三隈 (重巡洋艦)

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三隈
艦歴
発注 マル1計画
起工 1931年12月24日
進水 1934年5月31日
就役 1935年8月29日
沈没 1942年6月7日
位置 北緯29度20分 東経173度30分 / 北緯29.333度 東経173.500度 / 29.333; 173.500
除籍 1942年8月10日[1]
性能諸元
排水量 基準:11,200トン
全長 200.6 m
全幅 20.6m
吃水 6.9 m(新造時)
機関 ロ号艦本式缶大型8基、同小型2基
艦本式タービン4基4軸
154,056馬力(新造時公試成績)
速力 36.47 ノット (新造時公試成績)
航続距離 14ノットで8,778海里(新造時公試成績)
燃料 重油:2,178t(新造時実測値)
兵員 竣工時定員944名[2]
兵装
(竣工時)
60口径15.5cm3連装砲塔5基
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
61cm3連装魚雷発射管4基
兵装
(主砲換装後)
50口径20.3cm連装砲塔5基
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
61cm3連装魚雷発射管4基
装甲 舷側:100mm 弾薬庫:140mm 甲板:35~60mm
航空機 3機(カタパルト2基)
大破した三隈
大破した三隈

三隈(みくま)は、旧日本海軍重巡洋艦[3]最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)の2番艦[4][5]三菱造船長崎造船所にて建造された[6]。 艦名は大分県日田盆地を流れる三隈川筑後川の一部)に因る[7][8]艦内神社大原八幡宮[9]。 本艦はミッドウェー海戦で沈没し、太平洋戦争で最初に失われた日本海軍の重巡洋艦となった。艦名は海上自衛隊護衛艦に継承された。

艦歴[編集]

建造[編集]

日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田天龍球磨多摩)を以下4隻(最上鈴谷三隈熊野)と置換することにした[10]。 軍艦三隈は1931年(昭和6年)12月24日[11]三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて[12]、計画排水量8,636トン、水線全長190.5m、60口径15.5cm3連装砲塔5基を備えた二等巡洋艦として起工[13][14][15]電気溶接を多用している[16]

1932年(昭和7年)8月1日、正式に『三隈』と命名された[6]。同日附で姉妹艦『最上』や[6]駆逐艦3隻(初春子日若葉)、水雷艇2隻(千鳥、真鶴)、夏島型敷設艇夏島」、伊六八《伊168》伊六九《伊169》等も命名されている[17]。 各艦は艦艇類別等級表に類別、二等巡洋艦最上型一等駆逐艦初春型千鳥型水雷艇一等潜水艦海大六型等が新設された[18]

1934年(昭和9年)5月31日[19]、本艦は米内光政佐世保鎮守府長官や皇族の伏見宮博恭王が見守る中で進水する[20][21]。 6月1日、日本海軍は吉田庸光大佐(当時第7駆逐隊《》司令)を三隈艤装員長に任命する[22]。 6月14日、艤装員事務所を設置[23]。 翌年5月末の完成を目指して艤装工事が行われていたが[24]藤本喜久雄少将 が設計した千鳥型水雷艇友鶴」が転覆する友鶴事件が発生し、藤本の設計による最上型二等巡洋艦の工事も急遽中断された[25]。「最上」を調査したところ船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかり、「三隈」も補強工事を行う[26]。 7月4日、三隈艤装員長と川内型軽巡洋艦1番艦「川内」艦長を入れ替える人事が行われる(吉田大佐は川内艦長へ。川内艦長鈴木田幸造大佐が三隈艤装員長へ)[27]。なお吉田大佐は11月20日より最上型3番艦「鈴谷」艤装員長に任命された[28]

本艦は1935年(昭和10年)8月29日に就役[15][29]。初代の幹部は、鈴木田幸造大佐(艦長)、松田平重朗中佐(副長)、高橋三治少佐(運用長)、中島民部少佐(砲術長)、小原尚少佐(航海長)、桝本要少佐(水雷長)、高内和義少佐(通信長)、指山辰雄機関中佐(機関長)、古河兼義主計少佐(主計長)[30]。同日附で艤装員事務所を撤去[31]。この時点で基準排水量は1万トンを超えていたが、対外的には8,600トン公表のままだった[32][33]

竣工した本艦は第四艦隊に編入されたが、1ヵ月後の9月26日三陸沖にて第四艦隊事件に遭遇した[34]。 11月15日、本艦は第2予備艦に指定[11]。鈴木田(三隈艦長)は高雄型重巡洋艦2番艦「愛宕」艦長に補職、青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」艦長武田盛治大佐が三隈艦長として着任する[35]。「三隈」は11月30日より呉工廠に入渠、修理や調整を行う[11]

1936年(昭和11年)2月5日に出渠、4月1日より第3予備艦となる[11]。12月1日、武田大佐(三隈艦長)は妙高型重巡洋艦3番艦「足柄」艦長へ転任、室戸型給炭艦2番艦「野島」特務艦長や出雲型装甲巡洋艦1番艦「出雲」艦長等を歴任した岩越寒季大佐が三隈艦長に任命される[36]

1937年(昭和12年)5月7日から10月31日にかけて呉工廠に入渠[11]。12月1日、最上型巡洋艦からなる新鋭の第七戦隊が編制され、日本海軍は沢本頼雄少将(当時、海軍艦政本部総務部長)を第七戦隊司令官に任命する[37][11]。同日附で、岩越大佐(三隈艦長)は妙高型重巡洋艦2番艦「那智」艦長へ転任[37]入船直三郎大佐(海軍砲術学校教頭)が三隈艦長となる[37]

