厚木航空隊事件

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厚木航空隊事件(あつぎこうくうたいじけん)は、1945年8月15日に、厚木海軍飛行場第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が起こした騒乱事件。太平洋戦争での日本の降伏を受け入れず、連合国軍と徹底抗戦する目的で起こされたが、6日後に鎮圧された。

経緯[編集]

1945年(昭和20年)8月15日に行われた玉音放送により日本は降伏し終戦したが、小園は連合艦隊司令部と全艦隊に「302空は降伏せず、以後指揮下より離脱する」と伝達。部隊に「日本は神国、降伏はない、国体に反するごとき命には絶対服さない」と訓示を行う。翌日から陸海軍、国民など各地に檄文を撒き呼びかけて回った。

海軍大臣米内光政大将第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将高松大佐宮が説得に当たるが納得しなかった。しかし小園がマラリアにかかり野比海軍病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)へ運ばれて監視下に置かれ、302空は8月20日に副長の菅原英雄中佐によって武装解除され、21日に反対者も鎮圧された[1]。なお、小園がマラリアに罹患したという点について、小園の長男は「マラリアではなく、軍が寝室に秋水の燃料補助剤をまいて錯乱状態にした」と主張している[2]

事件後[編集]

1945年10月16日に横須賀鎮守府臨時軍法会議は、判士海軍少将小柳冨次(裁判長)・法務官海軍法務大佐由布喜久雄・判士海軍大佐小野良二郎の3名の裁判官で、党与抗命罪海軍刑法56条)により「被告人ヲ無期禁錮ニ処ス」という判決を下した。検察官は海軍法務少将小田垣常夫干与であった。また官籍剥奪も行われた。青年将校以下69名も四年から八年以下の禁錮刑に処せられた。軍法会議法における「戦時事変に際し海軍部隊に特設された臨時軍法会議」であるため、法令により弁護人はいなかった[3]。小園らは横浜刑務所に収監された。

1946年11月3日、日本国憲法の公布を機会として公布された大赦令第1条の赦免対象に海軍刑法の党与抗命罪も含められ、事件関係者は主犯である小園を除き赦免された。小園は無期禁錮から禁錮二十年に減刑される。1950年9月4日、特別上申により禁錮十年に減刑、同年12月5日熊本刑務所仮釈放された。1952年平和条約の発効に際し、政令百十七号の大赦令によって同年4月28日に赦免された[4]

国会において阿具根登大橋敏雄らは、この判決で小園が海軍軍人としての一切の名誉を奪われて軍人恩給の支給対象から外れ、もともと恩給資格のない基地隊員60名も元受刑者として何らかの身分制限がつきまとったことは、ビラをまいただけであるのに対し理不尽、不公平と主張した[3]。終戦前後に抗命罪に値するものは厚木航空隊だけではなかった。宮城事件で玉音放送用の録音盤の奪取ならびに放送の阻止を図った陸軍将校は、武力による実害が発生したにもかかわらず、自決した者以外は裁判もなされずに釈放されている。また厚木と全く同様の抗戦を企てた者として、陸軍飛行九十八戦隊(児玉飛行場)の宇木素道少佐、あるいは陸軍狭山基地の山田少佐、台湾の海軍一三二航空隊がいた[5]

1974年、恩給法の附則改正により小園の未亡人は遺族扶助料を受給できることになる。小坂徳三郎総務長官は「小園氏の名誉回復は今回の恩給法の改正によりまして、まず第一段階は到達されたというふうにわれわれは認識しております」と説明した[6]

出典[編集]

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  1. ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ 渾身篇』文藝春秋、pp.541-543
  2. ^ 北沢文武『児玉飛行場哀史』文芸社、2000年、pp.189 - 190[1]
  3. ^ a b 71回 参議院 予算委員会第一分科会 1号 昭和48年04月05日、71回 衆議院 社会労働委員会 14号昭和48年04月12日
  4. ^ 71回 参議院 予算委員会第一分科会 1号 昭和48年04月05日安原美穂答弁
  5. ^ 71回 衆議院 社会労働委員会 14号昭和48年04月12日
  6. ^ 72回衆議院 内閣委員会 32号昭和49年05月21日

関連項目[編集]