浦風 (陽炎型駆逐艦)

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浦風
Urakaze II.jpg
基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者  大日本帝国海軍
級名 陽炎型駆逐艦
艦歴
計画 1937年度(マル3計画
起工 1939年4月11日
進水 1940年4月10日
竣工 1940年12月15日
最後 1944年11月21日戦没
除籍 1945年1月10日
要目
基準排水量 2,033トン
全長 118.5m
最大幅 10.8m
吃水 3.8m
ボイラー ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式衝動タービン2基2軸
52,000馬力
速力 35.0ノット
航続距離 18ノットで5,000
乗員 239人
兵装 50口径三年式12.7センチ砲連装×3
25mm機銃連装×2
61cm魚雷発射管4連装×2
爆雷16個
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浦風(うらかぜ)は、大日本帝国海軍駆逐艦[1]陽炎型駆逐艦の11番艦である[2]。第17駆逐隊の姉妹艦と共に真珠湾攻撃からレイテ沖海戦に至るまで、空母機動部隊や輸送船団の護衛、輸送任務、対水上艦戦闘など太平洋戦争中のあらゆる方面で活動したが、1944年(昭和19年)11月21日、台湾海峡にて米潜水艦の雷撃により金剛型戦艦金剛と共に撃沈された[3]。艦名は初代「浦風」(浦風型駆逐艦)に続いて2代目[4]

艦歴[編集]

太平洋戦争緒戦[編集]

陽炎型駆逐艦11番艦浦風は仮称第27号艦として藤永田造船所で建造がはじまった。同社では浦風以外に3番艦黒潮、6番艦夏潮、14番艦谷風、18番艦舞風の陽炎型駆逐艦を建造した。1939年(昭和14年)4月11日起工[5]。11月6日、「浦風(ウラカゼ)」と命名される[1]1940年(昭和15年)4月10日進水[5]。同年12月15日、陽炎型10番艦時津風と同じ日に竣工した[5][6]呉鎮守府に所属[7]。同日附で12番艦磯風と共に第17駆逐隊が編制された[8]1941年(昭和16年)5月1日、第一航空戦隊に編入されるが7月18日附で第一艦隊・第一水雷戦隊に編入[8]。そのまま太平洋戦争を迎えた。

太平洋戦争開戦時、第17駆逐隊(浦風、磯風浜風谷風)の4艦は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)に所属し、南雲機動部隊の護衛艦として真珠湾攻撃に参加する。同作戦の護衛駆逐艦は第17駆逐隊以外に第18駆逐隊(陽炎不知火)及び陽炎型秋雲がおり、朝潮型駆逐艦2隻(霞、霰)以外は全て陽炎型である。その後も僚艦と共に空母機動部隊を護衛した。12月下旬のウェーク島攻略では、第八戦隊(利根、筑摩)および谷風と共に第二航空戦隊蒼龍飛龍)を護衛した。続いてラバウル攻略、ダーウィン空襲、ジャワ島攻略、セイロン沖海戦の各作戦に従事する。

この作戦従事中の3月4日、空母飛龍所属機が南緯12度04分 東経108度25分 / 南緯12.067度 東経108.417度 / -12.067; 108.417で炎上中のオランダの貨物船エンガノ(1万5000トン)を発見する[9]。18時、浦風は重巡筑摩と共に機動部隊主隊から分離[10]。エンガノは筑摩の雷撃で沈没し、2隻は5日午前1時に南緯13度09分 東経108度33分 / 南緯13.150度 東経108.550度 / -13.150; 108.550で本隊と合流した[11]

続いて浦風と谷風はクリスマス島砲撃を敢行した[12]。前日の3月6日10時30分、南雲忠一司令長官は残敵掃蕩を命じ、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍飛龍)、第三戦隊第2小隊(3番艦榛名、4番艦金剛)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)の8隻は別働隊を編制、機動部隊本隊から分離した[13]。空母2隻(蒼龍、飛龍)の護衛に17駆第2小隊(浜風、磯風)を残し、4隻(金剛、榛名、谷風、浦風)は3月7日早朝にクリスマス島に艦砲射撃を行った。約20分間の砲撃で谷風は31発、浦風は12発を発射し、イギリス軍守備隊は白旗を掲げた[14]。だが4隻は同島を占領せず、白旗を放置してクリスマス島を去った。9日午後2時、浦風以下8隻は南雲機動部隊主隊と合流する[15]。報告を受けた南雲司令長官は『クリスマス島の攻略は小兵力を以て容易に実施可能』と結論づけている[16]。なおクリスマス島は3月31日になって第十六戦隊(司令官原顕三郎少将:旗艦名取)および第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦那珂)により占領された(日本軍のクリスマス島占領)。

