陽炎型駆逐艦

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陽炎型(甲型)駆逐艦
雪風
基本情報
種別 一等駆逐艦
運用者  大日本帝国海軍
建造数 19隻
前級 朝潮型
次級 夕雲型
要目
基準排水量 2,000t
公試排水量 2,500t
全長 118.5m
全幅 10.8m
吃水 3.76m
ボイラー ロ号艦本式缶3基
主機関 艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 35.0kt
燃料 重油:622t
航続距離 18ktで5,000海里
乗員 239名
ソナー 九三式探信儀
九三式聴音機
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陽炎型駆逐艦(かげろうがたくちくかん)は、大日本帝国海軍(以下海軍)が量産した駆逐艦(書類上の分類は甲型駆逐艦/一等駆逐艦)。
ネームシップである陽炎の沈没後、書類上不知火型駆逐艦(しらぬいがたくちくかん)と改定された[1]

建造理由[編集]

軍縮条約締結の結果、当時主力として建造していた「吹雪型駆逐艦」(特型駆逐艦)の保有数の制限を受けることになった海軍は、吹雪型より小型でほぼ同等の能力を持つ「初春型駆逐艦」の建造をスタートさせる。ところが、吹雪型より小さな艦体に前艦と同等の武装を乗せた結果重心上昇をまねき、復元性が低下し使用できないために改修が加えられ、ごく平凡な艦となってしまった。続く「白露型駆逐艦」は、初春型の改良型であり、武装的に満足のいくものではなかった。その後建造される「朝潮型駆逐艦」の武装や船体は吹雪型並となり、速度や航続距離は上回るが海軍としては不満が残るものであった。

そのため海軍は、軍縮条約あけの1937年に第三次軍備補充計画(通称マル3計画)を立て、その中で新型駆逐艦15隻の建造を決定した。要目をまとめると、武装は吹雪型と同等以上、速度や航続距離は朝潮型を上回ることとされたが、全ての要求を満たした場合、排水量で2700トン、全長120メートルで機関出力6万馬力と試算されたため、速度のみを35ノットに変更し量産化することとなる(ただし、天津風のみは島風型駆逐艦のための缶を実験的に装備している)。兵装は12.7cm連装砲1基を前部に、2基を後部に搭載している。61cm4連装魚雷発射管については、艦の中心線上、2基ある煙突の直後にそれぞれ装備している。

陽炎型は18隻建造と要求され国会でも承認されている。15隻しか建造されていないのは、同じ時に建造が決定していた大和型戦艦の架空排水量マル3計画では3万5千トン、マル4計画では4万トンの戦艦として計上)分の不足予算を確保するため、陽炎型3隻分及び伊一五型潜水艦1隻を架空計上したためである(マル4計画では駆逐艦2隻分+潜水艦1隻分の予算を2隻に分配)。

1939年の第四次軍備充実計画(通称マル4計画)最終的に19隻が建造された。従来は18隻とされていたが、近年になって後述の夕雲型に類別されていた秋雲が艦橋・艦尾の形状や「なぜ夕雲型のうち秋雲だけが2番主砲の撤去が行われたのか?(夕雲型は2番主砲の撤去は行われていない)」という疑問から、陽炎型であることが判明したものである[2]

新鋭駆逐艦として第一線に次々と投入され、対潜能力や防御能力(機械室か缶室に浸水すると行動不能になった)に問題があった為に被害が多く、終戦まで生き残ったのは夕雲型19隻、前身となった朝潮型10隻と合わせて全48隻中雪風ただ一隻である。

兵装[編集]

船体は基本的に朝潮型を基本としているが、第四艦隊事件をふまえて、船体強度と軽量化を考慮した設計がされている。武装面でも、予備魚雷被弾時の誘爆を防ぐため分散化を強化するなど戦闘力を強化した結果、海軍の要求をほぼ満たした艦隊型駆逐艦の集大成といえる駆逐艦に仕上がっている。

主砲[編集]

12.7cm連装砲C型3基を装備した。これらは最大仰角55度だった。大戦後半になり機銃増備のため2番砲は撤去された。

魚雷[編集]

竣工時より九三式魚雷を搭載した。

機銃[編集]

