五十鈴 (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
Japanese cruiser Isuzu 1944.jpg

1944年に三菱重工業横浜造船所で改修した五十鈴

艦歴
発注 1919年1917年度計画)
起工 1920年8月10日浦賀船渠
進水 1921年10月29日
就役 1923年8月15日
その後 1945年4月7日戦没
除籍 1945年6月20日
性能諸元
排水量 基準:5,170トン
常備:5,570トン
全長 162.15m
全幅 14.17m
吃水 4.80m
機関 90,000馬力
最大速 36.0ノット
乗員 竣工時定員450名[1]
兵装
新造時 50口径一四年式14cm単装砲 7基7門
40口径三年式8cm単装高角砲 2基2門
6.5mm単装機銃 2基2挺
八年式連装魚雷発射管 4基8門
飛行機 1機
飛行機滑走台 1基
機雷48個
改装後 40口径八九式12.7cm連装高角砲 3基6門
九六式25mm3連装機銃 11基33門
同単装機銃 5基5門
九二式4連装魚雷発射管 2基8門
水中探信儀
水中聴音機
爆雷投射機
爆雷投下軌条 2基
爆雷 90個
21号電探 1基
22号電探1基
13号電探 1基

五十鈴(いすず)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦長良型の2番艦である。その艦名は、三重県伊勢市(伊勢神宮内宮)を流れる五十鈴川より名づけられた。完成時は高速軽巡洋艦として水雷戦隊旗艦に適した優秀な艦であり、歴代艦長からは堀悌吉山本五十六山口多聞松永貞市高須四郎など後に著名になった指揮官も輩出した。

艦歴[編集]

五十鈴は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1923年(大正12年)に完成した。全力公試運転中の6月10日、漁船と衝突事故を起こした[2]

1937年(昭和12年)8月21日、五十鈴は伊1伊2伊3伊4伊5伊6戦艦長門陸奥榛名霧島と共に多度津港を出港し、長江河口沿岸で23日まで作戦行動を行う。

1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[3]

太平洋戦争開戦時にはすでに旧式化しつつあったが、開戦劈頭の香港攻略戦に参加した。1942年(昭和17年)4月10日第二南遣艦隊第16戦隊に編入後は小スンダ列島攻略戦など小規模の作戦に従事する。しかし、ソロモン諸島方面でのアメリカ軍の反攻作戦が始まり、五十鈴も急遽ソロモン方面に進出。臨時に第二水雷戦隊の旗艦となり、南太平洋海戦第三次ソロモン海戦に参加。後者では一時航行不能に陥る損害を蒙った。損傷復旧以後は輸送や救援活動に従事。

1943年(昭和18年)12月5日、ルオットでアメリカ機動部隊の空襲を受け損傷し日本に帰還。その頃、対空砲火の増強策の一環として5500トン型軽巡の主砲をすべて八九式十二糎七高角砲に換装することになり(1基のみを換装した艦はすでにあった)、その第一弾として損傷復旧中の五十鈴の主砲7門をすべて撤去のうえ、連装高角砲3基6門に換装した。

第三十一戦隊[編集]

戦局の悪化により五十鈴に続く艦は出現せず(似たような例としては敷設艦「常磐」(旧一等巡洋艦)があった)、結果的に五十鈴のみが5500トン型軽巡の中で異彩を放つこととなった。この改装では、対空装備の他対潜装備も増備された。同時期、日本海軍は対潜掃討機動部隊の第三十一戦隊を編成しようとしており、当初予定されていた軽巡名取に代わって旗艦として編入された。五十鈴が対潜掃討部隊に編入されたのは、名取より電波兵器や対潜兵器が充実していたからであった。

1944年(昭和19年)9月14日に改装を終えた五十鈴は対潜掃討に従事することなく、第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将指揮の第三艦隊の一員としてレイテ沖海戦に投入された。これは機動部隊の前衛を担うはずだった第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)を台湾沖航空戦の残敵掃蕩に投入したため、機動部隊の直衛が不足したための臨時措置である。レイテ沖海戦エンガノ岬沖海戦において、敵13機(内4機は不確実)撃墜を報告している(実戦果不明)。この戦闘で、小沢機動部隊本隊は空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)、軽巡1隻(多摩)、駆逐艦2隻(秋月、初月)を喪失した[4]

