護衛空母
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護衛空母(ごえいくうぼ、Escort carrier)は、第二次世界大戦においてアメリカ合衆国・イギリス・日本の3カ国で運用された小型・低速の航空母艦である。主に船団護送の目的に使われた。
主に商船からの改造、あるいは商船から船体図面を流用しており、正規空母のような防御力は付与されておらず、機関出力も少なく、武装も少ない。また、格納庫も飛行甲板も狭く短いため、搭載・運用する飛行機に一定の制限があった。
しかしアメリカ・イギリスの場合、大戦前半に実用化された空母用油圧式カタパルトを護衛空母の飛行甲板に埋設することにより、使用機体の制限は一気に解決された(例えば900kgの航空機搭載爆弾/航空魚雷を搭載した満載総重量8t超のTBFアヴェンジャーを発進させることができた)。また、十分な格納庫を持った専用設計の護衛空母が登場すると、運用可能な機体数も軽空母に匹敵するようになり、大きく打撃力を向上させるに至った。
また、特にアメリカにおいて、規格化された輸送船を一気に空母転用することや(ボーグ級)、ブロック工法と電気溶接を組み合わせ大量に新造する(特にカサブランカ級)など、短期間に大量に建造された点も特徴である。
太平洋戦線においては、大戦中期のインディペンデンス級軽空母とエセックス級正規空母の就役に加え、この良質な護衛空母の大量建艦により、どん底にあったアメリカの空母不足は補われた。太平洋戦線において重要作戦中の連合国の艦隊や上陸部隊は、多くが護衛空母の艦載機によって濃密な対空・対潜水艦防御が提供されるようになり、上陸戦における空の支援にも、護衛空母艦載機が加わった。このため、アメリカの太平洋戦線における勝利に重大な貢献を果たした艦種と言われる。
また、大西洋戦線においても、レンドリース法に基づく物資輸送船団や通商船団に、CAMシップ・MACシップに代わって護衛空母が随伴し、空母艦載機による対空防御・対潜水艦防御、さらにはドイツ潜水艦に対する抑止力を提供した。特に船団の護衛体制が強化された1943年中期以降からは、連合国商船の喪失は激減し、イギリス本国の生命線守備に重大な貢献を果たした。
第二次世界大戦を生き抜いた護衛空母のうち、一部はモスボール保管ののち朝鮮戦争に動員された。商船改造の護衛空母のうち、ロングアイランドとチャージャーは元の海運会社に買い戻され、貨物船に復元され活躍した。カサブランカ級やコメンスメントベイ級の一部はヘリコプター護衛空母や強襲揚陸艦、雑役艦などに改造され、70年代まで現役であった。
このように、第二次世界大戦において重大な役割を担った護衛空母だが、第二次世界大戦後の新しい戦争の形態のなかで、護衛空母の存在価値は失われ、今日、護衛空母という艦種を運用している海軍は無い。
概要[編集]
誕生[編集]
第二次世界大戦において、ドイツ海軍は主にUボートを用いて、連合国に対する通商破壊活動を行った。開戦以降、イギリスの商船の被害は甚大であり、一年間で約150万トンの商船を失うこととなった。しかし潜水艦は攻撃に際し、魚雷の射程まで目標に近づき、潜望鏡深度にまで浮上するため、付近を航空機で警戒しておけば、ほとんど攻撃を防ぐことができた。そのため、当初は大型の四発重爆撃機や飛行艇で船団護送を行ったが、大西洋の中央に対潜哨戒機の航続力の限界からいわゆる「空の隙間」ができたため、そこでは船団は空からの護送が受けられず被害が続出した。

そこで、イギリス海軍は商船にカタパルトを装備して使い捨ての旧式戦闘機による護送を行った(CAMシップ)。そして、さらに効率的に護送する目的で、1940年頃からイギリス海軍とアメリカ海軍(当時のアメリカ合衆国は中立国)は、この空の隙間を埋めるため、大型の商船を改造し短い飛行甲板からカタパルトを装備することで航空機を発艦させることのできる小型改装空母を多数建造し、これを対潜哨戒の船団護送に用いる案が検討され始めた。商船船体を基にした、小型で安価な空母を多数整備することにより、多くの船団に対し、潜水艦に対して必要な防衛力を備えさせることが目的であった。この案が護衛空母として結実することとなる。
最初の護衛空母はイギリス海軍の「オーダシティ」である。拿捕したドイツ貨客船「ハノーファー」を1941年1月から改装し、6月に就役した。
アメリカ海軍初の護衛空母は「ロング・アイランド」であり、竣工は1941年6月である。
太平洋戦争開戦の後は、これら護衛空母は太平洋戦線でも活躍することになり、空母の分類として「護衛空母(escort aircraft carrier)」という艦種が誕生した。
戦歴[編集]
アメリカ海軍では最初、補助的な艦船として扱われていたが、大戦初期に大西洋に展開していたドイツ海軍のUボートを壊滅させるために多数建造された。護衛空母の任務は、現地での潜水艦掃討や、パトロール、偵察、輸送船などの護送、そして航空機の輸送などである。
イギリスの要請により大量建造され、イギリス海軍にレンドリースされた。戦争中に100隻以上の護衛空母が就役したが、現在ではこの種類の艦船は使用されていない。
太平洋戦争では、上陸作戦における対地支援任務にもつき、ダグラス・マッカーサーのレイテ島上陸作戦に続く、レイテ沖海戦の中のサマール島沖海戦にも加わっている。護衛空母6隻を中心とするクリフトン・スプレイグ少将の艦隊は、レイテ湾に突入しアメリカ地上部隊の壊滅を意図する栗田健男長官の主力艦隊と遭遇し、果敢な戦闘を行った。
構造[編集]
