長鯨 (潜水母艦)

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長鯨(1942年)
艦歴
計画 1923年新補充計画
起工 1922年3月11日
進水 1924年3月24日
就役 1924年8月20日竣工
除籍 1945年10月15日
その後 1946年から1947年に解体
性能諸元 (竣工時)
排水量 基準:5,160英トン
公試:7,678トン
全長 125.4m
全幅 水線幅:16.215m
吃水 6.283m
機関 ロ号艦本式缶5基
パーソンズ式ギアードタービン2基
2軸 7,500馬力
速力 16ノット(計画)[1]
航続距離 10,400カイリ / 14ノット
燃料 石炭:402トン
重油:2,047トン[2]
乗員 399名
兵装 50口径三年式14cm連装砲2基
40口径三年式7.6cm単装高角砲2基
航空機 水上偵察機1機(1930年以降)[3]
その他 補給用重油:1,900トン

長鯨(ちょうげい/ちゃうげい)は[4]大日本帝国海軍潜水母艦迅鯨型潜水母艦の2番艦。

概要[編集]

軍艦(ぐんかん)長鯨(ちょうげい/ちゃうげい)は、三菱長崎造船所で建造された潜水母艦[5]。 廃艦になった八八艦隊主力艦の機関部を流用し(長鯨は加賀型戦艦の土佐より)[6]1924年(大正13年)8月に水雷母艦として竣工した(同年12月、潜水母艦に類別変更)[7]。 姉妹艦迅鯨と共に、日本海軍が最初に保有した本格的潜水母艦である[8][9]。 昭和時代に伊一型潜水艦などの高速・大型潜水艦が充実すると能力不足が顕著となり[8]1939年(昭和14年)以降は新型潜水母艦の大鯨剣埼に潜水母艦と潜水戦隊旗艦を譲る[9][10]。2隻(迅鯨、長鯨)とも練習艦や工作艦になった[6]。だが大鯨が空母龍鳳[11]、剣埼が空母祥鳳に改造され[12]、迅鯨・長鯨とも再び潜水戦隊旗艦に返り咲いた。

太平洋戦争開戦時の長鯨は、第三艦隊麾下の第六潜水戦隊旗艦であった[13]1942年(昭和17年)4月10日、第六潜水戦隊の解隊にともない呉鎮守府部隊に編入され[14]、練習艦任務に従事した[7]

1943年(昭和18年)1月15日、長鯨は迅鯨より第七潜水戦隊旗艦を継承[7][15]第八艦隊の任務に従事するためラバウルに進出した[7]。11月25日、長鯨は内海西部に帰投[7]。迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は瀬戸内海で潜水艦部隊の練習艦として過ごした[7][15]1944年(昭和19年)になると、迅鯨型も輸送任務に投入された[7][6]。迅鯨喪失後も、長鯨は内海西部で訓練に従事[7]1945年(昭和20年)6月に舞鶴へ回航され、7月30日の空襲で損傷したものの、終戦を迎えた[7]。戦後、長鯨は復員輸送に従事した後、解体された。

艦歴[編集]

建造経緯[編集]

日露戦争第一次世界大戦当時の潜水艦潜水艇)は限定された能力しか持たず、居住空間も含め、常に母艦の支援を必要とした[9][10]。しかし日本海軍の潜水母艦(潜水艇母艦)や潜水戦隊旗艦は、輸送船や旧式海防艦・巡洋艦改造の艦艇ばかりだった[9][10]。迅鯨型は日本海軍最初の本格的潜水母艦であり[9]、艦隊に随伴可能な速力と航洋性、特設巡洋艦や駆逐艦程度に対抗可能な戦闘力、旗艦としての通信能力、補給能力、母艦としての居住性能、簡易工作艦能力を併せ持った多用途艦である[10][16]。また訓練時には仮想敵としてメリーランド級戦艦などと仮定されることもあった[9]。 日本海軍の本格的潜水母艦は大鯨が竣工するまで迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)のみだったが、これは有事には大型貨客船を潜水母艦に充当する予定であり、平時には艦隊訓練用として2隻で充分だったからである[17]