1938年(昭和13年)11月15日、入船大佐(三隈艦長)は海軍艦政本部総務部第二課長へ転任[38]金剛型戦艦2番艦「比叡」艦長平岡粂一大佐は、比叡艦長と三隈艦長の兼務を命じられた[38]。 12月15日附で第七戦隊司令官沢本頼雄中将は軍令部出仕となり、海軍省人事局長清水光美少将が後任の七戦隊司令官に補職[39]。同日附で平岡大佐(比叡艦長)の兼務は「三隈」から伊勢型戦艦2番艦「日向」に変更(比叡、日向艦長兼務)[39]天龍型軽巡洋艦1番艦「天龍」艦長阿部孝壮大佐が三隈艦長に任命された[39]

1939年(昭和14年)5月20日、第七戦隊司令官清水光美少将は第六戦隊(利根筑摩)司令官へ転任[40][41]。第七戦隊の残務処理は第六戦隊司令部でおこなわれる[42]。本艦は第3予備艦に指定された[11]7月20日、阿部大佐(三隈艦長)は妙高型1番艦「妙高」艦長へ転任、姉妹艦「鈴谷」艦長久保九次大佐が鈴谷及び三隈艦長を兼務する[43]。 7月24日附で、当時の三隈砲術長志柿謙吉少佐(空母「飛鷹」沈没時副長)は上海海軍特別陸戦隊へ転任、後任の三隈砲術長は田代格少佐となる(太平洋戦争開戦時、大本営海軍報道部所属)[44]

同年11月15日、三川軍一少将(軍令部第二部長)が第七戦隊司令官に任命される[45]。第七戦隊旗艦は「熊野」に指定された[46]。 同日附で、久保九次大佐(鈴谷・三隈艦長兼務)は空母「加賀」および金剛型戦艦4番艦「霧島」艦長を命じられる(加賀、霧島艦長兼務)[45]。そのため高柳儀八大佐(海軍砲術学校教頭)が鈴谷艦長に、木村進大佐(横須賀海軍工廠航海実験部長)が三隈艦長に、潜水母艦「迅鯨」副長小西要人中佐が三隈副長に、それぞれ任命された[45]。 本艦は特別役務艦となり、主砲換装工事にとりかかる[11]12月30日、5基の15.5cm三連装砲塔を、他の日本軍重巡洋艦と共通する五十口径三年式二〇糎砲(20.3cm連装砲塔)5基に換装する。15.5cm砲は用兵側からの評価が高く、後に砲塔のみ新造して大和型戦艦の副砲や軽巡洋艦「大淀」の主砲に流用している。

1940年(昭和15年)5月1日、工事を終えた本艦は第七戦隊に復帰[11]。10月19日、当時三隈副長小西要人中佐は第21水雷隊司令へ転任(開戦時の第7駆逐隊司令。第9駆逐隊司令、阿武隈艦長を経て空母「雲龍」艦長)、球磨型軽巡洋艦2番艦「多摩」副長山岡昭一中佐が三隈副長となる[47]。 11月1日、三川軍一少将(第七戦隊司令官)は金剛型戦艦で編制された第三戦隊司令官へ転任、三川の後任として第四水雷戦隊司令官栗田健男少将が第七戦隊司令官に任命される[48]。同日附で三隈艦長は木村進大佐から崎山釈夫大佐(長良型軽巡洋艦6番艦「阿武隈」艦長)に交代した(木村は金剛型3番艦「榛名」艦長)[48]

1941年(昭和16年)8月11日、山岡(三隈副長)は金剛型1番艦「金剛」副長へ転任、長良型6番艦「阿武隈」副長高嶋秀夫中佐が三隈副長となる[49]

緒戦[編集]

太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦において、本艦は引き続き姉妹艦3隻(熊野、鈴谷、最上)と共に第七戦隊(司令官栗田健男少将、旗艦熊野)を編成し、南方作戦に投入された[50]蘭印作戦にも従事し、船団護衛や上陸支援を行う。1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦において、第七戦隊第2小隊(三隈最上)および同行駆逐艦「敷波」は海戦後半になり戦場へ到着、崎山(三隈艦長)は「われ今より敵に止めを刺す」と宣言[51]。共同で米重巡洋艦ヒューストンと豪軽巡洋艦パースを撃沈した[52][50]。この戦果に対し、連合艦隊司令長官山本五十六大将は後日感状を授与した[53]。 続いて生起したセイロン沖海戦(ベンガル湾通商破壊作戦)では、馬来部隊指揮官小沢治三郎中将(旗艦鳥海)の指揮下、北方隊(熊野、鈴谷、白雲)、中央隊(鳥海、龍驤由良夕霧朝霧)、南方隊(三隈、最上、天霧)という編制で通商破壊作戦に従事。本艦を含む南方隊は商船約10隻撃沈を記録した[54]。内地帰投後の5月1日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進[55][50]

ミッドウェー海戦[編集]