4月10日、艦隊再編にともない第17駆逐隊は第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦長良)所属となった。この時点での第十戦隊は17駆の他に第7駆逐隊()、第10駆逐隊(秋雲夕雲巻雲風雲)で編制されていた[17]

6月上旬、第17駆逐隊(駆逐隊司令艦:谷風)はミッドウェー海戦に参加した[18]。空母飛龍の救援を行い、6月14日に呉に帰投。翌日、浦風は第五航空戦隊の空母瑞鶴を駆逐艦2隻(秋月)と共に護衛して北方へ移動[19]アリューシャン方面作戦に従事した[20]。瑞鶴、浦風は空母龍驤、隼鷹、瑞鳳と共に第二機動部隊へ編入され、アメリカ軍機動部隊の北方出現に備えた[19]。7月13日、呉へ帰投した。14日、艦隊の再編に伴い、第十戦隊から第7駆逐隊が転出、陽炎型4隻(雪風時津風初風天津風)の第16駆逐隊が編入し、浦風以下17駆の僚艦となった。

ソロモン海の戦い[編集]

1942年(昭和17年)8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸してガダルカナル島の戦いがはじまると、トラック泊地へ進出する。8月18日深夜、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐指揮のもと陽炎型6隻(萩風陽炎、浦風、谷風、浜風)は[21]陸軍一木支隊先遣隊トラック泊地からガ島へ輸送した[22]。揚陸成功後、ポートモレスビー攻略にともなうニューギニア方面作戦に従事するため第17駆逐隊は嵐、萩風、陽炎と分離し、ラバウルへ帰投した[23]。なお浦風等が送り届けた一木清直大佐以下陸軍兵約900名は、17駆がラバウルに到着した8月21日、イル川渡河戦で全滅した[24]

8月17日附で、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風)は外南洋部隊護衛部隊(指揮官松山光治第十八戦隊司令官)に編入され、第十八戦隊(軽巡洋艦天龍龍田)等と共に、ニューギニア島東部ミルン湾のラビ攻略を目指すラビの戦いに加わった[25]。8月24日朝、天龍、龍田、谷風、浦風、浜風および駆潜艇2隻は輸送船2隻(南海丸、幾内丸)を護衛してラバウルを出撃、連合軍機の空襲を受けつつ進撃した[26]。25日夜、ミルン湾への上陸に成功するが、使用した海図が不正確だったため揚陸地点を間違え、上陸した海軍陸戦隊も陸上地図をもっておらず、窮地に陥る[27]。十八戦隊と17駆は対地砲撃をおこなうが、無線での連絡も難しく、効果は不明だった[28]。連合軍機の空襲により大発動艇を全て使用不能とされたため、輸送船から物資を揚陸する手段がなくなる[28]。十八戦隊司令官は龍田、浦風と輸送船団に対しラバウル帰投とその護衛を命じた[28]。 8月28日、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は第十八戦隊を基幹としてラビ攻略部隊を編成、兵力を増強する[29]。天龍、谷風、浦風は海軍陸戦隊を乗せた嵐、叢雲弥生の3隻の駆逐艦と哨戒艇3隻を護衛してラバウルを出撃[29]、29日夜に到着して上陸を開始し30日午前1時には帰途についた[30]。このときミルン湾口を警戒していた浦風は脱出を図る小型監視艇を発見、これを撃沈している[30]

ラビ方面の戦いは完全に失敗し、第17駆逐隊はガダルカナル島の戦いに投入されることになった。8月31日、17駆(谷風、浦風)はショートランド泊地に移動[31]。9月1日、駆逐艦4隻(浦波、磯波、谷風、浦風)でガ島輸送を実施[32]、アメリカ軍機の襲撃で敷波に若干の損傷があった[33]。 9月24日、第24駆逐隊司令中原義一郎中佐指揮のもと駆逐艦4隻(海風江風涼風、浦風)でガ島輸送を実施する[34]。だがアメリカ軍機の夜間空襲を受け2隻(海風、浦風)が小破[35]、浦風の被害は至近弾により前部に小破口を生じ揚錨機故障、大発動艇放棄、死傷者6名というものだった[35]。作戦は中止され、鼠輸送(東京急行)も月暗期に入る10月上旬まで見合わせることになった[35]。9月26日、第17駆逐隊は外南洋部隊よりのぞかれ、機動部隊に復帰した[36]

