間宮 (給糧艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
間宮
1930年頃の間宮[1]
1930年頃の間宮[1]
基本情報
建造所 川崎造船所[2]
運用者  大日本帝国海軍
種別 給糧艦[2]
経歴
計画 大正12年度艦艇補充計画
起工 1922年10月25日[3]
進水 1923年10月26日[3]
竣工 1924年7月15日[3]
除籍 1945年2月10日
最後 1944年12月20日沈没
要目
基準排水量 公表値 15,820トン[3]
常備排水量 12,176トン[2](11,099トン[4])
満載排水量 15,666トン[2](15,065.7トン[4])
総トン数 登簿総噸数 9,500トン[2]
全長 495 ft 2+1/4 in (150.93 m)[2]
垂線間長 475 ft 0 in (144.78 m)[3][4]
全幅 公表値 18.59m[3]
水線幅 61 ft 3 in (18.67 m)[2]
吃水 常備状態 18 ft 0+7/8 in (5.51 m)[2]
満載状態 24 ft 10+1/4 in (7.58 m)[2]
公表値 8.43m[3]
ボイラー ロ号艦本式缶 8基[5]
主機 直立式3気筒3段式レシプロエンジン 2基[5]
推進 2軸[2][5]
出力 10,000hp[5]
速力 満載状態 14ノット[2]
軽貨状態 16.5ノット[2]
16.991ノット(1923年7月)[4]
17ノット(1938年調)[5]
燃料 石炭1,700トン[2]
航続距離 冷却機を使用する時 9,000カイリ[2]
冷却機を使用しない時 12,000カイリ[2]
乗員 1923年7月 283名[4]
1925年度定員 211名[2]
平時201名、戦時284名(1938年)[5]
兵装 14cm砲2門[5]
8cm高角砲2門[5]
(平時は陸上保管)
25mm機銃3連装2基、連装2基、単装4挺、13mm単装機銃2挺[6]
(機銃は1944年時)
搭載艇 30ft内火艇 1、30ftカッター 3、通船 2(1926年)[2]
その他 補給物件 重油2,100トン、石炭1,500トン、清水830トン[2]
18,000人の3週間分の食料補給、艦内での加工食品の製造など
トンの単位は全て英トン(ロング・トン、約1,016kg)
テンプレートを表示
呉海軍工廠で最終艤装中の戦艦大和。(1941年9月20日)。画面中央やや上に三番砲塔越しに見えるのが間宮

間宮(まみや)は、日本海軍の給糧艦(運送艦)[7]。 その艦名は、樺太の間宮海峡から採られた[8]。給糧艦とは艦艇に食糧を供給する補給艦のことである[9]

概要[編集]

八八艦隊計画内で能登呂型給油艦の1艦として予算が成立したが、海軍の強い要望で連合艦隊随伴用の給糧艦が1隻、その予算で建造された[10]。それが間宮である。船体は商船構造とし、設計は川崎造船所に委託。設計は同社がかつて手がけた大阪商船の北米航路向け貨客船はわい丸の設計を手直ししたものであり、就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であった。戦時、平時問わず日本海軍の補給の要として活動したが太平洋戦争末期、アメリカの潜水艦の雷撃により沈没した。

性能[編集]

食料供給能力[編集]

間宮は純商船式の船体に各種の倉庫・食料貯蔵および製造設備を持ち、平時には艦隊への、戦時には戦地への食料補給が期待された[11]

艦内の最新式の巨大な冷蔵庫冷凍庫設備で肉、魚、野菜など18,000人の3週間分の食料を貯蔵できた。寄港先現地での調達も行い、屠殺製肉設備もあったため、牛馬を生きたまま積み込んだのちに食肉加工し、保存しておくことも可能だった。またパンなどの一般的な食料だけではなく、アイスクリームラムネ最中饅頭などの嗜好品からこんにゃく豆腐油揚げなどの日本固有の食品まで多くの加工食品を製造できた[11]。これらの製造のために間宮の艦内には部屋ごとに分かれたキッチンが多数あり、それぞれに腕の立つ専門職人が乗船し、軍属として働いていた[11]。軍属としての職人らの待遇は良かったとされている。大量の食料を扱うことから衛生面においても特別な配慮がなされており、他艦艇においては航海中は入浴・洗濯とも数日に1回、さらに風呂の湯は海水を用いるなど真水の節約に努めていたが、間宮では風呂でも洗濯でも真水をふんだんに用いることができた。

間宮が入港すると新鮮な食料が各艦に補給されるため、艦隊の酒保として非常に人気が高く、帝国海軍の中では最も有名な艦だったという[11]。艦内で製造される羊羹は「間宮羊羹」として人気が高く[11]、老舗羊羹店が海軍に納入した羊羹をさばくのに苦労した、などの話が伝わる。

運用[編集]

運送艦間宮はその性質上、巡航速度が非常に低速であったため艦隊に随伴せず単独に近い航行が多かったが、沈没は前線の将兵の士気に多大な影響を与えることから、駆逐艦側も厳重に護衛を行ったとされる[12]。武装がささやかながら備わっていたが、平時は砲台のみが設置されており、砲本体は取り外し、陸上に保管することで食料等の搭載量を増やす運用を行っていった。

食糧補給以外にも訓練時に曳航標的船を搭載したり、分解した水上偵察機などの軍事物資の輸送に従事した[13]。間宮固有の糧食配給艇も数隻搭載[13]。これらの小型艇や物資積込み作業を行うため、上甲板前部に15トン重デリック、後部に20トン重デリックを装備している[13]。医療施設のない小型艦艇の傷病者を受け入れる病院船としての役割も担った[13]。また強力な無線通信設備を搭載し、艦隊の無線検知艦(無線監査艦)としても行動したため、間宮の艦長は通信のベテラン将校が多かったという[13]

泊地に停泊中、当艦の食料供給能力を利用し、士官室を使用して海軍兵学校同窓会の会場として使用されたこともある[13]

