那珂 (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
那珂
Japanese cruiser Naka.jpg
就役直前、公試時に横浜で撮影された那珂
(1925年11月の撮影)
経歴
運用者  大日本帝国海軍
建造所 横浜船渠
種別 軽巡洋艦
クラス 川内型
発注 1920年計画
起工 1922年6月10日[1]
1922年6月14日[2][3]
進水 1925年3月24日
就役 1925年11月30日
除籍 1944年3月31日
最後 1944年2月17日に戦没
要目
排水量 基準:5,195トン
常備:5,595トン
全長 162.46m
全幅 14.2m
吃水 4.8m (常備)
推進 パーソンズ式オールギアードタービン4基4軸
出力 90,000馬力
速力 35.3ノット
乗員 竣工時定員446名[4]
兵装

竣工時
50口径14cm単装砲7門
61cm連装魚雷発射管4基8門
40口径8cm単装高角砲2門
6.5mm単装機銃2挺
九三式機雷56個
1941年12月
50口径14cm単装砲7門
61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)
九六式25mm連装機銃2基4門
保式13mm四連装機銃1基4門
7.7mm単装機銃2挺
呉式二号三型改一射出機1基
水上機1機

1943年4月
50口径14cm単装砲6門
61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)
八九式12.7cm連装高角砲1基2門
九六式25mm三連装機銃2基6門
九六式25mm連装機銃2基4門
九三式13mm連装機銃1基2門
九四式爆雷投射機1基
爆雷投下軌条2基
呉式二号三型改一射出機1基
水上機1機
21号電探
装甲 水線64mm、甲板29mm
搭載機 1機
テンプレートを表示

那珂(なか)は、日本海軍軽巡洋艦[5]川内型軽巡洋艦の3番艦[6]。艦名は栃木県茨城県を流れる那珂川に因んで命名された[7]艦内神社大洗磯前神社からの分祀。

太平洋戦争序盤は第四水雷戦隊旗艦として活動。1942年(昭和17年)4月のクリスマス島攻略作戦で損傷。復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。1944年(昭和19年)2月17日、軽巡洋艦阿賀野救援のため出動したところトラック島空襲に遭遇、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没した[8]

艦歴[編集]

建造経緯[編集]

大正時代の日本海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷[9]1921年(大正10年)3月19日、建造予定の二等巡洋艦4隻(川内型軽巡洋艦)に、それぞれ加古、那珂川内神通の艦名が与えられる[10]。6月9日、加古、那珂、川内、神通は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録された[11]。川内は1922年(大正11年)2月26日(長崎三菱造船所)[12]、那珂は同年6月10日(横濱船渠)[1]もしくは6月14日[2]、神通は同年8月4日(神戸川崎造船所)で[13]、それぞれ起工した。 だが佐世保海軍工廠で建造予定の川内型軽巡加古は同年3月に建造中止の通達があり[14]、10月9日に一等巡洋艦加古型(古鷹型)加古として神戸川崎造船所で建造されることが正式に決まった[15]。これをもって加古は二等巡洋艦(川内型軽巡)から一等巡洋艦に類別変更され、川内型軽巡洋艦は那珂、川内、神通の3隻のみとなった[16]

前述のように、那珂は川内型の2番艦(加古、那珂、川内、神通)として横浜船渠で建造がはじまった[1]。だが1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災。同年10月10日進水を予定して建造最終段階の船体は、盤木の焼失により船台上に落下して右に傾いた[17][18]。本格的な調査を行う前に、復旧の見込みなしと判定される[19]。また周辺の工場も大被害を受けた[注釈 1][20]。そのため解体の上[注釈 2]、川内型3番艦として改めて起工し、1924年(大正13年)5月24日に工事再開[21]1925年(大正14年)3月24日の午後4時30分に進水[22]。11月30日に就役した[1]。その際に艦首形状をスプーン型からダブル・カーブド型に改めている。

美保関事件[編集]

1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で行われた夜間無灯火演習において、那珂は第五戦隊(第1小隊《加古古鷹》、第2小隊《神通、那珂》)を編制。第2小隊1番艦神通指揮下に行動していた[23]。また那珂には観戦武官として伏見宮博義王が乗艦している[24]。 夜間演習では、第一戦隊(長門、陸奥)、第三戦隊(鬼怒、阿武隈)、第四戦隊(金剛、比叡、伊勢、日向)、第六戦隊(由良、龍田)を仮想敵にみたてて接近中[25]、戦艦伊勢および軽巡由良、龍田等から照射を受けた神通、那珂は距離をとるべく右に転舵[26]、すると2隻は後続していた第五戦隊第1小隊(加古、古鷹)および第二水雷戦隊(旗艦夕張)、第26駆逐隊、第27駆逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ[27]。神通と第27駆逐隊2番艦が衝突(蕨は沈没)、それを避けようとして左に転舵した那珂は神通、蕨を避けようとして右に転舵していた同駆逐隊3番艦の左舷後部に衝突し、両艦ともに大破する。

自力航行可能だった那珂は戦艦比叡と重巡古鷹に護衛され、損傷激しい神通は重巡加古護衛下で戦艦金剛に曳航され、葦は軽巡阿武隈に曳航され、それぞれ帰投した[28]。 のちに神通の艦長水城圭次大佐は自決した。これを美保関事件という。修理にあたって神通の艦首は那珂と同様の形状に改められた[20]

第4艦隊事件[編集]

1935年 (昭和10年) 9月25-27日、那珂は第四艦隊事件に遭遇した。第四水雷戦隊旗艦那珂は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた[29]。9月25日、初雪で溺者1名が発生、那珂は『此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ』と各艦に注意した[30]

9月26日夕刻、荒天により駆逐艦夕霧が艦首を切断(行方不明27名)、その救援中に初雪よりSOSが発せられる(艦首切断行方不明24名)。夜が明けたのち夕霧は軽巡大井に、初雪は重巡羽黒に曳航され大湊へむかった[31]。この事件で那珂は若干の損傷を受けた[32]


1937年日華事変時においては第2艦隊に所属し作戦活動に従事した。

1941年には姉妹艦の神通と共に雷装の強化が行われ、九三式酸素魚雷の発射能力を得た。

第四水雷戦隊[編集]

1941年(昭和16年)11月26日、那珂は第四水雷戦隊(司令官:西村祥治少将)の旗艦となった。当時の第四水雷戦隊には、第2駆逐隊(司令橘正雄大佐:村雨五月雨夕立春雨)、第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:萩風野分舞風)、第9駆逐隊(司令佐藤康夫大佐:朝雲夏雲峯雲山雲)、第24駆逐隊(司令平井泰次大佐:海風山風江風涼風)が所属していた。だが第4駆逐隊は南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官が率いる南方部隊本隊(旗艦愛宕)に引き抜かれる形で同部隊に所属しており、第四水雷戦隊の直率下にはなかった[33]

なお戦争が起きなければ第2駆逐隊と第24駆逐隊は四水戦から第一水雷戦隊(旗艦阿武隈)へ転出[34]、そのかわりに朝潮型駆逐艦4隻の第8駆逐隊(朝潮満潮大潮荒潮)および夕雲型駆逐艦を基幹とする第10駆逐隊(秋雲夕雲巻雲風雲)が四水戦に配備され那珂の指揮下に入る予定であった[35][36]

