三隈 (重巡洋艦)

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三隈
艦歴
発注 マル1計画
起工 1931年12月24日
進水 1934年5月31日
就役 1935年8月29日
沈没 1942年6月7日
位置 北緯29度20分 東経173度30分 / 北緯29.333度 東経173.500度 / 29.333; 173.500
除籍 1942年8月10日
性能諸元
排水量 基準:11,200トン
全長 200.6 m
全幅 20.6m
吃水 6.9 m(新造時)
機関 ロ号艦本式缶大型8基、同小型2基
艦本式タービン4基4軸
154,056馬力(新造時公試成績)
速力 36.47 ノット (新造時公試成績)
航続距離 14ノットで8,778海里(新造時公試成績)
燃料 重油:2,178t(新造時実測値)
兵員 竣工時定員944名[1]
兵装
(竣工時)
60口径15.5cm3連装砲塔5基
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
61cm3連装魚雷発射管4基
兵装
(主砲換装後)
50口径20.3cm連装砲塔5基
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
61cm3連装魚雷発射管4基
装甲 舷側:100mm 弾薬庫:140mm 甲板:35~60mm
航空機 3機(カタパルト2基)
大破した三隈
大破した三隈

三隈(みくま)は、旧日本海軍重巡洋艦で、最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)の2番艦[2]。三菱造船長崎造船所にて建造された[3]。艦名は大分県日田盆地を流れる三隈川に因る。艦内神社大原八幡宮[4]ミッドウェー海戦で沈没し、太平洋戦争で最初に失われた日本海軍の重巡洋艦となった。

艦歴[編集]

建造[編集]

三隈は1931年(昭和6年)12月24日 三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて[5]、計画排水量8,636トン、水線全長190.5m、60口径15.5cm3連装砲塔5基を備えた二等巡洋艦として起工された[6][7][8]1932年(昭和7年)8月1日、正式に三隈と命名された[3]。同日附で姉妹艦最上や[3]初春型駆逐艦3隻(初春子日若葉)、千鳥型水雷艇2隻(千鳥、真鶴)、夏島型敷設艇夏島等も命名されている[9]。 つづいて三隈は1934年(昭和9年)5月31日米内光政佐世保鎮守府長官や皇族の伏見宮博恭王が見守る中で進水する[10]。翌年5月末の完成を目指して艤装工事が行われていたが[11]藤本喜久雄少将 が設計した千鳥型水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、藤本の設計による最上型重巡洋艦の工事も急遽中断された[12]。最上を調査したところ船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかり、三隈も補強工事を行う[13]1935年(昭和10年)8月29日 に就役した時には[8]基準排水量が1万トンを超えていたが、対外的には8,600トン公表のままだった[14][15]

竣工した三隈は第四艦隊に編入されたが、1ヵ月後の9月26日三陸沖にて第四艦隊事件に遭遇した。1939年12月30日、5基の15.5cm三連装砲塔を、他の日本軍重巡洋艦と共通する五十口径三年式二〇糎砲(20.3cm連装砲塔)5基に換装する。15.5cm砲は用兵側からの評価が高く、後に砲塔のみ新造して大和型戦艦の副砲や軽巡洋艦大淀の主砲に流用している。

緒戦[編集]

三隈は太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦において姉妹艦3隻(熊野、鈴谷、最上)と第七戦隊(旗艦熊野)を編成し、南方作戦に投入された。蘭印作戦にも従事し、船団護衛や上陸支援を行う。1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦において、第七戦隊第2小隊(三隈、最上)および同行駆逐艦の敷波は海戦後半になり戦場へ到着、三隈の艦長は「われ今より敵に止めを刺す」と宣言[16]。共同で米重巡洋艦ヒューストンと豪軽巡洋艦パースを撃沈した[17]セイロン沖海戦(ベンガル湾通商破壊作戦)では馬来部隊指揮官小沢治三郎中将(旗艦鳥海)の指揮下、北方隊(熊野、鈴谷、白雲)、中央隊(鳥海、龍驤、由良、夕霧、朝霧)、南方隊(三隈、最上、天霧)という編制で通商破壊作戦に従事。三隈を含む南方隊は商船約10隻撃沈を記録した[18]

ミッドウェー海戦[編集]

1942年6月上旬に生起したミッドウェー海戦で、三隈は近藤信竹中将指揮する第二艦隊、第七戦隊三番艦として参加し[19]、支援隊(輸送船団護衛艦隊)として第二艦隊主隊とは別行動をとった[20]。5月28日、グアム島を出港してミッドウェー島占領部隊(輸送船団)と合流し、作戦海域へ向かう[21]。写真からは1番砲塔の天蓋に日の丸を描いていたのが確認できる。

