初霜 (初春型駆逐艦)

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艦歴
発注 マル1計画
起工 1933年1月31日
進水 1933年11月4日
就役 1934年9月27日
その後 1945年7月30日戦没[1]
除籍 1945年9月30日
性能諸元(計画時)
排水量 基準:1,400t
公試:1,680t
全長 109.5m
全幅 10.0m
吃水 3.5m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 オール・ギアードタービン2基2軸 42,000hp
最大速 36.5ノット
兵員 205名
兵装 50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
40mm単装機銃 2基
61cm3連装魚雷発射管 3基9門
(八年式魚雷18本)

初霜(はつしも)は、大日本帝国海軍駆逐艦[2]一等駆逐艦初春型の4番艦である[3]。太平洋戦争緒戦では南方作戦・蘭印作戦に従事、以降は北方戦線で行動した。坊ノ岬沖海戦からも生還したが、終戦直前に機雷に触雷して沈没した[1]。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「初霜」に続いて2隻目。

艦歴[編集]

1932年(昭和7年)12月1日、建造中の初春型駆逐艦3隻にそれぞれ「初霜」、「有明」、「夕暮」の艦名が与えられた[2]浦賀船渠1933年(昭和8年)1月31日に起工、同年11月4日に進水[4]。建造途中で同型艦「初春」の復元性能不良が判明し、改善工事を施して1934年(昭和9年)9月27日竣工した[4]

太平洋戦争[編集]

太平洋戦争開戦時には、第1水雷戦隊第21駆逐隊(若葉、初春、子日、初霜)に所属し、内海西部で対潜掃蕩に従事した。1942年(昭和17年)1月、輸送船団を護衛しフィリピンダバオへ進出した。1月24日、海軍はスラウェシ島ケンダリの攻略を実施[5]。第一根拠地部隊指揮官久保九次少将が攻略部隊の指揮官となって軽巡「長良」を旗艦とし、第15駆逐隊(夏潮黒潮親潮早潮)、第16駆逐隊(雪風時津風天津風初風)、第二航空部隊(水上機母艦千歳瑞穂)等がケンダリーを攻略する[5][6]。25日早朝、久保少将の指揮下に入るためケンダリーに急行していた第21駆逐隊は、攻略部隊旗艦「長良」と遭遇[5]。「長良」と21駆2番艦「初春」は衝突事故を起こし、「初春」は大破、「長良」は小破した[5]。「長良」はダバオへ単独回航、「初春」は1番艦「若葉」と3番艦「子日」に護衛されてダバオへ向かい、久保少将は「長良」が修理を終えて復帰するまでの間、第21駆逐隊4番艦だった「初霜」に将旗を掲げた[5]

その後、マカッサル攻略作戦、バリ島攻略作戦に参加[7]。2月18-19日、バリ島攻略作戦に従事していた第8駆逐隊(司令阿部俊雄大佐)の朝潮型4隻大潮朝潮荒潮満潮)はカレル・ドールマン少将率いる連合軍艦隊(ABDA艦隊)の軽巡3隻・駆逐艦7隻と交戦、「満潮」大破・「大潮」小破に対し、駆逐艦1撃沈・軽巡1中破・駆逐艦1小破の戦果をあげ、ABDA艦隊を撃退した(バリ島沖海戦[8]。久保少将指揮下の「長良」、第21駆逐隊(初霜、若葉、子日)は連合国軍艦隊が撤退した後の午前6時に戦場へ到着[9]。各艦は第1グループ(朝潮、荒潮、満潮、子日)、第2グループ(若葉、大潮)、第3グループ(長良、初霜)にわかれ、空襲を受けながら21-22日にかけてスラウェシ島マカッサルへ帰投した[9]

バリ島攻略後の3月1日午前2時、第21駆逐隊(子日、若葉、初霜)と測量艦「筑紫」はバリ島とジャワ島間のバリ海峡を哨戒していた[10]。そこへスラバヤ沖海戦で生き残った米軍駆逐艦4隻「アルデン英語版ジョン・D・エドワーズ英語版ジョン・D・フォード英語版ポール・ジョーンズ英語版」がオーストラリアへの脱出をはかってバリ海峡へ到達[10]。第21駆逐隊は米軍駆逐艦にふりきられ、敵艦の脱出を許した[10]

