コンテンツにスキップ

片桐英吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
片桐 英吉
生誕 1885年9月24日
死没 (1972-08-16) 1972年8月16日(86歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1907 - 1943
最終階級 海軍中将
除隊後 航空工業会副総裁
テンプレートを表示

片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1972年8月16日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

[編集]

山形県出身。片桐作吉の長男として生まれる。米沢中学校を経て、1906年11月、海軍兵学校34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科を卒業し、「摂津分隊長、「厳島」分隊長、砲術学校教官などを経て、1918年11月、海軍大学校(甲種16期)を卒業。以後、第2水雷戦隊参謀、軍令部出仕兼参謀、「摂津」砲術長、「出雲」砲術長、海兵教官、海軍省教育局第1課局員などを歴任。

さらに、欧米出張、「大井艦長、「青葉」艦長、教育局第1課長、「榛名」艦長などを経て、1933年11月、海軍少将に進級。以後、佐世保鎮守府参謀長、第2航空戦隊司令官霞ヶ浦海軍航空隊司令などを経て、1937年12月に海軍中将となる。その後、第3戦隊司令官、舞鶴要港部司令官、第4艦隊司令長官、第11航空艦隊司令長官などを歴任し、太平洋戦争開戦時には海軍航空本部長を勤めた。片桐は対英米避戦派であった[1]真珠湾攻撃後の戦備促進会議では「南雲部隊の航空主要幹部を配置転換し、搭乗員養成を速やかに行うべき」との意見を述べたが、採用されなかった[2]。二号零式戦闘機の開発を進めたが、一号に比べ出力向上にこだわり航続距離が大幅に低下したため作戦遂行上問題が続発し、前線指揮官より非難が集中した[3]軍事参議官を経て、1943年3月、予備役に編入された。その後、航空工業会副総裁となった。

戦後、公職追放の仮指定を受けた[4]

米沢海軍武官会会員。

栄典

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『山本五十六再考』p.113
  2. ^ 『ブーゲンビリアの花』p.236
  3. ^ NHK ETV特集 零戦ニ欠陥アリなど
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」28頁。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 衣川宏『ブーゲンビリアの花 山本五十六長官と運命をともにした連合艦隊航空参謀 樋端久利雄の生涯』原書房、1992年。ISBN 4-562-02274-4 
  • 野村實『山本五十六再考』中公文庫、1996年。ISBN 4-12-202579-6