能代 (軽巡洋艦)

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能代
1943年6月、東京湾内で全力公試中[1]、または終末運転公試中[2]と推定される能代。
1943年6月、東京湾内で全力公試中[1]、または終末運転公試中[2]と推定される能代。
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[3]
運用者  大日本帝国海軍
種別 二等巡洋艦
艦級 阿賀野型
経歴
計画 1939年マル4計画
起工 1941年9月4日[3]
進水 1942年7月19日[3]
竣工 1943年6月30日[3]
除籍 1944年12月20日[4]
最後 1944年10月26日沈没[4]
北緯11度42分 東経121度41分 / 北緯11.700度 東経121.683度 / 11.700; 121.683[4]
要目(計画)
基準排水量 6,651英トン[5] または 6,652英トン[3]
公試排水量 7,710トン[3]
満載排水量 8,338.4トン[5]
全長 174.50m[3]
水線長 172.00m[3]
垂線間長 162.00m[3]
全幅 15.20m[3]
深さ 10.17m[3]
吃水 公試平均 5.63m[5][3]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付)6基[3]
主機 艦本式タービン4基[3]
推進 4軸[3]
出力 100,000hp[3]
速力 35ノット[3]
燃料 重油 1,420トン[3]
航続距離 6,000カイリ / 18ノット[3]
乗員 計画乗員 700名 + 司令部26名[6]
兵装 50口径15cm連装砲 3基6門 [7]
九八式8cm連装高角砲2基4門 [7]
25mm機銃3連装2基6挺(竣工時)[7]
同 3連装10基、単装18挺(1944年7月)[8]
13mm連装機銃2基(竣工時)[注釈 1]
61cm四連装魚雷発射管 2基8門[9]
九三式一型改一魚雷16本[9]
九五式爆雷18個[9]
装甲 計画[10]
機関部舷側 60mmCNC、甲板 20mmCNC鋼
弾火薬庫舷側55mmCNC、甲板20mmCNC鋼
舵取機室舷側 30mmCNC、甲板20mmCNC鋼
操舵室舷側 30mmCNC鋼
搭載艇 竣工時[注釈 2]
11m内火艇1
9m内火艇1
12m内火ランチ1
9mカッター(救助艇)2
搭載機 零式水上偵察機2機[11]
レーダー 21号電探1基(竣工時)[12]
22号電探2基(1944年7月以降)[12]
13号電探1基(1944年7月以降)[12]
その他 呉式二号射出機5型1基[13] または一式二号射出機11型1基[14]
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能代(のしろ)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦[15]

概要[編集]

軍艦能代」は、日本海軍の軽巡洋艦(二等巡洋艦)[15]阿賀野型軽巡洋艦の2番艦[16][17]。艦名は秋田県米代川の下流域の別称、能代川にちなんで命名された[18]。帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。

1943年(昭和18年)6月30日に竣工後、8月15日附で第二水雷戦隊に編入[15]。第二水雷戦隊旗艦となり大和型戦艦1番艦「大和」等と共にトラック泊地へ進出した[15][19]。11月上旬のラバウル空襲では被害軽微だったが、12月末のカビエン輸送作戦で小破[15]1944年(昭和19年)1月下旬に横須賀に帰投して修理を行った[15]。6月は大和型戦艦2隻(大和、武蔵)等と共に渾作戦およびマリアナ沖海戦に参加[15]。10月下旬、捷号作戦にともなうレイテ沖海戦に、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の第一遊撃部隊に所属して、大和型戦艦と共に参加[20][15]。「大和」と共に撤退中の10月26日、本艦は米軍機の空襲により撃沈された[20]

艦歴[編集]

完成まで[編集]

阿賀野型軽巡洋艦4隻のうち3隻(阿賀野、矢矧、酒匂)は佐世保海軍工廠で建造され、「能代」のみ横須賀海軍工廠での建造である[21][22]。 仮称第133号艦(能代)は[23]1941年(昭和16年)9月4日、横須賀海軍工廠で起工[24]1942年(昭和17年)5月15日、「能代」と命名[25]。同日附で島風型駆逐艦「島風」と秋月型駆逐艦5番艦「新月」も命名された[26]7月19日昭和天皇の名代として伏見宮博恭王臨席のもと、第133号艦は進水[27][23]。同日附で呉鎮守府[28]。 8月20日、阿賀野型2隻(能代、矢矧)は二等巡洋艦阿賀野型として類別される[16]

1943年(昭和18年)5月1日、日本海軍は初春型駆逐艦1番艦「初春」初代艦長、巡洋艦(那珂長良青葉)艦長、大淀艤装員長等を歴任した田原嘉興大佐を、能代艤装員長に任命する[29]

