ニュージョージア島の戦い

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ニュージョージア島の戦い
NewGeorgiaJapaneseSoldiers.jpg
ニュージョージア島を守る日本兵
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1943年6月20日 - 1943年8月25日
場所ニュージョージア島ニュージョージア諸島)、ソロモン諸島
結果:連合軍の勝利
日本軍は撤退
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
指導者・指揮官
日本の旗 佐々木登少将 アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・ハルゼー中将
戦力
10,500 32,000
損害
戦死 1,671 戦死 1,195
ソロモン諸島の戦い
青い矢印が米軍の進路
ムンダ飛行場

ニュージョージア島の戦い(ニュージョージアとうのたたかい)とは、太平洋戦争大東亜戦争)中のソロモン諸島を巡る戦闘の一つで1943年6月30日米軍が上陸して始まった。周辺海域は日本軍の駆逐艦による輸送作戦が大きな被害を出したため“駆逐艦の墓場”と呼ばれた[1]。ここでは同じニュージョージア諸島のレンドバ島・コロンバンガラ島・ベララベラ島での戦いも記述する。

背景[編集]

1942年7月2日アメリカ軍はソロモン諸島における反撃作戦「ウォッチタワー作戦」を発動、8月7日にはガダルカナル島に上陸しガダルカナルの戦いが始まった。同年12月、ガダルカナル島での戦いを支援するため、ニュージョージア島西部のムンダに飛行場を建設し海軍航空隊252空が進出したが、連合軍の激しい空襲により翌年1月には航空隊は撤退した[2]。 同年12月31日に日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定したが、その後のソロモン諸島の防衛線をどこに置くかで陸海軍の意見が分かれた。陸軍はラバウルまでの後退を提案したが、海軍は制海権の確保のためソロモン諸島中部に防衛線を置くことを主張した。結果的に海軍の提案が採用され、1943年2月に海軍の第8聯合特別陸戦隊4000名と設営隊3600名、陸軍の南東支隊(佐々木登少将。第38師団の歩兵第229聯隊など6000名)がニュージョージア島に派遣されムンダの防衛を強化した。うち陸軍の多くは、ガダルカナル島から撤退してきたばかりの消耗した部隊であった。

しかしすぐに米軍の航空攻撃を受け輸送船2隻を喪失、早くも物資不足に陥ってしまった。補給のためラバウルより鼠輸送として駆逐艦2隻が派遣されたが、米艦隊に迎撃されビラ・スタンモーア夜戦で輸送部隊は全滅した。

3月には、ソロモン諸島での海上優勢を取り戻すべくい号作戦が発動されたが、米海上戦力に大きな損害を与えられず失敗した。ラバウルの航空部隊は消耗してしまい、補充もままならなかった。しかし米軍はニューヘブリディーズ島から航空機を補充し、ソロモン各地で約500機の戦力を維持していた。ソロモン諸島における日本軍の劣勢は決定的なものとなった。 さらに5月8日には鼠輸送を行っていた駆逐艦「親潮」、「黒潮」、「陽炎」の三隻が触雷により全滅した。

このような状況の中、米軍はムンダ飛行場を攻略しこれを自軍の飛行場として使用するためにニュージョージア島侵攻作戦を発動した。

ニュージョージア島侵攻はガダルカナル島の防衛に成功したアメリカ南太平洋軍(司令官はハルゼー海軍大将)がソロモン諸島沿いにラバウルに向かう反攻の最初の大規模作戦であった。

ニュージョージア島侵攻は5月中句に予定されていたが、ヨーロッパ戦線でのイタリア本土上陸作戦の準備と大西洋の船団護衛に多量の航空機と艦艇が回されたため、ニュージョージア島侵攻は6月初に、ついで6月30日に延期になった[3]

6月7日から16日にかけて、日本軍はガダルカナル島でニュージョージア島侵攻作戦の準備中の連合国軍に対して数度に渡る大規模な航空攻撃を行ったが、逆に航空兵力を消耗した。

米軍の当初の計画では7月4日までにニュージョージアの日本軍をほぼ駆逐できる見込みであった。

戦闘[編集]

レンドバ上陸[編集]

