第一航空艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
大日本帝国海軍
大日本帝国海軍旗
官衙
海軍省
軍令部
艦政本部
航空本部
外局等一覧
地方組織
鎮守府
警備府
要港部
艦隊
連合艦隊
北東方面艦隊
中部太平洋方面艦隊
南東方面艦隊
南西方面艦隊
第十方面艦隊
支那方面艦隊
海上護衛総司令部
海軍総隊
他作戦部隊
海軍航空隊
海軍陸戦隊
主要機関
学校一覧
歴史・伝統
日本海軍の歴史
日本海軍の軍服
その他
階級一覧
艦艇一覧
兵装一覧
 表示ノート編集履歴 

第一航空艦隊(だいいちこうくうかんたい)とは、日本海軍の空母艦隊及び基地航空部隊。この艦隊を中核に他の艦艇を合わせた世界初の空母機動部隊として運用された。大戦後半に基地航空部隊として再編成され、陸上飛行場を拠点として作戦を行う機動航空部隊として運用された。

歴史[編集]

空母艦隊[編集]

1941年(昭和16年)4月10日、日本海軍は、南雲忠一海軍中将を司令長官とした「第一航空艦隊」を編制した。航空母艦を中心とした艦隊であり、第一航空戦隊赤城加賀)と第二航空戦隊飛龍蒼龍)で構成されていた。9月1日、第四航空戦隊龍驤春日丸)と第五航空戦隊翔鶴瑞鶴)が編入された。

第一航空艦隊はハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加予定だったが、各航空戦隊に付属する少数の旧式駆逐艦を除けば空母だけの編制であったため、固有編成のままでは作戦ができず、第一艦隊第二艦隊から支援部隊(第三戦隊第一小隊、第八戦隊)・警戒隊(第一水雷戦隊、第二水雷戦隊)を軍隊区分で臨時編入され、史上初の用兵思想となる「機動部隊」が編成された[1]。第一航空艦隊は、作戦ごとに固有編成以外の戦力を借りる体制が続けられ、南雲長官は、臨時編成であったことから部隊としての思想統一や訓練に関して苦しみ、艦隊としての建制化を要求し、連合艦隊も軍令部も必要は認めていたが、一航艦で実現することはなかった[2]。また、南雲長官は航空に関しては素人であり、参謀長の草鹿龍之介少将も源田実航空参謀を評価し献策を入れたため[3]、一航艦を源田艦隊と呼ぶ声まであった[4]。源田は、従来所属艦で行われた航空隊の指揮と訓練を機種ごとに分けた空中指揮に変更した[5]。また、先制奇襲を行うために接敵行動中の隠密行動を重視して空母を集中運用し、攻撃隊の空中集合も容易にし、戦闘機や対空砲火も集中させた[6]

第四航空戦隊の龍驤は、開戦時は軍隊区分でフィリピン攻略の第三艦隊に、次いでシンガーポール攻略の南遣艦隊に増援された[7]。春日丸(後に大鷹と改名)は1941年12月13日に呉鎮守府に転出し、12月22日に祥鳳が四航戦に編入された。

1941年12月8日、太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃を実施。アメリカの戦艦4隻撃沈、2隻大破させアメリカ太平洋艦隊を行動不能にする大戦果をあげた。攻撃後、次席指揮官の第三戦隊司令官三川軍一中将から再攻撃の意見具申があったが[8]、南雲長官は草鹿参謀長の進言もあり、予定通り離脱した[9]。草鹿は、戦果を確認した攻撃指揮官の淵田中佐の報告から目的を達成したことを知り、他の敵に対する構えが必要であると考えて進言し、再攻撃しなかったことに対する批判は兵機戦機の機微に触れないものの戦略論であると思うと戦後語っている[10]。草鹿は「攻撃は十分な調査、精密なる計画のもと、切り下す一刀の下に全て集中すべきなり」という思想を持っていた[11]

その後は南下して、1月のラバウル・カビエン攻略支援、2月のダーウィン攻撃、3月のジャワ海掃討戦を成功させる。

1942年4月、座礁事故を起こした「加賀」を除いた5隻の空母を中心にインド洋に進出し、インド洋作戦に参加。セイロン沖海戦で、一航艦は5日のコロンボ空襲中に現れた巡洋艦2隻を撃沈[12]、9日のトリンコマリー空襲では、周囲に空母がいて新たな敵の出現は確実と判断した一航艦は、母艦に飛行隊の約半数を控置するように計画を変更し、現れた空母「ハーミーズ」を撃沈[13]

