あゝ決戦航空隊

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あゝ決戦航空隊
The Originator of Kamikaze
監督 山下耕作
脚本 笠原和夫野上龍雄相良俊輔
製作 岡田茂俊藤浩滋(制作補佐)
出演者 鶴田浩二
音楽 木下忠司
撮影 塚越堅二
編集 堀池幸三
製作会社 東映京都
配給 東映
公開 日本の旗1974年9月14日
上映時間 163分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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あゝ決戦航空隊』(ああけっせんこうくうたい)は、1974年9月14日東映で公開された日本映画。カラー、163分。

概要[編集]

太平洋戦争時の神風特別攻撃隊創始者・大西瀧治郎の生涯と、特攻隊員の使命を果たすために散っていった特攻隊員の生き様を描いた戦争長編映画。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

企画[編集]

当時の映画会社には困った時の特攻隊という風潮があり[1]、特攻隊の話は、戦後の"忠臣蔵現代劇版"とも言え、オールスターで役者が揃い、悲壮美もあってお客に受ける、「実録シリーズ」真最中の東映では必然的に挙がってきた企画であった[1]。また東映の幹部・岡田茂社長や俊藤浩滋高岩淡らは戦争映画が好きで[2][3]、東映は古くからコンスタントに戦争映画を作ってきた[2][3]。脚本の笠原和夫は「仁義なき戦い」シリーズ執筆前の1972年に「海軍特別攻撃隊」という本作と同じ題材の特攻隊映画を書いていて[4]小沢茂弘を監督に高倉健主演で製作を予定していたが、高倉が鶴田浩二との共演を渋り企画が流れた[4]。1974年になってスタッフのクレジットに名前のない当時の東映京都撮影所長・高岩淡が、草柳大蔵原作『特攻の思想』を渡邊達人に渡し、渡邊が笠原にこれを原作として脚本を書いてくれないかと頼み[2]、笠原は当時『実録共産党』(→映画化されず)を書いていて、一人だと難しいと野上龍雄に助っ人を頼み、本作の脚本を引き受けた[2]。ただ野上は戦争関連はあまり詳しくないので大半は笠原が書いた[2]。本作は笠原が手掛けた最初の戦争映画脚本である。

製作の決定[編集]

岡田茂東映社長は、1974年5月のインタビューで、本作の製作を決めた理由を「大西中将は人間として凄く魅力があるし、彼の死によって徹底抗戦を主唱した厚木航空隊の青年将校が思い止まったという歴史的な秘話もあって、従来の戦記映画にないドラマが出来ると思ったからなんだ。戦争に若い人は興味がないというが、これは当たるよ」と話している[5]。また「東映カラーはこれからも原則的には"不良性感度"を基調にしてゆくことには変わらない。ただ、時折は"善良性感度"の強い作品を作る。この8月に公開を予定している『あゝ決戦航空隊』、これは特攻作戦を断行した大西瀧治郎中将のハナシだ。特撮と鶴田浩二、高倉健ほかのオールスターでつくろうと考えている。不良性では馬鹿当たりはまずありえない。それを狙うとすれば"善良性感度の企画"を考えにゃいかん時代に入ってきたね」と話した[5]

脚本[編集]

本作は「仁義なき戦い」シリーズの第五部『仁義なき戦い 完結篇』や、『実録共産党』と製作時期が重なる[2][6]笠原和夫は「仁義なき戦い」シリーズの第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』の脚本を書き上げた後、岡田社長から「もう一本書いてくれ」と頼まれた[6]。しかし安すぎるギャラ(「仁義なき戦い」シリーズ1本120万円)に不満で、第五部のギャラアップを深作欣二監督と共闘を約束し、認めないなら第五部はやらないと申し合わせていた[6]。しかし1974年の正月に岡田社長に挨拶に行った深作が岡田から「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」と言われ、「はいっ」と二つ返事で引き受けてしまった[6]。深作が笠原に電話で謝まってきたが、もう笠原は本作『あゝ決戦航空隊』の脚本に取り掛かっていてこちらに思い入れがあり「仁義なき戦い」シリーズは『仁義なき戦い 頂上作戦』で終わっていると『仁義なき戦い 完結篇』の脚本を降りた[6]。笠原の方はこのギャラ闘争が実り、本作のギャラは150万円にアップした[6]。ここからギャラアップは続き、1982年の『大日本帝国』では1000万円になったという[6]

大西瀧治郎の伝記のため[7]、笠原と野上は脚本執筆にあたり、まず児玉誉士夫に話を聞かなければならないと、児玉に近い岡村吾一を岡田社長に紹介してもらい、二人で児玉の許へ何度か通い取材を行った[8][9]ロッキード事件で児玉の名前が世に出たのは1976年2月4日のことで[10]、映画製作中はまだ一般には知られてない"政財界の黒幕"という認識だった[10]。戦時中の児玉機関による中国大陸での物資調達活動は、海軍航空本部の委託によるものであるが、大西は最後の海軍航空本部長であり、児玉をことのほか可愛がったといわれる[10]。大西は終戦の御聖断が下った1945年8月15日夜に日本刀で自決するが、自刃の直後、児玉が駆け付け「私もお供します」と切腹しようとすると「君は生きろ」と大西に制されたという逸話がある[10]。笠原と野上の取材に対して、特に児玉が眼を真っ赤にして語ったのは「敗戦時、天皇は人間宣言をしたのがまちがいである。まず第一に退位し、首都を去り、伊勢神宮祭司になるべきだった。それで初めて〈国の象徴〉になりえたであろう」ということだった[9]。笠原と野上は共感を互いの胸に秘めて、作品内にそのことを匂わせている[9]

