清霜 (駆逐艦)

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清霜
清霜
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
種別 駆逐艦
艦級 夕雲型駆逐艦
経歴
計画 1942年度(マル急計画
起工 1943年3月16日
進水 1944年2月29日
竣工 1944年5月16日[1][注釈 1]
除籍 1945年2月10日
最後 1944年12月26日戦没
要目
基準排水量 2,077t
公試排水量 2,520t
全長 119.3m
全幅 10.8m
吃水 3.76m
ボイラー ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 35.0kt
燃料 重油:600トン
航続距離 18ktで5,000浬
乗員 225名/316名[2]
兵装 新造時:
50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 Ⅱ×2
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36
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清霜(きよしも)は、大日本帝国海軍駆逐艦[3]一等駆逐艦夕雲型の19番艦であり、最終艦である。

艦歴[編集]

1942年度(マル急計画)仮称第347号艦として計画され、浦賀船渠の第517番船[1]として建造される。1943年(昭和18年)8月30日、清霜と命名された[3]。同日附で夕雲型18番艦「秋霜」等も命名[3]。2隻(秋霜、清霜)は駆逐艦一等夕雲型に分類される[4]1944年(昭和19年)3月4日、浦賀船渠に清霜艤装員事務所を設置[5]。 3月5日附で、日本海軍は吹雪型駆逐艦水雷長[6]睦月型駆逐艦11番艦望月艦長、峯風型駆逐艦11番艦太刀風艦長[7][8]等を歴任した宮崎勇少佐を清霜艤装員長に任命する[9]。 5月16日竣工[1]。宮崎艤装員長も正式に清霜駆逐艦長(初代)となった[10]。海軍に引き渡されて[11]横須賀鎮守府籍となり[12]、同日附の戦時編制の改定により第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入された[13]。だが、水中聴音器の不良により横須賀で補修整備を行う[14]。23日に内海西部に到着し[15]、以後訓練にあたった。5月末の第十一水雷戦隊は、軽巡2隻(長良、名取)、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)、吹雪型駆逐艦2隻()夕雲型19番艦清霜(本艦)、松型駆逐艦1番艦神風型駆逐艦9番艦夕凪という戦力だった[15]

昭和19年前半の戦い[編集]

6月18日、第十一水雷戦隊の駆逐艦2隻(清霜、松)は十一水雷旗艦の長良型軽巡洋艦1番艦長良とともに横須賀に向かった[16]。横須賀に到着後、小笠原諸島に対する「伊号作戦」に加わり、軽巡2隻(多摩木曾)、駆逐艦2隻(清霜、皐月)として第二輸送隊を構成し、父島到着後は硫黄島行きの第四輸送隊を構成した[17]。硫黄島への輸送任務を終えた後、僚艦2隻(皐月、夕月)とともに東京行きの第3628船団を護衛する予定であったが[18]、船団の速力が7ノットと遅い事や船団および3隻(清霜、皐月、夕月)が空襲を受けた事により、護衛を取りやめて横須賀に帰投した[19]

7月中旬の第十一水雷戦隊は、長良、高雄型重巡洋艦4番艦摩耶香取型練習巡洋艦2番艦鹿島、駆逐艦(清霜、朝雲浦風冬月)という艦艇で沖縄方面への輸送作戦「ろ号作戦」を実施する[20][21]。出撃時の輸送部隊は、高間少将(十一水戦司令官)直率の主隊(長良、摩耶、鹿島)と冬月艦長指揮の警戒隊(冬月、清霜、竹、朝雲、浦風)という編制である[22]。なお「清霜」は夕雲型、「浦風」は陽炎型(不知火型)、朝雲は朝潮型(満潮型)駆逐艦だが、十一水戦司令部は3隻とも『浦風型駆逐艦』と分類している[23]

7月15日、ろ号輸送部隊(長良、摩耶、鹿島、冬月、清霜、朝雲、浦風、竹)は中津湾を出港[24]。17日に沖縄島南東部中城湾へ到着後[25]、先行した第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)と第三輸送隊(冬月、清霜、竹)に分離[26]、第三輸送隊は南大東島への緊急輸送を行った[20]宮古島に向かった第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)は内地に帰投せず、そのままリンガ泊地へ向かった[27][28]。 第三輸送部隊は任務を終えて18日夜中城湾帰投[29]。 19日、5隻(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)は沖縄を出発[30]。翌日の内地帰投をもって『ろ号輸送部隊』は解散した[31][20][32]