1942年(昭和17年)6月上旬に生起したミッドウェー海戦で、「三隈」は近藤信竹中将指揮する第二艦隊、第七戦隊三番艦として参加し[56]、支援隊(輸送船団護衛艦隊)として第二艦隊主隊とは別行動をとった[57]。5月28日、グアム島を出港してミッドウェー島占領部隊(輸送船団)と合流し、作戦海域へ向かう[58][50]。写真からは1番砲塔の天蓋に日の丸を描いていたのが確認できる。

ミッドウェー島砲撃命令[編集]

日本時間6月5日午前7時25-30分、南雲忠一中将指揮する南雲機動部隊の主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)はレイモンド・スプルーアンス少将率いるアメリカ軍第16任務部隊第17任務部隊の空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)、空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)、空母ホーネット(USS Hornet, CV-8)艦載機の攻撃で致命傷を負った。この時点で日本軍は、試作彗星爆撃機の偵察結果やアメリカ軍搭乗員捕虜の尋問結果からアメリカ軍戦力の正確な情報を得た[59]。主隊の大和型戦艦1番艦「大和」座乗中の連合艦隊司令部(山本五十六司令長官、宇垣纏参謀長、黒島亀人参謀等)は、日本軍3空母被弾時点で健在だった空母「飛龍」(第二航空戦隊司令官山口多聞少将)の攻撃で米空母に損害を与えたのち夜戦に持ち込めば「勝利の望みあり」と判断する[60]旗艦・赤城から脱出後、長良型軽巡洋艦1番艦「長良」(第十戦隊旗艦)に移乗していた南雲司令部(南雲中将、草鹿龍之介参謀長)も連合艦隊司令部と同じ認識を持っていた[61]

ここでミッドウェー島飛行場が問題となった[62]。ハワイから増援航空兵力がミッドウェー基地飛行場に飛来し、同島基地飛行隊とアメリカ軍機動部隊により日本軍艦隊が挟み撃ちにされる可能性が生じたのである[63]。宇垣参謀長は南雲艦隊に『ミッドウェーに対する成果、特に敵機が明朝同基地を使用し得るかにつき報告ありたし』と照会するが、南雲司令部からの返答はなかった[64]黒島亀人参謀達は夜間のうちに第二艦隊(近藤艦隊)の巡洋艦部隊でミッドウェー島を砲撃することを提案し、宇垣纏参謀長は最初反対したが、最終的に同意した[65]。日本時間午前10時10分、山本長官は連合艦隊電令作第156号『攻略部隊は一部の兵力を以って今夜AF陸上航空基地砲撃破壊すべし。AF、AO攻略は一時延期す』と発令する[66]。 山本から命令を受けた前進部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官)は、栗田健男中将の第七戦隊(熊野鈴谷三隈最上)および第8駆逐隊2隻(荒潮朝潮)に対し、6月6日夜明け前のミッドウェー島進出と砲撃を命じた[67][68] 。近藤中将は、栗田の第七戦隊が予定どおり最も前方に進出してミッドウェー島に近い距離にいると考えていたが、実際にはかなり後方に離れていた[69][70]。鈴木正金(中佐・七戦隊首席参謀)は「連合艦隊は空母をやられて血迷ったか」と発言し、山内正規(最上航海長)は「横暴」という表現を使っている[71]。近藤中将は第七戦隊からの報告で同戦隊の正確な位置情報(愛宕の真南120浬。上陸船団のはるか後方)を入手し、中島親孝(第二艦隊通信参謀)は『いつもながら困った戦隊である』と述べている[72]。第七戦隊が夜明けまでにミッドウェー島に到着するのは困難と判断した近藤は連合艦隊に砲撃中止を求めたが、連合艦隊参謀達は特に対策を講じず、返信もなかった[73]

第二艦隊の命令を受けて、第七戦隊はミッドウェー島へ向かって35ノットという最大戦速で南進した[74][75]。午後2時20分、栗田少将(第七戦隊司令官)は重巡洋艦の突進についてゆけない第8駆逐隊(荒潮、朝潮)に待機を命じる[76]。また後に空母ヨークタウンを撃沈する潜水艦「伊一六八」も午後5時30分に『伊168は午後11時までミッドウェー(イースタン島)敵航空基地を砲撃すべし。2300以後は第七戦隊とす』という連合艦隊命令を受信している[77]。この間、第二航空戦隊司令官山口多聞少将率いる空母飛龍は米空母ヨークタウンに二波の攻撃隊を送り込んで撃破・航行不能としたが、「飛龍」もまたアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃により被弾して炎上した。空母2隻(加賀、蒼龍)は既に沈没し、南雲機動部隊の残存空母2隻(赤城、飛龍)も激しい火災のため沈没は時間の問題だった。日本時間午後9時15分、山本長官はGF機密第303番電で『第七戦隊を含む攻略部隊(第二艦隊)、南雲機動部隊は連合艦隊主力部隊に合同せよ』と命じた[78]。事実上のミッドウェー島砲撃中止命令である[75]。第七戦隊は大和以下連合艦隊主力部隊と合流すべく反転した[79]。ミッドウェー島砲撃可能距離まで、あと2時間程だったという[80][75]。日本時間午後11時55分、山本長官はGF電令作第161号で明確にミッドウェー攻略作戦の中止と、各艦隊の撤退を命じた[81]

軍艦衝突[編集]