長鯨は1920年(大正9年)度の計画(八八艦隊案)により建造が予定されていたが、起工前にワシントン軍縮条約が締結された[5]。それにより計画艦の中で起工前のものの予算は一度見直された。幸い長鯨は計画中止になることなく1923年大正12年度艦艇補充計画により改めて予算を獲得、建造された。 民間技術者と建造能力維持という観点から、2隻(迅鯨、長鯨)とも三菱長崎造船所での建造になった[16]。この際、軍縮下で建造費を節約するため、八八艦隊主力艦用として製造されていたボイラー(艦本式ロ号混燃罐)を流用している[16]。当初の計画では、長鯨用のボイラーは加賀型戦艦2番艦土佐より四罐、天城型巡洋戦艦4番艦高雄より一罐であった[18]。 長崎三菱造船所における土佐の進水は、1921年(大正10年)12月18日だった[19]

1922年(大正11年)2月15日、日本海軍は建造予定の水雷母艦を長鯨、特務艦2隻をそれぞれ隠戸間宮と命名した[4]。 3月11日、長鯨は起工。 しかし軍縮条約と土佐ボイラー搭載の関係上、長鯨の工事は遅れはじめる[20]

1923年(大正12年)9月18日、長鯨は水雷母艦に類別される[21]

1924年(大正13年)3月24日、長鯨は進水[22]。 8月2日、長鯨は竣工[23]。長鯨艤装員事務所も閉鎖された[24]

呉鎮守府籍に編入された。第二艦隊に編入。翌9月15日、長鯨は巡洋艦平戸より第二潜水戦隊旗艦を引き継ぐ[25]。同時期に撮影された、迅鯨と長鯨が並んで停泊する写真が残っている[26]。飛行機揚収デリックや水上偵察機搭載の有無などの差異があるが、2隻を写真から識別するのは極めて難しい[16]

太平洋戦争以前[編集]

竣工から約4ヵ月が経過した1924年(大正13年)12月、迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は水雷母艦から潜水母艦に類別変更される。艦隊編入後は中国方面や南洋に進出し活動した。大正15年度の連合艦隊潜水戦隊編制における第二艦隊・第二潜水戦隊は、旗艦〈長鯨〉、第14潜水隊、第17潜水隊(伊五一、伊五二)、第7潜水隊(伊一、二)となった[27]

1935年(昭和10年)に一度練習艦となるが、友鶴事件による復元性能改善対策[6]はこの時期に行われたようである[28]

昭和に入り伊号潜水艦(巡潜型)や海大潜が潜水戦隊の主力となると[29][30]、呂号潜水艦の潜水戦隊旗艦・母艦を想定していた迅鯨型では能力不足となった[10][31]。海大潜の水上速力は20ノットを越えていたのである[30]。 このため潜水戦隊旗艦には5,500トン型巡洋艦(軽巡由良鬼怒など)や新型の潜水戦隊用巡洋艦(大淀型[29]が配備もしくは建造された[8][10]。 また迅鯨型の艦齢も15年を超え、旧式化が顕著になった。 新鋭潜水母艦の大鯨[31]剣埼が相次いで竣工すると[8]1939年(昭和14年)11月より練習艦となった。本型は、航海学校(運用術練習艦)、兵学校、機関学校生徒用の練習艦として重宝される[32]。また日中戦争では工作艦任務にも従事した[6]

しかし新鋭潜水母艦3隻(大鯨、剣埼、高崎〈未完成、のちの瑞鳳〉)は有事の際に空母へ改造する予定であり[17]、実際に軽空母に改造されてしまう[33]。新鋭潜水母艦の空母改装により、迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は翌年11月から再び潜水戦隊旗艦に戻ることとなる。本型2隻に加えて、事前の予定どおり大型貨客船を徴傭して特設潜水母艦とした[17][10]

1940年(昭和15年)11月15日、日本海軍は主力潜水艦を中核とする第六艦隊(司令長官平田昇中将、旗艦香取)を編制する[34]1941年(昭和16年)1月中旬以降、連合艦隊と第六艦隊は合同で訓練を実施することになった[35]。この時、潜水艦の戦時行動能力を検討するため、臨時部隊が編成された[35]。第二潜水戦隊司令官山崎重暉(旗艦伊号第七潜水艦)を指揮官とし、第7潜水隊(伊1、伊2、伊3)、第12潜水隊(伊68、伊69、伊70)と潜水母艦長鯨で編成された部隊は、南洋諸島の第四艦隊(旗艦鹿島)を敵艦隊に想定[35]。横須賀隊(伊7、第7潜水隊)は2月23日内地出撃、呉隊(長鯨、第12潜水隊)は3月10日呉を出撃、トラック諸島近海で合同する[35]。臨時部隊は、トラック泊地~サイパン~小笠原諸島まで進出する第四艦隊に対し、反復攻撃を実施した[35]。連合演習終了後、各艦は4月23日に横須賀へ帰投した[35]