太平洋戦争緒戦では、高橋伊望中将率いる第3艦隊の一員としてフィリピン南部への侵攻に参加し、陸軍第48師団を運ぶ輸送船を護衛した。その際、米陸軍航空軍の攻撃により軽微な損傷を受けた[37]。また第9駆逐隊山雲は触雷して損傷、同駆逐隊は事実上3隻編制となってしまった(山雲は5月15日に9駆から除籍)[38]

1942年(昭和17年)1月、第四水雷戦隊は蘭印への侵攻に割り当てられ、呉第2特別陸戦隊坂口支隊タラカンおよびバリクパパンへ送る船団を護衛した[39]。 1月10-12日、タラカン島攻略作戦に従事する[40]。12日午前9時30分、タラカン守備隊降伏という報告を受けた西村少将は那珂以下四水戦と掃海隊を率いてタラカン港へ進入、掃海艇に機雷除去を命じた[41]。ところが砲台は沈黙しておらず、第11掃海隊(司令山隈和喜人中佐:第13号掃海艇、第14号掃海艇)は10分以内に撃沈され、司令を含む156名(生存者53名)が戦死[41]。油断していた那珂と第2駆逐隊は何も出来なかった[41]。夜、脱出を図るオランダの敷設艦プリンス・ファン・オラニエを四水戦麾下の駆逐艦山風と第38号哨戒艇が撃沈、四水戦の士気は回復した[41]

1月23日、ボルネオ島バリクパパンで部隊を上陸させている時、船団は断続的に空襲を受けていた[42]。19時30分、オランダ軍爆撃機1機が輸送船南阿丸を爆撃して炎上させ、船体放棄に追い込んだ[42]。24日0040分、悪天候のため浮上中であったオランダ海軍の潜水艦K-XVIIIオランダ語版が那珂に対して魚雷4本を発射した[43]。00時45分、那珂の南西約1kmに停泊していた輸送船敦賀丸が被雷して沈没[42]。西村提督は那珂と駆逐隊および哨戒艇部隊に対しK-XVIIIの追跡を命じたが、失敗に終わった。この後、那珂および第2駆逐隊・第9駆逐隊は泊地東海面の哨戒を実施するが、北上してきたアメリカ海軍第5任務部隊の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ)が、護衛のいなくなった船団を攻撃して輸送船を撃沈している事に気付かなかった[42]。米艦隊が脱出したのち、西村提督は「敵潜水艦、魚雷艇ニ対シ警戒ヲ厳ニセヨ」と下令している[42]。船団は輸送船5隻沈没(敦賀丸、呉竹丸、須磨浦丸、辰神丸)、哨戒艇37号沈没、輸送船2隻(球磨川丸、朝日山丸)損傷という大きな損害を受けた[42]。本海戦(日本側呼称バリクパパン沖海戦、連合国軍呼称マカッサル海戦)は、アメリカ海軍にとって太平洋戦争緒戦における数少ない勝利であり、大々的に宣伝した[43]。 なお本海戦で沈没した哨戒艇37号は旧樅型駆逐艦であり、同艦は『美保関事件』において第27駆逐隊1番艦であった(那珂は27駆3番艦葦と衝突)。

スラバヤ沖海戦[編集]

1942年2月末、ジャワ島占領のためジャワ島東部へ陸軍第48師団と坂口支隊を輸送することとなり、第五戦隊(那智羽黒妙高)、第二水雷戦隊(旗艦:神通)、第四水雷戦隊(旗艦那珂)などからなる護衛艦隊がその護衛についた[44]

2月27日、輸送艦隊はマカッサル海峡を南下してジャワ海を航行していた[45]。連合国軍のABDA艦隊はこれを迎撃すべくスラバヤを出撃したが、連日の戦闘配置により乗員の疲労が高まっていたこともあり、カレル・ドールマン司令官は補給のため一旦艦隊をスラバヤへ帰投させることにした。基地航空隊から『敵巡洋艦五隻、駆逐艦六隻接近』の報告を受けた第五戦隊司令官高木武雄少将は、第五戦隊(那智、羽黒)・第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊《雪風時津風初風天津風》、臨時編入艦《、山風、江風》)・第四水雷戦隊各隊に戦闘準備を下令[45]。12時5分(現地時間。以下同じ)、那智の水偵が連合軍艦隊を発見し、日本艦隊に位置を通報した。第四水雷戦隊も輸送船団の護衛を若鷹に任せて、敵艦隊に向かう第五戦隊に合流しようとしたが、連合軍艦隊が輸送船団の攻撃に向かっているのか、帰投しようとしているのか判断しかねており、四水戦は反転して一旦輸送船団護衛に戻った[45]。 一方、連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ日本軍船団発見の報を受けて反転。日本艦隊も那智機を報告を受けて敵艦隊との会敵予想針路を取った[45]。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、西村司令官は船団護衛を第24駆逐隊司令に任せると那珂・第9駆逐隊(朝雲、峯雲)・第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)を率い、第五戦隊・第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向かった[45]

16時(1750)ごろ第四水雷戦隊は戦闘戦域に到着、退避する神通以下第二水雷戦隊の前を突っ切って連合国軍艦隊に接近した[46]。四水戦は距離15,000mで一斉に27発の魚雷を発射、神通は四水戦の外側から魚雷4本を発射したがいずれも自爆、だが日本側は大口径砲か機雷の爆発とみて混乱する[46]。 遠距離砲戦を繰返しながら時間が経過していくうち、連合軍艦隊が態勢を立て直すために変針したのを見て、高木少将は『全軍突撃セヨ』を下令した[46]。日本艦隊は、四水戦-二水戦―第五戦隊の順番で突撃する[47]。旗艦那珂は連合軍艦隊に距離12000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退、四水戦の子隊である第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は更に接近する[47]。第2駆逐隊は距離10000~7500mで魚雷を発射、佐藤康夫9駆司令指揮下の第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は距離6000mまで近づいて魚雷を発射したが、これらは命中しなかった[47]。しかし、ドールマン少将が英重巡エクセターを避退させるために英駆逐艦エレクトラエンカウンターに攻撃を下令し、英駆逐艦2隻と朝雲、峯雲は3000mで砲戦を交えた[47][48]。朝雲、峯雲はエレクトラを撃沈、エンカウンターを避退させたが朝雲も損傷した[48]。この頃の戦闘海域は砲煙と煙幕と日没が重なって視界は極度に悪化、日本艦隊司令官達は輸送船団の反転と、配下駆逐隊の集結を命じた[47]。スラバヤ沖海戦はその日の日没後、および3月1日にも戦闘があったが、これらには那珂および四水戦は関わっていない。また2月28日には、四水戦麾下の駆逐艦村雨がオランダ病院船オプテンノールを拿捕、駆逐艦天津風に引き渡している[49]

3月、第四水雷戦隊はジャワ島とセレベス島の間の海域の哨戒任務に就いた。

クリスマス島攻略作戦[編集]

その頃、インド洋では南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将:旗艦赤城)に所属する第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍飛龍)及び第三戦隊第2小隊(3番艦榛名、4番艦金剛)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)の8隻が、別働隊として機動部隊本隊から分離していた[50]。空母蒼龍、飛龍の護衛に駆逐艦浜風、磯風を残し、戦艦2隻(金剛、榛名)・駆逐艦2隻(谷風、浦風)の4隻は3月7日早朝にクリスマス島へ艦砲射撃を行う[51]。圧倒されたイギリス軍守備隊は白旗を掲げた[50][52]。だが4隻は白旗を放置してクリスマス島を去った。山口司令官から報告を受けた南雲司令長官は『クリスマス島の攻略は小兵力を以て容易に実施可能』と結論づけている[50][53]