小沢機動部隊の残存部隊(日向〈小沢中将座乗〉、伊勢、大淀、五十鈴、若月、霜月、桑、槇、桐、杉)は27日に奄美大島に立ち寄り、ここで2隻(大淀、若月)は内地にもどらずマニラに向かった[4]。五十鈴は10月29日に呉に帰着、修理をおこなった[4]。まもなく第一機動艦隊および第三艦隊は解隊された[5]

多号作戦[編集]

当時、レイテ島では上陸してきた連合軍と日本軍守備隊の間で激戦がくりひろげられており(レイテ島の戦い)、日本軍はレイテ島増援輸送作戦を多号作戦と呼称して多数の水上部隊を投入していた[6]。11月11日、多号作戦第三次輸送部隊はレイテ島オルモック湾で米軍機動部隊艦載機多数の襲撃を受けて駆逐艦朝霜を残して全滅、旗艦島風沈没時に第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将も戦死した[7]。 日本海軍は11月15日附で戦時編制の改定をおこない、第十戦隊を解隊して第一水雷戦隊と第二水雷戦隊を増強していたが[5]、この事態をうけて第一水雷戦隊(第五艦隊所属)と第二水雷戦隊(第二艦隊所属)を統合[8]。第一水雷戦隊を第二水雷戦隊に転用するかたちで、一水戦司令官木村昌福少将が第二水雷戦隊司令官に補職された[8]。このため「第三十一戦隊ハ本月八月 対潜作戦専務部隊トシテ編成セラレ 逐次増勢セラレマシテ間モナク竹級駆逐艦十四隻、海防艦九隻、航空隊一隊トナル予定デ御座イマスガ 之ヲ第一水雷戦隊ノ補充兵力ト致シマシテ第五艦隊ニ編入 主トシテ比島叢島内ノ対潜作戦竝ニ「レイテ」方面ノ輸送護衛作戦ニ充当セシムルコトト致度ト存ジマス」(昭和19年11月14日、及川古志郎軍令部総長の奏上より)という方針で、第三十一戦隊(旗艦「五十鈴」)は第五艦隊(司令長官志摩清英中将、旗艦「足柄」に編入された[8]

上記の戦時編制改定が実施される前の11月5日豊田副武連合艦隊司令長官は第三十一戦隊(五十鈴、梅、桃、桐)にマニラ方面輸送任務を命じ、さらに松型2隻(桑、杉)と共に南西方面部隊の指揮下に入り多号作戦に従事するよう命じた(GF電令作第515号)[9]。11月9日、第三十一戦隊は第四航空戦隊(日向、伊勢)と共に佐世保を出撃。14日、三十一戦隊は澎湖列島馬公市を出発してマニラにむかった[9]11月19日、「五十鈴」はコレヒドール島沖で米潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の魚雷を艦尾に受け、舵を流されるなど大破した。駆逐艦[10]の護衛によりシンガポールに避退した[9]。 第三十一戦隊司令部は秋月型駆逐艦「霜月」に旗艦を変更し、「桃」と共にシンガポールを出撃した[9]。だが11月25日、米潜水艦により「霜月」は撃沈され、沈没時に江戸兵太郎少将ふくめ第三十一戦隊司令部は全滅した[9][11]。 新任の第三十一戦隊司令官は鶴岡信道少将[9]。新編第三十一司令部は12月22日にマニラへ進出したが[9]、「五十鈴」に乗艦することはなかった。 「五十鈴」はスラバヤで修理を行う[12]

1945年(昭和20年)2月5日、大本営海軍部は第五艦隊を解隊(同日附で第十方面艦隊〈司令長官福留繁中将〉を編制し、第五戦隊〈羽黒、足柄、大淀〉、第四航空戦隊〈日向、伊勢〉を編入)[13]。第五艦隊所属だった第三十一戦隊を、戦時編制において連合艦隊附属とした[9][13]。さらに連合艦隊は兵力部署において、第三十一戦隊を高雄警備府部隊に編入した[9]。 第三十一戦隊司令部は2月24日に台湾高雄市を出発、28日に呉へ帰投し、松型駆逐艦「」を旗艦とした[12]。 スラバヤで修理中の「五十鈴」は、2月13日に3月下旬修理完成と内地回航の指示を大本営海軍部(軍令部)にもとめた[12]。軍令部は「五十鈴」を第十方面艦隊の任務に用いることを予定していた[12]。3月15日、日本海軍は第三十一戦隊を第二艦隊(司令長官伊藤整一中将、旗艦「大和」)に編入し、三十一戦隊の旗艦に秋月型駆逐艦「花月」をあてた[12]。 3月25日、「五十鈴」は第三十一戦隊からのぞかれ第十方面艦隊付属となった[12]