5月20日、田原大佐(能代艤装員長)は制式に能代艦長(初代)となる[30]。主な初代幹部は、副長青砥鳳二中佐、航海長山内正規中佐(引続き戦艦「山城」航海長を兼務)、機関長岡村徳太郎中佐、運用長阿部了夫大尉[30]。 6月5日、山内正規中佐(山城航海長兼能代航海長)は能代航海長を免じられ、石飛矼少佐(臨時名取航海長)が能代航海長に補職[31]。また空母「龍鳳」砲術長小屋増男少佐が能代砲術長に任命される[31]。 6月14日、能代艤装員事務所を撤去[32]。 6月30日、竣工[24][15]

竣工後[編集]

1943年(昭和18年)7月10日、高田敏夫大尉(5月8日に沈没した駆逐艦「陽炎」水雷長)は能代水雷長に任命される[33][34]。7月29日、第十一水雷戦隊司令官木村進少将は天龍型軽巡洋艦2番艦「龍田」から「能代」に移乗し[35]、「能代」は臨時第十一水雷戦隊旗艦となる[36]。31日に旗艦が「龍田」に復帰するまで、第十一水雷戦隊(能代、龍田、若月)は瀬戸内海で訓練を実施[37]8月15日、「能代」は第二水雷戦隊(司令官高間完少将)に編入、長良型軽巡洋艦1番艦「長良」より二水戦旗艦を継承する[24][19]

8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和長門扶桑》、空母《大鷹[38] 、巡洋艦3隻《愛宕高雄能代》、駆逐艦部隊《涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風》)は呉を出撃、トラックに向かう[39][40]。 トラック泊地へ移動後、待機および訓練に従事[41][15]。また連合艦隊・機動部隊各艦と共に中部太平洋諸島を行動した[42][43][44]

1943年(昭和18年)10月31日~11月1日、連合軍はタロキナ岬ブーゲンビル島)に上陸を開始、ブーゲンビル島の戦いが始まる[45]。連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、第一航空戦隊航空戦力を南東方面に投入し、つづいてトラック泊地所在の主力艦艇(第二艦隊)も投入することを決定する[46]。 11月3日午前7時45日、第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)指揮下の重巡洋艦部隊(第四戦隊《愛宕高雄摩耶鳥海》、第七戦隊《鈴谷最上》、第八戦隊《筑摩》)、第二水雷戦隊(軽巡洋艦《能代》、駆逐艦《玉波涼波早波藤波》)はトラック泊地を出撃[47]。航行中の4日午前、航行不能となったタンカー「日章丸」救援に2隻(鳥海、涼波)を分離[47]11月5日午前6時頃、栗田長官指揮下の遊撃部隊はラバウルに到着した[47]。 同日午前7時、空母2隻(サラトガ、プリンストン)を基幹とするアメリカ機動部隊(第38任務部隊)は艦載機計97機を投入、ラバウル在泊艦艇に対する空襲を敢行する[48]。栗田艦隊は軒並み被害を受ける[48]南東方面艦隊長官草鹿任一中将は栗田艦隊(ラバウル進出中の鳥海を含む)のトラック泊地帰投を下令[49]。航行不能となった「摩耶」を除く重巡各艦はラバウルを去った[49]。本艦の被害は負傷1名のみだった[50]。 11月6日、タロキナ岬への逆上陸作戦を実施するため、本艦は第二支援隊(能代、早波、長波)として行動した[51][15]

11月11日、米軍機動部隊は再びラバウル空襲を敢行[52]。この空襲で「涼波」(第32駆逐隊)が沈没、夕雲型4番艦「長波」(第32駆逐隊)が大破(航行不能)[53]。姉妹艦「阿賀野」も雷撃により損傷した[53]。草鹿任一中将はラバウル在泊艦艇のトラック回航を命じ、第十戦隊(軽巡《阿賀野》、駆逐艦《浦風》)と第二水雷戦隊部隊(能代、摩耶、長鯨、早波、藤波、五月雨風雲若月)はそれぞれラバウルを出発する[53][54]。 だが11月12日、米潜水艦の雷撃により「阿賀野」は航行不能となったため、二水戦(能代、藤波、早波)は摩耶以下と分離して阿賀隊(阿賀野、浦風)の救援に向かう[53][50]。合流後、「能代」は「阿賀野」の曳航を行うが途中で曳索が切れ、曳航任務をトラック泊地から来た「長良」と交代[24][50]。11月15日、各艦はトラック泊地に戻った[53][24]。11月下旬、クェゼリン環礁やブラウン環礁で行動[50][55]。12月もおおむねトラック泊地に停泊していた[56]