脚本完成後にも児玉に意見を聞くため、岡田社長、俊藤浩滋日下部五朗山下耕作の4人で児玉に会いに行き本を読んでもらった[11][12]。日下部が何度も「児玉さん」と呼び、「児玉先生と呼べ」と児玉の右腕に注意されてもなお「児玉さん」と呼ぶので、右腕から「これほど言ってんのにナメてんですか」と凄まれた[11][12]。俊藤は児玉に「先生は終戦の時はコレ(小指をたてる)はどれぐらい持ってはったんですか」と失礼な質問を浴びせ児玉を閉口させた[11]。山下は「山下耕作閣下」と書かれた児玉から自叙伝を貰った[11]鶴田浩二も児玉に会い、自身の考えを伝え「よろしいですか」と言うと児玉は賛同してくれたという[13]。また児玉は大西の切腹シーンの撮影に協力している[10]

監督選定[編集]

監督は高岩淡が尊敬する山下耕作を推したが、笠原は「山下はリアリズムじゃないし、対象に迫っていけないから特攻隊員は描けない」と反対し、大島渚を推し、佐藤雅夫だけが賛成したが結局、山下になった[2]

キャスティング[編集]

大西瀧治郎役の鶴田浩二は、1970年代は鶴田は神風特攻隊の生き残りということになっていたからの起用[14](鶴田浩二#「特攻崩れ」の虚実)。鶴田は『映画評論』1974年10月号の須藤久との対談で「僕らはまだ、覚悟する時間を与えてもらった。いうなれば、テメエらは消耗品だ、ああしろ、こうしろと。飛び立つ前に、覚悟する時間をくれましたよ」などと話し[13]、はっきり特攻隊の生き残りと話している[13]。鶴田は自身の意見を反映させ、山下監督に脚本を変更させた部分もあると話している[13]。山下は本作のタイトルを「責任」にしてもいいと言っていたという[13]。 

人気絶頂の西城秀樹は、既に戦後から約30年が経ち、若い世代には戦争ものには興味がないのでは、などという論調が出たため、ヤング層にアピールするためのキャスティングだった[15]。西城は若き特攻隊員を演じたが、兵士役に坊主頭は不可避であるが、ファンからの「お願いだから丸刈りにならないで」の切なる哀訴に、長髪を飛行帽マフラーで隠して撮影に挑んだ[16]。「特攻隊員の気持ちが分かるか」とのマスメディアの質問に対して「分かりっこないスよ」とケロリと答えた[16]

製作費[編集]

製作原価5億5千万円[17]

撮影[編集]

撮影は1974年夏に行われた[7]。大西瀧治郎は終戦の御聖断が下った1945年8月15日夜に切腹するが、映画にも出るこのシーンは、渋谷東急本社の裏手にあった軍令部次官宿舎の実際に大西が切腹した建物で撮影が行われた[8][18]

プロモーション[編集]

会社挙げての大作でもあり、動員本部を設置して話題作りに励んだ[7]。1974年の終戦記念日前後に、新聞、雑誌、テレビ等でプロモーションを展開させた[19]。しかし戦後からほぼ30年が経ち、戦争映画は映画観客の主体をなすヤング層から遠い、興味すらないのではないかという論調が多かった[5][7]

キャッチコピー[編集]

封切り時のポスター等に書かれたキャッチコピーは「若者よ、君は祖国のために死ねるか」だったが[13][20]2014年東映ビデオから発売されたDVDのキャッチコピーは「若者に問う!君のこころに祖国はあるか!?」に変更されている[21]

試写[編集]

上映時間2時間43分はテンポも緩やかで[12]、ラッシュ試写では山下耕作と記録、編集を除く、居合わせたスタッフのほとんどが眠りこけってしまった[22]

興行[編集]

本作は1974年8月10日公開の『三代目襲名』と共通前売り券を製作した[23]。これが「共通前売券法は商品券違反」などと兵庫県警が捜査を開始し[6]、東映本社などが家宅捜査を受けた(山口組三代目 (映画) )。当時の『キネマ旬報』にはかなりの団体券が売れ、団体券に支えられた直営館は水準以上、ヤング層中心の独立館は不振で、普段足を運ぶ東映ファンとか全く異なった観客層だが、概ね健闘などと書かれているが[15][19][24]春日太一著『あかんやつら』では大コケと記述されている[25]

作品の評価[編集]