3月15日、第十六戦隊司令官原顕三郎少将(3月10日まで第五水雷戦隊司令官)を指揮官とするクリスマス島攻略部隊が正式に編制され、3月31日の攻略を目指した[54]。主隊/第十六戦隊(名取長良)、警戒隊(司令官西村祥治少将:第四水雷戦隊「那珂」、第9駆逐隊第1小隊《峯雲夏雲》、哨戒艇2隻、球磨川丸、君島丸)、第24特別根拠地隊分遣隊、補給部隊(あけぼの丸)、さらに第16駆逐隊天津風という兵力部署であった[54]。 本海戦に参加した「天津風」駆逐艦長原為一中佐は『攻略部隊旗艦は那珂』と回想しているが、「那珂」は警戒隊旗艦である[55]

攻略作戦中の3月31日早朝、名取、長良、那珂は水上偵察機を投入して偵察・哨戒・対地支援攻撃を行った[56]。午前8時、クリスマス島守備隊は白旗を掲げ、警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する[56]。20時30分、天津風が到着して対潜哨戒に加わった[56]。4月1日18時、那珂及び第9駆逐隊(峯雲、夏雲)はクリスマス島北方海面を哨戒していた[56]。この時、潜水艦シーウルフ (USS Seawolf, SS-197) が那珂を雷撃した[55]。魚雷1本が那珂の右舷中央部に命中して大破[55]、一時航行不能となり天津風と哨戒艇34号が那珂を護衛した[56]。那珂は名取に曳航され、夏雲、峯雲、長月、水無月に護衛されジャワ島バンタム湾へ退避したが、途中で自力航行可能となり、4月3日昼過ぎに到着した[56][57]

クリスマス島攻略部隊は4月3日の名取バンタム湾到着をもって解散(那珂、夏雲、峯雲は4月2日附で除かれる)[58][59]。那珂、夏雲、峯雲は4月6日にバンタム湾を経ちシンガポールへ移動[60]。4月10日着後、西村司令官は那珂を工作艦朝日に托し、第四水雷戦隊旗艦を駆逐艦夏雲に変更して内地へ向かった[61]。また艦隊の再編により第24駆逐隊(海風江風山風涼風)は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊(朝潮荒潮、《大潮満潮》5月15日除籍[38])が第四水雷戦隊に編入された。 那珂修理中の5月9日、長良型軽巡洋艦由良が第四水雷戦隊に編入された[62][63]。5月20日、四水戦旗艦は夏雲から由良に変更される[64]。 一方、那珂は6月3日にシンガポール出発[65]。台湾馬公市を経由して12日に横須賀帰着[66][67]。15日附で那珂は第四水雷戦隊から除かれた[68]

その後、那珂は舞鶴海軍工廠にて修理・近代化改装を行い、5番主砲が撤去され、5番主砲の位置には12.7cm連装高角砲1基が搭載された。小発動艇を4隻搭載、中甲板以下の舷窓を閉塞するなど、輸送作戦や対空戦闘に対応する改修を実施して、その訓練に従事する[69]

第十四戦隊[編集]

1943年(昭和18年)4月1日、川内型軽巡洋艦那珂と長良型軽巡洋艦五十鈴の2隻で第十四戦隊が新編される[70]。ただし五十鈴は第三次ソロモン海戦等で受けた損傷を横浜で修理中だった[71]。第十四戦隊は第四艦隊(4月5日より司令長官小林仁中将、旗艦鹿島)に所属する事になり、夕張が同艦隊から除籍された[72]。 4月2日、十四戦隊司令官伊藤賢三少将は那珂に将旗を掲げた[73]。4月5日、舞鶴港を出港した那珂は訓練や哨戒を実施しつつ、内海西部を経由して横須賀へむかった[74]。4月25日、那珂は駆逐艦時雨有明長波と共に空母雲鷹冲鷹を護衛して横須賀を離れ、4月30日にトラック諸島に到着した[75][76]。5月から6月の間ヤルート(ジャルート環礁)へ進出した[77]。6月18日、ヤルートでの警戒を終えてトラック泊地へ戻った[78]。 一方、修理を終えた五十鈴は空母飛鷹の曳航を実施したのち、第三戦隊(金剛榛名)や空母龍鳳と共に横須賀を出発、21日にトラック泊地へ到着[79][76]。第十四戦隊はようやく定数2隻を揃えた[76]。同日、連合艦隊司令長官は、戦艦大和、第十四戦隊、第十六戦隊(名取、鬼怒、球磨)、巡洋艦部隊(阿武隈、香椎、青葉、川内)各艦の水上偵察機・整備兵をパラオに派遣し、対潜哨戒に従事するよう命じた[80]。「那珂」の水上偵察機はパラオへ移動途中の7月4日、ソロール島で故障して使用不能となった[80][81]

6月22日より、第十四戦隊はトラックからナウルへの兵員輸送を命じられる[82][83]。この輸送作戦のため、第四水雷戦隊より軽巡長良、第16駆逐隊(雪風)と第17駆逐隊(浜風谷風)、第27駆逐隊(有明:22日附で時雨と交代)が選抜され、第十四戦隊(那珂、五十鈴)と行動を共にする[82]。第一次輸送隊(那珂400名、五十鈴453名、浜風70名、谷風70名)は22日、第二次輸送隊(長良350名、雪風70名)は23日、第三次輸送隊(時雨69名、駆潜艇28号、秋葉山丸50名)は24日にそれぞれトラック泊地を出発、25日-26日-29日ナウル着、28日午前-28日午後-7月3日トラック泊地帰着という輸送任務を達成した[82][84]

続いて那珂と駆逐艦朝凪は7月17日よりトラックからミレ(ミリ環礁)への輸送任務に従事した[85][86]。この第66警備隊後発隊(約600名)は、空母翔鶴に便乗して7月15日にトラックへ到着した部隊であった[86]。同隊は7月20日にミリ環礁へ到着、先遣隊600名と合流した[86]

8月15日、アメリカ軍はベララベラ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いは緊迫の度合いを増した[87]。同日より五十鈴はラバウル方面に緊急輸送を実施する[87]。8月25日、旗艦那珂は重巡洋艦高雄・第24駆逐隊(海風涼風)を指揮下に入れラバウルへの輸送任務を実施、29日にトラックへ戻った[87][88]。9月は3日から兵員輸送をおこなう輸送船2隻(日枝丸、富士山丸)をトラックからクェゼリンへ護衛する[89]。さらに第7駆逐隊が途中まで同行した[89]。7日にクェゼリンへ到着、引き続きマロエラップへの兵員輸送に従事[90][89]。12日、那珂と駆潜艇2隻、輸送船香取丸等は、北緯08度23分 東経165度12分 / 北緯8.383度 東経165.200度 / 8.383; 165.200にて米潜水艦パーミットの雷撃により特務艦知床と特設航空機運搬艦富士川丸の救援に赴く[91][90]。なお救援中の那珂はパーミットに雷撃されたが、魚雷は那珂の左舷30mを通過するなどして、命中しなかった[92]。知床は香取丸に曳航されてクェゼリンへ向かい、富士川丸は自力でルオット(ロイ=ナムル島)へ向かった[91]。19日からはミレ、ウオッゼへの兵員輸送をおこなった[93]

