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第41師団 (日本軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第41師団
創設 1939年(昭和14年)6月30日
廃止 1945年昭和20年)
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 師団
兵種/任務 歩兵
所在地 北支-ニューギニア
編成地 朝鮮 龍山
通称号/略称
補充担任 第14師管宇都宮師管宇都宮師管区
最終上級単位 第18軍
最終位置 ニューギニア チャイゴーリ
戦歴 日中-太平洋戦争
(ニューギニアの戦い)
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第41師団(だいよんじゅういちしだん)は、大日本帝国陸軍師団の一つ。

沿革

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大陸戦線

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盧溝橋事件華北から華中華南へと戦線が拡大し日中戦争が泥沼化するなかで、占領地の警備や治安維持を目的として1939年昭和14年)6月30日に新設された歩兵三個連隊編制師団の一つであり、同時に第38師団第39師団第40師団が新設された。また同年2月7日には第32師団第33師団第34師団第35師団第36師団第37師団が新設された。

編成後、同年10月に華北に進駐、第1軍の指揮下に入り山西省方面の警備に当たる一方、ほかの治安師団と同様さまざまな治安作戦に参加し、約3年間山西省を拠点に活動する。

太平洋戦線

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1942年(昭和17年)11月に、師団は華北からニューギニアに転用されることとなり、第8方面軍隷下の第18軍に編入された。先発隊の歩兵第239連隊が1943年(昭和18年)2月下旬に、師団主力も同年5月に東部ニューギニアウェワクに進出した。しかし、その頃既に第51師団ラエ・サラモアの戦いに敗れ、続いてフィンシュハーフェンの戦い第20師団も大打撃を受け、第18軍は壊滅状態となっていた。

1944年(昭和19年)7月10日に、第41師団を主体とした残された第18軍の全勢力を以ってアイタペの戦いを挑むが功を奏せず、以後アレキサンダー山系にこもり飢餓との戦いを続けた。

師団概要

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歴代師団長

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  • 田辺盛武 中将:1939年(昭和14年)10月2日 - 1941年(昭和16年)3月1日
  • 清水規矩 中将:1941年(昭和16年)3月1日 - 1942年(昭和17年)7月1日
  • 阿部平輔 中将:1942年(昭和17年)7月1日 - 1943年(昭和18年)6月11日(戦病死)
  • 真野五郎 中将:1943年(昭和18年)6月14日 - 終戦

参謀長

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  • 田島彦太郎 騎兵大佐:1939年(昭和14年)10月6日 - 1941年7月7日[1]
  • 三原修二 大佐:1941年(昭和16年)7月7日 - 1943年8月2日[2]
  • 伊藤章 大佐:1943年(昭和18年)8月2日 - 1944年5月24日戦死[3]
  • 増成正一 中佐:1944年(昭和19年)8月17日 - 終戦[4]

最終所属部隊

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  • 第41歩兵団:青津喜久太郎少将
    • 歩兵第237連隊(水戸):奈良正彦少将
    • 歩兵第238連隊(高崎):山口達春大佐
    • 歩兵第239連隊(宇都宮):越智鶴吉大佐
  • 山砲兵第41連隊:大野斌夫大佐
  • 工兵第41連隊:加藤正中佐
  • 輜重兵第41連隊:吉松篤大佐
  • 第41師団通信隊:長井角治少佐
  • 第41師団第1野戦病院:難藤正明軍医少佐
  • 第41師団第2野戦病院:寺本巖軍医少佐
  • 第41師団第3野戦病院:中浜欣時軍医少佐

脚注

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  1. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』376頁。
  2. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』408頁。
  3. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』412頁。
  4. ^ 『帝国陸軍編制総覧』1289頁。

参考文献

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  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

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