礼号作戦

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ミンドロ島沖海戦(礼号作戦)
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日:1944年12月26日
場所:フィリピンミンドロ島
結果:日本軍の作戦は成功
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
木村昌福少将
戦力
重巡洋艦1
軽巡洋艦1
駆逐艦6
魚雷艇10
航空機120機
損害
駆逐艦1沈没、重巡1中破、軽巡1・駆逐艦1小破 輸送船1沈没、魚雷艇数隻損傷、航空機約30機喪失
フィリピンの戦い

礼号作戦(れいごうさくせん)は1944年(昭和19年)12月26日夜にミンドロ島で実施された日本海軍の作戦[1]

概要[編集]

礼号作戦とは[1]太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)12月26日に実行された日本海軍の水上艦艇によるフィリピンミンドロ島アメリカ軍に対する攻撃および作戦の名称[2]。 第二水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦)指揮下の水上艦艇8隻(重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻)はミンドロ島のサンホセ泊地に夜間突入、輸送船攻撃と対地砲撃を敢行[3]ミンドロ島沖海戦が発生した。連合軍機の夜間空襲により駆逐艦清霜が沈没、他艦艇に若干の被害があった[3][4]。作戦そのものは成功したが、戦局に与えた影響は小さかった。

背景[編集]

戦略的背景及び地上戦闘の詳細についてはミンドロ島の戦いを参照

ミンドロ島上陸[編集]

1944年(昭和19年)11月下旬、アメリカ軍を中心とした連合国軍は、レイテ島攻略作戦を順調に進めていた(レイテ島の戦い[5]南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将は、第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に対し、戦闘可能艦艇のブルネイボルネオ島)進出を命じる[5]。この命令は変更され、第二遊撃部隊は12月14日までにカムラン湾ベトナム中南部)に集結した[5]12月15日早朝、連合軍はミンドロ島に上陸した[6][7]。 アメリカ軍の戦力は上陸船団がアーサー・D・ストラブル少将率いる軽巡ナッシュビル護衛駆逐艦12、高速輸送艦(APD)8、LST30、LSM12、LSI31、掃海艇17、雑舟艇14であった。 その直接護衛として重巡1、軽巡2、駆逐艦7、高速魚雷艇23が船団前方を行き、更に護衛空母6、戦艦3、重巡3、駆逐艦18が上空援護部隊として間接護衛するといった陣容であった[8]

これに対し日本軍(陸軍、海軍)はフィリピンの各航空基地から、新たに出現した連合軍艦隊に航空攻撃を敢行した[9]。 12月13日、船団旗艦の米軽巡ナッシュビルが大破(駆逐艦に護衛されて退避)[8]。 ミンドロ島上陸当日には、特攻機とその護衛機併せて海軍47機、陸軍13機が攻撃に向かった。 だが第四航空軍の陸軍機は全滅、海軍機も帰還十数機のみの大損害を蒙った。 その後も小規模ながら日本軍航空隊の波状攻撃は続けられたが[10]、アメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)の活動により日本軍航空戦力は大打撃を受けた[11]。16日、連合軍はサンホセを完全に占領。ただちに飛行場の稼働準備に入った[12]

12月17日、米軍機動部隊は燃料補給のためルソン島東方海面に移動したが、折しもコブラ台風に遭遇して駆逐艦3隻を喪失、損傷艦艇多数を出し[2]、燃料補給も出来なくなった[11]。このため米軍機動部隊は修理と補給のためウルシー環礁に引き上げた[11]。 機動部隊による防空は出来なくなったが、ミンドロ島のサンホセ飛行場への米軍機進出は順調に進んでいた[13]。日本軍航空部隊は昼夜を問わず空襲を続行したが、決定的戦果を挙げられなかった[14][15]。 ミンドロ島の米軍飛行場が稼働を開始、P-38ライトニング戦闘機P-47サンダーボルト戦闘機P-61夜間戦闘機重爆撃B-24の活動がはじまると、日本軍航空隊の活動は低調化した[12][16]。日本陸軍航空隊はネグロス島バコロド航空基地から出撃していたが、同地もP-38やB-24の空襲に晒され地上で損害を出した[16]。連合軍飛行場に対する昼間攻撃はさらに難しくなり、日本側は10機未満での夜間空襲を続けた[16][17]。 日本艦隊が攻撃した26日、ミンドロ島の2ヶ所の飛行場には連合軍機約120機(B-25爆撃機3、P-38戦闘機44、P-47戦闘機28、P-40戦闘機20)が展開していた[4]