内地へ帰投後、第21駆逐隊はアリューシャン作戦などに参加。同年7月5日、姉妹艦「子日」が米潜水艦トライトン (USS Triton, SS-201) の雷撃で沈没し、7月31日附で除籍されたため、第21駆逐隊は3隻(初春、初霜、若葉)となる[11]。10月17日、北方輸送任務従事中の駆逐艦2隻(初春、)は空襲を受け「朧」が沈没、「初春」が大破した。「若葉、初霜」は救援のため出動し、姉妹艦を護衛して帰投した。 1943年(昭和18年)3月、第21駆逐隊(初霜、若葉)は重巡2隻(那智、摩耶)の直衛としてアッツ島沖海戦に参加。日本艦隊(那智《第五艦隊旗艦》、摩耶多摩、阿武隈《第一水雷戦隊司令官森友一少将座乗》、若葉、初霜、)の稚拙な指揮や砲戦・雷撃戦により米艦隊撃破の機会を逃した[12]。「初霜」は主砲6発、魚雷6本を発射した[13]。輸送船の護衛のため海戦に参加できなかった「」は、第五艦隊の戦闘を酷評している[14]。本海戦の結果、アッツ島への増援輸送船団は反転を余儀なくされ、第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将は解任、アッツ島玉砕の遠因となった[15]

ひきつづき北方で行動する第21駆逐隊は第五艦隊・第一水雷戦隊に編入され、内地と千島間の船団護衛に従事。6月6日、第一水雷戦隊司令官森友一少将が急病で倒れ、6月8日附で木村昌福少将が同水雷戦隊司令官となる[16]。7月、第21駆逐隊はキスカ島撤退作戦に加わる。第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)の指揮のもと、収容部隊(阿武隈木曾島風朝雲薄雲長波」、秋雲夕雲風雲若葉、初霜、五月雨)、主隊(多摩)、燃料補給部隊(国後、日本丸)という戦力が集結、撤退作戦は無事に完了した。本作戦従事中の7月26日、濃霧により海防艦「国後」、軽巡「阿武隈」、駆逐艦「初霜、若葉、長波」の多重衝突事故が起きる[17]。損傷により「若葉」は帰投を余儀なくされ、また速力低下をきたした「初霜」も「日本丸」護衛にまわされた[18]。このため「初霜」はキスカ島での陸兵救出作業には従事していない[19]。本艦は幌筵で応急修理後、千島方面の船団護衛に従事した。

昭和19年の戦い[編集]

1944年(昭和19年)1月より空母「雲鷹千歳瑞鳳龍鳳」などの護衛に従事した。6月18-20日、マリアナ沖海戦に補給部隊の護衛艦として参加する。6月20日、補給部隊は護衛艦(卯月雪風夕凪、初霜、)と油槽船(速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸)という編制で行動中、米軍機動部隊艦載機の空襲を受ける[20]。油槽船2隻(清洋丸、玄洋丸)が被弾炎上。「卯月」は「玄洋丸」を砲撃により処分した。「雪風」は「清洋丸」を雷撃で処分した[21]。 日本本土に帰投した「初霜」は、内海西部を拠点として船団護衛の任務を実施した[22]。10月中旬、第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将/第五艦隊司令長官:重巡《那智足柄》、軽巡《阿武隈》、駆逐艦《不知火若葉初春、初霜》)は、台湾沖航空戦の大勝利にともなう残敵掃蕩を命じられた[23]。ところが大損害を被ったはずの米軍機動部隊は健在であり、重巡「那智、足柄」以下主隊と合流した第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)は、奄美大島を経由して台湾へ退避した[24]

