夕雲型駆逐艦

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夕雲型駆逐艦
1944年5月15日、浦賀沖の「清霜」[1][2]
1944年5月15日、浦賀沖の「清霜」[1][2]
基本情報
種別 一等駆逐艦[3]
運用者  大日本帝国海軍
建造数 19隻
前級 陽炎型駆逐艦
次級 秋月型駆逐艦
要目 (計画)
軽荷排水量 1,885.5トン[4]
基準排水量 2,077英トン[5]
公表値 2,040英トン[6]
公試排水量 2,520トン[5]
満載排水量 2,772.70トン[4][注釈 1]
全長 119.300m[7][8][注釈 2]
水線長 117.000m[5][7]
垂線間長 111.000m[5][7]
全幅 10.800m[5][7]
水線幅 10.800m[5][7]
深さ 6.460m[5][7]
吃水 公試平均 3.760m[5][7]
満載平均 4.03m[5]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付) 3基[9]
主機関 艦本式タービン(高中低圧) 2基[9]
推進器 2軸 x 380rpm[9]
直径3.300m、ピッチ3.545m[10]
出力 52,000shp[5]
速力 35ノット[5]
燃料 重油 600トン[5]
航続距離 5,000カイリ / 18ノット[5]
乗員 計画乗員 225名[11]
夕雲竣工時定員 228名[12]
兵装 50口径三年式12.7cmD型連装砲 3基6門[13]
25mm機銃 連装2基[13]
(61cm)九二式4連装発射管四型 2基8門[14]
九三式一型改二魚雷 16本[14]
九四式爆雷投射機1基、三型装填台1基[14]
爆雷投下台 水圧三型2基、手動一型4基[14]
九五式改一爆雷 18個[14]
搭載艇 7.5m内火艇2隻、7mカッター2隻、6m通船1隻(母港保管)[15]
ソナー 九三式水中聴音機1組(後日装備)[16]
九三式三型探信儀1組(1943年)[16]
その他 単艦式大掃海具1基、小掃海具一型改一 2基[14]
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夕雲型駆逐艦(ゆうぐもかたくちくかん)は、大日本帝国海軍の一等駆逐艦の艦級[3]陽炎型駆逐艦の改良型で、陽炎型と夕雲型を合わせて甲型駆逐艦とも呼ばれる[17]

概要[編集]

日本海軍は1939年(昭和14年)に昭和十四年度海軍軍備充実計画(通称マル4計画)を策定、その中で駆逐艦(甲)18隻の予算が成立した[18]。うち最初の4隻(第112号艦から第115号艦)はマル3計画(1937年計画)に引き続き陽炎型として建造されたが[18]、陽炎型は当初、計画速力の35ノットに達せず[19]、船体を延長した改良型[20]を第116号艦(後の「夕雲」)から建造する[18]。艦艇類別等級表でも別型とし、これを「夕雲型」とした[3]。この計画では上記陽炎型4隻の他に夕雲型11隻、島風1隻(残り2隻は建造せず)が建造された[18]

当初1941年(昭和16年)に策定された軍備充実計画(通称マル5計画)では、夕雲型に続く次世代型の甲型駆逐艦として島風型駆逐艦16隻を建造する予定であった[21][22]。だが、対アメリカ戦の軍備が急速に必要だったことから同年に策定された戦時急造の計画(通称マル急計画)では夕雲型16隻が追加で計画され[23]、変更がなければ島風型16隻と夕雲型16隻の追加建造となるはずだった。

太平洋戦争開戦後、戦局の変化を受け1942年(昭和17年)にマル5計画を改定して策定された戦時艦船建造補充計画(通称改マル5計画)では、島風型ではなく夕雲型16隻に計画変更されて[21]マル急計画分を合わせて24隻を建造する予定だった。しかし、戦局の悪化に伴いマル急計画分の内8隻(第348号艦~第355号艦)と改マル5計画分16隻は建造中止となり[24]、最終的に夕雲型はマル4計画分の11隻とマル急計画分の内8隻(第340号艦~第347号艦)に当たる19隻が建造された。 また甲型駆逐艦である夕雲型は1943年以降起工されず、代わりに乙型駆逐艦に当たる秋月型駆逐艦と丁型駆逐艦に当たる松型駆逐艦が優先して建造された。

