セイロン沖海戦

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セイロン沖海戦
HermesSinking.jpg
沈没するイギリス空母ハーミーズ
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1942年4月5日~4月9日
場所インド洋セイロン島
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 イギリスの旗 イギリス
オーストラリアの旗 オーストラリア
オランダの旗 オランダ
指導者・指揮官
南雲忠一中将 J・サマヴィル中将
戦力
空母5
戦艦4
重巡洋艦7
軽巡洋艦3
駆逐艦19
潜水艦5
航空機350
空母3
戦艦5
重巡洋艦2
軽巡洋艦4
駆逐艦15
航空機180
損害
零戦4機
九九式艦爆10機
九七式艦攻2機
空母1
重巡洋艦2
駆逐艦2沈没
航空機50機
南方作戦
ベンガル湾南西に位置するセイロン島

セイロン沖海戦(セイロンおきかいせん)は、1942年4月5~9日インド洋セイロン島沖で日本海軍イギリス海軍の間で行われた戦闘インド洋作戦の過程で発生した。連合国軍側の呼称はインド洋空襲(Indian Ocean raid)。

背景[編集]

日本[編集]

3月9日、日本軍はジャワ島を攻略し、第一段作戦(南方作戦)の南方資源地帯占領は想定より早く終了、ビルマ方面をのぞき最終段階にあった。第二段作戦の検討は始められていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まってなかった。さらに、日本と日独伊三国同盟を結ぶナチス・ドイツは、インド洋に日本海軍の戦力を投入してイギリスの後方撹乱を期待、海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議している[1]連合艦隊司令部では2月20日から23日にかけてインド洋侵攻作戦の図上演習を行い、セイロン島の占領・英国東洋艦隊撃滅の計画をたてる[2]。しかし、セイロン攻略作戦に自信を持てない日本陸軍や、米豪遮断を目指す海軍軍令部の反対により連合艦隊のインド洋方面作戦計画は後退を余儀なくされた[2]

当時、南方の陸上作戦は順調で、ビルマ攻略を目指す陸軍第十五軍は首都ラグーンを占領しており、今後、全ビルマ制圧作戦を進めるには海路からの軍需品輸送が不可欠であった。しかし、インド洋にあるセイロン島にはイギリス軍の二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーがあり、日本の海路からの輸送をイギリス艦隊が阻止してくることが予想できた。そこでこの二大拠点に打撃を与えておく必要があり、第一航空艦隊がセイロン島に向かって3月26日に出発した[3]。日本では、インド洋に展開するイギリス海軍は、空母2隻、戦艦2隻、重巡洋艦3隻をはじめ、軽巡、駆逐艦も行動しており、沿岸の基地には約300機の航空機が配備されていると考えていた[4]

これに先立ち、南方部隊指揮官近藤信竹中将は3月14日に発令したインド洋機動作戦要領の中で、丙潜水部隊に対してセイロン西方海面の哨戒と通商路攻撃を指示していた。これによって貨物船6隻・小型帆船4隻を撃沈した[2](4月10日の第二段作戦第一期兵力部署が発動され、丙潜水部隊は先遣部隊に戻され、本土に向かった。以後、新設の第八潜水戦隊などがインド洋に展開することとなる。)。

連合国[編集]

イギリスは、1941年12月のマレー沖海戦で英国東洋艦隊旗艦戦艦プリンス・オブ・ウェールズが沈み、極東の最重要拠点シンガポールも失陥した。大損害のイギリス海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。しかし、本国艦隊からの増援を受け戦艦5隻空母3隻の大艦隊となっていた。日本軍最大の敵はアメリカ太平洋艦隊であったが、日本にとりインド洋のイギリス海軍は日本への資源供給地となったオランダ領東インドの安全を脅かす存在であった。仮にセイロン島が日本軍の手に落ちた場合、インド洋の交通網が遮断され、中東の連合国軍補給ルートの遮断、スエズ運河の陥落、アフリカにおける枢軸国軍の勝利する可能性が高かった[5]

連合国はイギリス軍が従来よりコロンボを拠点として現存艦隊主義をとってビルマ方面に進攻する日本軍に睨みを効かせていた。イギリスはシンガポール陥落不可避で、新たな拠点の整備にせまられた。セイロン島西岸のコロンボは施設は充実するが商業港のため混雑、東岸のトリンコマリーとモルディブ諸島南部のアッドゥ環礁を重要な候補地とした[6]