1941年(昭和16年)6月、長鯨は第六潜水戦隊旗艦となり、太平洋戦争に突入した。

太平洋戦争前期[編集]

1941年(昭和16年)12月8日の開戦時、長鯨は引き続き第三艦隊(司令長官高橋伊望中将)麾下の第六潜水戦隊(司令官河野千萬少将)の旗艦であった[7][13]。第六潜水戦隊(旗艦〈長鯨〉、第9潜水隊〈伊123伊124〉、第13潜水隊〈伊121伊122〉)[13][36]カムラン湾に進出。第六潜水戦隊の一部兵力(長鯨、伊123、伊124)は比島部隊潜水部隊として[37]フィリピン攻略や蘭印攻略を支援した[7]

1942年(昭和17年)1月20日、ポートダーウィン沖合で第9潜水隊の伊号第124潜水艦が撃沈される[38]。2月25日、伊124の除籍にともない第9潜水隊は解隊され、残存の伊123は第13潜水隊に編入された[39]。 3月10日、第四潜水戦隊(旗艦鬼怒)の解隊にともない、鬼怒は第十六戦隊へ、第18潜水隊は呉鎮部隊へ、第19潜水隊は第五潜水戦隊へ、第21潜水隊は第六潜水戦隊に編入される[40]。この時点での第六潜水戦隊は、母艦長鯨、第13潜水隊(伊121、伊122、伊123)、第21潜水隊(呂33、呂34)であった[41]。 4月1日、長鯨は佐世保に帰投[7]。 4月10日、日本海軍は第二段作戦に対応して戦時編制の改訂を実施する[14]。これにともない第六潜水戦隊は解隊された[14]。長鯨に呉鎮守府部隊に編入され[42]、以後は海軍潜水学校練習艦として訓練に従事した[7]

8月31日、日本海軍は戦時編制の改訂により伊34・伊35・さんとす丸で呉潜水戦隊を編成し、呉鎮守府部隊に編入した[43]。同部隊は新造潜水艦の訓練と練成を主任務としていた[43]

太平洋戦争中期[編集]

1943年(昭和18年)1月上旬、第七潜水戦隊旗艦の迅鯨が内海西部に帰投[44]。1月15日、長鯨は第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将)麾下の第七潜水戦隊旗艦となる[45]。それまでの七潜戦旗艦だった迅鯨が、交代で呉鎮守部隊に編入された。 1月19日、長鯨(第七潜水戦隊司令官座乗)は内海西部を出発[7]。1月26日にトラックに到着、丁潜水部隊(第七潜水戦隊基幹)は先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官、旗艦香取)の直率から除かれた[46]。 2月14日、長鯨はラバウルニューブリテン島)へ進出[7]。同方面の潜水艦作戦を支援した[7]

2月27日、第七潜水戦隊(兵力部署は先遣部隊丁潜水部隊)は南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)に編入され、南東潜水部隊となった[47]呂百型潜水艦の就役と編入により、3月15日時点での第七潜水戦隊は母艦(長鯨)、第13潜水隊(呂34、呂100、呂101、呂102、呂103、呂106、呂107)、伊122となる[47]。東部ニューギニア方面への輸送任務も南東潜水部隊指揮官(第七潜水戦隊司令官)の担当となり、七潜戦所属艦と増援潜水艦(伊176〈3月1日編入、3月28日先遣部隊に復帰〉、伊20〈3月13日編入〉、伊5〈3月18日編入〉、伊16〈3月20日編入〉、伊6〈3月28日編入〉等)はソロモン諸島や東部ニューギニア方面に展開、輸送任務や敵艦隊攻撃(増援遮断作戦)に従事した[47][48]。 なお3月上旬のビスマルク海海戦時、七潜戦各艦(呂101、呂103)は長鯨の支援を受けてラバウルを出撃、沈没艦船の人員救助活動をおこなった[49]。4月上旬のい号作戦でも、七潜戦各艦は天候偵察・不時着搭乗員救助・敵艦船攻撃任務に従事[49]。同任務従事中の4月5日、呂34は米軍駆逐艦に撃沈された[50]