12月15日、第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官へ転任[57][58]長門型戦艦1番艦「長門」艦長早川幹夫少将が後任の第二水雷戦隊司令官となる(着任12月16日)[57][58]。また同日附で能代艦長も、12月3日まで香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」艦長[59]だった梶原季義大佐に交代した[57][60]。田原大佐は12月25日より扶桑型2番艦「山城」艦長に任命されている[61]

12月21日、米潜水艦スケートの雷撃によりタンカー「照川丸」が炎上。本艦は照川丸救難隊(能代、浜風)としてトラック泊地を出撃したが、「照川丸」は沈没した[60][62]

12月上旬、日本軍はニューアイルランド島アドミラルティ諸島の兵力増強を企図し、日本陸軍を内地から最前線への輸送することになった[63]。連合艦隊はこの輸送作戦を戊号輸送と命名した[64]。12月25日、戊三号輸送部隊第2部隊(軽巡《能代、大淀》、駆逐艦《秋月、山雲》)は、トラック泊地に到着した戊一号輸送部隊(戦艦《大和》、駆逐艦《谷風山雲[65]。大和はスケートの雷撃で損傷中)より兵力と物資を移載する[66][67]。 12月30日午後1時、戊三号第2部隊4隻(能代、大淀、秋月、山雲)はトラック泊地を出撃[66][60]1944年(昭和19年)1月1日午前4時45分にカビエンニューアイルランド島)に到着する[66][68]。当時、第二航空戦隊(空母龍鳳飛鷹)所属の零式艦上戦闘機36機がカビエンに進出し、同方面の戦闘機とあわせて上空掩護を担当していた[68]。3隻(能代、秋月、山雲)の揚陸は6時30分に終了し、野砲を積載していた「大淀」の揚陸作業がやや遅れていた[68][69]。 物資揚陸後の午前8時55分から9時20分にかけ、第2部隊は米軍機約85機の空襲を受ける[66]。「能代」は至近弾5発と直撃弾1発により小破(戦死10名、重軽傷22名)[70]、2隻(大淀、山雲)の損傷は軽微、「秋月」に被害はなかった[68][71]。1月4日までに各艦はトラック泊地に戻り、戊三号輸送を終えた[66][68]。 本艦は工作艦「明石」に横付けして応急修理を実施している[72][73]

昭和19年の行動[編集]

1944年(昭和19年)1月18日[24][74]、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将指揮下の横須賀回航部隊(軽巡《能代》、空母《瑞鳳雲鷹》、駆逐艦《早波若葉初霜》)はトラック泊地を出発[72][73]。 1月19日、同航していた大鷹型航空母艦2番艦「雲鷹」が米潜水艦(ハダック)の雷撃で損傷したため、早川少将は2隻(瑞鳳、若葉)を横須賀に先行させ[72]、能代隊(能代、雲鷹、早波、初霜)は1月20日にサイパン到着[24][73]。翌日、2隻(能代、早波)は雲鷹隊(雲鷹、初霜、海風《救難のため到着》)を残して出発[72]。1月24日に横須賀へ帰投[24][75]。1月と2月は横須賀で修理と整備を行う[76][77]。 2月14日、早川少将は第二水雷戦隊旗艦を「能代」から高雄型重巡洋艦1番艦「高雄」に変更[78]。2隻(高雄、早波)は横須賀を出撃してパラオに進出した[79]。 3月19日、出渠[24]。3月28日に横須賀を出発し、4月3日にダバオへ到着[24][15]。その後はリンガ泊地やタウイタウイ泊地等で行動した[24][15]