艦歴[編集]

建造経緯[編集]

1921年(大正10年)10月17日神戸川崎造船所加賀型戦艦1番艦加賀が進水した[14]。川崎造船所は直ちに次の船の建造にとりかかる。だが同時期に開催されたワシントン海軍軍縮会議およびワシントン海軍軍縮条約により、1922年(大正11年)2月5日に加賀および天城型巡洋戦艦4番艦愛宕の建造中止が通達される[15]。 加賀建造中止命令より5日後の2月15日、建造予定の水雷母艦に長鯨、特務艦2隻に隠戸型給油艦1番艦隠戸と間宮の艦名が与えられた[16]。9月15日、艦艇類別等級表に登録[17]。特務艦2隻(隠戸、間宮)はいずれも神戸川崎造船所で建造することになった[18]。また各艦は建造中止の新造艦より機械や部品を流用することになっており、大正11年3月19日の段階で間宮に搭載予定ボイラー八缶のうち四缶は愛宕から、四缶は加賀からのものを搭載予定だった[19][20]

同年(大正11年)10月25日午前10時、間宮は神戸川崎造船所で起工された[8][21]。当初、1923年(大正12年)10月31日の竣工を予定[22]。前述のように、廃艦解体予定の加賀よりボイラー四缶を転用する計画だったがそのボイラーが届かず、1923年(大正12年)6月上旬進水の見込みが立たなくなった[23]。加賀は1922年(大正11年)7月に特務艦富士によって横須賀に曳航され、そのまま同地で廃艦処分を待っていたのである[24]1923年(大正12年)9月1日関東大震災により横須賀海軍工廠航空母艦へ改造予定の天城型巡洋戦艦1番艦天城が大破する[24]。修理不能となった同艦の廃艦処分にともない、横須賀で処分保留状態だった加賀の空母改造が決定[24]。そこで天城搭載用ボイラーが浮いたため、同艦機関部を間宮に転用することになった[25][26]

間宮は1923年(大正12年)10月26日午前8時に進水した[27][28]。 12月1日、日本海軍は通報艦満州艦長大谷四郎大佐を間宮艤装員長に任命した[29][30]。 12月6日、神戸川崎造船所内に間宮艤装員事務所を設置する[31]1924年(大正13年)7月12日、間宮艤装員事務所は閉鎖された[32]

竣工後[編集]

1924年(大正13年)7月15日、間宮は竣工した[8][7]。大谷も間宮特務艦長(初代)となった[33]呉鎮守府籍。 10月25日、間宮特務艦長は片山登中佐[34]に交代する(後日、大谷は長良型軽巡洋艦6番艦阿武隈艦長、青葉型重巡洋艦1番艦青葉初代艦長等を歴任)。間宮は翌年より連合艦隊に編入されて行動した[11]。 戦前では日本海軍内でほぼ唯一の給糧艦[35]だったため、修理、整備以外の全ての期間で連合艦隊の付属として食糧の補給任務に従事した[36]

1925年(大正14年)12月1日、給油艦早鞆特務艦長山口清七大佐は間宮特務艦長に任命された[37]

1926年(大正15年)11月1日、間宮特務艦長は藤沢宅雄中佐に交代(山口は天龍型軽巡洋艦1番艦天龍艦長へ転任)[38]

1927年(昭和2年)11月15日、間宮特務艦長は入江淵平中佐に交代(藤沢は防護巡洋艦利根艦長へ転任)[39]

1928年(昭和3年)12月10日、間宮特務艦長は運送艦青島特務艦長の合葉庄司大佐に交代(入江は軽巡阿武隈艦長へ転任)[40]

1929年(昭和4年)11月30日、間宮特務艦長は長門型戦艦2番艦陸奥副長小島謙太郎大佐に交代(合葉は特務艦朝日特務艦長へ転任)[41]

1930年(昭和5年)11月15日、間宮特務艦長は伊勢型戦艦1番艦伊勢副長藤森清一朗中佐に交代(小島は鎮海要港部参謀長へ転任)[42]

1931年(昭和6年)12月1日、間宮特務艦長は戦艦伊勢副長富田貴一大佐に交代(藤森は特務艦朝日特務艦長へ転任)[43]

1932年(昭和7年)12月1日、砲艦安宅艦長加藤正大佐は間宮特務艦長に任命され、富田(間宮艦長)は長良型軽巡4番艦由良艦長へ転任する[44]。また、この時の間宮副長は金剛型戦艦3番艦榛名運用長東郷実中佐(東郷平八郎元帥二男)となる[44]

1933年(昭和8年)11月15日、間宮特務艦長は第二艦隊参謀長鈴木義尾大佐に交代した[45]。東郷(間宮副長)は潜水母艦長鯨副長へ転じ、後任の間宮副長は藤井音四郎中佐(戦艦陸奥運用長)となる[45]

1934年(昭和9年)5月25日、間宮特務艦長は佐々木清恭大佐に交代[46]。鈴木大佐(間宮艦長)は海軍大学校教官[46]へ転任し、その後は重巡摩耶艦長[47]金剛型戦艦1番艦金剛艦長等[48]を歴任。金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)で編制された第三戦隊司令官[49]としてマリアナ沖海戦レイテ沖海戦を戦ったのち、米潜水艦シーライオンⅡの雷撃による乗艦(金剛)沈没時に戦死した。 11月15日、間宮特務艦長は、海軍艦政本部部員・海軍大学校教官・海軍省軍需局局員青柳宗重大佐に交代し、佐々木は青柳の後任となる[50]

1936年(昭和11年)3月2日、間宮特務艦長は柿本權一郎大佐に交代[51]。青柳は、当時敷設艦として運用中の浅間型装甲巡洋艦2番艦常磐艦長に任命された[51]。その後、妙高型重巡洋艦4番艦羽黒艦長[52]、金剛型2番艦比叡艦長等を歴任した。 12月1日、間宮特務艦長は長門型戦艦1番艦長門副長星野応韶大佐に交代[53]。柿本大佐は潜水母艦高崎(瑞鳳)艤装員長に任命され[53]、翌年には姉妹艦剣埼(祥鳳)艤装員長も短期間兼務している[54]

