空戦隊 - 空母:龍驤(第四航空戦隊司令官角田覚治少将旗艦)[119]
    • 第二十駆逐隊(第三水雷戦隊所属) - 駆逐艦:夕霧、朝霧
  • 南方隊(指揮官:三隈艦長崎山釈夫大佐)
    • 第七戦隊第二小隊 - 重巡洋艦:三隈、最上
    • 第二十駆逐隊 - 駆逐艦:天霧
  • 補給部隊(指揮官:綾波駆逐艦長作間英邇中佐)
    • 駆逐艦(綾波、汐風)、給油艦「日栄丸」
  • 警戒隊(指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官)
    • 第三水雷戦隊:軽巡洋艦:川内(橋本司令官旗艦)
    • 第十九駆逐隊第1小隊:駆逐艦 - 浦波、磯波
    • 第十一駆逐隊:駆逐艦 - 初雪、白雪、吹雪、叢雲
丙潜水部隊

指揮官:第二潜水戦隊司令官市岡寿少将

南方部隊航空部隊

指揮官:第十一航空艦隊司令官塚原二四三少将

  • 基地航空隊、飛行艇部隊

連合軍[編集]

東洋艦隊

司令長官:ジェームズ・サマヴィルen:James Fownes Somerville)中将

損害[編集]

日本軍
  • 零戦4機損失
  • 九九式艦爆10機損失
  • 九七式艦攻2機損失
連合軍
  • 軽空母ハーミーズ沈没
  • 重巡コーンウォール沈没
  • 重巡ドーセットシャー沈没
  • 駆逐艦ヴァンパイア沈没
  • 駆逐艦テネドス沈没
  • タンカー2隻ほか輸送船10隻以上沈没、損傷多数
  • 基地航空機約50機損失(イギリス軍記録:27機以上損失)。

評価[編集]

本作戦において南雲機動部隊と馬来部隊は、大きな戦果をあげた[88][167]。南雲機動部隊は英軍の二大拠点であるコロンボ、トリンコマリーに大打撃を与え、重巡洋艦のコーンウォール、ドーセットシャー、空母のハーミーズ、その他多数の艦船を撃沈・撃破した。他の作戦と合わせ、ビルマ方面における日本の進攻作戦を容易にした[168]大本営は作戦全体として空母1隻、甲巡2隻、乙巡2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻、船舶27隻撃沈、乙巡1隻、船舶23隻大破、航空機撃墜120機と大本営発表を行った[169]。当時、沈みゆくハーミーズの写真は写真週報第219号に掲載された[170]。「週報第288号」では「わが方の電撃戦の前にイギリスインド洋方面の主力艦隊は杳として姿を現はさず」「イギリスが宣伝していた戦艦、航空母艦数隻を主力とする、いはゆる「大英インド艦隊」は、果たして今いづこに健在するのであろうか」と報じている[171]

しかし、イギリス東洋艦隊主力の撃滅には至らなかったため、連合国軍全体に与えた影響は限定されていたという意見もある[127]ラッセル・グレンフェルイギリス軍海軍大佐は、「それ故、敵がコンウォール、ドーセットシャー、そして、ヘルメスを捕捉し得た小さな成功により、遂に東洋艦隊の主力を発見し、壊滅に至らしめるだけの勢力集中が出来なかったことは、到底償いのつかぬ大失敗であった。」と評価している[172]。グレンフェルによると、東洋艦隊が二度目の壊滅を喫した場合にはウィンストン・チャーチルの政治家生命がその時点で終わり、イギリスは戦争から脱落し、日本は大東亜共栄圏の確立に成功して第二次世界大戦の結末が変わっていた可能性を指摘している[173]。英国海軍大佐のS・W・ロスキルは、サマヴィル艦隊が虎口を逃れた事について「(5日に)サマヴィル艦隊が発見されなかったのは、全く神の恵みと言うほかない」と述べたとされる[174]