第十方面艦隊[編集]

1945年(昭和20年)4月1日、五十鈴の修理は完成[14]。五十鈴は即座にティモール島をはじめとするスンダ列島所在の陸軍部隊を撤退させる「二号作戦」に投入された。4月4日水雷艇掃海艇2隻とともにスラバヤを出撃[15]。途中米英潜水艦に狙われるも無事にティモール島クーパンに入港し第48師団の将兵を収容[16]。4月5日夜にクーパンを離れて帰路についたが4月6日にはオーストラリア空軍の爆撃機により2回の攻撃を受ける[17]。これに対して、付近に展開していた日本陸軍航空部隊第17錬成飛行隊の一式戦「隼」が邀撃、第一波のB-25 20機(第18・第2飛行隊)が爆撃を行うも「隼」2機が妨害し艦艇に損害は無かった[18]。20分後、第二波攻撃にB-24 9機(第21・第24飛行隊)が来襲するも、増援2機を含む「隼」4機は爆撃を妨害しつつB-24 2機(マクドナルド大尉機・フォード中尉機)を確実撃墜(実戦果確実)[19]。艦艇の損害は五十鈴が至近弾2発により舵が故障した他、艦首に不発の爆弾1発が命中[20]、「隼」は1機が被弾のみで全機が帰還している。なお、撃墜され落下傘降下したB-24乗員に五十鈴は機銃掃射を行い、「隼」はのちに飛来したカタリナ1機(第112海難救助飛行隊バルマン大尉機)をさらに撃墜している[21]。続いて潜水艦による攻撃があり第十二号掃海艇が撃沈されたが、五十鈴はスンバワ島ビマに入港、そこで第48師団将兵を降ろして第46師団将兵を乗せた[22]

4月7日早朝、ビマを出港した五十鈴はスンバワ島北方において[12]米潜水艦ガビラン (USS Gabilan, SS-252) から1本、チャー(USS Charr, SS-328) から3本の魚雷を受け8時46分頃に沈没した。艦長以下450人が救助され、190人及び便乗した陸軍将兵(人数不明)が戦死した。大和などが坊ノ岬沖海戦で撃沈される約半日前のことであった。結局、五十鈴が対潜掃討に従事することはなかった。五十鈴は同年6月20日を以て除籍された。

改装について[編集]

1944年の改装では九六式25mm連装機銃2基という対空兵装から、前述のように八九式12.7cm連装高角砲3基6門、九六式25mm3連装機銃11基、単装25mm機銃5基、単装13mm機銃8基と対空兵装が増備され、対空能力が飛躍的に向上した。また、電波兵器も21号電探(対空用)が艦橋上に、22号電探(対水上用)と13号電探(対空用)が後部マストに装備され(残っている写真から13号電探の装備はレイテ沖海戦には間に合わず海戦後に装備されたと考えられる)、対潜兵器も水中聴音機爆雷投射機など新式のものが装備された。なお、低下した水上戦闘能力を補うために後部の2基の八年式連装魚雷発射管が九二式4連装魚雷発射管への転換も行われ、これにより酸素魚雷の発射能力を得た。前部の2基の発射管は撤去されてウェルデッキは廃止され、兵員室に充てられた。

射出機実験[編集]

長良型の建造時にはいまだ射出機が実用化されておらず、搭載機は自己のエンジンによるプロペラ加速と艦の速力によって発生する合成風力によって滑走台から発艦する必要があった。海軍では5,500トン型軽巡各艦を用いてさまざまな方式の射出機の試作・実験を行なっており、五十鈴においてもその実験の経歴がある。

1929年3月、五十鈴の滑走台に萱場式艦発促進装置(カタパルト)の試作機が取り付けられ、初の射出実験に成功した。萱場式艦発促進装置はスプリングの力により加速をつける方式の射出機であった。

萱場式艦発促進装置は同年4月には五十鈴から由良に移設され、由良にて約4年間の長期実験が行われたが、火薬式射出機の実用化に伴い撤去されている。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』150-152頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 石渡武章 大佐:1921年9月1日 - 1923年8月15日[23]

艦長[編集]