1937年(昭和12年)11月15日、戦艦榛名副長秋山門造中佐は間宮特務艦長に任命された(星野は呉海軍軍需部総務課長へ転任)[47]

1938年(昭和13年)12月15日、秋山中佐(間宮艦長)は呉海兵団副長兼教官に転じ、後任の間宮特務艦長は佐世保海軍人事部第三課長三坂直廉大佐となる[55]

1939年(昭和14年)12月15日、三坂(間宮艦長)は佐世保海軍軍需部総務課長へ転じ、後任の間宮特務艦長は野村留吉大佐となる[56]

1940年(昭和15年)10月15日、間宮特務艦長は田村保郎大佐となる[57]。野村は青島方面特別根拠地隊副官兼参謀に転任[57]。後日、軽巡北上艦長[58]、戦艦日向艦長[59]等を歴任する。

1941年(昭和16年)7月1日、田村(間宮艦長)は佐世保海軍通信隊司令兼佐世保通信部部員を命じられ、後任の間宮特務艦長は横須賀海軍通信隊司令兼横須賀通信部部員福吉保夫大佐となる[60]。 11月5日、萬膳三雄大佐は間宮特務艦長[61]に任命される。間宮は萬膳艦長の元で太平洋戦争に突入した。また福吉は翌年4月10日より秋田地方海軍人事部長[62]。予備役編入後、1944年9月1日より那覇地方海軍人事部長となった[63]

太平洋戦争[編集]

太平洋戦争勃発後も、間宮は引き続き各地への食糧輸送に活躍した。 1942年(昭和17年)10月3日、大藤正直大佐(吹雪型駆逐艦4番艦深雪沈没時艦長)は間宮特務艦長に任命される[64]1943年(昭和18年)以降アメリカ海軍潜水艦の活動により日本軍輸送船の被害も増えはじめ、間宮も輸送船団に加わって航海する機会が増えてきた。一例として同年5月21日、間宮以下輸送船6隻は駆逐艦3隻(白露型駆逐艦5番艦春雨《当事、米潜水艦ワフーの雷撃で大破、艦体切断中》、夕雲型7番艦大波《トラック泊地近海150浬まで》[65]睦月型12番艦夕月)に護衛され、トラック泊地から横須賀に帰投している[66][67]。 それでも幾度か被害を受けた。

1943年(昭和18年)10月11日、間宮は横須賀を出港し南方へ向かっていたが12日父島北緯28度30分 東経137度28分 / 北緯28.500度 東経137.467度 / 28.500; 137.467で米潜水艦からの雷撃に遭った[68][69]。正午時点の位置北緯28度21分 東経136度57分 / 北緯28.350度 東経136.950度 / 28.350; 136.950[70]。 この米潜水艦はセロ (USS Cero, SS-225)であった。 同日夜、連合艦隊司令長官古賀峯一大将の命令を受けた第十四戦隊司令官伊藤賢三少将は、丁四号輸送部隊第二隊(軽巡洋艦2隻《那珂五十鈴》、駆逐艦《山雲》、輸送船2隻《護国丸清澄丸》)より[71]、軽巡五十鈴を派遣する[70][72]。 10月15日正午、吹雪型駆逐艦(第7駆逐隊所属)に護衛され、間宮は速力4.5ノットで朝風丸に曳航された[73]。 同日午後に間宮隊と合流した五十鈴は燃料不足となっており[70]、1日だけ間宮を護衛した[68][74]徳山(瀬戸内海)で燃料補給中の16日午後、間宮警戒任務を解かれた[70]。 一方の間宮は朝風丸[75](17日より潜水母艦迅鯨)に曳航され[76]、水雷艇海防艦壱岐等に護衛されて呉に帰投した[68][77]

なお第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)所属の軽巡洋艦大井は10月上旬シンガポールからアンダマン・ニコバル諸島への輸送任務に従事したあと[78]、間宮被雷時および救援時(10月12日-16日)の時点で第十六戦隊僚艦(足柄北上球磨敷波浦波)と共にペナン島マラッカ海峡)に停泊していた[79]

同年11月5日、第十一水雷戦隊司令官木村進少将指揮下の艦艇(伊勢山城雲鷹龍田)等と共に輸送任務に従事していた空母隼鷹がアメリカの潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232)の雷撃で大破、重巡利根に曳航されて呉に帰投した。12月25日長井満大佐(隼鷹艦長)は佐伯海軍航空隊司令へ転任する[80]。それにともない、大藤大佐は間宮特務艦長と隼鷹艦長を兼務することになった[80]

1944年(昭和19年)2月21日、渋谷清見大佐は隼鷹艦長に任命される[81]。隼鷹は戦線に復帰。大藤大佐は間宮特務艦長と隼鷹艦長の兼務を解かれた[81]

4月1日より、マリアナ諸島への輸送を目的とした松輸送に参加する(東松4号船団)[82]。第2護衛船団司令官清田孝彦少将は白露型駆逐艦6番艦五月雨旗艦とし、護衛艦10隻(途中合流2隻《朝凪、第3号海防艦》を含む)と間宮以下輸送船26隻(途中合流1隻を含む)を指揮して東京湾を出撃した[83]。 4月3日午後、貨物船東征丸が米潜水艦の雷撃で沈没した[82][84]。 4月8日、間宮以下パラオ行輸送船団は護衛艦3隻(海防艦福江第二号海防艦第三号海防艦)と共に五月雨指揮下の本隊と分離、パラオに向かった[85][86]。 4月13日、間宮以下のパラオ進出隊はパラオに到着した[87]。 なお松四号輸送船団の任務を終えた五月雨は、アメリカの潜水艦ハーダーの雷撃で撃沈された駆逐艦(4月13日沈没)の代艦として第三水雷戦隊(旗艦夕張)指揮下に入り、パラオ諸島輸送作戦に参加[88]、夕張の沈没に遭遇することになった。