連合軍船団の行動[編集]

連合軍は、日本軍航空隊の空襲、日本艦隊の襲撃、逆上陸作戦に警戒を余儀なくされた。 12月13日、上陸部隊旗艦ナッシュビルが特攻機により大破して後退(旗艦変更)[8]。駆逐艦1隻も損傷した[8]。 間接護衛隊は日本艦隊出撃の誤報により急行したが、実際には日本陸軍の機動艇で、代わりにこれを撃沈した。上陸船団にはなるべくミンドロ島付近には停泊しないよう指示が出されており、15日夜には掃海艇2隻と魚雷艇23隻を島に残して離脱した。 12月22日、第一回補給船団は日本軍機の空襲で、上陸用舟艇2隻を喪失した[18]。第二回補給船団は日本軍機の空襲で、輸送船3隻、駆逐艦2隻、上陸用舟艇5隻を喪失した[18]。連合軍輸送船団は揚陸の完了しなかったリバティ型貨物船4隻を残して即日出港した。

ミンドロ島逆上陸と水上反撃計画[編集]

連合軍のミンドロ島来襲は、日本軍各方面に衝撃を与えた[19][20]

日本海軍は間接護衛隊などを発見できず、船団の護衛は手薄と判断していた。そこで、水上部隊によるアメリカ軍への攻撃を決めた。まず、第三十一戦隊の第43駆逐隊及び第52駆逐隊所属の駆逐艦複数隻()による突入が計画されたが、集結前の14日にマニラが空襲を受けて中止となった。16日には、第43駆逐隊(榧、杉、樫)によるミンドロ島西部マンガリン湾突入の計画が立案されたが故障などで実行できなかった。

日本海軍は、米軍のミンドロ島拠点化および航空基地確立に危機感を持った[2]。ミンドロ島から重爆撃機が発進するようになると南シナ海の日本軍輸送船団が空襲に晒され、シーレーンが遮断されてしまう[21]連合艦隊は日本陸軍によるミンドロ島渡海攻撃(逆上陸)を要求した[22][23]。 大本営の一部や南方軍総司令部も同様の方針だった[24][25]。 だがマニラの第14方面軍司令官山下奉文陸軍大将は「作戦成功の精算なし」と判断[2]、逆上陸に同意しなかった[26]。山下将軍(第14方面軍)は既にマニラ放棄・ルソン持久作戦の準備を進めていたのである[20][27]。山下陸軍大将の意向に対し、有馬馨南西方面艦隊参謀長は以下のように回想している[25]

余はこれに対して次のような見解を有していた。「陸軍はルソン防衛を死活の問題と考えて、兵力配備を行っている。もしミンドロ作戦を強行せしめんとせば、防備兵力の欠陥を補うべき兵力を補充してやらなければ承服しないだろう」と。かくて第五艦隊の水雷戦隊をもって夜陰に乗じミンドロ砲撃を敢行することゝなった。この作戦は成功を持続するという確信あるものでなく無為にして、艦隊を保存しても失うところは同一であり、仏印で爆撃されて沈没するよりも少しでも敵を攻撃して威力を発揮するに如かずとするものであり、兼ねて中央の顔を立てるものであった。 — 有馬馨、同著『帝国海軍の伝統と恐懼 ―付・比島作戦の思い出―』340、341ページ