6月中旬、ビアク島を巡って日本軍と連合軍の攻防が繰り広げられており(ビアク島の戦い)、日本海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開していた[80]。芳しくない戦局に対し、日本海軍は大和型戦艦2隻なども投入して第三次渾作戦を敢行、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった[81][82]。 第一戦隊司令官宇垣纏海軍中将(海兵40期)が率いる渾部隊は[83]、宇垣司令官直率の攻撃隊(第一戦隊《大和武蔵》、バチャン泊地に先行待機中の第五戦隊《妙高羽黒[84]、第二水雷戦隊《能代島風沖波》)、第一輸送隊(重巡《青葉》、軽巡《鬼怒》、駆逐艦4隻)、第二輸送隊(津軽)等という戦力を揃えた[81]6月10日、攻撃部隊(大和、武蔵、能代、島風、沖波)はタウイタウイ出撃[85][86][87]。直後にアメリカ潜水艦ハーダーに発見された[88][89]。これと同時に日本艦隊もハーダーの潜望鏡を発見し、「沖波」はハーダーを攻撃するため部隊から分離した[83][86]。ハーダーは小破。ハーダー・沖波(日本軍)双方とも相手を撃沈したと判断した[83]。 6月12日、大和以下攻撃部隊はハルマヘラ島バチャン泊地に到着[90]。同地で第五戦隊(妙高、羽黒)と合流[85][91]。 作戦開始を待ったが、6月13日になってサイパン島に対する艦砲射撃が開始されて戦局が急展開していった[89][92]。攻撃部隊(戦艦《大和、武蔵》、第五戦隊《妙高、羽黒》、軽巡《能代》、駆逐艦部隊《島風、沖波、朝雲山雲野分》)は同日夜にバチャンを急遽出撃[93]。第三艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)率いる第一機動艦隊(旗艦大鳳)に合流すべく急行した[85]

6月19日-20日のマリアナ沖海戦では前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊長官《旗艦愛宕》:第一戦隊《大和、武蔵》、第三戦隊《金剛榛名》、第四戦隊《愛宕〔前衛艦隊旗艦〕、高雄鳥海摩耶》、第三航空戦隊千歳千代田瑞鳳》、第七戦隊《熊野鈴谷利根筑摩》、第二水雷戦隊《軽巡能代、第31駆逐隊〔長波朝霜岸波沖波〕、第32駆逐隊〔藤波浜波玉波〕、附属〔島風〕》)として参加[94][95]6月20日の対空戦闘で、栗田艦隊は損傷艦数隻(千代田、榛名、摩耶)を出したが、沈没艦はいなかった[96][97]。 敗北後、日本艦隊は中城湾沖縄本島)へ移動した。6月24日、桂島泊地に戻る[24]。7月8日に呉を出撃、7月19日にシンガポールへ到着[24]。以後、リンガ泊地で待機・訓練に従事する[15]

レイテ沖海戦[編集]

10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期。旗艦《愛宕》)が指揮する第一遊撃部隊第一部隊(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶、鳥海》、第一戦隊《大和、武蔵》、第五戦隊《妙高、羽黒》、第二水雷戦隊《能代、島風、第2駆逐隊〔早霜、秋霜〕、第31駆逐隊〔岸波、沖波、長波、朝霜〕、第32駆逐隊〔浜波、藤波〕》)、第三戦隊司令官鈴木義尾中将(旗艦《金剛》)が指揮する第一遊撃部隊第二部隊(第三戦隊《金剛榛名》、第七戦隊《熊野鈴谷利根筑摩》、第十戦隊《矢矧、第17駆逐隊〔浦風浜風雪風磯風〕、駆逐艦〔野分清霜〕》)は[98][99]、それぞれリンガ泊地から出動[100][101]ブルネイ湾英語版で補給の後、10月22日に出撃した[102][103]。 ところが10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦愛宕高雄型重巡洋艦2番艦)がアメリカの潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) の雷撃で、第四戦隊僚艦摩耶(高雄型重巡4番艦)がデイス (USS Dace, SS-247) の雷撃でそれぞれ沈没し、同じく第四戦隊高雄(高雄型重巡1番艦)がダーターの雷撃で大破して航行不能となった[104][105][106]。 第31駆逐隊2隻(朝霜、長波)は「高雄」(航行不能、復旧作業中)の護衛を命じられ[107][108]、栗田艦隊から離脱した[109][110]

10月24日レイテ沖海戦(シブヤン海空襲)では[111]、栗田長官(大和座乗)の第一部隊(第一戦隊《大和武蔵長門》、第五戦隊《妙高羽黒鳥海〔臨時編入〕》、第二水雷戦隊《能代〔旗艦〕、第2駆逐隊《早霜秋霜》、第31駆逐隊《岸波沖波》、第32駆逐隊《浜波藤波》、島風型《島風》)としてアメリカ軍機と交戦[112]。本艦は砲零式弾120発、8cm高角砲210発、機銃18000発を発射し、アメリカ軍機撃墜3、不確実2、協同撃墜7を主張する[113]。だが、能代以下各艦は存在しない米潜水艦発見を報告し、空襲の最中にある艦隊は混乱した[114]。一連の対空戦闘で、「武蔵」沈没、3隻損傷離脱(妙高、浜風、清霜)という損害を受けた[115][116]