インド洋作戦までで、一航艦は大戦果を挙げながら被害は微少で、艦艇には一隻の被害もなかった[14]。史上類のない連続的勝利を記録し、第一航空艦隊は世界最強の機動部隊となるが、連戦連勝から疲労と慢心が現れていた[15]

1942年(昭和17年)4月10日、艦隊編制改訂で、一航艦の隷下部隊として第十戦隊(軽巡洋艦長良」と駆逐艦12隻)が新設され、固有編制の直衛駆逐艦部隊を持つようになったが、まだ固有編制だけで作戦を行うことができず、6月のミッドウェー海戦では、第一艦隊第三戦隊第二小隊(戦艦「霧島」「榛名」)・第二艦隊第八戦隊(重巡「利根」「筑摩」)に護衛されていた[16]。1942年4月16日、第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)はMO作戦(5月)参加のため、第四艦隊に転出。五航戦は、6月のミッドウェー作戦には一航艦に戻って参加する予定だったが、MO作戦における珊瑚海海戦の被害により不参加となった[17]

5月、インド洋から帰還した一航艦はミッドウェー作戦を命じられる。準備期間は一か月もなく、時期尚早と一航艦司令部から反対があった。作戦事前研究会で山口多聞少将(二航戦司令官)と源田実中佐が連合艦隊司令部に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は決定済みとして取り合わなかった[18]。大規模な人事異動もあり、第五航空戦隊翔鶴」「瑞鶴」も引き抜かれ、4隻の空母で作戦に参加した。1942年6月、ミッドウェー海戦に参加。同時に実施されたアリューシャン作戦に参加する第四航空戦隊隼鷹」、「龍驤」基幹の部隊を軍隊区分により第二機動部隊としたため、従来の第一航空艦隊基幹の機動部隊は第一機動部隊としてミッドウェー作戦に参加した。ミッドウェー作戦は、空母4隻を失って失敗に終わり、海戦後に第一航空艦隊は解隊された。

基地航空部隊[編集]

1943年7月1日、経済的理由、人員や機材の不足から再建が難航していた第一航空艦隊が発足した。航空母艦を建造する時間的経済的余裕がないこと、母艦機搭乗員は教育訓練が困難であること、航空母艦の脆弱性などから西南太平洋に散在する基地を不沈空母として活用するという軍令部参謀源田実中佐の構想の下行われた。1航空隊534機を3個で1600機程度を予定し、指揮幹部歴戦有能なものを当て、熟練者は南方方面に回したいため他は練習航空機隊教程終了程度の新人をあてた。司令部組織は簡素なものとして幕僚は新進気鋭のものを当て機動力を大きくし、訓練期間を1年として軍令部直属として消耗戦に巻き込まれないようにする予定であった。状況を見てできればもう一つ作り、各航空隊司令には航空隊出身の中佐級、飛行隊長は指導者として優秀なものをあて、機密保持と移動が容易な装備に工夫する考えであった。用法は急速な移動集中により随所に圧倒的優勢を獲得する[19]

1943年7月1日、第二六一海軍航空隊第七六一海軍航空隊で基地航空部隊としての第一航空艦隊が発足した。司令長官は角田覚治中将、参謀長は三和義勇少将が任命された。6月19日、永野修身軍令部総長は「い号作戦の戦訓より編成し短期決戦を図ることが必要。1943年末には9個航空隊になる」「全編成完結後には作戦上偉大なる戦果を上げられると信じるが増勢途上においても緊急なる場合にはこれを作戦に使用する」と奏上した[20]。編成は順調だったが搭乗員、機材が不十分だった。1944年1月、13個航空隊になる。2月、一航艦を10個航空隊による61航空戦隊(一航艦司令長官直卒)と3個航空隊の62航空戦隊(司令官杉本丑衛指揮)に分離した。62航戦の戦力充実は9月を目標にした[21]

将来の主戦力として期待され連合艦隊から戦力転用の具申もあったが錬成を続けていた。しかし練成途中にクェゼリン、ルオットの玉砕があり、1944年2月15日に連合艦隊への編入が決められた[22]。さらにトラック被空襲で予定外の第121航空隊、第532航空隊など実働の全力が投入されることになったが現地訓練には自信が持てず、設立趣旨の機動集中も261空と761空だけの実施でマリアナへの展開は時期尚早であった[23]