評論家筋からの批評は出なかったと山下は話しているが[26]、『シナリオ』では「日本映画初の天皇制批判」と評された[13]。 

逸話[編集]

児玉は1974年7月に舌がもつれて呂律が回らなくなり、脳外科医の勧めで夏の間、箱根仙石原で静養に努めていた[10]。東映が本作封切り前に児玉に「是非、試写を観て頂きたい」と要請したため、児玉は無理を押して封切り前日の1974年9月13日に東映本社を訪れた[10]。勿論映画の宣伝も兼ねたもので、大臣クラスや稲川聖城五島昇や出演俳優らも試写に参加した[11]。本来、岡田社長が児玉を案内しなければならなかったが、同じ日に「岡田茂を励ます会」という自身が主賓のパーティーをやっていて同席出来ず、日下部五朗が児玉の案内をした[11]。児玉は自身も立ち会った大西の切腹シーンなどの再現に、凄く力が入って映画を観覧、大変感激し「これは国民必見の映画だ。すぐテレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言った[11]。すると山下耕作入社時の総務課長が五島昇に「社長、この監督の山下君を僕が採用したんです」と自慢した。この話を山下から伝え聞いた岡田茂は「俺が採用したんだぞ。お前を。みんな反対したんだ、(山下は)汚いって」と言った[11]。児玉は試写後に廊下に出たところでドドドと引っ繰り返り、扉に頭をぶつけて倒れた[11][12]。児玉の後ろに付いて歩いていた日下部が抱き起してすぐにお付きの人が飛んできた。症状は脳血栓で、児玉は一旦は等々力の自宅に戻ったが、夜中に再び倒れて深夜、東京女子医科大学病院に最初の入院をした[10]。後から児玉から山下に100万円、スタッフにボールペン各1本が送られてきて、岡田社長に報告したら「50万円お前が取っておけ。あと50万円はお返しせにゃいけんから」と言われた[11]。後のロッキード事件で児玉は数億円を受け取ったと報道されたたため、あまり気前はよくないなと思ったという[11]

後世への影響[編集]

ロッキード事件が明るみに出た1976年2月以降は映画館で上映されることはあまりない[11]

1979年に東映が製作した『日本の黒幕』のモデルは児玉誉士夫であるが[12]、本作で東映の幹部が児玉と面識を持っていたことで『日本の黒幕』の製作はトラブルなく進めた[12]

同時上映[編集]

武道ドキュメント 拳豪の祭典

脚注[編集]

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  1. ^ a b 昭和の劇 2002, pp. 322−326.
  2. ^ a b c d e f g 昭和の劇 2002, pp. 326−334.
  3. ^ a b 『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第2回 / 全5回)岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)
  4. ^ a b 昭和の劇 2002, pp. 322−326、596.
  5. ^ a b c 活動屋人生 2012, pp. 43−51.
  6. ^ a b c d e f g h 映画はやくざなり 2003, pp. 79−82.
  7. ^ a b c d キネマ旬報』(キネマ旬報社)1974年9月下旬号 p.164 「興行価値」
  8. ^ a b 昭和の劇 2002, pp. 334−339.
  9. ^ a b c 人とシナリオ 2003, pp. 411−412.
  10. ^ a b c d e f g h 週刊文春』(文藝春秋)1982年8月26日号 pp.40-45 美里泰伸「ロッキード事件 児玉邸の五百日 『その時われわれはCIAを恐れた』 軍団幹部・親友が六年間の沈黙を破って語る 児玉誉士夫戦後事件史 第一回」
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 将軍 1999, pp. 162−163.
  12. ^ a b c d e f シネマの極道 2012, pp. 122−124.
  13. ^ a b c d e f g 須藤久 1988, pp. 81−93.
  14. ^ 須藤久 1988, pp. 115−133.
  15. ^ a b 『キネマ旬報』(キネマ旬報社)1974年10月上旬号 p.164 「興行価値」
  16. ^ a b 週刊朝日』(朝日新聞社)1974年9月27日号 p.37 「プライベートニュース 西城秀樹」
  17. ^ 『キネマ旬報』(キネマ旬報社)1974年5月下旬号 p.162 「映画・トピック・ジャーナル」
  18. ^ 2012年12月 : JYMA 日本青年遺骨収集団 Blog - livedoor Blog
  19. ^ a b 『キネマ旬報』(キネマ旬報社)1974年10月下旬号 p.168 「映画館ヒット・Hit」
  20. ^ あゝ決戦航空隊|一般社団法人日本映画製作者連盟
  21. ^ 東映ビデオ あゝ決戦航空隊
  22. ^ あかんやつら 2013, p. 253.
  23. ^ 任侠映画伝 1999, pp. 232−233.
  24. ^ 『キネマ旬報』(キネマ旬報社)1974年11月上旬号 p.168 「映画館ヒット・Hit」、1974年11月下旬号 p.168 「映画館ヒット・Hit」
  25. ^ あかんやつら 2013, p. 354.
  26. ^ 昭和の劇 2002, pp. 339−343.

参考文献・ウェブサイト[編集]

外部リンク[編集]