8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は呉を出撃[33]馬公を経由し[34]、8月16日にマニラに到着[35]パラオに対する輸送作戦を行ったが[36]8月18日、軽巡名取がアメリカの潜水艦ハードヘッド (USS Hardhead, SS-365)の雷撃で撃沈された。基地航空隊および駆逐艦3隻(清霜、竹、浦波)はそれぞれ名取沈没現場に派遣されて捜索を行うが手掛かりを得られず、20日になり清霜はパラオ輸送任務についた[37]。「竹」はパラオ諸島で座礁した駆逐艦「五月雨」(第27駆逐隊)の救援に向かった[33]

8月15日、日本海軍は夕雲型駆逐艦3隻(早霜秋霜清霜)により第二駆逐隊を編制した[38]。駆逐隊司令は、吹雪型駆逐艦綾波艦長や陽炎型駆逐艦11番艦浦風初代艦長等を歴任した白石長義大佐[39]第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期)に編入された[40]。太平洋戦争における二代目の第二駆逐隊である。太平洋戦争開戦時の第二駆逐隊は白露型駆逐艦4隻(村雨夕立春雨五月雨)で編制されていたが、夕立・村雨の沈没、春雨長期修理により1943年(昭和18年)7月1日附で解隊されていた[41]

レイテ沖海戦[編集]

9月5日附で清霜駆逐艦長は、古鷹型重巡洋艦2番艦加古水雷長[6][42]峯風型駆逐艦10番艦夕風艦長[42][43]、睦月型3番艦「弥生」駆逐艦長(沈没時)[44][45]等を歴任した梶本覬少佐に交代した[46]。 10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊(司令長官栗田健男中将・海兵38期)とともにリンガ泊地を出撃、清霜は第二駆逐隊から分離して第二部隊(〔指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官/中将・海兵40期〕、第三戦隊《金剛榛名》、第七戦隊《熊野鈴谷筑摩利根》、第十戦隊《矢矧、第17駆逐隊》)に編入された[47][48]。 清霜は第4駆逐隊(満潮野分朝雲山雲)から1隻だけ分派された不知火型駆逐艦野分と共に三番隊(清霜、野分)を編成した[49]。 第17駆逐隊(浦風磯風雪風浜風)と共に第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦矢矧)の指揮下に入り、レイテ沖海戦に参加する[48]

10月24日、清霜はシブヤン海で空襲により損傷を受け部隊から落伍した大和型戦艦2番艦武蔵(艦長猪口敏平少将)の援護を利根型重巡洋艦1番艦利根(艦長黛治夫大佐)とともに担当するも[50][51][52]、対空戦闘中に清霜にも一番魚雷発射管に直撃弾1発(小型爆弾)が命中、最大発揮速力は24ノットに低下、また利根にも命中弾と至近弾があった[53]。だが武蔵の被害はさらに甚大で、完全に継戦能力を失った[54]。島風型駆逐艦島風(第二水雷戦隊所属)が応援にかけつけ、3隻(清霜、島風、利根)で武蔵を護衛することになった[55][52]。 このあと栗田艦隊主力に合同するため2隻(利根、島風《重巡摩耶生存者移乗》)は武蔵の傍を去り[56][52]、清霜と第17駆逐隊の駆逐艦浜風(昼間空襲により損傷中)は微速前進する武蔵の護衛を命じられた[57][58]。 その後、沈没直前の武蔵から乗組員移乗のため横付けするよう信号が発信されたものの、沈没による渦に巻き込まれるのを避けるため2隻は接近しなかった[59][60]。19時35分に武蔵が沈没すると、浜風は武蔵乗組員約850名、清霜は約500名を救助した[61][52]。一旦コロン島に向かった後、10月25日に武蔵生存者の半数をコレヒドール島に揚陸した[62]。これは沈没を隠匿するための措置であり[52]、コレヒドール島の武蔵生存者の大半は後にマニラの戦いに参加して全滅した[62]