12月18日、大本営はレイテ島決戦の方針を転換し、ルソン島持久作戦への切り替えを決定した[28][29]第4航空軍司令官の富永恭次陸軍中将は「ルソン島に米軍が上陸すれば、マニラやクラーク航空基地はすぐに占領されて航空作戦は実施できない」としてルソン持久作戦に反対し、ミンドロ島の連合軍攻撃続行を主張した[20][30]。 マニラの陸海軍司令部では逆上陸案について議論が交わされ、第14方面軍は「成功の見込みなし」として逆上陸に反対、第4航空軍は「連合軍のルソン島来攻を遅延させれば、ルソン作戦準備の時間ができる」として支持、現地海軍側幕僚(第一連合基地航空隊)や連合艦隊は逆上陸を強硬に主張、南西方面艦隊は「小兵力のため精神的効果以上に期待できず、実行困難」(作戦会議では沈黙)という態度をとった[13][31]。マニラに出張して会議に参加した連合艦隊参謀長草鹿龍之介海軍中将は[31]、最終的に山下大将(第14方面軍司令官)に「ミンドロ島逆上陸」を直接要請した[21][13]。山下大将は12月24日になり、第8師団の一部(約100名)の派遣を命じた[13][31]。この部隊は大発動艇でミンドロ島北部に上陸した[31]

12月20日、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将は、第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将(第五艦隊司令長官)に対し、麾下の第二水雷戦隊司令官木村昌福少将を指揮官とする挺身部隊の編成を発令し、22日以降のミンドロ島突入を命令した[32][33]。 カムラン湾所在の第二水雷戦隊(旗艦大淀[34][35]を基幹に、フィリピン近海に存在していた日本海軍艦船がかき集められた。 第二遊撃部隊側(志摩中将、木村少将)は駆逐艦のみによる12月23日夜サンホセ突入案を南西方面艦隊参謀長有馬馨少将と陸軍南方総軍司令部に意見具申したところ、日本海軍・陸軍の作戦打ち合わせが全く出来ていないことが判明し、第二遊撃部隊側を唖然とさせた[33]

当時、第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向〔旗艦〕、伊勢)も第二遊撃部隊に所属しており、カムラン湾に停泊していた[5]。作戦実施にあたり、第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)は重巡洋艦足柄を挺身部隊に編入し、遊撃部隊旗艦を日向に変更する[36][37]。重巡羽黒は戦闘に参加できなかった。

また木村少将は旗艦を軽巡洋艦大淀[5]から駆逐艦に変更する[38]。その理由として「巡洋艦よりも小回りが利き機動性のある駆逐艦を選んだ」・「臨時に追加された大淀や足柄よりも第一水雷戦隊司令官として昭和18年より麾下にありレイテ沖海戦の際には座乗したことのある意思疎通の容易な霞を選んだ」・「大淀と足柄は借り物としての意識があったから」ともいわれる[39]。志摩中将(第五艦隊長官)は「それならいっそのこと長官が全部隊を率いて本作戦を指揮する方が適当だとも考えたが、木村司令官の面子もあり、計画の変更は徒らに事を紛糾させる虞があるので、歴戦の経験者たる木村司令官に一任することにした」と回想している[33]

12月22日夕刻、礼号部隊はカムラン湾に移動[33]。12月25日夜のミンドロ島突入が計画されたが、天候悪化による部隊集結の遅延から、26日夜の突入に変更された[40]。給油作業などの出撃準備が進められた。

戦力[編集]

日本海軍 挺身部隊(司令官:木村昌福 第二水雷戦隊司令官)

アメリカ軍

  • 基地航空機:120機
  • 在泊艦船:輸送船4隻、魚雷艇10隻
  • チャンドラー部隊(司令官:T・E・チャンドラー少将) - 日本艦隊迎撃のため出動。

経過[編集]

出撃[編集]

1944年(昭和19年)12月24日、第二水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦霞)指揮下の挺身部隊は仏領インドシナカムラン湾を出撃した。

挺身部隊は当初マニラに向けて航行する偽装針路を取った。これが奏効したのか24、25日と連合軍の触接も受けず挺身部隊は順調に進撃した。12月26日未明、針路を南南東としミンドロ島沖への針路を取る。11時37分南西方面艦隊司令部より挺身部隊に宛てて「飛行偵察ノ結果、ミンドロ方面ノ敵艦船少ナキガゴトキモ、本状況ハ一両日間変更ナキモノト認メラルルニツキ、予定通リ本夜突入スルヲ可ト認ム。」と通信が入る。この情報より木村司令官は麾下の全軍に以下のように訓示した。