1944年2月、一航艦はマリアナ諸島テニアン島に進出直後にマリアナ諸島空襲を受ける。角田司令は攻撃を企図するが、淵田美津雄参謀は戦闘機が不十分なこと、進出直後で攻撃に成算がないこと、消耗は避けるべきことから飛行機の避退を進言したが、角田は聞き入れず見敵必戦を通した[24]。その結果、練度の高い実働93機中90機を失う壊滅的打撃を受けた。1944年5月5日、一航艦に同じ方面に展開していた第14航空艦隊の戦力であった第22航空戦隊、第26航空戦隊を編入して戦力を増強した。 マリアナに展開した一航艦は角田司令の見敵必戦による攻撃やパラオ大空襲渾作戦でのニューギニア方面への戦力抽出などで見るべき戦果を挙げないまま、あ号作戦(マリアナ沖海戦)で期待されていた戦力は壊滅してしまった。

1944年6月、マリアナ沖海戦(あ号作戦)に参加。本来は迎撃の主力となるはずであったが、戦力は僅かであり、第一機動部隊を充分に支援できず、敗北した。マリアナの放棄が決定すると連合艦隊司令長官豊田副武大将は一航艦司令部にダバオへの転進を命じる。そのため潜水艦による一航艦司令部と航空搭乗員を救出する任務が行われたが、潜水艦はすでに沈没しており7月19日に至っても成功しなかった。その後は一航艦の陸攻隊がトラック方面から夜間テニアン基地に着陸し、司令部要員と航空搭乗員任務を脱出させる任務を負ったが、実行前の7月23日に米軍がテニアン上陸を開始。24日米軍上陸成功によるテニアンの戦いは日本の不利に進んだ[25]7月31日、角田司令は「今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム。」との決別の電文を発する。角田自身は自決せず、司令部壕から手榴弾を抱えて他の兵士と共に戦闘に参加、その後の消息は不明となった。

一航艦には次期作戦に備えてフィリピンで緊急再建、マリアナ方面への奇襲続行の任務があったため、8月7日付で寺岡謹平中将が一航艦長官に親補され、8月12日に着任して指揮を継承した[26]。10日南西方面艦隊に編入する。1944年9月9日、10日、ダバオで空襲を受けた後「ダバオ誤報事件」が起こった。見張所から「敵水陸両用戦車に百隻陸岸に向かう」という報告に根拠地隊司令部が「ダバオに敵上陸」と報じ一航艦司令部は混乱して玉砕戦に備えて設備を破壊し重要書類を焼却したが誤報であった。その後セブ島に集結した部隊が敵航空隊に奇襲されるセブ事件もあり、1944年9月1日に250機あった零戦が12日には99機まで減少した[27]。この責を問われた寺岡長官が更迭される。

1944年10月5日、大西瀧治郎中将は第一航空艦隊司令長官に親補され、10月20日に就任した。フィリピン沖海戦で、大西長官の主導の下、クラーク基地の第761航空隊とマバラカット基地の第201航空隊によって最初の神風特別攻撃隊による作戦が実施された。1944年10月25日、特攻によって敵空母を撃沈し初戦果をあげ活路を開いた。しかし突入する水上部隊が突然反転したため特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。

特攻後、大西長官は福留繁第二航空艦隊長官を説得し第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成し、福留長官が指揮官、大西長官が参謀長を務めた[28]。大西長官は第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能で少数で敵を抜け突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話して特攻を指導した[29]

しかし実動機が払底したため、年末には台湾へ再度撤退し、フィリピン海峡越えの出撃を強いられた。1945年(昭和20年)5月10日、最後の司令長官に志摩清英中将が就任。約1ヵ月後の6月15日、第一航空艦隊は解隊された。

編制[編集]

1941年4月10日 新編時の編制[編集]

1941年9月1日 太平洋戦争開戦直前の編制[編集]

第四航空戦隊は速力不足のため、第3駆逐隊、第7駆逐隊、第23駆逐隊および「朧」は航続力不足のため真珠湾攻撃部隊には参加せず。

1942年4月10日 第10戦隊新編時の編制[編集]