ミッドウェー島砲撃命令[編集]

日本時間6月5日午前7時25-30分、南雲忠一中将指揮する南雲機動部隊の主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)はレイモンド・スプルーアンス少将率いるアメリカ軍第16任務部隊第17任務部隊の空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)、空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)、空母ホーネット(USS Hornet, CV-8)艦載機の攻撃で致命傷を負った。この時点で日本軍は、試作彗星爆撃機の偵察結果やアメリカ軍搭乗員捕虜の尋問結果からアメリカ軍戦力の正確な情報を得た[22]戦艦大和に座乗する連合艦隊司令部(山本五十六司令長官、宇垣纏参謀長、黒島亀人参謀等)は、日本軍3空母被弾時点で健在だった空母飛龍の攻撃で米空母に損害を与えたのち夜戦に持ち込めば「勝利の望みあり」と判断する[23]旗艦・赤城から脱出後、軽巡洋艦長良に移乗していた南雲司令部(南雲中将、草鹿龍之介参謀長)も連合艦隊司令部と同じ認識を持っていた[24]

ここでミッドウェー島飛行場が問題となった[25]。ハワイから増援航空兵力がミッドウェー基地飛行場に飛来し、同島基地飛行隊とアメリカ軍機動部隊により日本軍艦隊が挟み撃ちにされる可能性が生じたのである[26]。宇垣参謀長は南雲艦隊に『ミッドウェーに対する成果、特に敵機が明朝同基地を使用し得るかにつき報告ありたし』と照会するが、南雲司令部からの返答はなかった[27]黒島亀人参謀達は夜間のうちに第二艦隊(近藤艦隊)の巡洋艦部隊でミッドウェー島を砲撃することを提案し、宇垣纏参謀長は最初反対したが、最終的に同意した[28]。日本時間午前10時10分、山本長官は連合艦隊電令作第156号『攻略部隊は一部の兵力を以って今夜AF陸上航空基地砲撃破壊すべし。AF、AO攻略は一時延期す』と発令する[29]。午前11時、山本から命令を受けた近藤信竹中将・第二艦隊司令官は、栗田健男少将の第七戦隊(熊野鈴谷、三隈、最上)および駆逐艦2隻(荒潮朝潮)に対し、6月6日夜明け前のミッドウェー島進出と砲撃を命じた[30]。近藤中将は、栗田の第七戦隊が予定どおり最も前方に進出してミッドウェー島に近い距離にいると考えていたが、実際にはかなり離れていた[31]。鈴木正金(中佐・七戦隊首席参謀)は「連合艦隊は空母をやられて血迷ったか」と発言し、山内正規(最上航海長)は「横暴」という表現を使っている[32]。近藤中将は第七戦隊からの報告で同戦隊の正確な位置情報(愛宕の真南120浬。上陸船団のはるか後方)を入手し、中島親孝(第二艦隊通信参謀)は『いつもながら困った戦隊である』と述べている[33]。第七戦隊が夜明けまでにミッドウェー島に到着するのは困難と判断した近藤は連合艦隊に砲撃中止を求めたが、連合艦隊参謀達は特に対策を講じず、返信もなかった[34]

三隈を含む第七戦隊はミッドウェー島へ向かって35ノットという最大戦速で南進した[35]。午後2時20分、栗田少将(第七戦隊司令官)は重巡洋艦の突進についてゆけない第8駆逐隊(荒潮、朝潮)に待機を命じる[36]。また後に空母ヨークタウンを撃沈する潜水艦「伊一六八」も午後5時30分に『伊168は午後11時までミッドウェー(イースタン島)敵航空基地を砲撃すべし。2300以後は第七戦隊とす』という連合艦隊命令を受信している[37]。この間、第二航空戦隊司令官山口多聞少将率いる空母飛龍は米空母ヨークタウンに二波の攻撃隊を送り込んで撃破・航行不能としたが、飛龍もまたアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃により被弾して炎上した。加賀と蒼龍は既に沈没し、南雲機動部隊の残存空母は赤城と飛龍のみとなり、激しい火災のため両艦とも沈没は時間の問題だった。日本時間午後9時15分、山本長官はGF機密第303番電で『第七戦隊を含む攻略部隊(第二艦隊)、南雲機動部隊は連合艦隊主力部隊に合同せよ』と命じた[38]。事実上のミッドウェー島砲撃中止命令である。第七戦隊は大和以下連合艦隊主力部隊と合流すべく反転した[39]。ミッドウェー島砲撃可能距離まで、あと2時間程だったという[40]。日本時間午後11時55分、山本長官はGF電令作第161号で明確にミッドウェー攻略作戦の中止と、各艦隊の撤退を命じた[41]

