大井 (軽巡洋艦)
大井 | |
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基本情報 | |
建造所 | 川崎造船所 |
運用者 |
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艦歴 | |
発注 | 1917年度計画 |
起工 | 1919年11月24日 |
進水 | 1920年7月15日 |
就役 | 1921年10月3日 |
最期 | 1944年7月19日に戦没 |
除籍 | 1944年9月10日 |
要目 | |
排水量 | 6,900トン |
全長 | 152.4m |
最大幅 | 14.17m |
機関 | ブラウン式オールギヤードタービン×4基、4軸推進 |
速力 | 33.6ノット |
乗員 | 446名[1] |
兵装 |
50口径14cm単装砲4基 25mm連装機銃2基 61cm魚雷4連装発射管10基40門 |
上記は重雷装艦へ改装後の諸元 |
大井(おおい/おほゐ)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦。球磨型の4番艦。その艦名は、静岡県の中部を流れる大井川から因んで命名された。大井の艦名はローマ字表記(英語表記)にした場合「Oi」と僅か2文字であるため、鵜来型海防艦の伊王と並び、艦名としては世界一短いものだとされている。
目次
艦歴[編集]
大井は就役から長らく練習艦として使用された。以降、同型艦の北上と共に改装されたが、太平洋戦争開戦後は航空主兵の流れから艦隊決戦は起こらなかったため、重雷装の発射管を一部撤去して高速輸送艦へ改装され、その後は輸送任務に従事した。
初期[編集]
大井は1919年11月24日に起工し、1920年7月15日に進水、1921年10月3日に神戸川崎造船所において竣工した。1928年12月10日から1937年8月まで、江田島の海軍兵学校の練習艦として使用された。
1937年8月、大井は第二次上海事変の際に中国沿岸の哨戒に当たった。その後、日中戦争の拡大に伴い、大井は中国中部への日本軍部隊の輸送の掩護を行ったが、1937年12月から1939年末までは再び海軍兵学校の練習艦として使用された[2]。
大井は1941年8月25日、舞鶴海軍工廠にて重雷装艦への改装工事を受けた。九三式酸素魚雷の威力を最大限度まで高めるために、4連装魚雷発射管を10基40門を搭載した。これは、重雷装艦による特別夜戦部隊を作るという海軍の計画によるものであった。9月30日に改装工事が完了し、大井と北上は第1艦隊第9戦隊に配属された[2]。
太平洋戦争緒戦[編集]
1941年12月7日の真珠湾攻撃で大井は、広島湾の柱島泊地から小笠原諸島まで連合艦隊の戦艦の護衛を行った。
1942年1月12日、連合艦隊参謀長の宇垣纏少将が大井を視察し、重雷装艦を使用した海軍の計画に強い不同意を示し、海軍の戦術の変更を求めた[3]。軍令部がこの件について協議している間、大井は1月末から4月半ばまで広島港と澎湖諸島馬公の輸送の護衛任務に就いた。
5月29日のミッドウェー海戦では北上とともに第一艦隊(司令長官:高須四郎中将)第九戦隊に配属され、無事に横須賀鎮守府に6月17日に帰投した。
高速輸送艦として[編集]
8月から9月にかけて、大井と北上は高速輸送艦へ改装された。10基40門の4連装魚雷発射管は8基32門に減らされた。大発動艇2艘、3連装96式25mm高角機銃2基、爆雷投下軌条を装備した[4]。その後、大井は舞鶴鎮守府第41特別陸戦隊をトラック諸島へ輸送した。
10月末から12月にかけて、部隊や物資をトラックやマニラからニューブリテン島ラバウルやブーゲンビル島ブインへ輸送した。11月21日、第9戦隊は解隊し、大井と北上は連合艦隊直下に配属された。この頃、更に4連装魚雷発射管を4基下ろして4基16門とし、大発を増設したとされる[4]。12月24日、大井は呉海軍工廠へ整備のために帰投した[2]。
1943年1月12日から、ニューギニアの戦いにおける日本軍の増援作戦に関わった。1月には陸軍第20師団を釜山からパラオ経由でニューギニア島ウェワクへ輸送、2月には第41師団を青島からウェワクへ輸送した[2]。
3月15日、大井は南西方面艦隊に配属された。4月にスラバヤからニューギニア島カイマナへの輸送船2隻の護衛、5月にスラバヤからアンボン島とカイマナへの輸送船2隻の護衛を行った。6月23日、マカッサルにて米第5空軍第319爆撃中隊のB-24爆撃機による攻撃を受けたが、損傷はなかった[2]。
7月1日より、スラバヤを拠点として警備を行った。ジャワ海の哨戒の後、8月にシンガポールのセレター海軍基地で補修を受けた。
インド洋での活動[編集]
1943年8月末から1944年1月末まで、大井と北上は4個部隊をシンガポールとペナンからインド洋のアンダマン諸島とニコバル諸島へ輸送した。
2月27日から、大井は軽巡洋艦鬼怒、駆逐艦浦波・天霧・敷波とともにインド洋で通商破壊に従事する重巡洋艦利根・筑摩・青葉の護衛を行ったが、4月末まではほとんどシンガポール近郊やボルネオ島のバリクパパン・タラカンにいた。5月は主としてタラカン・パラオ・ソロンの間で部隊の輸送を行った[2]。