6月末以降、連合軍はニュージョージア諸島に来攻、ニュージョージア島の戦い(6月下旬~8月下旬)並びにブーゲンビル島の戦い(10月下旬以降)がはじまる[51]。南東方面潜水部隊(指揮官、第七潜水戦隊司令官、旗艦長鯨)は各地への輸送任務や邀撃作戦に投入されるが[51]、沈没艦が続出する[52]。 11月2日、七潜戦・第51潜水隊の呂号第百四潜水艦ブーゲンビル島方面で行動中、ブーゲンビル島沖海戦で撃沈された軽巡洋艦川内乗組員を救助(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将を含む)、11月5日にラバウルに帰投した[52]。 連合軍のニューブリテン島西部によりダンピール海峡は制圧され、南東方面における日本軍の敗北は決定的となった[51]

11月25日、内地に帰投[7]。第十一潜水戦隊(4月1日新編、11月25日より第六艦隊所属)[43]の旗艦となり、瀬戸内海で訓練に従事する[7]。12月1日、潜水艦乗組員急速養成のため、呉潜水戦隊が再編された[43]

1944年(昭和19年)8月以降、迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)とも沖縄方面の輸送任務に従事する[7][15]。同任務中の10月10日、迅鯨は十・十空襲に遭遇して沖縄本島で沈没した[15]。姉妹艦喪失後の長鯨は、瀬戸内海での訓練に従事した[7]

1945年(昭和20年)に入り瀬戸内海が機雷で封鎖されたため6月4日に舞鶴港へ移動した[7]。7月30日に敵艦上機の攻撃で艦橋に直撃弾を受け中破[7]。そのままの状態で終戦を迎えた。

舞鶴海軍工廠で修理のあと、復員輸送に従事した[6]。本来の機関科兵は全員帰郷してしまい、機関科未経験の元神雷部隊隊員(特攻兵器「桜花」部隊)約20名が長鯨に配属された[53]。艦内規律も失われ混乱の中、素人の機関科兵達は機関室火災と修理と整備を繰返しつつ長鯨を運用していった[54]。妊娠中の女性が長鯨の乗船中に出産し、長鯨にちなんだ名前が付けられた事もあったという[55]。1946年(昭和21年)8月15日をもって復員船任務解除。その後は日立造船向島造船所で解体され[6]1947年(昭和22年)初めに解体完了した。船体の一部は同所の浮き桟橋に利用されたという。

兵装の変遷[編集]

航空機は1927年(昭和2年)度に一度搭載し、1930年(昭和5年)度より常時、一四式水上偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろして運用していた。1940年(昭和15年)ころには九四式水上偵察機を搭載していたらしい[3]

8cm高角砲2基は1940年(昭和15年)ころ25mm機銃連装2基と交換された。大戦中の機銃増備は明らかでないが艦橋前に25mm機銃連装2基、その他同単装機銃10挺を増備していたとされる[56]。また21号電探が前部マストのトップに装備された。

艦歴[編集]