軍艦衝突[編集]

第七戦隊は針路を北北西にとり、28ノットで連合艦隊主隊との合流地点へ急いだ[42]。陣形は、旗艦熊野を先頭に鈴谷-三隈-最上と続く一列縦列(単縦陣)である。第七戦隊の反転から約1時間20分後、米潜水艦タンバー (USS Tambor, SS-198)が数隻の艦隊を発見し、位置情報を打電した[43]。直後、タンバーは日本艦隊が接近したため急速潜航を行う[44]。同時刻、第七戦隊も右45度前方5000mにタンバーを発見し、旗艦熊野は信号灯による左緊急45度一斉回頭を命じた[45]。すると岡本功(少佐・熊野当直参謀)が「左45度」1回だけでは回避角度が足りないと判断し、無線電話で追加の「緊急左45度一斉回頭」を命じた[46]。このため後続艦鈴谷は左緊急回頭が1回だけか、2回行うのか、判断に困って混乱する。その間にも二番艦鈴谷は先頭艦熊野と衝突コースに入り、鈴谷は咄嗟に面舵に転じた為、単縦陣形から右方向にはじき出された[47]。三番艦三隈は鈴谷が右方向に去ったことに気づかず、左に曲がる熊野を鈴谷と思い込み、衝突の危険を感じてさらに左に舵を切った[48]。最後尾艦最上は鈴谷の離脱に気づかず、くわえて熊野を三隈と誤認し、左45度1回、左25度1回に変針したあと、右45度面舵に転じて熊野に続行した[49]

福田徳次郎(中佐・最上副長)が最上前方を横切る三隈に気づき、曾爾最上艦長が取舵を命じた時には手遅れだった[50]。28ノットで進む最上は三隈の左舷中央部に衝突する。両艦の殆どの兵が衝突ではなく被雷と感じた程の衝撃であった[51]。最上は左方向に艦首がつぶれた。三隈は艦橋から煙突の下に長さ20m、幅2mの破孔が生じて小火災が発生したが、浸水はわずかで、火災もすぐに消火された[52]。だが左舷燃料タンクが損傷し、油の尾を引くようになる[53]栗田健男少将は連合艦隊旗艦大和に対し『十一時三十分、右45度に浮上中の敵潜を認め緊急回避中、四番艦最上は其艦首を以て三番艦三隈に衝突、最上前進見込み立たず、三隈支障なし。地点・・・最上援護中』と報告し、最上と三隈に南西方向の日本軍拠点トラック島泊地へ退避するよう命じる[54]。その後栗田は熊野と鈴谷を率いて、主力部隊に合同すべく北西に針路をとった[55]。このあと第七戦隊は上級部隊に一切報告を入れず沈黙し、8日になってからようやく近藤艦隊と合流、中島第二艦隊通信参謀は栗田司令官と参謀達を再び『どうも困った部隊である』と評している[56]。大和の宇垣纏連合艦隊参謀長は『第七戦隊を二手に分けるより、戦隊全艦で最上を護衛した方が良かったのではないか』と指摘する[57]。だが強い批判ではなく、その後も栗田が譴責されるような事にはならなかった[58]