連合軍から見て、日本軍は広い行動選択の自由を持っており、次の侵攻が何処かを特定するのは重要だった。イギリス首相ウィンストン・チャーチル首相はダドリー・パウンド第一海軍卿より3月8日にはセイロンが脅威に晒されていると言う情報を受けていた。この問題に対処する為イギリス海軍は東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代する人事を行い、インド洋に展開する空母インドミタブル戦艦リヴェンジロイヤル・サブリンに対し、空母フォーミダブル、戦艦ラミリーズレゾリューションウォースパイト等の増派をはじめた[7]。サマヴィル中将は27日にウォースパイトに将旗を掲げた。

イギリス軍は当時コロンボにあった極東連合部(FECB)により、通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており、日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い、地点符号の特定に成功した。これにより3月22日には4月1日にセイロン島を攻撃する予定を知った。サマヴィルは待避の為30日にコロンボから艦隊を出港させ、アッドゥ環礁に向かわせたが、日本艦隊の規模は不明であった。彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合、それへの対処は絶望的であるとし、中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響というものだった。そのため、規模の大きくない攻撃にのみ対処する為、艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり、艦隊現存主義を維持する方針が決められた。3月28日、戦艦ウォースパイト、空母フォーミダブル、巡洋艦エンタープライズ、コーンウォール、ドラゴン、キャルドン、駆逐艦6隻がコロンボを出港、翌日、空母ハーミーズ、巡洋艦エメラルド、駆逐艦2隻が出港し洋上でR級戦艦6隻と合流した[8]。英艦隊は4月2日まで艦隊の連携を高める演習を繰り返した[8]

戦闘経過[編集]

3月30日に瑞鶴より撮影された写真。写真右より金剛榛名霧島比叡飛龍蒼龍赤城

3月26日スラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾Staring-baai)から出撃した第一航空艦隊は、オンバイ海峡を通過しジャワ島の南方からインド洋に入った。対するイギリス軍の問題点は色々あったが、その一つにリヴェンジ級戦艦など旧式艦の航続力・真水が作戦期間を支えるに十分ではない事があり、4月2日には戦艦群が帰港を具申していた[9]

連合軍は、暗号解読は行っていたものの、依然として日本軍の動きがつかめず、誤報・作戦延期の可能性も考えられたため、東洋艦隊は作戦を中止して帰港[9]。問題は何処の港で補給を行うかであった。商業港で混雑したコロンボ、防空施設の貧弱なトリンコマリーに帰港して真珠湾攻撃における米太平洋艦隊の二の舞を恐れたサマヴィル中将は2日、艦隊主力をアッドゥ環礁に待避を決定[9]。同時に、改装中、急遽出撃したドーセットシャーにコロンボでの工事再開を命じ、その護衛に8日到着予定の船団護衛を控えたコーンウォールをつけた。また、小型空母ハーミーズをトリンコマリーに向かわせ5月に予定されているフランス植民地のマダガスカル島攻撃準備をなすように命じた。

アッドゥ環礁に到着してまもなく、セイロン島南東海上に日本軍機動部隊発見との報告が入った[10]。サマヴィル中将は燃料補給中で、かつ速力の遅いリヴェンジ級戦艦を分離せざるを得なくなった[10]。東洋艦隊は空母フォーミダブル、インドミタブル、戦艦ウォースパイト、コーンウォール、エメラルド、エンタープライズを主力とするA部隊と、リヴェンジ級戦艦4隻と他の巡洋艦のB部隊にわかれ、B部隊の指揮は次席指揮官アルガノン・ウィリス少将がとった[10]。サマヴィル中将はA部隊を率い、19ノットで進撃を開始した[10]

4月4日の昼過ぎ、セイロン島の南東700km付近に迫っていた南雲機動部隊はカタリナ型双発飛行艇に発見された。敵飛行艇は「日本艦隊発見」の電報を打った後、上空直衛の零戦により撃墜。この電報は「赤城」でも傍受し、南雲部隊は奇襲の要素が失われた事を知ったが、特例の措置を取らなかった[11]

コロンボ空襲[編集]