10月下旬の南太平洋海戦における浦風は南雲機動部隊前衛(指揮官阿部弘毅第十一戦隊司令官)に属し、戦艦2隻(比叡、霧島)、重巡3隻(鈴谷、利根、筑摩)、第十戦隊(長良、駆逐艦《秋雲、風雲、巻雲、夕雲、浦風、磯風、谷風》)という編制でアメリカ軍機動部隊艦載機と交戦した[37]。10月26日、米空母ホーネット、エンタープライズより発進した攻撃隊の一部が前衛部隊を襲撃[38]。谷風、浦風は爆弾3発の命中で大破した筑摩を護衛して戦場を離脱、29日にトラック泊地へ帰投した[38]。11月2日、駆逐艦秋月、嵐、舞風、野分、秋雲、浦風、谷風、浜風、磯風は同海戦で損傷した4隻(翔鶴瑞鳳熊野筑摩)を護衛しへ帰港した[39][40]

11月26日、修理を完了し軽巡阿賀野を護衛して再度ソロモン方面へ進出[41]、12月1日附で駆逐艦照月、浦風は外南洋部隊に編入され、浦風は5日にショートランド泊地に進出する[42]。これはルンガ沖夜戦の戦訓から、連合艦隊が警戒駆逐艦の増強を認めたための措置であった[42]。12月7日、第三次ドラム缶輸送部隊(親潮、黒潮、陽炎、長波、江風、涼風、嵐、野分、浦風、谷風、有明)という戦力でガ島へ向かうが、空襲により野分が大破、嵐、長波《野分曳航》に護衛されて避退した[42]。その他の駆逐艦隊もサボ島周辺でアメリカ軍魚雷艇と敵機に襲撃され、輸送作戦を中止して12月8日朝にショートランドへ戻った[42]

12月11日の第四次輸送作戦(照月、長波、嵐、親潮、黒潮、陽炎、江風、涼風、谷風、浦風、有明)では秋月型駆逐艦照月(増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官座乗)の沈没に遭遇した[43][44]。その他にもラエムンダへの輸送作戦に従事する。 12月16日夕方、浦風は敷設艦津軽を護衛してラバウルを出発する[45]。ムンダ到着後の揚陸中に米潜水艦に雷撃されたため、一部の物資を揚陸できないままラバウルへ帰投した[45]。12月21日、駆逐艦4隻(浦風、巻波、谷風、陽炎)でムンダ輸送を実施、輸送に成功した[45]

12月25日、米潜水艦シードラゴン(USS Seadragon, SS-194) から雷撃されて損傷した南海丸を護衛中の駆逐艦卯月が南海丸と衝突して航行不能となった[46][47]。ラバウルに停泊していた第31駆逐隊(長波)、第27駆逐隊(有明)、第17駆逐隊(谷風、浦風)は急遽出動した[45][48]。卯月は第27駆逐隊有明に曳航され谷風の護衛下でラバウルへ向かうが[49]、有明もB-24爆撃機の空襲により中破した[50]。そこで浦風が卯月を曳航し、2隻を長波が護衛してラバウルへ帰投した[51]。 12月27日、駆逐艦6隻(谷風、浦風、荒潮磯波夕暮)でニュージョージア諸島バングヌ島ウイックハムへ兵員物資輸送を行う[52][53]

昭和十八年の戦い[編集]

ガダルカナル島の戦局が絶望的になる一方、日本軍は東部ニューギニア重視の方針を打ち出した[54]。12月24日附で第十八戦隊(軽巡龍田)の解隊にともない、同戦隊司令官松山光治少将もニューギニア方面護衛隊指揮官の職を解かれる[54]。そこで外南洋部隊は駆逐艦浦風、谷風、浜風、磯風、舞風をもって東部ニューギニア方面護衛隊を編成した[54]。5隻は12月27日〜1月3日にかけてラバウルへ集結[54]1943年(昭和18年)1月4日、陽炎型駆逐艦5隻(浦風、谷風、浜風、磯風、舞風)は輸送船5隻(ぶらじる丸、妙高丸、くらいど丸、日龍丸、智福丸)を護衛してラバウルを出撃、ニューギニア島ラエフォン湾)を目指すが[55]、アメリカ軍機の波状攻撃により日龍丸が空襲により沈没、揚陸中に妙高丸が擱座したが零戦隊や日本陸軍戦闘機隊の援護を受けてラエ輸送は成功裡に終わった[55]。輸送船団がラエに入泊すると浦風は日龍丸の沈没現場に引き返し、舞風や伊25潜水艦と共に生存者を救助している[55]