  • 1922年(大正11年)3月11日 三菱長崎造船所にて起工。
  • 1924年(大正13年)3月24日 進水。
    • 8月20日 竣工(建造時の艦種は水雷母艦)
    • 9月8日 第2艦隊第2潜水戦隊の旗艦となる。
    • 12月1日 潜水母艦に艦種変更。
  • 1932年(昭和7年) 第一次上海事変に参加。
  • 1933年(昭和8年)11月15日 第1艦隊第1潜水戦隊の旗艦となる。
  • 1934年(昭和9年) 友鶴事件発生。翌年に(推定)復元性向上のため改装を受ける。
    • 11月15日 第2艦隊第2潜水戦隊の旗艦となる。
  • 1935年(昭和10年)10月15日 練習艦となる。
  • 1937年(昭和12年)7月28日 第2艦隊付属。
    • 10月20日 予備艦。
  • 1939年(昭和14年)4月1日 海軍航海学校練習艦。
  • 1940年(昭和15年)11月15日 第6艦隊第2潜水戦隊の旗艦となる。
  • 1941年(昭和16年)第3艦隊第6潜水戦隊の旗艦となる。
    • 12月9日 カムラン湾で警泊。
  • 1942年(昭和17年)1月4日 サマール島に陸戦隊を送る。
  • 1943年(昭和18年)1月15日 第8艦隊第7潜水戦隊の旗艦兼母艦となる。
    • 4月1日 南東方面艦隊に編入。
    • 11月29日 第6艦隊第11潜水戦隊の旗艦兼母艦となる。以後内海で訓練に従事。
  • 1944年(昭和19年)8月 沖縄への輸送任務に2回従事。
  • 1945年(昭和20年) 6月4日 舞鶴に回航。
    • 6月8日 機雷により損傷。
    • 7月30日 敵機の攻撃を受け中破、舞鶴で終戦を迎える。
    • 10月15日 除籍、その後は復員艦として使用。
  • 1946年(昭和21年)9月ころ 尾道の日立造船向島造船所で解体開始。
  • 1947年(昭和22年)はじめころに解体完了。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』197-199頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 湯地秀生 大佐:1924年3月25日 - 1924年8月2日[57]

艦長[編集]

  1. 湯地秀生 大佐:1924年8月2日 - 12月1日
  2. 尾本知 大佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
  3. 益子六弥 大佐:1925年12月1日 - 1926年12月1日
  4. 南部道二郎 大佐:1926年12月1日 - 1927年12月1日
  5. 倉賀野明 大佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日
  6. 野村直邦 大佐:1928年12月10日 - 1929年5月1日
  7. 和田専三 大佐:1929年5月1日 - 1929年11月1日[58]
  8. 白根貞介 大佐:1929年11月5日 - 1930年11月15日[59]
  9. 大和田芳之介 大佐:1930年11月15日 - 1931年12月1日[60]
  10. 横山菅雄 大佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日
  11. 春日末章 大佐:1933年11月15日[61] - 1934年11月15日[62]
  12. 吉富説三 大佐:1934年11月15日 -
  13. 藤永紫朗 中佐:不詳 - 1935年11月15日[63]
  14. 吉富説三 大佐:不詳 - 1936年12月1日[64]
  15. 龍崎留吉 大佐:1936年12月1日 - 1937年11月21日[65]
  16. 鵜池六蔵 大佐:1937年11月21日 - 1938年12月15日[66]
  17. 久宗米次郎 大佐:1938年12月15日 - 1939年3月30日[67]
  18. 田代蘇平 大佐:1939年3月30日 - 1939年11月15日[68]
  19. 駒沢克己 大佐:1939年11月15日 - 1941年10月15日[69]
  20. 長井満 大佐:1941年10月15日 -
  21. 小田為清 大佐:1942年4月5日 -
  22. 貴島盛次 大佐:1943年9月17日 -
  23. 寺岡正雄 大佐:1943年12月20日 -
  24. 溝畠定一 大佐:1944年7月27日 -

特別輸送艦艦長[編集]

