関行男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
関 行男(せき ゆきお)
Lt Yukio Seki in flightgear.jpg
出撃直前の関(1944年10月20日)
生誕 (1921-08-29) 1921年8月29日
日本の旗 日本 愛媛県西条市
死没 (1944-10-25) 1944年10月25日(満23歳没)
フィリピンの旗 フィリピン サマール島
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1941年 - 1944年
最終階級 海軍中佐
テンプレートを表示

関 行男(せき ゆきお/つらお[注釈 1]1921年8月29日 - 1944年10月25日)は、日本海軍軍人。海兵70期。レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特攻し、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したことで、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。特攻による二階級特進で最終階級は海軍中佐

経歴[編集]

兵学校4号生徒時代

1921年8月29日に、愛媛県西条市栄町で古物商を営む父勝太郎と母サカエの子として生まれる[5]

海軍兵学校[編集]

現西条市立大町小学校、旧制西条中学校を経て、1938年12月海軍兵学校70期)へ進学。同期には菅野直中津留達雄高井太郎イースタン・カーライナー社長)、後宮俊夫日本基督教団総会議長)がいる。

行男は勉強が出来、文才があり、数学も賞を貰ったり、テニスの主将として全国大会にも出場した経験があった。父は、行男が高等師範学校に進んで教師になり平穏に暮らすことを望んでいたが、行男は一高がだめならば、同じ程度の難関であった海軍兵学校に行くつもりであった。父は「今の戦争が長引けばそれだけ命を危険にさらすことになるぞ。」と諭したが、「ぼくは教師など性に合わん。この非常時に事なかれ主義のなまぬるい生き方なんぞ我慢できんよ。」と反論した。父は「あいつは、わしらには出来過ぎとる。」と、サカエにぼやいたという。 父は行男が海軍兵学校を卒業する前に死去した[6]。その後、母・サカエは経営していた古物商を廃業し、草餅の行商人へ転じている[5]。海軍兵学校へ進学する行男の希望で、母方の親族に当たる繁子が関家の養女となった[7]

海軍兵学校に在籍する者の中で、関は一、二を争うほどの高身長でとても目立っており、新入生恒例の姓名申告では上級生に唯一褒められたという[8]。その一方で、養妹である繁子の自慢話を同期生に話したり、繁子と他の生徒の許婚を比較して「繁子の方が上だ」というような記述を日記に記述していたことが発覚して制裁を受け、関が記述した日記が全生徒の見世物にされたこともあった[9]。しかし、繁子の件で制裁を受けた場合を除けば、料亭での芸者遊びによって芸者にあまり関心を持たず[10]、異性に対する関心は薄いように周囲から見られていた[6]1941年11月15日海軍兵学校卒業、少尉候補生として戦艦「扶桑」乗組。1942年4月、水上機母艦千歳」乗組。渡辺エミ子という鎌倉で有名な医者の娘から慰問袋を送られ[注釈 2]、その礼状に「横須賀に帰ったら直接会ってお礼したい」と記述していた[5]。その後、関が横須賀へ戻った際に約束していた出会いは実現するものの、関はエミ子ではなく、同行していたエミ子の姉に一目惚れする[11]。その姉が、のちに妻となる渡辺満里子であった[11]

1942年6月少尉。

1943年1月第39期飛行科学生を拝命。霞ヶ浦海軍航空隊に入隊[12]。この時、教官として関につきっきりで指導したのが操練35期の原田要であった。関は、一兵卒上がりの原田に対してもとても礼儀正しかったという[13]。6月海軍中尉に任官[14]。8月、宇佐空で艦上爆撃機の実用機教程。

神風特別攻撃隊[編集]

