五月雨 (駆逐艦)

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艦歴
計画 マル1計画
起工 1934年12月19日
進水 1935年7月6日
就役 1937年1月29日
その後 1944年8月26日船体断裂、放棄
除籍 1944年10月10日
要目(計画時)
排水量 基準:1,685トン
全長 111m
全幅 9.9m
吃水 3.5m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸 42,000hp
速力 34ノット
航続距離 18ktで4,000浬
乗員 226名
兵装
(竣工時)
50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
毘式四十粍機銃 2基
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(魚雷16本)
爆雷投射機2基
爆雷×16

五月雨(さみだれ)は、日本海軍駆逐艦白露型駆逐艦の6番艦である[1]。艦名は海上自衛隊むらさめ型護衛艦6番艦「さみだれ」に継承された。

概要[編集]

一等駆逐艦五月雨(さみだれ)は、日本海軍が浦賀船渠1934年(昭和9年)12月から1937年(昭和12年)1月末にかけて建造した駆逐艦[2][3]。白露型駆逐艦の6番艦[1]

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦時、白露型4隻(村雨、五月雨、夕立春雨[1]は引続き第2駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊(旗艦那珂)に所属[3][4]南方作戦フィリピン攻略戦蘭印作戦)に従事する[5]。同方面作戦従事中、第2駆逐隊は1942年(昭和17年)1月下旬のバリクパパン沖海戦や2月下旬のスラバヤ沖海戦に参加した[4][5]。 南方作戦成功後、同年5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦における第2駆逐隊は、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦愛宕)指揮下の攻略部隊本隊に所属[4]。7月、インド洋方面通商破壊作戦(B作戦)のためマレー半島へ進出。8月7日以降、ガダルカナル島の戦いによりトラック泊地へ移動後、戦艦陸奥の護衛部隊として第二次ソロモン海戦に参加した[4]

9月中旬以降、ガダルカナル島に対する駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に従事[5]。10月下旬のガ島突入作戦では空襲を受けた軽巡由良が沈没したので、第2駆逐隊は由良乗組員を救助した(南太平洋海戦[6]。11月中旬、第2駆逐隊および第四水雷戦隊は第三次ソロモン海戦に従事[4]。同海戦第一夜戦で姉妹艦夕立が沈没し[7]、五月雨は生存者を救助した[8]。同海戦第二夜戦では戦艦霧島が沈没し[9]、五月雨は僚艦(朝雲照月)と共に生存者を救助した[10][11]

1943年(昭和18年)2月上旬、2隻(朝雲、五月雨)はガダルカナル島撤退作戦に撤収部隊として参加した[3][11]。輸送任務や護衛任務に従事したあと、2隻(朝雲、五月雨)は5月下旬より北方部隊に編入され、第一水雷戦隊所属艦や他部隊応援艦と共に7月のキスカ島撤退作戦に従事した[3][11]

五月雨が北方作戦従事中の7月1日、所属艦2隻(夕立、村雨)沈没と春雨長期修理のため、第2駆逐隊は解隊される[12][13][14]第二水雷戦隊附属駆逐艦となった五月雨は、9月よりラバウルに進出し、ニュージョージア島の戦いに参加[3]。 10月1日附で五月雨は第27駆逐隊に編入され、同駆逐隊は白露型3隻(時雨、五月雨、白露)となる[15]。 本艦は、姉妹艦時雨等と共に第二次ベララベラ海戦ソロモン諸島各地への輸送作戦に従事した[3][16][17]。 11月1日-2日、第27駆逐隊(時雨、五月雨、白露)は軽巡川内(第三水雷戦隊旗艦)[18]と共にブーゲンビル島沖海戦に参加[5][17]。同夜戦で川内は沈没[19]、五月雨は白露と衝突、損傷した[20][21]。12月中旬、五月雨は軽巡夕張と共に内地へ帰投[22]横須賀海軍工廠で修理をおこなう[3]。 この間、春雨が第27駆逐隊に編入され、27駆は白露型4隻(時雨、白露、五月雨、春雨)となった[23]

1944年(昭和19年)3月10日に修理完成後[3]、五月雨は松輸送(サイパン島増援輸送作戦)に従事[24]。4月下旬、パラオ方面輸送作戦中に夕張が米潜水艦ブルーギルに撃沈され[25]、駆逐艦夕月と共に夕張生存者を救助した。 5月上旬には竹輸送(豪北方面増援輸送作戦)に従事する[26]。 6月上旬、27駆は渾作戦に従事[3][16][20]6月8日の第二次渾作戦では駆逐艦6隻(敷波、浦波、春雨、五月雨、時雨、白露)でビアク島に進撃するが、空襲で春雨が沈没[27][28]。続く米艦隊との夜戦で各艦は軽微な被害を受けた[29]。 6月15日に衝突事故で白露が沈み[20][21]、27駆は2隻(時雨、五月雨)で6月中旬のマリアナ沖海戦に参加[5][17]第二航空戦隊を護衛した[3][16]。 内地帰投後、戦艦大和等を護衛してリンガ泊地に進出[3]。27駆(時雨、五月雨)は第十六戦隊と共にフィリピン~パラオ間輸送任務に従事する[3]。3隻(鬼怒、時雨、五月雨)で行動中の8月18日、五月雨はパラオ近海のガルワングル環礁で座礁[3]。行動不能の状態で8月26日に米潜水艦バットフィッシュの魚雷攻撃を受けて船体断裂、放棄されて沈没した[3][5]。生存者は駆逐艦に収容された[30]

艦歴[編集]

太平洋戦争まで[編集]

白露型駆逐艦6番艦五月雨は浦賀船渠で1934年(昭和9年)12月19日に起工し、1935年(昭和10年)7月6日進水、1937年(昭和12年)1月29日に竣工した[2]横須賀鎮守府[31]。機関部は川崎造船所で製造されたのち、浦賀に海上輸送された[32]

太平洋戦争緒戦[編集]

太平洋戦争開戦時には白露型姉妹艦3隻(村雨、夕立、春雨)と共に第2駆逐隊第2艦隊・第4水雷戦隊所属)を編成していた。四水戦司令官西村祥治少将(旗艦那珂)の指揮下、1941年12月より比島ビガン攻略作戦、リンガエン湾上陸作戦、タラカン上陸作戦、バリックパパン攻略作戦(バリクパパン沖海戦)、スラバヤ沖海戦に参加した。1942年(昭和17年)1月20日、ダラカン入泊時西村少将(那珂)より「五月雨の補給順序は哨戒艇のあと」と信号があり、同時に第2駆逐隊司令橘正雄大佐は「五月雨は哨戒艇より先に補給せよ」と命令する[33]。2駆司令の命令を優先して補給をはじめた五月雨に哨戒艇は抗議する。これに対し松原瀧三郎五月雨駆逐艦長は「命令は指揮系統の順による」と返信して哨戒艇を沈黙させた。2月下旬のスラバヤ沖海戦に従事後、3月には比島保定作戦に加わった。この間、クリスマス島攻略作戦中に四水戦旗艦那珂がアメリカ潜水艦の雷撃により長期修理を余儀なくされ、5月20日をもって旗艦は軽巡由良に変更されている。