挺身部隊ハ予定ドオリ突入ス。各隊ハ一層警戒ヲ厳ニシ、敵ノ奇襲ヲ未然ニ封ジ、全軍結束、作戦目的ノ達成ヲ期セ

部隊はどんどん南下していったが、依然連合軍に発見されなかった。26日16時3分、かねての予定通り、足柄から水上偵察機2機が対潜哨戒に発進する。

16時25分頃、重巡洋艦足柄は水上偵察機を射出した[41]。同時刻、挺身部隊はアメリカ軍機(B-24リベーレーター爆撃機)に発見された。B-24は直ちに周辺部隊に向けて「敵発見」の打電を行い、足柄は「北緯12度48分、東経119度12分、戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦6、針路90度、速力28ノット」という電文を傍受している[41][注 1]。しかしこれを木村司令官は意に介せずそのまま部隊を進撃させ、関係各部に対して「予定通リ、突入ス」と打電した。18時から20時にかけてB-25ミッチェル双発爆撃機P-38ライトニング戦闘機などアメリカ軍機が続々と部隊上空にやってくるが、数が少なく周辺を飛行するだけで攻撃はかけてこなかった[41]

アメリカ軍の対応[編集]

日本艦隊を発見したアメリカ軍は、ミンドロ島の航空部隊による攻撃を命じるとともに、第7艦隊の一部をチャンドラー少将の指揮の下で迎撃に向かわせた。しかしミンドロ島の航空部隊は爆弾の備蓄などが不十分で、戦闘機による機銃掃射なども含めたありあわせの攻撃を行うことになった。

ミンドロ島には、輸送船4隻と魚雷艇10隻のみが在泊中だった[注 2]。輸送船にはマンガリン湾のイリン島の島影への退避が命じられ、魚雷艇は迎撃態勢に入った。

空襲[編集]

現地は18時39分、日没を迎えた[41]。しかし当日の天候は晴れ、月齢11と夜になっても部隊は上空から丸見えであった。20時45分、まず朝霜が爆撃を受けた。これは命中しなかったが、これを皮切りに続々とアメリカ軍機が各艦に攻撃を始めた。21時01分、今度は大淀が爆撃を受けた。250kg爆弾2発が命中したが何故かこの爆弾には信管が付いておらず、一発は艦橋脇を貫通し海中へ突入し、もう一発は缶室直上まで甲板を貫通して止まった[42][43]。次に清霜(第2駆逐隊司令白石長義大佐、艦長梶本顗中佐)が狙われ、舷中部に爆弾1発が命中、これが機関室を直撃、航行不能となるとともに浸水が始まった[44]。しかし他艦に救助に当たる余裕は無く、洋上に停止し炎上する清霜を取り残して礼号部隊は進撃していった[44]。清霜はその後30分ほどで沈没した[注 3][注 4]

このほか足柄の中央部(魚雷発射管附近)にB-25が衝突し、火災が発生した[45]。そのため、足柄は搭載魚雷を投棄せざるを得なかった。死傷者は70名に上った。

艦隊突入ス[編集]

挺身部隊はマンガリン湾に突入し、23時頃サンホセの敵上陸地点に向けて攻撃を始める。まず、上陸地点沖合にいた輸送船4隻に砲雷撃を加え(霞4本、樫2本、榧2本)[46]、3隻以上の撃沈破を報じた。アメリカ軍の記録では、輸送船「ジェームス・A・ブリーステット」が大破炎上した。ついで、海岸の物資集積所に向けて砲撃を開始[47]。約20分間、砲撃を行った。

戦闘の間、足柄から発進した水偵が照明弾を投下したほか、基地から発進した瑞雲水上偵察機3機が飛来して援護を行った[44]。アメリカ軍は魚雷艇PT-77など数隻が航空機の攻撃で損傷している[注 5]。日本陸軍(第四航空軍)も戦闘機8機と重爆撃機1機を出動させ、飛行場4箇所炎上を報じた[17]

日本艦隊の帰投[編集]

12月27日午前0時04分、木村司令官は攻撃終了命令を出し、部隊は避退行動に移った[46]