10月26日、第2駆逐隊僚艦の早霜が空襲を受け大破、27日にフィリピンのセミララ島に座礁して放棄された[63]。夕雲型姉妹艦藤波(第32駆逐隊)が沈没した高雄型重巡洋艦3番艦鳥海の乗組員を救助して撤退中、早霜の近辺で空襲を受け撃沈された[63]。第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊長官)に所属していた駆逐艦不知火(第18駆逐隊)も、同様に空襲を受け撃沈された[63]

清霜は10月29日にマニラ湾で対空戦闘を行った後[64]、タンカー船団を追いかけて護衛にあたった[65]。11月8日夕刻、2隻(清霜、第三十四号掃海艇)はレイテ沖海戦でアメリカの潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) の雷撃で大破した高雄型重巡洋艦1番艦高雄を護衛してブルネイを出港、11日16時にシンガポールへ到着した[66]。 11月13日、マニラ湾に停泊していた第2駆逐隊僚艦「秋霜」がアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け、軽巡木曾、駆逐艦複数隻(沖波初春)等と共に沈没した[67]。 11月15日、清霜1隻となった第2駆逐隊に夕雲型姉妹艦朝霜が編入された[68]

清霜は11月26日から12月8日まで昭南で整備を行い[69]、整備を終えた後は航空戦艦2隻(伊勢日向)、重巡洋艦足柄、軽巡洋艦大淀、駆逐艦朝霜とともにカムラン湾に進出した[70]。12月13日、清霜はレイテ島への輸送作戦である多号作戦参加艦に指名されてマニラに向かい[71]、一時は南沙諸島長島まで進出したが[72]、12月15日にミンドロ島へアメリカ軍が上陸したことでマニラへの進出は中止となり、カムラン湾に引き返した[73]

沈没[編集]

12月24日、ミンドロ島のアメリカ軍に対する殴りこみ作戦『礼号作戦』が開始され、挺身部隊8隻(第一挺身隊:霞《木村司令官座乗、旗艦》、1番隊《清霜、朝霜》、2番隊《榧、杉、樫》/第二挺身隊《足柄、大淀》)はこれに呼応してカムラン湾を出撃した[74]。2日後の12月26日21時15分[75]、清霜はB-25の爆撃を受け、左舷中部に250キロ爆弾を受ける。重油タンクが破壊され左舷の機関は停止。また数分後には右舷の機関も停止し航行不能となった。この報告をおこなった清霜の梶本艦長は、のちに「アメリカ軍魚雷艇の襲撃ではなかったか」と回想している[76]。艦尾が激しく沈下し船体全てから火災が発生した清霜は、23時15分に大爆発を起こして北緯12度38分 東経120度43分 / 北緯12.633度 東経120.717度 / 12.633; 120.717の地点で沈没した[77]。最後の大爆発はアメリカ軍の魚雷艇が発射した魚雷だった可能性がある[78]。朝霜は清霜が行方不明になった事を旗艦座乗の第二水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)に報告したが、木村少将は作戦終了後に救助するので海図に沈没位置を記しておくよう命令した[79]。やがて砲撃を終えた挺身部隊は、霞と朝霜を清霜乗員の救助にあたらせるため残留させ、残りは先にカムラン湾に向かった。2隻(霞、朝霜)は機関を止めて航空機と魚雷艇に警戒しつつ救助活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ清霜の乗員を数えた[80]。1時間14分に及ぶ救助作業の末、白石長義(第2駆逐隊司令)以下91名が霞に、清霜駆逐艦長以下167名が朝霜に、合計258名が救助された[80]。清霜乗組員の戦死および行方不明者は84名であったが[81]、行方不明者のうちの5名はアメリカ魚雷艇に救助された[82]。この後、清霜生存者の一部はレイテ地区の地上兵力に編入されている[83]。 12月29日午後6時30分、挺身部隊はカムラン湾に帰投[75]。同日附で白石大佐(第二駆逐隊司令)と梶本清霜駆逐艦長は、それぞれの職務を解かれた[84]