5月5日、間宮は東シナ海でアメリカの潜水艦スピアフィッシュ (USS Spearfish, SS-190) の雷撃で損傷しているが、沈没は免れた。 6月10日、大藤(間宮艦長)は呉海軍港務部員を命じられ、佐世保海軍港務部長清水正心大佐が港務部長と間宮特務艦長を兼務する[89]

8月29日、軽巡洋艦北上艦長加瀬三郎大佐は間宮特務艦長に任命される[90]。北上はイギリスの潜水艦テンプラー英語版の雷撃で大破し、佐世保で修理に従事していた。間宮艦長と港務部長を兼務していた清水大佐は、間宮艦長のかわりに北上艦長を兼務することになった[90]

1944年(昭和19年)12月20日、間宮はサイゴンからマニラ方面へ糧食輸送に従事中、海南島東方の南シナ海においてアメリカの潜水艦シーライオンⅡ (USS Sealion, SS-315)の雷撃で撃沈された。凍てつく海に投げ出された船員のほとんどが低体温症のため命を落とし、救助された間宮の船員も次々と命を落とした結果、生還できたのはわずか6人だった。 1945年(昭和20年)2月10日、運送艦籍より削除[91]。また駆逐艦清霜等と共に除籍された[92]

戦後[編集]

1983年(昭和58年)11月20日、間宮の生存者ら有志の手により間宮の慰霊碑呉市長迫公園に建てられた。間宮の建造から沈没までの犠牲者502柱が合祀されている。

2015年(平成27年)12月2日放送の歴史秘話ヒストリア『お菓子が戦地にやってきた~海軍のアイドル・給糧艦間宮~』で間宮が取り上げられ、間宮の生存者と戦死した船員の家族が出演した[93]

艦長[編集]

軍都・呉市の長迫公園(旧海軍墓地)にある、間宮の慰霊碑

※脚注なき限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長
  1. 大谷四郎 大佐:1923年12月1日[30] - 1924年7月15日[33]
特務艦長
  1. 大谷四郎 大佐:1924年7月15日[33] - 10月25日[34]
  2. 片山登 中佐:1924年10月25日[34] - 1925年12月1日[37]
  3. 山口清七 大佐:1925年12月1日[37] - 1926年11月1日[38]
  4. 藤沢宅雄 中佐:1926年11月1日[38] - 1927年11月15日[39]
  5. 入江淵平 中佐:1927年11月15日[39] - 1928年12月10日[40]
  6. 合葉庄司 大佐:1928年12月10日[40] - 1929年11月30日[41]
  7. 小島謙太郎 大佐:1929年11月30日[41] - 1930年11月15日[42]
  8. 藤森清一朗 中佐:1930年11月15日[42] - 1931年12月1日[43]
  9. 富田貴一 大佐:1931年12月1日[43] - 1932年12月1日[44]
  10. 加藤正 大佐:1932年12月1日[44] - 1933年11月15日[45]
  11. 鈴木義尾 大佐:1933年11月15日[45] - 1934年5月25日[46]
  12. 佐々木清恭 大佐:1934年5月25日[46] - 1934年11月15日[50]
  13. 青柳宗重 大佐:1934年11月15日[50] - 1936年3月2日[51]
  14. 柿本権一郎 大佐:1936年3月2日[51] - 12月1日[53]
  15. 星野応韶 大佐:1936年12月1日[53] - 1937年11月15日[47]
  16. 秋山門造 中佐/大佐:1937年11月15日[47] - 1938年12月15日[55]
  17. 三坂直廉 大佐:1938年12月15日[55] - 1939年11月15日[56]
  18. 野村留吉 大佐:1939年11月15日[56] - 1940年10月15日[57]
  19. 田村保郎 中佐/大佐:1940年10月15日[57] - 1941年7月1日[60]
  20. 福吉保夫 大佐:1941年7月1日[60] - 11月5日[61]
  21. 萬膳三雄 大佐:1941年11月5日[61] - 1942年10月3日[64]
  22. 大藤正直 大佐:1942年10月3日[64] - 1944年6月10日[89]
  23. (兼)清水正心 大佐:1944年6月10日[89] - 1944年8月29日[90](本職:佐世保海軍港務部長)
  24. 加瀬三郎 大佐:1944年8月29日[90] - 1944年12月21日 戦死、同日付任海軍少将[94]

脚注[編集]

