ケ号作戦
| ケ号作戦 | |
|---|---|
| 戦争:太平洋戦争 | |
| 年月日:1943年2月1日 - 2月7日 | |
| 場所:ガダルカナル島 | |
| 結果:日本軍がガダルカナル島から撤退 | |
| 交戦勢力 | |
| 戦力 | |
| 駆逐艦22 | |
| 損害 | |
| 駆逐艦1沈没 駆逐艦3損傷 |
駆逐艦1沈没 |
ケ号作戦(ケごうさくせん)は第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)2月1日から7日にかけて行われた、日本軍のガダルカナル島撤退作戦。作戦名の由来は
なお、キスカ島からの撤退作戦もケ号作戦(作戦名の由来は
目次
背景[編集]
ガダルカナル島の戦いにおいて、1942年(昭和17年)8月7日の連合軍上陸から5か月を経過し2度の総攻撃を行ったものの、ヘンダーソン飛行場基地の奪回は成らず、糧秣弾薬の補給が輸送船の沈没や駆逐艦の大量消耗により継続できなくなり、日本軍は同年12月31日の異例の御前会議でガダルカナル島からの撤退を決めた。撤退は翌1943年(昭和18年)2月に行われることとなったが、これを隠すため航空攻撃や物資輸送は続けられた。そのため、アメリカ軍は日本軍の撤退作戦完了後もその事実を知らず、逆に日本軍がガダルカナル島の兵力を増強するための新たな駆逐艦輸送と考えていた。
またこの撤退に際しての企画は、以下のようなものであった。
- ガダルカナル島西へ兵員を移動し、防御陣地を築いて撤退準備をすること。
- ガダルカナル島西方にあるラッセル諸島を占領し、これを中継基地として使用すること。
- 戦病者を優先し、第2師団・第38師団と撤退していくこと。
- 同時に陽動の為に陸軍は陽動隊を上陸させること。
- 残存兵は潜水艦等により撤退させること。
こうした一連の動きにより、アメリカ軍に対し再び日本軍によるガ島総攻撃があると思わせるのが 日本軍の意図であった。
作戦準備[編集]
増援輸送[編集]
1942年(昭和17年)12月11日のドラム缶輸送の失敗から駆逐艦による輸送を中止していた。しかし、撤退までの軍の消耗を防ぎ、体力を回復させるために翌年1月2日よりドラム缶輸送を再開した。また1月14日から3回に渡り増援部隊を揚陸させた。さらに12月9日から中止していた潜水艦による輸送も12月26日より再開し、ほぼ毎晩行われた。
同時にコロンバンガラ、ムンダ、レカタ、パラレ、ショートランド、ブカの各地に増援部隊を輸送、ムンダ等の各地の飛行場整備を急いだ。
航空支援[編集]
日本軍航空部隊は1月15日からガダルカナル島への夜間攻撃強化を企図、天候が回復した19日より撤収作戦終了までほぼ連夜に渡りガダルカナル島飛行場の爆撃を行った。またポートモレスビーとラビへの夜間爆撃も同時に実施した。
1月25日からはガダルカナル島のアメリカ軍飛行場に対し航空撃滅戦を実施。第一次となる25日、零戦72機が一式陸攻12機とともに侵攻するも、5機(零戦4機・一式陸攻1機)を喪失し撃墜戦果無しと一方的な敗北を喫した。一方で第二次の27日、海軍の要請によりソロモン方面へ進出していた陸軍航空部隊、飛行第11戦隊と飛行第1戦隊の一式戦「隼」69機が飛行第45戦隊の九九双軽9機とともに侵攻。この空戦においてアメリカ陸軍航空軍第339戦闘飛行隊および海兵隊第112海兵戦闘飛行隊の戦闘機24機と交戦、一式戦「隼」は6機を喪失するも7機を撃墜(戦果内訳はP-38 2機・P-40 2機・F4F 3機)[1]。
29日から30日にかけてレンネル島沖海戦が発生した。
31日、第11戦隊の一式戦「隼」はガダルカナル島西方海上で日本軍艦艇を攻撃中のSBDおよび、掩護の第112海兵戦闘飛行隊F4F 8機と交戦、2機を喪失するも2機を撃墜した[1]。
