輜重兵

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輜重兵(しちょうへい)または輜重兵科(しちょうへいか)は、兵站を主に担当する日本陸軍後方支援兵科の一種。一般に、輜重の輸送に従事した輜重輸卒(後に輜重特務兵と改称)とは区別され、輸卒を監督する任務を帯びた。

陸上自衛隊においては、輸送業務や輸送統制を行う「輸送科」、糧食・燃料などの補給を行う「需品科」に分類される。

概要[編集]

戦闘行動の上で兵站業務は極めて重要であり、輜重兵とはこの兵站業務を専門として監督・管理をする兵科である。水食料・武器弾薬・各種資材など様々な物資を第一線部隊に輸送して、同部隊の戦闘力を維持増進することが主任務であり、貨物自動車(トラック)などの大型車両を保有するが、後方任務に限定されていたので武装は比較的軽装備である。

但し、敵は通常、後方連絡線・兵站線を断とうとすることから、輜重兵はゲリラの遊撃や航空阻止の対象となりやすく、いったん攻撃を受けると戦闘力や防備(装甲)に乏しい輜重部隊は大きな損害を受ける場合もあった。敵側による航空阻止は補給部隊そのものの破壊だけでなく、それが利用する主要交通路(トンネル鉄道港湾など)も標的として、物資輸送の遅滞・妨害を目的とした。

装備[編集]

輜重車[編集]

三八式二輪輜重車(陸上自衛隊・北鎮記念館)

日本陸軍の輜重具は日中戦争期に至るまで馬匹による運搬が主力であった。輜重車が本格運用されたのは日清戦争終了後であった。日露戦争中には輜重車が投入され、輸送を担った。

日本陸軍においては明治6年3月に輜重兵の編成が開始された。創設当初、フランス軍士官の提案により四馬曳輜重車が採用されたものの、大型過ぎて日本の道路事情には適していなかった。明治10年の西南戦争においては役夫を民間から組織したが、逃走のおそれがあり、また経費負担が大きかった。これは当時の日本人には階級意識が残っており、士分以外の者が戦争に関わることを嫌ったためである。明治12年に民間用の手車を参考とし、実用的な輜重車である徒歩車を開発した。自重は71kg、最大積載量は112kgであり、1名ないし2名の人力で牽引された。この荷車は明治14年2月に輜重輸送車として制式化され、明治19年1月に廃止された。代替として明治19年に有坂車が採用された。これは馬車一頭により牽引する一馬曳二輪車である。明治27年には二輪輜重車が採用された。1903年(明治36年)には三六式輜重車が正式採用された。また三六式四輪輜重車、三八式二輪輜重車などが開発された。1906年(明治39年)には三九式輜重車が制式化され、この一馬曳二輪車が日中戦争期まで使用された。さらに、十年式二馬曳輜重車、十年式四馬曳輜重車が順次開発使用された。1930年(昭和5年)には九〇式二馬曳輜重車が制式化されたが、戦時騎兵旅団専属にとどまった他、九六式輜重車が開発された。しかし、あくまで主力は敗戦まで三九式輜重車であった。

自動車化[編集]

左端が九四式六輪自動貨車。

第二次世界大戦当時、貨物自動車(トラック)を中心とした陸上輸送能力を大量に運用できたのはアメリカ陸軍とアメリカから車輌・燃料を供与された連合国軍だけであったが、その連合国軍でさえも、依然として軍事輸送の様々な局面で馬匹が利用されていた。枢軸国側のドイツ国防軍機甲師団で知られるが、これも後方支援業務では馬匹による輸送が多くを占めていた。近代陸軍の貨物自動車による兵站能力には、その国家・勢力のモータリゼーションの進展度合や道路インフラ、石油ガソリンの供給状況が密接に関係している。軍隊という組織において貨物自動車を輸送機関として大規模かつ円滑に運用するには、まず必要量の石油・ガソリン類の安定的な確保と運搬、供給手段の整備が必要なのである。

日本陸軍においても自動車については、1907年(明治40年)から調査が始められており、その後1915年(大正4年)に軍用自動車試験班、1918年(大正7年)12月1日に自動車隊[1]1925年(大正14年)に陸軍自動車学校が設けられた。

満州事変に際しては、陸軍自動車学校で編成された自動車隊が満州に送られ、関東軍(野戦)自動車隊として活動した。これより自動車輸送への評価・関心が高まったが、陸軍では常に地形による制限を受けるという理由で自動車の使用を抑制し、自動車を効率的に駆使するためには人工的に道路を建設改修するという必要の根本観念を欠いていた。そのため肝心の戦地での自動車化は進まず、日中戦争においても依然として馬が輜重の主力を占めていたとされる。

1930年代中頃に日本陸軍は九四式六輪自動貨車を制式採用したが、他方で、日産80型トラックなど内外の民間用四輪トラックもそのまま軍用車両として使用した。

旧日本軍における輜重兵の地位[編集]