6月上旬、ミッドウェー作戦では攻略部隊(第二艦隊)に属して出動した。 日本本土帰投後、四水戦司令官は西村少将から高間完少将に交代。また四水戦に第27駆逐隊(時雨白露夕暮有明)が編入されている。 7月17日に桂島泊地発、28日よりインド洋通商破壊作戦「B作戦」に参加する。同作戦参加戦力は第七戦隊(司令官西村祥治少将:巡洋艦熊野鈴谷)、第三水雷戦隊(旗艦川内、第11駆逐隊《吹雪、白雪、初雪、叢雲》、第19駆逐隊《磯波、浦波、敷波、綾波》、第20駆逐隊《天霧、朝霧、夕霧、白雲》)、第二水雷戦隊(第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第15駆逐隊《黒潮、親潮、早潮》)によって構成されていた[34][35]。7月23日、浮遊機雷を発見した西村司令官は五月雨に処分を命じた[36]。五月雨は毘式四十粍機銃7発と小銃60発を消費して命令を遂行したが、それは日本軍の九三式機雷であったという[37]

ガダルカナル島の戦い[編集]

五月雨はその後インド洋に進出するが、戦闘は発生しなかった。B作戦従事中の8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動してガダルカナル島およびツラギ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まった。8月8日、第七戦隊以下各隊はインド洋作戦の中止を通達された[34]。各隊はトラック泊地への移動を開始する。11日に東印部隊に編入されるも、13日には再び南東方面に転用された[34]。 8月20日、第七戦隊の指揮下を離れ、翌21日トラック泊地着。第2駆逐隊3隻(村雨、春雨、五月雨)は戦艦陸奥を護衛してソロモン方面に出撃した。姉妹艦夕立は特設水上機母艦の護衛を命じられ、第四水雷戦隊本隊とは別行動をとりラバウルへ向かった[38]。8月24-25日の第二次ソロモン海戦における第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨)は戦線後方に取り残された陸奥を護衛していたため、アメリカ軍と本格的に交戦する事はなかった。 9月2日からトラック方面の哨戒に当たり、19日夜には2駆2隻(村雨、五月雨)によるヌデニ島(アメリカ軍飛行艇基地)奇襲攻撃を実施したが、米艦艇・飛行艇の姿はなかった[39]。ガダルカナル島における日本陸軍総攻撃失敗を受けて前進部隊・機動部隊はトラック泊地への帰投を命じられ、第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨)は陸軍輸送船団を護衛したのち9月下旬までにショートランド泊地へ進出した[39]

10月9日、第四水雷戦隊司令官高間完少将は将旗を五月雨に移してラバウルに移動し、高速輸送船団によるガ島突入計画の打ち合わせをおこなう[40]。作戦実施にあたり、四水戦旗艦は軽巡由良から秋月型駆逐艦1番艦秋月に変更された[40]。10月12日夕刻、第2駆逐隊3隻(五月雨、春雨、夕立)は輸送船4隻(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸)を護衛してラバウルを出撃、ショートランド泊地からは秋月《先行し甲増援隊と合流》と時雨・白露・有明・村雨が輸送船2隻(笹子丸、埼戸丸)を護衛して出撃、外南洋部隊主隊(鳥海《第八艦隊旗艦》、衣笠、望月、天霧)および増援部隊(川内《三水戦旗艦》、由良、朝雲、白雪、暁、雷)も輸送船団支援およびガ島揚陸のためにショートランド泊地を出撃した[41][42]。 13日夜、栗田健男中将指揮下の第三戦隊(金剛、榛名)によるガ島ヘンダーソン飛行場砲撃が実施され飛行場制圧の報告があったが[43]、輸送船団は14日朝以降米軍機の空襲を受け、五月雨は若干の被害を出した[41]。 三川中将直率の4隻(鳥海、衣笠、天霧、望月)は14日深夜にガ島へ突入して飛行場砲撃を敢行[44]。輸送船団は各隊の支援を受けながらガ島に到着して揚陸を開始したが、15日朝以降の空襲で輸送船3隻(笹子丸、吾妻山丸、九州丸)が被弾炎上、ガ島海岸に擱座するに至った[42][45]。五月雨以下護衛部隊と残存輸送船3隻は16日朝になりショートランド泊地へ戻った[45]。本作戦では、輸送船6隻分の兵員および重火器・弾薬の全部と糧食の8割を揚陸に成功したが、15日・16日・17日の米軍機空襲と米艦艇艦砲射撃によって、揚陸地点に山積みどなっていた物資は全て焼き払われてしまったという[45][46]

10月17日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は、日本陸軍総攻撃前の最後の輸送を実施することになった[47]。橋本司令官直率の軽巡戦隊(川内、由良、龍田)と、水雷戦隊(秋月《四水戦旗艦》、第9駆逐隊《朝雲》、第11駆逐隊《白雪》、第6駆逐隊《暁、雷》、第2駆逐隊《村雨、夕立、春雨、五月雨》、第19駆逐隊《浦波、敷波、綾波》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明》)はショートランド泊地を出撃、17日深夜に分派2隻(村雨、時雨)と外南洋部隊から派遣された駆逐艦2隻(天霧、望月)が飛行場砲撃を行う中、各隊はガ島揚陸を実施[47]。由良にアメリカの潜水艦が発射した魚雷1本が命中するも不発であり、輸送作戦は成功裡に終わった[47]

10月中旬、第四水雷戦隊はガダルカナル島アメリカ軍ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応して、ガ島ルンガ泊地突入を命じられる[48]。第二攻撃隊(指揮官:高間完少将/四水戦司令官、秋月《旗艦》、由良《軽巡》、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立春雨》)に所属して、10月23日にショートランド泊地を出撃[49][50]。先行した突撃隊(指揮官山田勇助大佐/兼第6駆逐隊司令、白露)のルンガ泊地突入成功に続行してガ島に接近したところ[48][51]SBDドーントレス急降下爆撃機B-17型爆撃機の波状攻撃を受ける[51][50]。五月雨も至近弾により魚雷頭部に火災を生じたが、消火に成功した[52]。負傷者6名[53]。12.7cm主砲119発、40mm機銃200発を消耗[54]。この戦闘で軽巡由良が航行不能となり、夕立と春雨によって自沈処分とされた[55][56]。他にも旗艦秋月が中破している[50]。四水戦旗艦は秋月から村雨に変更されたのち[50]、後に朝雲(第9駆逐隊)に移った。