避退途中で木村司令官は『これより清霜の救助に旗艦があたる。各艦は合同して避退せよ』と下令した[48]。そして、上空に敵機がおり敵魚雷艇の襲撃の危険性がある中、駆逐艦2隻(霞、朝霜)は清霜生存者の救助を始めた[48]。2時15分、両艦は救助活動を終了(後述)、増速して先行部隊(足柄、大淀、樫、榧、杉)に追いついた[49]。連合軍爆撃機の空襲に対処しつつ、航続距離のない松型駆逐艦3隻(樫、榧、杉)を分離する[49]。木村司令官直率の4隻(霞、朝霜、足柄、大淀)は12月28日午後6時30分にカムラン湾到着[49]。第二水雷戦隊旗艦は大淀に戻った[50]。 松型3隻は米潜水艦に撃沈された給糧艦野埼の生存者を救出しつつ、12月29日正午前までにカムラン湾へ無事帰投した[49]。サンジャック移動後、第二遊撃部隊(日向、伊勢、足柄、大淀、朝霜、霞)はリンガ泊地またはシンガポールへ向かった[51][52]。なお、清霜の乗員342名のうち隊司令、艦長以下258名が救助された他、5名がその後アメリカ軍魚雷艇に救助され、戦死・行方不明は79名であった[49]

迎撃に派遣された巡洋艦4隻、駆逐艦8隻からなるチャンドラー部隊は日本艦隊を捕捉出来なかった[53]

1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将に交代した(着任・退任1月4日)[54][55][56]。飛行艇便で内地に戻った木村少将は、1月31日に昭和天皇に拝謁して戦況を報告した(木村の他に田結穣中将、藤田利三郎中将も拝謁)[57][58]

結果[編集]

この戦闘で日本側の作戦は成功し、太平洋戦線における帝国海軍の組織的戦闘における最後の勝利であるとも言われる。

もっとも、アメリカ側の記録では損害は輸送船1隻喪失[4]と魚雷艇数隻損傷のほか、飛行場施設が若干の損傷、荷揚作業が一時中断した程度になっている。航空部隊は26[4]から31機を喪失し、うち20機が直接の戦闘による喪失で、残りは滑走路の破損のため着陸できずに失われたものである[注 6]。いずれにしろ、戦況の大局には大きな影響は与えなかった[59]。連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将は木村昌福少将(草鹿とは海軍兵学校同期)と本作戦について以下のように回想している[59][49]

彼は兵学校の卒業成績こそ最後尾にちかかったが、細心大胆の天性は若い時から名駆逐艦長として、その操艦の手腕と部下統率の人格は儕輩をぬき、将来を嘱望されたのであったが、果たして今次戦争において、キスカ撤退戦、あるいは「多号作戦」などにおいてよく難作戦をみごとに完遂し、その天分を発揮したのである。が、この「礼号作戦」においても大胆果敢なる突入により、所在敵艦船をほとんど掃滅し、わがほうはわずかに駆逐艦一隻を失ったのみで、当時沈滞を免れなかったわが戦局に、一抹の涼風をおくったのである。 — 草鹿龍之介、同著『連合艦隊参謀長の回想』343、344ページ

これに対し、第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将(第五艦隊司令長官)は本作戦を以下のように回想している[33]

本作戦は、敵に与えた損害よりは味方の受けた被害の方が遙かに大で、戦略的には何等の価値もなく、徒らに敵をしてこの方面に兵力の増援と警戒心を喚起せしめただけだった。直言すれば、我が航空部隊に対する激励と、対陸軍あるいは対内的申訳作戦というの外はない。兵力に十分の余裕のあるときならとにかく、今日のような兵力激減の情況において、単に最高指導部の面目を慮り、貴重な僅かの兵力を無意味に使うようなことは最も戒めなければならない。 — 志摩清英、小柳資料『帝国海軍 提督達の遺稿 下』487ページ

12月30日、ハルゼー提督が率いるアメリカ軍機動部隊(第3艦隊)はウルシー環礁を出撃して台湾方面に出動する[11][60]。ルソン島方面の作戦を支援しつつ1945年(昭和20年)1月9日にはルソン海峡を突破して南シナ海に進出[61]。カムラン湾付近に潜伏中と推定した日本艦隊(日向、伊勢)を攻撃することで、リンガエン湾からミンドロ島間の補給路を安全にしようとした[62][63]。だが日本艦隊(礼号作戦部隊を含む)はカムラン湾からリンガ泊地に退避していたので発見できず[64]、仏印周辺で行動していた香取型練習巡洋艦3番艦「香椎」(第101戦隊旗艦)や輸送船団(ヒ船団)、フランス極東艦隊旗艦「ラモット・ピケ」を攻撃[62][60]。続いて台湾香港を強襲した[62]。アメリカ軍機動部隊の活動により、ヒ86船団ヒ87船団は壊滅した(グラティテュード作戦[65]