  1. 杉谷永秀 大佐

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 計画では16ノットだが実際には18ノット近く出たとされる(『海軍艦艇史 3』p270。
  2. ^ 『海軍艦艇史 3』の巻末表による。
  3. ^ a b 航空機の搭載時期については『写真 日本の軍艦 第13巻』p95から「1927年度に搭載、1930年より再度搭載」とした。『海軍艦艇史3』の巻末表によると「1930年より搭載」、ただし本文中では「昭和3年(1928年)ころには既に搭載」となっている。
  4. ^ a b #達大正11年2月p.6『達第二十二號 大正十年度軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ水雷母艦一隻及特務艦二隻ニ左ノ通命名ス 大正十一年二月十五日 臨時海軍大臣事務管理 内閣總理大臣 子爵 高橋是清 水雷母艦 長鯨チャウゲイ 特務艦 隠戸オンド 特務艦 間宮マミヤ』
  5. ^ a b 日本潜水艦物語230-231頁『迅鯨型(迅鯨、長鯨)』
  6. ^ a b c d e f g 日本潜水艦物語234-235頁〔迅鯨型運用〕
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 補助艦艇奮戦記168-169頁『長鯨(ちょうげい)』
  8. ^ a b c d 日本潜水艦物語44-45頁
  9. ^ a b c d e f 日本潜水艦物語48-51頁『潜水母艦と後方支援』
  10. ^ a b c d e f g 日本潜水艦物語219-221頁『わが潜水母艦の諸特長』
  11. ^ 補助艦艇奮戦記169頁『大鯨(たいげい)』
  12. ^ 補助艦艇奮戦記169頁『剣埼(つるぎざき)』
  13. ^ a b c 日本潜水艦物語46-47頁〔太平洋戦争開戦時潜水戦隊一覧〕
  14. ^ a b c 戦史叢書98巻139-140頁『四月上旬における戦時編制と各部隊の動静』
  15. ^ a b c d 補助艦艇奮戦記168頁『迅鯨(じんげい)』
  16. ^ a b c d 日本潜水艦物語231-233頁〔迅鯨型特長〕
  17. ^ a b c 日本特設艦船物語101-10103頁『特設潜水母艦』
  18. ^ #造機部長会議1(2)pp.7-9『新造中止艦ヨリ利用シ得ベキモノ(大正一一.三.一九調)』
  19. ^ 海軍公報 第二千七百六十三號 大正10年12月19日 海軍大臣官房 p.13』 アジア歴史資料センター Ref.C12070278200 『○軍艦進水 長崎三菱造船所ニ於テ建造ノ軍艦土佐昨十八日午前十時三十分進水セリ』
  20. ^ #長鯨製造pp.11-12『母第三六三號 大正十一年十月十六日(宛略)水雷母艦長鯨工事豫定變更願ノ件 拝啓頭書水雷母艦長鯨ノ工事豫定ニ就テハ去ル六月九日付母一二七號弊信ニテ引渡期ヲ契約期日大正十二年十月三十一日トシテ御承認願出仝七月八日附官房第二五五一號ノ二ニテ御承認相蒙居候處軍縮ノ結果ト海運界ノ不振ハ當造船工事ニモ尠ラズ影響ヲ及シ目下ノ處ニテハ可成工事ヲ繰延時期ノ到ルヲ相待ツノ外致外ナキ状態ニ有之候得共母艦壹隻ハ可成早ク引渡御希望ノ趣ニ付本來ナラバ本艦ヲ先キニ御引渡ス可キノ處土佐用罐ヲ流用ノ關係上豫定通リ工事施行致難キヤニ被存候ニ就而ハ迅鯨ノ引渡ヲ大正十二年九月三十日ト致シ本艦工事ハ添付概括表ノ通リ大正十三年一月三十一日引渡ノ事ニ御變更ノ儀特別ノ御詮議ヲ以テ何卒御許可被成下度 右上申仕候 謹言』
  21. ^ #達大正12年9月p.1『達第百九十四號 艦艇類別等級表中水雷母艦ノ欄「迅鯨」ノ下ニ「長鯨」ヲ加フ 大正十二年九月十八日 海軍大臣 財部彪』
  22. ^ #長鯨製造p.32『大正一三年三月二十四日 午前一一-四五長崎發 午后二-二〇中央着 長崎三菱造舩所 海軍大臣 軍艦長鯨二十四日午前十時十分無事進水ス』
  23. ^ #長鯨製造p.41『一三.八.二 午前一一-〇長崎發 后一-三〇海軍省着 長鯨艤装員長 海軍大臣 本日受領軍艦旗ヲ掲揚ス』
  24. ^ 海軍公報 第3524号 大正13年7月29日(火)海軍大臣官房 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C12070292500 『○事務所撤去 軍艦長鯨艤装員事務所ヲ長崎三菱造船所内ニ設置中ノ處八月一日撤去ノ豫定』
  25. ^ 海軍公報 第3524号 大正13年9月15日(月)海軍大臣官房 p.5』 アジア歴史資料センター Ref.C12070293000 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ本月十二日第二潜水戰隊司令官ノ旗艦ヲ平戸ヨリ長鯨ニ變更セリ』
  26. ^ 日本潜水艦物語51頁(大正13年9月、長鯨と迅鯨写真)
  27. ^ 日本潜水艦物語43-44頁〔大正十五年度潜水戦隊〕
  28. ^ 『写真 日本の軍艦 13巻』p95より。
  29. ^ a b 戦史叢書98巻35-36頁『その後の潜水艦用法の発展』
  30. ^ a b 日本潜水艦物語78-81頁『世界に冠たる海大潜』
  31. ^ a b 日本潜水艦物語235-237頁『大鯨』
  32. ^ 日本潜水艦物語249-250頁『新計画(昭和十七年立案のマル五計画)の潜水母艦』
  33. ^ 日本潜水艦物語239-240頁
  34. ^ 戦史叢書10巻154-155頁『潜水部隊/編制』
  35. ^ a b c d e f 戦史叢書10巻158-159頁『潜水部隊/訓練』
  36. ^ 戦史叢書98巻458頁『16.11.1現在|GF|3F|6Ss』
  37. ^ 戦史叢書98巻123-125頁『開戦初頭における作戦/兵力展開』
  38. ^ 戦史叢書98巻469頁『日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊124(司)』
  39. ^ 戦史叢書98巻458頁『編成改定/17.2.25』
  40. ^ 戦史叢書98巻458頁『編制改定/17.3.10○4Ssを解隊』
  41. ^ 戦史叢書98巻459頁『17.3.10現在|GF|6Ss』
  42. ^ 戦史叢書98巻459頁『編制改定/17.4.10』
  43. ^ a b c d 戦史叢書98巻256頁『呉潜戦、十一潜戦』
  44. ^ 戦史叢書98巻212-213頁『ガ島撤退作戦』
  45. ^ 戦史叢書98巻460頁では『編成改定/18.1.5○迅鯨(7Ss→呉鎮)。長鯨(呉鎮→7Ss)』と記載。
  46. ^ 戦史叢書98巻215頁
  47. ^ a b c 戦史叢書98巻229-230頁『南東潜水部隊の作戦/編制の推移並に三月中旬における概況』
  48. ^ 戦史叢書98巻232-234頁『東部ニューギニア作戦輸送』
  49. ^ a b 戦史叢書98巻230-231頁『増援遮断作戦』
  50. ^ 戦史叢書98巻472頁『呂34』
  51. ^ a b c 戦史叢書98巻265-266頁『南東方面潜水部隊の作戦/全般情勢と潜水艦作戦の概要』
  52. ^ a b 戦史叢書98巻266-268頁『小型潜水艦の邀撃作戦』
  53. ^ #最後の海空戦226頁
  54. ^ #最後の海空戦227頁
  55. ^ #最後の海空戦228頁
  56. ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』p96による。
  57. ^ 『官報』第3586号、大正13年8月6日。
  58. ^ 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
  59. ^ 『官報』第1166号、昭和5年11月17日。
  60. ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
  61. ^ 『官報』第2064号、昭和8年11月16日。
  62. ^ 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
  63. ^ 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
  64. ^ 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
  65. ^ 海軍辞令公報 号外 第96号 昭和12年11月22日付』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072600 
  66. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  67. ^ 海軍辞令公報(部内限)第320号 昭和14年3月31日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500 
  68. ^ 海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  69. ^ 海軍辞令公報(部内限)第728号 昭和16年10月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072082800 