10月25日、第一遊撃部隊(栗田艦隊)は米軍機動部隊(護衛空母部隊)を追撃する(サマール島沖海戦[117][118]。戦闘前半ではスコールと煙幕により米艦隊を見失い[119]、午前8時38分には米駆逐艦主砲弾1発が弾薬供給所右舷上甲板に命中したが、戦死1名負傷3名で、それ以上の被害はなかった[120]栗田健男中将から追撃停止・反転命令があるまでに「能代」は巡洋艦1隻撃沈、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻撃破を記録した[121]。早川少将指揮下の第二水雷戦隊は効果的な水雷戦闘を行ったとはいえず[122][123]、大和座乗の第一戦隊司令官宇垣纏中将は陣中日誌「戦藻録」の中で、25日の第二水雷戦隊(能代)の行動に対し『2sdは占位東端に在り、進出方向適當ならず、途中反轉二回に及び概ね敵の後方に取残され砲戰も魚雷戰も行はざりしは遺憾なり。』と評している[124]

同日午後のアメリカ軍機の空襲(合計約150機)では[125][126]、左舷後部重油タンクに破孔が生じ、浸水により左舷外軸スクリューが使用不能・発揮可能速力32ノットとなる[127]。対空戦闘でアメリカ軍機撃墜6、不確実6、協同8を記録[128]、25日の弾薬消費は主砲零式弾100発、四号通常弾160発、8cm高角砲450発、機銃24000発だった[129]

10月26日[130]、大和や能代以下栗田艦隊は帰投途中にミンドロ島の南でアメリカ軍の第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)による空襲を受けた[131][132]。午前8時46分、爆弾1発が能代の高角砲弾薬供給所に命中し小火災が発生したが、これは消火に成功し、致命傷にならなかった[133]。雷撃機の襲撃に対処中、「大和」は魚雷を回避[130]。おそらく「大和」を狙った魚雷が「能代」に命中した[132]。 8時52分、能代左舷中央に魚雷1本が命中し、第1・第3缶室が浸水、傾斜16-26度[134]。航行不能となり洋上に停止した[125][130]。魚雷の投棄や重量物の移動により傾斜8度まで回復、10時30分ごろ曳航作業がおおむね完成した[135]。その時、再びアメリカ軍機20機の空襲を受けた[136]。大和以下栗田艦隊本隊が攻撃範囲外に出ていたので、米軍機は「能代」を狙う[132]。洋上停止中の「能代」は回避行動もできなかった[125]。10時39分。二番主砲塔右舷附近に魚雷1本が命中した[137]。艦首から沈下をはじめ、10時49分に総員上甲板が発令される[138]。11時6分、総員退去命令が出され、11時13分に北緯11度42分 東経121度41分 / 北緯11.700度 東経121.683度 / 11.700; 121.683地点で沈没した[139]。 最後の戦闘で「能代」は主砲零式弾20発、高角砲35発、機銃11000発を発射し、撃墜3、不確実1、協同5を記録した[140]。一連の海戦による能代戦死行方不明者は87名、負傷者51名[141][142]。能代・第二水雷戦隊司令部生存者は麾下駆逐艦2隻(浜波秋霜)に救助された[143][144]。早川司令官・能代艦長および御真影は「浜波」に収容[145]。第二水雷戦隊旗艦は「浜波」となった[146]

ブルネイに退却後の10月30日、第二水雷戦隊司令部は「浜波」から「大和」に移動[147]。翌日、二水戦司令部は多号作戦に従事するため「大和」から駆逐艦に乗り換え、マニラにむかった[148]。だが第三次多号作戦で「島風」沈没時に第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将は戦死、第二水雷戦隊司令部も全滅状態となった[149]。後日、能代生存者10名がフィリピン地上戦に投入されたという[150]

梶原季義大佐(能代艦長)は11月3日附で横須賀鎮守府附となる[151]。 青砥鳳二大佐(能代副長)[152]、小屋増男中佐(能代砲術長)[152]、石飛少佐(能代航海長)[152]、堺谷共太郎中佐(能代機関長)[152]、高田敏夫少佐(能代水雷長)[153]、阿部了夫少佐(能代内務長)[153]、阿部健大尉(能代通信長)[153]等も新たな任地に転じた。

12月20日、本艦はレイテ沖海戦で沈没した各艦と共に除籍された[154]

艦歴[編集]

  • 1941年9月4日 阿賀野型2番艦として横須賀工廠で起工。
  • 1942年7月19日 進水。
  • 1943年6月30日 竣工。
  • 1943年8月15日 第2水雷戦隊の旗艦となる。
  • 1944年1月1日 カビエン港外において、50kg爆弾を2発被弾。
  • 1944年10月26日 ミンドロ島南方にて空襲を受け魚雷2本、爆弾1発が命中。沈没。 