  1. 石渡武章 大佐:1923年8月15日[23] - 1923年11月20日
  2. (心得)堀悌吉 中佐:1923年11月20日 - 1923年12月1日
  3. 堀悌吉 大佐:1923年12月1日 - 1924年3月6日
  4. 市村久雄 大佐:1924年3月6日 - 1924年12月1日
  5. 松山茂 大佐:1924年12月1日 - 1925年11月20日
  6. 田村重彦 大佐:1925年11月20日 - 1926年7月1日
  7. 中原市介 大佐:1926年7月1日 - 1926年12月1日
  8. 津留雄三 大佐:1926年12月1日 - 1927年12月1日
  9. 鎮目静 大佐:1927年12月1日 - 1928年8月20日
  10. 山本五十六 大佐:1928年8月20日 - 1928年12月10日
  11. 羽仁六郎 大佐:1928年12月10日 - 1929年9月26日
  12. (兼)池中健一 大佐:1929年9月26日 - 1929年11月27日
  13. 高須四郎 大佐:1929年11月27日 - 1930年12月1日
  14. 後藤輝道 大佐:1930年12月1日 - 1931年9月14日
  15. (兼)堀江六郎 大佐:1931年9月14日 - 1931年11月14日
  16. 藍原有孝 大佐:1931年11月14日 - 1932年2月16日
  17. (兼)真崎勝次 大佐:1932年2月16日 - 1932年6月20日
  18. 山田省三 大佐:1932年6月20日 - 1932年11月15日
  19. 山口実 大佐:1932年11月15日 - 1933年11月15日
  20. 山田満 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  21. 牧田覚三郎 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
  22. 千葉慶蔵 大佐:1935年11月15日 - 1936年1月7日
  23. (兼)原顕三郎 大佐:1936年1月7日 - 1936年4月25日
  24. 松永貞市 大佐:1936年4月25日 - 1936年12月1日
  25. 山口多聞 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
  26. 中邑元司 大佐:1937年12月1日 - 1938年11月20日
  27. 橋本愛次 大佐:1938年11月20日 - 1939年11月15日[24]
  28. 鶴岡信道 大佐:1939年11月15日 - 1941年9月1日
  29. 浦孝一 大佐:1941年9月1日 -
  30. 篠田清彦 大佐:1943年1月30日 - 1944年6月20日
  31. 松田源吾 大佐:1944年6月20日 -

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大正12年8月15日付 海軍内令 第302号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ #軍艦五十鈴漁船と衝突の件
  3. ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
  4. ^ a b c 戦史叢書93巻、30-34頁「大本営海軍部の水上兵力整頓の基本方針」
  5. ^ a b 戦史叢書93巻、34-36頁「第一機動艦隊、第三艦隊の解隊(十一月十五日)」
  6. ^ 戦史叢書93巻、51頁「レイテ増援輸送作戦を多号作戦と呼称」
  7. ^ 戦史叢書93巻、62-65頁「軍需品搭載船団の全滅」
  8. ^ a b c 戦史叢書93巻、67-69頁「第一水雷戦隊の解隊と第三十一戦隊の第五艦隊編入」
  9. ^ a b c d e f g h i 戦史叢書93巻、73-74頁「南西方面艦隊、駆逐艦の不足を訴う」
  10. ^ 戦史叢書93巻74頁の説明では護衛艦をとする。
  11. ^ 戦史叢書93巻、128-129頁「水上部隊」
  12. ^ a b c d e f g 戦史叢書93巻、179-180頁「第三十一戦隊の第二艦隊編入」
  13. ^ a b 戦史叢書93巻、178-179頁「第五艦隊の解隊」
  14. ^ 日本軽巡戦史、643ページ
  15. ^ 日本軽巡戦史、644ページ
  16. ^ 日本軽巡戦史、644-645ページ
  17. ^ 日本軽巡戦史、645-646ページ
  18. ^ 梅本、2010年、p.120
  19. ^ 梅本、2010年、p.120
  20. ^ 日本軽巡戦史、646ページ
  21. ^ 梅本、2010年、p.120
  22. ^ 日本軽巡戦史、647ページ
  23. ^ a b 『官報』第3314号、大正12年8月16日。
  24. ^ 海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 

参考文献[編集]

  • 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月
  • 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年。
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。
  • 雑誌「」編集部『写真 日本の軍艦 第8巻 軽巡I』光人社、1990年、ISBN 4-76-980458-X
  • 雑誌「歴史群像」2003年12月号(学習研究社
  • 「歴史群像」編集部『「歴史群像」太平洋戦史シリーズ32・軽巡 球磨・長良・川内型』学習研究社、2001年、ISBN 4-05-602582-7
  • 「歴史群像」編集部『「歴史群像」太平洋戦史シリーズ51・帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目[編集]