アメリカ海軍における護衛空母の艦種コードはCVEである。これは空母を表すCVに護送(Escort)の頭文字を付加したものであるが、乗員達からは、自嘲的に燃え易い(Combustible)、壊れ易い(Vulnerable)、消耗品(Expendable)の頭文字と揶揄されていた。通称として「ジープ空母」、「赤ちゃん空母」と呼ばれた。これは簡単な改造で多数の商船改造空母を送り出すことを目的としたアメリカ海軍の方針によるもので、後述する日本海軍の護衛空母建造方針とは対極に位置するものである。
典型的な護衛空母の大きさは、全長150mぐらいであり、同時代の正規空母の270mに比べて、約半分である。排水量は正規空母の30,000トンに対して8,000トン程と1/3以下であった。速力も20ノット未満で、カサブランカ級は機関に蒸気タービンではなく蒸気レシプロを用いた。
アメリカ・イギリス海軍で運用された護衛空母は油圧カタパルトを装備しており、短い飛行甲板と低速でありながらも船団護送には十分な航空戦力の運用能力があった。搭載機数は初期には20機前後、大戦末期のものでは30機から40機に達した。
アメリカ海軍ではF4Fの配備後にも折り畳み翼の採用や軽量化など、護衛空母での取り扱いを考慮した改造を要求している。
アメリカ海軍の護衛空母[編集]
イギリス海軍の護衛空母[編集]
日本海軍の護衛空母[編集]
日本海軍では、当時の日本にアメリカほどの造艦能力がなかったため、同一艦型で多数が造艦される護衛空母は存在しない。民間商船を改造した特設空母が護衛空母に近い艦種と言える。これは当初は正規の航空母艦の補助として連合艦隊が主戦力として使用することを意図したもので、英米の護衛空母に比べると本格的なものであった。しかし特に優速で船体も大型・甲板長があった飛鷹型2隻を除くと、速力が遅く小型なことは否めず艦隊行動は行えず、カタパルトも装備していなかったために、艦載機の運用に関して種類・量ともに多くの制限があった。日本海軍は特設空母以外にも給油艦を改造し発艦能力のみを持たせたCAMシップ類似の速吸を完成させ、後継として同様の形態を持つ鷹野型給油艦も計画しているが、これらの艦艇も飽くまでも船団護送ではなく艦隊随行の給油艦兼正規の航空母艦の補助戦力として位置づけられていたものであった。
また、陸軍からはTL型戦標タンカーに全通飛行甲板を架装し簡易な空母とする特TL型建造の提案を受けているが、終戦までに僅かに2隻が竣工したのみであった。なお、日本海軍は特TL型も前述の艦艇同様に正規の航空母艦の補助として運用する意図を持っており、陸軍よりも優速の船舶の提供を受けている。
その後、特設空母は英米同様の船団護送の強化の目的で海上護衛総司令部に移管された。海上護衛船団司令部に移管された特設空母は、米英の護衛空母と同じように船団護衛に参加し、旧式の艦上攻撃機などで対潜哨戒を行った[1]。船団護送に特設空母を用いる際の運用については、次のような指摘が残されている。ヒ船団にて潜水艦の雷撃で喪失した「雲鷹」は、その戦闘詳報において「海防艦を増備し敵潜水艦を制圧する『掃蕩隊』の新設」「航空機による前路哨戒は是非とも必要であるため、各航路の航空基地を増備強化して勢力の増大を計り、護衛空母は廃止するを認む」「護衛艦の増加が無理だとしても、空母が船団と同速力にて運動するのは最も不可である」「高速力を持って船団の後方をバリカン運動を行いながら続航する必要がある」といった提言を残している[2][3]。また、アメリカ海軍太平洋艦隊潜水艦部隊の司令官であったチャールズ・A・ロックウッドも「台湾・中国・フィリピンから船団護衛機を出したほうが経済的で安全であるのにもかかわらず、この措置にでたことは不思議である」「護衛空母は、物資及び航空機の輸送に専念させたほうが有利であると思われる」という意見を残している[3]。
日本海軍は米英に倣って特設空母を船団護衛に用いたが、特設空母の随伴や船団を直接護衛する駆逐艦・海防艦等の護衛艦艇の不足、レーダーやソナーの不備、搭載機の対潜能力や練度の不十分さなどの問題が多かった[1]。海上護衛船団司令部に配備された特設空母4隻はそれぞれ数度にわたって重要な輸送船団の護衛に従事し、護衛艦艇と協力して幾度か敵潜水艦撃沈を報告したが、アメリカ海軍側の資料では該当するものはいずれも存在していない。逆に潜水艦の雷撃を受け3隻が沈没し、終戦まで残存していたのは海鷹1隻のみであった[4]。
- 海上護衛船団司令部への移管前、潜水艦「セイルフィッシュ」の攻撃を受け戦没。
- 海上護衛船団司令部へ移管され船団護衛に参加。その後訓練目標艦として行動し、艦載機の攻撃を受け大破擱座。
海軍以外の所属として、以下のものも整備された。
- 同上。
- (特TL型)
脚注[編集]
- ^ a b #戦史叢書46『海上護衛戦の本格化 護衛空母の海上護衛総司令部部隊編入』 309-311頁
- ^ #雲鷹戦時日誌3 pp.49-51『七.(一)戦訓』
- ^ a b #戦史叢書46『海上護衛戦の本格化 護衛空母の海上護衛総司令部部隊編入』 311-312頁
- ^ #戦史叢書46『海上護衛戦の本格化 護衛空母による護衛』 378-383頁
参考文献[編集]
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- C08030583700 『昭和19年4月1日~昭和19年9月17日 軍艦雲鷹戦時日誌(3)』。
- 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書46 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年。