10月22日、第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)は台湾からマニラへの基地航空部隊物件輸送任務に就き、23日マニラ着[25]。志摩艦隊本隊へ合流するためスルー海を南下中の10月24日、パナイ島西方で第21駆逐隊は米艦載機の攻撃を受ける[26]。直撃弾を受けた「若葉」が沈没[27]。第21駆逐隊司令駆逐艦は「初春」に変更となる[28]。「初霜」も米軍機8機の奇襲を受け、二番砲塔左舷に小型爆弾が命中して損傷した[29][30]。初霜戦死者5名、重傷者7名、軽傷者14名と記録されている[31]。 石井汞司令は「初春、初霜」のマニラ撤退を決断。2隻と合流できなかった志摩艦隊は「那智、足柄、阿武隈、霞、不知火、曙、潮」という戦力でレイテ湾へ突入し、レイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦および掃蕩戦により「阿武隈、不知火」を喪失している[32]。第21駆逐隊は25日朝にマニラ港で補給と負傷者の陸揚を実施[33]。本隊を追って26日にブスアンガ島コロン泊地に入港した。

マニラ湾のカビテ軍港で修理した後、「初霜」は木村昌福少将(旗艦「霞」)の指揮下で第二次多号作戦に参加[34]。輸送船4隻(能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸)を海防艦(沖縄、占守、海防艦11号、13号)と駆逐艦6隻(霞、沖波、曙、潮、初春、初霜)が護衛していた[35]。空襲により輸送船「能登丸」が沈没したが、輸送作戦は成功した。 同時期、マニラ港に停泊中の各艦は連日おこなわれる米軍機の空襲により、第五艦隊だけでも3隻(那智《5日沈没》、初春《13日沈没》、曙《13日沈没》)を喪失した。11月13日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、)はマニラを出港する[36]。「初霜」には第五艦隊司令部が便乗しており、ブルネイ着後の志摩中将は「足柄」に移乗して将旗を掲げた[37]

11月15日附で第21駆逐隊に白露型駆逐艦時雨」が編入された[38]。11月20日、第一水雷戦隊は解隊され、第21駆逐隊(初霜、時雨)は第二水雷戦隊に所属することになった。当時の「霞、初霜」は戦艦「榛名」(シンガポールで座礁、最大速力18ノット)を護衛して台湾へ移動[39]カムラン湾に戻って第二水雷戦隊主力と合同。12月18日、「霞、初霜、千振(海防艦)」は米潜水艦の雷撃で大破した重巡「妙高」(重巡羽黒によって曳航中)のシンガポール回航を護衛することになった[40]。12月20日、礼号作戦が発動される。ところが護衛していた空母「雲龍」を撃沈された「時雨」は佐世保へ帰投した為、礼号作戦参加予定の駆逐艦は2隻(清霜、朝霜)のみとなる[41]南西方面艦隊は妙高護衛任務から駆逐艦1隻を引き抜くよう命じ、木村二水戦司令官は「霞」を選んだ[42]。「霞」分離後の「妙高、羽黒、初霜、千振」は12月25日にシンガポールへ到着、こうして「羽黒、初霜」は礼号作戦に参加できなかった[43]

昭和20年の戦い[編集]

1945年(昭和20年)1月4日、木村昌福少将の後任として古村啓蔵少将が着任、第二水雷戦隊司令官となる[44]。1月24日、ヒ87船団を護衛してシンガポール方面へ進出中の「時雨」が沈没。「初霜」はシンガポールに移動後、北号作戦に参加する。駆逐艦3隻(霞、初霜、朝霜)は航空戦艦2隻(伊勢日向)、軽巡「大淀」を護衛して内地に帰投した。2月10日、夕雲型駆逐艦朝霜」は第21駆逐隊に編入された[45]。3月10日、「時雨」の除籍と共に満潮型駆逐艦」が第21駆逐隊に編入される[46]。第21駆逐隊は「朝霜、霞、初霜」という編制で坊ノ岬沖海戦に参加した[47]