空襲下のドーセットシャーとコーンウォール。

1942年4月5日、南雲機動部隊はコロンボ南方200海里に進出し、艦載機180機でコロンボを空襲、天候はあまり芳しくなかったが、攻撃隊は迎撃イギリス機を排除しつつ港湾施設と飛行場を攻撃し、駆逐艦テネドスと仮装巡洋艦ヘクターの2隻を撃沈。また、攻撃途上でイギリスのフェアリー ソードフィッシュ雷撃機隊と遭遇し数十機撃墜を報じた(イギリス側記録6機喪失)。

5日午前9時、サマヴィル中将はコロンボ空襲の連絡を受け、ドーセットシャーとコーンウォールの2隻の重巡洋艦にA部隊合流を命じた[10]

午前11時18分、攻撃成果が十分ではないと判断した総飛行隊長の淵田中佐は、第二次攻撃の必要があると一航艦司令部に打電した。南雲長官は雷装で待機させていた攻撃隊を爆装に転換し、第一次攻撃隊収容後にただちに発艦するように命じた。しかし、索敵機から敵巡洋艦二隻発見の報告が入り、爆装を命じた攻撃隊を再び雷装させるように命じた。その後、巡洋艦は駆逐艦であったと報告される。一航艦司令部は爆装準備が整っていた三空母の急降下爆撃隊はそのまま発艦させた。14時55分、重巡「利根」の零式水偵から敵2隻が巡洋艦であると報告が入る[12]。この際、先任参謀大石保中佐は駆逐艦ならばコロンボで打ち漏らした商船群への攻撃を優先すべきと主張、これに対し、航空参謀源田実中佐は駆逐艦であろうと海上武力を優先すべきと主張し、南雲長官は源田案を採用した[13]山口多聞少将からも「攻撃隊発進の要ありと認む」と赤城へ意見具申があった。

この2隻の巡洋艦は、江草隆繁少佐率いる九九式艦爆隊の急降下爆撃により撃沈された[14]。南雲機動部隊は南東に退避した。イギリス巡洋艦の生存者は、サマヴィル中将が派遣した軽巡洋艦エンタープライズと駆逐艦2隻によって30時間後に救助された[15]

5日15時30分、サマヴィル中将は敵艦隊が北方100マイルにあるとの報告を受けていた。イギリス東洋艦隊は日本軍に対し交戦を企図しているように見せかけながら、実際にはそれを避けると言う難しい方針の下にあった。さらに現実問題として、南雲機動部隊は東洋艦隊より圧倒的に優勢であった[16]。そのため、雷撃機による夜襲を行うため索敵を行う。18時17分敵機発見の報があり、艦隊は北西に針路をとった。A部隊とB部隊は6日の払暁に合同し、針路を南東に向けた[16]。この時点では日本艦隊がアッドゥ環礁まで追撃をかけてくる可能性を考慮していた。この日の夜、イギリス本国の海軍省は電報を送り、イギリス東洋艦隊の増強圧力が日本軍に対して効果を持たなかった事が明らかになったと告げた。同時にセイロン島への帰港禁止と、R級戦艦の東アフリカ派遣を命令した[15]。サマヴィル艦隊の放ったソードフィッシュ複葉機は5日の16時過ぎに南雲機動部隊も発見していた。敵空母の存在が疑われたが、南雲司令部は索敵の不備には思い至らず、漫然と敵の複葉機を見逃した[17]。機動部隊では現地時間16時9分ごろ[18]に敵機発見の信号があったが、上空の直掩機はこれを発見できなかった。現地時間16時29分、飛龍から零戦6機が発艦、ソードフィッシュ2機を発見、1機は撃墜したが、他は太陽方向視界外に逃した[19]。敵艦上機2機が触接したので付近に敵空母が存在する疑いがあるとした[20]。コロンボ攻撃後、機動部隊は南東方向に退避、コロンボから450海里圏外を北上してツリンコマリ攻撃に向かった[21]。その後もセイロン - アッドゥ間に居るとされた日本艦隊を避けるため、イギリス東洋艦隊は索敵警戒を行いながら迂回航路を取って8日23時にアッドゥ環礁に入り、燃料補給を行った。日本側も索敵は行っており、5日から8日にかけて日英双方が互いを捜したが接触はなかった。

トリンコマリー空襲[編集]

イギリス側の方位測定班は8日朝、赤城の符丁を観測した。15時17分、カタリナがセイロン島東方400マイルに敵艦隊を認め、この情報によりトリンコマリーの艦船は脱出を始めた。 第一航空艦隊では、コロンボ空襲時の巡洋艦出現から周囲に空母がいて新たな敵の出現は確実と判断しており、飛行隊の約半数を控置するように計画を変更していた[22]