注釈[編集]

  1. ^ 戦艦は重巡洋艦足柄を誤認したもの。
  2. ^ 木俣。魚雷艇は連日の日本軍機の空襲で稼動12隻に減少しており、うち2隻は別任務で出航中だった。
  3. ^ 連合軍側記録では大破後に魚雷艇PT-223により撃沈とするが、時刻などがまったく異なり誤認と思われる。(木俣)
  4. ^ #ニミッツの太平洋海戦史406頁では『十二月二十六日から二十七日にかけての真夜中、日本水上部隊はミンドロ島沖に達し、短時間飛行場を砲撃したが、空中攻撃を受けて後退した。避退運動中駆逐艦1隻が魚雷艇の放った魚雷射線によって沈められた』とある
  5. ^ アメリカ軍の記録では友軍機の誤爆となっているが、日本軍機の攻撃の可能性もあると思われる。(木俣)
  6. ^ レイテ島に向かう途中で燃料切れとなり、失われた。(木俣)

脚注[編集]

  1. ^ a b 戦史叢書102巻407頁『礼号作戦』
  2. ^ a b c d 戦史叢書54巻456-459頁『ミンドロ島上陸と禮号作戦』
  3. ^ a b 戦史叢書102巻273-274頁〔昭和19年(1944年)12月〕『26日 海軍挺進部隊』
  4. ^ a b c d 戦史叢書48巻635頁『ミンドロに対する日本艦隊の反撃』
  5. ^ a b c d e 戦史叢書54巻455-456頁『連合軍、レイテ西岸に上陸』
  6. ^ #ニミッツの太平洋海戦史403頁
  7. ^ 戦史叢書102巻271頁〔昭和19年(1944年)12月〕『15 米軍、ミンドロ島(ルソン島南側)に上陸開始』
  8. ^ a b c d 戦史叢書48巻634頁『ミンドロ攻略船団の掩護』
  9. ^ 戦史叢書48巻485頁『第四航空軍の艦船攻撃』
  10. ^ 戦史叢書48巻493頁『船団攻撃の続行』
  11. ^ a b c d #ニミッツの太平洋海戦史404-405頁
  12. ^ a b 戦史叢書48巻635頁『飛行場設定と戦闘部隊の進出』
  13. ^ a b c d 戦史叢書48巻516-517頁『ミンドロ島逆上陸の準備』
  14. ^ 戦史叢書48巻531-532頁『ミンドロ方面空海勢力撃破の攻撃』
  15. ^ 戦史叢書48巻532頁『ミンドロ島方面艦船攻撃』
  16. ^ a b c 戦史叢書48巻532-533頁『米戦闘機部隊のサンホセ進出』
  17. ^ a b 戦史叢書48巻533-534頁『クラーク基地の邀撃戦闘とサンホセ、タクロバンの航空攻撃』
  18. ^ a b 戦史叢書48巻635-636頁『日本軍のミンドロ空襲による被害』
  19. ^ 戦史叢書41巻563-565頁『二 ミンドロ来攻直後の南方軍、大本營、聯合艦隊』
  20. ^ a b c 戦史叢書41巻565-567頁『三 方面軍自主、三大拠点準備に着手』
  21. ^ a b 連合艦隊参謀長の回想341-343頁『山下大将の襟度』
  22. ^ 戦史叢書41巻565頁『聯合艦隊十六日二〇四三発電(南西方面艦隊あて)』〔 既定方針遂行ノ為ニハ差当リ「ミンドロ」島ニ敵ノ航空基地ヲ確立セシメザルコト絶対ニ必要ナルヲ以テ当面ノ我カ主作戦目標ヲ「ミンドロ」島ニ於ケル敵航空基地造成ノ阻止妨害ニ置キ海陸軍航空部隊ノ大部ヲ之ニ指向スル要アリ 尚為シ得ル限リ第二遊撃部隊及航空部隊掩護下ニ陸軍部隊ヲ敵上陸点附近ニ逆上陸セシメ右作戦目的達成ニ協力セシムルヲ可ト認ム 〕
  23. ^ 戦史叢書48巻495-496頁『現地海軍側の情勢判断』
  24. ^ 戦史叢書48巻497頁『寺内南方軍総司令官の情勢判断』
  25. ^ a b 有馬馨の遺稿340-341頁『○海上部隊の指揮』
  26. ^ 戦史叢書48巻496-497頁『飯村南方軍総参謀長のマニラ連絡』
  27. ^ 戦史叢書48巻511-512頁『空地論争の問題点』
  28. ^ 戦史叢書41巻567-568頁『四 在比総参謀長、大本營の各結論と南方軍の意見〕
  29. ^ 戦史叢書48巻500-505頁『レイテ決戦の放棄―航空主隊の比島作戦継続案』
  30. ^ 戦史叢書48巻507-508頁『ルソン持久作戦方針に対する冨永第四航空軍司令官の憤激』