第1艦「夕雲」の竣工が1941年(昭和16年)12月5日(開戦3日前)、最終艦「清霜」の竣工が1944年5月15日。 竣工後は前線の損耗補充として訓練もままならないまま実戦投入された艦が多く、坊ノ岬沖海戦に参加した朝霜を最後に全て戦没してしまった。

甲型駆逐艦[編集]

マル4計画以降、予算などでは艦隊型駆逐艦を駆逐艦(甲)として、陽炎型と夕雲型に区別は無い。

また太平洋戦争末期に松型駆逐艦の低速、雷装4射線では満足せず、軍令部や艦政本部内の新しい駆逐艦案として「速力33ノット、主砲を高角砲とし、8射線以上の雷装を持ち、急速建造に適する艦型」が浮上した[25]。が、私案の域を出ず計画を具体化すること無く終わったという[25]。この艦型も甲型と呼ばれる[25]

艦型[編集]

基本計画番号F50(陽炎型はF49)[5][26]。艦型は陽炎型駆逐艦とほとんど同じだが、若干の変更がされた[20]。艦の殆どが太平洋戦争中の竣工であり、順次戦訓による改正が行われている[27]。なお約半数の艦で写真が見つかっておらず、改正の状況が推定となる艦もある[28]

船体[編集]

陽炎型駆逐艦では最初の公試運転で速力が計画の35ノットに達しないために船体形状(船体抵抗)の問題が疑われ[19]、夕雲型は艦尾を延長した[20]。速力の問題は種々の推進器形状を試し、推進効率の良い推進器が見つかったために陽炎型各艦は速力35ノットを超えることが出来るようになった[19]。夕雲型では船体の延長で後甲板が広くなり、後部の艤装が楽になったという[20]

なお「一般計画要領書」(戦後複写版)では全長119.03mとしているが[注釈 2]、公式図面では全長119.30mとなっている[7][8]

艦橋[編集]

陽炎型との外観上の違いとして艦橋構造物壁面の傾斜があげられる[27]。陽炎型は羅針艦橋下の艦橋構造壁面が垂直であるのに対し、夕雲型の壁面は前面と後面が広がった末広がりの形状をしている[27][注釈 3]。また艦橋前端の位置は陽炎型と同じだが、後端は基部が後方へ(約1.5m[20])移動し内部容積が増大した[29]。内部の廊室には昇降口が2箇所(陽炎型は1箇所)設けられ、上りと下りを分けて使用できるようになった[30]

ちなみに、秋雲が陽炎型と断定された決定的な証拠は秋雲の艦橋部分が写っていた集合写真であった。

初期の艦は22号電探を装備した際に信号所下に甲板室を設けて、張り出しのある状態になり、中期竣工の艦(「早波」「浜波」)は甲板室を増設した状態で完成した[31][27]。後期の艦は艦橋構造後壁を垂直にして内部容積を増やし、艦橋内に電探室を設置、張り出しは無くなった[31][27]

またトップに搭載した3m測距儀のカバーが「早波」「浜波」(1943年7月、10月竣工)では拡大されている(以降の竣工艦も同様、写真の無い艦も同様と思われる)[31][27]

「沖波」の場合、羅針艦橋の前面、側面と天蓋に防弾鋼板が装着された[30]。他艦も同様と思われる[30]

マスト[編集]

前部マストは陽炎型より艦橋が後方に拡大したことに合わせて、若干後方へ移動している[32]。22号電探装備(後述)の際に形状が変更された[33]

後部マスト(三脚柱)は「巻雲」「風雲」(1942年3月竣工)が陽炎型と位置、形状共に同じ(「夕雲」も同様と推定)[27]。位置は後部の支柱がスキッドビームの位置で主柱はその前方にあり[32]、横桁は1本棒のものだった[27]。「長波」(1942年6月竣工)は前部の主柱がスキッドビームの位置まで後退し[32]、横桁は下部に支柱がある4方に延びる形状に変更された[27]。以降竣工の艦も同様(資料のない艦は推定)となる[27]

機関[編集]

陽炎型から機関に変更は無い[34]。発電機が陽炎型の直流から夕雲型は交流となった[20]

主砲[編集]

主砲は陽炎型まで搭載していたC型砲ではなく新たにD型砲を搭載した[20]。主砲用測距儀も3m測距儀(陽炎型)から3m高角測距儀に変更[26]、射撃用方位盤は九四式方位盤照準装置を搭載した[30]。対空射撃に必要な2式距離苗頭盤も夕雲型から装備した[35]。主砲の発射速度は八九式12.7cm連装高角砲と比較しても圧倒的に遅く、対空戦闘能力は低かった[36]しかしながら、後記の「2番砲を撤去しての25mm機銃の増備はなし」は本型および 本型と砲装備が同じ島風で見られ、これは「主砲対空能力への過度の期待」という要因があったと見ることが出来る。[要出典]