イサベル島沖海戦[編集]
2月1日昼、サボ島沖で海軍の九九式艦上爆撃機13機がアメリカ軍の駆逐艦2隻(ド・ヘイブン、ニコラス)と戦車揚陸艇数隻からなる部隊を発見した。日本軍の艦爆隊はこれを巡洋艦2隻と駆逐艦3隻と誤認し攻撃、駆逐艦ド・ヘイブンを撃沈、駆逐艦ニコラスを損傷させた[2]。
2月4日、大本営はイサベル島南方沖にて敵巡洋艦を攻撃し、1隻を撃沈、1隻を小破させたと発表した[3](実際には駆逐艦一隻を撃沈、一隻を小破である。また戦闘海域はイサベル島沖南方であるのは事実だが鉄底海峡の中である)。
陽動作戦[編集]
1月15日に利根、潜水艦伊8、802空、海軍東京通信隊、第4通信隊、第6通信隊をもって東方牽制隊を編成、利根は1月25日よりカントン島西に進出し偽電を発信、同様の作戦を2月3日からも行った。伊8潜は1月23日、1月31日にカントン島を夜間砲撃した。また802空はカントン島方面で哨戒任務を行った。通信部隊は偽電を発信したと思われるが記録が無く不明。これらにより日本軍が攻勢をかけると思わせるような工作を行った。成果は不明。
艦艇支援[編集]
前進部隊は1月31日にトラックを出港、ガダルカナル島の北方約700海里、グリニッチ島の東方海域に進出し敵艦隊の出現に備えた。前進部隊の兵力は以下の通り。
また支援隊(熊野、鳥海、川内)がカビエンに警戒停泊していたが、両隊とも戦闘参加の機会は無く終わった。
矢野大隊[編集]
矢野大隊(長:矢野桂二少佐)は、撤収作戦援護の殿(しんがり)を任務として第38師団のラバウル残留各部隊から抽出されて臨時編成された。その編成は、歩兵1個中隊、機関銃1個中隊、山砲1個中隊(山砲3門)の兵員750名に有線・無線各1個小隊の150名がついた。兵員の多くは年齢30歳前後の未教育補充兵で、生還を期さない決死隊として撤収作戦であることは矢野少佐にも知らされていなかった[4]。
駆逐艦5隻に分乗した矢野大隊は、1月14日エスペランス岬に上陸した。18日最前線のコカンボナに布陣し、22日から陣地を転換しながらの遅滞戦闘をおこなった。アメリカ軍は迫撃砲による集中砲撃や戦車を先頭に攻撃したが、矢野大隊は肉攻班が破甲爆雷で対戦車攻撃をおこなうなど頑強に抵抗した。この間、日本軍は第一次撤収(2月1日)、第二次撤収(2月4日)を実施したがアメリカ軍はこれを察知することができなかった。当初、矢野大隊の一部はガダルカナル島に残置させられる方針であったが、矢野少佐は(一部を残すくらいなら)大隊一丸で玉砕するとの覚悟であったため急遽命令が変更され、大隊は第三次撤収(2月7日)で駆逐艦に収容された。在島25日間で750名の兵力は300名に減っていた[4]。
ラッセル諸島占領[編集]
万一、駆逐艦による撤退が不可能になった場合には舟艇機動によってラッセル諸島(ガダルカナル島の西方約50キロ地点)まで移動し、そこから駆逐艦で撤退することが計画された。また同時にアメリカ軍の占領を防ぎ、増援作戦に見せかける意図もあった。そこで占領部隊として「立岩支隊」(長:立岩新策大尉。総員約530名の陸海軍混成部隊)が編成され、1月28日に浦風、浜風、江風の駆逐艦3隻に輸送されラッセル諸島のバイシー島へ夜間上陸した。(警戒隊として時津風、黒潮、白雪の3隻が同行)途中航空機の攻撃を受けたが零戦の直掩もあり、艦艇に大きな被害はなく輸送は成功した。このとき撤収兵のための食料入りドラム缶も大量に輸送された。立岩支隊はその後10日間にわたりバイシー島を確保していたが、舟艇機動が予定されていた第三次撤収も駆逐艦によって行われたため、2月7日に島を撤収した(欠員なし)[5]。
撤退[編集]