9日午前9時、第一航空艦隊は、トリンコマリーの東方海上約200海里から第一次攻撃隊(艦攻91機、戦闘機30機)を発進させ、セイロン島北部のトリンコマリーを空襲し、飛行場と港湾を強襲し、迎撃機のほか飛行場の地上機、港湾施設を破壊した。10時8分、敵飛行艇が触接していることを発見、直掩機がこれを撃墜した[23]。攻撃後、戦艦「榛名」の水偵から南方海域に空母一隻と駆逐艦三隻を発見した報告があり、午前11時43分、第二次攻撃隊(艦爆85機、零戦6機)が発艦して、13時30分に敵を発見[24]。ハーミーズとオーストラリアの駆逐艦ヴァンパイアは逃走を試みたが、間もなく艦爆隊に発見され撃沈されたほか、同じく退避中のタンカー2隻とコルベットホリホックも撃沈された。なお、ハーミーズは修理中のため搭載機は陸上基地に展開していた。赤城ではハーミーズがハリケーンの救援を求める電報を傍受[25]。ハーミーズ攻撃の際、急降下爆撃は45機が投弾、命中弾37発。

ハーミーズに対する攻撃成果[26]
赤城 艦爆隊 投弾2発 命中2発
飛龍 艦爆隊 投弾11発 命中9発
瑞鶴 艦爆隊 投弾14発 命中13発
翔鶴 艦爆隊 投弾18発 命中13発

まだ投弾していなかった機は周囲の艦船を目標とし、豪駆逐艦バンパイア、哨戒艇ホーリー、商船2隻(タンカー)を撃沈。

  • バンパイア:投弾16発、命中13発
  • ホーリー:投弾6発、命中1発
  • 大型商船:投弾12発、命中11発
  • 小型商船:投弾6発、命中5発
セイロン沖での攻撃全体の成果[27]
赤城 艦爆隊 投弾17発 命中16発(1機投下不能)
蒼龍 艦爆隊 投弾18発 命中11発
飛龍 艦爆隊 投弾18発 命中13発
瑞鶴 艦爆隊 投弾14発 命中13発
翔鶴 艦爆隊 投弾18発 命中13発

この間、イギリス空軍のブレニム爆撃機[28]またはウェリントン爆撃機9機が南雲機動部隊を奇襲攻撃した。このとき日本側ではトリンコマリー攻撃から第一次攻撃隊が帰還しており、これも「ハーミーズ」攻撃に向かわせるべく補給をし、攻撃機に魚雷を積んでいる最中で、イギリス軍機に全く気付いていなかった[29]。イギリス空軍機は南雲機動部隊旗艦赤城を狙って編隊爆撃を行い、投下された爆弾は挟叉したものの命中しなかった。日本軍は直掩の零式艦上戦闘機により爆撃機5機を撃墜したが、指揮官機(飛龍分隊長)が防御砲火で撃墜された。

海戦後[編集]

コロンボ基地並びにトリンコマリー軍港を破壊された東洋艦隊はセイロン島、アッドゥ環礁のいずれも危険と判断、A部隊をボンベイに、B部隊を船団護衛のためアフリカ東岸モンバサキリンディニ港に向かわせた[30]。さらにインド洋東側での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。

作戦終了後、第一航空艦隊は内地に帰還した。途中、第五航空戦隊はMO作戦のため珊瑚海に派遣され、珊瑚海海戦に参加した。 大本営は作戦全体として空母1隻、甲巡2隻、乙巡2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻、船舶27隻撃沈、乙巡1隻、船舶23隻大破、航空機撃墜120機と大本営発表を行った[31]。当時、沈みゆくハーミーズの写真は写真週報第219号に掲載された[32]。「週報第288号」では「わが方の電撃戦の前にイギリスインド洋方面の主力艦隊は杳として姿を現はさず」「イギリスが宣伝していた戦艦、航空母艦数隻を主力とする、いはゆる「大英インド艦隊」は、果たして今いづこに健在するのであろうか」と報じている[33]

インド洋作戦は第一段作戦(南方作戦)に付随した最後の作戦にあたった。以後、日本海軍は第二段作戦として短期決戦と米豪遮断作戦を並行して推し進め、インド洋方面では海軍による大規模攻勢は行われることはなかった。その後インド洋では、フランスを占領下に置いていたドイツからの依頼を受けて、小規模な潜水艦隊で仏領マダガスカル島ヴィシー・フランス軍イギリス軍の間で行われたマダガスカルの戦いに参戦した。甲標的が英戦艦ラミリーズを雷撃して大破する戦果をあげるなど、イギリス連邦の通商遮断作戦を行った。

ドイツとイタリアでは、この作戦以降、有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に対し不満が高まった。クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請、ついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えた[34]。野村は「北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む」と報告した[34]。イタリアのベニート・ムッソリーニ首相も、「更ニ一層密接ナル協力ヲ希望ス」として、日本海軍がイギリス東洋艦隊を撃滅することを希望した[34]。同盟国の要請に対し、日本海軍は6月下旬に「海上交通破壊戦(B・作戦)」の実施を南西方面艦隊に下令、7月31日には大川内傳七海軍中将・第一南遣艦隊司令長官を指揮官とし、第七戦隊(鈴谷、熊野)、第十六戦隊、第三水雷戦隊がマレー半島のメルギーに進出した[35]。連合艦隊司令部は、水上部隊が輸送船20隻、潜水艦部隊が50隻を撃沈すると予想[35]。しかし8月になるとガダルカナル島に米軍が襲来、ガダルカナル島の戦いによってソロモン・ニューギニア方面が不安定となると、インド洋方面に投入される戦力は激減した[36]。ドイツとイタリアは日本が作戦を中止した事に不満を高め、真珠湾攻撃でアメリカを戦争に引きずり込んだ事や同盟国のアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判、ついには「こんなことならアメリカに対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難された[36]。このため、日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼしている[36]

参加兵力[編集]

日本軍[編集]

第一航空艦隊

司令長官:南雲忠一中将

連合軍[編集]

東洋艦隊

司令長官:ジェームズ・サマヴィルen:James Fownes Somerville)中将

損害[編集]

日本軍
  • 零戦4機損失
  • 九九式艦爆10機損失
  • 九七式艦攻2機損失
連合軍
  • 軽空母ハーミーズ沈没
  • 重巡コーンウォール沈没
  • 重巡ドーセットシャー沈没
  • 駆逐艦ヴァンパイア沈没
  • 駆逐艦テネドス沈没
  • 基地航空機約50機損失(イギリス軍記録:27機以上損失)。

評価[編集]

本海戦で英軍の二大拠点であるコロンボ、トリンコマリーに大打撃を与え、重巡洋艦のコーンウォール、ドーセットシャー、空母のハーミーズ、その他多数の艦船の一掃に成功したことで、第一航空艦隊が実施した他の作戦と合わせ、ビルマ方面における日本の進攻作戦を容易にした[37]

また、第一航空艦隊の活躍は、ベンガル沖での第一南遣艦隊の作戦の助けにもなった[38]。 第一航空艦隊のインド洋進出に合わせて、第一南遣艦隊(馬来部隊)もベンガル湾作戦を開始していた。この目的はインド洋→ベンガル湾→カルカッタに至る通商路を攻撃する事で、ビルマ方面の連合軍を牽制し、アンダマン諸島への反攻企図を阻止することにあった。馬来部隊は下記の3隊に分けられ、通商破壊に努めた。

  • 北方隊:熊野 鈴谷 白雲
  • 中央隊:鳥海 由良 龍驤 夕霧 朝霧
  • 南方隊:三隈 最上 天霧

馬来部隊は4月9日まで攻撃に当たり、23隻を撃沈した。このうち4月6日は航行中の商船を次々と攻撃し21隻、137,000トン撃沈、その他8隻大破という大戦果を挙げている[2]。撃沈した21隻について各隊別の内訳は下記の通り。

  • 北方隊:商船8隻
  • 中央隊:商船8隻
  • 南方隊:商船5隻

しかし、イギリス東洋艦隊主力の撃滅には至らなかったため、連合国軍全体に与えた影響は限定されていたという意見もある[30]ラッセル・グレンフェルイギリス軍海軍大佐は、「それ故、敵がコンウォール、ドーセットシャー、そして、ヘルメスを捕捉し得た小さな成功により、遂に東洋艦隊の主力を発見し、壊滅に至らしめるだけの勢力集中が出来なかったことは、到底償いのつかぬ大失敗であった。」と評価している[39]。グレンフェルによると、東洋艦隊が二度目の壊滅を喫した場合にはウィンストン・チャーチルの政治家生命がその時点で終わり、イギリスは戦争から脱落し、日本は大東亜共栄圏の確立に成功して第二次世界大戦の結末が変わっていた可能性を指摘している[40]。英国海軍大佐のS・W・ロスキルは、サマヴィル艦隊が虎口を逃れた事について「(5日に)サマヴィル艦隊が発見されなかったのは、全く神の恵みと言うほかない」と述べたとされる[41]

一方、インド洋作戦の実施自体に批判もある。第一航空艦隊総飛行隊長だった淵田美津雄は、当時よりインド洋での作戦自体に不満を抱いており、戦力の回復していないアメリカの太平洋艦隊主力を早期に撃滅するべきであり、そのために再び真珠湾攻撃のような積極攻勢を早期に実施することを望んでいた[42]

セイロン沖海戦で暗号が解読されイギリス東洋艦隊がセイロン島海域で待ち伏せていた事、付近に敵空母の存在の疑いがあると判断した後も偵察が不徹底で南雲機動部隊の近距離で行動していたイギリス東洋艦隊を発見できなかった事、コロンボ攻撃の際に英巡洋艦が発見し、兵装転換を行った事、第一航空艦隊がイギリス空軍機の接近に気づかず空母赤城が攻撃換装中にウェリントン爆撃機9機に空襲された事は、直後の6月に発生したミッドウェー海戦と類似しており、戦訓を活かせなかったという意見もある[43]。一方、連合艦隊がミッドウェー作戦計画案を配布したのは4月28日で、その後図上演習開始まで関係者は戦訓研究会に出席していたため、作戦計画を深く研究する時間的余裕がなかったという意見もある[44]

セイロン沖海戦で ウェリントン爆撃機接近に気付くのが遅れ、至近弾があった。飛龍戦闘詳報には、現在の見張り設備では高高度の敵機を発見するのは困難であり、対策として対空見張り用の電波指信器や空中聴音機の設置が必要といった戦訓が出されている[45]。他にも敵機発見の報告の迅速化が必要という戦訓がまとめられた[46]。一方、爆弾が外れ、上空警戒機によって敵機を撃墜した事から第一機動部隊司令部は空母に被害が出なかった安心感で見張りを厳重にすれば敵の攻撃は防止できると判断し[47]、具体的な適否を検討する事なく、空母の集団使用による防空戦闘機の集中使用こそ敵の反撃阻止に有利との観念的な考えを強めたという意見もある[48]。(開戦前、海軍では空母は攻撃力こそ高いが防御は極めて弱く、防空などの受け身の防御によって敵の攻撃を完全に阻止することは不可能と判断しており[49]、敵の攻撃隊が発進する前に敵を空襲する先制空襲こそ最も効果的な防御手段であると見ていた。しかし先制空襲が必ず成功すると限らない以上、空母の集中運用を避けてある程度分散させるべきといった議論もあった[50]。ミッドウェー海戦の敗北後には、連合艦隊参謀長の宇垣中将は「空母が団子になっていた」と意見を述べている。これについてミッドウェー海戦では無線電話の現状、無線封止、警戒艦数から見て、分散配備は却って不適当だったという意見もある[51]。)

GHQ戦史室長ゴードン・ウィリアム・プランゲは著書で、インド洋作戦中のある不運な出来事により、南雲艦隊は偵察に必要以上の兵力を割くことをためらうようになったと記述し、索敵機が一再にとどまらず機位を失い、無線封止を破って母艦が回収に必要な電波を発したことで自らの艦隊位置を敵に暴露することになったからであったと述べた。[52]。これとは逆に千早正隆半藤一利秦郁彦は、サマヴィル中将旗下のイギリス東洋艦隊の空母二隻が200~300㎞の海域に近づいていたが、日英両軍とも索敵が不十分でお互い気付くことが無かったため、日本海軍で索敵の軽視が戦訓にならず(索敵は)これでいいと思い込んでしまいミッドウェー海戦の敗北に繋がったと述べている[53][54]。千早はミッドウェー海戦で日本海軍が犯したのと同様の索敵の不備がセイロン沖海戦で既に起きていた事をプランゲは認識していないと指摘し、この指摘を知ったプランゲの著書の編集者は、プランゲの著書が不完全であったと認めたと言う(プランゲの著書は彼の没後、彼の弟子が遺稿を編集して出版した)[55]