4月6日、第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将:旗艦「矢矧」)は戦艦「大和」(第二艦隊司令長官伊藤整一中将座乗)とともに沖縄水上特攻作戦に参加した。4月7日の戦闘で、各艦は「大和」を中心とした輪形陣を形成、「初霜」の配置は「大和」左舷斜め後方である[48]。激しい空襲により第21駆逐隊の司令駆逐艦「朝霜」が沈没し駆逐隊司令小滝久雄大佐以下総員戦死、僚艦「霞」は航行不能となる(乗員を冬月に収容後、自沈処理)[49]。第17駆逐隊からは「浜風」が轟沈した[50]。空襲の最中、通信機能を喪失した「大和」は「初霜」に通信代行を依頼した[51]。「初霜」に乗船していた士官は「敵の攻撃は大和に集中し、特に大和に近接した初霜は殆ど攻撃らしい攻撃を受けなかった」、「7万トンの巨艦の横に並んだ2、3千トンの駆逐艦など問題にもならなかったのだろう」と、通信代行として「大和」に隣接した事が幸いしたと述べている[52]。魚雷が1本艦底を通過する幸運にも恵まれた[53]。午後2時20分前後に「大和」は沈没、第41駆逐隊司令吉田正義大佐が「冬月」から残存艦の指揮をとる[54]。「初霜」の損害は軽傷者3名のみで、他に被害はなかった[55]。各艦は沈没艦の生存者救助を開始[56]。「初霜」は午後3時前後から「浜風」生存者救助に従事、256名を救助した[57]。続いて「冬月雪風、初霜」は沈没した二水戦旗艦「矢矧」の生存者の救助を開始、「初霜」は矢矧乗組員57名、「冬月」は同276名、「雪風」は同156名を救助した[58]。第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は「初霜」に救助されると[59]、そのまま本艦を第二水雷戦隊旗艦とする[60]。このため、遊撃部隊の指揮権は「冬月」から「初霜」へ移った[61]

古村司令官が「初霜」に将旗を掲げた頃、第17駆逐隊司令艦「磯風」は航行不能となっていた。12時32分の空襲開始から約10分後に第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「矢矧」は被雷、13時前には航行不能となる。このため「磯風」は古村司令官と第二水雷戦隊司令部を移乗させるため幾度も「矢矧」に接近を試みており[62]、そのため「矢矧」の巻き添えとなって被弾したのである[63]。15時35分に「磯風」は「初霜」に対し速力12ノットを報告、帰路誘導を依頼していた[64]。17駆僚艦の「雪風」が「磯風」救援におもむき合流した。その後、古村司令官(初霜座乗)は「磯風」曳航許可を求める第17駆逐隊司令部に対し[65]、「磯風」の放棄と自沈を命令[66][67]。 翌日の再空襲や潜水艦の襲撃により、更に被害が増えることを避ける為とされる[68]。 22時40分、「初霜」からの下令に従い「雪風」は姉妹艦の「磯風」を砲撃で処分した[69]。これにより陽炎型駆逐艦5隻(雪風、磯風、浜風、浦風谷風)が所属した第17駆逐隊は「雪風」1隻となった。また古村司令官は「初霜」より「冬月」に対し「涼月」の護衛を命じるが[70]、同時に『状況によっては涼月を処分しても差支なし』と下令していた[71]。だが「涼月」は「冬月」に遭遇せず、単艦で佐世保への航海を続けた[72]。酒匂(初霜艦長)の回想では「初霜」が「涼月」の後方について針路を指示したとするが[73]、「涼月」側では大和沈没直後に『たまたま近づいてきた駆逐艦(雪風か初霜)』から方位を教えて貰っただけとしている[74]。翌日、二水戦残存艦(初霜、雪風、冬月)は佐世保に帰投。その後、行方不明とされていた「涼月」も辛うじて同港へ帰還した[75]

なお吉田満著『戦艦大和ノ最期』では「初霜」救助艇の指揮官が、沈没艦生存者救助の際に『軍刀で生存者の手首を切った』という記述が存在する[76]戦闘詳報によれば「大和」の救助を行った艦は「雪風」と「冬月」である[77]。「初霜」は「浜風」乗組員救助中のため「大和」救助には従事しておらず、記述に矛盾が生じている。

4月20日、「初霜」艦上で解散式が行われ、第二水雷戦隊は解隊された[78]。同日附で「初霜」は第21駆逐隊から「磯風、浜風」を喪失したばかりの第17駆逐隊に編入され、同隊は2隻(雪風、初霜)となった[79]。5月10日、第21駆逐隊は除籍された[80]