第七戦隊は針路を北北西にとり、28ノットで連合艦隊主隊との合流地点へ急いだ[82]。陣形は、旗艦熊野を先頭に鈴谷-三隈-最上と続く一列縦列(単縦陣)である。第七戦隊の反転から約1時間20分後、米潜水艦タンバー (USS Tambor, SS-198)が数隻の艦隊を発見し、位置情報を打電した[83]。直後、タンバーは日本艦隊が接近したため急速潜航を行う[84]。同時刻、第七戦隊も右45度前方5000mにタンバーを発見し、旗艦熊野は信号灯による左緊急45度一斉回頭を命じた[85]。すると岡本功(少佐・熊野当直参謀)が「左45度」1回だけでは回避角度が足りないと判断し、無線電話で追加の「緊急左45度一斉回頭」を命じた[86]。このため後続2番艦(鈴谷)は左緊急回頭が1回だけか、2回行うのか、判断に困って混乱する。その間にも2番艦(鈴谷)は先頭艦(熊野)と衝突コースに入り、「鈴谷」は咄嗟に面舵に転じた為、単縦陣形から右方向にはじき出された[87]。3番艦(三隈)は2番艦(鈴谷)が右方向に去ったことに気づかず、左に曲がる1番艦(熊野)を2番艦(鈴谷)と思い込み、衝突の危険を感じてさらに左に舵を切った[88]。最後尾4番艦(最上)は2番艦(鈴谷)の離脱に気づかず、くわえて1番艦(熊野)を3番艦(三隈)と誤認し、左45度1回、左25度1回に変針したあと、右45度面舵に転じて1番艦(熊野)に続行した[89]

福田徳次郎(中佐・最上副長)が前方を横切る3番艦(三隈)に気づき、曾爾(大佐、最上艦長)が取舵を命じた時には手遅れだった[90]。28ノットで進む4番艦(最上)は3番艦(三隈)の左舷中央部に衝突する。両艦の殆どの兵が衝突ではなく被雷と感じた程の衝撃であった[91]。「最上」は左方向に艦首がつぶれた。「三隈」は艦橋から煙突の下に長さ20m、幅2mの破孔が生じて小火災が発生したが、浸水はわずかで、火災もすぐに消火された[92]。だが左舷燃料タンクが損傷し、油の尾を引くようになる[93]。第七戦隊司令官栗田健男少将は連合艦隊司令部(大和)に対し『十一時三十分、右45度に浮上中の敵潜を認め緊急回避中、四番艦最上は其艦首を以て三番艦三隈に衝突、最上前進見込み立たず、三隈支障なし。地点・・・最上援護中』と報告し、第2小隊(三隈、最上)に南西方向の日本軍拠点トラック島泊地へ退避するよう命じる[94]。その後、栗田は第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)を率いて、主力部隊に合同すべく北西に針路をとった[95][96][97]。このあと第七戦隊は上級部隊に一切報告を入れず沈黙し、8日になってからようやく近藤艦隊と合流[96]。中島(第二艦隊参謀)は栗田司令官と参謀達を再び『どうも困った部隊である』と評している[98]宇垣纏連合艦隊参謀長は『第七戦隊を二手に分けるより、戦隊全艦で最上を護衛した方が良かったのではないか』と指摘する[99]。だが強い批判ではなく、その後も栗田が譴責されるような事にはならなかった[100][101][97]

この時点での被害は「三隈」より艦首を喪失した「最上」の方がひどく、最大発揮速力は16ノット程度だった[102]。第1小隊(熊野、鈴谷)が去ったため、ミッドウェー島から距離120浬地点で三隈艦長は4隻(三隈、最上、朝潮、荒潮)を指揮し、退避行動に移る[103][97]。一方で、浮上や潜水を繰返していたタンバーは『敵味方不明の多数の艦(ミッドウェーより89マイル)』を報告、さらに第2小隊(三隈、最上)を確認したが、最終的に振り切られている[104]。スプルーアンス少将は息子が乗艦するタンバーから第七戦隊発見の報告を受けると、アメリカ軍機動部隊を率いて南下した[105]。 6月6日午前6時30分、「三隈」はアメリカ軍のPBYカタリナ飛行艇を発見し、空襲があると判断した乗組員達の間には悲壮な空気が漂いはじめた[106]。カタリナは『二隻の戦艦の艦尾に油の航跡が見える』と報告、これを受けてB-17重爆8機が攻撃に向かった[104]。またフレミング大尉率いる急降下爆撃機SB2Uビンジゲーター6機、テイラー大尉率いる急降下爆撃機SBDドーントレス6機がミッドウェー島を発進し、日本軍の『戦艦2隻』を仕留めに向かった[107]。午前8時40分、アメリカ軍機は攻撃を開始、SBU隊指揮官のフレミング大尉は対空砲火で被弾炎上し、「三隈」の4番砲塔に体当たりしたとされる[108][107][109]。アメリカ軍海兵隊は、フレミング大尉は三隈に直撃弾を与えたものの、被弾して海中に突入したと記録している[108]。フレミング大尉は勇敢な行動によりメダル・オブ・オナー(名誉勲章)を死後授与された[108]。 続いてB-17爆撃機8機が水平爆撃を行い、至近弾3発、命中弾2発を主張した[108]。もっとも最上で2名が戦死したが、命中弾はなかった[108]。「三隈」は深刻な被害を受けたとする解釈もあるが[109]、実際は不明である[110]。三隈乗組員も、同日は大きな被害なかったと回想している[111]。第二艦隊への報告では、両艦とも被害なし[112]。スプルーアンス少将は『戦艦2隻、および炎上中の空母1隻、重巡洋艦3隻見ゆ、方位324度、距離240浬、針路310度、速力12ノット』という報告を受け、南雲機動部隊を追撃し、掃討することを決意した[113]