1944年1月、霞ヶ浦海軍航空隊付、飛行教官に就任[15]1944年5月1日海軍大尉に進級[14]。1944年5月11日に婚姻願を提出、5月26日海軍大臣の許可が下りる[16]。5月31日、関は福永恭助退役海軍少佐夫妻の媒酌のもと、渡辺満里子との結婚式水交社で執り行った[14]。1944年6月マリアナ沖海戦(あ号作戦)の翌々日、関は練習生に向かって「あ号作戦の敗北は知っているだろう。もうこうなったら爆弾を抱いて体当たりするしかない。お前らにそれができるか」と話したという[17]。1944年9月、台南海軍航空隊の教官に着任。富士栄一によれば、9月末ごろ、搭乗員に対して一人子、妻帯者は外れろという指示がまずあり、誰も出ていかないと、続けてフィリピンで特攻をやるので志願するものは上司に願書を出すようにという話があったという。富士は願書を持って行く際に飛行長の前で関に会い、二人は笑って「いよいよしょうがないですな」と話し、二人で願書を提出したという[18]。砂原大尉によれば、戸塚浩二大尉と関大尉との3人の間で、「特攻といっても決死隊と爆弾を抱えて突っ込んでいくのとあるが爆弾かな」という会話があり、関は手紙で知らせると言い、後で来た手紙には「その通り」とだけ書いてあったという[19]

9月25日第二〇一海軍航空隊に赴任[15]台湾沖航空戦で戦死した鈴木宇三郎海軍大尉の後任として、戦闘三〇一飛行隊長となった[15]。関の赴任は零戦による降下訓練のためと発表されていたが、搭乗員の間では特攻の指揮官として呼ばれたものと考えられていた[20]

指揮官任命[編集]

1944年10月17日第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマニラに到着し、前任の寺岡謹平中将と事務の引継ぎを終えた。18日大西は参謀などから意見聴取して現状把握に努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40機程度であることを知る[21]。それによって、大西は一航艦司令部で第七六一海軍航空隊司令・前田孝成大佐に戦局の説明を行った後、副官の門司親徳大尉を伴ってマバラカット飛行場に向かう[22]。夕刻近くにマバラカットに到着の後[23]、指揮所に二〇一空副長・玉井浅一中佐、一航艦首席参謀・猪口力平中佐などを招集し、体当たり攻撃法を披瀝する[24]。大西と入れ違いにマニラへ向かい、マバラカットに戻る途中で乗機の不時着により足を骨折して海軍病院に入院した二〇一空司令・山本栄大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長・小田原俊彦大佐から大西の考える体当たり攻撃法を披瀝され、「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた[25]。玉井は体当たり攻撃法に賛成し、戦闘三〇五飛行隊長・指宿正信大尉も同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃が採用されるに至った[26]

玉井は大西に、攻撃隊の編成を一任するよう申し出て了承されると[26]、猪口とともに攻撃隊の編成に取り掛かるが、玉井と猪口には大まかながら攻撃隊の編成が出来上がっていた。すなわち、隊員は第十期甲種飛行予科練習生から選出して、これは玉井が第二六三海軍航空隊時代から何かと甲十期生の面倒を見て共に戦ってきた背景があり、甲十期生に一花咲かせようという魂胆からだった[27]。二〇一空にいた甲十期生は63名で[28]、体調不良だったり日本へ航空機受領に行っていた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした[29]。指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶもので、これは猪口の提案であった[30]

猪口の構想では、指揮官には当初第三〇六飛行隊長で、関の同期である菅野を考えていたが、菅野も日本へ機材受領に赴き不在であったため、関が攻撃隊指揮官として選出されることになる。その理由として、関が着任時に玉井に挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」のような感じを与えていたことや、何度も出撃への参加を志願していたことが強い印象として残っていたからだと、玉井は後年になって回想している[15]。猪口の賛成を得た玉井は、就寝中の関を起こし、体当たり攻撃隊の指揮官として「白羽の矢を立てた」ことを告げた[31]。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという[32]。玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたという。いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書いた[33]

猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「君(関)はまだチョンガー(独身)だったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えたという[34]。玉井と猪口は待機していた大西の下に向かい、隊員24名を選び、関を攻撃隊指揮官としたことを報告した後、隊の名前を「神風特別攻撃隊」と命名するよう願い出て、大西に了承された。また大西は、各隊に敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した[35]

出撃前日[編集]