宮津湾において擱座した「初霜」。1947年。

6月に宮津湾で砲術学校練習艦となるが、7月30日に米機の攻撃を受け、対空戦闘中に触雷し大破[81]。艦尾部分の沈下により爆雷が誘爆し、「初霜」は海岸に擱座・着底した[81]8月15日終戦の日)、第17駆逐隊は解隊され、それに伴い「雪風」は第41駆逐隊へ転出した[82]。「初霜」の沈没により、第21駆逐隊に所属した駆逐艦(初春、子日、若葉、初霜、時雨、朝霜、霞)は全隻喪失した。「初霜」の残骸は終戦後に解体された。

歴代艦長[編集]

艤装員長
  1. 松原博 少佐:1934年2月1日[83] - 1934年9月27日[84]
駆逐艦長
  1. 松原博 少佐/中佐:1934年9月27日[84] - 1934年11月15日[85]
  2. 宮坂義登 少佐:1934年11月15日[85] - 1935年10月15日[86]
  3. 山田雄二 少佐/中佐:1935年10月15日[86] - 1936年12月1日[87]
  4. 鈴木正金 少佐:1936年12月1日[87] - 1937年12月1日[88]
  5. 塚本守太郎 少佐:1937年12月1日[88] - 1939年10月15日[89]
  6. 本倉正義 少佐:1939年10月15日[89] - 1940年8月20日[90]
  7. 濱中脩一 少佐:1940年8月20日[90] - 1941年9月10日[91]
  8. 古濱智 少佐:1941年9月10日[91] - 1942年11月28日[92]
  9. 入戸野篶生 少佐:1942年11月28日[92] - 1943年11月11日[93]
  10. 瀧川孝司 少佐:1943年11月11日[93] - 1944年8月25日[94]
  11. 酒匂雅三 少佐:1944年8月25日[94] - 1945年9月22日[95]

脚注[編集]