  1. ^ 『写真日本の軍艦第13巻』34頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「給糧艦間宮現状 附冷凍魚の還元及取扱法」画像5,8,9,10。
  3. ^ a b c d e f g C13071993000「巻1/第6類 機密保護」画像7、艦船要目公表範囲。
  4. ^ a b c d e 『軍艦基本計画資料』Sheet27。
  5. ^ a b c d e f g h 「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その二」
  6. ^ 「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」『日本補助艦艇物語』366頁、369頁。
  7. ^ a b #艦船要目(S1512)p.7『(艦名)間宮|(艦種)運送艦|長(米)144.78|幅(米)18.59|喫水(米)8.43|排水量(噸)(基準)15,820|速力(節)14.0|短艇數7|(製造所)神戸川崎造船所|起工年月日 大正11-10-25|進水年月日12-10-26|竣工年月日13-7-15|大砲14c/m…2 8c/m高角砲…2|發射管 |探照燈1|機械(種類)直立三段膨張式(數)2|罐(種類)艦本式(數)8|推進器數2|馬力10,000』
  8. ^ a b c #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.192『間宮(まみや) 艦種特務艦(運送艦) 艦名考岬名に採る。間宮海峡は樺太韃靼海峡の最狭部なり。 ―要目― 長114.78米/幅18.59米/吃水8.43米/排水量15,820噸/機關 直立三聯機2軸/馬力10,000/速力14/兵装 14糎砲2 8糎高角砲2/起工 大正11-10-25/進水 同12-10-26/竣工 13-7-15/建造所 神戸川崎造船所』
  9. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.70『特務艦"間宮 まみや" 全要目{排水量15,820噸 速力14.0節 備砲14糎砲12門 8糎高角砲2門 起工大正11年10月 竣工大正13年7月 建造所神戸川崎造船所} 特務艦と云ふのは戰闘を行ふ艦ではなく云はゞ艦船中の非戰闘員である。しかしこれが又艦隊にとつては非常に大切なのである。燃料、糧食、軍需品を輸送するのがその本業で、これが圓滑迅速に行はれなかつたら到底艦隊は活潑な行動を續けることは出來ないからである。 間宮は特務艦の中でも運送艦で、又その中の給糧艦である。米麥の倉庫は元より生糧品の大貯蔵庫を始め凡ゆる給糧装置は遺憾なく設備されてゐる。全長144.78米、幅18.59米、平均吃水8.43米。 尚特務艦には"青島せいたう" "洲崎すのさき" "室戸むろと" "野島のじま" "知床しれとこ" "襟裳えりも" "佐多さた" "鶴見つるみ" "尻矢しりや" "石廊いらう" "隠戸おんど" "早鞆はやとも" "鳴戸なると"以上計14隻の運送艦の外に"朝日あさひ" "敷島しきしま" "富士ふじ"以上3隻の練習特務艦、"摂津せつつ"標的艦、"膠州こうしう"測量艦、"大泊おほとまり"砕氷艦などがありその合計20隻、排水量合計は227,477噸である。』
  10. ^ #日本補助艦艇物語226頁『(8)給糧艦 間宮』
  11. ^ a b c d e f #日本補助艦艇物語227頁
  12. ^ #リバイバル戦記コレクション6163頁
  13. ^ a b c d e f #日本補助艦艇物語228頁
  14. ^ #川崎造船所四十年史p.81『大正十年十一月十七日、この日は當時世界列強注視の的であつた戰艦加賀の進水式を擧行せられた日である。當日は、御名代として伏見宮博恭王殿下の御台臨あらせられたる外徳に東宮武官の御差遣をも添うし、尚當日この盛儀を拜観せんと早朝より式場へ詰めかけた人々は實に無慮十萬と称せられた。』
  15. ^ #川崎造船所四十年史pp.81-82『斯くて、ワシントン會議に於ける軍備制限協約は成立し、其結果我海軍の既定計畫たる八八艦隊に属する主力艦の建造は、遂にこれを中止するの已むなきに至った。即ち我社に於て既に進水を了し、當時艤装中であつて竣工も間近き戰艦加賀、幷に當時起工後着々工事進捗中であつた巡洋戰艦愛宕の建造は何れも大正十年二月五日遂に中止を命ぜられ…』(中止令は大正11年2月5日)
  16. ^ #達大正11年2月p.6『達第二十二號 大正十年度軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ水雷母艦一隻及特務艦二隻ニ左ノ通命名ス 大正十一年二月十五日 臨時海軍大臣事務管理 内閣總理大臣 子爵 高橋是清 水雷母艦 長鯨チャウゲイ 特務艦 隠戸オンド 特務艦 間宮マミヤ』
  17. ^ #達大正11年9月p.11『達第百六十八號 特務艦類別等級別表中運送艦ノ欄「、早鞆」ノ次ニ「、隠戸」「、間宮」ヲ加フ 大正十一年九月十五日 海軍大臣 男爵 加藤友三郎』
  18. ^ #川崎造船所四十年史p.82『ワシントン軍縮會議以後、軍艦の建造は一時中止の状態であつたが、大正十一年に入り特務艦間宮及隠戸の二隻、大型潜水艦三隻及一等巡洋艦加古建造の命を受け、又軽巡洋艦鬼怒は好成績を以て進水した』
  19. ^ #造機部長会議1(2)pp.7-9『新造中止艦ヨリ利用シ得ベキモノ(大正一一.三.一九調)|加賀(略)混燃罐|四|四缶川崎給糧船用/油専燃罐|八|六缶榛名用 二缶霧島用』
  20. ^ #造機部長会議1(2)pp.7-9『愛宕(略)混燃罐|八|四缶川崎給油船用 四缶川崎給糧船用/油専燃罐|十一|四缶霧島用 六缶金剛用 一缶余分』
  21. ^ #間宮製造一件p.9『大正十一年十月廿五日午前十時三十五分神戸局發 午前十一時海軍省箸 發信者 川崎造船所長 受信者 艦政本部長 電報譯 特務艦 間宮 十時起工シマシタ。』
  22. ^ #間宮製造一件p.5『特務艦間宮工事進捗豫定概括表(略)九 引渡|仝十二年十月三十一日』
  23. ^ #間宮製造一件p.12『給糧第七號 大正十二年五月三日(略)特務艦間宮進水延期ノ件 特務艦間宮進水ハ大正十一年七月十四日附給糧第三號ヲ以テ拜提大正十一年九月二日官房機密第一二六三號ノ二ヲ以テ御認許相蒙リ候更進捗豫概括表ノ通リ來ル六月上旬擧行ノ豫定ニ有之候處目下軍艦加賀ニ装備中ノ本艦用汽罐未タ御下附無之爲進水期日決定致兼候間右何卒御認許被成下度此段奉願上候也(以下略)』
  24. ^ a b c #日本空母物語236-237頁『加賀』
  25. ^ #大正12流用pp.2-3『十月三十日大臣 横鎮長官宛 旧航空母艦天城用混焼罐流用ノ件 其ノ府工廠ヲシテ旧航空母艦天城用混燃罐四個完成ノ上給糧舩間宮用トシテ株式會社川崎造船所ヘ送附セシムヘシ(以下略)』
  26. ^ #間宮製造一件pp.21-22『給糧第一三號 大正十二年十一月廿一日(略)特務艦間宮改訂工事進捗概括表拜提ノ件 大正十一年九月六日附官房機密第一二六三號ノ二ヲ以テ御認許ヲ蒙リ候特務艦間宮工事進捗概括表ハ其後官ノ御都合ニ依リ本艦用混燃罐御官給延引相成候爲メ實施不可能ト相成居候處今回天城混燃罐御下附被下候ニ就テハ別紙改定概括表作戦拜提仕候間何卒御認許被下度此段奉願上候也 追テ增設冷藏庫用冷却機ハ未ダ御下附無之右御下附期日ノ如何ニ依ツテハ本概括表ニ變更ヲ生スルヤモ不知候間何卒左様御諒承被成下度此段申添候(以下略)』
  27. ^ 海軍公報 第3304号 大正12年10月27日(土)海軍大臣官房 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C12070288900 『○特務艦進水 神戸川崎造船所ニ於テ建造ノ特務艦間宮十月二十六日午前八時進水セリ』
  28. ^ #日本軍艦集2600年版p.69『運送艦 間宮(まみや) 基準排水量15,820噸、長さ144.78米、幅18.59米、平均吃水8.43米、速力14節、備砲14糎砲2門、起工大正11年10月25日、進水大正12年10月26日、竣工大正13年7月15日、建造處神戸川崎造船所―運送艦は合計13隻、知床、襟裳、佐多、鶴見、尻矢、石廊、隠戸、早鞆、鳴戸、洲崎、室戸、野島の諸艦がある。』
  29. ^ 海軍辞令公報号外 大正12年12月1日(土)海軍省人事局 p.11』 アジア歴史資料センター Ref.C12070289300 
  30. ^ a b 大正12年12月4日付 官報第3385号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2955532 p.11