  31. ^ a b c d 戦史叢書41巻574-576頁『五 ルソン作戦準備とミンドロ作戦』
  32. ^ #戦場の将器254-255頁
  33. ^ a b c d e #小柳資料下486-487頁(欄外 礼号作戦)
  34. ^ #S1911第五艦隊(2)p.14『(二)自十二月一日至十二月三十一日第二遊撃部隊麾下艦船部隊行動一覧表』
  35. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.12『朝霜探照燈反射鏡破損シ之ガ換装ノ爲十一日昭南ニ回航整備ノ上十二日「リンガ」出撃ノ2YBニ合同北上十三日初霜霞ヲ合同十四日「カムラン」着将旗ヲ大淀ニ移揚ス』
  36. ^ #S1911第五艦隊(2)p.12『二一|一七三〇|2YB旗艦ヲ一時日向ニ変更(一部幕僚ヲ挺身部隊ニ派遣)/一八三〇|挺身部隊「カムラン」ニ向ケ「サンジャック」出撃』
  37. ^ #S1911第五艦隊(2)p.47『二十一日一八四六 二遊撃部隊指揮官(宛略)2YB旗艦ヲ一時日向ニ変更ス』
  38. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.59『二四(天候略)〇九〇〇(旗艦)霞足柄大淀二駆(清霜朝霜)榧杉樫ヲ率ヰカムラン湾発|〇八〇〇(将旗)霞ニ変更ス』
  39. ^ #戦場の将器255-256頁
  40. ^ #艦長海戦記55頁
  41. ^ a b c d #艦長海戦記56頁
  42. ^ #大淀生涯399頁
  43. ^ #軽巡二十五隻289-290頁『ミンドロ島突入作戦』
  44. ^ a b c #戦場の将器258頁
  45. ^ #重巡十八隻177-178頁『米機の体当たりを受く』
  46. ^ a b #艦長海戦記57頁
  47. ^ #重巡十八隻178-180頁『全砲火を集中して目的達成』
  48. ^ a b #戦場の将器260頁
  49. ^ a b c d e f #戦場の将器262-264頁
  50. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.61『二八(天候略)十七駆呉発門司ニ回航/時雨佐世保発門司ニ回航/一八三〇(旗艦)霞足柄大淀朝霜ヲ率ヰカムラン湾着/二三四五潮ヒ八二船團高雄着|二〇三〇将旗ヲ大淀ニ移揚ス』
  51. ^ #S1911第五艦隊(2)p.13『三〇|一七三〇|2YB(4sf足柄大淀朝霜霞)昭南(リンガ)ニ向ケ「サンジャック」發』
  52. ^ #小柳資料下487頁(欄外 リンガ泊地に待機訓練)
  53. ^ #艦長海戦記58頁
  54. ^ 昭和20年1月9日(発令1月3日付)海軍辞令公報(甲)第1688号 p.37』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  55. ^ #S1911二水戦日誌(2)p.10『四日新司令官古村啓蔵少将着任交代ヲ了ス』
  56. ^ #S1911二水戦日誌(2)pp.16-17『二.人員ノ現状(イ)司令部(一)主要職員官氏名』
  57. ^ #戦場の将器265-266頁
  58. ^ #昭和天皇実録九巻543-544頁『(昭和二十年一月)三十一日 水曜日(田結前第一南遣艦隊司令長官の奏上)午前十時五分、御学問所に出御され、今般帰還の前第一南遣艦隊司令長官兼第十三航空艦隊司令長官田結穣・前第十一特別根拠地隊司令官藤田利三郎・前第二水雷戦隊司令官木村昌福に謁を賜い、田結より軍状の奏上を受けられる。』
  59. ^ a b 連合艦隊参謀長の回想343-344頁『ミンドロ島へ逆上陸』
  60. ^ a b #撃沈戦記(2013)53-56頁『第38任務部隊、バシー海峡突破』
  61. ^ #ニミッツの太平洋海戦史410頁
  62. ^ a b c #ニミッツの太平洋海戦史412頁
  63. ^ #撃沈戦記(2013)51-52頁『南シナ海に入る』
  64. ^ 戦史叢書54巻461頁『水上部隊の任務変更』
  65. ^ #小柳資料下488-489頁(欄外 東支那海における敵機動部隊の跳梁)