駆逐艦清霜は2月10日附で 夕雲型駆逐艦[85]、 帝国駆逐艦籍[86]より除籍された。 第2駆逐隊は再び解隊され、最後の夕雲型駆逐艦となった朝霜は第21駆逐隊(初霜、時雨)に編入された[87]。その約2ヶ月後の4月7日、戦艦大和(第二艦隊旗艦)と第二水雷戦隊旗艦矢矧を基幹とする水上特攻作戦に参加した朝霜も機関の故障により第二艦隊から落伍し、空襲を受け沈没した。なお、朝霜の喪失をもって19隻建造された夕雲型駆逐艦は全て沈没した。

歴代艦長[編集]

艤装員長
  1. 宮崎勇 少佐:1944年3月5日[9] - 1944年5月16日[10]
駆逐艦長
  1. 宮崎勇 少佐:1944年5月16日[10][注釈 1] - 1944年9月5日[46]
  2. 梶本顗 少佐/中佐:1944年9月5日[46] - 1944年12月29日[84]

注釈[編集]

  1. ^ a b 竣工日は通説では1944年5月15日だが、本艦の海軍への引渡しは5月16日、本艦の本籍設定は5月16日付 海軍内令 第683号、本艦の定員を定めた海軍定員令の改正は5月16日付 海軍内令員 第850号、特修兵教員配置規則の改正は5月16日付 海軍内令員 第851号、駆逐艦長航海長など士官の人事発令日は5月16日付、戦時編制の改定による本艦の第十一水雷戦隊への編入も5月16日付で行われており、これらの日付訂正は存在しない。また当時の海軍は艦船艇の完成後も艤装員長を置き続ける慣習は無い。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『浦賀・追浜百年の航跡』、p. 資-51。
  2. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.8
  3. ^ a b c #達昭和18年8月(2)pp.45-46『達第二百二號 昭和十七七年度及昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、海防艦四隻、掃海艇一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年八月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 秋霜(アキシモ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 清霜(キヨシモ) 海防艦 笠戸(カサド)|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 淡路(アハヂ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 倉橋(クラハシ) 海防艦 千振(チブリ)|株式會社東京石川造船所ニ於テ建造 第三十號掃海艇|株式會社新潟鐵工所ニ於テ建造 第五十八號驅潜艇』
  4. ^ #内令昭和18年8月(5)p.15『内令第千七百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十八年八月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|駆逐艦、一等夕雲型ノ項中「早霜」ノ下ニ「、秋霜、清霜」ヲ加フ(以下略)』
  5. ^ 昭和19年3月9日 海軍公報(部内限)第4636号 p.24』 アジア歴史資料センター Ref.C12070459500 『○事務開始(略)清霜艤装員事務所ハ三月四日神奈川縣横須賀市谷戸六番地浦賀船渠株式會社浦賀造船所内ニ於テ事務ヲ開始セリ』
  6. ^ a b 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.10梶本加古水雷長、p.12宮崎免職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800 
  7. ^ 昭和18年1月9日(発令1月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1027号 p.21』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089000 
  8. ^ 昭和18年2月13日(発令2月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1052号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 
  9. ^ a b 昭和19年3月6日(発令3月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1356号 p.23』 アジア歴史資料センター Ref.C13072096400 
  10. ^ a b c 昭和19年5月17日(発令5月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1473号 p.24』 アジア歴史資料センター Ref.C13072098200 
  11. ^ #S1812十一水戦(4)p.61『一六日〇七三〇清霜駆艦長(宛略)機密第一六〇七三〇番電 駆逐艦清霜ヲ受領セリ但シ水中聴音機ハ實用ニ適セズ』