  31. ^ 海軍公報 第3339号 大正12年12月10日(月)海軍大臣官房 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C12070289600 『○軍艦進水 神戸川崎造船所ニ於テ建造ノ軍艦神通本月八日午前八時進水セリ』-『○事務所設置 間宮艤装員事務所ヲ本月六日神戸川崎造船所内ニ設置ス(間宮艤装員長)』
  32. ^ 海軍公報 第3512号 大正13年7月15日(火)海軍大臣官房 p.4』 アジア歴史資料センター Ref.C12070292400 『○事務所閉鎖 特務艦間宮艤装員事務所ヲ川崎造船所内ニ設置中ノ處本月十二日限リ閉鎖セリ』
  33. ^ a b c 大正13年7月17日付 官報第3570号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2955718 p.2
  34. ^ a b c 大正13年10月27日付 官報第3654号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2955802 p.6
  35. ^ 間宮の次に建造された糧食艦伊良湖の竣工は開戦3日前の1941年(昭和16年)12月5日だった。
  36. ^ #日本補助艦艇物語229頁
  37. ^ a b c 大正14年12月2日付 官報第3982号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2956132 p.8
  38. ^ a b c 大正15年11月1日付 官報第4258号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2956408 p.4
  39. ^ a b c 昭和2年11月16日付 官報第266号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2956726 p.8
  40. ^ a b c 昭和3年12月11日付 官報第587号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2957052 p.7
  41. ^ a b c 昭和4年12月02日付 官報第878号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2957345 pp.11,12
  42. ^ a b c 昭和5年11月17日付 官報第1166号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2957633 p.3
  43. ^ a b c 昭和6年12月2日付 官報第1478号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2957946 p.10
  44. ^ a b c d 昭和7年12月2日付 官報第1778号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958249 p.9
  45. ^ a b c d 昭和8年11月16日付 官報第2064号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958537 p.9
  46. ^ a b c d 昭和9年5月26日付 官報第2218号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958693 p.7
  47. ^ a b c d 昭和12年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(号外) 第91号 pp.21,23』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  48. ^ 昭和13年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第261号 p.47』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500 
  49. ^ 昭和18年7月24日(発令7月22日付)海軍辞令公報(部内限)第1176号 p.33』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092200 
  50. ^ a b c 昭和9年11月16日付 官報第2364号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958840 p.9
  51. ^ a b c d 昭和11年3月4日付 官報第2749号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959229 p.6
  52. ^ 昭和11年12月2日付 官報第2976号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959458 p.21
  53. ^ a b c d 昭和11年12月2日付 官報第2976号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959458 p.21
  54. ^ 昭和12年05月21日付 官報第3112号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959595 p.7
  55. ^ a b c 昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 pp.16,17』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  56. ^ a b c 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限) 第402号 pp.29,37』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  57. ^ a b c d 昭和15年10月15日(発令10月15日付) 海軍辞令公報(部内限)第543号 pp.32,33』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  58. ^ 昭和18年5月19日(発令5月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1117号 p.28』 アジア歴史資料センター Ref.C13072091000 
  59. ^ 昭和18年12月6日(発令12月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1274号 p.41』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094700 
  60. ^ a b c 昭和16年7月1日(発令7月1日付) 海軍辞令公報(部内限) 第665号 pp.2,3』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600 
  61. ^ a b c 昭和16年11月5日(発令11月5日付) 海軍辞令公報(部内限)第741号 p.29』 アジア歴史資料センター Ref.C13072083000 
  62. ^ 昭和17年4月10日(発令4月10日付)海軍辞令公報(部内限)第841号 p.14』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085100 
  63. ^ 昭和19年9月5日(発令9月1日付)海軍辞令公報(甲)第1585号 p.26』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100800 
  64. ^ a b c 昭和17年10月3日(発令10月3日付)海軍辞令公報(部内限)第956号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200 
  65. ^ #S1801二水戦日誌(6)pp.32-33『AdB指揮官|20日1020 4sd2sd各司令官春雨駆逐艦長|一.春雨ハ21日「トラック」発横須賀行船団ニ加入シ横須賀ニ回航修理ニ従事スベシ 二.2sd司令官ハ麾下駆逐艦1隻ヲ派遣シ右船団(礁外150浬附近迄)ノ護衛ニ任ゼシムベシ』
  66. ^ #S1805四水戦日誌(1)p.68『21日/一.春雨1300横須賀ニ向ケトラック発』