参考文献[編集]

  • 有馬馨 『帝国海軍の伝統と教育 ― 付・比島作戦の思い出 ― 戦艦武蔵初代艦長 南西方面艦隊参謀長有馬馨の遺稿』 五曜書房、2001年12月。ISBN 4-7952-5399-4
  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』 光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6
  • 小淵守男 『航跡の果てに 新鋭巡洋艦大淀の生涯今日の話題社1990年ISBN 4-87565-136-8
  • 木俣滋郎 『第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃』 光人社NF文庫、2003年3月(原著1972年)。ISBN 4-7698-2375-4
  • 木俣滋郎 「3.航空戦艦「日向」「伊勢」」『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』 光人社NF文庫、2013年6月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-2786-3
  • 草鹿龍之介 『連合艦隊参謀長の回想』 光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第九 自昭和十八年至昭和二十年』 東京書籍株式会社、2016年9月。ISBN 978-4-487-74409-1
  • 古村啓蔵ほか 『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』 潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7
    • 当時「足柄」航海長・海軍中佐吉津信一『海の尖兵「足柄」航海長の激闘記録 志摩艦隊スリガオ海峡夜戦とミンドロ島サンホセ突入作戦
  • 佐藤和正『太平洋海戦3 決戦篇』(講談社 1988年) ISBN 4-06-203743-2
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「貴重な勝利」<駆逐艦「清霜」艦長・梶本顗中佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦夕風艦長、弥生艦長、三重空教官、兵学校教官、清霜艦長、第22戦隊先任参謀等)
    • 「独断反転」<駆逐艦「榧」艦長・岩淵悟吾郎少佐の証言>(太平洋戦争時、天津風水雷長、阿武隈水雷長、最上水雷長、望月艦長、夕凪艦長、榧艦長等)
  • 財団法人水交会 「元海軍中将 志摩清英」『帝国海軍提督達の遺稿 下 小柳資料 敗戦後十余年海軍の中枢が語った大東亜戦争への想い』 水交会、2010年4月。
  • チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』 恒文社、1962年12月。
  • 原為一ほか 『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』 潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    • 当時大淀航海長・海軍中佐内田信雄『艦隊司令部用旗艦大淀の航跡 連合艦隊旗艦としても栄光をになった名艦の生涯を綴る航海長の手記
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』第41巻、朝雲新聞社、1970年12月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 比島捷号陸軍航空作戦』第48巻、朝雲新聞社、1971年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。
  • 森田友幸 『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり』 光人社、2000年ISBN 4-7698-0953-0 森田は霞水雷長として礼号作戦に参加。本海戦後、天津風艦長へ転任。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030019800。
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030019900。
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030020000。
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030020100。
    • 『昭和19年11月1日〜昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030102600。
    • 『昭和19年11月1日〜昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030102700。
    • 『昭和19年11月1日〜昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030102800。

関連項目[編集]