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』173-174頁、『日本海軍史』第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 田原吉興 大佐:1943年5月1日[29] - 1943年5月20日[30]

艦長[編集]

  1. 田原吉興 大佐:1943年5月20日[30] - 1943年12月15日[57]
  2. 梶原季義 大佐:1943年12月15日[57] - 1944年11月3日[151]

同型艦[編集]

備考[編集]

戦後、旧海軍残務処理機関の吉田英三大佐を中心とするグループが構想した「新海軍」では、本艦である能代をタイプシップとする巡洋艦を4隻建造し、艦隊旗艦及び戦隊旗艦とすることが考えられていた[155]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #JapaneseCruisersp.571によると、竣工時には後部マスト直前の構造物上に13mm連装機銃を左右1基ずつ装備。
  2. ^ #JapaneseCuisersp.593による。計画では9mカッター1を加えた計6隻だが、その9mカッターは煙突左舷に「阿賀野」と「能代」が一時的に搭載したのみという。

出典[編集]

  1. ^ #日本海軍艦艇写真集巡洋艦p.178.
  2. ^ #海軍艦艇史2p.441.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #昭和造船史第1巻784-785頁。
  4. ^ a b c #写真日本の軍艦第9巻p.104。
  5. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁の計画値「註.上記ノモノハ昭和十四年十月十三日艦本機密決第五三八号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス」。
  6. ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」22頁。
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  17. ^ #艦艇類別等級表(昭和19年1月31日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|阿賀野、能代、矢矧』
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  23. ^ a b #S1707横鎮日誌(6)p.11『一九(天候略)(略)二、横工廠ニ於テ建造ノ第一三三號艦能代ト命名無事進水|一、軍艦能代命名式御名代トシテ伏見宮博恭王殿下御差遣アラセラル/二、瑞鶴三宅島不時着機一五二五瑞鶴分隊長操縦横空ニ向ケ發無事横空着/三、出入艦船(主ナル友軍)(イ)出港ナシ(2)入港 電一五〇〇』
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  26. ^ #達昭和17年5月(1)pp.39-40『達第百五十七號 昭和十六年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等驅逐艦二隻、潜水艦三隻、驅潜艇五隻及掃海特務艇一隻ヲ左ノ通命名ス|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 一等驅逐艦 新月(ニイヅキ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 一等驅逐艦 島風(シマカゼ)|(以下略)』
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  37. ^ #S1804十一水戦(2)p.44『三〇(天候略)〇六一五能代龍田若月霞桂島発/二四〇〇 八島假泊|各艦諸訓練 若月主砲機銃第三回教練射撃/三一(天候略)〇七三〇假泊地発/一六二五能代若月霞入港(桂島)|(潜水艦)襲撃應急第四回航空戰教練|藤波早波當隊ニ編入/旗艦復帰(一五〇〇)』
  38. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.51『一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)』
  39. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.4『(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着』
  40. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)10dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』
  41. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.6『(1)能代 主トシテ「トラック」ニ在リテ待機竝ニ諸訓練ニ從事/十八日GF電令作第七一四號ニ依リ聯合機動部隊前衛トシテ「ブラウン」ニ向ケ「トラツク」出撃二十日「ブラウン」入泊警戒碇泊二十三日GF電令作第七二一號ニ依リ「トラツク」ニ向ケ「ブラウン」發二十五日「トラツク」歸投爾後「トラツク」在泊待機訓練』
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  43. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.12『(四)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和18年10月)
  44. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.6『(1)能代 「トラツク」ニアリテ待機八日早朝出撃GF大部出撃ノ爲北水道外掃蕩実施セルモ命ニ依リ歸投十七日機動部隊信令第二四二號ニ依リKdB YB前衛トシテ「トラツク」出撃十九日「ブラウン」着警戒碇泊二十三日出撃大鳥島西方海面索敵哨戒歸途二十五日7Sニ協力最上不時着機捜索(能代機協力)二十七日「トラツク」歸着』
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  50. ^ a b c d #S1806二水戦日誌(5)pp.8-9『(1)能代 「トラツク」在泊中一、二日不要物件陸揚出撃準備實施/三日GF電令作第七八四號ニ依リ「ラバウル」ニ向ケ「トラツク」出撃後NTBニ編入セラル四日敵機ノ觸接ヲ受ク五日「ラバウル」着敵機籔十機來襲撃戰果二機撃墜 司令部附兵一負傷セル外被害ナシ/六日午後B號作戰ノ爲「タロキナ」ニ向ケ出撃第二支援部隊トシテ行動作戰成功七日歸着同日ヨリ十日迄對空戰闘ノ爲曩港外ニ出撃/十一日港外ニテ對空戰闘中敵機ノ雷爆撃銃撃ヲ受クルモ被害軽微(艦体)同夕刻摩耶、長鯨、五月雨ヲ32驅(早波、藤波)ト共ニ護衛「ラバウル」發十二日NTB電令作第一三五號ニ依リ32驅(早波藤波)ト共ニ阿賀野救援ニ向ヒ同日夜現場着曳航中十四日曳索切断ノ爲長良ト交代、護衛ノ上十五日「トラツク」着任務終了爾後「トラツク」ニ在リ十九日附NTBヨリ除カレYBニ復歸ス二十四日乙作戰部隊トシテ「クエゼリン(ルオット)ニ向ケ出撃二十六日着二十七日同發二十八日「ブラウン」着二十九日同發参入日「ルオツト」着』