三隈の最後[編集]

大破した三隈。酸素魚雷の誘爆により後部の破壊が大きい。

1942年(昭和17年)6月7日午前5時、第七戦隊第2小隊(三隈、最上)は第8駆逐隊(荒潮朝潮)と合流した[114]。同時刻、ホーネットの索敵機は『空母1隻、駆逐艦5隻』発見を報告し、続いて『さらに戦艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻見ゆ』と報告、また別の索敵機も『重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻』の発見を報告した[115]。スプルーアンス少将は南雲機動部隊にとどめを刺すべく、ホーネット(USS Hornet, CV-8)に攻撃を命じた[116]。直ちにF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機が発進する[117]。続いて午前10時45分、エンタープライズからワイルドキャット12機、ドーントレス31機(艦戦12、艦爆31、艦攻3とも)が発進した[118][117]

「三隈」は午前7時前後からアメリカ軍索敵機を発見し、『敵水偵2機触接、付近に水上艦艇あるものの如し。われ敵空母水上艦艇の追跡を受けつつあり、今よりウェーキ島へ向かう。地点、ウェーキの30度710浬』と発信した[119]。午前8時25分、「最上」は『敵兵力は空母1、巡洋艦2程度と認む』と発信する[120]。宇垣参謀長は近藤信竹中将の第二艦隊に救援命令を出すと共に、アメリカ軍機動部隊の戦力を空母1-2・特空母2隻程度と推測し、ウェーク島の航空機行動圏内に引き込んで決戦を挑むしかないと判断した[121]。近藤中将は『攻略部隊主隊は敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈、最上を救援せんとす』と山本五十六連合艦隊司令長官に連絡すると[122]、第二艦隊兵力を率いて七戦隊第2小隊(三隈、最上)の救援に向かったが、駆逐艦の燃料の関係から20ノットが限界であったという[123]。近藤中将は部下達に、空母瑞鳳(第二艦隊)の航空兵力と重巡洋艦が搭載する水上偵察機部隊を用いて全力攻撃をかける覚悟を示している[124]特攻を検討したと証言する瑞鳳搭乗員もいる[125]。一方、「三隈」は駆逐艦の護衛をつけると3隻(最上、朝潮、荒潮)を残し、ウェーク島日本軍基地から発進する一式陸上攻撃機の飛行圏内に向って単艦で退避行動を開始した[126]。曽爾章(最上艦長)や山内正規(最上航海長)は「三隈」の行動を理解しつつ、離れていく「三隈」を羨望の思いで見つめていた[126][127]

エンタープライズの報告書によれば、6月7日は穏やかな天候で、少し低い所に雲がかかっていた[128]零式艦上戦闘機がいないため、アメリカ軍攻撃隊は余裕をもって空襲を行うことができた[129]。午前7時、ホーネットの攻撃隊(ドーントレス1機喪失)は霧島級戦艦1隻に500kg爆弾2発と250kg爆弾1発の命中を主張し、2隻(最上、荒潮)にも爆弾命中を主張する[130]。「最上」は後部砲塔に深刻な損害を受け、艦中央部で火災が発生し、酸素魚雷を緊急投棄した[131]。「最上」の撃沈を確信したアメリカ軍機は、「三隈」に目標を変更した[132]。エンタープライズの攻撃隊は28ノットで西に進む戦艦と愛宕型重巡洋艦を発見、攻撃を開始した[133]。エンタープライズ隊は1,000ポンド爆弾5発命中、2発至近弾を主張し、さらにワイルドキャット戦闘機が12.7mm機銃を撃ちこんだ[128]。午前11時の段階で「三隈」は艦橋から艦中央部にかけて集中的に被弾し機銃砲座の弾薬が炸裂して火災が発生、『三隈大爆発見込なし』という状態になった[134]

最後にホーネットから発進した第二波攻撃隊(ドーントレス23機)は、重巡1隻(三隈)に爆弾1発、軽巡洋艦1隻(最上)に爆弾6発の命中を主張した[135]。ホーネットの第二波攻撃隊は「三隈」の3番砲塔に1発を命中させ、破片が艦橋の天蓋から頭を出していた崎山釈夫大佐(三隈艦長)に重傷を負わせた[136]。さらに爆弾が右舷機械室と左舷後部機械室を直撃し、「三隈」は航行不能となった[136]。艦の指揮を継承した高島秀夫(中佐・副長)は部下に脱出のための筏を作らせた[136]。また空襲下4隻全体の指揮は曾爾(最上艦長)が継承した。この時、日本艦隊攻撃に向かったB-17爆撃機6機は米潜水艦のグレイリング(USS Grayling, SS-209)を誤爆し、「巡洋艦1隻撃沈」を報告している[135][137]