一方、インド洋作戦の実施自体に批判もある。第一航空艦隊総飛行隊長だった淵田美津雄は、当時よりインド洋での作戦自体に不満を抱いており、戦力の回復していないアメリカの太平洋艦隊主力を早期に撃滅するべきであり、そのために再び真珠湾攻撃のような積極攻勢を早期に実施することを望んでいた[175]

セイロン沖海戦で暗号が解読されイギリス東洋艦隊がセイロン島海域で待ち伏せていた事、付近に敵空母の存在の疑いがあると判断した後も偵察が不徹底で南雲機動部隊の近距離で行動していたイギリス東洋艦隊を発見できなかった事、コロンボ攻撃の際に英巡洋艦が発見し、兵装転換を行った事、第一航空艦隊がイギリス空軍機の接近に気づかず空母赤城が攻撃換装中にイギリス空軍爆撃機9機に奇襲された事は、直後の6月に発生したミッドウェー海戦と類似しており、戦訓を活かせなかったという意見もある[176]。 一方、連合艦隊がミッドウェー作戦計画案を配布したのは4月28日で、その後図上演習開始まで関係者は戦訓研究会に出席していたため、作戦計画を深く研究する時間的余裕がなかったという意見もある[177]。索敵については、サマヴィル中将旗下のイギリス東洋艦隊も索敵能力が低く、日英両艦隊は100海里まで近づきながら互いに気づかず、索敵不十分により敵がいないと錯誤したが、何事もなかったため戦訓にもならず索敵はこれでいいと思い込み、ミッドウェーの敗戦につながったという意見もある[178]。たとえば中島親孝(当時、第二艦隊参謀)は「このとき危ない場面に出会っていれば、後のミッドウェーの場合、あれほど不用意な作戦をしなかったとも思われる」と回想してる[21]

またセイロン沖海戦における空母ハーミス攻撃時、南雲機動部隊は少数のイギリス空軍双発爆撃機の接近に気付くのが遅れて赤城に至近弾があった[94]。襲撃後、イギリス軍爆撃機は零戦の邀撃により壊滅した[94]。第一航空艦隊航空参謀だった吉岡忠一によれば、「これに対し、一航艦は見張りさえ十分にすれば敵の攻撃は防止できると簡単に考えていた」と述べている[179]。 飛龍戦闘詳報には「現在の見張り設備では高高度の敵機を発見するのは困難であり、対策として対空見張り用の電波指信器や空中聴音機の設置が必要」といった戦訓が出されている[180]。他にも敵機発見の報告の迅速化が必要という戦訓がまとめられた[181]。また、具体的な適否を検討する事なく、観念的に空母の集団使用による防空戦闘機の集中使用こそ敵の反撃阻止に有利との考えが強くなっていたという意見もある[182]。赤城への至近弾について中島第二艦隊参謀は4月末の会議で大石保(当時、第一航空艦隊先任参謀)に「空母をひと固まりにして行動するのは危険ですね」と話しかけると、大石は「源田実は戦闘機の上空直衛に絶対的自信を持っていて、いっても聞かない」と答えたという[123][注釈 7]

GHQ戦史室長ゴードン・ウィリアム・プランゲは『ミッドウェーの奇跡』で、インド洋作戦で索敵機が一再にとどまらず機位を失い、無線封止を破って母艦が回収に必要な電波を発したことで自らの艦隊位置を敵に暴露することになったため、南雲艦隊は偵察に必要以上の兵力を割くことをためらうようになったと主張している[185]。これに対し、本著の翻訳者である千早正隆は、ミッドウェー海戦で日本海軍が犯したのと同様の索敵の不備がセイロン沖海戦で既に起きていたという持論であり、プランゲがそれを認識していないとして、それをプランゲの著書の編集者に指摘して賛意を得られたと主張している[186]