  67. ^ #S1801二水戦日誌(6)p.15『21日|一.0430清波「トラック」着 二.1300大波船団(間宮外六隻)春雨(護衛艦夕月)ヲ礁外150浬迄護衛シ「トラック」発』
  68. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)417頁
  69. ^ #S1806呉防戦日誌(7)p.3『一二|〇五三〇|北緯二八-三九|東経一三七-二八|間宮雷撃ヲ受 被害アルモ沈没ノ虞ナシ』
  70. ^ a b c d #S1804十四戦隊日誌(4)pp.10-11『(2)第二輸送隊 GF信電令作第二十一號及同第二十二號ニ依リ第十四戰隊護国丸清澄丸山雲十月十一日〇五〇〇上海ニ向ケ「トラツク」発/十二日二二三〇GF電令作第七六〇號(GFキデ一二一九〇一一二)ニ依リ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能、二八度二一分北一三六度五七分(十二日一二〇〇)漂泊中ノ間宮曳航ノ爲五十鈴ヲ分離現場ニ急行セシム/二海護衛電令作第六三號(2KEgキデ五八九)ニ依リ間宮ノ曳航ハ朝風丸之ヲ行ヒ、五十鈴ハ十五日一二〇〇間宮ノ推定位置ニ到着セルモ見当ラズ尚燃料残額四三〇T同日一五〇〇 五十鈴ハ朝風丸曳航ノ間宮ニ合同同二三二〇單独徳山ニ急速回航燃料補給ノ上十七日午後間宮ニ合同ノ豫定ニテ警戒ヲ止メ現場発/GF電令作第七六六號(GFキデ一六一四〇八)ニ依リ十六日一四〇八 五十鈴ハ間宮警戒任務ヲ解カル』
  71. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)pp.35-36『別表(行動概要)』
  72. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.27『一二(天候略)第一輸送隊呉淞発/間宮救援ノタメ第二輸送隊ハ二二三〇 五十鈴ヲ分離急行セシム』
  73. ^ #S1806呉防戦日誌(7)p.46『一五日一八三二|呉防戰司令官|十五日二〇四〇壱岐鷺 三十一掃司令 多摩丸大井丸七玉丸艇長 伯空司令(略)|呉防戰機密第一五八三二番電 電令作第三六七號 一.朝風丸〔間宮ヲ曳航護衛潮〕十五日正午北緯二九度四分東経一三五度五分針路二九五度速力四.五節/二.壱岐鷺多摩丸大井丸七玉丸ハ速ニ出港右ノ會合護衛ニ任ズベシ/三.伯空司令ハ右警戒ニ任ズベシ』
  74. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.17『十五日一五〇〇五十鈴ハ二海護電令作第六三號ニ依リ朝風丸曳航ノ間宮ニ合同、同日二三二〇單独徳山ニ回航燃料補給/十六日一四〇八GF電令作第七六六號ニ依リ間宮警戒任務ヲ解カレ同日二一三〇徳山發十八日一七〇〇上海着当隊ニ合同』
  75. ^ #S1806呉防戦日誌(7)p.45『十五日一六四七呉鎮(長官)|(宛略)電令作第三六號 朝凪丸〔間宮ヲ曳航〕ニ對シ速ニ護衛ヲ開始セヨ』
  76. ^ #S1806呉防戦日誌(8)p.1『十六日一〇四〇呉鎮(長官)|十六日一三〇六呉鎮部下艦所〔4F長官、GF長官、五十鈴 間宮 朝風丸 大阪警司令〕|呉鎮機密第一六一〇四〇番電 信電令第四六號 一.朝風丸ハ間宮ヲ曳航十月十八日〇六〇〇深島着ノ見込ミ/二.迅鯨ハ豊後水道ヨリ呉迄間宮ヲ曳航スベシ/三.呉港務部長及徳山港務部長ハ曳船各一隻ヲ派出間宮曳航ニ関シ迅鯨艦長ノ指揮ヲ受ケシムベシ』
  77. ^ #S1806呉防戦日誌(7)p.14『一八|間宮|壱岐 鷺|大井丸 七玉丸 多摩丸|入泊航路上|敵潜ノ雷撃ヲ受ケ朝風曳航』
  78. ^ #S1808十六戦隊日誌(3)p.5『(二)陸兵輸送 左ニ依リ麾下各艦ヲシテ印度洋離島ニ対シ陸軍部隊ノ急速輸送ニ任ゼシメタリ(略)(2)大井 自八日至十二日 昭南「ニコバル」間(16Sキデ〇六一七一五)/(3)北上 大井 自二十日至二十五日「ベラワン」「アンタマン ニコバル」間(16S電令作第四號)(以下略)』
  79. ^ #S1808十六戦隊日誌(3)p.7『(二)麾下艦船部隊行動(十月)』
  80. ^ a b 昭和18年12月27日(発令12月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1287号 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 
  81. ^ a b 昭和19年2月22日(発令2月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1335号 p.43』 アジア歴史資料センター Ref.C13072095900 
  82. ^ a b #叢書46海上護衛戦364頁『東松四号船団』
  83. ^ #東松4号船団p.3『第一.経過概要〔別圖第一、第二参照〕一.東松四號船團部隊護衛艦五月雨(指揮官乗艦)鵯 第二號海防艦 天草 福江 隠岐 御藏 驅潜五十及輸送船二十五隻ハ夫々出撃準備ヲ完成三月三十一日横濱沖ニ集合編制ヲ了シ(第三號海防艦ハ四月一日、朝凪ハ四月二日、第一四九號輸送艦ハ四月五日夫々航海中船團ニ合同)同日東京湾ニ於テ船團運動其ノ他ノ諸訓練ヲ實施シ翌四月一日一一〇〇「サイパン」ニ向ケ東京湾ヲ出撃概ネ列島線ノ西側航路ヲ採リ速力八節ニテ南下セリ』
  84. ^ #東松4号船団p.3『(一)三日一四五七 A東征丸(PP行二八四一噸)被雷撃沈没』
  85. ^ #東松4号船団p.4『三.船團部隊中「パラオ」行部隊(護衛艦福江 第二號海防艦 第三號海防艦及間宮外輸送船四隻)ハ八日一六三〇 「トラック」及大宮島行部隊(護衛艦天草 御藏 驅潜五十及杵埼外輸送船八隻)ハ九日二〇〇〇何レモ本隊ト分離シ夫々目的ニ向ヒタルトコロ十日附東松四號船團部隊ヨリ除カレ第二海上護衛隊司令官ノ指揮下ニ入ラシメラル』
  86. ^ #東松4号船団p.24『一六三〇|北緯一七度四五分東経一四三度一四分ニ於テ「パラオ」進出部隊 間宮神靖丸大安丸天竜川丸第五眞盛丸 護衛艦、福江 二號 三號海防艦分離パラオニ向フ』
  87. ^ #東松4号船団pp.36-37『四.一三|〇八三〇/東松四號船團船長研究會(於朝凪)一三日及一四日両日船團部隊ノ信號訓練及丁直接護衛部隊ノ略語訓練ヲ行フ』-『一六〇〇|間宮二號三號海防艦福江大安丸天竜川丸及第五眞盛丸PPヨオ水道着』
  88. ^ #S1912三水戦日誌(5)p.4『三.作戰輸送ニ従事スベキ兵力 第三水雷戰隊司令部 夕張鬼怒第三十駆逐隊(夕月)浦波五月雨第一四九號特設輸送艦(註)雷参加予定ノ處同艦遭難ニ付五月雨ヲ加ヘラル』
  89. ^ a b c 昭和19年6月10日(発令6月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1510号 p.21』 アジア歴史資料センター Ref.C13072099500 
  90. ^ a b c d 昭和19年9月2日(発令8月29日付)海軍辞令公報(甲)第1582号 p.3』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100800 
  91. ^ #内令昭和20年2月(2)p.20『内令第一〇九號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年二月十日 海軍大臣 運送艦ノ部中「間宮、」ヲ削ル』
  92. ^ #内令昭和20年2月(2)pp.21-22『内令第一一五號|横須賀鎮守在籍 驅逐艦 清霜|呉鎮守府在籍 驅逐艦 桑 驅逐艦 呉竹|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 桃 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 第五十四號海防艦 第六十四號海防艦|舞鶴鎮守府在籍 第二十八號海防艦 右帝國海防艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第八號輸送艦 第百六號輸送艦|呉鎮守府在籍 第百四號輸送艦 第百四十九號輸送艦 第百五十九號輸送艦|佐世保鎮守府在籍 第十二號輸送艦 第百三十一號輸送艦 右帝國輸送艦籍ヨリ除カル|舞鶴鎮守府在籍 水雷艇 千鳥 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|呉鎮守府在在籍 特務艦 間宮 右帝國特務艦籍ヨリ除カル 昭和二十年二月十日 海軍大臣』
  93. ^ お菓子が戦地にやってきた~海軍のアイドル・給糧艦「間宮」~、歴史秘話ヒストリアHP、2015年12月23日閲覧
  94. ^ 昭和20年4月21日(発令12月21日付)海軍辞令公報(甲)第1779号 p.24』 アジア歴史資料センター Ref.C13072104400 