米軍はニュージョージア島での作戦を掩護をするための砲台の設置を目的として、まずムンダ沖合い10キロに浮かぶレンドバ島に侵攻した。1943年6月30日早朝、米軍の輸送船6隻と駆逐艦8隻が襲来し、レンドバ島に5000名の部隊を上陸させた。同日中に事態を把握した日本軍は、ラバウルより一式陸攻25機を派遣して米揚陸艦隊に攻撃を行なったが、上陸部隊指揮官ターナー少将の旗艦マッコーリー を大破(のち沈没)せしめたものの、対空砲火によって18機を撃墜され阻止に失敗した。レンドバ島守備隊は僅か140名で、敵襲来を打電したのち消息を絶った。レンドバ島に上陸した米軍はその物量と機械力を駆使し、27時間で重砲の砲台を建設してムンダ方面への砲撃を開始した。

翌月3日にムンダの日本軍南東支隊司令部で会議が開かれ、陸軍は海軍に「ニュージョージア島防衛にこだわった責任を取って支援部隊を送れ」と要求したが、海軍からは「ラバウルの航空部隊は消耗しており、艦隊は燃料不足で出撃できず」と返答された。さらに陸軍の佐々木支隊長がレンドバ島へ逆上陸して重砲を破壊することを提案し海軍に協力を求めたが、上陸に必要な大発は米軍の砲撃で破壊されており実行は不可能だった。こうした状況の中、レンドバ島逆上陸用の増強部隊をコロンバンガラ島に輸送した日本艦隊が、クラ沖で米艦隊に迎撃された。このクラ湾夜戦で日本海軍は米軽巡洋艦1隻を撃沈し輸送は成功したが、秋山三水戦司令官と三水戦司令部は総員戦死、貴重な駆逐艦を2隻失った。

米軍ニュージョージア上陸[編集]

7月4日深夜に、米軍は猛烈な砲爆撃の掩護の下ニュージョージア島南部の沿岸ザナナに3000名を上陸させ、翌日に北部のライスにも部隊を上陸させた。これを受けて佐々木支隊長は、逆上陸のため待機していた歩兵第13連隊をニュージョージア島北部に派遣。上陸した同連隊はジャングルを横切り、15日にザナナの米軍に夜間斬り込みを行い戦果を挙げたが、夜明けと同時に猛烈な集中砲撃にさらされて射程外まで後退した。歩兵第229聯隊も米軍と交戦したが、機関銃を全て失ったため白兵戦を行なった。後退した第13連隊は22日に攻撃を再開し、28日には米第148歩兵連隊と交戦、百数十名を殺傷しトラック15台と速射砲5門を破壊したが、米軍の砲撃で連隊長の友成敏大佐が負傷した。 日本軍はコロンバンガラ島から兵力を増強させようとし、これを阻止しようとする米海軍・ニュージーランド海軍との間に7月12日、コロンバンガラ島沖海戦が発生した。

この海戦で日本軍は勝利し、輸送は成功したが、伊崎二水戦司令官と二水戦司令部は旗艦ごと総員戦死した。

7月25日、米第14軍は猛烈な砲爆撃の掩護の下、M3軽戦車六両を先頭にムンダへの攻勢を開始した。対戦車装備の乏しい日本軍は破甲爆雷を用いて肉弾戦を行なったが、多大な損害を出して8月4日にムンダ飛行場を放棄して戦線を縮小した。8月5日までに各大砲の砲弾は底を突いた。

米軍のベララベラ上陸と日本軍のニュージョージア放棄[編集]

日本軍第八方面軍は、増援部隊と物資50トンを駆逐艦4隻に積み込んでラバウルから発進させたが、8月6日夜、ベララベラ島沖で米軍に迎撃された。このベラ湾夜戦で日本海軍は3隻の駆逐艦を失って、輸送作戦も失敗した。

この輸送失敗によってニュージョージア島での敗北は決定的となり、佐々木支隊長はコロンバンガラ島への撤退を第八方面軍司令部に打電したが、司令部より「ムンダ飛行場を砲撃して敵に使わせないのが任務だ」と反対された。制空権も砲撃力もない現状においては、まったく無理な注文であった。

8月15日、コロンバンガラ島の防備が厚いと見た米軍はベララベラ島に上陸を開始し、コロンバンガラ島とニュージョージア島は後方を遮断される形となった。ベララベラ島の日本軍守備隊(鶴屋部隊)は600人にすぎず、たちまち苦戦に陥った。上陸したアメリカ軍は陣地を構築し、シービーズが飛行場の建設を始めた[4]。やがて、アメリカ軍に対する反撃がないと確信すると、上陸部隊は海岸沿いに二手に分かれて戦線を北上させ、またニュージーランド軍部隊を呼び寄せて戦力の増強を行った[5]