10月5日、連合艦隊司令長官は、第十四戦隊司令官伊澤少将を指揮官として、陸軍第十七師団の南東方面派遣任務『丁四号輸送部隊』の編成を下令した[94]。那珂を旗艦とする部隊戦力は、第十四戦隊(那珂、五十鈴)、軽巡2隻(木曾多摩)、駆逐艦3隻(野分舞風山雲)、輸送船団(栗田丸、日枝丸、護国丸、清澄丸)であった[94][95]。上海から回航された第一輸送部隊(木曾、多摩)はトラック泊地で駆逐艦卯月を合同後、ラバウルへ向かうが爆撃により木曾は損傷[96]、卯月と五月雨の救援を得てラバウルへたどりついた[94][97]。23日附で木曾、多摩は丁四号輸送部隊から除かれた[98]

第二輸送隊(那珂、五十鈴、山雲、護国丸、清澄丸)は10月11日にトラック泊地を出発、上海市へ向かった[94]。途中、五十鈴は被雷した給糧艦間宮の救援に向かい、艦隊から分離した(18日上海着)[99][100]。10月21日、第二輸送隊はトラックを出発[94]。10月22日、輸送船団は東シナ海で敵潜に襲撃された[101]。那珂と山雲は爆雷攻撃を行った[102]。この米潜水艦はシャードであった。那珂に魚雷1本が命中していたが、不発だったという[103]。28日、トラック泊地へ到着する[94]

同地にて戦力の再編がおこなわれ山雲は第三輸送隊(野分、舞風、日威丸、神威丸)に編入、代艦として第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦2隻(磯風浦風)が第二輸送隊へ編入され、那珂の指揮下に入った[104][94]。11月1日、第二輸送隊はトラックを出港した[105]。11月3日、第二輸送隊はカビエンの北60浬にてアメリカ第13空軍所属B-24爆撃機のべ40機の空襲を受け、機銃掃射により那珂は十四戦隊首席参謀以下戦死7名・重傷者20名という損害を出し、ほかに特設巡洋艦清澄丸は被弾浸水して航行不能となる[106][107]。至近弾の水柱で那珂の姿が蔽われたため、五十鈴は那珂が撃沈されたと思ったという[108]。 空襲後、五十鈴は清澄丸の曳航を実施、那珂、磯風および途中合流した駆逐艦水無月はその警戒と護衛にあたった[109]。4日0時40分、秋月型駆逐艦若月が合流するが、同艦は午前4時に分離してラバウルへ向かった[110]。伊澤少将は浦風、護国丸も分離、先行してラバウルに向かわせた[111][94]。 11月4日午前7時、カビエンに到着[112]。ラバウルより到着した軽巡夕張をふくめ、各艦は清澄丸より物資人員を転載した[94]。同日、五十鈴と磯風は触雷して小破[113][114]。磯風はカビエンに残置された[115]。ラバウルへは那珂、五十鈴、夕張、水無月が向かった[94]。同日附をもって磯風、浦風は南東方面部隊に編入され、第十四戦隊の指揮下を離れた(磯風は内地回航、浦風はラバウル残留)[116]

輸送船団は11月5日にラバウルに到着したが、ちょうどその日にラバウル空襲があり、ラバウル停泊中の重巡洋艦部隊(指揮官栗田健男中将:旗艦愛宕摩耶高雄最上筑摩阿賀野第二水雷戦隊各艦)が大損害を受けた[117]。那珂、五十鈴は被害なく対空戦闘を実施、撃墜15機(重複含む)を記録している[118]。 11月6日、第十四戦隊、護国丸はラバウルを出発、9日にトラックへ戻り原隊へ復帰した[119][120]。改編第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸、日威丸、神威丸)は11月3日にトラック泊地を出発したもののラバウル大規模空襲やアメリカ軍潜水艦に反復攻撃された事などから、命令によりトラック泊地へ引き返した[121]。9日になり、第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)は輸送船日枝丸を護衛して再びラバウルへ向かった[122]

11月21日、アメリカ軍はギルバート諸島タラワ環礁へ攻撃を開始、『タラワの戦い』がはじまった[123]

連合艦隊は第四艦隊長官を指揮官として、タラワ増援部隊を編成した。支援部隊(第四戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第二水雷戦隊)、南洋方面航空部隊、補給部隊(第十駆逐隊、東亜丸、富士山丸)と共に、輸送部隊(指揮官伊澤少将:第十四戦隊《那珂、五十鈴》、長良、第6駆逐隊《雷、響》)、先遣隊潜水艦9隻という戦力が作戦に組み込まれた[123]。21日、第十四戦隊はトラックを出発、22日にポナペ島に到着して陸軍部隊を収容、25日にクェゼリンに到着した[124]。26日までに軽巡長良、第6駆逐隊()はクェゼリンに集結、旗艦那珂の指揮下に入る[124]。こうしてギルバート方面への逆上陸準備は完了した[124]。だがタラワはすでにアメリカ軍により陥落しており、逆上陸作戦は実行されなかった[125]。タラワの陥落と、並行して勃発したギルバート諸島沖航空戦の敗北により、日本軍は制海権も制空権も失いかけていた[126]。 このような状況下、陸軍部隊の一部を各方面に転用することになり、那珂、五十鈴、雷は28日にクェゼリン発、12月1日にミレへ到着した[125]。12月5日、アメリカ軍機動部隊艦載機はルオットを襲撃し、軽巡五十鈴、長良を損傷させ、多数の輸送船を撃沈・撃破した(マーシャル諸島沖航空戦[127]。五十鈴、長良はトラック泊地へ回航された[127]。2隻の損傷により那珂の随伴艦は雷のみとなり、2隻はポナペ島の陸軍部隊をクサイ島(コスラエ島)へ転進させる輸送作戦に従事する[125]。輸送任務終了後の10日、2隻はトラックに到着してマーシャル方面での行動を終えた[128]

12月17日、空母瑞鳳がトラック泊地に到着、那珂は同艦から基地物件を受け入れた[129]。19日トラックを出発し、22日ルオット着[129]。その後、アメリカ軍機の空襲によりサイパン輸送作戦は中止、24日にトラックへ戻った[130]

沈没[編集]

1944年(昭和19年)2月16日、米潜水艦スケートの雷撃で、内地へ向け回航中の軽巡阿賀野がトラック泊地北方で航行不能となった[131]。那珂は阿賀野の救援のためにトラック島を出港したが、途中で阿賀野の沈没の連絡を受けてトラックに引き返した[132]。なお、阿賀野の生存者は駆逐艦追風や哨戒艇に救助されている[133]。 2月17日未明、アメリカ海軍の第58任務部隊がトラック島を空襲した。

トラックへ入泊寸前(北水道を航行中)だった那珂は空襲警報を受けて反転、外洋に出ようとした[134]。だがすでに米軍機動部隊に捕捉されており、午前7時に艦攻(爆装)約20機、9時に艦爆十数機、正午に艦爆・艦攻約20機、午後2時に艦爆4機の反復攻撃を受ける[131]。当時の天候は全曇でうねりが高く、アメリカ軍機は雲を利用して攻撃をかけてきたという[134]。空母バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV-17) および軽空母カウペンス (USS Cowpens, CV-25) 艦載機部隊の波状攻撃を受けた[135]。魚雷1本と爆弾1発が艦中央部に命中して艦前部(約1/4)を喪失[136]、対空戦闘を目撃していた哨戒艇が『那珂は艦橋切断、今なお奮戦中』と打電するほどの対空戦闘を続けたが、再び直撃弾を受けて浸水が進み午後2時頃に沈没した[136]。地点北緯07度15分 東経151度15分 / 北緯7.250度 東経151.250度 / 7.250; 151.250。240人が戦死した。末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。トラック泊地北水道周辺では、空襲と米戦艦部隊の艦砲射撃により第4215船団の練習巡洋艦香取、駆逐艦舞風、特設巡洋艦赤城丸が沈没、野分のみサイパン方面へ脱出した[137]。第4215船団と同時刻に北水道を通過した第27駆逐隊(時雨春雨)は、空襲により時雨が中破、春雨が小破し、パラオ方面へ脱出していった[138]

