友鶴事件

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竣工時の水雷艇「友鶴」

友鶴事件(ともづるじけん)は、1934年昭和9年)3月12日に行われた水雷戦隊の夜間演習中に佐世保港外で起きた大日本帝国海軍(日本海軍)の千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」の転覆事故、及びその後の事故原因究明作業を通じて明らかになった艦艇設計理念上の重大な不備のことである。翌年に発生した第四艦隊事件とともに日本海軍を震撼させ、その後の艦艇設計に大きな影響を及ぼした。

事件の概要[編集]

演習当日は折からの荒天で波浪が高かった。水雷艇には計算上は90度から110度程度の傾斜でも転覆しないような復原力を持たせる設計が施されていたにもかかわらず、午前4時12分頃、「友鶴」は40度程度の傾斜で転覆。その後捜索により発見された友鶴は随伴の佐世保警備戦隊旗艦「龍田」に曳航されて翌3月13日に佐世保海軍工廠乾ドックに入渠、排水したところ、艇内の生存者13名が救出された[1]。結果として総員113名中死者行方不明100名を出すという大惨事となった。

この事故に衝撃を受けた海軍は徹底した原因究明を行ったところ、艦船の艤装と復原性に関しての問題点が浮上し、再検討が加えられることになった。

また同艦を設計した艦政本部藤本喜久雄造船少将は、この事故の責任を取る形で謹慎処分となり、翌年47歳で脳溢血により憤死した。

長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にこの事故で殉職した士卒の慰霊碑がある。

事件の背景[編集]

日本海軍は1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約により、主力艦戦艦航空母艦)だけでなく巡洋艦駆逐艦といった補助艦艇の建造にも制限を受けることとなった。そこで補助艦艇の制約を補うため、条約の制限外だった基準排水量600トン以下の船体に駆逐艦以上の重武装を施した、小型駆逐艦ともいうべき水雷艇を建造することになった。これが、「友鶴」の属する千鳥型水雷艇である。

事故の原因と対策[編集]

米内光政佐世保鎮守府司令長官の命により友鶴の事故についての徹底的な調査と原因究明がなされ、計算上は艦の傾斜に対する充分な復原性を保持していたはずの「友鶴」の船体が、実際には過大な武装や工作技術の未熟による重量超過により、重心の上昇したトップヘビーな状態となって復原性が不足していたのが転覆の原因と解明された。

藤本喜久雄少将は千鳥型水雷艇に限らず、用兵側の要求に徒に追従して小型の船体に重武装を載せた艦艇を多数建造していた。このため、事故後吹雪型駆逐艦初春型駆逐艦などにおいても、武装の削減、上部構造物の高さの縮小や撤去、舷側へのバルジの装着といった復原性向上及び重心低下対策が実施されている。当事件以降、戦艦・空母で60度、巡洋艦で90度、駆逐艦・水雷艇で90 - 110度以上の復原力を持つことが要求された。「友鶴」も改修を受けて翌1935年(昭和10年)5月に再就役し、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に戦没するまで活動した。

調査結果を基とした艦艇改修により艦艇のトップヘビーによる転覆事故は起こらなくなったが、近年の研究では、復原性の不足がすべてではなく、追波(おいなみ)に対して保持すべき進路を誤った艇長の操艦ミスや、当時の復原性理論自体の限界も指摘されている。当時の復原性理論は静的復原性が主体であり、船の上部にかかる風圧や、旋回遠心力の影響で急速に傾斜する動きについての動的復原性解析が未熟だった。

船の後方から追波を受けている状況で急旋回すれば、旋回外側に船を倒す遠心力に加え、波力による船首の上下動をなすピッチングモーメントが急速にローリングモーメントに転化する上に、追い風の風圧も旋回外側に船を倒す横風と変わることになる。そのため、静的復原性計算の復原力(横断面重心が浮心より低ければ浮力によって復原力=傾斜をゼロに戻す力が発生する)を上回る傾斜モーメントが働き、転覆に至ったと見られている。

理論の解明のないまま、経験則として追波での急旋回は危険と考えられていたことからすると、操艦ミス(ヒューマンエラー)ともいえるが、机上計算を過信した当時の造船学の未熟ともいえるかもしれない。

事件を題材とした作品[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 失敗知識データベース > 失敗事例 > 水雷艇友鶴の転覆 - 畑村創造工学研究所

外部リンク[編集]