  1. ^ a b #終戦と帝国艦艇121頁『*初霜 20.7.30(1045)宮津(京都府)敵機と交戦中触雷大破、海岸に擱坐し更に爆雷自爆して沈没(1番煙突より前部のみ露出)』
  2. ^ a b #達昭和7年12月(5)pp.6『達第百七十五號 艦艇製造費ヲ以テ昭和七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦三隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艦二隻ニ左ノ通命名ス 昭和七年十二月十日 海軍大臣 岡田啓介|驅逐艦 浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 初霜(ハツシモ)/株式會社川崎造船所ニ於テ建造 有明(アリアケ)/舞鶴要港工作部ニ於テ建造 夕暮(ユフグレ)|潜水艦 株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第六潜水艦/佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第七十潜水艦/株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第七十一潜水艦|水雷艇 舞鶴要港部工作部ニ於テ建造 友鶴(トモヅル)/株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 初雁(ハツカリ)|掃海艇 株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 第十五號掃海艇/三井物産株式會社造船部玉工場ニ於テ建造 第十六號掃海艇|敷設艇 横濱船渠株式會社ニ於テ建造 猿島(サルシマ)/株式會社播磨造船所ニ於テ検図 那沙美(ナサミ)』
  3. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『驅逐艦|一等|初春型|初春、子日、若葉、初霜、有明、夕暮』
  4. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『初霜|一等駆逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|8-1-31|8-11-4|9-9-27|(艦装備略)』
  5. ^ a b c d e #戦史叢書26海軍進攻作戦210-213頁『五 ケンダリーの攻略』
  6. ^ #S1612一根日誌(1)p.8『作戦指揮下ニ入リタル艦船部隊ノ行動』
  7. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦320-321頁
  8. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦340-342頁
  9. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦332頁『第一次急襲部隊の引き揚げ』
  10. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦478-479頁『連合軍側の状況』
  11. ^ #内令昭和17年7月(4)p.38『内令第千三百九十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年七月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十八驅逐隊ノ項中「霰、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「子日、」ヲ削ル』
  12. ^ #戦場の将器147頁
  13. ^ #電詳報其弍(5)1712p.37『二.消耗弾数主砲(高角砲)那智863(200)摩耶911(10)多摩135阿武隈96初霜6雷13 發射雷数那智16摩耶8阿武隈8若葉6初霜5』
  14. ^ #電詳報其弍(5)1712pp.16-17『七.所見 (イ)近迫攻撃ニ缺クルモノアリ (ロ)射撃ニ関シ更ニ研究ノ余地大ナリ斯カル戰斗ヲ以テセバ晝間同等程度ノ兵力ニテハ敵ニ打撃ヲ與フルコト不可能ナリ (ハ)水雷戦隊ノ遠距離少数射線発射又研究ノ余地大ナリ (ニ)積極的戦法ニ缺クルモノ大ナリ』
  15. ^ #太平洋海戦史Ⅳ177-179頁
  16. ^ #戦場の将器150頁
  17. ^ #戦場の将器201-203頁
  18. ^ #戦場の将器207頁
  19. ^ #戦場の将器210頁
  20. ^ #S1906玄洋丸p.6『一.第一補給部隊 速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸、響、初霜、夕凪、栂/第二補給部隊 玄洋丸、あづさ丸、雪風、卯月(浦風ト交代)|二.敵機来襲ノ際ハ各艦概ネ針路300度全力運転ナリ』
  21. ^ #S1906玄洋丸p.19『6-20|2045|雪風|各艦|我今ヨリ清洋丸ヲ處分ス』
  22. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)36頁
  23. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)401頁
  24. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)37-38頁
  25. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)39頁
  26. ^ #捷1号21駆詳報p.3『二.計画 当隊ハ第二遊撃部隊ト共ニ馬光ニ待機中第二航空部隊基地物件並ニ人員輸送ノ命ヲ受ケ23日午後「マニラ」ニ到着セルモ既ニ第二遊撃部隊ハ「コロン」ヲ出撃シ有リタルヲ以テ24日2000B点ニ於テ是レト合同スベク「マニラ」ニ於ケル補給終了後成ル可ク速ニ出撃ノ予定ノ所初霜ノ補給遅レ2125「マニラ」湾内ニ合同以後一戦速ヲ以テ南下1800概ネB点ニ到着ノ予定ナリキ』
  27. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)40-43頁
  28. ^ #捷1号21駆詳報p.4『0858|若葉沈没若葉ノ位置N11°36′E121°36′司令駆逐艦ヲ初春ニ変更』
  29. ^ #捷1号21駆詳報p.4『1152|敵機8機ノ奇襲ヲ受ケ初霜直撃弾1ヲ受ク(2番砲左舷側全力発揮差支ナシ)敵機約二十機当隊ヲ襲撃ス 対空戦斗ヲ始ム』-p.12『10月24日対空戦斗 駆逐艦初霜船体故障缺損調査表』
  30. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)403頁
  31. ^ #捷1号21駆詳報pp.9-10『10月24日対空戦斗 駆逐艦初霜死傷者調査表』
  32. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)44頁
  33. ^ #捷1号21駆詳報p.4『25日0400|マニラ三号桟橋ニ横付負傷者陸揚燃料補給ヲナス』
  34. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)403-405頁
  35. ^ #戦場の将器245-246頁
  36. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11『敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部座乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ』
  37. ^ #S1911五艦隊日誌(1)p.9『(二)自11月1日至11月30日第二遊撃部隊麾下艦船部隊ノ行動一覧表 (5F司令部)』
  38. ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一駆逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  39. ^ #第二水雷戦隊突入す30頁
  40. ^ #第二水雷戦隊突入す58頁
  41. ^ #第二水雷戦隊突入す59頁
  42. ^ #第二水雷戦隊突入す60頁
  43. ^ #第二水雷戦隊突入す61頁
  44. ^ #戦場の将器266頁
  45. ^ #秘公報昭和20年2月(2)pp.20-21『内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年二月十日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル』