25mm連装機銃は大戦中に同3連装と交換された。その他に艦橋前に25mm連装1基、2番主砲塔を撤去した跡に25mm3連装機銃2基を装備、あ号作戦時には合計25mm3連装4基、同連装1基となった。その後単装機銃も増備された。

その他[編集]

電探(レーダー)は1943年以降、前マストに対水上用22号を装備した。雪風の例では対空用13号も後マストに装備している。

九三式水中探信儀、九三式水中聴音機を竣工時から装備。また94式爆雷投射機1基、爆雷投下台6基を装備した。投下台は後に投下軌条2条に改められた。爆雷は18個もしくは36個(掃海具を降ろした場合)搭載した。

活躍[編集]

陽炎型は開戦時、夕雲型は中盤から登場と海軍の期待をになって使用されたが、建造意図になかった空母や輸送船団の護衛、ガダルカナル島を初めとする島々への輸送作戦(鼠輸送)に従事する事となる。しかし艦隊決戦を主目的に計画/建造されたために対空・対潜能力が優れているとはいえず、それらの作戦で次々と失われていった。また米艦隊との水上戦闘でも、舞風や野分を始め、数隻が撃沈されている。第三次ソロモン海戦やレイテ沖海戦など、米艦隊に対して雷撃を行ったケースも稀ではない。最終的に戦没せずに終戦まで生き残ったのは上述の通り雪風のみである。

天津風
原為一天津風駆逐艦長の手記によれば、開戦初頭の1942年2月26日、ジャワ島攻略のため輸送船団の護衛中オランダの病院船オプテンノールを拿捕、ボルネオ島まで護衛したという[3]。ところがオランダ側の記録によると、26-27日のオプテンノールはスラバヤ港に停泊して損傷を修理中だった[4]
実際にオプテンノールを臨検したのは1942年2月28日、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦「那珂」)に所属する第2駆逐隊の村雨(第五戦隊の記録では夕立[5])であり、天津風は「村雨」から護送任務を引き継いだ[6]。オランダ側の記録でも、28日にはじめて2隻の駆逐艦に臨検されたとある[7]。このあと情報の錯綜により駆逐艦がオプテンノールの護送を命じられ、イギリスの重巡エクセターを病院船と間違えて接近、砲撃されている[8]
ジュネーヴ条約では、他国から通知があった病院船を臨検(違反がないかの検査)はできるが、違反がない限り行動を規制または拿捕することはできないものの、「病院船は戦闘の妨害をしてはならない」「重大な事情があり必要なときは病院船を抑留することができる」と定められているため、一時的に連行・抑留する事は許されている[9]。オプテンノールの問題は、スラバヤ沖海戦以降の日本側がオプテンノールを解放せず自軍に編入、病院船として運用する一方で、秘密裡に兵員輸送船・重油運搬船としても運用した点にある。その後、オプテンノールは病院船天応丸(1944年に「第二氷川丸」)と改名・使用され、1945年(昭和20年)8月19日未明に舞鶴湾沓島北東7400m地点で自沈処理された[10]。この件はオランダと日本の間で外交問題に発展したが、1978年秋に日本側が謝罪および賠償をおこない、決着した[11]

同型艦[編集]