大西と敷島・大和隊員との訣別の水盃。左から関、中野磐雄山下憲行谷暢夫塩田寛(大和隊)、宮川正(大和隊→菊水隊)。後姿は左が玉井、中央が大西。日映・稲垣浩邦カメラマンが10月20日に撮影[36]

10月20日午前10時、第一航空艦隊長官に着任した大西瀧治郎によって最初の神風特別攻撃隊に訓示と命名式が行われた。本居宣長の古歌より命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」で、各隊3機ずつ配分された。この四隊から漏れた甲十期生は別途「菊水隊」へ編入された[37]。この時点で関はどの隊にも属せず、総指揮官として一種の独立した立場に置かれていた[37]。「敷島隊」のオリジナルメンバーは中野磐雄(戦三〇一)、谷暢夫(戦三〇五)、山下憲行(戦三〇一)の3名で、いずれも一飛曹だった[37]。関と敷島・大和・朝日・山桜の各隊員と直掩隊員が二〇一空本部前に整列し、大西が隊員の前に現れて訓示を述べた握手を行った後、関と敷島・大和両隊はマバラカット西飛行場に、朝日・山桜両隊はマバラカット東飛行場それぞれ移動して出撃の時を待つ事となった[38]。大西は「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。大西はマニラに戻った後にこの神風特攻隊編成の命令書を起案させて、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信した[39]

午後になって大西はマニラに戻ったが、その前にマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わしたり雑談を行った後、マニラに向かった[36]。また、大和隊(隊長・久納好孚海軍中尉(法政大学出身))は20日夕方に二〇一空飛行長中島正少佐に率いられセブに移動していった[40]

同日、同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政は、関の談話を取ろうと関の部屋に入ったが[41]、前日の夜に隊長指名を受けた関はこの時、顔面を蒼白にして厳しい表情をしつつピストルを小野田に突きつけ、「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴った[41]。小野田が身分氏名を明かすとピストルを引っ込めた。この行動は「異常な心的状況の中に身を置いていた」[42]が故の「異常な行動」という推測もある[41]。少し後、関と小野田は外に出て、マバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で、関は小野田に対して次のように語った。

 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。 — 関行男、マバラカット基地近くのバンバン川にて[43]

この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満であり[44]。後半は妻の満里子や母のサカエのことを想起した発言で[42]、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は、「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言という指摘もある[42]

関は宿舎で満里子宛およびサカエ宛の遺書をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した[45]。また、この日に日本から戻ってきたばかりの菅野にも不満や残る家族への思いを打ち明けた[45]。10月20日は、敵艦隊発見の情報なく暮れていった[40]

出撃開始[編集]

10月21日朝、一〇〇式司令部偵察機レイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見し、これを報じる[40]。敵艦隊発見の報を受けて敷島・朝日・山桜の各隊員が指揮所に移動し、出撃は敷島・朝日の二隊に決定する[46]。この時点から関は「敷島隊」の隊長も兼任するようになり、「敷島隊」も永峰肇飛長(丙種飛行予科練習生15期)が加えられて総勢5名となった[47]。関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した[47][注釈 3]日本映画社・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、前日の大西との訣別とこの日の出撃を組み合わせた映像が、日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」として公開された[48]。マバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念してレガスピに引き返した[49]。関は10月22日早朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した[50]

この日初出撃を果たした特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。出撃予定時刻は14時30分であったが、発進寸前で爆撃を受け、稼動機全機が炎上してしまった[51]。予備機で再編成を行った後、16時25分に爆装2機と直掩1機が発進した[52]。しかし、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返したが、隊長の久納はついに帰らず、後日に本人の性情と特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定して発表された[53]

10月23日、「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動[54]した。唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた[55]。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという[56]

戦死[編集]

10月24日、大西はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の栗田健男中将の第一遊撃部隊突入に呼応しての特攻隊出撃を命じる[56]。「敷島隊」には戦闘三一一飛行隊から関と同じ愛媛出身の大黒繁男上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の西澤廣義飛曹長が加入した[57]。10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆装6、直掩4)は、骨折の身ながら海軍病院から抜け出して駆けつけた山本や、山本に付き添った副島らに見送られてマバラカット西飛行場を発進する[58]。途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機となる[59]。10時10分にレイテ湾突入を断念して引き返す栗田艦隊を確認した後[59]、10時40分に護衛空母5隻を基幹とする[注釈 4]第77.4.3任務群(クリフトン・スプレイグ少将)を発見して突撃機会を伺い、10時49分に僚機と共に突入して戦死した[60]。享年23。