  46. ^ #秘海軍公報昭和20年3月(2)p.15『内令第二二一號 駆逐隊編制中左ノ取改定セラル|昭和二十年三月十日海軍大臣|第七駆逐隊ノ項中「、霞」ヲ削ル|第二十一駆逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三駆逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二駆逐隊ノ項チ中「樅、」ヲ削ル』
  47. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)407頁
  48. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.24『0600|大隅海峡通過第三警戒航行序列ニ占位ス』
  49. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.47『1622|冬月霞ノ左舷ニ横付人員救助(准士官以上15名下士官兵273名)』
  50. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.38『1247|浜風被雷火災』-『1248|浜風船体切断沈没(30度47分北128度8分東)』
  51. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.40『1325|大和→初霜(信号)通信ヲ代行セヨ』
  52. ^ #原 調査大和p.330
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  54. ^ #S2004二水戦詳報(2)pp.42-43『1417|大和左舷ニ大傾斜《艦底露出》ノ後誘爆瞬時ニシテ沈没第二艦隊司令長官伊藤整一中将戦死一時41dg司令當面ノ部隊ノ指揮ヲ執ル』
  55. ^ #図説太平洋海戦史第3巻242-243頁『第二図本図(三)「大和」」部隊被害図』
  56. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)108頁
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  58. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.48『1700頃|初霜矢矧乗員救助開始(准士官以上7名下士官兵50名)』-『1720~1815|冬月雪風矢矧乗員救助 冬月(准士官以上22名下士官兵254名)/雪風(准士官以上13名下士官兵143名)』
  59. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.32『初霜|071724雪風|司令官救助セリ』
  60. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.48『1720|初霜二水戦司令官救助、二水戦旗艦ヲ初霜ニ変更1YBノ指揮ヲ継承ス』
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  62. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.40『1300|磯風二水戦旗艦変更ノ為矢矧ニ近接《當時矢矧主隊ト離隔約20粁》』-『1328|磯風 矢矧ニ横付ヲ試ム』
  63. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)410頁
  64. ^ #S2004二水戦詳報(2)pp.46-47『1535|磯風→初霜(信号)「長官如何」左片舷航行出シ得ル速力12節電源関係全部故障鹿児島湾口ニ向フ針路?誘導サレ度浜風乗員ハ救ヒ居ラズ』
  65. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33『071900(将旗)17dg|雪風初霜|我航行不能被曳航準備完成』
  66. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33『(将旗)初霜→071935雪風|雪風ハ磯風ニ横付ケ乗員ヲ容収セヨ』-『初霜→雪風072100/磯風ハ缶室ノ「コンアイ」弁ヲ開キ自沈セシメヨ』
  67. ^ #S2004二水戦詳報(2)pp.51-52『1915将旗17dg→将旗2sd(信号)/我被曳航準備完成雪風ヲシテ曳航セシメラレ度』-『1925 2sd→17dg/曳航速力何節ノ見込ナリヤ』-『17dg→2sd/9節ノ見込、傾斜十度ニ復原シアリ』-『1939情況判断 曳航開始ヲ2100トシテ安全海域迄十二時間ヲ要ス、敵KdBノ空襲ニ対シ安全ナラズ敵潜ノ顧慮更ニ大トナリ|2sd→17dg(信号)先ノ命令通退去セヨ』
  68. ^ #S2004二水戦詳報(2)pp.49-51『1902情況判断(略)(ハ)敵潜情報今朝附近ニ測定1隻、(ニ)沈没艦生存者全部救助セリ、(ホ)明日敵艦上機ノ来襲尚予期セザルベカラズ、(ヘ)安全海域迄100浬(佐世保迄160浬)、(ト)海軍戦備方針ニ徴シ損傷艦ノ修復ハ当面見込ナシ|二.判決 速ニ佐世保ニ帰投スルヲ可トシ今後尚被害ノ増大ハ極力避クルヲ要ス。磯風ハ乗員収容ノ上処分スルコトトス』
  69. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.53『2240 磯風、雪風ニテ砲撃処分沈没(30度46.5分128度92分東)』
  70. ^ #S2004二水戦詳報(3)p.25『七日1930初霜→冬月|凉月見ユルヤ』-『七日1945冬月→初霜|見エズ』-『七日1947初霜→冬月|凉月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ』
  71. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.52『1955|(将旗)2sd→冬月 状況ニ依リテハ涼月ヲ處分シテ差支ナシ』
  72. ^ #激闘駆逐艦隊221-224頁『凉月の捜索打ち切らる』
  73. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)413頁
  74. ^ #激闘駆逐艦隊219-210頁『前進すれば潜航する』
  75. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録241頁
  76. ^ #吉田、戦艦大和132-135頁(吉田は初霜救助艇に救助された江本大尉《大和側的分隊長》の証言として紹介している)
  77. ^ #S2004二水戦詳報(2)p.45『1445|冬月大和乗員救助(2F参謀長以下准士官以上8名下士官兵89名)/1450~1637|雪風同右(准士官以上12名下士官兵93名)』
  78. ^ #S1911第17駆日誌(9)pp.37-38『旭部隊本部191310→初霜雪風冬月凉月/20日ノ儀礼ヲ左ノ通リ定ム|一.1330メクカメ(駆逐艦長)以上初霜ニ参集伺候訓示|二.1330司令官退艦将旗ヲ撤去ス(使用短艇防備隊内火艇)|三.服装第三種軍装短剣、畧授|四.初霜ハ司令官退艦時総員見送ノ位置ニ就ク』-『201330将旗2sd→大臣、総長、GF、潮(11S)、31S、各鎮/本職将旗ヲ撤ス』
  79. ^ #内令昭和20年4月(3)p.33『内令第三三六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年四月二十日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「雪風」ノ下ニ「、初霜」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、」ヲ削ル』
  80. ^ #秘公報昭和20年5月(3)p.2『内令第四〇四號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月十日 海軍大臣|第二十一駆逐隊ノ項ヲ削ル』
  81. ^ a b #終戦と帝国艦艇56頁
  82. ^ #秘海軍公報昭和20年8月(2)p.28『内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ』
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  95. ^ 昭和20年10月6日付 海軍辞令公報 甲 第1943号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072107800 で閲覧可能。