8月17日、日本軍はベララベラ島ホラニウを強化するため輸送部隊を派遣し、ベラ沖で哨戒中の米艦隊と交戦した。この第一次ベララベラ海戦日本海軍駆潜艇4隻を失ったものの輸送は成功した。

日本軍司令部はコロンバンガラ島とニュージョージア島の放棄を決定した。まず8月30日までにニュージョージア島の部隊が、大発と小型船を使ってコロンバンガラ島に転進した。 佐々木支隊長は、コロンバンガラ島の安全を確保するためアルンデル島に第13連隊を派遣した。9月15日、第13連隊長友成敏大佐の乗った舟艇は上陸途上で米軍に発見されてしまった。猛烈な砲撃を受けて艇は沈没し、友成大佐は壮烈な戦死を遂げた。アルンデル島は第13連隊によって確保され、米軍に損害を与えてその進撃を阻止した。

セ号作戦[編集]

撤退作戦に使用された大発動艇

第八艦隊参謀木阪義胤中佐は、コロンバンガラ島からの撤退作戦を立案した。この作戦は「セ」号作戦と命名された。この作戦の目的は、コロンバンガラ島に集結した日本軍12,000名を、チョイセル島を経由してブーゲンビル島に撤退させることであった。チョイセル島とコロンバンガラ島は最短で48キロしか離れておらず大発などの舟艇を多用することとなったが、収容可能な人数が少ないため2往復する事となった。ラバウル在泊の殆どの駆逐艦を投入する作戦となった。

参加兵力[編集]

機動舟艇部隊[6] (芳村正義少将)

  • 船舶工兵第2、第3連隊
  • 第2揚陸隊
  • 海軍舟艇部隊 (種子島洋二少佐)
    • 大発40隻、魚雷艇1隻
  • 呉鎮守府第7特別陸戦隊

ニュージョージア方面守備隊[7]

  • 南東支隊 (佐々木登少将)
    • 歩兵第229連隊
    • 歩兵第13連隊
    • 独立山砲第10連隊
    • 第15野戦防空司令部
    • 独立野戦高射砲第58大隊
    • 独立野戦高射砲第41大隊
    • 独立速射砲第2大隊
  • 第8聯合特別陸戦隊 (大田実少将)
    • 横須賀鎮守府第7特別陸戦隊
    • 呉鎮守府第6特別陸戦隊
    • 第21防空隊
    • 第17設営隊
    • 第19設営隊

第3水雷戦隊[8] (伊集院松治大佐、旗艦:「秋雲」)

  • 巡洋艦1隻(川内)、駆逐艦12隻

第一次撤収作戦[編集]

9月18日暮れに機動舟艇部隊は襲撃部隊(夜襲部隊《旗艦「秋雲」、磯風、風雲、夕雲、時雨、五月雨》、輸送隊《皐月、水無月、文月》、警戒隊《天霧》、陽動隊《松風》)[9]の支援のもとブーゲンビル島ブインを進発し、チョイセル島の基地に入った。沿岸に大発を隠匿したが、一連の行動は米軍に察知されており、9月20日に米軍機の攻撃によって大発10隻を喪失した。

芳村少将は9月26日に作戦実行を下令し、翌日、機動舟艇部隊はチョイセル島を出発してコロンバンガラ島に向かった。夜間にコロンバンガラ島に近づいたところを米軍の駆逐艦5隻(チャールズ・オースバーン、ダイソン、クラクストン、スペンス、フーテ)とそれに援護された魚雷艇群に発見され大発4隻を失ったが、他の大発はコロンバンガラ島への突入に成功した。同島では受け入れと撤退準備が整っており接岸した大発を迅速に偽装して夜を待った。翌日28日の夜に兵士約5,000名を載せ、海軍舟艇部隊は洋上の駆逐艦4隻(皐月、水無月、文月、天霧)と合流し兵士を移乗させた。陸軍の船舶工兵大隊の舟艇はチョイセル島へ直接向かい無事到着した。移動中米軍の魚雷艇6隻が来襲し大発2隻を失ったが、米魚雷艇は駆逐艦と大発に挟み撃ちにされ撃退された。翌29日から30日にかけて1,100名の兵士を乗せコロンバンガラ島を出発した海軍舟艇部隊は、米駆逐艦4隻(ラルフ・タルボット、パターソン、フーテラルフ、マッカラ)とそれに援護された魚雷艇群に発見され大発1隻を失ったが、他はチョイセル島にたどり着いた。