第一次[編集]
最初の撤収は2月1日に行われた。部隊は駆逐艦20隻で、1日朝、ショートランドを出発した。途中アメリカ軍機の攻撃で巻波が航行不能となり、文月の曳航で引き返した。
同昼、サボ島沖で海軍の九九式艦上爆撃機13機がアメリカ軍の駆逐艦2隻と戦車揚陸艇数隻からなる部隊を攻撃し、駆逐艦ド・ヘイブンを撃沈した。
同夜、ガダルカナル島に到着し海軍250名、陸軍5,164名を収容、2日午前、ブーゲンビル島エレベンタに帰還した。収容時に巻雲が触雷により航行不能、夕雲の魚雷で処分された。また魚雷艇による攻撃もあったが砲撃により撃退した。参加艦艇は以下の通り。
- エスペランス隊
- カミンボ隊
アメリカ軍航空部隊は日本海軍駆逐艦20隻に対しF4F戦闘機17機、SBD17機、TBF7機を発進させたが、1隻(巻波)を航行不能とさせるに留まった。また改造駆逐艦が機雷300個を敷設、この機雷に巻雲が触雷した。また魚雷艇11隻を出勤させたが2隻が砲撃により沈没、1隻が爆撃により沈没、他に座礁で1隻を喪失し日本軍の行動を阻止できなかった。日本軍航空部隊は飛行場攻撃に陸軍が第11戦隊の一式戦「隼」および第45戦隊の九九双軽を、海軍は零戦を収容部隊の上空掩護として出撃させている[1]。
第二次[編集]
2回目は2月4日に行われた。朝雲、五月雨が参加し部隊は前回と同じく駆逐艦20隻。4日朝、ショートランドを出発。途中、空襲により舞風が航行不能となり、長月に曳航されてショートランドへ帰還した。また白雪が機関故障のため引き返した。
ガダルカナル島に到着した部隊は、予定通りに収容を開始し、海軍519名、陸軍4,458名を収容した。エスペランスでの収容作業には遅れが出たようで約300名を積み残して5日午前エレベンタに帰還した。この第2次撤退で第17軍司令部がガダルカナル島を後にしている。
- エスペランス隊
- カミンボ隊
- 警戒隊:皐月、文月、長月
- 輸送隊
- 第16駆逐隊:時津風、雪風
- 第8駆逐隊:大潮、荒潮
アメリカ軍航空部隊はF4FとP-40に掩護されたSBDおよびTBFを発進させたが、1隻中破、1隻小破に留まった。将兵を収容した駆逐艦は日本陸軍の第11戦隊第1中隊の一式戦「隼」が上空掩護しており、空戦で2機を喪失するも3機を撃墜(F4F 1機・SBD 1機・TBF 1機)し二度にわたるアメリカ軍機の攻撃を撃退、艦隊を守り抜いている[1]。さらに3機(F4F 2機・SBD 1機)のアメリカ軍機が撃墜され(また第68戦闘飛行隊のP-40 1機がF4Fの同士討ちにより墜落)、途中で空戦に加わった零戦は2機を喪失している[1]。
アメリカ海軍は魚雷艇を出撃させているが日本側水上偵察機7機の警戒、捜索により日本軍駆逐艦と接触は出来なかった。
第三次[編集]
第三次作戦前夜の作戦会議(恐らく鳥海艦上で開かれたと思われる)で、この作戦を直接指揮した第八艦隊司令部は駆逐艦の出撃を渋った[6]。二回の撤収で既にアメリカ軍に作戦が見破られたとの懸念に加え、連合艦隊は駆逐艦の喪失激減に悩んでおり、第三次作戦は方式を変更して、駆逐艦ではなく大発などの舟艇により島伝いに脱出させようとの意見が出された。これに対し陸軍側は、田沼参謀次長、第17軍の宮崎参謀長らが海軍の作戦会議に出席し、舟艇による脱出は成功の可能性が下がるとして駆逐艦の出撃を要請[7]。議論が平行線を辿った時、駆逐艦「雪風」の菅間艦長と「浜風」の上井艦長から「予定通り駆逐艦でやるべき」との発言があり、臨席していた駆逐艦長全員もこれに賛同し、第三次作戦も駆逐艦隊で行う事が決定した[8]。陸軍第17軍の小沼治夫少将は、会議の結果を受けても作戦当日の駆逐艦隊の行動に対する不安を拭う事ができず、第一連隊旗艦白雪に乗船する橋本信太郎少将に作戦を完遂するよう直談判し、橋本少将の「艦隊司令部の意向がどうであれ我々は任務に邁進するので安心されよ」との言葉を得てやっと安堵している[9]。