1番砲の位置は陽炎型から若干後退している[29][注釈 4]

機銃[編集]

機銃に関しては当初は25mm連装機銃2基のみだったが[13]、大戦後半に竣工した艦ほど対空機銃が増備されている。最終艦の「清霜」(1944年5月竣工)の場合、艦橋前に機銃座を設け25mm連装1基、第一煙突後ろにも機銃座を設け25mm3連装機銃2基を装備、第2煙突前の機銃座は面積を拡大して[37]3連装2基(計画は連装2基)を搭載して合計25mm3連装4基、同連装1基となった[38][39]。その後は単装機銃が増備された[39]

1943年以降、陽炎型以前の艦では2番砲を撤去しその跡に3連装機銃を1基(初春型及び白露型)もしくは2基(吹雪型、朝潮型、及び陽炎型)設置したが、夕雲型はその種の訓令工事の対象から外れており[40]、レイテ沖海戦前および戦没直前に撮影された長波、戦没直前に撮影された朝霜、戦没後にマニラ湾で撮影された沖波など、昭和19年下半期以後に撮影された夕雲型諸艦のいずれの写真でもこの工事が行われていないことが判明している[41]

魚雷[編集]

陽炎型と同じ九二式四型61cm4連装発射管2基を装備、装備位置も変わらない[42]。酸素魚雷も陽炎型と同様に搭載し、ルンガ沖夜戦などでその威力を示した[42]

レーダー[編集]

初期の艦はまだレーダーを搭載していない[32]。例えば1942年(昭和17年)竣工の「巻雲」「風雲」「長波」では竣工時の写真から装備していないことが確認出来る[43][44][45]22号電探の装備は1943年(昭和18年)後半からで、夕雲型は前部マストを改造してその中段に22号電探を装備した[33]。1943年7月竣工の「早波」には竣工時からの装備が写真から確認される[46]。竣工時搭載していなかった艦も同様の改装を行い、搭載したと推定される[30]

「あ号作戦」時(1944年6月)には多くの艦が後部マストに13号電探を装備した[39]

その他「沖波」の場合E27逆探アンテナが羅針艦橋前面と前部マストに装備された[30]。他艦も同様と思われる[30]

ソナー[編集]

ソナーは当時の海軍主力である九三式聴音機と九三式探信儀、後に三式探信儀が装備されたが、対潜用の攻撃手段は爆雷のままでその搭載数も陽炎型と変わらないため、全体で見れば、対潜能力は従来の型式より優れているとはいえない。[要出典]

活躍[編集]

巻雲、風雲
ミッドウェー海戦時、大破した空母飛龍を処分するため、巻雲と風雲は魚雷を撃ち、巻雲は一本命中させている。南太平洋海戦時には、日本機動部隊航空隊の攻撃により航行不能となった米空母ホーネットの撃沈のため巻雲と陽炎型の秋雲が雷撃によって沈没させた。世界の海戦史において、空母に二度も魚雷を発射・沈没させた駆逐艦は巻雲のみである。

同型艦[編集]

建造所は舞鶴海軍工廠藤永田造船所浦賀船渠の3箇所に絞られた[28]