この時点での被害は三隈より艦首を喪失した最上の方がひどく、最大発揮速力は16ノット程度だった[59]。熊野、鈴谷が去ったため、ミッドウェー島から距離120浬地点で三隈は最上を指揮し、退避行動に移る[60]。一方で、浮上や潜水を繰返していたタンバーは『敵味方不明の多数の艦(ミッドウェーより89マイル)』を報告、さらに三隈、最上を確認したが、最終的に振り切られている[61]。スプルーアンス少将は息子が乗艦するタンバーから第七戦隊発見の報告を受けると、アメリカ軍機動部隊を率いて南下した[62]。6月6日午前6時30分、三隈はアメリカ軍のPBYカタリナ飛行艇を発見し、空襲があると判断した乗組員達の間には悲壮な空気が漂いはじめた[63]。カタリナは『二隻の戦艦の艦尾に油の航跡が見える』と報告、これを受けてB-17重爆8機が攻撃に向かった[61]。またフレミング大尉率いる急降下爆撃機SB2Uビンジゲーター6機、テイラー大尉率いる急降下爆撃機SBDドーントレス6機がミッドウェー島を発進し、日本軍の『戦艦2隻』を仕留めに向かった[64]。午前8時40分、アメリカ軍機は攻撃を開始、SBU隊指揮官のフレミング大尉は対空砲火で被弾炎上し、三隈の四番砲塔に体当たりしたとされる[65][64][66]。アメリカ軍海兵隊は、フレミング大尉は三隈に直撃弾を与えたものの、被弾して海中に突入したと記録している[65]。フレミング大尉は勇敢な行動によりメダル・オブ・オナー(名誉勲章)を死後授与された[65]。続いてB-17爆撃機8機が水平爆撃を行い、至近弾3発、命中弾2発を主張した[65]。もっとも最上で2名が戦死したが、命中弾はなかった[65]。三隈は深刻な被害を受けたとする解釈もあるが[66]、実際は不明である[67]。第二艦隊への報告では、両艦とも被害なしだったという[68]。スプルーアンス少将は『戦艦2隻、および炎上中の空母1隻、重巡洋艦3隻見ゆ、方位324度、距離240浬、針路310度、速力12ノット』という報告を受け、南雲機動部隊を追撃し、掃討することを決意した[69]

三隈の最後[編集]

大破した三隈。酸素魚雷の誘爆により後部の破壊が大きい。

6月7日午前5時、三隈と最上は駆逐艦荒潮朝潮と合流した[70]。同時刻、ホーネットの索敵機は『空母1隻、駆逐艦5隻』発見を報告し、続いて『さらに戦艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻見ゆ』と報告、また別の索敵機も『重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻』の発見を報告した[71]。スプルーアンス少将は南雲機動部隊にとどめを刺すべく、ホーネット(USS Hornet, CV-8)に攻撃を命じた[72]。直ちにF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機が発進する[73]。続いて午前10時45分、エンタープライズからワイルドキャット12機、ドーントレス31機(艦戦12、艦爆31、艦攻3とも)が発進した[74][73]

三隈は午前7時前後からアメリカ軍索敵機を発見し、『敵水偵2機触接、付近に水上艦艇あるものの如し。われ敵空母水上艦艇の追跡を受けつつあり、今よりウェーキ島へ向かう。地点、ウェーキの30度710浬』と発信した[75]。午前8時25分、最上は『敵兵力は空母1、巡洋艦2程度と認む』と発信する[76]。宇垣参謀長は近藤信竹中将の第二艦隊に救援命令を出すと共に、アメリカ軍機動部隊の戦力を空母1-2・特空母2隻程度と推測し、ウェーク島の航空機行動圏内に引き込んで決戦を挑むしかないと判断した[77]。近藤中将は『攻略部隊主隊は敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈、最上を救援せんとす』と山本五十六連合艦隊司令長官に連絡すると[78]、第二艦隊兵力を率いて三隈、最上の救援に向かったが、駆逐艦の燃料の関係から20ノットが限界であったという[79]。近藤中将は部下達に、空母瑞鳳の航空兵力と重巡洋艦が搭載する水上偵察機部隊を用いて全力攻撃をかける覚悟を示している[80]特攻を検討したと証言する瑞鳳の搭乗員もいる[81]。一方、三隈は最上に荒潮、朝潮の護衛をつけると3隻を残し、ウェーク島日本軍基地から発進する一式陸上攻撃機の飛行圏内に向って単艦で退避行動を開始した[82]。曽爾章(最上艦長)や山内正規(最上航海長)は三隈の行動を理解しつつ、離れていく三隈を羨望の思いで見つめていた[82][83]

エンタープライズの報告書によれば、6月7日は穏やかな天候で、少し低い所に雲がかかっていた[84]零式艦上戦闘機がいないため、アメリカ軍攻撃隊は余裕をもって空襲を行うことができた[85]。午前7時、ホーネットの攻撃隊(ドーントレス1機喪失)は霧島級戦艦1隻に500kg爆弾2発と250kg爆弾1発の命中を主張し、最上、荒潮にも爆弾命中を主張する[86]。最上は後部砲塔に深刻な損害を受け、艦中央部で火災が発生し、酸素魚雷を緊急投棄した[87]。最上の撃沈を確信したアメリカ軍機は、三隈に目標を変更した[88]。エンタープライズの攻撃隊は28ノットで西に進む戦艦と愛宕型重巡洋艦を発見、攻撃を開始した[89]。エンタープライズ隊は1,000ポンド爆弾5発命中、2発至近弾を主張し、さらにワイルドキャット戦闘機が12.7mm機銃を撃ちこんだ[84]。午前11時の段階で三隈は艦橋から艦中央部にかけて集中的に被弾し機銃砲座の弾薬が炸裂して火災が発生、『三隈大爆発見込なし』という状態になった[90]

