吉岡忠一

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吉岡 忠一(よしおか ただかず、1908年5月14日 - 2000年)は、日本の海軍軍人海軍兵学校57期。最終階級は海軍中佐。旧姓は大杉。

経歴[編集]

1908年5月14日静岡県浜松市に生まれる。兄に大杉守一海軍少将がいる。後に海軍機関中将吉岡保貞の養子となった。浜松一中を経て1926年4月9日、海軍兵学校57期に入隊。1929年3月27日、恩賜の成績で卒業。1930年12月少尉。1932年12月中尉。1932年(昭和7年)12月第23期飛行学生を拝命、1933年7月卒業。1934年11月衣笠分隊長。1935年10月横空付。11月大尉。1936年11月練習航空隊高等科学生。1937年7月鹿屋空分隊長。1938年8月横空付。1939年10月高雄空飛行隊長。1940年少佐。1941年5月第23航空戦隊参謀。

1941年9月第一航空艦隊乙航空参謀に着任。1941年12月真珠湾攻撃に参加。真珠湾攻撃では戦艦4隻が大破着底、戦艦2隻が大・中破するなど、アメリカ太平洋艦隊を行動不能とする戦果をあげた。その後も第一航空艦隊はニューギニアオーストラリアインド洋と連戦連勝した。

1942年6月ミッドウェー作戦に参加。第一航空艦隊は連合艦隊が敵情を把握し米機動部隊の動向は機を逸せず一航艦に通報するように依頼し、重要な作戦転換は連合艦隊司令部から一航艦に発せられることになっていた[1]。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった[2]。そのため、吉岡らは敵潜水艦に発見された情報も知らされず、その後の敵の緊急信増加、動きの活発化が何を意味するのか判断がつかず、敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動することになった[3]

作戦当日の索敵計画は吉岡が立案したが、発進が遅れる索敵機もあり、敵機動部隊の発見が遅れて混乱を生んだ。戦後、吉岡は「当時攻略作戦中敵艦隊が出現することは、ほとんど考えていなかった。そのため、索敵は厳重にするのがよいことはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減ることとなり、惜しくて索敵にさけなかった。全く情況判断の甘さが原因である」[4]「もっと密度の濃い索敵をするべきだった」と語っている[5]。(実際の索敵には、重巡洋艦搭載の水上偵察機(空母搭載機より速力は劣る)が使用された。テスト中だった彗星試作機の偵察改造機も空母には搭載されていたが、初動の索敵には使用されなかった。)

敵艦隊が発見された際に、陸用爆弾を装備した攻撃隊の即時発進を二航戦司令官山口多聞が一航艦司令部に意見具申したが、一航艦司令部は攻撃隊の収容を優先させた。吉岡は「いままでの防空戦闘の成果からみて、敵機の来襲は艦戦で防御できると漠然と判断していた。また敵空母までの距離はまだ遠いので、次の来襲はミッドウェーの航空兵力であろうが、それにはまだ相当の時間的余裕があると判断した。さらに攻撃は大兵力を集中して行なう方が戦果も大きく損害も少ないので、若干攻撃隊の発進を遅らせても、大兵力が整うのを待つ方が有利であると考えた。この決定は司令部内では問題もなく簡単に決まった」と語っている[6]

ミッドウェー海戦は四空母を喪失する敗北に終わった。

海戦後の1942年7月14日、第三艦隊が一航艦の代わりに編制され、南雲忠一中将と草鹿龍之介少将以外の一航艦司令部の幕僚は全て交代したが、吉岡はミッドウェー海戦の事後処理要員として南雲司令部にしばらくとどまり、同日付で第三艦隊参謀に着任した[7]。秘密裏にミッドウェー海戦における一航艦の戦闘詳報を作成をした。吉岡によれば、資料がないので、第3戦隊、第8戦隊、第10戦隊の資料を使ったという。機密保持のために秘密裏に行われたので食い違いもあるだろうが、電文などは正しいという[8]。ただし、戦後残されている戦闘詳報は、吉岡参謀が作成した戦闘詳報から功績調査用に書き直されたもので吉岡参謀の作成したものは残されていない[9]

1942年11月15日、横須賀航空隊飛行隊長に着任。1943年7月1日海軍大学校甲種学生39期に入学、1944年3月4日首席で卒業。

1944年2月、第26航空戦隊首席参謀。1944年7月、第一航空艦隊参謀を兼務。1944年10月、中佐に昇進。

1944年10月19日、夕刻マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で第一航空艦隊長官に内定した大西瀧治郎中将のもとで開かれた会議に召集された。大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と神風特別攻撃隊を提案した。吉岡はこの案を聞き、これしかない、今まで探していたものはこれだと賛成したという[10]。その後、神風特攻隊が実現すると航空参謀として特攻を推進した。

海兵学校出身の敷島隊隊長関行男大尉が特攻第1号として大々的に発表され、それ以前に未帰還となっていた予備学生出身の大和隊隊長久納好孚中尉が遅れて発表されており、1975年8月これについて尋ねられた吉岡は「中島正少佐の報告が遅れたから」と答えたが、第一航空艦隊は久納機未帰還の電報を当時受けており、これについて確認されると「なにげない言葉のあやでそう答えた」と言った[11]。吉岡によれば「久納大尉の出撃は天候が悪く到達できず山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関大尉を指名した時から関が1号であり、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という[12]

1945年1月横須賀鎮守府附。

1945年8月15日ルソン島での捕虜として終戦を迎えた。12月予備役。

1951年2月、吉岡は兵庫県神戸市に吉岡商会(後の吉岡興業株式会社)を創業[13]。工具・鋼材の販売を開始。2000年死去。

出典[編集]

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  1. ^ 奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督下』学研M文庫 213頁、戦史叢書43 ミッドウェー海戦 165頁
  2. ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 585-586頁
  3. ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 251-252頁
  4. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦165頁
  5. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦425-426頁
  6. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦291頁
  7. ^ 牧島貞一『炎の海』光人NF文庫285-286頁
  8. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦284頁
  9. ^ 『歴史と人物 165号』中央公論社1984年9月 29頁
  10. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書74-75頁
  11. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版、1980年、35-36頁
  12. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版、71、74頁
  13. ^ 吉岡興業株式会社HP・会社概要

外部リンク[編集]