第十八号作戦を終えた第17駆逐隊は再び増援部隊に編入され、ガダルカナル島撤退作戦に備えた増援輸送に従事していった[56]。ラバウルからショートランド泊地へ移動後、駆逐艦9隻(警戒隊《秋月、黒潮、時津風、嵐》、輸送隊《谷風、浦風、浜風、磯風、舞風》)でガ島輸送を実施[57]。輸送任務は成功したが帰路の空襲で嵐が航行不能となり、谷風《艦長戦死》、浦風が小破している[58][56]。 1月下旬、ガ島撤退作戦において駆逐艦輸送が失敗した場合の予備手段として大発動艇を用いた撤収作戦が立案され、外南洋部隊と日本陸軍はラッセル諸島(ルッセル諸島)を占領することになった[59]。第16駆逐隊司令(司令駆逐艦時津風)の指揮下、駆逐艦6隻(警戒隊《時津風、黒潮、白雪》、輸送隊《浦風、浜風、江風》)で輸送を実施、1月28日深夜に揚陸を終えた[59]。6隻は29日にショートランドへ戻った[59]

2月上旬、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)は三回にわけて実施されたガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)に全て参加。第一次作戦では第10駆逐隊の巻雲が沈没、第二次作戦では4駆の舞風が中破、第三次作戦では17駆の磯風が大破してそれぞれ戦線離脱を余儀なくされた。2月11日、第17駆逐隊(谷風、浦風)は外南洋部隊支援隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官)の重巡2隻(熊野鳥海)を護衛してニューアイルランド島カビエンを出発、13日にトラック泊地へ到着[60]。トラック泊地で重巡鈴谷と熊野が揃うと同時に、3隻(鳥海、谷風、浦風)は西村少将の指揮下を離れた[61]

2月17日、浦風は第16駆逐隊の姉妹艦天津風、曳船雄島と共にパプアニューギニアウェワクに空母瑞鳳航空隊基地要員を輸送、同地到着後は第2駆逐隊春雨(1月24日米潜水艦ワフーの雷撃で大破)の救援作戦に従事する[62][63]。19日、天津風と春雨を結ぶ曳航索が切断、浦風は春風曳航を引き継ぐ[64]。21日、悪天候によって春雨は艦前部の切断を余儀なくされ、23日トラック泊地着。天津風、浦風、雄島は工作艦明石に春雨を引き渡した[65]

3月22日、重巡熊野の機関に故障が発生した[66]。3月24日、天津風に警戒されつつ3隻(鈴谷、熊野、浦風)はトラック泊地を出発、天津風分離後は諸訓練を実施しつつ北上し、豊後水道で駆逐艦萩風と合同、3月29日呉に到着した[67][68]。 その後トラック泊地に戻ると、同方面で船団護衛などに当たった。ウェワク輸送に4回従事、その他ハンサ、ブーゲンビル島タロキナへの輸送作戦など従事した[69]。一連の輸送作戦で浦風は姉妹艦の天津風と行動を共にする事が多かった[70]。 7月2日、天津風、浦風、白鷹は摩耶丸、天津丸、東豊丸を護衛してパラオを出発、7月6日ウェワク着、17日パラオに帰着して第六次ウェワク輸送を完了した[71]。同日附で天津風、浦風は外南洋部隊から除かれ、トラック泊地へ回航された[71]。その後、内地へ帰投。8月1日、天津風、浦風は重巡青葉、給糧艦伊良湖を護衛して呉へ到着した[72]

10月30日、第17駆逐隊(浦風、磯風)はトラックにて第十四戦隊(司令官伊藤賢三少将)の指揮下に入り[73]、第十四戦隊(旗艦/那珂五十鈴)、軽巡2隻(多摩木曾)、第4駆逐隊(野分舞風)及び駆逐艦山雲と共にカビエンに向かうT四號輸送部隊(陸軍第17師団)の輸送船団を護衛する事になった[74]。第十四戦隊(那珂、五十鈴)、第17駆逐隊(浦風、磯風)、輸送船2隻(清澄丸、護国丸)は第二次輸送任務を担当した[74][75]。11月3日、アメリカ軍機の空襲により那珂が損傷を受け、特設巡洋艦清澄丸は被弾浸水して航行不能となる[74][76]。浦風、護国丸は先行してラバウルに向かい11月4日に到着したが、磯風が触雷して小破し修理のためラバウルへ進出できなかった[77][74]。また浦風も第十戦隊の僚艦阿賀野、初風、若月が参加したブーゲンビル島沖海戦に間に合わなかった。