炎上する「セント・ロー

「敷島隊」は第77.4.3任務群に接近するまではレーダーを避けるために超低空で飛び、至近距離まで近寄った後に雲間へ隠れて様子を伺い、10時49分に攻撃を開始した。1機はキトカン・ベイの艦橋を掠めて飛行甲板外の通路に命中[61]カリニン・ベイには1機が前部エレベーター後方、もう1機が後部エレベーター前方にそれぞれ命中した[62]ホワイト・プレインズを狙った1機は、被弾による操縦不能によって狙いが外れて艦尾至近の海中に突入[63]セント・ローにはホワイト・プレインズに向かっていた2機のうちの1機が針路を変えて突入し、格納庫で爆発した爆弾により激しく炎上したセント・ローは、11時30分に最後の大爆発を起こして沈没した[64]

セント・ロー撃沈は関大尉によるものとして広く認知されているが、「カリニン・ベイ」に突入したとする説[65]、また突入時刻やアメリカ側が撮影した写真などから、関が突入したのは「キトカン・ベイ」であるという主張もある[66]。しかし、「敷島隊」のどの機がどの空母に突入したかを特定するのは困難である[67]

発表とその後[編集]

特攻第一号[編集]

1944年10月28日神風特攻隊の戦果が「海軍省発表」で公表された。敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞による特攻第一号・関中佐の発表が最初だった[68]。そのため、敷島隊隊長・関行男中佐は「特攻第1号」として大々的に発表されたが、戦後は21日に未帰還となった大和隊隊長・久納好孚大尉を未確認ながら豪重巡への特攻として久納を第1号とする主張もある。消息を絶った久納、佐藤、そして特攻が確認された「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」について連合艦隊布告が出されたのは、11月13日になってからのことだった。

関に先んじて21日に消息を絶った久納好孚については、連合軍側の記録にあるオーストラリア海軍重巡洋艦オーストラリア」の損傷が久納の特攻による戦果で[69]、敵艦に突入した可能性もあるが、出撃時刻と損傷時刻がかけ離れており[注釈 5]、また「オーストラリア」を攻撃したのは陸軍飛行第65戦隊あるいは飛行第66戦隊の九九式襲撃機で、被弾の後「体当たり」したという資料もある[70]。「敷島隊」に先立つ事約1時間前、ダバオから「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」が出撃し、7時40分に第77.4.1任務群(トーマス・L・スプレイグ少将)に突入して護衛空母「スワニー」に滝沢光雄一飛曹機が、「サンティー」に加藤豊文一飛曹機が命中している[71]。「第2号」から「第8号のち第7号」の内訳のうち6名のち5名はこの攻撃によるもので、残る1名は10月23日に「大和隊」で出撃して消息を絶った佐藤馨上飛曹である[72](1人減っているのは、「朝日隊」の礒川質男一飛曹が当初「特攻で戦死」と発表されたものの、生存が確認されて取り消されたからである)。このことから、「敷島隊」は出撃時刻で約1時間、攻撃時刻で約3時間、戦死者が出るまでに至っては4日も遅れをとったことになる。「敷島隊」の戦果は西沢が確認してセブに帰投後、中島に戦果報告を行っているが[73]、「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」の戦果もまた、「菊水隊」直掩の塩盛実上飛曹が確認して、やはりセブにて中島に報告されている[74]