並び方に諸説はあるが、竣工順に記す。

陽炎(かげろう/かげろふ)
1939年(昭和14年)11月6日、舞鶴海軍工廠にて竣工。開戦後は空母機動部隊の護衛としてラバウル攻略作戦、セイロン島機動作戦などに従事。また第三次ソロモン海戦ルンガ沖夜戦などに参加。1943年(昭和18年)5月8日、黒潮・親潮と共に輸送作戦中ソロモン諸島クラ湾にて機雷に触雷し損傷、航行不能となったところをアメリカ軍機の攻撃を受け戦没。同年6月20日、除籍。
不知火(しらぬい/しらぬひ)
1939年12月20日、浦賀船渠にて竣工。開戦後は空母機動部隊直衛に従事し、マレー沖海戦ラバウル攻略、セイロン島機動作戦などに参加。1942年7月5日、キスカ島沖で米潜水艦グローラー(Growler)の雷撃により損傷、舞鶴で修理を受け翌年3月10日、戦線復帰。1944年(昭和19年)10月27日、レイテ沖海戦で損傷した軽巡洋艦「鬼怒」の救助に向かい、米空母艦載機の攻撃によりフィリピン諸島シブヤン海にて戦没。1944年12月10日除籍。
不知火
黒潮(くろしお/くろしほ)
1940年(昭和15年)1月15日、藤永田造船所にて竣工。スラバヤ沖海戦南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加。1943年5月8日、陽炎・親潮と共にコロンバンガラ島沖にて触雷して戦没。6月20日除籍。
雪風(ゆきかぜ)
1940年1月20日、佐世保海軍工廠にて竣工。第16駆逐隊・第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要海戦に参加。唯一、ほぼ無傷で終戦まで生き残った。終戦後は復員輸送に従事していたが1947年7月6日、賠償艦として中華民国海軍へ引き渡され丹陽(DD-12)となった。中華民国海軍の艦隊旗艦を務め、実戦にも参加したと見られる。1966年、台風による損傷及び老朽化により解体された。
初風(はつかぜ)
1940年2月15日、神戸川崎造船所にて竣工。南太平洋海戦などに参加。1943年11月1日、ブーゲンビル島沖海戦で重巡洋艦「妙高」と衝突損傷、翌2日、戦線を離脱し退避中に米水上部隊の攻撃を受け戦没。1944年1月5日除籍。
親潮(おやしお/おやしほ)
1940年8月20日、舞鶴海軍工廠にて竣工。スラバヤ沖海戦などに参加。1943年5月8日、陽炎・黒潮と共に輸送任務中ソロモン諸島方面で触雷損傷したのち、アメリカ軍機の攻撃により戦没。1943年6月20日除籍。
夏潮(なつしお/なつしほ)
1940年8月21日、藤永田造船所にて竣工。ダバオ攻略作戦などに参加。1942年(昭和17年)2月6日、米潜水艦S-37の雷撃で損傷、同月9日、黒潮による曳航中に浸水が拡大し戦没。1942年2月28日除籍。
早潮(はやしお/はやしほ)
1940年8月21日、浦賀船渠にて竣工。南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加。1942年11月24日、ラエ増援作戦に従事中、米陸軍機の攻撃を受けニューギニア島東方沖にて戦没。1942年12月24日除籍。
早潮
天津風(あまつかぜ)
1940年10月26日、舞鶴海軍工廠にて竣工。南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加。1944年1月16日、輸送作戦に従事中、米潜水艦の雷撃で航行不能となり漂流、その後駆逐艦朝顔に救助されサイゴン(現・ホーチミン市)へ曳航され、翌年3月に戦線復帰する。1945年(昭和20年)4月6日、米陸軍機の攻撃を受け厦門湾にて擱座、自沈した。1945年8月10日除籍。この艦のみ、島風級の機関のテストベッドとして、高温、高圧缶を採用した。
磯風(いそかぜ)
1940年11月30日、佐世保海軍工廠にて竣工。真珠湾攻撃以降、第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要海戦に参加。数多くの連合艦隊主力艦の沈没に遭遇した。1945年4月7日、沖縄水上特攻作戦で戦艦大和とともに出撃するが、矢矧の救援中に至近弾を受け航行不能となり、乗員移送後に雪風の砲撃により海没処分。1945年5月25日除籍。
時津風(ときつかぜ)
1940年12月15日、浦賀船渠にて竣工。南太平洋海戦などに参加。1943年3月3日、米陸軍機およびオーストラリア軍機の攻撃を受けビスマルク海にて戦没。1943年4月1日除籍。
時津風
浦風(うらかぜ)
1940年12月15日、藤永田造船所にて竣工。第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要海戦に参加。日本本土へ帰投中の1944年11月21日、米潜水艦シーライオンの雷撃により戦艦金剛と共に台湾海峡にて戦没。
(あらし)
1941年(昭和16年)1月21日、舞鶴海軍工廠にて竣工。ミッドウェー海戦、南太平洋海戦などに参加。1943年8月6日、ベラ湾夜戦で米水上部隊と交戦しソロモン諸島コロンバンガラ島沖にて戦没。
萩風(はぎかぜ)
1941年3月31日、浦賀船渠にて竣工。ミッドウェー海戦などに参加。1943年8月6日、ベラ湾夜戦で米水上部隊と交戦しコロンバンガラ島沖にて戦没。
谷風(たにかぜ)
1941年4月25日、藤永田造船所にて竣工。ミッドウェー海戦、南太平洋海戦などに参加。1944年6月9日、米潜水艦ハーダーの雷撃でタウイタウイ島にて戦没。
野分(のわき)
1941年4月28日、舞鶴海軍工廠にて竣工。ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦などに参加。1944年10月25日、レイテ沖海戦で米水上部隊の攻撃によりフィリピン南部のサンベルナルジノ海峡にて戦没。
浜風(はまかぜ)
1941年6月30日、浦賀船渠にて竣工。真珠湾攻撃以降、第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要大規模海戦に参加。物資輸送、護衛任務、人員救助に於いても活躍した。1945年4月7日、沖縄水上特攻作戦で大和とともに出撃、東シナ海にて米空母艦載機の攻撃を受け被弾し航行不能になったところを雷撃され、艦体が2つに折れて轟沈。
舞風(まいかぜ/まひかぜ)
1941年7月15日、藤永田造船所にて竣工。ミッドウェー海戦、南太平洋海戦などに参加。1944年2月17日、米空母艦載機の攻撃を受けたのちに米水上部隊と交戦し、カロリン諸島トラック島沖にて戦没。
秋雲(あきぐも)
1941年9月27日、浦賀船渠にて竣工。1944年4月11日、米潜水艦レッドフィンの雷撃でインドネシアザンボアンガ近海にて戦没。