11月5日、浦風以下第十戦隊、第二水雷戦隊、栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊はラバウルでアメリカ軍の機動部隊艦載機による大規模空襲に遭遇する(11月5日第一次ラバウル空襲)。摩耶が大破、愛宕、高雄、最上、筑摩、能代、阿賀野、藤波、若月が大小の損害を受けた[78]。11月6日、ラバウルに到着していた第十四戦隊の軽巡2隻、護国丸はトラックに向けて出発し[74]、一方、17駆(磯風、浦風)は南東方面部隊に編入されており、浦風はラバウルに留まった[74][79]。同日午前、第十戦隊司令官大杉守一少将はブーゲンビル島タロキナ岬(連合国軍拠点)への逆上陸作戦を下令、浦風も第一支援隊として参加した[80]。昼過ぎ、第一支援隊(阿賀野、若月、風雲、浦風)・第二支援隊(能代、大波、長波)・挺身輸送隊(大波、巻波、天霧、文月、卯月、夕凪)はラバウルを出撃、米艦隊と遭遇することなく、揚陸作戦は一応成功した[80]。だが平行して実施されたろ号作戦第一航空戦隊基地派遣隊やラバウル方面基地航空隊によるアメリカ軍機動部隊攻撃)は失敗しつつあった。

11月11日、アメリカ軍機動部隊艦載機はふたたびラバウルを空襲[81]、駆逐艦涼波が沈没、長波が航行不能、浦風、若月も若干の損傷を受けた[81]。吉田艦長によれば、魚雷投下時機を逸した雷撃機TBFアベンジャーが浦風に直接魚雷を投下、魚雷が煙突の上を飛び越えていく一幕もあったという[82]。この時、第十戦隊旗艦阿賀野が後部に魚雷1本が命中して舵を故障(艦尾喪失)[81]、大杉司令官は貫通銃創を負った[83]。浦風は阿賀野を護衛してトラック泊地へ撤退する事になった[82]。12日、米潜水艦スキャンプの雷撃で阿賀野が航行不能となり、大杉司令官は浦風に移乗した[83]。附近を航海中の第二水雷戦隊各艦(能代藤波早波)や軽巡洋艦長良、第61駆逐隊(初月涼月)が阿賀野の救援のために集結した[84]。当初阿賀野は能代に曳航されていたが、曳航索が切断した[85]。その後は軽巡長良が阿賀野の前を、浦風が後曳を担当し、速力6ノットでトラックへ向かった[86][82]。阿賀野は15日午後8時30分にトラック泊地へ到着[83]、第十戦隊旗艦は阿賀野から秋月型駆逐艦秋月に変更された。

太平洋戦争終盤[編集]

11月30日、空母3隻(瑞鳳雲鷹冲鷹)、重巡摩耶、第7駆逐隊()、浦風は、瑞鳳艦長指揮の下、トラックを出発して内地へ向かった[87]。12月3日朝、冲鷹が米潜水艦セイルフィッシュの雷撃で航行不能となり、14日朝に沈没した[87]。浦風は単艦で遭難現場へ急行、続いて到着した漣と共に両艦合計約160名を救助したが、冲鷹乗組員便乗者ふくめ約1250名が戦死した[87]。冲鷹には潜水艦スカルピンの生存者/捕虜21名が収容されていたが、1名以外助からなかった[88]。12月5日、横須賀に入港する[87]。6日以降は呉に移動した。

1944年(昭和19年)2月1日、トラック泊地からリンガ泊地への回航に際し、敷島部隊(第二戦隊《長門、扶桑》、第七戦隊《熊野、鈴谷、利根》、第十戦隊秋月・第17駆逐隊《第1小隊:浜風、谷風、第2小隊:浦風、磯風》)として2月1日にトラック泊地を出発、リンガ泊地へ進出した[89][90]。その後、訓練の傍らダバオボルネオサイパンなどへの船団護衛に従事する。3月29日、パラオ大空襲から退避する戦艦武蔵が米潜水艦タニーの雷撃で小破、浦風と磯風は爆雷攻撃を行うがタニーを取り逃がした。