3月4日、第十四戦隊は解隊[139]。3月31日、トラック島空襲で沈没した那珂、阿賀野、舞風、太刀風追風文月等は同日附で除籍された[140]。また、姉妹艦の川内はブーゲンビル島沖海戦で、神通はコロンバンガラ島沖海戦ですでに沈没しており、那珂の沈没で川内型軽巡洋艦3隻は全隻喪失、艦艇類別等級別表からも除籍された[141]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』166-169頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 井上肇治 大佐:1925年4月15日 -

艦長[編集]

  1. 井上肇治 大佐:1925年11月30日 - 1926年12月1日
  2. 中村亀三郎 大佐:1926年12月1日 - 1927年4月5日
  3. 三戸基介 大佐:1927年4月5日 - 1927年11月1日
  4. 毛内効 大佐:1927年11月1日 - 1928年12月10日
  5. 伴次郎 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  6. 南雲忠一 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  7. 山田定男 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  8. 山本弘毅 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  9. 園田滋 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  10. 後藤英次 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  11. 阿部嘉輔 大佐:1934年11月15日 - 1935年5月25日
  12. 醍醐忠重 大佐:1935年5月25日 - 11月15日
  13. 五藤存知 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  14. 阿部孝壮 大佐:1936年12月1日 -
  15. 中邑元司 大佐:1937年8月2日 -
  16. 河野千万城 大佐:1937年12月1日 -
  17. (兼)宮里秀徳 大佐:1938年11月15日 -
  18. 高間完 大佐:1938年12月15日 -
  19. 秋山輝男 大佐:1939年11月15日 -
  20. 伊集院松治 大佐:1940年10月15日 -
  21. 田原吉興 大佐:1941年8月11日 -
  22. 中里隆治 大佐:1942年7月10日 -
  23. 高木伴治郎 大佐:1942年10月1日 -
  24. 今和泉喜次郎 大佐:1943年3月25日 -
  25. 末沢慶政 大佐:1944年1月7日 -

同型艦[編集]

画像集[編集]

参考文献[編集]

  • 五十嵐邁 『黒き日本海に消ゆ 海軍・美保関遭難事件』 講談社、1978年11月。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎、『日本軽巡戦史』、図書出版社、1989年
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年ISBN 47698-2009-7
    • 独創と捨て身 <軽巡洋艦那珂艦長・今和泉喜次郎大佐の証言>(太平洋戦争時、第二潜水隊司令、第一潜水隊司令、那珂艦長、第十六潜水隊司令等)
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 原為一 『帝国海軍の最後』 河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7
  • 原為一ほか 『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』 潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    • 当時「阿賀野」通信科員・海軍一等兵曹中村卓司『損傷艦阿賀野紅蓮の炎のなかの絶叫 ブーゲンビル島沖海戦からラバウル大空襲そして被雷沈没の最後
    • 当時那珂二十四代目艦長・海軍大佐今和泉喜次郎『十四戦隊旗艦那珂ラバウルに健在なり』
    • 当時那珂二十五代目艦長・海軍大佐末沢慶政『軽巡那珂は艦橋切断今なお奮戦中 トラック大空襲下、死闘九時間の果てに沈没した鬼軽巡の最後
  • 福井静夫 『日本巡洋艦物語 福井静夫著作集/第四巻-軍艦七十五年回想記』 光人社、1992年10月。ISBN 4-7698-0610-8
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 横浜製作所 100年史編さん委員会『三菱重工横浜製作所百年史』三菱重工業株式会社横浜製作所、1992年。
  • 吉村昭 『空白の戦記』 新潮社、1981年4月(原著1970年)。ISBN 978-4-10-111709-6
  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』 海軍研究社、1935年5月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1937年2月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『日本軍艦集 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08051772000 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
    • Ref.C08051365100 『川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(3)』。
    • Ref.C08051365200 『川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(4)』。
    • Ref.C08050999800 『大正12年公文備考 変災災害付属巻5/東京海軍監督報告(1)』。
    • Ref.C08051006800 『大正12年公文備考 変災災害付属巻8/連合艦隊第1艦隊(9)』。
    • Ref.C04015668100 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(1)』。
    • Ref.C04015668200 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(2)』。
    • Ref.C04015668300 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(3)』。
    • Ref.C04015668400 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(4)』。
    • Ref.C04015668500 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(5)』。
    • Ref.C04015668600 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(6)』。
    • Ref.C04015668700 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(7)』。
    • Ref.C05034650000 『赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(1)』。
    • Ref.C05034650100 『赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(2)』。
    • Ref.C05034650200 『赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(3)』。
    • Ref.C05034651200 『11駆機密第101号の13  10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(1)』。
    • Ref.C05034651200 『11駆機密第101号の13  10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(2)』。
    • Ref.C05034651200 『11駆機密第101号の13  10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(3)』。
    • Ref.C05034651200 『11駆機密第101号の13  10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(4)』。
    • Ref.C05034651200 『11駆機密第101号の13  10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(5)』。
    • Ref.C13071974300 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿2.3』。
    • Ref.C14121196200 『昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度帝国海軍戦時編制/附表』。
    • Ref.C14121196500 『昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度戦時駆逐隊・潜水隊・水雷隊・掃海隊・驅潛隊・通信隊・航空隊編制予定表 昭和17年度警備隊・防備隊附属艦艇及防備機関編制予定表 昭和17年度戦時艦船飛行機搭載予定表/第1表~第9表』。
    • Ref.C08030041200 『昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌第3戦隊(3)』。
    • Ref.C08030080200 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030080300 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030110700 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030111600 『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030111700 『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030111800 『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030111900 『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030112000 『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030112300 『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030112400 『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030112500 『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030100600 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030052200 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030052300 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030052400 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030052500 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030052600 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C04015099400 『軍艦加古工事に関する件』。
    • Ref.C12070064400 『大正1年達完/達大正1年8月』。
    • Ref.C12070078400 『大正10年 達完/達大正10年3月』。
    • Ref.C12070078900 『大正10年 達完/達大正10年6月』。
    • Ref.C12070081000 『大正11年 達完/達大正11年10月』。
    • Ref.C12070162800 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。
    • Ref.C12070196900 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。

脚注[編集]

  1. ^ 近隣の浦賀で艤装中の軽巡阿武隈は工場の被害によって完成が約1年遅れた。
  2. ^ なお、被災炎上した船体部のうち、損傷の比較的軽微な部分は起重機船の船体として再利用され、120トン起重機船として横浜船渠でその後も長らく使用されている。
    (『三菱重工横浜製作所百年史』)

出典[編集]