乗組員が20発被弾と推定するほど多数の爆弾を被爆した「三隈」は[138]、火災により搭載する酸素魚雷が誘爆、致命傷となった[139]。「朝潮」の乗組員によれば、三隈中央部で被弾誘爆による大火災が発生したのち、煙突にも直撃弾があって白煙が噴出し、完全に停止したという[140]。高島秀夫(三隈副長)は総員退去を命じ、高島副長自身は爆弾の直撃で戦死した[141][142]。水平線の向こうから駆逐艦「荒潮」(第8駆逐隊)が現れて接近すると、三隈乗組員は歓声を上げて「荒潮」を迎えたという[143]。接舷した「荒潮」は多数の三隈乗組員を救助したが、その最中に米軍機の攻撃を受け、後部砲塔に命中した爆弾により戦死者が続出する[139]。さらに、アメリカ軍機は海面を漂う三隈乗組員に対し、執拗な機銃掃射を繰り返す[144]。「荒潮」は240名程を救助した段階で退避を余儀なくされ、人力操舵で「三隈」から離れた[145]。「朝潮」は内火艇やカッターボートを降ろして海面を漂流する三隈乗組員の救助にあたったが、アメリカ軍機の攻撃で被弾、戦死者22名・重傷者35名を出した[146]。遠ざかる「三隈」になお爆弾が命中したのが目撃されている[147]

しばらくして、エンタープライズからドーントレス2機が発進し、戦果の確認に向かった[148]。廃墟となった「三隈」の周囲を飛行しながら写真を撮影[149]。本艦は左舷に傾斜し、右舷からは煙と蒸気がたなびき、主砲は別々の方向を向いて、完全に沈黙していた[150]。ある艦攻電信員兼機銃手は「三隈」を『屑鉄とガラクタでいっぱいの巨大なバスタブ』と表現している[129]

太陽が沈みアメリカ軍機空襲の危険が去ると、「朝潮」は「三隈」の処分と脱出者の救援に向かった[151]。空襲を受けた海域に戻った「朝潮」は艦影を発見できず、『三隈所在海面に至りしも艦影を認めず。付近捜索すれども空し』と報告する[152]。これを受けて「最上」は『三隈所在海面に至るも艦影を見ず。確認したるものなきも沈没せる算段大なりと認む。我れ取り敢えず重傷者を収容、西航を続行す』と連合艦隊に報告し、第二艦隊との合流を急いだ[153]。アメリカ軍も「三隈」の沈没の瞬間を目撃していない[154]。石川健一(三隈機関科)によれば、日没直前に沈下をはやめたのち左舷に転覆、沈没した[149]。6月8日午前中、第二艦隊は三隈の生存者を乗せた3隻(最上、荒潮、朝潮)を収容、生存者は「荒潮」から「鈴谷」に移乗して日本本土へ戻った[155]。栗田提督(第七戦隊司令官)は、第2小隊の苦境について「そんな情況だったのには気付かなかった」と戦後回想している[96][156]。 本艦の最後を聞いた連合艦隊参謀長宇垣纏少将は[157]、陣中日記戦藻録に以下のように記述した[158]

最上及八驅逐隊も損傷の身を以て、攻略部隊の前程を西方にかわり、其の収容を為すを得たり、一時は全滅かと危ぶまれたる之等が三隈の犠牲に於て事済みたり、最上は潜水艦回避に当り三隈と衝突航行不能なりしも、逐次修復して、二〇節迄出し得るに至る。三隈は損傷なく専ら最上の援護に当たりしつつありしに其身反りて斃れ、最上の援護の目的を果たす。右両艦の運命こそ奇しき縁と云ふべく、僚艦間の美風を発揮せるものなり

宇垣纏、宇垣纏『戦藻録』146ページ

6月9日、アメリカ軍の潜水艦トラウト (USS Trout, SS-202) が漂流する救命筏から2名の三隈乗組員を救助した[159]。当初19名が筏に乗っていたが、最終的に2名だけになってしまったという[160]。 8月10日、ミッドウェー海戦で喪失した3隻(三隈、蒼龍加賀)は除籍[1]。 12月8日、山本五十六連合艦隊司令長官はバタビア沖海戦における3隻(最上、三隈、敷波)の活躍に感状を与えた[53]。同月、崎山艦長の葬儀を横須賀鎮守府で行う[161]1943年(昭和18年)7月13日附で、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(補海軍中将)および各艦戦死者(加賀艦長岡田次作大佐、飛龍艦長加来止男大佐、蒼龍艦長柳本柳作大佐、三隈艦長崎山釈夫大佐、高嶋秀夫中佐)達は、それぞれ昇進した[162]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』117-119頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 吉田庸光 大佐:1934年6月1日[22] - 7月4日[27]
  2. 鈴木田幸造 大佐:1934年7月4日[27] - 8月29日[30]

艦長[編集]

  1. 鈴木田幸造 大佐:1935年8月29日[30] - 11月15日[35]
  2. 武田盛治 大佐:1935年11月15日[35] - 1936年12月1日[36]
  3. 岩越寒季 大佐:1936年12月1日[36] - 1937年12月1日[37]
  4. 入船直三郎 大佐:1937年12月1日[37] - 1938年11月15日[38]
  5. (兼)平岡粂一 大佐:1938年11月15日[38] - 1938年12月15日[39]
  6. 阿部孝壮 大佐:1938年12月15日[39] - 1939年7月20日[43]
  7. (兼)久保九次 大佐:1939年7月20日[43] - 1939年11月15日[45]
  8. 木村進 大佐:1939年11月15日[45] - 1940年11月1日[48]
  9. 崎山釈夫 大佐:1940年11月1日[48] - 1942年6月7日戦死(同日附、海軍少将)[162]