コロンボ空襲の際に、雷装から爆装、爆装から雷装と兵装転換が発生したが、ミッドウェーでも同じことが発生し、攻撃が遅れた。ただ、本海戦では1時間半で済んだものがミッドウェー海戦では2時間でも完成しなかった。敵襲を考慮しても2時間あれば十分で、原因としてミッドウェー海戦では戦闘機の補給も同時に行っていたことが挙げられる[187]。また、第一航空艦隊はこの海戦において敵の来襲の無い好条件下で兵装転換を行ったが、艦攻の出撃が間に合わなかった事から、兵装転換の実験を飛龍で実施した。その結果、平常航海中に行われた実験で、魚雷から通常爆弾(250屯爆弾2個)への転換に2時間半、通常爆弾(同)から魚雷への転換に2時間といった成績を出した[188]。一方、この実験を第二航空戦隊の山口少将が研究したものとして、第一航空艦隊司令部はミッドウェー作戦の計画に反映させなかったという主張もある[189]

映像記録[編集]

本海戦の日本側艦隊には日本ニュースの撮影陣が乗り組んでおり、機動艦隊の洋上航行風景、空母上で零戦が発艦準備を行う様子、零戦や九七式艦攻が空母から発艦して攻撃に向かう様子、飛行中の九九式艦爆、セイロン島上空で爆撃を行う様子、商船に対して砲撃を行う様子、空母ハーミーズに対し爆撃を行う様子などがフィルムに収められた。

フィルムは6分20秒に編集され、1942年4月28日にニュース映画「日本ニュース第99号<凱歌高しインド洋>」として日本国民に向け公開された。

現在この「日本ニュース第99号」は、NHKにより「戦争証言プロジェクト」の一環として全編が公開されておりネット視聴することが可能である。

注釈[編集]

  1. ^ 第19駆逐隊第2小隊の駆逐艦敷波は、ビルマ輸送護衛従事のため不在。
  2. ^ 木俣滋郎『日本軽巡戦史』229頁の編成表で「七戦隊司令官:栗田健男少将」とあるは誤記。栗田中将は既に第三戦隊司令官へ転任済み。
  3. ^ 第七戦隊の重巡最上は、ミッドウェー作戦での損傷修理のため不在。
  4. ^ 第十六戦隊の軽巡五十鈴は、豪北方面作戦従事中のため不在。木俣滋郎『日本軽巡戦史』235-236頁。
  5. ^ 第19駆逐隊の駆逐艦磯波は、ミッドウェー作戦での損傷修理のため不在。
  6. ^ 第四戦隊の重巡高雄摩耶は3月中旬に内地帰投、不在。鳥海は馬来部隊旗艦(第一南遣艦隊旗艦)のため別行動。
  7. ^ 機動部隊の空母が航空攻撃を受けたのは本海戦が初であった。空母に関しては、開戦前、海軍では空母は攻撃力こそ高いが防御は極めて弱く、防空などの受け身の防御によって敵の攻撃を完全に阻止することは不可能とする判断から、集中と分散のどちらで使用すべきか論議され、結論に達していなかった。一航艦は、ハワイ作戦で長途隠密行動を行うため、集中使用を行い、指揮運用が容易で、攻撃力集中の利点もあり、その後も集中運用を続けたが、欠点となる本格的な航空攻撃を受けたことがなかった[183]。空母戦は先制空襲が理想だが、必ず成功すると限らない以上、相互打ち合いが多くなると考え、脆弱性を前提に使用法の集中、分散の利害得失が論議された。いずれの使用法にしろ空襲を受けた際の防御処置をとって戦闘力持続に努めることが必要とわかっていたが、日本海軍では認識不十分で研究・施策ともに熱意が欠けていた[184]

脚注[編集]