  1. ^ a b c d #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『那珂|二等巡洋艦|(艦要目略)|横浜船渠會社|大正11-6-10|大正14-3-24|大正14-11-30|(艦装備略)』
  2. ^ a b #川内神通阿武隈那珂製造一件(4)p.13『軽巡那珂本日(六月十四日)午前十時起工濟』
  3. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(艦船名)那珂|(起工年月日)大正十一年六月十四日|(工程百分比)約五五(以下略)』
  4. ^ 大正14年11月30日付 海軍内令 第309号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。
  5. ^ #日本軍艦集2600年版p.31『ニ等巡洋艦 那珂(なか) 基準排水量5,195噸、長さ152.4米、幅14.4米、平均吃水4.84米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、起工大正11年6月10日、進水大正14年3月24日、竣工大正14年11月30日、建造所横濱船渠會社-神通と同型。この級はいはゆる球磨級の改良型といはれる軽巡である。
  6. ^ #艦艇類別等級(昭和16年12月31日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|川内型|川内、神通、那珂』
  7. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.137『那珂(なか)|艦種 二等巡洋艦 球磨改良型|艦名考 川名に採る、那珂川は又中川に作る、下野國那須郡男鹿岳の頂、男鹿沼及び根室村山谷に発源し常陸に入りて海に注ぐ。(以下略)』
  8. ^ #軽巡二十五隻81頁
  9. ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十六日 海軍大臣男爵斎藤實 |艦艇類別標準|軍艦|巡洋艦|一等|七千頓以上|二等|七千頓未満』
  10. ^ #達大正10年3月p.14『達第四十三號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ニ左ノ通命名セラル|大正十年三月十九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|加古カコ 那珂ナカ 川内センダイ 神通ジンツウ』
  11. ^ #達大正10年6月p.17『達第百十八號 艦艇類別等級別表中巡洋艦二等ノ欄鬼怒ノ下ニ、加古、那珂、川内、神通ヲ加フ|大正十年六月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
  12. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『川内|二等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正11-2-16|大正12-10-30|大正13-4-29|(艦装備略)』
  13. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『神通|二等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正11-8-4|大正12-12-8|大正14-7-31|(艦装備略)』
  14. ^ #軍艦加古工事に関する件p.3『大正十一年三月十七日 佐鎮司令長官宛 二等巡洋艦一隻建造ノ件取止メ』
  15. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ノ内加古ノ艦型ヲ一等巡洋艦ニ變更シ大正十一年度ニ於テ川崎造船所ニ於テ建造セシム|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
  16. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄ニ加古、衣笠、古鷹ヲ加ヘ同二等ノ欄加古、ヲ削ル』
  17. ^ #連合艦隊第1艦隊(9)p.12『那珂ノ船体工事ハ来ル十月十日頃進水セシム可キ豫定ニテ船台上ニ盤木ヲ作リ進水用意中ナリシモ該盤木ニ延焼シタル為メ裸体トナリ船台上ニ約十度右舷ニ傾キ横掛ス船体鋲板ハ赤銅色ニ変色シ「ビーム」ト共ニ波状ヲ呈スル處多シ機関ハ主トシテ陸上ニアリ損害ハ比較的小ナリ主機械ハ完全ノ状態ニアリ』
  18. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(災害後ノ現状及災害概要)船体 盤木支柱全焼シ船台上ニ墜落シ右舷ニ約十二度傾斜ス船底局部ノ屈曲ハ全長ニ亘リ全体ノ屈曲モ約二尺ニ及ブ(以下略)』
  19. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(復旧能否ノ見込並所見)船体ハ尚詳細ナル計測ヲ為スニアラサレバ確言スル能ハザルモ復旧ノ見込ミ覺束ナキモノヽ如シ』
  20. ^ a b #日本巡洋艦物語275頁
  21. ^ #川内神通阿武隈那珂製造一件(4)p.37『軍艦那珂工事豫定概括表』
  22. ^ #川内神通阿武隈那珂製造一件(4)p.12『軍艦那珂午後四時三十分無事進水ス御届ス』
  23. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.4『乙軍ノ行動(略)左翼隊タル神通那珂ハ神通艦長之ヲ率ヰ…』
  24. ^ #黒き日本海に消ゆ62頁
  25. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)pp.7-16』
  26. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.5『此ノ時左舷艦尾方向ヨリ甲軍後衛ノ一艦ヨリ照射ヲ受ケ神通ハ伊勢ニ対シ反照シ那珂ハ探照燈ヲ以テ友軍敵情ヲ通報シ次テ神通ハ航行灯ヲ点シ南東ニ変針(略)11時16分敵後尾ニ触接スルノ目的ヲ以テ両舷灯ヲ消シ第三戦速(28節)ニ増速面舵転舵中…』
  27. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)p.43『…当時神通と那珂は隊を組んで敵に迫ったが其の照射猛撃に遭ふて一時避退の止むなきに至って反転した、煌々たる探照燈に眩まされて居る、其處を同しく敵に向かって突進中の第二七駆逐隊と反航の對勢で急速に近接した…』
  28. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.13『那珂ハ25日午前2時40分防水区画補強工事及防水畫出シ方終了自力航行ニ差支ナキヲ確メタル旨報告ニ接シ比叡及古鷹之ヲ護衛シ舞鶴ニ回航セシム25日午後5時無事到着セリ』
  29. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.3『航行隊形』/pp.42-45『別紙第三、主ナル被害損傷調』
  30. ^ #初雪遭難詳報(5)p.2『那珂|四水戦|1255|初雪ノ溺者ニ鑑ミ人ヲ落サザル様一層厳重ナル注意ヲナセ此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ』
  31. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.5『然ルニ午後5時40分初雪ヨリ「SOS」「初雪艦首切断救助頼ム」ノ電ニ接シ夕霧ノ安全ナルヲ確メタル後初雪捜索ニ向ヒシガ夕霧救助ノ為現地ニ急行中ノ五戦隊近キニ在ルヲ以テ之ニ初雪救助ヲ依頼シ再ビ夕霧ニ近接セシモ当時風浪尚大ニシテ近寄レズ夜ヲ徹シテ之ガ監視警戒ニ任ジタリ。27日風浪稍々静マルヲ待テ初雪ハ薄雲護衛ノ下ニ羽黒ニ曳航セラレ又夕霧ハ天霧護衛ノ下ニ大井ニ曳航セラレ何レモ大湊ニ向ヘリ』
  32. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.42『那珂|一.自11番至18番各重油「タンク」海水漏入/二.前部発射甲板左舷後部隔壁亀裂(約25糎)/三.第二通舷及舷架流失/四.四番聯管八年式方位盤流失』
  33. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦付表第一『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』
  34. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制p.3『聯合艦隊|第一艦隊|第一水雷戦隊|阿武隈、第二驅逐隊、第二十一驅逐隊、第二十四驅逐隊、第二十七驅逐隊』
  35. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制p.3『聯合艦隊|第二艦隊|第四水雷戦隊|那珂、第四驅逐隊、第八驅逐隊、第九驅逐隊、第十驅逐隊』
  36. ^ #昭和17年戦時編制・駆逐隊他p.1『横須賀|第四驅逐隊/嵐、萩風、野分、舞風|第八驅逐隊/朝潮、満潮、大潮、荒潮|第十驅逐隊/秋雲、夕雲、巻雲、《風雲》|第四水雷戦隊』
  37. ^ #軽巡二十五隻334頁
  38. ^ a b #内令昭和17年5月(2)p.26『内令第八百五十號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八駆逐隊ノ項中大潮、満潮、ヲ削ル|第九駆逐隊ノ項中山雲、ヲ削ル』
  39. ^ Klemen, L (1999-2000). “The capture of Tarakan Island, January 1942”. Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942. 2013年10月8日閲覧。
  40. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦143頁『攻略作戦開始』
  41. ^ a b c d #戦史叢書26海軍進攻作戦149-154頁『第十三、第十四掃海艇の戦闘』
  42. ^ a b c d e f #戦史叢書26海軍進攻作戦198-201頁『敵水上部隊、わが泊地を奇襲』
  43. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦202-203頁『連合国海軍の状況』