コロンボ空襲の際に、雷装から爆装、爆装から雷装と兵装転換が発生したが、ミッドウェーでも同じことが発生し、攻撃が遅れた。ただ、本海戦では1時間半で済んだものがミッドウェー海戦では2時間でも完成しなかった。敵襲を考慮しても2時間あれば十分で、原因としてミッドウェー海戦では戦闘機の補給も同時に行っていたことが挙げられる[56]。また、第一航空艦隊はこの海戦において敵の来襲の無い好条件下で兵装転換を行ったが、艦攻の出撃が間に合わなかった事から、兵装転換の実験を飛龍で実施した。その結果、平常航海中に行われた実験で、魚雷から通常爆弾(250屯爆弾2個)への転換に2時間半、通常爆弾(同)から魚雷への転換に2時間といった成績を出した[57]。一方、この実験を第二航空戦隊の山口少将が研究したものとして、第一航空艦隊司令部はミッドウェー作戦の計画に反映させなかったという主張もある[58]

映像記録[編集]

本海戦の日本側艦隊には日本ニュースの撮影陣が乗り組んでおり、機動艦隊の洋上航行風景、空母上で零戦が発艦準備を行う様子、零戦や九七式艦攻が空母から発艦して攻撃に向かう様子、飛行中の九九式艦爆、セイロン島上空で爆撃を行う様子、商船に対して砲撃を行う様子、空母ハーミーズに対し爆撃を行う様子などがフィルムに収められた。

フィルムは6分20秒に編集され、1942年4月28日にニュース映画「日本ニュース第99号<凱歌高しインド洋>」として日本国民に向け公開された。

現在この「日本ニュース第99号」は、NHKにより「戦争証言プロジェクト」の一環として全編が公開されておりネット視聴することが可能である。

脚注[編集]

  1. ^ #海軍とコミンテルン98-99頁
  2. ^ a b c d #海軍とコミンテルン101頁
  3. ^ 『別冊歴史読本永久保存版 空母機動部隊』新人物往来社24-25頁
  4. ^ 『別冊歴史読本永久保存版 空母機動部隊』新人物往来社25頁
  5. ^ #主力艦隊シンガポールへ136頁
  6. ^ #主力艦隊シンガポールへ138頁
  7. ^ #主力艦隊シンガポールへ137頁
  8. ^ a b #主力艦隊シンガポールへ141頁
  9. ^ a b c #主力艦隊シンガポールへ142頁
  10. ^ a b c d e #主力艦隊シンガポールへ143頁
  11. ^ #海軍驕りp25
  12. ^ 『別冊歴史読本永久保存版 空母機動部隊』新人物往来社28頁
  13. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫95頁
  14. ^ 「写真週報220号」p.3
  15. ^ a b #主力艦隊シンガポールへ145頁
  16. ^ a b #主力艦隊シンガポールへ144頁
  17. ^ #海軍驕りp29
  18. ^ 五航戦戦闘詳報 5pでは19時15分と記載。
  19. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 647頁
  20. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 650頁
  21. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 647頁
  22. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫103-104頁
  23. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 647頁
  24. ^ 『別冊歴史読本永久保存版 空母機動部隊』新人物往来社30頁
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  26. ^ 『丸スペシャル 95 蘭印攻略作戦 インド洋作戦』1985年
  27. ^ 『丸スペシャル 95 蘭印攻略作戦 インド洋作戦』1985年
  28. ^ 蘭印・ベンガル湾方面海軍進行作戦 653頁
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  39. ^ #主力艦隊シンガポールへ147頁
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  46. ^ 「昭和17年3月26日~昭和17年4月22日 軍艦飛龍戦闘詳報(2)」p6~12
  47. ^ #戦史叢書43p.161、p.422
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参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A06031045000「週報 第288号」(昭和17年4月15日)「インド洋作戦の大展開」
    • Ref.A06031081400「写真週報219号」(昭和17年5月2日)「英航母ハーミス号、ベンガル湾深く轟沈す」
    • Ref.A06031081500「写真週報220号」(昭和17年5月13日)「身の置き所もなしインド洋」
    • Ref.C08030041200「昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(3)」
    • Ref.C08030041300「昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(4)」
    • Ref.C08030047200「昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030047300「昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030048300「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(2)」
    • Ref.C08030581700「昭和17年3月26日~昭和17年4月22日 軍艦飛龍戦闘詳報(2)」
    • Ref.C13120040100「第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/3.経過」

関連項目[編集]