修理後の五月雨は、第十一戦隊(比叡、霧島)、第十戦隊(軽巡《長良》、第16駆逐隊《天津風、雪風》、第6駆逐隊《暁、雷、電》、第61駆逐隊《照月》)、第四水雷戦隊(朝雲《四水戦旗艦》、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第27駆逐隊《時雨、白露、夕暮》)という戦力で11月12日から第三次ソロモン海戦に参加する[57][58]。ガダルカナル島への接近中、悪天候の中で幾度も反転したため、電波整合すら行っていない「寄せ集め部隊」の挺身艦隊陣形は完全に混乱した[59][60]。四水戦は朝雲と第2駆逐隊第1小隊(村雨、五月雨)、同隊第2小隊(夕立、春雨)、ラッセル諸島警戒隊(時雨、白露、夕暮)に分離する[61]。 こうしてはじまった第一夜戦は、挺身艦隊と待ち構えていた米軍巡洋艦部隊の間で大乱戦となる[62][63]。五月雨は挺身艦隊旗艦/第十一戦隊旗艦比叡を機銃で誤射し、混乱で射撃中止命令が届かないためやむなく高角砲で反撃されている。戦闘詳報にも『味方識別燈ヲ定メラレシハ混戦時ニ於ケル味方打防止上眞ニ有効ナリシモ之ヲ掲揚シ居ルニ拘ラズ12日夜比叡小口径砲ノ砲撃ヲ受タルコト』と記載されている[64]

第一夜戦戦闘後、霧島と共に北上していた五月雨は、航行不能となった第2駆逐隊の僚艦夕立の救援を命じられた[8]吉川潔夕立駆逐艦長以下同艦乗組員を救助する[8]。その後五月雨は夕立に対し砲撃・雷撃処分を実施したもの[65]、アメリカ軍機や米重巡に追われるようにして退避したため、姉妹艦の沈没を確認しなかった[8]。結局、夕立はアメリカの重巡ポートランドの砲撃で沈没した。戦場離脱中の2駆(五月雨、春雨)は比叡救援を命じられるも、五月雨は夕立生存者多数を抱えた上に燃料も不足しており、承認を得てショートランド泊地へ向かった[66]。第一夜戦で日本側は3隻(比叡《13日昼間自沈》、夕立、暁)が沈没[67][7]、3隻(天津風、雷、村雨)が損傷し、飛行場砲撃も実施できなかった[63]

11月14日朝、前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦愛宕)はガ島飛行場砲撃隊を再編、射撃隊(第四戦隊《愛宕、高雄》、戦艦《霧島》、四戦隊直衛《長良、雷、五月雨》)、直衛隊(朝雲《四水戦旗艦》、霧島護衛《白雪、初雪、照月》)、掃討隊(川内《三水戦旗艦》、浦波、敷波、綾波)という兵力部署を定めた[68]。ショートランド泊地で夕立負傷者を降ろした五月雨は14日10時30分に愛宕と合流、ガ島へ向かった[69]。この日本艦隊を迎撃すべく、ウィリス・A・リー少将指揮下の戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)、駆逐艦4隻(ウォーク、ベンハム、プレイストン、グウィン)が投入され、サボ島周辺で待ち伏せていた[70]。 14日深夜、第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起。直衛隊(長良《第十戦隊旗艦》、五月雨、電、白雪、初雪)として行動していた五月雨は、雷撃により大巡1隻の撃沈を報告[71]。ワシントン、サウスダコタの2戦艦と交戦した後、午前1時3分に霧島が航行不能になっている現場に到着した[72]。3隻(朝雲、五月雨、照月)は共同で霧島乗員の救助を行った[73]。その後、第三戦隊(金剛、榛名)、第八戦隊(利根)、第四戦隊(愛宕、高雄)等と合流・護衛しつつ、18日にトラック泊地へ帰投した[74]

トラック滞在中の11月20日、五月雨は内地帰投を下令される[75]。駆逐艦2隻(五月雨、雷)は水上機母艦日進と重巡高雄を護衛して横須賀へ移動[76]。11月27日横須賀着、入渠して修理を行う。12月19日、重巡高雄の護衛として横須賀を出発し、12月23日にトラックへ到着した。

昭和十八年の戦い[編集]

1943年(昭和18年)1月下旬、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に従事する。第一次撤収作戦時で駆逐艦巻雲(第10駆逐隊)が沈没[77]、駆逐艦巻波(第31駆逐隊)が損傷すると[78]、東方牽制隊(愛宕《旗艦》、高雄、妙高、羽黒、金剛、榛名、神通、阿賀野、長良、陽炎、朝雲、時雨、涼風、大波、初雪、敷波、嵐、五月雨、隼鷹、瑞鳳)として外洋を行動中の四水戦2隻(朝雲、五月雨)は撤収部隊に編入された[79]。2月4日朝、駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)はショートランド泊地に到着[79]。第二次撤収作戦、第三次撤収作戦に従事する。第二次作戦で駆逐艦舞風(第4駆逐隊)[80]、第三次作戦で駆逐艦磯風(第17駆逐隊)[81]が大破・中破する中、2隻(朝雲、五月雨)は損傷なく作戦を終えた。

その後、1月中旬ウエワク輸送(隼鷹、朝雲、五月雨)[82]、3月上旬ハンサ輸送(秋雲、風雲、夕雲、五月雨、皐月、輸送船団)[83]を実施した。 1月24日、ウエワク輸送作戦中の姉妹艦春雨がアメリカの潜水艦ワフーの雷撃で大破、1年近い修理を余儀なくされた[27]。 3月5日、コロンバンガラ島輸送作戦従事中の姉妹艦村雨[4][84]と第9駆逐隊の峯雲[85]が撃沈された(ビラ・スタンモーア夜戦[86]。コロンバンガラ島に上陸していた2駆司令橘大佐・種子島洋二村雨艦長以下生存者達は、駆逐艦雪風初雪等に便乗してラバウルへ戻った。3月25日、橘司令は五月雨に将旗を掲げたが、春雨大破長期修理のため、健在艦は五月雨のみとなっていた。 4月1日(五月雨、朝雲、夕雲、風雲、秋雲)と4月5日(五月雨、朝雲、夕雲、秋雲)にコロンバンガラ島輸送を実施[87]。4月10日、駆逐艦4隻(五月雨、雪風、夕雲、秋雲)は輸送のためパプアニューギニアフォン半島フィンシュハーフェンへ向かうが空襲を受け、五月雨と雪風はラバウルへ帰投し、夕雲と秋雲はグロスター岬ツルブに輸送先を変更した[88]。五月雨・雪風は再出撃し、13日ツルブへ揚陸した[89]。一連の輸送作戦後、2隻(五月雨、雪風)と第10駆逐隊は外南洋部隊から除かれ、かわって第二水雷戦隊(親潮、黒潮、陽炎)等がソロモン方面の輸送任務に従事することになった。

5月8日、戦艦2隻(大和榛名)、空母2隻(冲鷹雲鷹)、重巡妙高、駆逐艦4隻(夕暮、潮、長波、五月雨)は日本本土へ向かう。5月13日に横須賀帰港、ただちに北方部隊に編入され、5月15日以降千島方面で対潜哨戒に従事。第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将、旗艦阿武隈)指揮下のもと、第五艦隊旗艦多摩、軽巡2隻(阿武隈、木曾)、第一警戒隊(若葉初霜長波)、第二警戒隊(島風型《島風》、白露型《五月雨》)、収容隊(第9駆逐隊《朝雲薄雲》、第10駆逐隊《夕雲秋雲風雲》、第6駆逐隊《》)、補給部隊(海防艦国後、タンカー日本丸)という戦力でキスカ島撤退作戦(ケ号作戦)を遂行した[90][91]。阿武隈と国後衝突による混乱があったが(損傷した若葉は幌筵島へ避退)[91][92]、撤退作戦は成功した[93]