夕雲(ゆうぐも/ゆふぐも)[47]
1941年12月5日竣工(舞鶴海軍工廠)。ミッドウェー海戦南太平洋海戦などに参加。1943年10月6日、第二次ベララベラ海戦で米水上部隊と交戦しソロモン諸島ベララベラ島沖にて戦没した。
巻雲(まきぐも)
1942年3月14日竣工(藤永田造船所)。ミッドウェー海戦南太平洋海戦第三次ソロモン海戦などに参加。1943年2月1日、第一次ガダルカナル撤収作戦においてサボ島近海で触雷により航行不能となり、夕雲の手により処分された。
風雲(かざくも)
1942年3月28日竣工(浦賀船渠)。ミッドウェー海戦南太平洋海戦第三次ソロモン海戦などに参加。1944年6月8日、米潜水艦ヘイクの雷撃でダバオ湾口にて戦没した。
長波(ながなみ)
1942年6月30日竣工(藤永田造船所)。ルンガ沖夜戦などに参加。1944年11月11日、第三次オルモック輸送作戦で米空母艦載機の攻撃によりフィリピンのオルモック湾にて戦没。
巻波(まきなみ)
1942年8月18日竣工(舞鶴海軍工廠)。南太平洋海戦などに参加。1943年11月25日、セントジョージ岬沖海戦で米水上部隊と交戦しブーゲンビル島沖にて戦没、生存者29名がラバウルに漂着した。
高波(たかなみ)
1942年8月31日竣工(浦賀船渠)。南太平洋海戦などに参加。1942年11月30日、ルンガ沖夜戦で米水上部隊と交戦しガダルカナル島沖にて戦没、わずか3か月の艦歴だった。
大波(おおなみ/おほなみ)
1942年12月29日竣工(藤永田造船所)。1943年11月25日、吉川潔艦長の下、ブーゲンビル島沖において発生したセントジョージ岬沖海戦にてアーレイ・バーク大佐率いる米水上部隊に奇襲を受け被雷、その後僅か4分で沈没した。艦長以下全員が戦死した。
清波(きよなみ)
1943年1月25日竣工(浦賀船渠)。1943年7月20日、コロンバンガラ輸送作戦で米陸海軍機の攻撃によりベララベラ島沖にて戦没。
玉波(たまなみ)
1943年4月30日竣工(藤永田造船所)。マリアナ沖海戦などに参加。1944年7月7日、米潜水艦ミンゴの雷撃でフィリピン諸島ルソン島マニラ湾沖にて戦没した。
涼波(すずなみ)
1943年7月27日竣工(浦賀船渠)。1943年11月11日、米空母艦載機の攻撃によりラバウル港沖にて戦没。
藤波(ふじなみ)
1943年7月31日竣工(藤永田造船所)。1944年10月27日、レイテ沖海戦で米空母艦載機の攻撃によりシブヤン海にて戦没。
早波(はやなみ)
1943年7月31日竣工(舞鶴海軍工廠)。1944年6月7日、米潜水艦ハーダーの雷撃でタウイタウイ島沖にて戦没。
浜波(濱波)(はまなみ)
1943年10月15日竣工(舞鶴海軍工廠)。マリアナ沖海戦レイテ沖海戦などに参加。1944年11月11日、第三次オルモック輸送作戦で米空母艦載機の攻撃により戦没。
沖波(おきなみ)
1943年12月10日竣工(舞鶴海軍工廠)。マリアナ沖海戦レイテ沖海戦などに参加。1944年11月13日、米空母艦載機の攻撃によりマニラ湾にて戦没。
岸波(きしなみ)
1943年12月3日竣工(浦賀船渠)。マリアナ沖海戦レイテ沖海戦などに参加。1944年12月4日、米潜水艦フラッシャーの雷撃でパラワン島沖にて戦没。
朝霜(あさしも)
1943年11月27日竣工(藤永田造船所)。マリアナ沖海戦レイテ沖海戦などに参加。1945年4月6日、沖縄水上特攻作戦に戦艦大和とともに第21駆逐隊旗艦として出撃したが、翌7日早朝に機関故障を起こし艦隊より落伍。正午過ぎに敵機と交戦中との無電を発した後、連絡が途絶えた。単艦戦闘であった上、生存者がいない為にその最期は明らかではない。米空母艦載機の攻撃により東シナ海にて戦没したと推測されている。駆逐隊司令以下乗組員全員が艦と運命を友にした。
早霜(はやしも)
1944年2月20日竣工(舞鶴海軍工廠)。マリアナ沖海戦などに参加。1944年10月27日、レイテ沖海戦で米空母艦載機の攻撃によりセミララ島にて放棄。
秋霜(あきしも)
1944年3月11日竣工(藤永田造船所)。マリアナ沖海戦レイテ沖海戦などに参加。1944年11月13日、米空母艦載機の攻撃によりマニラ湾にて大破着底、1955年解体。
清霜(きよしも)
1944年5月15日竣工(浦賀船渠)。レイテ沖海戦などに参加。1944年12月26日、サンホセ突入作戦で米水上部隊および米陸軍機の攻撃により航行不能となり、後にアメリカ魚雷艇の攻撃を受けミンドロ島沖にて戦没。

建造中止艦[編集]

マル4計画における計画艦

  • 仮称艦名:128号艦、129号艦[48]
  • 双方共に大和型戦艦2隻(信濃111号艦)の建造予算調達の為に計上された艦であり、実際の建造予定は無かった[49]