最後の撤収は2月7日に行われた。部隊は駆逐艦18隻で7日朝ショートランドを出発した。途中空襲で磯風が被爆し引き返した。同夜、ガダルカナル島に到着しカミンボから殿軍とされた松田部隊を中心とする海軍25名、陸軍2224名を収容しエレベンタに帰還した。また駆逐艦での撤収が失敗した場合に備えてラッセル諸島に1月28日に進出していた海軍38名、陸軍352名を収容した。
- 第一連隊(カミンボからの収容及び警戒)
- 一番隊:黒潮、白雪
- 二番隊:朝雲、五月雨
- 三番隊(輸送隊):時津風、雪風、皐月、文月
- 第二連隊(ラッセル諸島からの収容及び警戒)
- 第10駆逐隊:風雲、夕雲、秋雲
- 第17駆逐隊:谷風、浦風、浜風、磯風
- 第8駆逐隊:大潮、荒潮
- 第22駆逐隊:長月(艦長の証言ではカミンボで収容)
結果[編集]
3回の撤収により海軍832名(この中に含まれる元幕下力士の軍属、三浦朝弘は戦後に大相撲へ復帰し、関脇の玉乃海太三郎となった)、陸軍12,198名、合計1万名以上の兵員を収容した。それに対し損害は駆逐艦1隻沈没、3隻の損傷のみであった。日本側は駆逐艦の損失を参加艦艇の1⁄4、損傷1⁄4、収容人数は約半分を想定していたが予想以上の成果を収めた。
アメリカ軍は日本軍が増強をしていると判断していた。8日朝に舟艇が放棄されているのが発見され、初めて撤退の事実に気が付いた。
2月9日、大本営はガダルカナル島からの転進を発表した。翌日には2月1日から7日までの戦闘、特に2月1日の艦爆隊による巡洋艦撃沈(実際には駆逐艦ド・ヘイブン撃沈)を中心にイサベル島沖海戦と呼称すると発表した[10][11]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 伊藤正徳 『連合艦隊の栄光 太平洋海戦史』 光人社〈光人社NF文庫〉、1996年。ISBN 4-7698-2128-X。
- 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画〈オスプレイ軍用機シリーズ 56〉、2010年。ISBN 978-4-499-23028-5。
- 亀井宏 『ガタルカナル戦記 第三巻』 光人社NF文庫、1994年。ISBN 4-7698-2049-6。
- 『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』 駆逐艦雪風手記編集委員会 編、駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。
- 土井全二郎 『ガダルカナルを生き抜いた兵士たち 日本軍が初めて知った対米戦の最前線』 光人社〈光人社NF文庫〉、2009年。ISBN 978-4-7698-2599-9。
- 『南東方面海軍作戦』2(ガ島撤収まで)、防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書83〉、1975年。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』(光人社、1984年) ISBN 4-7698-0231-5
- 最悪の戦場に奇蹟はなかった
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 大本営海軍報道部 編纂 『大東亜戦争海軍戦記. 第3輯 info:ndljp/pid/1907051』 興亜日本社、1943年5月。