  44. ^ Klemen, L (1999-2000). “The conquest of Java Island, March 1942”. Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942. 2013年10月8日閲覧。
  45. ^ a b c d e #戦史叢書26海軍進攻作戦448-450頁『敵有力水上部隊出現(二月二十七日)』
  46. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦451-454頁『第一次昼戦(自一七二五 至一八五〇)』
  47. ^ a b c d e #戦史叢書26海軍進攻作戦455-456頁『第二次昼戦(自一八五〇 至一九五〇)』
  48. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦478頁『連合軍側の状況』
  49. ^ #S170208四水戦戦闘詳報(2)p.23『(28日)1555村雨140度方向20粁ニ商船ラシキ檣ヲ認メ(蘭国病院船「オプテンノルト」)1635之ヲ臨検次イデ天津風ニ引渡ス』
  50. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦509-511頁『移動部隊、チラチャップを爆砕』
  51. ^ #S1703一水戦日誌(1)pp.6-7『3月7日 第17駆逐隊1小隊第三戦隊2小隊ト共ニ「クリスマス」島ヲ砲撃陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ破壊/3月9日 第17駆逐隊主隊ニ合同』
  52. ^ #S1703一水戦日誌(1)pp.37-38『9日谷風駆逐艦長/當隊(2小隊欠)7日早朝第3戦隊2小隊ト共ニ「クリスマス」島陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ砲撃之ヲ破壊セリ。射撃距離50乃至35発射弾数谷風31浦風12、敵ハ白旗ヲ掲揚ス我人員兵器異状ナシ其ノ他別動中異状ナシ』-『9日第2航空戦隊司令官/別動中ノ戦果左ノ通リ|一.3月7日早朝約20分間ニ亘リ2D/3S及1D/17dgヲ以テ「クリスマス」島ヲ砲爆撃セリ敵ハ忽チ白旗ヲ掲揚セリ(以下略)』
  53. ^ #昭S1703一水戦日誌(1)p.41『9日2100機動部隊指揮官/機動部隊戦闘概報第7號 3月6日南緯140度0分東経109度40分ニ於テ別働隊(第二航空戦隊、第三戦隊2小隊、第17駆逐隊)ヲ分離、9日「スンバ」島南方ニテ合同、11日「スターリング」湾着ノ予定(略)同島攻略ハ小兵力ヲ以テ容易ニ実施シ得ルモノト認ム、港内敵船ヲ認メス(以下略)』
  54. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦613-614頁『クリスマス島の攻略』
  55. ^ a b c #原(復刻版)34-35頁
  56. ^ a b c d e f #戦史叢書26海軍進攻作戦615頁『那珂被雷す』
  57. ^ #S1703四水戦日誌(3)p.14『途中那珂ハ2日0810迄ハ名取夏雲峯雲天津風ノ護衛ヲ受ケ0810以後更ニ2D/22dg(長月水無月)ヲ加ヘ1800ヨリ天津風原隊ニ歸リ3日0425名取ハ「バンタム」灣ニ先行セリ』
  58. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦622頁
  59. ^ #S1703四水戦日誌(3)p.23『2日0000 4sd(那珂 1D/9dg)X攻略部隊ヨリ除カル』
  60. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.8『「バンタム」泊地ニ於テ静波丸ニ依リ損傷情況ヲ確メ應急準備ヲナシ6日2200九驅一小隊ト共ニ昭南港ニ向ケ「バンタム」泊地ヲ出港セリ途中天候ニ恵マレ大ナル支障ヲ受クルコトナク10日1530「セレター」軍港ニ入港セリ』
  61. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.9『本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ…』
  62. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.47『四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動』
  63. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.10『九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊ニ編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴満潮呉山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ』
  64. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.53『二〇(天候略)1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更、由良九駆二駆攻略部隊主隊ニ編入セラル八駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入』
  65. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.13『3日1500那珂艦長→4sd/横須賀ニ向ケ昭南港発』
  66. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.10『那珂ハ12日横須賀帰着 15日附ニテ4sdヨリ除カレタリ』
  67. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.57『四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動』
  68. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.6『(二)第四水雷戦隊艦隊編成 (2)6月15日 那珂第四水雷戦隊ヨリ除カル』
  69. ^ #軽巡二十五隻132頁
  70. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.4『當戦隊ハ四月一日附編成内南洋部隊ニ編入セラレ四月二十五日横須賀出撃四月三十日「トラック」着警戒任務ニ就ク』
  71. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.6『五十鈴ハ横浜浅野船渠ニ在リテ改造修理工事ニ従事』
  72. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)310頁『第四艦隊長官の交替』
  73. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.10『二日|1300将旗ヲ那珂ニ掲揚ス』
  74. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.5『當戦隊(五十鈴欠)ハ四月五日改造修理成リ舞鶴発六日内海西部ニ回航(略)十九日内海西部発対潜掃蕩ヲ実施シツツ横須賀ニ回航』
  75. ^ #S1801二水戦日誌(5)p.31『AdB指揮官|4月15日1340AdB司令官27dg司令駆逐艦長雲鷹艦長|27dg(時雨有明)長波ハ左ニ依リ行動後23日横須賀発予定ノ雲鷹冲鷹ヲ「トラック」迄警戒ニ任ズベシ右回航中雲鷹艦長ノ指揮ヲ受クベシ 一.27dg(時雨有明)ハAdB電令作第177号ニ依リ行動 二.長波ハ修理完了後速ニ横須賀ニ回航』
  76. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)310頁『第十四戦隊の内南洋部隊への進出』
  77. ^ 日本軽巡戦史、469-470ページ
  78. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.28『(一)當隊(五十鈴欠)「ヤルート」ニ於テ防備警戒ニ従事中ノ處15日0500「ヤルート」発「トラック」ニ回航18日0816着』
  79. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.28『五十鈴(略)「ナウル」増援人員器材ヲ搭載16日1430横須賀発21日1400「トラック」着』
  80. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)344頁『艦載推定のパラオ集合特別対潜掃蕩』
  81. ^ #S180401第14戦隊日誌(2)p.13『那珂水偵「ソロール」島ニテ故障、使用不能』
  82. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)369頁『横二特のナウル進出』
  83. ^ 日本軽巡戦史、471-472ページ
  84. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.29『…25日0500「ナウル」着増援隊ヲ揚搭ス、仝地ニ於テ浜風ノ指揮ヲ解キ当隊及谷風ハ同日0945「ナウル」発28日0832「トラック」着尓後防備警戒任務ニ就ク』
  85. ^ #戦隊行動調書p.14『七.一七「ミレ」増援隊輸送(司令官14S) 那珂、朝凪』
  86. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)354頁
  87. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)384頁『第十四戦隊のラバウルへの緊急輸送』
  88. ^ #戦隊行動調書p.14『14S|八.二五「ラバウル」方面緊急輸送(将旗14S)那珂高雄24dg(海風涼風)』
  89. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)434頁『歩兵第百二十二聯隊のマーシャル進出』
  90. ^ a b 日本軽巡戦史、476ページ
  91. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)398頁『米潜水艦の跳梁と被雷した知床の救援』