以上の艦の他に、マル3計画では第32号艦、第33号艦、第34号艦の三隻が計画されているが、これは大和型戦艦2隻(大和武蔵)の建造予算調達の為に計上された物で、実際に建造される予定は無かった。

駆逐隊の変遷[編集]

第十八駆逐隊[編集]

呉鎮守府籍の陽炎不知火朝潮型駆逐艦で編成。1935年(昭和10年)4月1日に解隊した磯風型駆逐艦4隻からなる先代に続く三代目の第十八駆逐隊である。

1939年(昭和14年)11月15日:編成。第二艦隊第二水雷戦隊
1942年(昭和17年)7月5日:霰戦没、7月31日除籍。霞、不知火は大破。
1942年(昭和17年)7月15日:陽炎は第十五駆逐隊に転出[12]
1942年(昭和17年)8月15日:解隊[13]
(1942年(昭和17年)8月31日:霞、不知火は特別役務駆逐艦に指定[14]。)
(1943年(昭和18年)9月1日:霞修理完了、第九駆逐隊に転出[15]。)
(1943年(昭和18年)11月15日:不知火修理完了、第九艦隊附属に転出。)
(1944年(昭和19年)3月1日:不知火を第九駆逐隊に編入[16]。)
1944年(昭和19年)3月31日:再建(第九駆逐隊を改称。不知火薄雲[17]第五艦隊第一水雷戦隊
1944年(昭和19年)7月7日:薄雲戦没、9月10日除籍。
1944年(昭和19年)10月27日:不知火戦没。霞は第一水雷戦隊附属に転出、12月10日不知火除籍。
1944年(昭和19年)11月15日:解隊[18]。残存した霞は第七駆逐隊に転出[18]。以後は第七駆逐隊の項に譲る。

第十五駆逐隊[編集]

呉鎮守府籍の黒潮親潮早潮夏潮で編成。1939年(昭和14年)2月20日付で解隊した樅型駆逐艦4隻からなる先代に続く五代目の第十五駆逐隊である。

1940年(昭和15年)8月31日:編成。
1940年(昭和15年)11月15日:第二艦隊第二水雷戦隊。
1942年(昭和17年)2月9日:夏潮戦没、2月28日除籍。
1942年(昭和17年)7月15日:第十八駆逐隊より陽炎を編入[12]
1942年(昭和17年)11月24日:早潮戦没、12月24日除籍。
1943年(昭和18年)5月8日:陽炎、黒潮、親潮戦没、6月20日除籍。
1943年(昭和18年)6月20日:解隊[19]

第十六駆逐隊[編集]

呉鎮守府籍の初風雪風天津風時津風で編成。1940年(昭和15年)10月15日に若竹型駆逐艦4隻からなる先代が舞鶴鎮守府第三十二駆逐隊に転出した後に続く、三代目の第十六駆逐隊である。