3月31日、第16駆逐隊(初風・時津風沈没、天津風長期修理)が解隊され、健在だった陽炎型8番艦雪風が第17駆逐隊に編入された[91]。17駆は異例の5隻編制(磯風、浦風、谷風、浜風、雪風)となった[92]。5月19日にタウイタウイに進出する。6月9日、駆逐艦磯風、島風早霜と共に対潜哨戒任務に従事していた姉妹艦の谷風が米潜水艦ハーダー(USS Harder, SS-257)の雷撃で撃沈された。6月18日-20日のマリアナ沖海戦における第17駆逐隊は、浦風が空母翔鶴の護衛(小沢機動部隊甲部隊)、磯風が空母大鳳の護衛(機動部隊甲部隊)、浜風が機動部隊乙部隊(空母隼鷹飛鷹龍鳳、戦艦長門)護衛、雪風が燃料補給船団護衛で、分散配置されていた。一連の戦闘で空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)、タンカー2隻(清洋丸、玄洋丸)が沈没した。浦風は矢矧や第61駆逐隊各艦と協力し、米潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS/SSK/AGSS-244)の雷撃で撃沈された翔鶴の乗組員を救助した[93][94]。7月14日、リンガ泊地に再度進出。9月、17駆は第二戦隊司令官西村祥治少将が指揮する扶桑型戦艦2隻(扶桑山城)の護衛のため呉を往復。10月8日、第17駆逐隊司令艦は磯風から浦風に変更された。同月中旬以降の捷一号作戦では栗田艦隊に所属しサマール沖海戦に参加した。

沈没[編集]

11月15日、第10戦隊は解隊され、同隊構成艦矢矧以下第17駆逐隊・第41駆逐隊は第二水雷戦隊に編入される[95]。16日、矢矧と第17駆逐隊は戦艦3隻(金剛長門大和)を護衛してブルネイを出港、内地に向かう[96]。第17駆逐隊4隻(浦風、雪風、浜風、磯風)は金剛の左右に分れて航行し、駆逐隊司令艦浦風は雪風の前方を進んでいたという[97]。11月21日午前3時6分、艦隊は台湾海峡で米潜シーライオン(USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315)の雷撃に遭った[98][99]。シーライオンは先頭の戦艦(金剛)に対し艦首発射管から魚雷6本を発射、つづいて二番目の戦艦(長門)に対し艦尾発射管から魚雷3本を発射した[99]。この長門を狙って外れた魚雷が不運にも浦風に命中し、浦風は轟沈した[99][100]。磯風と浜風は被雷して暫く後に沈没した金剛の救援・救助に奔走しており、また浦風の後方を航行していた雪風は戦艦大和、長門を護衛して現場海域を離脱した為、浦風の救助は遅れた[97]。磯風、浜風が金剛乗組員の救助を終えて浦風沈没地点に向った時には、重油帯や僅かな浮遊物以外に浦風の痕跡を示すものは何もなかった[101]。第17駆逐隊司令谷井保大佐を含む艦長以下228名が戦死。駆逐隊司令と浦風を一挙に喪失したため第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)の指揮系統は混乱し、空母信濃の横須賀から呉回航護衛任務にも悪影響を与えた[102]

1945年(昭和20年)1月10日、駆逐艦浦風は 不知火型駆逐艦[103]、 第17駆逐隊[104]、 帝国駆逐艦籍[105] のそれぞれから除籍された。

歴代艦長[編集]

艤装員長
  1. 白石長義 中佐:1940年9月16日[106] - 1940年12月15日[107]
駆逐艦長
  1. 白石長義 中佐:1940年12月15日[107] - 1942年9月8日[108]
  2. 岩上次一 中佐:1942年9月8日[108] - 1943年8月20日[109]
  3. 吉田正一 中佐:1943年8月20日[109] - 1944年5月15日[110]
  4. 横田保輝 少佐:1944年5月15日[110] - 1944年11月21日 戦死、同日付任海軍中佐[111]

参考文献[編集]