  51. ^ #叢書96ガ島撤収後401-404頁『タロキナ北方逆上陸の成功』
  52. ^ #叢書96ガ島撤収後412-414頁『米空母機による第二次ラバウル空襲― 十一月十一日』
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  61. ^ 昭和18年12月27日(発令12月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1287号 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 
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  70. ^ #S1812二水戦日誌(2)pp.33-34『五.戰果及被害』
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  72. ^ a b c d #S1812二水戦日誌(3)p.5『(2)中旬 能代明石ニ横付應急修理完成十八日本職能代瑞鳳雲鷹五十鈴32dg(早波)21dg(若葉初霜初春)ヲ率ヰ横須賀ニ向ケ「トラック」発(五十鈴初春十六日発先行)/十九日雲鷹雷撃ヲ受ケ瑞鳳若葉ハ分離横須賀ニ先行セシメ能代32dg(早波)初霜ニテ雲鷹ヲ護衛警戒シ「テニアン」(飛行機)及五特根哨戒艇ノ警戒協力ヲ得翌二十日「サイパン」着能代ニ繋留初霜早波ハ港外移動哨戒セシム翌二十一日海風來援ス/二十一日命ニ依リ警戒及処理ヲ五特根ニ引継キ2sd(能代)32dg(早波)横須賀ニ向ケ「サイパン」発/二十四日横須賀着修理整備ニ着手/24dg(海風涼風)「マーシャル」方面輸送終了十八日「トラツク」帰着翌十九日海風ハ前項雲鷹救難涼風ハ伊良湖救難ニ從事セリ』
  73. ^ a b c #S1812二水戦日誌(3)p.8『(1)能代 戊三號輸送部隊第二部隊トシテ一日〇四三〇「カビエン」着〇六三〇頃揚搭終了〇八三〇頃大淀終了全部隊帰還ノ途ニ就キシ頃〇九〇〇頃敵小型機大編隊(約百十機)來襲之ト交戰撃退二機確実撃墜 前部右舷ニ直撃彈及至近彈ヲ受ケ前部浸水セルモ戰斗航海ニ支障ナシ翌二日「トラック」歸着輸送部隊ノ編制ヲ解カル/六日被害箇所應急修理ノ爲明石ニ横付十六日完了十八日2sd司令官指揮ノ下ニ瑞鳳雲鷹32dg(早波)若葉初霜ト共ニ横須賀ニ向ケ「トラック」発/十九日雲鷹被雷撃ノ爲之ヲ護衛二十日「サイパン」着/二十一日32dg(早波)ト共ニ「サイパン」発二十四日横須賀着/被害箇所修理整備ニ從事中/能代(飛行機)ハ基地派遣ノ儘「トラツク」ニ残留作戰ニ從事中』
  74. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.18『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  75. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.82『二十四(天候略)涼風〇五〇〇「トラツク」発/2sd(能代)32dg(早波)一五三五横須賀着/満潮一三四五横須賀発』
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  78. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.25『一四日一〇二五(司令官)2sd|横鎮 2sd|タナ四八 本日一三〇〇将旗ヲ一時高雄ニ移揚ス』
  79. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.5『(2)中旬 十四日将旗ヲ一時高雄ニ移揚十五日高雄32dg(早波)ヲ率ヰ横須賀発二十二日「パラオ」着二十二日鳥海ニ将旗ヲ移揚(以下略)』
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  91. ^ #あ号詳報(2)pp4-5『(イ)第一機動艦隊 前月中旬來其ノ全力ヲ「タウイタウイ」ニ集結決戰即應ノ態勢ヲ持シアリシトコロ敵ノ「ビアク」攻略作戰ニ對應スル爲前月末一部ノ兵力ヲ之ニ向ケラレタルモ所期ノ成果ヲ得ラレザリシヲ以テ更ニ本月十日第一戰隊(長門欠)第二水雷戰隊(能代沖波島風)ヲ渾部隊ニ増勢セラレ右作戰部隊ハ十二日「バチヤン」泊地ニ其ノ大部ノ集結ヲ了シ作戰準備中新ニ敵ノ「マリアナ」進攻作戰ニ依リ渾作戰ハ一時中止ノ止ムナキニ至リ右部隊ハ十六日「パラオ」北西方ニ於テ機動部隊本隊ニ合同…』
  92. ^ #戦藻録(1968)343-344頁『六月十三日 火曜日 晴 サイパン攻略戰。あ號作戰決戰用意下令。』
  93. ^ #あ号詳報(2)p.7『十三日輸送及攻撃準備概成セル處「あ」號作戰決戰用意」發令ト共ニ渾作戰ハ一時中止セラレ第一戰隊(大和武藏)第五戰隊第二水雷戰隊(能代沖波島風)朝雲第四驅逐隊(山雲野分)ヲ原隊ニ復歸セシメラル 右諸部隊ヲ率ヰ機動部隊本隊ニ合同ノ爲「バチヤン」泊地ヲ出撃ス』
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  103. ^ #能代詳報(1)p.4『第二水雷戰隊旗艦トシテ第一遊撃部隊第一部隊ニ編入セラレ前進待機泊地タル「ブルネイ」ニ進出シアリシガ十月二十二日〇八〇〇第一第二部隊ハ同地ヲ出撃第一第二航路ヲ経テ敵部隊攻撃ニ向ヒタリ』
  104. ^ #愛宕戦闘詳報所見p.4『尚二番艦高雄ハ本艦(愛宕)被雷時ヨリ1分後、第五戦隊三番艦ノ位置ニ占位セル摩耶ハ午前六時五十六分頃被雷、高雄ハ航行不能摩耶ハ轟沈セリ』
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  106. ^ #レイテ(1971)197頁『二十三日(月)』
  107. ^ #愛宕戦闘詳報所見p.5『(四)本艦乗員ノ状況 (1)岸波及朝霜ニ救助セラレタル者:艦長以下准士官以上44名、下士官兵667名、傭人2名 (2)戦死者:機関長以下准士官以上19名、下士官兵340名、傭人1名 (3)重傷者:准士官以上2名、下士官兵3名 尚朝霜長波2艦ハ爾後高雄ノ警戒ニ當リツツ仝日夕刻迄附近海面ヲ行動セリ』
  108. ^ #高雄対潜戦闘p.6『0832大和→朝霜/朝霜ハ高雄ノ護衛ヲ続行スベシ|朝霜愛宕乗員ノ救助ヲ終リ本艦ノ警戒ニ就ク』-『0849大和→長波・朝霜/長波朝霜ハ今ヨリ高雄艦長ノ指揮ヲ受ケ護衛ニ任ゼヨ』
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参考文献[編集]