参考文献[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片岡紀明 『最後の海空戦 若き最前線指揮官たちの日米戦争』 光人社、2003年12月。ISBN 4-7698-1164-0
    • 機関科魂は消えず――軽巡洋艦「能代」機関科分隊士・斉藤義衛(斉藤は能代沈没後、駆逐艦宵月や回天部隊勤務を経て、1945年10月より長鯨分隊長)
  • 寺崎隆治ほか 『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』 潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1
    • (164-287頁)戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争/潜水母艦(六隻)
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』(KKベストセラーズ、1982年) ISBN 4-584-17023-1
  • 福井静夫 「第三部 日本海軍の潜水母艦」『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本潜水艦物語』第9巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、1994年12月。ISBN 4-7698-0657-4
  • 福井静夫 「第五章 特設水雷母艦、特設掃海母艦および特設潜水母艦」『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本特設艦船物語』第11巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、2001年4月。ISBN 4-7698-0998-0
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 ハワイ作戦』第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 潜水艦史』第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『大正11年達完/2月』。Ref.C12070079900。
    • 『大正12年達完/9月』。Ref.C12070082500。
    • 『軍艦長鯨製造一件』。Ref.C08051091100。
    • 『造機部長会議1(1)』。Ref.C08050393300。
    • 『造機部長会議1(2)』。Ref.C08050393400。

関連項目[編集]