  • 伊藤正徳 「第七章 世界一の好運艦「雪風」」『連合艦隊の栄光』 角川書店、1974年7月。
  • 井上理二 『駆逐艦磯風と三人の特年兵』 光人社、1999年9月。ISBN 4-7698-0935-2
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年ISBN 47698-2009-7
    • 独創と捨て身 <軽巡洋艦「那珂」艦長・今和泉喜次郎大佐の証言>(太平洋戦争時、第二潜水隊司令、第一潜水隊司令、那珂艦長、第十六潜水隊司令等)
    • 沈着冷静 <駆逐艦「有明」艦長・吉田正一大佐の証言>(昭和18年8月〜昭和19年6月まで浦風駆逐艦長)
  • 重本俊一ほか 『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』 潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8
    • 戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ 第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録
    • 戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧表 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 永井喜之・木俣滋郎 「第2部 第二次世界大戦/日本編 第7章 日本空母「翔鶴」/第14章 日本戦艦「金剛」」『新戦史シリーズ撃沈戦記・PARTⅡ』 朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17223-1
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  • 原為一ほか 『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』 潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    • 当時「阿賀野」補機長・海軍機関兵曹長笠倉重雄『新鋭「阿賀野」ラバウル湾口の悪夢を語れ 轟音と炎暑に充ちた艦底で体験した機関科員の凄絶なる戦闘記録
    • 当時「阿賀野」通信科員・海軍一等兵曹中村卓司『損傷艦「阿賀野」紅蓮の炎のなかの絶叫 ブーゲンビル島沖海戦からラバウル大空襲そして被雷沈没の最後
    • 当時「那珂」二十四代目艦長・海軍大佐今和泉喜次郎『十四戦隊旗艦「那珂」ラバウルに健在なり』
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』 朝雲新聞社、1969年8月。
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』 朝雲新聞社、1975年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年 ISBN 4-7698-0461-X
  • 雑誌「丸」編集部 『ハンディ判日本海軍艦艇写真集 17 駆逐艦 春雨型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』 光人社、1997年10月。ISBN 4-7698-0818-6
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出典[編集]

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  12. ^ #S1703一水戦日誌(1)pp.6-7『3月7日 第17駆逐隊1小隊第三戦隊2小隊ト共ニ「クリスマス」島ヲ砲撃陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ破壊/3月9日 第17駆逐隊主隊ニ合同』
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  14. ^ #S1703一水戦日誌(1)pp.37-38『9日谷風駆逐艦長/當隊(2小隊欠)7日早朝第3戦隊2小隊ト共ニ「クリスマス」島陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ砲撃之ヲ破壊セリ。射撃距離50乃至35発射弾数谷風31浦風12、敵ハ白旗ヲ掲揚ス我人員兵器異状ナシ其ノ他別動中異状ナシ』-『9日第2航空戦隊司令官/別動中ノ戦果左ノ通リ|一.3月7日早朝約20分間ニ亘リ2D/3S及1D/17dgヲ以テ「クリスマス」島ヲ砲爆撃セリ敵ハ忽チ白旗ヲ掲揚セリ、港内敵潜ヲ認メズ午後「スンダ」海峡南方海面ニ於テ大型武装船2隻(1万噸級)ヲ爆撃撃沈セリ我ニ被害ナシ(以下略)』
  15. ^ #S1703一水戦日誌(2)p.52『9日/1415別働隊(第3戦隊2小隊、第2航空戦隊、第17駆逐隊)ハ南緯11度30分東経120度0分イニ於テ主隊ニ合同』
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  76. ^ #S1804十四戦隊日誌(5)pp.17-18『清澄丸至近弾ニテ機械室浸水航行不能』
  77. ^ #T四號輸送部隊任務報告p.21『四日1020 十七駆(浦風)護国丸「ラバウル」着』
  78. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後399-400頁『米空母機による第一次被空襲と被害―― 十一月五日』
  79. ^ #T四號輸送部隊任務報告p.36『11月4日1817GF電令作第786号ニ依リ17駆(浦風磯風)ヲNTB(南東方面部隊)YBニ編入』
  80. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後401-403頁『タロキナ北方逆上陸の成功』
  81. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後414-415頁『邀撃空戦と艦艇の被害』
  82. ^ a b c #佐藤 艦長(文庫)229-230頁
  83. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)430頁『「阿賀野」の被雷とその救難』
  84. ^ #S1806二水戦日誌(7)p.8『14日1255(将旗)2sd/警戒配備ヲ左ノ通改ム 前方能代 右前方早波 左前方藤波 右後方初月 左後方涼月』
  85. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.9『能代(略)12日NTB電令作第133号ニ依リ32駆(早波、藤波)ト共ニ阿賀野救援ニ向ヒ同日夜現場着曳航中14日曳航索切断ノ為長良ト交代、護衛ノ上15日「トラック着」…』
  86. ^ #S1806二水戦日誌(7)p.8『14日1430(将旗)2sd/1430長良前曳浦風後曳ニテ曳航開始地点ノウツ18針路40度速力六節曳航状態概ネ良好』
  87. ^ a b c d #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)529頁『米潜水艦の跳梁と「冲鷹」の被雷沈没』
  88. ^ #ニミッツの太平洋海戦史379頁
  89. ^ #S1812第十戦隊日誌(3)p.4『(イ)當隊(秋月17dg)敷島部隊ニ編入2S7S(筑摩欠)ヲ護衛1日「トラック」発、4日「パラオ」着、16日「パラオ」発、21日「リンガ」着、櫻部隊ト合同爾後「リンガ」方面ニアリテ南西方面作戦協力並ニ訓練ニ従事ス』
  90. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)551-552頁『聯合艦隊水上部隊の西方転進準備』
  91. ^ #内令昭和19年3月(5)p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ| 第十八駆逐隊|薄雲、霞、不知火| 第二十二驅逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  92. ^ #昭和19年6月第10戦隊日誌p.15『艦隊区分(六月一日)|第十七駆逐隊|第一小隊 (1)磯風(2)浦風(3)谷風|第二小隊 (4)浜風(5)雪風』
  93. ^ #撃沈戦記II97頁
  94. ^ #S1906第十戦隊日誌p.9『浦風(略)19日翔鶴敵潜ノ雷撃ヲ受クルヤ之ガ救助ニ任ズ(略)』
  95. ^ #S1911第17駆日誌(1)p.18『1503 浦風→17dg/本日附十戦隊ハ無クナリ矢矧 17dg 41dgハ2sdニ編入セラル由』
  96. ^ #S1911第17駆日誌(1)pp.6,21
  97. ^ a b #駆逐艦磯風と三人の特年兵243-245頁
  98. ^ #S1911第17駆日誌(1)p.7
  99. ^ a b c #ニミッツの太平洋海戦史378-379頁『「金剛」および「信濃」の撃沈』
  100. ^ #撃沈戦記II183-184頁『嵐の中の雷撃』
  101. ^ #S1911第17駆日誌(1)p.27『261630浜風駆逐艦長/二.浦風遭難現場附近調査ノ結果重油帯浮流物発見セルモ手懸ナシ』
  102. ^ #連合艦隊の栄光(角川)268-269頁『痛恨!司令欠く駆逐隊』
  103. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.2『内令第一六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年一月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「八十島」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「神鷹、」、同敷設艦ノ部中「、厳島」ヲ削ル 驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、萩風」ヲ、同「卯月型 卯月、夕月」ヲ、初雪型ノ項中「曙、」ヲ、同初春型ノ項中「初春、」ヲ、同満潮型ノ項中「満潮、朝雲、山雲、」ヲ、同不知火型ノ項中「、浦風」「、野分」ヲ、同夕雲型ノ項中「長波、濱波、沖波、岸波」「、早霜、秋霜」ヲ、同秋月型ノ項中「、若月、霜月」ヲ、同「島風」ヲ削ル(以下略)』
  104. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
  105. ^ #秘公報昭和20年1月(2)pp.8-10『内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 厳島|呉鎮守府在籍 軍艦 八十島|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 神鷹|右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、驅逐艦 満潮、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月|呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風、驅逐艦 島風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風、驅逐艦 卯月、驅逐艦 夕月、驅逐艦 初春|舞鶴鎮守府在籍 駆逐艦 長波、駆逐艦 濱波、駆逐艦 沖波、駆逐艦 岸波|右帝國駆逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣』
  106. ^ 昭和15年9月16日付 海軍辞令公報 (部内限) 第530号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072078800 で閲覧可能。
  107. ^ a b 昭和15年12月16日付 海軍辞令公報 (部内限) 第569号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072079900 で閲覧可能。
  108. ^ a b 昭和17年9月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第939号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072086800 で閲覧可能。
  109. ^ a b 昭和18年8月21日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1196号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072092500 で閲覧可能。
  110. ^ a b 昭和19年5月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1471号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072098200 で閲覧可能。
  111. ^ 昭和20年7月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1856号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072106100 で閲覧可能。

関連項目[編集]