戦時建造計画(昭和16年度、マル急計画)における計画艦

  • 仮称艦名: 348号艦、349号艦、350号艦、351号艦、352号艦、353号艦、354号艦、355号艦
  • 予定艦名: 妙風(たえかぜ/たへかぜ)、清風(きよかぜ)、村風(むらかぜ)、里風(さとかぜ)、
    山霧(やまぎり)、海霧(うみぎり)、谷霧(たにぎり)、川霧(かわぎり/かはぎり)

改マル5計画における計画艦(改夕雲型)

  • 仮称艦名: 5041号艦、5042号艦、5043号艦、5044号艦、5045号艦、5046号艦、5047号艦、5048号艦
  • 予定艦名: 山雨(やまさめ)、秋雨(あきさめ)、夏雨(なつさめ)、早雨(はやさめ)、
    高潮(たかしお/たかしほ)、秋潮(あきしお/あきしほ)、春潮(はるしお/はるしほ)、若潮(わかしお/わかしほ)

駆逐隊の変遷[編集]

夕雲型は戦時中に建造されたため、戦没と新造艦の編入が錯綜し、フル編成が完結する機会は少ない。高波玉波のように単艦での行動も多い一方、主力部隊である第二艦隊第二水雷戦隊第三艦隊第10戦隊での活動がほとんどを占め、主力駆逐艦らしい戦歴を重ねている。

第十駆逐隊[編集]

横須賀鎮守府籍の夕雲型駆逐艦夕雲巻雲風雲陽炎型駆逐艦秋雲で編成。1939年(昭和14年)11月15日付で解隊した吹雪型駆逐艦3隻からなる先代に続く四代目の第十駆逐隊である。終始第10戦隊に属して機動部隊の直衛をもくろんだが、南太平洋海戦以降は機動部隊と分離して外南洋の水雷戦に臨んだ。風雲以外の同型艦は外南洋で失われ、代わりに朝潮型駆逐艦朝雲が加わって2隻体制で隊を維持したが、風雲の戦没を機に解散した。

1942年(昭和17年)3月14日:巻雲が竣工、夕雲と合わせ編成される[50]
1942年(昭和17年)3月28日:竣工した風雲を編入[51]
1942年(昭和17年)4月10日:第一航空艦隊・第十戦隊所属。第五航空戦隊より秋雲を編入[52]
1942年(昭和17年)7月14日:第十戦隊は第三艦隊に転籍。
1943年(昭和18年)2月1日:ケ号作戦で巻雲が触雷、航行不能のため雷撃処分となり3月1日に除籍。
1943年(昭和18年)10月6日:第二次ベララベラ海戦で夕雲が戦没、12月1日に除籍。
1943年(昭和18年)10月31日:第九駆逐隊より朝雲を編入[53]
1944年(昭和19年)4月11日:インドネシアで秋雲が戦没、6月10日に除籍。 
1944年(昭和19年)6月8日:ダバオ湾で風雲が戦没、7月10日に除籍。
1944年(昭和19年)7月10日:解隊[54]。朝雲は第四駆逐隊(野分満潮山雲)に転出[54]。以後は第四駆逐隊の項に譲る。

第三十一駆逐隊[編集]

横須賀鎮守府籍と舞鶴鎮守府籍の夕雲型で編成された。1922年(大正11年)12月1日に神風型駆逐艦 (初代)4隻からなる先代が佐世保鎮守府第三十駆逐隊に転出した後に続く、二代目の第三十一駆逐隊である。当初より第二艦隊第二水雷戦隊に属し、外南洋で活動した。そのため消耗も激しく、4隻フル編成が維持できたのは半年にも満たない。1944年(昭和19年)より、第十一水雷戦隊での練成を終えた後期型3隻を補充して隊は維持され、レイテ沖海戦でも全艦が生還したが、その後のフィリピン防衛戦で急激に消耗し、第二駆逐隊に転出した朝霜を除き全滅した。所属した夕雲型駆逐艦は長波、巻波、高波、大波、清波、沖波、岸波、朝霜、浜波《書類上》の9隻である。