6月の渾作戦には赤痢患者発生のため参加できず[5]、復帰後は南西方面艦隊の移転輸送のためスラバヤからマニラへ2度航海[6]。その任務終了後、大井は7月18日にシンガポールへ向けマニラを離れた[7]。だが7月19日、香港の南570海里の南シナ海でアメリカの潜水艦フラッシャー(USS Flasher, SS-249) から発見された。大井が距離1400ヤード(1300m)を通過したところでフラッシャーが艦尾から魚雷を4発発射し、2発が大井の左舷に命中、1発は不発だったがもう1発が大井の機関室で爆発した。フラッシャーはさらに、距離3500ヤードで艦首から4発の魚雷を撃ったが、それは全て外れた。駆逐艦の敷波が大井を曳航しようとしたが、17時25分、北緯13度12分 東経114度52分 / 北緯13.200度 東経114.867度の地点において大井は艦尾から沈没した[8]。敷波は大井の柴勝男艦長と368人の大井の乗組員を救助したが、153人が戦死した。
1944年9月10日、大井は除籍された。
歴代艦長[編集]
※『艦長たちの軍艦史』141-143頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長[編集]
- 丸尾剛 大佐:1920年9月1日 - 1921年9月20日[9]
艦長[編集]
- 丸尾剛 大佐:1921年9月20日[9] - 1922年11月10日[10]
- 浜野英次郎 大佐:1922年11月10日[10] - 1923年12月1日
- 橋本才輔 大佐:1923年12月1日 - 1924年5月10日
- 松下薫 大佐:1924年5月10日 - 1924年12月1日
- 枝原百合一 大佐:1924年12月1日 - 1925年5月1日[11]
- 東林岩次郎 大佐:1925年5月1日[11] - 1925年11月20日[12]
- 秋山虎六 中佐:1925年11月20日 - 1927年11月15日
- 日比野正治 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日
- 糟谷宗一 大佐:1928年12月10日 - 1929年4月1日
- 片桐英吉 大佐:1929年4月1日 - 1929年11月30日
- 塚原二四三 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
- 岡田偆一 大佐:1930年12月1日 - 1931年4月1日
- 新見政一 大佐:1931年4月1日 - 1931年10月15日
- 太田泰治 大佐:1931年10月15日 - 1932年12月1日
- 山内大蔵 大佐:1932年12月1日 - 1934年6月1日
- 平岡粂一 大佐:1934年6月1日 - 1935年11月15日
- 山口儀三朗 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
- 志摩清英 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
- 安場保雄 大佐:1937年12月1日 - 1939年1月10日
- 武田勇 大佐:1939年1月10日 - 1939年11月15日
- 殿村千三郎 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月15日
- 金桝義夫 大佐:1940年11月15日 - 1941年9月1日
- 森下信衛 大佐:1941年9月1日 - 1942年4月10日
- 成田茂一 大佐:1942年4月10日 -
- 長井武夫 大佐:1942年10月3日 -
- 相馬信四郎 大佐:1942年12月24日 - 1943年7月23日
- 川井繁蔵 大佐:1943年7月23日 - 1944年2月12日
- 柴勝男 大佐:1944年2月12日 -
同型艦[編集]
脚注[編集]
- ^ 昭和16年6月7日付 海軍内令 第662号制定、「軍艦大井特別定員表」。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070157300 で閲覧可能。
- ^ a b c d e f [1] CombinedFleet.com: Oi Tabular Record of Movement;
- ^ Ugaki, Fading Victory ; page 74 (宇垣纏「戦藻録」の英訳版)
- ^ a b 日本の軍艦、110ページ
- ^ 日本軽巡戦史、525ページ
- ^ 日本軽巡戦史、527-528ページ
- ^ 日本軽巡戦史、529ページ
- ^ Roscoe, United States Submarine Operations in World War II ; page 383
- ^ a b 『官報』第2743号、大正10年9月21日。
- ^ a b 『官報』第3085号、大正11年11月11日。
- ^ a b 『官報』第3807号、大正14年5月4日。
- ^ 『官報』第3974号、大正14年11月21日。
参考文献[編集]
- 秋元実・編 『ウォーターラインガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版、静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂。JANコード 4945187990224
- 木俣滋郎、『日本軽巡戦史』、図書出版社、1989年
- 雑誌「丸」編集部 『写真|日本の軍艦 第8巻 軽巡Ⅰ』光人社、1990年、ISBN 4-76-980458-X
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 『官報』
関連項目[編集]
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