最後にホーネットから発進した第二波攻撃隊(ドーントレス23機)は、重巡1隻(三隈)に爆弾1発、軽巡洋艦1隻(最上)に爆弾6発の命中を主張した[91]。ホーネットの第二波攻撃隊は三隈の三番砲塔に1発を命中させ、破片が艦橋の天蓋から頭を出していた崎山釈夫艦長に重傷を負わせた[92]。さらに爆弾が右舷機械室と左舷後部機械室を直撃し、三隈は航行不能となった[92]。艦の指揮を継承した高島秀夫(中佐・副長)は部下に脱出のための筏を作らせた[92]。また空襲下4隻全体の指揮は最上の艦長が継承した。この時、三隈の攻撃に向かったB-17爆撃機6機は米潜水艦のグレイリング(USS Grayling, SS-209)を誤爆し、「巡洋艦1隻撃沈」を報告している[91][93]

乗組員が20発被弾と推定するほど多数の爆弾を被爆した三隈は[94]、火災により搭載する酸素魚雷が誘爆、致命傷となった[95]。朝潮の乗組員によれば、三隈の中央部で被弾誘爆による大火災が発生したのち、煙突にも直撃弾があって白煙が噴出し、完全に停止したという[96]。高島副長は総員退去を命じ、高島副長自身も爆弾の直撃で戦死した[97]。水平線の向こうから駆逐艦荒潮が現れて三隈に接近すると、乗組員は歓声を上げて荒潮を迎えたという[98]。接舷した荒潮は多数の三隈乗組員を救助したが、その最中に米軍機の攻撃を受け、後部砲塔に命中した爆弾により戦死者が続出する[95]。さらに、アメリカ軍機は海面を漂う三隈乗組員に対し、執拗な機銃掃射を繰り返す[99]。荒潮は240名程を救助した段階で退避を余儀なくされ、人力操舵で三隈から離れた[100]。朝潮は内火艇やカッターを降ろして海面を漂流する三隈乗組員の救助にあたったが、アメリカ軍機の攻撃で被弾、戦死者22名・重傷者35名を出した[101]。遠ざかる三隈になお爆弾が命中したのが目撃されている[102]

しばらくして、エンタープライズからドーントレス2機が発進し、戦果の確認に向かった[103]。廃墟となった三隈の周囲を飛行しながら写真を撮影[104]。三隈は左舷に傾斜し、右舷からは煙と蒸気がたなびき、主砲は別々の方向を向いて、完全に沈黙していた[103]。ある艦攻電信員兼機銃手は三隈を『屑鉄とガラクタでいっぱいの巨大なバスタブ』と表現している[85]

太陽が沈みアメリカ軍機空襲の危険が去ると、朝潮は三隈の処分と脱出者の救援に向かった[105]。空襲を受けた海域に戻った朝潮は三隈の艦影を発見できず、『三隈所在海面に至りしも艦影を認めず。付近捜索すれども空し』と報告する[106]。これを受けて最上は『三隈所在海面に至るも艦影を見ず。確認したるものなきも沈没せる算段大なりと認む。我れ取り敢えず重傷者を収容、西航を続行す』と連合艦隊に報告し、第二艦隊との合流を急いだ[107]。アメリカ軍も三隈の沈没の瞬間を目撃していない[108]。石川健一(三隈機関科)によれば、日没直前に沈下をはやめたのち左舷に転覆、沈没した[104]。6月8日午前中、第二艦隊は三隈の生存者を乗せた最上、荒潮、朝潮を収容、生存者は荒潮から鈴谷に移乗して日本本土へ戻った[109]