参考文献[編集]

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  • 井上理二 『駆逐艦磯風と三人の特年兵』 光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2C0095。
  • 生出寿 『連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』 光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6
  • 木俣滋郎 『第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃』 光人社NF文庫、2003年3月(原著1972年)。ISBN 4-7698-2375-4
  • 倉橋友二郎 『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』 徳間書店、1967年6月。
  • 倉橋友二郎 『激闘駆逐艦隊』 朝日ソノラマ、1987年12月。 上記著作の編集改訂版。
  • 古村啓蔵回想録刊行会編 『海の武将-古村啓蔵回想録』 原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「迫真の演技」<駆逐艦「長月」艦長・二ノ方兼文中佐の証言>(太平洋戦争時、鈴谷水雷長、長月艦長、沢風艦長、若葉艦長等)
    • 「欺瞞戦術」<駆逐艦「風雲」艦長・吉田正義大佐の証言>(太平洋戦争時、風雲艦長、第43駆逐隊司令、第41駆逐隊司令等)
    • 「本領発揮」<駆逐艦「初霜」艦長・酒匂雅三中佐の証言>(太平洋戦争時、隼艦長、鴻艦長、沢風艦長、初霜艦長、潮艦長等)
  • 外山三郎 『敗因究明に主論をおく太平洋海戦史Ⅳ ガダルカナル海戦、ソロモン・ニューギニア海空戦及びアッツ島沖海戦』 教育出版センター、1985年12月。|
  • 外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2
  • 原勝洋吉田満 『日米全調査 戦艦大和』 文藝春秋、1975年
  • 原勝洋 『巨大戦艦「大和」全軌跡』 学研パブリッシング、2011年
  • 福井静夫 『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』 出版共同社、1961年5月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • 吉田満 『戦艦 大和』 角川書店、1968年7月。ISBN 4-04-128101-6

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 墨田区の山田記念病院に初霜の錨が保存・展示されている。当時「初霜」の軍医だった病院創立者の山田正明が、解体後に引き取ったものである。