  12. ^ #内令昭和19年5月(2)p.13『内令第六百八十三號 驅逐艦 清霜 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十九年五月十六日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  13. ^ #S1812十一水戦(4)p.61『一六日一〇二六總長(宛略)発軍令部総長 帝国海軍戰時編制中左ノ通改定セラル 五月十六日附清霜ヲ十一水戰ニ編入ス』
  14. ^ #S1812十一水戦(4)pp.63-64『十八日一二〇〇清霜駆逐艦長(宛略)機密第一八一二〇〇番電 発清霜駆逐艦長』
  15. ^ a b #S1812十一水戦(4)p.50『(四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動』
  16. ^ #S1906十一水戦(1)p.42
  17. ^ #S1906十一水戦(1)p.23
  18. ^ #S1906十一水戦(1)p.15
  19. ^ #S1906十一水戦(1)pp.19,20,21
  20. ^ a b c #南海の死闘86-87頁『「竹」の初陣』
  21. ^ #S1906十一水戦(2)pp.5-6『(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動』
  22. ^ #ろ号作戦pp.29-30『(イ)第一軍隊区分』
  23. ^ #ろ号作戦p.26『(イ)艦艇ノ搭載量標準ニ関シ 艦艇ヲ以テスル作戰輸送時ニ於ケル搭載量ノ決定ハ中々至難ニシテ特ニ陸軍ノ場合圓滑ナル作戰實施ノ一障害ヲナスヲ以テ速ニ現艦艇ノ搭載量標準ヲ規定スルノ要アリ 之ニ関聯シ今回實施セル作戰輸送時當司令部ニテ決定セル各艦ノ搭載標準ハ左表ノ通ニシテ作戰輸送トシテノ各艦ノ畧限度ナリト認ム』-『摩耶|人員(数)一〇〇〇|物件(噸)一七〇/長良|六〇〇|三〇/鹿島|七〇〇|一〇〇/浦風型|二〇〇|四〇/冬月|二五〇|五〇/竹|/|三〇』
  24. ^ #ろ号作戦p.6『十五|中津湾|(天候略)|〇八三〇摩耶入港/〇九〇〇輸送作戰打合セ/一八〇〇中津湾出撃』
  25. ^ #ろ号作戦p.7『十七(天候略)一八〇二長良冬月霜月竹鹿島中城湾着/二三〇〇冬月清霜竹南大東島ニ向ケ中城湾発輸送物件人員陸揚』
  26. ^ #ろ号作戦p.30『(ロ)第二軍隊区分』
  27. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.5『(2)朝雲 月頭ヨリ呉ニ於テ整備補給ニ従事中ノ所四日附属部隊ニ編入十日附第十駆逐隊解隊ニ伴ヒ第四駆逐隊ニ編入十四日浦風ト共ニ同地発即日門司着「ロ」號作戰輸送部隊第二輸送隊トシテ陸軍部隊竝ニ物件搭載ノ上同地発中津沖及中城湾ヲ経テ十八日宮古島着陸軍部隊竝ニ物件ノ揚陸ヲ終了「ロ」號作戰輸送部隊ノ編制ヲ解カレ即日同地発二十日「マニラ」着補給ノ上二十三日同地発二十六日「リンガ」着…』
  28. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.37『一八(天候略)〇七二一朝雲〇九五二浦風宮古着/〇八四五雪風因島船渠出渠/〇九二五朝雲一〇三〇浦風摩耶護衛「マニラ」ニ向ケ宮古発』
  29. ^ #ろ号作戦p.7『十八|中城湾|(天候略)|〇八〇〇冬月清霜竹南大東島着輸送物件人員陸揚終了/一〇三〇中将湾ニ向ケ南大東島発/二〇〇〇中城湾着』
  30. ^ #ろ号作戦p.8『十九(天候略)|〇一〇〇長良鹿島冬月清霜竹中城湾発/〇七〇〇清霜七六二空搭乗員救助作業ノ爲解列』
  31. ^ #ろ号作戦p.8『二〇(天候略)|一六〇六冬月機械故障ノ為列外ニ出ル/一六二七舵故障復旧列ニ入ル/二三〇二長良冬月竹八島着 呂号作戰部隊ノ編成ヲ解ク』
  32. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.8『(2)冬月 十五日附霜月ト共ニ第四十一駆逐隊ニ編入南西諸島方面陸軍部隊輸送ニ従事中ノ所二十一日右任務終了内地着二十二日司令駆逐艦トナリ爾後月末迄内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事ス』
  33. ^ a b #南海の死闘87-88頁『パラオ島緊急輸送と不測の事態』
  34. ^ #S1906十一水戦(3)p.36
  35. ^ #S1906十一水戦(3)p.37
  36. ^ #S1906十一水戦(3)pp.26,27
  37. ^ #先任将校308-309頁
  38. ^ #秘海軍公報昭和19年8月(4)p.3『内令第九五九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年八月十五日 海軍大臣|第一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第二驅逐隊|早霜、秋霜、清霜| 』
  39. ^ 昭和19年8月18日(発令8月15日付)海軍辞令公報(甲)第1567号 p.13』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600 
  40. ^ #秘海軍公報昭和19年8月(4)p.3『内令第九五九號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年八月十五日海軍大臣|第一駆逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第二駆逐隊/早霜、秋霜、清霜』