三隈の最後を聞いた宇垣纏連合艦隊参謀長は、日記戦藻録に『最上及八驅逐隊も損傷の身を以て、攻略部隊の前程を西方にかわり、其の収容を為すを得たり、一時は全滅かと危ぶまれたる之等が三隈の犠牲に於て事済みたり、最上は潜水艦回避に当り三隈と衝突航行不能なりしも、逐次修復して、二〇節迄出し得るに至る。三隈は損傷なく専ら最上の援護に当たりしつつありしに其身反りて斃れ、最上の援護の目的を果たす。右両艦の運命こそ奇しき縁と云ふべく、僚艦間の美風を発揮せるものなり』と記している[110]。6月9日、アメリカ軍の潜水艦トラウト (USS Trout, SS-202) が漂流する救命筏から2名の三隈の乗組員を救助した[111]。当初19名が筏に乗っていたが、最終的に2名だけになってしまったという[112]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』117-119頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 吉田庸光 大佐:1934年6月1日 - 7月4日
  2. 鈴木田幸造 大佐:1934年7月4日 -

艦長[編集]

  1. 鈴木田幸造 大佐:1935年8月29日 - 11月15日
  2. 武田盛治 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  3. 岩越寒季 大佐:1936年12月1日 -
  4. 入船直三郎 大佐:1937年12月1日 -
  5. (兼)平岡粂一 大佐:1938年11月15日 -
  6. 阿部孝壮 大佐:1938年12月15日 -
  7. (兼)久保九次 大佐:1939年7月20日 -
  8. 木村進 大佐:1939年11月15日 -
  9. 崎山釈夫 大佐:1940年11月1日 - 1942年6月7日戦死

同型艦[編集]

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 福永恭助 『増補 軍艦物語』 一元社、1934年11月。
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1937年2月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『日本軍艦集 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C05034318000「第3025号 10.6.7 寄贈物品受納の件」
    • Ref.C05110629300「第171号の9 10.9.5 三隈」
    • Ref.C05110623500「第25号の27.1.14三隈」
    • Ref.C05023428700「第918号 9.2.3 軍艦三隈進水式実況放送の件」
    • Ref.C05023495700「第1754号 9.4.19 軍艦三隈進水記念絵葉書調製並に記念撮影に関する件」
    • Ref.C05023428800「第2075号 9.5.7 皇族の御差遣を仰度件」
    • Ref.C05034226600「第2023号 9.5.4 三菱重工業に於て建造の軍艦三隈進水の件」
    • Ref.C05034226700「第2043号 9.9.6 巡洋艦最上、三隈竣工期日変更の件」
    • Ref.C05034226900「第2404号 9.10.31 軍艦三隈工事概括表変更認許の件」
    • Ref.C05034228500「第1001号 10.4.13 最上三隈船体部補強工事に伴ひ工事予定変更に関する件」
    • Ref.C08030745600「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報ミッドウェー作戦(3)」
    • Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報ミッドウェー作戦(4)」
    • Ref.C08030112500「昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」
    • Ref.C12070095800 『昭和7年達完/8月』。
    • Ref.C13071974300 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C13071993800 『昭和15年12月25日現在10版内令提要追録第8号原稿』。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録』 原書房、1968年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 亀井宏 『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』 光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7
  • 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第7巻 重巡Ⅲ』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0457-1
  • エドワード・P・スタッフォード 著、井原裕司 訳 『空母エンタープライズ THE BIG E 上巻』 元就出版社、2007年ISBN 978-4-86106-157-8
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 中島親孝 『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』 光人社NF文庫、1997年10月。ISBN 4-7698-2175-1 中島は近藤中将の第二艦隊参謀として愛宕に乗艦していた。
  • チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』 恒文社、1962年12月。
  • イアン・トール著、村上和久訳 「第十二章 決戦のミッドウェイ」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』 文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6
  • 橋本敏男田辺弥八ほか 『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』 光人社、1992年ISBN 4-7698-0606-x
  • 橋本敏男田辺弥八ほか 『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』 光人社NF文庫、1999年ISBN 4-7698-2249-9
    • 血染めの重巡三隈にあがった絶叫かなし 元重巡三隈の通信科員・三等水兵和田正雄
    • 不死身の最上ミッドウェー沖の雄叫び 元重巡最上の航海長・海軍中佐山内正規
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ著、千早正隆訳 『ミッドウェーの奇跡 上巻』 原書房、2005年ISBN 4-562-03874-8
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ著、千早正隆訳 『ミッドウェーの奇跡 下巻』 原書房、2005年ISBN 4-562-03875-6
  • 藤田千代吉ほか 『証言 昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション6 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』 光人社、1990年7月。ISBN 4-7698-0504-7
    • 連合艦隊の守護神・第八駆逐隊「朝潮」艦橋からの血戦レポート-藤田千代吉(測距員)「ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている」
  • 丸編集部編 『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』 光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6
    • 元最上航海長・海軍大佐山内正規『七戦隊三隈と最上の衝突 ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇
  • 「丸」編集部編 「曾爾章 重巡最上出撃せよミッドウエー」『巡洋艦戦記 重巡最上出撃せよ』 光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9
  • 吉田俊雄(元大本営海軍参謀) 『良い指揮官 良くない指揮官 14人の海軍トップを斬る!』 光人社、1996年1月。ISBN 4-7698-0746-5
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.38 最上型重巡』(学習研究社、2002年) ISBN 4-05-602880-X
  • ウォルター・ロード、実松譲訳 『逆転 信じられぬ勝利』 フジ出版社、1969年7月。