この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内光政大将と軍令部総長及川古志郎によるものであり、特攻のインパクトのために数より、海兵出身者による特攻という質を重視した判断という指摘もある[75]。また、菊水隊直掩の塩盛から中島に伝達された戦果情報は、9時48分にダバオの第六十一航空戦隊に伝えられたが、「朝日隊」「山桜隊」の戦果については定かでは無かったため同日夕方まで待った後、19時6分に一航艦へ報告を行ったこと、第六十一航空戦隊は後方支援部隊のため、作戦部隊の状況判断に欠けていたこと、一方、敷島隊直掩の西沢から中島に伝達され、12時5分に一航艦へ打電された戦果情報は「疑問の余地なく上層幹部も予想していなかった大戦果」だったこと、敷島隊のみ、隊員全員の戦闘状況が明確だったこと。関が最初に指名された特攻隊全ての総指揮官で、かつ先頭に立って突入したこと、これらが敷島隊のみ公表された要因とする指摘もある[76]

第一航空艦隊航空参謀・吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という[77]。軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという[78]。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している[79]

戦後[編集]

戦中に軍神と称えられ、軍国主義の宣伝材料に使われたことが敗戦後の世相の中で仇となり、関や遺族は終戦後は一転日陰の存在となった。戦後しばらく軍人の遺族に国からの扶助などが行われなかったため、関の遺族も生活は苦しかった。関には子供が存在せず、妻の満里子は戦後に再婚した[80]。母・サカエは草餅の行商で生活し、後に石鎚村立石鎚中学校に学校用務員として雇われ、生徒からは「日本一の小使いさんの関おばさん」と呼ばれて親しまれたが、1953年11月9日に用務員室で57歳で急死した。

サカエの没後、伊予三島市(現・四国中央市)の村松大師に関の墓が建立され、1975年には関の慰霊と平和祈願のため、関親子を昔からよく知る西条市楢本神社神主石川梅蔵の発願により、元海軍大佐で国会議員だった源田実の協力も得て、楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立された[81]。毎年10月25日には、関が敵空母に突入した午前10時に海上自衛隊徳島航空基地か、小松島航空基地の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。また靖国神社には関の遺影が祀られている。

遺書[編集]

父上様、母上様  西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。  今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。  鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。  本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に

満里子殿  何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る  何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様  色々と思出をたどりながら出発前に記す  恵美ちゃん坊主も元気でやれ

教へ子へ  教へ子よ散れ山桜此の如くに

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 戸籍と親族の証言によれば、名前の読みは「ゆきお」である[1][2][3]。一方、小沢孝公は関から「おれの名前のツラオというのは、おれの親爺さんが、楠正行(まさつら)の一字をとって、おれがりっぱに国に御奉公できるようにと考えてつけてくれたんだ」と聞いたという[4]
  2. ^ 慰問袋は「初期は戦地の個人宛に送ったものの」「次第に不特定の相手に送ることが多くなってきた」(#町田p.68)。渡辺エミ子が関宛に送ったのか、それとも送られた先が偶然にも関だったのかは不明。
  3. ^ このうち、谷機はエンジントラブルで発進できなかった(#金子p.88)
  4. ^ 当初は6隻だが、6隻のうち「ガンビア・ベイ」は栗田艦隊の砲撃により沈没
  5. ^ 「大和隊」の出撃は10月21日16時25分、「オーストラリア」の被弾は同日朝(#ウォーナー上pp.167-173)

出典[編集]