1941年(昭和16年)7月25日:編成。第二艦隊第二水雷戦隊。
1942年(昭和17年)7月14日:第三艦隊第10戦隊に転籍。
1942年(昭和17年)11月12日:天津風損傷、修理のため離脱(翌年2月修理完了、船団護衛任務の後、同年9月に原隊復帰)。
1943年(昭和18年)3月3日:時津風戦没、4月1日除籍。
1943年(昭和18年)11月2日:初風戦没、翌年1月5日除籍。
1944年(昭和19年)1月16日:天津風大破、修理のため離脱(翌年3月修理完了)。
1944年(昭和19年)3月20日:解隊[17]。雪風は第十七駆逐隊に転出[17]。以後は下記第十七駆逐隊の項に譲る。
(1945年(昭和20年)4月1日:天津風は第一南遣艦隊附属へ転出。)
(1945年(昭和20年)4月10日:天津風戦没、8月10日除籍。)

第十七駆逐隊[編集]

呉鎮守府籍の浦風磯風浜風谷風で編成。戦争後半に雪風初霜を編入した。1930年(昭和5年)6月1日に第6掃海隊に改称した海風型駆逐艦2隻、楢型駆逐艦2隻からなる先代に続く三代目の第十七駆逐隊である。真珠湾攻撃以降、太平洋戦争中の主要海戦に参加、終戦の日に解隊された。

1940年(昭和15年)12月15日:編成。
1941年(昭和16年)9月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1942年(昭和17年)4月10日:第一航空艦隊第10戦隊に転籍。
1942年(昭和17年)7月14日:第10戦隊は第三艦隊に転籍。
1944年(昭和19年)3月20日:解隊した第十六駆逐隊より雪風を編入[17]
1944年(昭和19年)6月9日:谷風戦没、8月10日除籍。
1944年(昭和19年)11月21日:浦風戦没、翌年1月10日除籍。
1944年(昭和19年)12月5日:第二艦隊第二水雷戦隊に転籍。
1945年(昭和20年)4月7日:磯風、浜風戦没、5月25日磯風、6月10日浜風除籍。
1945年(昭和20年)4月20日:第二水雷戦隊解隊。連合艦隊直属第31戦隊に転籍。第二十一駆逐隊より初霜を編入[20]
1945年(昭和20年)7月30日:初霜戦没。
1945年(昭和20年)8月15日:解隊。雪風は第四十一駆逐隊に転出[21]
(1945年(昭和20年)10月5日:雪風除籍。)

第四駆逐隊[編集]

横須賀鎮守府籍の野分萩風舞風で編成。1941年(昭和16年)3月31日付で解隊した峯風型駆逐艦2隻(編成当初は4隻)からなる先代に続く五代目の第四駆逐隊である。

1941年(昭和16年)3月31日:嵐、萩風の2隻で編成[22]
1941年(昭和16年)4月28日:野分を編入[23]
1941年(昭和16年)7月1日:野分離脱、横須賀鎮守府練習兼警備駆逐艦[24]
1941年(昭和16年)8月11日:第二艦隊第四水雷戦隊
1941年(昭和16年)10月31日:野分、舞風を編入[25]
1942年(昭和17年)7月14日:第三艦隊第10戦隊に転籍。
1943年(昭和18年)8月6日:嵐、萩風戦没、10月15日除籍。
1943年(昭和18年)9月15日:横須賀鎮守府海面防備隊より山雲を編入[26]
1944年(昭和19年)2月17日:舞風戦没、3月31日除籍。
1944年(昭和19年)3月31日:2月10日に解隊した第二十四駆逐隊より満潮を編入[17]
1944年(昭和19年)7月10日:解隊した第十駆逐隊より朝雲を編入[27]
1944年(昭和19年)10月25日:野分、山雲、満潮、朝雲戦没、翌年1月10日除籍。
1945年(昭和20年)1月10日:解隊[28]

第十駆逐隊[編集]

横須賀鎮守府籍の陽炎型秋雲夕雲型駆逐艦夕雲巻雲風雲で編成。1939年(昭和14年)11月15日付で解隊した吹雪型駆逐艦3隻からなる先代に続く四代目の第十駆逐隊である。終始第10戦隊に属して機動部隊の直衛をもくろんだが、南太平洋海戦以降は機動部隊と分離して外南洋の水雷戦に臨んだ。風雲以外の同型艦は外南洋で失われ、代わりに朝潮型駆逐艦朝雲が加わって2隻体制で隊を維持したが、風雲の戦没を機に解散した。