  1. ^ #S1611一南遣日誌(1)pp.8-9「(三)任務編制配備(一)任務 1.「ベンガル」湾北部機動作戰 2.U作戰 3.海上交通保護作戰」
  2. ^ a b c d 戦史叢書54巻、119-121頁「九 B作戦計画とその取りやめ」
  3. ^ 戦史叢書35巻、458-459頁「セイロン島方面およびベンガル湾機動作戦発令」
  4. ^ a b c d e f 戦史叢書35巻、547-550頁「印度洋機動作戦」
  5. ^ a b 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 216.
  6. ^ 戦史叢書35巻、447-449頁「セイロン攻略の発想」
  7. ^ 戦史叢書35巻、472-474頁「陸海軍の作戦調整難航」
  8. ^ 戦史叢書35巻、477-479頁「米英と豪印間の遮断問題」
  9. ^ #海軍とコミンテルン98-99頁
  10. ^ 戦史叢書35巻、459-461頁「獨逸の中近東作戦の企図」
  11. ^ 戦史叢書35巻、451-455頁「印度洋作戦聯合艦隊図演」
  12. ^ a b c d #海軍とコミンテルン101頁
  13. ^ 戦史叢書35巻、437-439頁「南方軍のビルマ作戦指導」
  14. ^ 戦史叢書35巻、540-541頁「ビルマにおける連合軍」
  15. ^ 戦史叢書35巻、430-431頁「第五十六師団の海路輸送への変更」
  16. ^ a b 戦史叢書35巻、449-451頁「印度洋機動作戦の登場」
  17. ^ a b 戦史叢書35巻、545頁「アンダマン攻略作戦」
  18. ^ #S1611一南遣日誌(1)pp.7-8「(二)敵軍ノ情勢(三月下旬) (イ)艦艇 戰艦二隻(「リベンヂ」「ローヤルソバレン」型)空母一隻(「ハーメス」型)甲巡二乃至三隻 乙巡五乃至六隻 驅逐艦四乃至五隻ハ概ネ「コロンボ」「ボンベイ」ヲ中心トシテ行動中ニシテ無線諜報ニ依レバ三月五日「コロンボ」方面ニ四乃至五隻アリ 三月十日「カルカッタ」「ラングーン」方面ニ二隻アリ/南西阿ニ戰艦一隻(「ラミリーズ」型)空母一隻(「インドミタブル」型)甲巡一乃至二隻 乙巡四乃至五隻アリテ「ダーバン」「ケープタウン」附近ヲ中心トシテ行動シアリ/又二月二十六日濠洲方面ニ「ウオアースパイト」(空母一隻附属シアルヤモ知レズ)行動中ナリ 潜水艦ハ「アデン」ニ一月下旬一隻アリタルモ其ノ後ノ動静不明ナリ」
  19. ^ a b 草鹿 1979, pp. 102-103.
  20. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.8「(二)敵軍ノ情勢(三月下旬) (ロ)航空機」
  21. ^ a b c 聯合艦隊作戦室 1997, p. 44.
  22. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.22「三月九日|GF長官→南方部隊指揮官(GF各長官・總長)聯合艦隊電令作第八六號 南方部隊指揮官ハ左ニ依リ錫蘭方面機動作戰ヲ實施スベシ 一.作戰目的 鈴蘭島方面的艦隊奇襲撃滅/二.作戰期日 自三月下旬至四月上旬/三.参加兵力 機動部隊ヲ基幹トスル兵力」
  23. ^ #S1611一南遣日誌(1)pp.6-7「一般情勢(ハ)潜水部隊(2SS)ハ伊號第一潜水艦ヲ「ツリンコマリ」冲 伊號第三潜水艦ヲ「コロンボ」冲 伊號第七潜水艦ヲ錫蘭南東方海面ニ配備シ敵情監視中ナリ」
  24. ^ #S1611一南遣日誌(1)pp.24-25「三月十五日|2F長官→南方部隊各長官司令官(總長、GF長官、6F長官)機動部隊指揮官 南方部隊電令作第一三九號(十四日二〇三〇発令)」
  25. ^ 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 225.
  26. ^ a b c 大和最後の艦長 2011, pp. 126-128.
  27. ^ 愛宕奮戦記 2008, pp. 76-77.
  28. ^ a b 写真日本の軍艦6巻、37頁「重巡洋艦『高雄・愛宕』行動年表 ◇愛宕◇」
  29. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.7「一般情勢(ニ)南方部隊本隊{愛宕 4dg(第二小隊欠)}ハ四月五日「アンダマン」南西方海面ニ進出全作戰ヲ支援ス」
  30. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.6「一般情勢(ロ)第十一航空艦隊司令部及22sf司令部ハ三月中旬盤谷ニ進出シ美幌隊ハ「サバン」元山航空隊ハ盤谷(一部ハ蘭貢及「タボイ」)東港航空隊ノ一部ハ「ポートブレア」ニ展開シ其ノ配備ヲ完了シ錫蘭方面及「ベンガル」湾北部ノ索敵攻撃ニ任ジツツアリ」
  31. ^ グレンフェル 2008, p. 136.
  32. ^ グレンフェル 2008, p. 138.
  33. ^ グレンフェル 2008, p. 137.
  34. ^ a b グレンフェル 2008, p. 141.
  35. ^ a b 山口多聞 1989, pp. 161-162.
  36. ^ 日本空母戦史、172-175頁「日本艦隊、インド洋へ(昭和十七年四月)」
  37. ^ 草鹿 1979, p. 105「第二次インド洋作戦図」
  38. ^ a b c グレンフェル 2008, p. 142.
  39. ^ 日本空母戦史、175-176頁「英空母ハーミス」
  40. ^ a b c d e グレンフェル 2008, p. 143.
  41. ^ a b 草鹿 1979, pp. 103-104.
  42. ^ a b c d e 日本空母戦史、176-177頁
  43. ^ 翔鶴海戦記 1962, p. 58.
  44. ^ 倉橋 1987, pp. 71-72「英飛行艇撃墜」
  45. ^ 磯風、特年兵 2011, p. 27.
  46. ^ #海軍驕りp25
  47. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫 86頁
  48. ^ a b 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 217.
  49. ^ 文芸春秋編『完本・太平洋戦争(一)』文春文庫298頁
  50. ^ a b c 日本空母戦史、180-182頁
  51. ^ a b c 写真日本の軍艦3巻、163頁「航空母艦『瑞鶴』行動年表」
  52. ^ 写真日本の軍艦3巻、174頁
  53. ^ 翔鶴海戦記 1962, p. 59.
  54. ^ a b c 日本空母戦史、178-179頁
  55. ^ 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 242.
  56. ^ 文芸春秋編『完本・太平洋戦争(一)』文春文庫298頁
  57. ^ a b c d e f 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 218.
  58. ^ a b 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 246.
  59. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫95頁
  60. ^ a b c 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 247.
  61. ^ 日本空母戦史、182-184頁
  62. ^ 『別冊歴史読本永久保存版 空母機動部隊』新人物往来社28頁
  63. ^ 草鹿 1979, pp. 104-107「瞬間、二重巡を屠る」
  64. ^ 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 245.
  65. ^ 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 248.
  66. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 647頁
  67. ^ 草鹿 1979, pp. 107-108.
  68. ^ a b グレンフェル 2008, p. 145.
  69. ^ a b グレンフェル 2008, p. 144.
  70. ^ a b 日本空母戦史、184-186頁「英空母機、日本機動部隊を補足す」
  71. ^ #海軍驕りp29
  72. ^ 五航戦戦闘詳報 5pでは19時15分と記載。現地時間では16時9分ごろと思われる。
  73. ^ 現地時間では16時29分ごろと思われる。
  74. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 647頁
  75. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 650頁
  76. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫 102~103頁
  77. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 647、650頁
  78. ^ a b 日本空母戦史、186-189頁
  79. ^ 文芸春秋編『完本・太平洋戦争(一)』文春文庫301頁
  80. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫103-104頁
  81. ^ a b c d e 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 219.
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  109. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.30「四月四日|〇〇〇〇|針路二七〇度十度海峡ニ向フ/〇七三〇|由良主隊ニ合同ス/〇八〇〇|11dgヲ分離「ポートブレア」ニ向ハシム(以下略)」
  110. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.6「一、経過(一)一般情勢(イ)三月ヲ以テ南方作戰ハ概ネ一段落ヲナシ南方部隊機動部隊(1AF 3S 8S 1Sd基幹)ハ三月二十六日「スターリング」湾出撃「ジャバ」南方距岸100浬ヲ航行四月五日錫蘭島方面奇襲ニ決セリ/馬來部隊ハ二月下旬ヨリ研究セル計画ニ基キ右作戰ト相呼應シ鳥海 7S 龍驤 由良 20dgヲ以テ「ベンガル」湾北部ニ機動作戰ヲ行フニ決シ三月二十六日其ノ大部ハ「メルギー」ニ集結ヲ完了セリ」
  111. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.30「四月一日|一四〇〇|馬來部隊機動部隊「メルギー」ヲ出撃第二航路ヲトル」
  112. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.30「四月四日|〇〇〇〇|針路二七〇度十度海峡ニ向フ/〇七三〇|由良主隊ニ合同ス/〇八〇〇|11dgヲ分離「ポートブレア」ニ向ハシム(以下略)」
  113. ^ a b #S1702三水戦日誌(7)p.6「(ハ)作戦指導(一)C作戰 D作戰ニ引續キ警戒隊ハ「ブレーヤ」附近ヲ警戒中ナリシ処四日「ブレーヤ」沖發「アンダマン」北西二百五十浬ノ海面ニ進出附近ヲ機宜行動 北方、中央、南方各部隊ノ後方連絡線ノ警戒ニ任ジタル後八日朝主隊ト合同昭南ニ歸投ス/三日「ブレーヤ」ニ於テ敵大型機數機ノ空襲ヲ受ケシモ我ニ大ナル被害ナク之ヲ撃退 敵一機ヲ集中砲火ニ依リ不時着セシメタリ」
  114. ^ #S1702三水戦日誌(7)p.21「一.作戰ノ梗概 D作戰ニ引續キ警戒隊ハ「ブレーヤ」附近ヲ警戒シアリ處四月三日黎明敵大型機四乃至五機ノ空襲アリ 警戒隊各艦直ニ之ヲ砲撃々退其ノ一機ヲ不時着セシム 我夕霧ニ戰死二重傷一ヲ生ゼル外被害ナシ/三日 二〇驅ハ「ブレーヤ」泊地發主隊ト合同トノ會合點ニ向フ/警戒隊ハ四日 十一驅ヲ合シ同時刻「ブレーヤ」沖發「ブレーヤ」北西約二百五十浬ノ海面ニ進出附近ヲ機宜行動警戒ニ任ジ八日朝主隊ト合同昭南ニ皈投ス」
  115. ^ #S1611一南遣日誌(1)p.14「(四)作戰指導 (一)「ベンガル」湾北部機動作戰 南方部隊機動部隊錫蘭島奇襲ト相呼應シ實施 而シテ南方部隊機動部隊ノ成果發揚ヲ第一義トシ之ヲ妨害セザル如ク四月六日決行セリ」
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  • 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦』 防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社<戦史叢書> 1969年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營陸軍部<3> 昭和十七年四月まで』第35巻、朝雲新聞社、1970年6月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 ミッドウェー海戦』第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。
  • 『丸スペシャル 95 蘭印攻略作戦 インド洋作戦』1985年
  • 写真日本の軍艦 第3巻 空母I』 雑誌『』編集部/編、光人社、1989年9月ISBN 4-7698-0453-9
  • 写真日本の軍艦 第6巻 重巡II』 雑誌『』編集部/編、光人社、1989年12月ISBN 4-7698-0456-3
  • 『写真 太平洋戦争<第二巻> 中部・南部太平洋方面攻略作戦 蘭印攻略作戦/インド洋作戦』 雑誌「丸」編集部、光人社〈光人社NF文庫〉、1995年1月。ISBN 4-6798-2071-2
    • (216-220頁)「インド洋の制圧」、(224-229頁)「インド洋方面の潜水艦作戦」、(246-251頁)「英東方艦隊を撃沈した驚異の命中率」
  • 山本悌一郎 『海軍魂 若き雷撃王村田重治の生涯』 光人社〈光人社NF文庫〉、1996年7月(原著1984年)。ISBN 4-7698-2129-8

関連項目[編集]