1942年(昭和17年)8月31日:長波巻波で編成[55]。第二艦隊第二水雷戦隊。
1942年(昭和17年)10月1日:高波を編入[56]
1942年(昭和17年)11月30日:ルンガ沖夜戦で高波が戦没、12月24日に除籍。
1943年(昭和18年)1月20日:大波を編入[57]
1943年(昭和18年)2月25日:清波を編入[58]
1943年(昭和18年)7月20日:ベララベラ島沖で清波が戦没、10月15日に除籍。
1943年(昭和18年)11月25日:セント・ジョージ岬沖海戦で巻波、大波が戦没、翌年2月10日に除籍。
1944年(昭和19年)2月10日:第十一水雷戦隊より沖波岸波朝霜を編入[59]
1944年(昭和19年)11月11日:オルモック湾で長波が戦没、翌年1月10日に除籍。
1944年(昭和19年)11月13日:マニラ湾空襲で沖波が戦没、翌年1月10日に除籍。
1944年(昭和19年)11月15日:朝霜が第二駆逐隊に転出された[60]。沈没していた浜波を書類上編入[60]
1944年(昭和19年)12月4日:フィリピン沖で岸波戦没、翌年1月10日除籍。
1945年(昭和20年)1月10日:解隊[61]

第三十二駆逐隊[編集]

舞鶴鎮守府籍の夕雲型で編成される。1943年(昭和18年)1月6日付で解隊した若竹型駆逐艦3隻(編成当初は4隻)からなる先代に続く二代目の第三十二駆逐隊である。従来の駆逐隊とは異なり、練成部隊の第一艦隊第十一水雷戦隊で練成中の駆逐艦で編成された。三十一駆と同じく、第二艦隊第二水雷戦隊に編入され、外南洋や「あ号作戦」・「捷号作戦」、以後のフィリピン防衛線で活動した。編成が大戦後期だったため、当初もくろんだ水雷戦は生起せず、フィリピン防衛線で消耗した。

1943年(昭和18年)8月20日:涼波藤波早波で編成[62]。第一艦隊第十一水雷戦隊。
1943年(昭和18年)9月30日:第二艦隊第二水雷戦隊に転籍。
1943年(昭和18年)10月1日:単艦で二水戦に在籍していた玉波を編入[63]
1943年(昭和18年)11月11日:ラバウル空襲で涼波が戦没、翌年1月5日に除籍。
1943年(昭和18年)12月15日:第十一水雷戦隊より浜波を編入[64]
1944年(昭和19年)6月7日:タウイタウイ島沖で早波が戦没、8月10日に除籍。
1944年(昭和19年)7月7日:マニラ湾沖で玉波が戦没、9月10日に除籍。
1944年(昭和19年)10月27日:レイテ沖海戦で藤波が戦没、12月10日除籍。
1944年(昭和19年)11月11日:オルモック湾上陸作戦で浜波が戦没、翌年1月10日に除籍。
1944年(昭和19年)11月15日:解隊[60]。書類上在籍していた浜波は第三十一駆逐隊に編入された[60]

第二駆逐隊[編集]

横須賀鎮守籍の早霜秋霜清霜で編成。1943年(昭和18年)7月1日付で解隊した白露型駆逐艦4隻(村雨夕立春雨五月雨)からなる先代に続く[65]、五代目の第二駆逐隊である。第十一水雷戦隊での練成を終えた駆逐艦で編成された。第二艦隊第二水雷戦隊に編入され、レイテ沖海戦で活動し、以後もフィリピンに残留して防衛戦に挑んだ。オルモック上陸戦(多号作戦)や礼号作戦に参加したが、編成当初の3隻は礼号作戦までにすべて失われ、転入した朝霜を第二十一駆逐隊に譲って解散した。

1944年(昭和19年)8月15日:早霜秋霜清霜で編成[66]。第二艦隊第二水雷戦隊。
1944年(昭和19年)10月27日:レイテ沖海戦で早霜が戦没、翌年1月10日に除籍。
1944年(昭和19年)11月13日:マニラ湾空襲で秋霜が戦没、翌年1月10日に除籍。
1944年(昭和19年)11月15日:第三十一駆逐隊より朝霜を編入[60]
1944年(昭和19年)12月26日:礼号作戦で清霜が戦没、翌年2月10日に除籍。
1945年(昭和20年)2月10日:解隊[67]。朝霜は第二十一駆逐隊(初霜時雨)に転出[67]。以後は第二一駆逐隊の項に譲った。

参考文献[編集]