  41. ^ #内令昭和18年7月(1)p.37『内令第千三百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第二驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  42. ^ a b 昭和16年8月20日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第695号 p.9』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800 
  43. ^ 昭和17年6月25日(発令6月25日付)海軍辞令公報(部内限)第889号 p.26』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 
  44. ^ 昭和17年7月6日(発令7月5日付)海軍辞令公報(部内限)第895号 p.18』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  45. ^ 昭和17年9月21日(発令9月20日付)海軍辞令公報(部内限)第946号 p.35』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086900 (弥生は9月11日に沈没、小屋大尉の艦長発令は書類上)
  46. ^ a b c 昭和19年9月9日(発令9月5日付)海軍辞令公報(甲)第1589号 p.10』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100900 
  47. ^ 木俣『日本戦艦戦史』436、437ページ
  48. ^ a b #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.4『(ハ)第七戦隊(旗艦熊野鈴谷筑摩利根)ハ第一遊撃部隊ノ第二部隊(3S、7S、10S《旗艦矢矧17dg野分》及清霜)ニ属シ第一部隊ト共ニ1YB主力トシテ「シビアン」海経由「サンベルナルヂノ」海峡突破「レイテ」泊地突入ヲ企図ス』
  49. ^ #S1910十戦隊日誌p.7『(2)野分 十四日第三哨艦トナレル外二十日迄ノ経過概ネ満潮ト同断二十一日第四駆逐隊ノ中野分ノミ第二部隊ニ残留二水戰ヨリ編入ノ清霜ト共ニ三番隊トナル/爾後二十四日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断二十五日「サマル」島東方ニ於ケル敵水上部隊トノ戰闘一段落後損傷艦筑摩ノ警戒ニ赴キタル儘爾後消息不明トナレリ』
  50. ^ #佐藤 艦長(文庫)220頁
  51. ^ #レイテ武蔵詳報p.19『第四次空襲中 2F長官|武藏艦長 清霜驅逐艦長|清霜ハ武藏艦長ノ指揮ヲ受ケ同艦ノ警戒ニ任ゼヨ』-『2F長官|武藏艦長 利根艦長|利根ハ武藏艦長ノ指揮ヲ受ケ同艦ノ警戒ニ任ゼヨ』
  52. ^ a b c d e #サイパン・レイテ海戦記166頁
  53. ^ #佐藤 艦長(文庫)221頁
  54. ^ #レイテ武蔵詳報p.19『1S司令官|武藏艦長|敵機ノ空襲状況ニ鑑ミ航行又ハ曳航可能ナル場合ハ附近ノ港ニ待避スルカ浅瀬ニ乗リ上ゲ適當ナル應急對策ヲ講ゼヨ』
  55. ^ #佐藤 艦長(文庫)222頁
  56. ^ #レイテ武蔵詳報p.19『2F長官|仝右|利根ハ原隊ニ復歸セヨ』
  57. ^ #佐藤 艦長(文庫)223頁
  58. ^ #レイテ武蔵詳報p.19『2F長官|1S司令官 浜風驅逐艦長(武藏艦長)|浜風ハ武藏艦長ノ指揮ヲ受ケ同艦ノ警戒ニ任ゼヨ』
  59. ^ #佐藤 艦長(文庫)223頁で梶本艦長は「武蔵から横付命令がでていない」と証言している。
  60. ^ #第17駆逐隊戦闘詳報(4)p.33『10-24 1908 武蔵|10-24 1908 浜風|至急武蔵ノ左舷ニ横付セヨ』
  61. ^ #佐藤 艦長(文庫)226頁
  62. ^ a b 木俣『日本戦艦戦史』468ページ
  63. ^ a b c #サイパン・レイテ海戦記394頁
  64. ^ 『駆逐艦清霜戦時日誌』pp.11
  65. ^ 『駆逐艦清霜戦時日誌』pp.22
  66. ^ #S1812高雄日誌(7)pp.17-18『11日1609高雄/高雄、清霜、第三十四號掃海艇ハ8日1830「ブルネイ」発11日1600昭南着』
  67. ^ #艦長海戦記52-53頁『マニラ前進根拠地の機能喪失』
  68. ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊|桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  69. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.14,15
  70. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.32,33
  71. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.34,35,40,57
  72. ^ 『第二駆逐隊戦時日誌』pp.6
  73. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.42,58
  74. ^ #戦場の将器255-256頁
  75. ^ a b #艦長海戦記56-57頁