同型艦[編集]

参考文献[編集]

  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 福永恭助 『増補 軍艦物語』 一元社、1934年11月。
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1937年2月。
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    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』 海軍大臣官房、1940年
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A09050137200 『昭和9年度海軍予算査定資料』。
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    • Ref.C05110629300「第171号の9 10.9.5 三隈」
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    • Ref.C05023495700「第1754号 9.4.19 軍艦三隈進水記念絵葉書調製並に記念撮影に関する件」
    • Ref.C05023428800「第2075号 9.5.7 皇族の御差遣を仰度件」
    • Ref.C05034226600「第2023号 9.5.4 三菱重工業に於て建造の軍艦三隈進水の件」
    • Ref.C05034226700「第2043号 9.9.6 巡洋艦最上、三隈竣工期日変更の件」
    • Ref.C05034226900「第2404号 9.10.31 軍艦三隈工事概括表変更認許の件」
    • Ref.C05034228500「第1001号 10.4.13 最上三隈船体部補強工事に伴ひ工事予定変更に関する件」
    • Ref.C08030745600「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」
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    • Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報ミッドウェー作戦(3)」
    • Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報ミッドウェー作戦(4)」
    • Ref.C08030112500「昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」
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    • Ref.C13071974300 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C13071993800 『昭和15年12月25日現在10版内令提要追録第8号原稿』。
  • 石渡幸二 「栗田提督論/レイテ沖海戦の指揮官達」『太平洋戦争の提督たち』 中央公論社、1997年12月。ISBN 4-12-203014-5
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録』 原書房、1968年
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  • 奥宮正武 『太平洋戦争と十人の提督(上)』 朝日ソノラマ、1983年8月。ISBN 4-257-17030-1
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  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 亀井宏 『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』 光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7
  • 古村啓蔵ほか 『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』 潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7
    • 戦史研究家伊達久『重巡戦隊の編成変遷とその航跡の全貌』
    • 当時「最上」側的士兼照射指揮官・元海軍大尉香取頴男『バタビア沖「最上」砲煙たえることなし 遠洋航海もなく直ちに実戦に投じられた少尉候補生の海戦初体験
    • 当時「最上」側的士兼照射指揮官・元海軍大尉香取頴男『七戦隊三隈と最上の衝突 ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇
    • 当時「三隈」通信科員・海軍三等水兵和田正雄『血染めの重巡「三隈」にあがった絶叫悲し 繰り返し襲いくる敵機の前に潰えた三隈から生還した通信科員の証言
    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』
  • エドワード・P・スタッフォード 著、井原裕司 訳 『空母エンタープライズ THE BIG E 上巻』 元就出版社、2007年ISBN 978-4-86106-157-8
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第二巻 昭和八年年一月一日~昭和十二年九月二十六日』 中央公論社、1995年6月。ISBN 4-12-403392-3
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 中島親孝 『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』 光人社NF文庫、1997年10月。ISBN 4-7698-2175-1 中島は近藤中将の第二艦隊参謀として愛宕に乗艦していた。
  • チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』 恒文社、1962年12月。
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  • 橋本敏男田辺弥八ほか 『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』 光人社、1992年ISBN 4-7698-0606-x
  • 橋本敏男田辺弥八ほか 『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』 光人社NF文庫、1999年ISBN 4-7698-2249-9
    • 血染めの重巡三隈にあがった絶叫かなし 元重巡三隈の通信科員・三等水兵和田正雄
    • 不死身の最上ミッドウェー沖の雄叫び 元重巡最上の航海長・海軍中佐山内正規
  • 藤田千代吉ほか 『証言 昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション6 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』 光人社、1990年7月。ISBN 4-7698-0504-7
    • 連合艦隊の守護神・第八駆逐隊「朝潮」艦橋からの血戦レポート-藤田千代吉(測距員)「ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている」
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ著、千早正隆訳 『ミッドウェーの奇跡 上巻』 原書房、2005年ISBN 4-562-03874-8
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ著、千早正隆訳 『ミッドウェーの奇跡 下巻』 原書房、2005年ISBN 4-562-03875-6
  • 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第7巻 重巡Ⅲ』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0457-1
  • ハンディ判日本海軍艦艇写真集12 重巡 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩』 雑誌『』編集部/編、光人社、1997年5月。ISBN 4-7698-0782-1
    • 宮崎良純「夜戦の雄 "重巡三隈" バタビア沖の勝鬨 敵巡洋艦二隻に砲撃と雷撃の乱打を浴びせた"バタビア沖"勝利の海戦記!
  • 丸編集部編 『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』 光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6
    • 元最上航海長・海軍大佐山内正規『七戦隊三隈と最上の衝突 ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇
  • 「丸」編集部編 「曾爾章 重巡最上出撃せよミッドウエー」『巡洋艦戦記 重巡最上出撃せよ』 光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9
  • 吉田俊雄(元大本営海軍参謀) 『良い指揮官 良くない指揮官 14人の海軍トップを斬る!』 光人社、1996年1月。ISBN 4-7698-0746-5
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.38 最上型重巡』(学習研究社、2002年) ISBN 4-05-602880-X
  • ウォルター・ロード、実松譲訳 『逆転 信じられぬ勝利』 フジ出版社、1969年7月。

脚注[編集]