  92. ^ #S180401第14戦隊日誌(3)p.3『(ハ)13日0036知床ノ280度1000米ニ浮上潜水艦発見攻撃運動中0102北緯08度27.5分 東経164度37分 / 北緯8.4583度 東経164.617度 / 8.4583; 164.617ニテ左舷艦首近距離ニ雷撃2本受ケタルモ雷跡那珂左舷約三十米ヲ通過シ被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射九個効果不明、0447再ビ雷撃1ヲ受ケタルモ水面跳出被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射三個効果不明』
  93. ^ 日本軽巡戦史、479ページ
  94. ^ a b c d e f g h i j #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)436-438頁『第十七師団の南東方面への派遣』
  95. ^ #戦隊行動調書p.14『10.5 丁四号輸送作戦(将旗14S) 14S木曾多摩栗田丸日枝丸護国丸清澄丸4dg(野分舞風)山雲』
  96. ^ #S180401第14戦隊日誌(3)p.29『21日|0004第一次輸送隊「ニューアイルランド」島「セントヂョージ」岬沖ニテ敵機ト交戦木曽爆弾1命中』
  97. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.9『木曽ハ約十節ニテ卯月ノ護衛下ニ0315迄敵機18機ノ執拗ナル攻撃ヲ撃退、0500以後味方直衛機及五月雨ノ増援ヲ得テ1130「ラバウル」着1410火災鎮火排水…』
  98. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.10『GF電令作特第一号(GFキデ230758)ニ依リ多摩、木曽ハ丁四号輸送部隊ヨリ除カル』
  99. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)417頁『米潜の機動部隊搭乗員の救助と「間宮」の救援』
  100. ^ #S180401第14戦隊日誌(3)p.16『(3)五十鈴ハGF電令作第760号ニ依リ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能ノ間宮曳航ノ為12日2230分離現場ニ急行セシム』
  101. ^ #軽巡二十五隻136頁『危うくかわす魚雷三本』
  102. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.14『第二輸送隊21日0845上海発22日0213及0217ノ二回ニ亙リ雷撃2(位置北緯28度40分 東経124度10分 / 北緯28.667度 東経124.167度 / 28.667; 124.167)ヲ受ケタルモ被害ナシ、那珂山雲ヲシテ攻撃制圧セシム』
  103. ^ #軽巡二十五隻141頁(後日艦内調査で漏水箇所発見、魚雷胴体擦過時の損傷と推定)
  104. ^ #戦隊行動調書p.14『10.30 17dg(浦風磯風)指揮下ニ入ル』
  105. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.18
  106. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)pp.18-19『1129、南緯2度00分 東経151度31分 / 南緯2.000度 東経151.517度 / -2.000; 151.517ニ於テ第一次B-24型19機来襲銃爆撃、当隊之ト交戦1220第二次B-24型21機再ビ来襲、之ト交戦敵機ハ爆撃セズ1254之ヲ撃退セリ』
  107. ^ #S180401第14戦隊日誌(5)p.44『那珂(司令部ヲ含ム)戦死 准士官以上1 下士官兵6/重軽傷 准士官以上8 下士官兵12』
  108. ^ #佐藤 艦長(文庫)63頁
  109. ^ #S180401第14戦隊日誌(5)p.41『1215|磯風ハ清澄丸ノ左舷、那珂ハ右舷ヲ警戒セシム(略)1445|五十鈴ハ清澄丸ヲ曳航開始速力約七節、那珂ハ前方、磯風ハ後方警戒ニ当ラシム』
  110. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.21『当隊救難警戒ノタメ若月ヲ急派セラレ4日0040来着当隊合同セシモNTFキデ032043ニ依リ4日0420分離「ラバウル」ニ先行セシム』
  111. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.21『四日1020 十七駆(浦風)護国丸「ラバウル」着』
  112. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.21『四日0700 第十四戦隊、清澄丸(五十鈴曳航)、磯風、水無月「カビエン」泊地着
  113. ^ #軽巡二十五隻139頁
  114. ^ #佐藤 艦長(文庫)67-68頁
  115. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)pp.22-23『1629 出港時磯風推進器附近ニ触雷 磯風清澄丸ハ「カビエン」ニ残シ那珂、五十鈴ノミヲ率ヒ1630「ラバウル」ニ向ケ「カビエン」発』
  116. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.36『11月4日1817GF電令作第786号ニ依リ17駆(浦風、磯風)ヲNTB(南東方面部隊)YBニ編入』
  117. ^ #佐藤 艦長(文庫)68-69頁
  118. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.24『戦果 撃墜15-6機(重複アルベシ) 被害ナシ』
  119. ^ #軽巡二十五隻140頁
  120. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.24『第十四戦隊及護国丸6日0430「トラック」ニ向ケ「ラバウル」発9日0015「トラック」着』
  121. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.26『第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸)及神威丸、日威丸7日1100「トラック」着』
  122. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.28『改編丁四号輸送部隊(四駆、日枝丸)NTB電令作第128号(NTBキデ081047)ニ依リ9日0430「ラバウル」ニ向ケ「トラック」発』
  123. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)477頁『タラワ増援作戦部隊の編成』
  124. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)481頁『在ポナペ甲支隊のギルバートへの増援準備』
  125. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)488-490頁『ギルバートへの増援逆上陸の中止と甲支隊及び南洋第一支隊のクサイ、ミレへの転進』
  126. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)594頁『彼我の死傷者数及びギルバート作戦の及ぼす影響』
  127. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)508-509頁『米機動部隊マーシャル来襲』
  128. ^ #戦隊行動調書p.14『11.11~12.10「マーシャル」方面陸軍輸送』
  129. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)485頁
  130. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)485、514頁
  131. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)623頁『那珂の戦闘状況』
  132. ^ #軽巡二十五隻142頁
  133. ^ #軽巡二十五隻337頁
  134. ^ a b #軽巡二十五隻143頁
  135. ^ #軽巡二十五隻311頁
  136. ^ a b #軽巡二十五隻146-147頁『死闘九時間の果てに』
  137. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)622頁『四二一五船団の戦闘状況』
  138. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)624頁『第二十七駆逐隊の戦闘情況』
  139. ^ #戦隊行動調書p.14『14S|三.四 解隊』
  140. ^ #内令昭和19年3月(5)p.41『内令第五百十三号|横須賀鎮守府在籍 軍艦 那珂 軍艦 香取|呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野 右帝国海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 舞風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 峯風 驅逐艦 追風 驅逐艦 文月 驅逐艦 海風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 太刀風|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  141. ^ #内令昭和19年3月(5)p.21『内令第四百九十九号 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等ノ部中川内型ノ項ヲ、同阿賀野型ノ項中阿賀野、ヲ、同練習巡洋艦ノ項中香取、ヲ削ル|驅逐艦一等峯風型ノ項中峯風、太刀風、ヲ、同神風型ノ項中追風、ヲ、同卯月型ノ項中文月、ヲ、同初雪型ノ項中白雲、ヲ、同白露型ノ項中海風、ヲ、同不知火型ノ項中「舞風、」ヲ削ル|驅潜艇、第十四号型ノ項中第二十二号、「第四十号、」ヲ削ル』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]