  1. ^ Sanaemon(さなえもん・サナエモン)オフィシャルブログ 関行男大尉●小野家親族の真意と誇り” (日本語). さなえもん. 2011年9月14日閲覧。(養妹・繁子の孫によるブログ) 2009-11-20「関行男大尉 名前の読み」
  2. ^ 森史郎 著「敷島隊の五人: 海軍大尉関行男の生涯」P65
  3. ^ 阿川弘之 著「連合艦隊の名リーダーたち」P292
  4. ^ 小沢孝公 『搭乗員挽歌 散らぬ桜も散る桜光人社2002年ISBN 4-7698-2352-5184頁、大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版214頁
  5. ^ a b c #ウォーナー上p.94
  6. ^ a b #ウォーナー上p.93
  7. ^ #ウォーナー上p.90
  8. ^ #ウォーナー上pp.90-91 。同期・宮崎富哉の回想
  9. ^ #ウォーナー上pp.92-93
  10. ^ #ウォーナー上p.107
  11. ^ a b #ウォーナー上p.108
  12. ^ #ウォーナー上p.107
  13. ^ 『原田要『わが誇りの零戦』』桜の花出版p262
  14. ^ a b c #ウォーナー上p.146
  15. ^ a b c d #金子p.47
  16. ^ #ウォーナー上p.146)。
  17. ^ 零戦搭乗員の会『零戦かく戦えり』文春ネスコ467頁
  18. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版240-241頁
  19. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版242頁
  20. ^ 御田重宝『特攻』講談社23-25頁
  21. ^ #金子pp.30-31
  22. ^ #金子p.36
  23. ^ #金子p.38
  24. ^ #金子pp.38-41
  25. ^ #金子pp.36-37, pp.40-41, pp.62-63
  26. ^ a b #金子p.41
  27. ^ #金子pp.42-46
  28. ^ #金子p.42
  29. ^ #金子pp.45-46
  30. ^ #金子p.46
  31. ^ #金子p.48
  32. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p113
  33. ^ 文芸春秋編『完本太平洋戦争下』124頁
  34. ^ #ウォーナー上p.162
  35. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社45頁
  36. ^ a b #金子pp.54-55
  37. ^ a b c #金子p.49
  38. ^ #金子p.51
  39. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦114頁、金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫61頁
  40. ^ a b c #金子p.85
  41. ^ a b c #森本p.130、133 オリジナル:高木俊朗の回顧(文藝春秋1975年6月号)
  42. ^ a b c #森本p.133
  43. ^ #森本pp.130-133
  44. ^ #森本p.131
  45. ^ a b #ウォーナー上p.164
  46. ^ #金子p.86
  47. ^ a b #金子p.88
  48. ^ #金子pp.54-55, p.88 。外部リンクも参照
  49. ^ #金子pp.87-89
  50. ^ #金子pp.89-90
  51. ^ #金子p.91
  52. ^ #金子pp.91-92
  53. ^ #金子p.92 オリジナル:「神風特別攻撃隊戦闘概要」防衛研究所戦史室資料
  54. ^ #金子pp.88-89
  55. ^ #金子pp.92-96
  56. ^ a b #金子p.96
  57. ^ #金子pp.99-101
  58. ^ #金子pp.110-111
  59. ^ a b #金子p.111
  60. ^ #金子pp.111-112
  61. ^ #金子p.122
  62. ^ #金子p.123
  63. ^ #金子p.124
  64. ^ #金子pp.124-125
  65. ^ #ウォーナー上pp.202-203
  66. ^ #金子p.122,124,126
  67. ^ #金子p.126
  68. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年56-58頁
  69. ^ #金子pp.91-92
  70. ^ #木俣p.109
  71. ^ #金子pp.98-99
  72. ^ #金子p.91
  73. ^ #金子p.100,114,140,145
  74. ^ #金子p.99, pp.109-110, p.140
  75. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年306頁
  76. ^ #金子p99、142-149
  77. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年71、74頁
  78. ^ 御田重宝『特攻』講談社107頁
  79. ^ 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社281-282頁
  80. ^ #ウォーナー下p.280
  81. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版140-141頁

参考文献[編集]

  • 小沢孝公 『搭乗員挽歌 散らぬ桜も散る桜光人社2002年ISBN 4-7698-2352-5
  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー 『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌』上、妹尾作太男(訳)、時事通信社1982年ISBN 4-7887-8217-0
  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー 『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌』下、妹尾作太男(訳)、時事通信社1982年ISBN 4-7887-8218-9
  • 木俣滋郎「基地航空隊の作戦 -レイテ戦の直前まで-」 『写真・太平洋戦争(4)』 雑誌「」編集部(編)、光人社、1989年ISBN 4-7698-0416-4
  • 森本忠夫 『特攻 外道の統率と人間の条件文藝春秋1992年ISBN 4-16-346500-6
  • 町田忍 『戦時広告図鑑 慰問袋の中身はナニ?』 WAVE出版、1997年ISBN 4-87290-001-4
  • 金子敏夫 『神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実』 光人社NF文庫、2005年ISBN 4-7698-2465-3

関連項目[編集]

外部リンク[編集]