  1. ^ a b #S1708舞鎮日誌p.27『九日二三〇〇大臣(宛略)官房機密第四二九番電 八月十日附 蒼龍、三隈及加賀ヲ軍艦籍ヨリ除カル』
  2. ^ 昭和10年8月29日付 海軍内令 第334号改正、海軍定員令「第50表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。
  3. ^ #重巡十八隻346頁『三隈(みくま)』
  4. ^ #艦艇類別等級(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|最上型|最上、三隈、鈴谷、熊野』
  5. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.203『◎二等巡洋艦最上及三隈命名ノ件 昭和七年八月一日(達一〇五)艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル 呉海軍工廠ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 最上モガミ 長崎三菱造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 三隈ミクマ』
  6. ^ a b c #達昭和7年8月p.7『達第百五號 艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル|昭和七年八月一日 海軍大臣岡田啓介|呉海軍工廠ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 最上モガミ|三菱長崎造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 三隈ミクマ』
  7. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.2『艦名の由来』
  8. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.138『三隈(みくま) 艦種 二等巡洋艦 最上型 艦名考 川名に採る、三隈川は筑後川の中流部を云ふ。最上(二代)と姉妹艦なり。』
  9. ^ 「寄贈物品受納の件」p.3
  10. ^ #昭和9年度海軍予算査定資料p.15『昭和六年補充計畫被代艦調』
  11. ^ a b c d e f g h i #ハンディ判艦艇写真集12p.45(重巡洋艦『三隈』行動年表)
  12. ^ 「三菱重工業に於て建造の軍艦三隈進水の件」
  13. ^ 「第171号の9 10.9.5 三隈」p.2
  14. ^ 「三菱重工業に於て建造の軍艦三隈進水の件」p.3
  15. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『三隈|二等巡洋艦|190.50|18.20|4.50|8,500|33.0節|9|昭和6-12-24|9-5-31|10-8-29|15.5c/m…15 12.7c/m高角8|發射管12|探照燈3(機関略)』
  16. ^ #高松宮日記2巻98頁『六月二十六日(略)一〇時五分前、三菱造船所につく。極めて時間少く説〔明〕をきゝ巡覧。「三隈」のものが多かつた。東洋汽船の宇洋丸を艤装し船台にもすべて船がゐた。電気鎔接は検査の関係上、商船にはまだ余りつかはれてゐなか〔つ〕たが「三隈」には盛んに用ゐられてゐた。その技術も古いだけにストレスのない様に甘くやるらしい。(以下略)』
  17. ^ #達昭和7年8月pp.7-9『達第百六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦二隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和七年八月一日 海軍大臣岡田啓介|驅逐艦 佐世保海軍工廠ニ於テ建造(昭和六年五月起工ノモノ) 初春ハツハル|浦賀船渠株式會社 子日ネノヒ|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 若葉ワカバ|潜水艦 呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第六十八潜水艦|神戸三菱造船所ニ於テ建造 伊號第六十九潜水艦|水雷艇 舞鶴要港工作部ニ於テ建造 千鳥チドリ|藤永田造船所ニ於テ建造 眞鶴マナヅル|掃海艇 藤永田造船所ニ於テ建造 第十三號掃海艇|大阪鐡工所ニ於テ建造 第十四號掃海艇|敷設艇 石川島造船所ニ於テ建造 夏島ナツシマ』
  18. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.68『昭和七年八月一日(内令二四五)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦、巡洋艦、二等ノ部中夕張ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |最上型|最上、三隈| 驅逐艦、一等ノ部中吹雪型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |初春型|初春、子日、若葉| 潜水艦、一等ノ部中大型五型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海大六型|伊號第六十八、伊號第六十九| 水雷艇ノ部中艦(艇)型ノ欄ニ「千鳥型」ヲ、艦艇名ノ欄ニ「千鳥、眞鶴」ヲ加フ 掃海艇ノ部中第九號型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第十三号型|第十三號、第十四號|』
  19. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.46(三隈進水式写真)
  20. ^ 「軍艦三隈進水式実況放送の件」p.3、「三菱重工業に於て建造の軍艦三隈進水の件」p.1
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  23. ^ 昭和9年6月14日(木)海軍公報第2194号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C12070343600 『○事務所設置 軍艦三隈艤装員事務所ヲ三菱重工業株式會社長崎造船所内ニ設置セリ』
  24. ^ 「軍艦三隈工事概括表変更認許の件」p.2
  25. ^ 「巡洋艦最上、三隈竣工期日変更の件」p.3
  26. ^ 「最上三隈船体部補強工事に伴ひ工事予定変更に関する件」p.2
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  29. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.46(三隈竣工式写真)
  30. ^ a b c 昭和10年8月31日(土)官報第2600号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959079 p.15
  31. ^ 昭和10年9月3日(火)海軍公報第2556号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C12070351700 『○事務所撤去 軍艦三隈艤装員事務所ヲ三菱重工業株式會社長崎造船所内ニ設置中ノ處去月二十九日撤去セリ』
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  161. ^ 昭和17年11月16日(月)海軍公報第4617号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C12070418200 『大東亜戰争戰歿者故海軍少将崎山釋夫外諸勇士ノ合同海軍葬儀ヲ來二十五日午前十時横須賀鎮守府大會議室ニ於テ佛式ニ依リ執行』
  162. ^ a b 昭和18年7月13日(発令昭和17年6月月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1170号 p.29』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100 

関連項目[編集]