本艦が北方海域で行動中の7月1日附で、第2駆逐隊は解隊[13]。五月雨は第四水雷戦隊司令部附属になる[14]。7月12日、コロンバンガラ島沖海戦で第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将および第二水雷戦隊司令部は、旗艦神通と共に沈没した[94]。そこで第四水雷戦隊は解隊され、高間司令官・司令部・戦力はそのまま第二水雷戦隊に転用された。これにより二水戦旗艦は軽巡長良に変更、時雨・五月雨等も第二水雷戦隊所属となった。 8月6日、五月雨は横須賀に帰還し、9月5日まで同地で修理・整備を行った。 修理完了後、中部・北部ソロモン諸島の戦いに参加すべく最前線に進出、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将(旗艦川内)の指揮下に入る。同地で既に活動していた時雨(第27駆逐隊)や磯風(第17駆逐隊)等と共に9月下旬のコロンバンガラ転進作戦(セ号作戦)に参加[95]。 10月1日、五月雨は白露型2隻(時雨、白露)になっていた第27駆逐隊に編入される[15]。その後、三水戦司令官指揮下の駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)として、10月6日の第二次ベララベラ海戦に参加した[96]。さらにツルブ(時雨、五月雨)、フロリダ諸島ガブツ(時雨、白露、五月雨)輸送作戦に従事した[97]。 10月21日、トラックからラバウルへ陸軍兵・軍需物資輸送任務に就いていた軽巡2隻(多摩木曾)は空襲を受け、木曾が一時航行不能となった[98]。五月雨は駆逐艦卯月と共に木曾をラバウルまで護衛した[99]

11月1-2日、第27駆逐隊は連合襲撃隊に編入され、ブーゲンビル島沖海戦に参加した[18][100]。 第五戦隊司令官大森仙太郎少将を指揮官とする連合襲撃隊の戦力は、本隊(大森少将直率:第五戦隊《妙高羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:川内、第27駆逐隊《時雨五月雨白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:阿賀野、駆逐艦《長波初風若月》)、輸送隊(山代勝守大佐:駆逐艦《天霧文月卯月夕凪水無月》)から成る[101][102]。 巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の米艦隊は、まず連合襲撃隊左翼の第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露の単縦陣)と交戦した[100][103]。川内(三水戦旗艦)は戦闘開始からまもなく炎上して航行不能となり[18]、白露も同時刻に至近弾で舵故障となった[104]。川内に続行していた時雨・五月雨・白露は互いに衝突しかけ、五月雨は白露と衝突[18][20]。さらに米軍駆逐隊に追撃されて被弾したが(五月雨戦死5、負傷5)、人力操舵で離脱に成功した[105]。他に妙高と初風が衝突<[106]。 海戦の結果、日本側は川内[107]と初風[106]を喪失し、妙高・羽黒・五月雨・白露が損傷した[105]。白露は2日1100ラバウル着、五月雨は14時10分の帰着であった[104]。第27駆逐隊が発射した魚雷は(五月雨発射魚雷と推定)、駆逐艦フートを大破させたという[108]

11月5日、ラバウル待機中にアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け、第二艦隊司令長官栗田健男中将率いる重巡洋艦部隊(愛宕、高雄、摩耶、最上、筑摩)等が大損害を受ける一方、五月雨・時雨・天霧等に被害は無かった(ラバウル空襲[109]。 沈没する川内から脱出した伊集院司令官は呂号潜水艦に救助されており[102][105]、8日にラバウルへ到着、一時五月雨に将旗を掲げたのち、天霧を経て軽巡夕張を旗艦に定めた[110]。 11日、潜水母艦長鯨、重巡摩耶(ラバウル空襲で大破)、第二水雷戦隊(能代、早波、藤波、五月雨)、第十戦隊(風雲、若月)はラバウルを出発、トラックへ向かった[111]。12日、軽巡阿賀野(第十戦隊旗艦、艦尾切断状態)が駆逐艦浦風(第17駆逐隊)と共にトラックへ帰投中、アメリカの潜水艦スキャンプから雷撃されて航行不能となった[112]。二水戦旗艦能代、第32駆逐隊(藤波早波)は摩耶の護衛を中断し、阿賀野と浦風の救援に向かった[112]。11月14日、5隻(摩耶、長鯨、五月雨、風雲、若月)はトラックに帰港する。

12月14日、五月雨は軽巡夕張と共にトラックを出港[113]、19日に横須賀へ到着した[22]。以後、横須賀海軍工廠で、夕張と五月雨は修理を行った[114]。 また11月31日附で、修理を終えた姉妹艦春雨が第27駆逐隊に編入される[23]。これにより第27駆逐隊は白露型4隻(白露、時雨、五月雨、春雨)編制となった[115]

昭和十九年の戦い[編集]

1944年(昭和19年)3月から5月まで、五月雨は内地からサイパンパラオ諸島など、中部太平洋諸島への船団護衛に従事した[3]。4月上旬、五月雨は第二護衛船団司令官清田孝彦少将の旗艦として、東松四号船団を指揮する[24]。護衛艦艇(駆逐艦《五月雨、朝凪》、水雷艇、海防艦《隠岐天草御蔵福江第2号第3号》、第50号駆潜艇)は給糧艦間宮など加入船舶26隻と共に、4月1日に東京湾を出撃[24]。東征丸(4月3日)、美作丸(4月10日)沈没の被害はあったが、東松四号船団はおおむね無事にサイパングアム・トラック泊地・パラオ・ヤップ島に到着した[24]。 続いて五月雨はパラオ諸島ソンソル島への輸送作戦に従事中[114]4月27日午前10時に同行していた第三水雷戦隊旗艦夕張が米潜水艦ブルーギルの雷撃で航行不能となった[116]。五月雨は駆逐艦夕月(第30駆逐隊)と共に夕張の曳航を試みるが失敗[117]。翌4月28日10時15分、夕張は沈没した。三水戦旗艦は夕月となる[117]。夕月はパラオ(のちサイパン)へ[117]、五月雨はダバオへ向かった。

松輸送に続き、五月雨は豪北方面への緊急輸送作戦竹輸送に従事する[26]。竹船団(船団指揮官梶岡定道第六護衛船団司令官)は4月21日に上海沖合を出撃、4月26日に第一吉田丸が沈没したものの、4月28日マニラに入港していた[26][118]。マニラまでは海上護衛総司令部部隊の護衛担任だったが、以降は連合艦隊の護衛担任となる[26][119]。 5月1日、梶岡少将(旗艦白鷹)[119]指揮下の竹船団(機雷敷設艦《白鷹蒼鷹[120]、駆逐艦《五月雨、白露、藤波》、他護衛艦艇、加入船舶9隻)はマニラを出撃する[121]。5月6日、セレベス海で米潜水艦(ガーナード)の襲撃を受け、3隻(亜丁丸、但馬丸、天津山丸)が沈没した[119][121]。被害や諸情勢によりニューギニア島西部への輸送は中止[121]。船団はバンカ泊地(セレベス島)に避退したのち、5月9日にハルマヘラ島のワレシに到着して第32師団を揚陸した[119][121]。竹船団は5月13日にワレシを出発、5月20日にマニラへ戻った。