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  • 岩重多四郎 『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編』 大日本絵画、2012年7月ISBN 978-4-499-23085-8
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  • 福井静夫 『日本駆逐艦物語』福井静夫著作集第5巻、光人社、1993年1月ISBN 4-7698-0611-6
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  • 雑誌「丸」編集部『日本の駆逐艦オール大百科』潮書房光人社、2014年。
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  • 森恒英 『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』 グランプリ出版、1995年1月ISBN 4-87687-154-X
  • 学習研究社 『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.19 水雷戦隊Ⅱ 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡学習研究社、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5
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  • 『帝国海軍 艦載兵装の変遷』歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.57、学習研究社、2007年1月ISBN 4-05-604599-2
  • 『完全版特型駆逐艦』歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.70、学研パブリッシング2010年8月10日ISBN 978-4-05-606020-1


  • 「駆逐艦 一般計画要領書 附現状調査 昭和十八年七月」。
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    • 『昭和17年6月30日現在 10版 内令提要追録第11号(中)原稿/第6類 機密保護』。Ref.C13072007500。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #一般計画要領書(駆逐艦)p.4では四捨五入して満載2,773トンとしている。
  2. ^ a b #一般計画要領書(駆逐艦)p.4(昭和18年7月版)では全長119.03mとなっているが字が殆ど消えている。戦後複写版p.3では明確な字で書かれており、多くの文献はこの数値の子引き、孫引きと思われる。
  3. ^ #艦船模型スペシャル30p.61の図によると4面とも傾斜がついているとされているが、#小艦艇ビジュアルガイド(駆逐艦)p.73によるとそれは間違いで、側面に傾斜はない。
  4. ^ #艦船模型スペシャル30p.56の図では「夕雲型が2フレーム後方」と書かれているが、#歴史群像19陽炎型駆逐艦特別折り込み付録『陽炎型駆逐艦「秋雲」船内側面・艦橋諸甲板平面、夕雲型駆逐艦「大波」艦内側面・艦橋諸甲板平面』によると1番主砲中心の位置は陽炎型「秋雲」が28番フレーム、夕雲型「大波」で31番フレームになり3フレーム後退している。

出典[編集]