第二次撤収作戦[編集]

9月3日に第二次撤収作戦が下令され、10月1日夜に機動舟艇部隊は駆逐艦「夕凪」を加えた襲撃部隊に支援され[10]チョイセル島を発進した。米軍は第一次撤収作戦を受けて哨戒を強化しており、移動中の機動舟艇部隊は米駆逐艦6隻(ウォーラー、イートン、コニイ、ラルフ・タルボット、テイラー、テリィ)に発見された。掩護に当たっていた潜水艦伊20」は、米駆逐艦の攻撃を受けて沈没した。機動舟艇部隊の各艇は散り散りとなってコロンバンガラ島に突入した。機動舟艇部隊は全ての部隊を収容し、翌2日夜にコロンバンガラ島を離れた。洋上で駆逐艦磯風、時雨、五月雨と合流し移乗を開始したが、米駆逐艦4隻が接近したため中止した。両艦隊は砲撃戦を行なったが、五月雨が小破したのみで日本海軍の駆逐艦は魚雷を発射してラバウルに後退した。のこされた機動舟艇部隊はそのままチョイセル島に脱出した。最終的に投入した大発の半数を失ったが、作戦は成功し1万2千名を脱出させることに成功した。

ベララベラからの撤収作戦[編集]

コロンバンガラ島からの撤退に伴いベララベラ島を維持する必要がなくなったため、第八艦隊は南東方面艦隊の反対を押し切る形で同島守備隊(鶴屋部隊)の撤退作戦を発動した[11]。参加兵力は、夜襲部隊(三水戦司令官伊集院大佐直率、秋雲《旗艦》、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)、輸送部隊(文月、夕凪松風)、収容部隊(第31駆潜隊、艦載水雷艇、大発動艇)及び護衛戦闘機である[12]。これを迎撃するため米軍駆逐艦6隻が出動し、このうち3隻が第三水雷戦隊と交戦した(10月6日-7日第二次ベララベラ海戦[12]。日本側は「夕雲」が沈没、米軍は「シュバリエ」が沈没し他2隻が大破、ベララベラ島からの鶴屋部隊撤収も成功した[13]

アメリカ側の教訓[編集]

米軍のニュージョージア島上陸からムンダ飛行場占領までの経過は順調なものではなく、7月4日までに占領するという事前計画より多くの日数と損害を要することになり、戦闘の途中で占領部隊司令官の更迭も行われた[14]。ジャングルを通って敵飛行場に接近し占領するという困難な問題(ガダルカナル島で日本軍が解決できなかった問題[14])を経験した米軍はこの苦い経験により、その後の作戦計画を次のように変更した。

  • 日本軍の防備が厚いコロンバンガラ島の飛行場を占領する代わりに、防備が薄いベララベラ島を占領して飛行場を建設する[15]
  • ブーゲンビル島の日本軍飛行場を攻略する代わりに、同島の別の場所(タロキナ岬)に飛行場を建設する[16]

また、1943年8月に統合参謀本部が発表した指令書は「ラバウルは占領するよりもむしろ無力化すべきである」と述べている[17]

参考文献[編集]

  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書40 南太平洋陸軍作戦(3)ムンダ・サラモア』朝雲新聞社、1970年
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • 駆逐艦秋雲会編 『栄光の駆逐艦 秋雲』 駆逐艦秋雲会、1986年
  • 種子島 洋二著『ソロモン海「セ」号作戦―コロンバンガラ島奇蹟の撤収』、ISBN 978-4769823940
  • 千早 正隆著『日本海軍の戦略発想』 中公文庫 1995年、ISBN 4-12-202372-6
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2

脚注[編集]

  1. ^ 千早、188ページ
  2. ^ 戦史叢書96 36 ページ
  3. ^ ポッター, 355ページ
  4. ^ ポッター, 368ページ
  5. ^ ニミッツ、ポッター、169ページ
  6. ^ 輸送部隊
  7. ^ 脱出部隊
  8. ^ 掩護部隊
  9. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後297-298頁
  10. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後299頁
  11. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後304-306頁『ベララベラ島所在部隊の撤退』
  12. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後306-307頁『転進作戦実施経過』
  13. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後307-308頁『ベララベラ島沖海戦』
  14. ^ a b ポッター 360ページ
  15. ^ ポッター 365ページ
  16. ^ ポッター 403ページ
  17. ^ ポッター 401ページ

関連項目[編集]