5月下旬、第27駆逐隊は第十六戦隊司令官左近允尚正少将(巡洋艦《青葉鬼怒》、第19駆逐隊《敷波浦波》)の指揮下に入り、ビアク島への輸送作戦(渾作戦)に加わる[122][123]。戦艦扶桑、第十六戦隊(青葉、鬼怒)、第五戦隊(羽黒妙高)等が参加した第一次渾作戦はアメリカ軍機動部隊出現の誤報により作戦中止[124][125]。 6月8日、左近允司令官(敷波座乗)指揮下、駆逐艦6隻(輸送隊:浦波、敷波、時雨/警戒隊:春雨、五月雨、白露)で第二次渾作戦を発動する[126][29]。 だが第27駆逐隊司令艦春雨がB-25型爆撃機の空襲で沈没し[29][127]、駆逐隊司令白濱政七大佐も戦死した[128]。五月雨も魚雷発射管附近に命中弾を受け負傷者2名を出すが、不発弾のため轟沈を免れている[129]。春雨沈没後も輸送任務は継続されたが同日深夜、輸送隊はアメリカ軍巡洋艦部隊に迎撃され、一方的にレーダー射撃を受ける[130][131]。日本側駆逐艦5隻は、損傷艦はあったが沈没艦はなく、避退に成功した[29][132]。五月雨は他の艦より先にハルマヘラ諸島パジアンに到着しており、同地で白露から春雨生存者を受け入れる[133][134]

その後、第27駆逐隊3隻(時雨、白露、五月雨)は第十六戦隊の指揮下を離れた。6月11日、五月雨は単艦でアンボンアンボン島)に向かい、同地で春雨生存者を下艦させた[134][135]。一方、時雨と白露は、駆逐艦複数隻(浜風秋霜)と共に小沢機動部隊・第一補給部隊(日栄丸、国洋丸、清洋丸)の護衛任務についた。 6月15日未明、船団内に迷い込んだ白露が清洋丸と衝突し爆沈した[134][20]。五月雨は別の補給船団を護衛したのち、6月19日-20日のマリアナ沖海戦に参加した[136]。機動部隊乙部隊として、駆逐艦複数隻(第27駆逐隊《時雨、五月雨》、第17駆逐隊《浜風》、第4駆逐隊《満潮、野分、山雲》[137]、夕雲型駆逐艦《秋霜、早霜》)は第二航空戦隊隼鷹飛鷹龍鳳)、戦艦長門、航空巡洋艦最上を護衛した[138]。6月20日の戦闘で、乙部隊からは飛鷹が沈没、隼鷹と龍鳳が損傷した[139]。 同海戦敗北後、一旦榛名・時雨と共に内地に戻る。7月8日に呉を出港し、陸軍輸送物資を積載した戦艦4隻(大和武蔵長門金剛)、重巡熊野等を護衛してリンガ泊地へ向かった[140]。14日午前3時頃、武蔵の直衛についていた五月雨は、南西風15mという強風と波濤の中で艦隊から落伍していった[140]。行方不明となってしまう[141]。捜索に出た重巡利根に発見されて艦隊に戻り、事なきを得た[140]。第一戦隊司令官宇垣纏中将(大和乗艦)は『五月雨にスコール続く輸送かな』『スコールの後に五月雨忘れけり』と俳句を詠んでいる[140]。16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、島風、五月雨)はリンガ泊地に到着した[140]

沈没[編集]

8月7日以降、27駆2隻(時雨、五月雨)は再び第十六戦隊の指揮下に入り、マニラパラオ輸送任務に従事する。 任務中の8月10日、白露型2隻(白露、春雨)は帝国駆逐艦籍・第27駆逐隊から除籍された[142]。輸送隊3隻(鬼怒、時雨、五月雨)は重巡青葉および駆逐艦浦波と分離し、パラオへ向かった[143]。パラオに弾薬を補給しつつ[143]、在住の邦人をセブ島に避難させる任務である[30]

8月18日午前1時15分、鬼怒・時雨と共に航海中の五月雨はパラオ近海のガルワングル環礁で座礁し[143]、火災も発生して深刻な損傷を受けた[144][145]。同航2隻(鬼怒、時雨)は3時40分に一旦五月雨を残置してパラオへ向かう[146]。パラオに到着後、鬼怒・時雨は在留邦人の移乗作業を急いだ[147]。 健在2隻(鬼怒、時雨)は18時50分に再び五月雨の座礁現場に戻ると潜水用具を移積、21時をもって現場を離れた[148][149]。 だが各部隊の協力を得ても五月雨の離礁作業は難航[143]B-24爆撃機の空襲に曝されていた。上層部は万策尽きた五月雨を放棄する方向に傾く[150]。その頃、駆逐艦清霜と共に輸送作戦に従事していた松型駆逐艦(艦長田中弘国少佐、海兵60期)に、五月雨救援が下令された[30][151]。竹が五月雨座礁現場へ移動中の8月26日18時30分、アメリカの潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS/AGSS-310)が座礁中の五月雨を雷撃する。魚雷は五月雨右舷中部に命中し、大破した船体は断裂状態となった[30][152]。大熊(五月雨艦長)は離礁を諦めておらず[30]、また運命を共にするつもりだったが[143]、田中(竹艦長。大熊とは海兵同期)に説得された[143]。これをもって五月雨は完全に放棄され[153]、艦長以下乗組員は竹に救助された[154]。五月雨の生存者は竹に移乗してフィリピンへ向かい、セブ島で下艦した[30][155]

10月10日、五月雨は白露型駆逐艦[156]、 帝国駆逐艦籍[157]のそれぞれから除籍された。 同日附で時雨1隻になった第27駆逐隊も解隊された[158]。全10隻建造された白露型駆逐艦は、五月雨の喪失をもって時雨1隻となった。 五月雨最後の艦長となった大熊少佐は駆逐艦初春艦長に任命され、捷号作戦多号作戦に従事した[159]

慰霊碑[編集]

終戦後、五月雨の元乗組員による「五月雨会」が結成され、神奈川県 小田原市早川の東善院に慰霊碑が建立されている。

機銃増備の状況[編集]

『日本駆逐艦物語』によると1944年7月時点での機銃増備の状況は、25mm3連装3基、同連装1基、同単装10基、単装機銃座1基。後部2番単装主砲は撤去、前部右舷の予備魚雷格納函も撤去されていた。水測兵器は九三式水中聴音機と探信儀を装備し、探信儀の水流覆いは装着されていなかった。また前マストに22号電探13号電探を1基ずつ装備していた。

1944年8月での「五月雨」艦型図

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』307-308頁による。

艤装員長[編集]

  1. 有近六次 少佐:1936年11月2日[160] -

艦長[編集]

  1. 有近六次 少佐:1937年1月29日 - 1937年12月1日[161]
  2. 渡辺保正 少佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日[162]
  3. 阿部徳馬 少佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日[163]
  4. 松原瀧三郎 少佐:1939年11月15日 -
  5. 中村昇 少佐:1942年10月13日 -
  6. 杉原与四郎 少佐:1943年8月13日 -
  7. 西村徳太 少佐:1944年3月1日 -
  8. 大熊安之助 少佐:1944年7月2日 -

参考文献[編集]

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    • 『昭和19年5月1日~昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(2)』。C08030572400。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。C08030148200。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。C08030148300。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。C08030148400。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。C08030148500。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。C08030148600。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。C08030148700。
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第16戦隊戦時日誌(1)』。C08030057100。
    • 『昭和18年7~8月 内令3巻/昭和18年7月(1)』。C12070178900。
    • 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(1)』。C12070181100。
    • 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。C12070181400。
    • 『昭和18年11~12月 内令 5巻/昭和18年11月(6)』。C12070182500。
    • 『昭和19年8月~9月 秘海軍公報』。C12070496100。
    • 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/10月(2)』。C12070497400。

脚注[編集]

  1. ^ a b c #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|白露型|白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風、山風、江風、涼風』
  2. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『五月雨|(艦諸元略)|浦賀船渠會社|9-12-19|10-7-6|12-1-29|(兵装略)』
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 陽炎型(2014)294頁『五月雨(さみだれ)』
  4. ^ a b c d e f 陽炎型(2014)293頁『村雨(むらさめ)』
  5. ^ a b c d e f 海軍駆逐隊56-57頁(戦歴)『▽五月雨』
  6. ^ 軽巡海戦史119-120頁『▽由良』
  7. ^ a b 陽炎型(2014)293頁『夕立(ゆうだち)』
  8. ^ a b c d 南東方面海軍作戦(2)371頁
  9. ^ 戦艦十二隻110-111頁『必死の反撃も空しく霧島は』
  10. ^ 陽炎型(2014)325頁『照月(てるづき)』
  11. ^ a b c 陽炎型(2014)300-301頁『朝雲(あさぐも)』
  12. ^ 海軍駆逐隊93-94頁(第2駆逐隊、戦歴)
  13. ^ a b #内令昭和18年7月(1)p.37『内令第千三百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年七月一日海軍大臣嶋田繁太郎 第二驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  14. ^ a b #S1805四水戦日誌(3)pp.24,30『7月1日2dg解隊、五月雨ハ4sdニ編入、春雨ハ4sdヨリ除カレ艦隊区分ヲ変更 27dgヲ1番隊トシ五月雨ヲ2番隊トス』
  15. ^ a b #内令昭和18年10月(1)p.11『内令第二千三十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、五月雨」ヲ加フ|第三十二驅逐隊ノ項中「早波」ノ下ニ「、玉波」ヲ加フ』
  16. ^ a b c 陽炎型(2014)292頁『時雨(しぐれ)』
  17. ^ a b c 海軍駆逐隊57頁(戦歴)『▽時雨』
  18. ^ a b c d 軽巡二十五隻309-310頁『▽ブーゲンビル島沖海戦』
  19. ^ 軽巡二十五隻332-333頁『川内(せんだい)』
  20. ^ a b c d e 陽炎型(2014)291-292頁『白露(しらつゆ)』
  21. ^ a b 海軍駆逐隊57頁(戦歴)『▽白露』
  22. ^ a b #S1812二水戦日誌(1)p.42『19日1110夕張→各隊/夕張、五月雨、横須賀着』
  23. ^ a b #内令昭和18年11月(6)p.21『内令第二千五百二十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十一月三十日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七驅逐隊ノ項中「五月雨」ノ下ニ「、春雨」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「卯月」ノ下ニ「、夕月」ヲ加フ』
  24. ^ a b c d 戦史叢書、海上護衛戦364-366頁『東松四号船団』
  25. ^ 軽巡海戦史124頁『▽夕張』
  26. ^ a b c d 戦史叢書、海上護衛戦372-373頁『竹船団の編成及び行動』
  27. ^ a b 陽炎型(2014)293-294頁『春雨(はるさめ)』
  28. ^ 海軍駆逐隊94頁『▽春雨』
  29. ^ a b c d 機動部隊(1992)326-327頁
  30. ^ a b c d e f 海軍兵科将校140-141頁
  31. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.18『・艦艇、特務艦本籍別一覧表』
  32. ^ #五月雨主機械輸送の件p.3
  33. ^ #歴史群像vol.19陽炎型駆逐艦p.188
  34. ^ a b c 中部太平洋方面海軍作戦(2)97頁『機動部隊(3F)の進出』
  35. ^ #戦隊行動調書p.7『七.一四 南方部隊B作戦部隊。七.二八〜八.二 2dg 15dg 7S指揮ス』
  36. ^ #S1707七戦隊日誌(1)p.37『23日1935第七戦隊→五月雨/其ノ機雷ヲ處分セヨ』
  37. ^ #S1707七戦隊日誌(1)p.38『五月雨/我浮流機雷ヲ處分ス|處分終了。消耗弾薬四〇粍機銃7(在庫2472)、小銃60、九三式機雷ナリ』
  38. ^ 南東方面海軍作戦(2)46頁
  39. ^ a b 南東方面海軍作戦(2)143頁『支援部隊』
  40. ^ a b 南東方面海軍作戦(2)215-216頁『作戦準備』
  41. ^ a b 南東方面海軍作戦(2)218-219頁
  42. ^ a b 艦長たち続篇(1984)247-249頁『貴重な戦訓を目撃』
  43. ^ 南東方面海軍作戦(2)214-215頁『戦果』
  44. ^ 南東方面海軍作戦(2)219-220頁『外南洋部隊のガ島飛行場射撃』
  45. ^ a b c 南東方面海軍作戦(2)220-221頁『船団の揚陸』
  46. ^ 陽炎型(2014)149-150頁
  47. ^ a b c 南東方面海軍作戦(2)224-225頁『十七日の輸送』
  48. ^ a b 軽巡海戦史107-109頁『大破炎上のはて砲雷撃処分』
  49. ^ 南東方面海軍作戦(2)246頁『各部隊の作戦命令』
  50. ^ a b c d 南東方面海軍作戦(2)260-262頁『「由良」の沈没』
  51. ^ a b 南東方面海軍作戦(2)257-259頁『突撃隊(第六駆逐隊)のルンガ泊地攻撃』
  52. ^ #S1710四水戦日誌(4)p.23『25日五月雨→1555将旗4sd/至近弾ニ依リ右舷ニ小破口多数ヲ生ズ浸水ヲ見ズ 魚雷頭部一破片ニ依リ引火セシモ消セリ』
  53. ^ #S1709四水戦詳報(6)pp.55-56『(ロ)我ガ兵力ノ現状(三)2dgハ五月雨ニ至近弾一アリ舷側ニ小破口多数ヲ生ジタル外被害ナシ|戦傷者調 五月雨:戦傷下士官兵6』
  54. ^ #S1709四水戦詳報(6)p.56『五.消耗弾薬数 五月雨12.7糎対空用弾薬119・40粍機銃200』
  55. ^ 軽巡二十五隻307-308頁『▽由良と天龍の最後』
  56. ^ 軽巡海戦史112-115頁『他艦から見た由良の最後』
  57. ^ 南東方面海軍作戦(2)356頁
  58. ^ 陽炎型(2014)150-152頁『不落の要塞への殴り込み』
  59. ^ 戦艦十二隻192-195頁『スコールの中での回答』
  60. ^ 南東方面海軍作戦(2)359-360頁『挺身攻撃隊の進撃』
  61. ^ 南東方面海軍作戦(2)360-361頁『ルンガ沖への進入』
  62. ^ 戦艦十二隻197-199頁『集中攻撃の的となった比叡』
  63. ^ a b 艦長たち続篇(1984)249-252頁『意表をついた奮戦撃』
  64. ^ #S1710四水戦詳報(4)p.39『(三)今次夜戦ニ於テ特ニ痛感セル事項左ノ如シ(4)』
  65. ^ 海軍駆逐隊92-93頁『ルンガ沖に没した武勲艦夕立』
  66. ^ 南東方面海軍作戦(2)372頁
  67. ^ 陽炎型(2014)157頁
  68. ^ 南東方面海軍作戦(2)384頁
  69. ^ 南東方面海軍作戦(2)385頁
  70. ^ 海軍駆逐隊25頁『第三次ソロモン海戦('42-11-14)第一図 突入隊形』
  71. ^ #S1710四水戦詳報(2)p.36『14日2130/前方隊ノ交戦ヲ認ム 五月雨ハ10S司令官指揮ノ下ニ行動中 雷撃ニ依リ敵大巡ヲ撃沈ス』
  72. ^ #S1710四水戦詳報(2)p.39『15日0103/五月雨 現場着 附近ノ警戒ニ當ラシム』
  73. ^ 南東方面海軍作戦(2)392-393頁
  74. ^ #S1710四水戦詳報(2)p.23『15日早朝来B-17型及艦爆数機ノ触接ヲ受ケタルモ攻撃ヲ受クルコトナク北上シ2100 3Sニ合同 2345照月ヲ解列シ8Sノ直衛トナリ(中略)16日2330 4Sト合同朝雲村雨五月雨白露ハ4Sノ直衛トナリ「トラック」北水道ニ向ヒ18日0830「トラック」ニ入泊ス』
  75. ^ #S1711四水戦日誌(4)p.12『20日1205(長官)GF|一.AdB指揮官ハ左記艦艇ヲ内地ニ回航修理ニ従事セシムベシ 高雄雷五月雨天津風/二.日進艦長ハ横須賀回航ノ際右艦船中回航スベキモノヲ指揮スベシ』
  76. ^ #S1711四水戦日誌(4)p..25『22日1245日進|日進高雄五月雨雷横須賀ニ向けトラック発27日着予定』
  77. ^ 陽炎型(2014)316頁『巻雲(まきぐも)』
  78. ^ 陽炎型(2014)317-318頁『巻波(まきなみ)』
  79. ^ a b 南東方面海軍作戦(2)562頁『第二次撤収(二月四日)』
  80. ^ 陽炎型(2014)313-314頁『舞風(まいかぜ)』
  81. ^ 陽炎型(2014)310-311頁『磯風(いそかぜ)』
  82. ^ 南東方面海軍作戦(3)32頁
  83. ^ 南東方面海軍作戦(3)72頁
  84. ^ 海軍駆逐隊94頁『▽村雨』
  85. ^ 陽炎型(2014)299頁『峯雲(みねぐも)』
  86. ^ 南東方面海軍作戦(3)74頁
  87. ^ 南東方面海軍作戦(3)132頁
  88. ^ 南東方面海軍作戦(3)134頁
  89. ^ 南東方面海軍作戦(3)135頁
  90. ^ 佐藤、艦長たち(文庫)273頁『キスカ撤退作戦の航路』
  91. ^ a b 軽巡二十五隻56-59頁『味方部隊混乱す』
  92. ^ 軽巡二十五隻121-123頁『敵の失策をついて撤退成功』
  93. ^ 軽巡二十五隻61頁『天佑神助にめぐまれて』
  94. ^ 軽巡二十五隻308頁『▽コロンバンガラ島沖夜戦』
  95. ^ 南東方面海軍作戦(3)290頁
  96. ^ 海軍駆逐隊74-75頁『ベララベラへ向けて』
  97. ^ 南東方面海軍作戦(3)330-332頁
  98. ^ #T四號輸送部隊任務報告p.10
  99. ^ #T四號輸送部隊任務報告p.11『木曽ハ約十節ニテ卯月ノ護衛下ニ0315迄延敵機18機ノ執拗ナル攻撃ヲ撃退、0500以後味方直衛機及五月雨ノ増援ヲ得テ1130「ラバウル」着1410火災鎮火』
  100. ^ a b 海軍駆逐隊47-49頁『連合襲撃部隊の反撃』
  101. ^ 南東方面海軍作戦(3)390-391頁『第二回出撃-輸送隊の反転帰投』
  102. ^ a b 軽巡二十五隻129-130頁『対決のタロキナ岬』
  103. ^ 軽巡二十五隻195-196頁『▽集中砲火を浴びた川内』
  104. ^ a b 南東方面海軍作戦(3)393-395頁
  105. ^ a b c 海軍駆逐隊54-56頁『第二十七駆逐隊の奮戦』
  106. ^ a b 陽炎型(2014)306頁『初風(はつかぜ)』
  107. ^ 軽巡二十五隻80頁『▽川内』
  108. ^ 海軍駆逐隊50-52頁『米駆逐艦フート大破』
  109. ^ 海軍兵科将校46-47頁
  110. ^ 南東方面海軍作戦(3)404頁
  111. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.49『11日将旗2sd/艦N1702/直衛配備ヲ左ノ通定ム 能代ノ左右70度摩耶ノ左右90度長鯨ノ180度距離2粁前方ヨリ右側若月風雲、左側早波藤波、後方五月雨』
  112. ^ a b 中部太平洋方面海軍作戦(2)429頁『「阿賀野」の被雷とその救難』
  113. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.33『13日0725YB→各隊/五月雨ハ横須賀ニ回航修理整備ニ従事スベシ。回航中夕張艦長ノ指揮ヲ承クベシ』-『14日0351夕張→各隊/夕張、五月雨、横須賀ニ向ケ「トラック」発』
  114. ^ a b 軽巡二十五隻335-336頁『夕張(ゆうばり)』
  115. ^ 海軍駆逐隊283頁
  116. ^ 軽巡二十五隻198-199頁『▽夕張パラオ南西方の不運』
  117. ^ a b c 軽巡二十五隻154-157頁『涙でみまもる軍艦旗降下』
  118. ^ 海上護衛戦(角川2014)236-238頁
  119. ^ a b c d 海上護衛戦(角川2014)239-241頁
  120. ^ 占守電探室異状なし198-199頁
  121. ^ a b c d 戦史叢書、海上護衛戦373-374頁『船団の被害と竹輸送の中止』
  122. ^ #駆逐艦戦隊230-231頁『囮をかねたビアク島支援』
  123. ^ サイパン・レイテ海戦記36-37頁『ビアク来攻と渾作戦』
  124. ^ サイパン・レイテ海戦記37-39頁
  125. ^ 機動部隊(1992)324-326頁
  126. ^ #駆逐艦戦隊236頁