  76. ^ #佐藤 艦長(文庫)223頁『「清霜」の被弾は魚雷命中』
  77. ^ 『第二駆逐隊礼号作戦戦闘詳報』pp.24
  78. ^ #戦場の将器261頁
  79. ^ 木俣『日本水雷戦史』597ページ
  80. ^ a b 木俣『日本水雷戦史』605ページ
  81. ^ #艦長海戦記58頁
  82. ^ #佐藤 艦長(文庫)237頁
  83. ^ #10月18日以降増援兵力pp.3,7
  84. ^ a b 昭和19年1月7日(発令12月29日付)秘海軍辞令公報(甲)第1686号 pp.25-26』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  85. ^ #秘公報昭和20年2月(2)p.20『内令第一〇八號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和二十年二月十日海軍大臣|驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「、清霜」ヲ、同松型ノ項中「、桃、桑」ヲ、同二等若竹型ノ項中「呉竹、」ヲ削ル(以下略)』
  86. ^ #秘公報昭和20年2月(2)p.21『内令第一一五號|横須賀鎮守在籍 驅逐艦 清霜|呉鎮守府在籍 驅逐艦 桑 驅逐艦 呉竹|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 桃|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)』
  87. ^ #秘公報昭和20年2月(2)pp.20-21『内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年二月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070119400 『昭和18年1~8月達/昭和18年8月(2)』。
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      第十一水雷戦隊司令部『ろ号作戦輸送部隊任務報告 門司-中城湾宮古島南大東島間作戦輸送 自昭和十九年七月十四日 至昭和十九年七月二十日』
    • Ref.C08030050800 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)』。
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  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』 光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6
  • 小淵守男 「第十章 礼号突入作戦」『少年水兵の太平洋戦争 巡洋艦「大淀」16歳の海戦』 光人社NF文庫、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9 小渕は大淀主砲発令所勤務。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
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  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「貴重な勝利」<駆逐艦「清霜」艦長・梶本顗中佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦夕風艦長、弥生艦長、三重空教官、兵学校教官、清霜艦長、第22戦隊先任参謀等)
    • 「独断反転」<駆逐艦「榧」艦長・岩淵悟吾郎少佐の証言>(太平洋戦争時、天津風水雷長、阿武隈水雷長、最上水雷長、望月艦長、夕凪艦長、榧艦長等)
  • 福田幸弘 『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6
  • 細谷四郎 『戦艦武蔵戦闘航海記』 八重岳書房、1988年ISBN 4896461142
  • 松永市郎軍艦名取短艇隊帰投せり 先任将校』 光人社NF文庫、2009年7月(原著1985年)。ISBN 978-4-7698-2003-1
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • 森田友幸 「第4章 礼号作戦」『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり』 光人社、2000年3月。ISBN 4-7698-0953-0
  • 茂呂計造 「第7章 「竹」実戦部隊編入」『南海の死闘 少年水兵の海戦記』 近代文藝社、1994年9月。ISBN 4-7733-3262-x 「竹」水雷科連管手。
  • 山本平弥ほか 『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』 潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6
    • 戦史研究家伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
  • 『浦賀・追浜百年の航跡 1897-1997』、住友重機械工業株式会社横須賀造船所、1997年。

関連項目[編集]