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    • 指揮官の決断 <駆逐艦「梨」艦長・高田敏夫少佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦初雪水雷長、陽炎水雷長《沈没時》、軽巡能代水雷長《沈没時》、駆逐艦艦長《沈没時》等)
  • 手塚正己 『軍艦武藏 上巻』 新潮文庫、2009年ISBN 978-4-10-127771-4
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  • 福田幸弘 『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6
  • 原為一ほか 『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』 潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    • 当時阿賀野・大淀設計主務・海軍技術大佐大薗大輔『私が設計した阿賀野&大淀の真価と秘密 凌波性と耐波性と機動性にとむ理想の名艦生みの親が語る造艦秘話』(香取で得た貴重な教訓)
    • 当時「大淀」航海長・海軍中佐内田信雄『艦隊司令部用旗艦「大淀」の航跡 連合艦隊旗艦としても栄光をになった名艦の生涯を綴る航海長の手記
    • 当時「能代」水雷長・海軍少佐高田敏夫『二水戦旗艦「能代」サマール沖の痛恨 敵を目前に肉薄雷撃戦もならず空しく帰途についた旗艦を襲った悲運
    • 戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
    • 「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
  • 淵田美津雄奥宮正武 『機動部隊 新装版戦記文庫』 朝日ソノラマ、1992年12月(原著1951年)。ISBN 4-257-17269-x
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
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関連項目[編集]