1943年7月1日 基地航空隊発足時の編制[編集]

1944年2月15日 連合艦隊編入時の編制[編集]

  • 第61航空戦隊:第121航空隊、第261航空隊、第263航空隊、第321航空隊、第341航空隊、第343航空隊、第521航空隊、第523航空隊、第761航空隊、第1021航空隊
  • 第62航空戦隊:第221航空隊、第265航空隊、第345航空隊、後に編入(第141航空隊、第322航空隊、第361航空隊、第522航空隊、第524航空隊、第541航空隊、第762航空隊)
  • 付属:標的艦摂津

1944年5月5日 マリアナ沖海戦直前の編制[編集]

  • 第61航空戦隊:第121航空隊、第261航空隊、第263航空隊、第321航空隊、第341航空隊、第343航空隊、第521航空隊、第523航空隊、第761航空隊、第1021航空隊
  • 第62航空戦隊:第141航空隊、第221航空隊、第265航空隊、第322航空隊、第345航空隊、第361航空隊、第522航空隊、第524航空隊、第541航空隊、第762航空隊
  • 第22航空戦隊:第151航空隊、第202航空隊、第251航空隊、第253航空隊、第301航空隊、第503航空隊、第551航空隊、第755航空隊、第802航空隊
  • 第26航空戦隊:第201航空隊、第501航空隊、第751航空隊
  • 付属:標的艦摂津

司令長官[編集]

空母艦隊
  • 司令長官
  1. 南雲忠一中将 1941年(昭和16年)4月10日~1942年7月14日
  • 参謀長
  1. 草鹿龍之介少将 1941年4月15日~1942年7月14日
基地航空部隊
  • 司令長官
  1. 角田覚治中将 1943年7月1日~1944年8月2日 戦死
  2. 寺岡謹平中将 1944年8月7日~1944年10月20日
  3. 大西瀧治郎中将 1944年10月20日~1945年5月10日
  4. 志摩清英中将(兼務) 1945年5月10日~1945年6月15日 ※本務は高雄警備府司令長官
  • 参謀長
  1. 三和義勇大佐 1943年7月1日~1944年8月2日 戦死
  2. 小田原俊彦大佐 1944年8月7日~1945年1月8日
  3. 菊池朝三少将 1945年1月8日~1945年5月10日
  4. 中澤佑少将(兼務) 1945年5月10日~1945年6月15日 ※本務は高雄警備府参謀長

脚注[編集]

  1. ^ 『別冊歴史読本永久保存版空母機動部隊』新人物往来社69頁
  2. ^ 戦史叢書43巻 ミッドウェー海戦 638-639頁
  3. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂40頁
  4. ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年312頁
  5. ^ 文芸春秋『完本・太平洋戦争〈上〉』1991年37頁
  6. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫60-61頁
  7. ^ 『別冊歴史読本永久保存版空母機動部隊』新人物往来社69-72頁
  8. ^ 戦史叢書10巻 ハワイ作戦 344頁
  9. ^ 戦史叢書10巻 ハワイ作戦 345頁
  10. ^ 戦史叢書10巻 ハワイ作戦 345頁
  11. ^ 戦史叢書43巻 ミッドウェー海戦 583頁
  12. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫103-104頁
  13. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫103-110頁
  14. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫103頁
  15. ^ 大浜徹也・小沢郁郎『帝国陸海軍事典』同成社p237
  16. ^ 『別冊歴史読本永久保存版空母機動部隊』新人物往来社72-73頁
  17. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫101-102頁
  18. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂40頁
  19. ^ 戦史叢書39巻 大本営海軍部・聯合艦隊(4)第三段作戦前期 178-181頁、戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期 204頁
  20. ^ 戦史叢書39巻 大本営海軍部・聯合艦隊(4)第三段作戦前期 178-181頁、戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期 204頁
  21. ^ 戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期 204-205頁
  22. ^ 戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期 207頁
  23. ^ 戦史叢書12巻 マリアナ沖海戦 411頁
  24. ^ 戦史叢書12巻 マリアナ沖海戦 78頁
  25. ^ 戦史叢書45巻 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 90-91頁
  26. ^ 戦史叢書45巻 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 91-92頁
  27. ^ 戦史叢書12巻 マリアナ沖海戦 449-465頁、戦史叢書45巻 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 399-401頁
  28. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p155-159
  29. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書150-152頁