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』 海軍研究社、1935年5月。
    • 川崎造船所 編 『川崎造船所四十年史』 川崎造船所、1936年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1937年2月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『日本軍艦集 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『大正11年達完/2月』。Ref.C12070079900。
    • 『大正11年達完/9月』。Ref.C12070080900。
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月 秘海軍公報/2月(2)』。Ref.C12070503900。
    • 『加賀回航の件』。Ref.C04016181600。
    • 『造機部長会議1(1)』。Ref.C08050393300。
    • 『造機部長会議1(2)』。Ref.C08050393400。
    • 『特務艦間宮製造一件』。Ref.C08051092000。
    • 『大正12年 公文備考 巻22 艦船/流用』。Ref.C08050715800。
    • 『大正12年 公文備考 巻109 物件』。Ref.C08050889700。
    • 『大正13年 公文備考 巻23 試験(9)』。Ref.C08051096500。
    • 『特務艦間宮糧食配給艇新造搭載の件(1)』。Ref.C04015127000。
    • 『特務艦間宮糧食配給艇新造搭載の件(2)』。Ref.C04015127100。
    • 『給糧艦間宮現状 附冷凍魚の還元及取扱法』。Ref.C04015180200。
    • 『昭和15年12月25日現在10版 内令提要追録第8号/ 原稿巻1/第6類 機密保護』。Ref.C13071993000。
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030100700。
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030116900。
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030052400。
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030052500。
    • 『昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 第16戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030056600。
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030368700。
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(8)』。Ref.C08030368800。
    • 『昭和17年4月10日~昭和19年4月24日 第2海上護衛隊司令部戦時日誌(6)』。Ref.C08030143000。
    • 『昭和19年2月1日~昭和19年4月29日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030107800。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』 光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語』 光人社、1993month=12。ISBN 4-7698-0658-2
  • 福田啓二編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年。 ISBN 4-87565-207-0
  • 藤田千代吉ほか 『証言 昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション6 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』 光人社、1990年7月。ISBN 4-7698-0504-7
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書46 海上護衛戦』 朝雲新聞社、1971年5月。
    • 付表第四その二「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その二 潜水艦、水雷艇、掃海艇、特務艦、特務艇、新造艦船」(軍極秘「昭和十二年度海軍省年表」より)。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6

関連項目[編集]