大日本帝国陸軍では自動車運転免許の取得者自体が非常に少なく、陸軍に入って生まれて初めて自動車に触れる者までいた時代であった。また「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボのうち 焼いた魚が泳ぎだし 絵に描くダルマにゃ手足出て 電信柱が咲く」などと軽蔑の対象になることもあった。

しかしながら、輜重兵と輜重輸卒とは全く別個の存在で、輜重輸卒は元来軍夫が担っていた単純機械的労働に従事するに過ぎない雑卒であるのに対して、輜重兵は兵卒・下士官クラスであっても多数の輜重輸卒を監督する立場にあり、個々の兵卒の能力が重視された。反面、将校では身体の故障から第一線に服することが困難になった者が転科したり、士官学校での成績が低かったり、素行に問題のあった者が振り分けられることが多く、冷遇されがちであった。

また、輜重兵科は1891年(明治24年)まで陸軍大学校への入校を認められず、以降も第二次世界大戦中まで毎年一人入れるかどうかだった(例外は34期3名、35期2名、38期4名、48期2名)。そのため陸軍中央幼年学校本科陸軍予科士官学校に改組され卒業前に兵科が発表される様になると、輜重兵科と発表された者の落胆は大変なものであった。

他にも、当時の帝国陸軍では兵科ごとに必ず「兵科の歌」があったにも関わらず、輜重兵科だけその歌が作られていなかった。[注釈 1] [注釈 2]

この兵站軽視の思想による輜重部門の軽視は太平洋戦争においてその弊害を色濃く表した。たとえばガダルカナル島の戦いインパール作戦では、極めて杜撰な補給計画が大きな要因となり、多くの餓死者や戦病死者を出している。

輜重兵科陸軍大学校卒業者(兵科廃止前卒業分)
期別 氏名 卒業年 最終階級 最終補職 備考
10期 中村幸 1896年(明治29年) 少将 近衛輜重兵大隊長 優等
11期 佐々木一郎 1897年(明治30年) 輜重兵中佐 輜重兵第1大隊付 優等[注釈 3]
12期 布施慶助 同上 中将 輜重兵監
18期 川瀬亨 1906年(明治39年) 中将 輜重兵監
22期 飯田恒次郎 1910年(明治43年) 中将 陸軍自動車学校
23期 服部英男(手塚治虫の祖父) 1911年(明治44年) 中将 輜重兵監
24期 小嶋時久 1912年(大正元年) 少将 陸軍自動車学校長
26期 佐々木吉良 1914年(大正3年) 少将 輜重兵監
29期 井出鉄蔵 1917年(大正6年) 中将 第32師団
32期 武内俊二郎 1920年(大正9年) 中将 第116師団
33期 物部長鉾 1921年(大正10年) 中将 第140師団
34期 柴山兼四郎 1922年(大正11年) 中将 陸軍次官
同上 米山久馬 同上 少将 第1野戦輸送司令官
同上 落合忠吉 同上 中将 輜重兵監
35期 板花義一 1923年(大正12年) 中将 第2航空軍司令官
同上 湯原均一 同上 少将 第11野戦輸送司令官
36期 小畑信良 1924年(大正13年) 少将 第44軍参謀長
38期 山中繁茂 1926年(大正15年) 中将 第52航空師団
同上 田坂専一 同上 中将 昭南防衛司令官
同上 石原章三 同上 中将 輜重兵監部付
同上 角和善助 同上 少将 第13野戦輸送司令官
39期 中村儀十郎 1927年(昭和2年) 少将 南方軍兵站参謀長
41期 高田清秀 1929年(昭和4年) 中将 緬甸方面軍兵站監
43期 大塚武 1931年(昭和6年) 輜重兵大佐 第17師団参謀 戦死[注釈 4]
45期 小山嘉兵衛 1933年(昭和8年) 大佐 陸軍輜重兵学校幹事
48期 山本善一 1936年(昭和11年) 中佐 陸大教官
同上 田中敬二 同上 大佐 参謀本部作戦課
49期 龍崎庄司 1937年(昭和12年) 大佐 第35軍参謀 戦死[注釈 5]
50期 衣川慶太郎 1938年(昭和13年) 中佐 第41軍参謀
51期 稲垣正次 同上 中佐 陸軍省整備局課員
52期 白井文忠 1939年(昭和14年) 中佐 第12方面軍参謀

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 昭和12年に作られた輜重兵の歌があるが、作詞作曲者は不明である。
  2. ^ 軍歌日本陸軍 (軍歌)には輜重兵科が歌いこまれている。また、歌詞は輜重を重視した物となっている。少なくとも、この軍歌が作られたときは輜重がある程度重視されていた。
  3. ^ 1907年(明治40年)2月18日に死去[2]
  4. ^ 1939年(昭和14年)6月22日に戦死[2]
  5. ^ 1945年(昭和20年)4月19日に戦死[2]

出典[編集]

  1. ^ 『官報』第1904号、大正7年12月7日。所在地は東京府荏原郡世田ヶ谷村横根。
  2. ^ a b c 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、pp.545-611「陸軍大学校卒業生」

参考文献[編集]

関連項目[編集]