  127. ^ 海軍駆逐隊289頁『マノクワリ沖対空戦闘図』
  128. ^ #駆逐艦戦隊245-247頁『春雨の沈没状況』
  129. ^ #S1906第27駆日誌(2)p.8『8日1237/不発爆弾1聯管ノ舟左ヨリ舟右ニ貫通経500粍破孔ヲ生ズ、13粍機銃弾貫通孔多数、負傷2名』
  130. ^ #駆逐艦戦隊249-251頁『敵のレーダー射撃に苦戦』
  131. ^ 佐藤、艦長たち(文庫)237-239頁『レーダー射撃からの遁走』
  132. ^ 海軍駆逐隊299頁『ビアク島沖夜戦経過図』
  133. ^ #駆逐艦戦隊256頁
  134. ^ a b c 海軍駆逐隊301頁
  135. ^ #駆逐艦戦隊257頁『アンボンで軟禁の日々』
  136. ^ 佐藤、艦長たち(文庫)375-377頁『無謀だった小沢長官の指示』
  137. ^ 野分物語(2004)196頁
  138. ^ 機動部隊(1992)466-469頁『〈付録1〉「あ号作戦」参加兵力一覧表』
  139. ^ 機動部隊(1992)429-430頁『(イ)飛鷹、(ホ)隼鷹、(ヘ)龍鳳』
  140. ^ a b c d e #戦藻録(九版)371-373頁
  141. ^ #S1905熊野日誌(2)p.48『五月十四日/五月雨一時行方不明トナル』
  142. ^ #内令(秘)昭和19年8月(3)p.9『内令第九三七號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年八月十日 海軍大臣|軍艦、航空母艦ノ部中「、飛鷹」ヲ、同敷設艦ノ部中「、津軽」ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中「、松風」ヲ、同卯月型ノ項中「、水無月」ヲ、同白露型ノ項中「白露、」「、春雨」ヲ、同不知火型ノ項中「、谷風」ヲ、同夕雲型ノ項中「、早波」ヲ削ル(以下略)』-p.10『内令第九四一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年八月十日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「谷風、」ヲ削ル|第二十二驅逐隊ノ項中「水無月、」ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項中「白露、」及「、春雨」ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「松風、」ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「早波、」ヲ削ル』
  143. ^ a b c d e f 秋月型(2015)266-267頁
  144. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.25『8月18日五月雨→0128鬼怒時雨/我浅瀬ニ乗セリ』-『鬼怒0340/鬼怒時雨ハ現任務ヲ続行ス、五月雨ハ極力船体ノ安全ヲ保テパラオヨリ救難船派遣請求シアリ』
  145. ^ 位置北緯08度10分 東経134度38分 / 北緯8.167度 東経134.633度 / 8.167; 134.633
  146. ^ #S1906第27駆日誌(5)p.15『亦鬼怒時雨ハ任務ノ都合上0328現場発任務ヲ続行』
  147. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)p.49『8月18日 一.0116五月雨「ガルアングル」島(「パラオ」諸島西方珊瑚礁ニ坐礁ス|二.鬼怒27駆(時雨)「パラオ」着揚搭作業終了後「セブ」ニ向ケ発|三.浦波ハNSB電令作第551号ニ依リ名取護衛救助ノ為「セブ」発|鬼怒、27駆(時雨)ハ急速揚搭終了後在留引揚邦人ヲ乗艦セシム』
  148. ^ #S1906第27駆日誌(5)p.15『1850再ビ現場着種々救難作業必要ナル要員(軽便潜水器手動唧筒一)ヲ移載シタル後再ビ2100頃現場発任務ニ就ケリ』
  149. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)p.30『18日2036鬼怒艦長→各隊/五月雨ノ現状ハ同艦発信電ノ通ニテ相當重大ナリ差當リ潜水要員排水ポンプ等ヲ供給シ置ケリ、現場ニハ掃海艇1隻駆潜艇1隻アリ、駆潜艇ノ横付等ニ依リ重量物ヲ移積シツツアルモ至急大発ノ回航方配慮ヲ得度又「パラオ」揚兵器モ搭載シアリ度等重量物ノ運搬ニ関シテモ手配セラレ度。鬼怒時雨2100発セブニ回航ス然ルベク配慮ヲ乞フ』
  150. ^ #S1906第27駆日誌(5)p.47『26日1044GKF電令第438号/竹ハ五月雨救難ノ望ミ無ケレバ出来得レバ同艦乗組員ヲ収容シ帰投スベシ』
  151. ^ #南海の死闘88頁
  152. ^ #S1906第27駆日誌(5)p.19『1840敵潜ノ雷撃ヲ受ク、魚雷前部機械室右舷ニ命中シ船体殆ンド切断大破37名ノ戦死者ヲ出スニ至レリ』
  153. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.27『26日2350五月雨→各隊/坐礁ノ大事ヲ惹起シ今亦敵潜ノ雷撃ヲ受ケ命ココニ到ル 遙ニ宮城ヲ拝シ光輝アル軍艦旗ヲ降下 部下総員ニ退去ヲ命ジ二十六日機銃五〇發恐懼シテ報ス』
  154. ^ #S1906第27駆日誌(5)p.43『26日2350軍艦旗ヲ降下 艦長退艦 竹ニ乗艦ス』
  155. ^ #南海の死闘89頁
  156. ^ #内令(秘)昭和19年10月(2)p.35『内令第一一五九號 艦艇類別等級別表中次ノ通改正ス|昭和十九年十月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等長良型ノ項中「長良、」「、名取」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「大鷹、」ヲ、同敷設艦ノ部中「、白鷹」ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中「、朝風」「、夕凪」ヲ、同初雪型ノ項中「、敷波」ヲ、同白露型ノ項中「、五月雨」ヲ、同松型ノ項中「松、」ヲ削ル(以下略)』
  157. ^ #内令(秘)昭和19年10月(2)pp.36-37『内令第一一六五號|呉鎮守府在籍 軍艦 白鷹|佐世保鎮守府在籍 軍艦 大鷹|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 長良、軍艦 名取|右帝国軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 朝風、驅逐艦 五月雨|呉鎮守府在籍 驅逐艦 敷波|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 夕凪|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 松|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和十九年十月十日 海軍大臣』
  158. ^ #内令(秘)昭和19年10月(2)pp.35-36『内令第一一六二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年十月十日海軍大臣|第十九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「、夕凪」ヲ削ル|第四十三驅逐隊ノ項中「松、」ヲ削リ「槇」ノ下ニ「、桐」ヲ加フ』
  159. ^ 秋月型(2015)267-269頁『炎の海にのまれた初春』
  160. ^ 『官報』第29853号、昭和11年11月4日。
  161. ^ 海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  162. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  163. ^ 海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 

関連項目[編集]