脚注[編集]

  1. ^ 昭和10年8月29日付 海軍内令 第334号改正、海軍定員令「第50表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。
  2. ^ #艦艇類別等級(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|最上型|最上、三隈、鈴谷、熊野』
  3. ^ a b c #達昭和7年8月p.7『達第百五號 艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル|昭和七年八月一日 海軍大臣岡田啓介|呉海軍工廠ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 最上モガミ|三菱長崎造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 三隈ミクマ』
  4. ^ 「寄贈物品受納の件」p.3
  5. ^ 「三菱重工業に於て建造の軍艦三隈進水の件」
  6. ^ 「第171号の9 10.9.5 三隈」p.2
  7. ^ 「三菱重工業に於て建造の軍艦三隈進水の件」p.3
  8. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『三隈|二等巡洋艦|(艦要目略)|190.50|18.20|4.50|8,500|33.0節|9|昭和6-12-24|9-3-14|10-8-29|15.5c/m…15 12.7c/m高角8|發射管12|探照燈3(機関略)』
  9. ^ #達昭和7年8月pp.7-9『達第百六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦二隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和七年八月一日 海軍大臣岡田啓介|驅逐艦 佐世保海軍工廠ニ於テ建造(昭和六年五月起工ノモノ) 初春ハツハル|浦賀船渠株式會社 子日ネノヒ|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 若葉ワカバ|潜水艦 呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第六十八潜水艦|神戸三菱造船所ニ於テ建造 伊號第六十九潜水艦|水雷艇 舞鶴要港工作部ニ於テ建造 千鳥チドリ|藤永田造船所ニ於テ建造 眞鶴マナヅル|掃海艇 藤永田造船所ニ於テ建造 第十三號掃海艇|大阪鐡工所ニ於テ建造 第十四號掃海艇|敷設艇 石川島造船所ニ於テ建造 夏島ナツシマ』
  10. ^ 「軍艦三隈進水式実況放送の件」p.3、「三菱重工業に於て建造の軍艦三隈進水の件」p.1
  11. ^ 「軍艦三隈工事概括表変更認許の件」p.2
  12. ^ 「巡洋艦最上、三隈竣工期日変更の件」p.3
  13. ^ 「最上三隈船体部補強工事に伴ひ工事予定変更に関する件」p.2
  14. ^ 「第25号の27.1.14三隈」p.2
  15. ^ #日本軍艦集2600年版p.29『ニ等巡洋艦 三隈(みくま) 基準排水量8,500噸、長さ190,5米、幅18,20米、平均吃水4.5米、速力33節、備砲15.5糎砲15門、12.7糎高角砲8門、魚雷發射管12門、起工昭和6年12月24日、竣工昭和10年8月29日、建造所三菱長崎造船所-最上と同型。この排水量で、この重武装を施した軽巡は世界に皆無である。』
  16. ^ #重巡最上出撃せよ270頁
  17. ^ #重巡最上出撃せよ271頁
  18. ^ #重巡最上出撃せよ274-276頁『インド洋をわが手に』
  19. ^ 「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.3
  20. ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.5
  21. ^ #重巡最上出撃せよ283頁
  22. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.39、#プランゲ下61頁
  23. ^ #プランゲ下112頁
  24. ^ #プランゲ下88頁
  25. ^ #プランゲ下116頁
  26. ^ #戦藻録(九版)132頁、#プランゲ下116頁
  27. ^ #プランゲ下115頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.48
  28. ^ #亀井戦記497頁、#戦藻録(九版)132頁
  29. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.39-40、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.15、#亀井戦記498頁
  30. ^ #プランゲ下116頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.16
  31. ^ #亀井戦記499頁、#聯合艦隊作戦室65頁
  32. ^ #亀井戦記500頁
  33. ^ #聯合艦隊作戦室65頁
  34. ^ #亀井戦記501頁、#聯合艦隊作戦室66頁
  35. ^ #吉田指揮官165頁
  36. ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.16-17
  37. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.7