(1941年(昭和16年)9月27日:秋雲竣工。第一航空艦隊第五航空戦隊。)
(1941年(昭和16年)12月5日:夕雲竣工。横須賀鎮守府警備駆逐艦。)
1942年(昭和17年)3月14日:巻雲竣工。夕雲と合わせ編成[29]
1942年(昭和17年)3月28日:竣工した風雲を編入[30]
1942年(昭和17年)4月10日:第一航空艦隊第10戦隊。
1942年(昭和17年)4月15日:第五航空戦隊より秋雲を編入[31]
1942年(昭和17年)7月14日:第10戦隊は第三艦隊に転籍。
1943年(昭和18年)2月1日:巻雲触雷、航行不能のため雷撃処分、3月1日除籍。
1943年(昭和18年)10月6日:夕雲戦没、12月1日除籍。
1943年(昭和18年)10月31日:第九駆逐隊より朝雲を編入[32]
1944年(昭和19年)4月11日:秋雲戦没、6月10日除籍。 
1944年(昭和19年)6月8日:風雲戦没、7月10日除籍。
1944年(昭和19年)7月10日:解隊[27]。朝雲は第四駆逐隊に転出[27]。以後は上記第四駆逐隊の項に譲る。

脚注[編集]

  1. ^ #内令昭和18年6月(4)p.44『内令第千二百二十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年六月二十日海軍大臣嶋田繁太郎|駆逐艦、一等ノ部中「陽炎型」ヲ「不知火型」ニ改メ同項中「陽炎、」「、黒潮、親潮」ヲ削ル』
  2. ^ 田村俊夫「新事実発掘! 駆逐艦秋雲は陽炎型だった」 海人社『世界の艦船』1994年4月号 No.479 p150~p153
  3. ^ #第二氷川丸の航跡40-43頁『駆逐艦「天津風」が病院船を拿捕』
  4. ^ #第二氷川丸の航跡274頁
  5. ^ #S1703五戦隊日誌(2)pp.22-23『2-28|(略)(4)1630頃蘭国病院船1隻上陸泊地附近ニ航行中ナルヲ認メ夕立之ヲ臨検次テ天津風之ヲ「バウエアン」島北方ニ抑留ス』
  6. ^ #S170208四水戦戦闘詳報(2)p.23『(28日)1555村雨140度方向20粁ニ商船ラシキ檣ヲ認メ(蘭国病院船「オプテンノルト」)1635之ヲ臨検次イデ天津風ニ引渡ス』
  7. ^ #第二氷川丸の航跡275頁
  8. ^ #第二氷川丸の航跡61頁
  9. ^ #第二氷川丸の航跡70頁『オプテンノール号の拿捕は正当だったか』
  10. ^ #第二氷川丸の航跡36-39頁『運命の日、昭和二十年八月十八日』
  11. ^ #第二氷川丸の航跡320頁『オランダ政府による賠償要求』
  12. ^ a b #内令昭和17年7月(3)p.28『内令第千三百二十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年七月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項中「陽炎、」ヲ削リ第十五驅逐隊ノ項中「早潮」ノ下ニ「、陽炎」ヲ加フ』
  13. ^ #内令昭和17年8月(2)p.40『内令第千五百三十號 驅逐隊編制中左ノ通改正セラル 昭和十七年八月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  14. ^ #内令昭和17年8月(4)pp.14-15『内令第千六百二十六號 呉鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 霞|驅逐艦 不知火|右特別役務驅逐艦ト定ム|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  15. ^ #内令昭和18年9月(1)p.26『内令第千八百十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年九月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「白雲」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ』
  16. ^ #内令昭和19年3月(1)p.17『内令第三百八十八号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ』
  17. ^ a b c d e #内令昭和19年3月(5)p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二驅逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  18. ^ a b #内令昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  19. ^ #内令昭和18年6月(5)p.13『内令第千二百四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年六月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十五驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  20. ^ #内令昭和20年4月(3)p.33『内令第三三六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年四月二十日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「雪風」ノ下ニ「、初霜」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、」ヲ削ル』
  21. ^ #秘海軍公報昭和20年8月(2)p.28『内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ』
  22. ^ #内令昭和16年3月(3)p.2『内令第二百七十四號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年三月三十一日海軍大臣及川古志郎|第三駆逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ||第四駆逐隊|嵐、萩風|』
  23. ^ #内令昭和16年4月(5)pp.44-45『内令第四百四十八號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年四月二十八日海軍大臣及川古志郎|第四駆逐隊ノ項中「萩風」ノ下ニ「、野分」ヲ加フ』
  24. ^ #内令昭和16年7月(1)pp.8-9『内令第七百五十三號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年七月一日 海軍大臣及川古志郎|第四駆逐隊ノ項中「、野分」ヲ削ル』-『内令第七百五十四號|横須賀鎮守府練習兼警備驅逐艦 驅逐艦 野分 右警備驅逐艦ト定メラル(以下略)昭和十六年七月一日 海軍大臣及川古志郎』
