第41師団 (日本軍)
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第41師団 | |
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創設 | 1939年(昭和14年)6月30日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 | 北支-ニューギニア |
編成地 | 朝鮮 龍山 |
通称号/略称 | 河 |
補充担任 | 第14師管・宇都宮師管・宇都宮師管区 |
最終上級単位 | 第18軍 |
最終位置 | ニューギニア チャイゴーリ |
戦歴 |
日中-太平洋戦争 (ニューギニアの戦い) |
第41師団(だいよんじゅういちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
沿革
[編集]大陸戦線
[編集]盧溝橋事件後華北から華中・華南へと戦線が拡大し日中戦争が泥沼化するなかで、占領地の警備や治安維持を目的として1939年(昭和14年)6月30日に新設された歩兵三個連隊編制師団の一つであり、同時に第38師団・第39師団・第40師団が新設された。また同年2月7日には第32師団・第33師団・第34師団・第35師団・第36師団・第37師団が新設された。
編成後、同年10月に華北に進駐、第1軍の指揮下に入り山西省方面の警備に当たる一方、ほかの治安師団と同様さまざまな治安作戦に参加し、約3年間山西省を拠点に活動する。
太平洋戦線
[編集]1942年(昭和17年)11月に、師団は華北からニューギニアに転用されることとなり、第8方面軍隷下の第18軍に編入された。先発隊の歩兵第239連隊が1943年(昭和18年)2月下旬に、師団主力も同年5月に東部ニューギニアのウェワクに進出した。しかし、その頃既に第51師団はラエ・サラモアの戦いに敗れ、続いてフィンシュハーフェンの戦いで第20師団も大打撃を受け、第18軍は壊滅状態となっていた。
1944年(昭和19年)7月10日に、第41師団を主体とした残された第18軍の全勢力を以ってアイタペの戦いを挑むが功を奏せず、以後アレキサンダー山系にこもり飢餓との戦いを続けた。
師団概要
[編集]歴代師団長
[編集]- 田辺盛武 中将:1939年(昭和14年)10月2日 - 1941年(昭和16年)3月1日
- 清水規矩 中将:1941年(昭和16年)3月1日 - 1942年(昭和17年)7月1日
- 阿部平輔 中将:1942年(昭和17年)7月1日 - 1943年(昭和18年)6月11日(戦病死)
- 真野五郎 中将:1943年(昭和18年)6月14日 - 終戦
参謀長
[編集]- 田島彦太郎 騎兵大佐:1939年(昭和14年)10月6日 - 1941年7月7日[1]
- 三原修二 大佐:1941年(昭和16年)7月7日 - 1943年8月2日[2]
- 伊藤章 大佐:1943年(昭和18年)8月2日 - 1944年5月24日戦死[3]
- 増成正一 中佐:1944年(昭和19年)8月17日 - 終戦[4]
最終所属部隊
[編集]- 第41歩兵団:青津喜久太郎少将
- 歩兵第237連隊(水戸):奈良正彦少将
- 歩兵第238連隊(高崎):山口達春大佐
- 歩兵第239連隊(宇都宮):越智鶴吉大佐
- 山砲兵第41連隊:大野斌夫大佐
- 工兵第41連隊:加藤正中佐
- 輜重兵第41連隊:吉松篤大佐
- 第41師団通信隊:長井角治少佐
- 第41師団第1野戦病院:難藤正明軍医少佐
- 第41師団第2野戦病院:寺本巖軍医少佐
- 第41師団第3野戦病院:中浜欣時軍医少佐
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。