  38. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.11、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.23
  39. ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4
  40. ^ #亀井戦記546頁
  41. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14
  42. ^ #証言ミッドウェー海戦188頁、#亀井戦記546頁
  43. ^ #亀井戦記547頁、#プランゲ下149頁
  44. ^ #プランゲ下149頁
  45. ^ #亀井戦記547頁
  46. ^ #亀井戦記548頁
  47. ^ #亀井戦記549頁
  48. ^ #亀井戦記550頁
  49. ^ #亀井戦記551-552頁
  50. ^ #重巡最上出撃せよ286-287頁
  51. ^ #証言ミッドウェー海戦182頁、和田正雄(三隈通信科)談。#亀井戦記554頁、芳野三郎(兵長、最上機関科)、古田賢二(一等水兵、砲術科)
  52. ^ #亀井戦記558-559頁
  53. ^ #太平洋の試練(下)321頁
  54. ^ #戦藻録(九版)139頁、#亀井戦記556頁
  55. ^ #重巡最上出撃せよ292-293頁
  56. ^ #聯合艦隊作戦室70頁
  57. ^ #戦藻録(九版)139頁
  58. ^ #吉田指揮官167頁
  59. ^ #重巡最上出撃せよ288-289頁『わが最上あやうし』
  60. ^ #亀井戦記560頁
  61. ^ a b #ロード、逆転233頁
  62. ^ #プランゲ下152頁
  63. ^ #証言ミッドウェー海戦183頁
  64. ^ a b #太平洋の試練(下)322頁
  65. ^ a b c d e #プランゲ下153頁
  66. ^ a b #ロード、逆転234頁
  67. ^ #戦藻録(九版)143頁、#亀井戦記562頁
  68. ^ #聯合艦隊作戦室69頁
  69. ^ #プランゲ下154頁
  70. ^ #亀井戦記563頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4
  71. ^ #プランゲ下169頁、#BIG E上137頁
  72. ^ #プランゲ下169頁
  73. ^ a b #ロード、逆転242頁
  74. ^ #プランゲ下170頁、#BIG E上137頁
  75. ^ #戦藻録(九版)144頁、#亀井戦記566頁
  76. ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.28
  77. ^ #戦藻録(九版)144-145頁
  78. ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.28-29
  79. ^ #聯合艦隊作戦室70頁
  80. ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.30
  81. ^ 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』(大日本絵画、2009)124頁。藤井庄輔(一飛曹、55期操練)
  82. ^ a b #亀井戦記566頁
  83. ^ #重巡洋艦戦記69頁
  84. ^ a b #BIG E上137頁
  85. ^ a b #太平洋の試練(下)323頁『三隈の沈没』
  86. ^ #プランゲ下170頁
  87. ^ #重巡最上出撃せよ299頁
  88. ^ #亀井戦記567頁
  89. ^ #プランゲ下170頁、#BIG E上137頁
  90. ^ #戦藻録(九版)144頁、#プランゲ下172頁
  91. ^ a b #プランゲ下174頁
  92. ^ a b c #プランゲ下173頁
  93. ^ #ロード、逆転249頁
  94. ^ #証言ミッドウェー海戦185頁
  95. ^ a b #亀井戦記570頁
  96. ^ #リバイバル戦記コレクション650頁
  97. ^ #亀井戦記573頁
  98. ^ #証言ミッドウェー海戦186頁
  99. ^ #亀井戦記571、584頁
  100. ^ #亀井戦記584頁、#証言ミッドウェー海戦186頁
  101. ^ #リバイバル戦記コレクション655頁
  102. ^ #亀井戦記584頁、#証言ミッドウェー海戦187頁
  103. ^ a b #BIG E上138頁
  104. ^ a b #ロード、逆転243頁
  105. ^ #重巡洋艦戦記71頁、#リバイバル戦記コレクション656頁
  106. ^ #亀井戦記588頁
  107. ^ #重巡最上出撃せよ304頁
  108. ^ #重巡最上出撃せよ305頁(最上艦長がアメリカ軍技術調査団に質問したところ、米潜水艦が雷撃処分して数名を捕虜にしたとの回答を得た)
  109. ^ #亀井戦記591-592頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4
  110. ^ #戦藻録(九版)146頁、#亀井戦記593頁、#重巡洋艦戦記76頁
  111. ^ #プランゲ下175頁
  112. ^ #ロード、逆転252頁(機関科の石川健一、電信兵曹の吉田勝一)

関連項目[編集]