  25. ^ #内令昭和16年10月(4)p.19『内令第千三百七號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中「萩風」ノ下ニ「、野分、舞風」ヲ加フ』
  26. ^ #内令昭和18年9月(4)p.28『内令第千九百三十六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年九月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「舞風」ノ下ニ「、山雲」ヲ加フ』
  27. ^ a b c #内令昭和19年7月p.13『内令第八三八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年七月十日海軍大臣|第四驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  28. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
  29. ^ #内令昭和17年3月(2)pp.20-21『内令第四百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月十四日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第十驅逐隊|夕雲、巻雲|』
  30. ^ #内令昭和17年3月(4)p.42『内令第五百二十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月二十八日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十驅逐隊ノ項中「巻雲」ノ下ニ「、風雲」ヲ加フ|』
  31. ^ #内令昭和17年4月(4)p.3『内令第六百五十號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年四月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十駆逐隊ノ項中「夕雲」ノ上ニ「秋雲、」ヲ加フ』
  32. ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C13071997700 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C12070150000 『昭和16年1月~4月内令1巻/昭和16年3月(3)』。
    • Ref.C12070150500 『昭和16年1月~4月内令1巻/昭和16年4月(5)』。
    • Ref.C12070151900 『昭和16年5月~8月内令2巻/昭和16年7月(1)』。
    • Ref.C12070152800 『昭和16年9月~10月内令3巻/昭和16年9月(1)』。
    • Ref.C12070153600 『昭和16年9月~10月内令3巻/昭和16年10月(4)』。
    • Ref.C12070161300 『昭和17年1月~3月内令1巻/昭和17年3月(2)』。
    • Ref.C12070161400 『昭和17年1月~3月内令1巻/昭和17年3月(3)』。
    • Ref.C12070162400 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年4月(4)』。
    • Ref.C12070162800 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。
    • Ref.C12070175800 『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年3月(1)』。
    • Ref.C12070164500 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(2)』。
    • Ref.C12070164700 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(4)』。
    • Ref.C12070178200 『昭和18年5~6月 内令2巻/昭和18年6月(4)』。
    • Ref.C12070180400 『昭和18年9月~10月 内令4巻/内令昭和18年9月(1)』。
    • Ref.C12070180700 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年9月(4)』。
    • Ref.C12070181500 『昭和18年9~10月 内令4巻/内令昭和18年10月(5)』。
    • Ref.C12070194700 『自昭和19年1月~至昭和19年7月 内令/昭和19年3月(1)』。
    • Ref.C12070196900 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。
    • Ref.C12070195500 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。
    • Ref.C12070497900 『昭和19年9月~12月秘海軍公報号外/11月(3)』。
    • Ref.C12070504700 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/4月(3)』。
    • Ref.C12070530000 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)』。
    • Ref.C08030110700 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030043100 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦Ⅱ』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0461-X
  • 「丸」編集部編『軍艦メカ4 日本の駆逐艦』(光人社、1991年)ISBN 4-7698-0564-0
  • 学習研究社 『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.19 水雷戦隊Ⅱ 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡学習研究社、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5
  • 三神國隆 「第1章 スラバヤ沖海戦とオプテンノール号」『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』 光人社NF文庫、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2