  1. ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.630、写真No.1806の解説
  2. ^ #写真日本の軍艦第11巻p.131
  3. ^ a b c #内令昭和16年2月p.18『内令第百三十三號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十六年二月五日 海軍大臣及川古志郎|驅逐艦、一等陽炎型ノ項中「萩風」ノ下ニ「、舞風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |夕雲型|夕雲| 潜水艦、一等伊九型ノ項中「伊號第十」ノ下ニ「、伊號第十一」ヲ加フ|駆潜艇第十三號型ノ項中「第十六號」ノ下ニ「、第十七號」ヲ加フ』
  4. ^ a b #一般計画要領書(駆逐艦)p.48
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n #一般計画要領書(駆逐艦)p.4
  6. ^ #S17.6.30内令提要(中)原稿/機密保護画像13、艦船要目公表範囲。
  7. ^ a b c d e f g h #海軍艦艇公式図面集p.145、主要寸法。
  8. ^ a b #海軍艦艇図面集「57 一等駆逐艦 夕雲型 沖波 中央部構造切断」
  9. ^ a b c #昭和造船史1pp.788-789
  10. ^ #海軍造船技術概要(1987)p.1695、陽炎型の値。機関計画に変更はない。
  11. ^ #一般計画要領書(駆逐艦)p.28、士官7人、特務士官2人、准士官3人、下士官兵213人。
  12. ^ #S19-06-30内令提要原稿(上)/定員(8)画像28、『(昭和十六年内令第二百二十一號別表) | 第七十四表ノ四 | 一等駆逐艦定員表 其ノ六 | | 夕雲 |(以下略)』士官7人、特務士官2人、准士官3人、下士官69人、兵147人
  13. ^ a b c #一般計画要領書(駆逐艦)p.8
  14. ^ a b c d e f #一般計画要領書(駆逐艦)p.12
  15. ^ #一般計画要領書(駆逐艦)p.36
  16. ^ a b #一般計画要領書(駆逐艦)p.20
  17. ^ #写真日本の軍艦第11巻pp.118,120
  18. ^ a b c d #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.523-556、艦艇建造。同書pp.575-581建造状況。
  19. ^ a b c #海軍造船技術概要(1987)上巻p.422
  20. ^ a b c d e f g #海軍造船技術概要(1987)上巻p.425
  21. ^ a b #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1536「太平洋戦争中の建艦計画」
  22. ^ #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1598「マル5計画艦艇製造費予算表(マル5計画原案に対するもの)」
  23. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.812-814。
  24. ^ 『日本の駆逐艦オール大百科』p94,98
  25. ^ a b c #海軍造船技術概要(1987)上巻p.427
  26. ^ a b #写真日本の軍艦第11巻p.120
  27. ^ a b c d e f g h i j #小艦艇ビジュアルガイド(駆逐艦)p.73
  28. ^ a b #小艦艇ビジュアルガイド(駆逐艦)p.72
  29. ^ a b #艦船模型スペシャル30p.56
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  31. ^ a b c #艦船模型スペシャル30p.61
  32. ^ a b c d #歴史群像19陽炎型駆逐艦特別折り込み付録、陽炎型駆逐艦「秋雲」船内側面・艦橋諸甲板平面、夕雲型駆逐艦「大波」艦内側面・艦橋諸甲板平面
  33. ^ a b #日本の駆逐艦(森)p.164
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  39. ^ a b c #日本駆逐艦物語pp.274-275,281「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」。「清霜」の場合、図に13号電探が描かれていないが一覧表では1(基搭載)となっている。
  40. ^ 田村俊夫「日本駆逐艦の基礎知識」#歴史群像57艦載兵装の変遷p.130、田村俊夫「特型駆逐艦の戦時兵装の変遷と行動」#歴史群像70完全版特型駆逐艦pp.47-48。
  41. ^ 田村俊夫「日本海軍艦艇の定説への疑問、不明点の検証と推定」#歴史群像64睦月型駆逐艦pp.191-192
  42. ^ a b 「魚雷兵装 朝潮型/陽炎型/夕雲型/島風」#軍艦メカ4日本の駆逐艦p.86
  43. ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.628、写真No.1797「竣工時の巻雲」。
  44. ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.628、写真No.1798「引き渡し後、出港する風雲」。
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  46. ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.629、写真No.1800公試中の早波。
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  48. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.577
  49. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.544,576-577
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  51. ^ #内令昭和17年3月(4)p.42『内令第五百二十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月二十八日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十驅逐隊ノ項中「巻雲」ノ下ニ「、風雲」ヲ加フ|』
  52. ^ #内令昭和17年4月(4)p.3『内令第六百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年四月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十驅逐隊ノ項中「夕雲」ノ上ニ「秋雲、」ヲ加フ』
  53. ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
  54. ^ a b #内令昭和19年7月p.13『内令第八三八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年七月十日海軍大臣|第四驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  55. ^ #内令昭和17年8月(4)p.11『内令第千六百二十二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第三十一驅逐隊|長波、巻波| 』
  56. ^ #内令昭和17年10月(1)pp.1-2『内令第千八百二十四号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「睦月」ヲ削ル|第三十一驅逐隊ノ項中「巻波」ノ下ニ「、高波」ヲ加フ』
  57. ^ #内令昭和18年1月(2)p.25『内令第四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項中「巻波」ノ下ニ「、大波」ヲ加フ』
  58. ^ #内令昭和18年2月(4)pp.48-49『内令第三百十二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年二月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第五驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、天霧、夕霧」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第二十二驅逐隊|皐月、水無月、文月、長月| |第三十一驅逐隊ノ項中「大波」ノ下ニ「清波」ヲ加フ』
  59. ^ #内令昭和19年2月(2)p.18『内令第三百十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年二月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、巻波、大波」ヲ「長波、岸波、沖波、朝霜」ニ改ム』
  60. ^ a b c d e #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  61. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
  62. ^ #内令昭和18年8月(3)p.24『内令第千七百七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年八月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第三十二驅逐隊|涼波、藤波、早波| 』
  63. ^ #内令昭和18年10月(1)p.11『内令第二千三十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、五月雨」ヲ加フ|第三十二驅逐隊ノ項中「早波」ノ下ニ「、玉波」ヲ加フ』
  64. ^ #内令昭和18年12月(2)p.46『内令第二千六百八十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年十二月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「玉波」ノ下ニ「、濱波」ヲ加フ』
  65. ^ #内令昭和18年7月(1)p.37『内令第千三百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年七月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  66. ^ #秘海軍公報昭和19年8月(4)p.3『内令第九五九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年八月十五日 海軍大臣|第一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第二驅逐隊|早霜、秋霜、清霜| 』
  67. ^ a b #秘公報昭和20年2月(2)pp.20-21『内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年二月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル』