加古 (重巡洋艦)

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加古
H48204 Kako.jpg
基本情報
建造所 川崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦級 古鷹型重巡洋艦
経歴
発注 1922年6月
起工 1922年11月17日
進水 1925年4月10日
就役 1926年7月20日
除籍 1942年9月15日[1]
最後 1942年8月10日、米潜水艦の雷撃により沈没
南緯02度28分 東経152度11分 / 南緯2.467度 東経152.183度 / -2.467; 152.183
要目(新造時 → 改装後)
基準排水量 7,950トン → 8,700トン
公試排水量 9,544トン → 10,507トン
全長 185.166m
全幅 16.55m → 16.926m
吃水 5.56m → 5.61m
ボイラー 艦本式重油専焼缶10基、同混焼缶2基 → 艦本式重油専焼缶10基
主機 オールギアードタービン4基4軸
102,000hp → 103,390hp(公試成績)
速力 34.6ノット(公試成績)
→ 32.95ノット(公試成績)
燃料 重油:1,400トン、石炭:400トン
→ 重油:1,858トン
航続距離 6,000海里/14ノット時(公試成績)
→ 7,900海里/14ノット時(公試成績)
乗員 627名 → 639名
兵装

竣工時:
50口径20cm単装砲6門
40口径8cm単装高角砲4門
61cm連装魚雷発射管6基12門
八年式魚雷24本

改装後:
50口径20.3cm連装砲3基6門
45口径12cm単装高角砲4門
61cm4連装魚雷発射管2基8門
九三式魚雷16本
装甲 舷側76mm
水平32-35mm
主砲25mm
搭載機 1機 → 2機
(カタパルト0 → 1基)
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加古かこ)は、大日本帝国海軍重巡洋艦[2]古鷹型重巡洋艦(古鷹型一等巡洋艦)の2番艦[3]。時には加古型(加古級)と表記されることもあった[4][5][6][7]。 世界に先駆けて20cm砲を採用した巡洋艦である[2][8]1942年(昭和17年)8月8日の第一次ソロモン海戦で活躍した後、その帰路に米潜水艦の雷撃により沈没した[9][10]

艦名[編集]

加古の艦名は兵庫県を流れる加古川に因んで命名された[11][12]。 当初は川内型軽巡洋艦(二等巡洋艦)として建造される予定であったが[13]ワシントン軍縮会議の結果、1922年(大正11年)3月17日建造中止の通達があった[14]。その後、艦型・艦種類は一等巡洋艦に変更となったが[15]、二等巡洋艦時の艦名が流用されたため、重巡洋艦に山の名を付ける帝国海軍の慣例に反し例外的に川の名が付けられた[11][16]。 なお、最上型重巡洋艦及び利根型重巡洋艦は日本海軍の内規上は二等巡洋艦であり、河川名で新規竣工した一等巡洋艦は「加古」が唯一である。

艦歴[編集]

建造経緯[編集]

大正時代の帝国海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷[17]1921年(大正10年)3月19日、建造予定の二等巡洋艦4隻(川内型軽巡洋艦)に、それぞれ河川名より加古那珂川内神通の艦名が与えられた[18]。 6月9日、軽巡4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録[19]。 「川内」は1922年(大正11年)2月16日(長崎三菱造船所)[20]、「那珂」は同年6月10日(横浜船渠)[21]、「神通」は同年8月4日(神戸川崎造船所)[22]、それぞれ各造船所において起工した。

一方、佐世保工廠で建造予定の『加古』は[23]、1922年(大正11年)3月17日、上述のように軽巡洋艦としての建造は中止された。10月9日、『加古』を一等巡洋艦として川崎造船所で建造する事が正式に決まる[24]。これをもって『加古』は二等巡洋艦から一等巡洋艦に類別変更された[25]。 また一等巡洋艦の建造艦名は1番艦「衣笠」、2番艦「古鷹」を予定していたが、加古の艦名流用により1番艦は「加古」へ、「衣笠」の建造は一等巡洋艦3番艦へ先送りされた[26][27]

軍艦 加古は1922年(大正11年)年11月17日川崎重工業神戸造船所において起工[28][29]1924年(大正13年)1月23日、神戸川崎造船所で青葉型2番艦「衣笠」が起工[30][31]。3艦(神通、加古、衣笠)は並行して建造された。

1925年(大正14年)4月10日、同造船所で建造中の川内型軽巡洋艦2番艦「神通」艤装員や[32]梨本宮守正王列席の元で進水する[33][34]。 9月18日、日本海軍は後藤章大佐(前職第1駆逐隊司令)を加古艤装員長に任命[35][36]。 川崎造船所に加古艤装員事務所を設置し、9月28日より事務を開始する[37]。 だが諸事情により就役が遅れた[38]。竣工直前にクレーン事故で船体を損傷したのが原因とされる[16][39]

1926年(大正15年)3月2日、加古艤装員事務所を神戸川崎造船所から「加古」艦内に移転(当時、本艦は呉海軍工廠第三船渠入渠中)[40]。再び神戸に戻ったあと、7月20日に受領[41][29]。後藤章大佐(加古艤装員長)は制式に加古艦長(初代)となる[42]。初代幹部は、香椎哲二郎中佐(加古副長)、澤田実少佐(加古砲術長)、鈴木義尾少佐(加古航海長)[注釈 1]仲村保造少佐(加古水雷長)、古村啓蔵中尉(加古乗組)[注釈 2]中川清海機関中佐(加古機関長)[42]。 同日附で艤装員事務所を撤去[43]。 姉妹艦「古鷹」の受領(3月31日)より約4ヶ月遅れての完成だった[44][45]

古鷹型・青葉型計4隻のうち、加古・衣笠は神戸川崎造船所で[30]、古鷹・青葉は三菱長崎造船所で建造された[45][46]9月25日[46][47]、長崎造船所でおこなわれた「青葉」の進水式には皇族昭和天皇弟宮)の高松宮宣仁親王(当時、海軍少尉として古鷹乗組)が立ち会っており[48]、御召艦任務のため第五戦隊(加古、古鷹、川内、由良)も青葉進水式に参加する(親王は古鷹乗艦)[49]。正午過ぎ、「青葉」の進水式は無事に終了した[50][51]。 こうして竣工した一等巡洋艦青葉型(青葉、衣笠)は、加古級(古鷹型)20㎝単装砲塔六門に対し、最初から20㎝連装砲塔3基六門という配置となっている[52]。これが建造当初の加古型(古鷹型)と青葉型の外見上相違点となった[53]。のちに古鷹型(加古、古鷹)も近代化改装の際に20.3㎝連装砲塔3基六門へ換装している。

後日、ロンドン海軍軍縮会議の結果『ロンドン海軍軍縮条約』が1930年(昭和5年)10月2日に締結されて日本が批准すると、加古型(古鷹型)・青葉型の4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)は甲巡洋艦(重巡洋艦)に定義され、これにともない日本海軍の「一等巡洋艦・二等巡洋艦」の定義も変更された[54]

竣工後[編集]

就役2年後 主砲が単装砲
1937年撮影 第1・2主砲
1941年撮影 カタパルト搭載は九四式水上偵察機
1939-1942年 12cm単装高角砲 後方は古鷹と衣笠

1926年(大正15年)7月20日、「加古」は竣工と共に横須賀鎮守府籍となる[55]。 8月1日、「加古」は第五戦隊(古鷹、川内、由良)に編入され[56][57]、「古鷹」より旗艦を継承する[58]。 第五戦隊は4隻(重巡《加古、古鷹》、軽巡《川内由良》)編制となった[57][59]。 9月25日、第五戦隊は「青葉」進水式に参加(前述)。 12月1日、同日附で第五戦隊は再編され、古鷹型重巡2隻(古鷹、加古)、川内型軽巡洋艦2隻(神通那珂)となる[57]。「加古」はほぼ一貫して第五戦隊旗艦の任にあった[60][61]。 同日附で加古副長は香椎中佐から井沢春馬中佐に交代[62]

1927年(昭和2年)8月24日島根県美保関沖で行われた第八回基本演習(夜間無灯火演習)において第五戦隊(第1小隊《加古、古鷹》、第2小隊《神通那珂》)および第二水雷戦隊(旗艦夕張)は夜間雷撃訓練を実施することになった[63][64]。 乙軍は、加藤寛治連合艦隊司令長官率いる長門型戦艦(長門、陸奥)以下戦艦部隊を仮想敵(甲軍)にみたてて接近中、戦艦部隊(伊勢、日向)・第六戦隊(由良、龍田)等から照射を受けた五戦隊第2小隊(神通、那珂)は距離をとるべく右に転舵[65]。すると2隻は後続していた第1小隊(加古、古鷹)および第26駆逐隊、第27駆逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ[66]。「神通」と第27駆逐隊2番艦「」が衝突(蕨は沈没)、それを避けようとして左に転舵した「那珂」は、同駆逐隊3番艦「」と衝突、両艦とも大破した。第五戦隊第1小隊(加古、古鷹)は各艦(伊勢、鬼怒、阿武隈、由良、龍田)等と協力して沈没艦と損傷艦の救援に従事した[67]。 その後、自力航行可能だった「那珂」は2隻(比叡、古鷹)に護衛され[68]、「加古」は戦艦金剛および同艦に曳航される「神通」を護衛し、「葦」は「阿武隈」に曳航され、それぞれ舞鶴へむかった[69]。12月26日、事件当時の神通艦長水城圭次大佐は自決した[70]。これを美保関事件という。

11月15日、加古艦長は後藤章大佐から吉武純蔵大佐(馬公要港部参謀長)[71]に交代(後藤は12月1日より横須賀防備隊司令[72]。戦艦「榛名」艦長[73]、第一水雷戦隊司令官[74]、第二水雷戦隊司令官[75]等を歴任)。 水城大佐自決前の12月1日、第五戦隊に青葉型2隻(青葉、衣笠)が編入され、第五戦隊は一等巡洋艦4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)を揃えた[31][47]。旗艦は「加古」から「衣笠」に交代している[76][77]。 同日附で井沢春馬中佐(加古副長)は戦艦「陸奥」副長に転任(後任の加古副長は後藤輝道中佐)[72]。澤田實少佐(加古砲術長)は空母「赤城」砲術長に転任(後任の加古砲術長は山城副砲長丸茂邦則少佐)[72]。加古水雷長も仲村保造少佐から池内正方少佐に交代した[72]

1928年(昭和3年)12月10日、吉武大佐(加古艦長)は横須賀防備隊司令へ転任、川内型2番艦「神通」艦長秋山虎六大佐が加古艦長に補職される[73]。加古砲術長も丸茂少佐から西尾不二彦少佐(神通砲術長)に交代した[73]

1929年(昭和4年)5月2日、イギリス王室グロスター公爵ヘンリー王子ケント級重巡洋艦サフォークに乗艦して来日(横浜着)、第五戦隊2隻(加古、古鷹)はサフォークを出迎えた[78]。3隻(加古、古鷹、サフォーク)の乗組員は互いの艦を見学するなどして交流の機会を持っている[79]。あるイギリス士官の感想は「斯うした窮屈な艦を日本が造り得るのはせいぜいあと十年だらう。今に国民の生活程度が向上してこんな住居(すまゐ)には堪えられなくなる時が日本にもやがて来るに違ひない。」だった[80]。 11月7日、「古鷹」は第五戦隊から除かれる[81][82]。第五戦隊は重巡3隻(加古、衣笠、青葉)となった[82]

11月30日、秋山(加古艦長)は海軍航空本部教育部長へ転任[74]。海軍大学校教官近藤信竹大佐が後任の加古艦長となる[74]。幹部も大幅に異動し、加古副長太田泰治中佐は戦艦「榛名」副長へ転任(後任は軽巡「大井」副長中村一夫中佐)[74]池内正方少佐(加古水雷長)も榛名水雷長へ転任(後任の加古水雷長は三好輝彦少佐)[74]。加古航海長は有賀武夫少佐から土井高少佐に交代[74]

1930年(昭和5年)6月18日、近藤信竹大佐は海軍軍令部参謀へ転任、同参謀の中村亀三郎大佐が加古艦長[83]となる(近藤は太平洋戦争時の第二艦隊司令長官)。

12月1日、2隻(加古、衣笠)は第五戦隊より除かれ、予備艦に指定[55][31]。かわりに「古鷹」が第五戦隊に復帰[81]。第五戦隊は重巡2隻(青葉、古鷹)となる[84]。 同日附で中村大佐は長門型1番艦「長門」艦長に補職[75]。子爵井上勝純大佐(装甲巡洋艦「磐手」艦長)が後任の加古艦長となる[75]。また中尾八郎少佐(加古砲術長)は重巡「足柄」砲術長へ転任(後任の加古砲術長は軽巡「木曾」砲術長市村茂松少佐[75]。加古水雷長も三好輝彦少佐から市来正雄大尉に交代[75]。後日、三好大佐は長門型2番艦「陸奥」艦長に補職[85]、同艦爆沈時に戦死した。

1931年(昭和6年)5月15日より、「加古」は横須賀海軍工廠で整備と装備の改善を実施[55]。 6月下旬、ドイツの軽巡洋艦エムデンが来日し、日本海軍関係者はドイツの技術に注目した[86]。 そこでエムデンと同時期に完成した『加古級巡洋艦』との交換見学会が開かれた[87]。保守的な鋲構造の加古型(および日本海軍軍艦)に対し電気溶接を多用したドイツの軽巡エムデンに、見学者達は大きな興味を抱いている[88]。 また加古級には昭和天皇も注目しており、以前実施された扶桑型戦艦山城を御召艦とした小笠原諸島奄美大島方面の航海が好評だったことから、古鷹型(加古、古鷹)のどちらかを御召艦として八丈島へ行幸する計画も立案された[89]。だが、天皇が加古型(古鷹型)を御召艦とする機会はなかった。

9月29日、「加古」は横須賀工廠を出渠[55]。10月1日附で呉鎮守府籍となる[55]。11月10日から呉海軍工廠に入渠した[55]。 12月1日、加古艦長は井上勝純大佐から長良型6番艦「阿武隈」艦長古賀七三郎大佐に交代[90]

1932年(昭和7年)4月4日、江風型駆逐艦2隻(江風、谷風)の残務処理事務所を加古艦内に設置する[91]。5月31日、「加古」は出渠[55]。 11月1日附で第1予備艦に指定[55]。 12月1日、2隻(加古、衣笠)は第五戦隊に編入される[55][31]。第五戦隊は重巡3隻(青葉、加古、衣笠)となった[92]。 同日附で加古艦長は古賀大佐から馬公要港部参謀長水戸春造大佐に交代[93]

1933年(昭和8年)3月11日、当時の加古副長は林蓉齋中佐から左近允尚正中佐に交代[94]。 5月20日、第五戦隊は当分編制しないことなり[95]、重巡3隻(加古、青葉、衣笠)は第六戦隊を編制[55][31][47]。 11月15日、「加古」は第六戦隊より除かれ、第2予備艦に指定[55]。かわりに「古鷹」が第六戦隊に編入されて[81]同隊は重巡3隻(古鷹、衣笠、青葉)となった[96]。 同日附で水戸春造大佐(加古艦長)は戦艦「榛名」艦長へ転任[97]。大湊要港部参謀長横山徳治郎大佐が加古艦長に補職[97]。また加古副長も左近允尚正中佐から森良蔵中佐(当時軽巡「那珂」副長)[97]に交代した(太平洋戦争後半、左近允少将は第十六戦隊司令官として「青葉」座乗。終戦後、ビハール号事件により刑死)。 12月11日、本艦は呉警備戦隊に編入[98]

1934年(昭和9年)2月1日、第1予備艦に指定[55]。同日附で妙高型重巡洋艦2番艦「那智」より呉警備戦隊旗艦を引き継ぐ[99][98]。3月15日、呉警備戦隊旗艦は「加古」から「神通」に交代[100]。 5月22日、呉警備戦隊旗艦は長良型軽巡洋艦6番艦「阿武隈」から「加古」に変更[101]。 7月1日、呉警備戦隊旗艦は重巡「加古」-駆逐艦「敷波」-軽巡「阿武隈」と変わる[102]。7月9日、「阿武隈」から「加古」に戻った[103]。7月17日、「加古」から「神通」に変更[104]。 7月20日、第四艦隊(旗艦「伊勢」)の再編に伴い、第五戦隊は重巡3隻(足柄羽黒、加古)で再編[105][106][107]

11月10日より佐世保海軍工廠に入渠、11月15日より第3予備艦となる[55]。引続き呉警備戦隊に所属[108]。同日附で加古艦長は横山徳治郎大佐から舞鶴要港部港務部長柏木英大佐に交代[109]

1935年(昭和10年)2月25日、佐世保工廠を出渠[55]。5月20日、呉工廠に入渠[55]。 7月18日、呉警備戦隊旗艦は「天龍」から「加古」に変更される[110]7月28日最上型巡洋艦1番艦「最上」が竣工し、呉警備戦隊に編入される[108]。 8月5日、呉警備戦隊旗艦は「加古」から「最上」に変更[111]。2日後、再び「加古」に戻る[112]。8月10日[113]から11日[114]、8月24日[115]から25日[116]にかけても、「最上」は「加古」より呉警備戦隊旗艦を引き継ぐ。 11月15日、加古艦長は柏木英大佐から藍原有孝大佐(当時、軽巡「球磨」艦長)に交代[117]

1936年(昭和11年)7月1日、加古艦長は藍原大佐から駐満海軍部参謀長大島乾四郎大佐に交代[118]。同月、「加古」は大阪鉄工所(日立造船)において、主砲を換装する近代化改修に入る[119]。 12月1日、大島大佐(加古艦長)は高雄型重巡4番艦「摩耶」艦長へ転任。軽巡「名取」艦長岡村政夫大佐が後任の加古艦長となる[120]

1937年(昭和12年)12月1日、岡村政夫大佐(加古艦長)は呉鎮守府出仕。出雲型装甲巡洋艦1番艦「出雲」艦長鎌田道章大佐が加古艦長[121]に補職される(岡村は翌年4月より姉妹艦「古鷹」艦長)[122]。 12月27日、改装工事完成[55]

1938年(昭和13年)10月20日、加古艦長は鎌田道章大佐から緒方眞記大佐に交代[123]

1939年(昭和14年)5月1日、緒方大佐(加古艦長)は出雲型2番艦「磐手」艦長へ転任[124]。重巡「古鷹」艦長伊藤皎大佐は、古鷹艦長と加古艦長の兼務を命じられた[124]。 7月1日、長良型軽巡洋艦1番艦「長良」艦長江戸兵太郎大佐が加古艦長に任命され、伊藤大佐(古鷹艦長)は艦長兼務を解かれた[125]

11月15日、利根型重巡洋艦2隻(利根筑摩)で編制されていた第六戦隊(司令官清水光美少将)は、古鷹型2隻(加古、古鷹)で再編[55][81]。新任の第六戦隊司令官は田結穣少将[126]。第六戦隊旗艦は「加古」に指定される[127][128]。 また利根型2隻(利根、筑摩)は第八戦隊を再編(司令官後藤英次少将)[126][129]。第八戦隊旗艦は「利根」に指定された[129]

同日附で江戸兵大佐(加古艦長)は軽巡「夕張」艦長へ転任[126](後日、江戸は第三水雷戦隊司令官[130]第三十一戦隊司令官[131]を歴任。旗艦「霜月」沈没時に戦死)[132]知床型給油艦石廊」特務艦長堀江義一郎大佐が加古艦長に補職される[126]。大湊防備隊分隊長梶本顗大尉も加古水雷長に任命された[133]

1940年(昭和15年)10月11日、紀元二千六百年特別観艦式において昭和天皇は御召艦比叡(金剛型戦艦2番艦)に座乗、本艦は供奉艦(先導艦《高雄》、供奉艦《加古、古鷹》)として参列した[134]。 10月15日、加古艦長は堀江大佐から木下三雄大佐に交代[135]。石廊特務艦長高橋雄次大佐(加古沈没時艦長)[136]は軽巡「天龍」艦長に補職されている(後任の石廊特務艦長は猪口敏平大佐。戦艦「武蔵」沈没時艦長)[135]。 11月15日、第六戦隊に「青葉」が編入[47]

1941年(昭和16年)3月1日、「衣笠」が第六戦隊に編入[31]。 第六戦隊旗艦は3月下旬に一時「加古」から「古鷹」に変更[137][138]。続いて「加古」から「青葉」に替わるが[139]、4月10日に「加古」に戻った[140]

8月12日、第六戦隊旗艦を「青葉」に変更[141]。本艦は呉に移動した[55]。 8月20日、加古砲術長樋口貞治中佐は戦艦「霧島」砲術長へ転任[142]。戦艦「榛名」副砲長西村春芳少佐が加古砲術長に補職[142]。また加古水雷長梶本覬少佐は峯風型駆逐艦10番艦「夕風」駆逐艦長へ転じ、陽炎型駆逐艦4番艦「親潮」水雷長米井恒雄大尉が加古水雷長となる[142]。梶本は「汐風」艦長を経て、睦月型駆逐艦3番艦「弥生」駆逐艦長(沈没時)[143][144]夕雲型駆逐艦19番艦「清霜」駆逐艦長(沈没時)[145][146]等を歴任した。

9月15日、第六戦隊司令官は牧田覚三郎少将から第二水雷戦隊司令官五藤存知少将に交代(後任の第二水雷戦隊司令官は田中頼三少将)[147]。五藤少将は正式に第六戦隊旗艦を「加古」から「青葉」に変更[148]。各艦の隊番号も変更された[149]。 また木下三雄大佐(加古艦長)は扶桑型戦艦2番艦「扶桑」艦長へ転任[147]。8月28日まで「天龍」艦長を務めた高橋雄次大佐が[150]、加古艦長に任命された[147]

昭和6年~7年(飛行機滑走台をカタパルトに換装、8㎝高角砲を12㎝高角砲へ換装等)と、昭和11年~14年(主砲を単装砲塔から連装砲塔へ換装、混焼罐二基をやめて機関出力を強化、魚雷発射管の換装、射撃・航海諸装置の換装等)の近代化改装により、古鷹型重巡洋艦(古鷹、加古)は第一線級の戦力を保持していた[151]

太平洋戦争[編集]

1941年(昭和16年)11月30日夜、内地から小笠原諸島へ向かう第六戦隊は、空母改装のため横須賀へ向かう潜水母艦大鯨(龍鳳)」とすれ違った[152]太平洋戦争開戦時、第六戦隊は司令官五藤存知少将、青葉型重巡洋艦2隻(青葉衣笠)、古鷹型重巡2隻(加古、古鷹)という戦力で構成され、第1小隊(青葉、加古)・第2小隊(衣笠、古鷹)という編制だった[149]。さらに第六戦隊は、第四艦隊(南洋部隊)(司令長官井上成美中将:旗艦鹿島)の指揮下にあった[153]。12月8日の開戦と共に、第六戦隊はグアム島攻略に参加する[154]。 続いてウェーク島占領に向かった日本軍・第六水雷戦隊(旗艦夕張)と天龍型軽巡洋艦2隻(天龍龍田)の第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将は昭和2年当時の加古砲術長)[72]ウェーク島第一次攻略戦で撃退された事に伴い、山口多聞少将率いる第二航空戦隊空母2隻(蒼龍飛龍)、阿部弘毅少将率いる利根型重巡2隻(利根筑摩)、第17駆逐隊(谷風浦風)と共に12月21日から25日にかけてウェーク島第二次後略戦に参加する[155]。この戦いで第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)が発砲することはなかった[156][155]

1942年(昭和17年)1月-2月上旬にラバウル攻略、3月上旬はラエ・サラモア方面攻略作戦、4月上旬はブーゲンビル島方面およびアドミラルティー攻略作戦等、南方・ソロモン諸島を転戦する[157]。 5月上旬には珊瑚海海戦にも参加した。第六戦隊司令官五藤少将はMO攻略部隊指揮官となり、MO攻略部隊(第六戦隊《青葉、加古、衣笠、古鷹》、駆逐艦《》、空母《祥鳳》)を指揮する[158]。5月7日、祥鳳がアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃で撃沈され、生存者は漣に救助された[159]。5月8日、第六戦隊第1小隊(青葉、加古)は引き続きMO攻略部隊として行動し、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に編入され、第五戦隊(妙高、羽黒)や第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)と第五航空戦隊の空母2隻(翔鶴瑞鶴)を護衛している。加古水上偵察機1機が行方不明になったが、特設水上機母艦神川丸に救助されており、後日母艦に戻ってきた[160]。5月11日、米潜水艦に雷撃された敷設艦「沖島」の救援におもむくが[160]、同艦は駆逐艦「睦月」による曳航中に沈没した[161]

珊瑚海海戦の結果、日本海軍のポートモレスビー作戦は当分中止となった。それにともない第六戦隊各艦は日本本土へ回航され、整備に従事した[162]。第1小隊(青葉、加古)は5月22日、呉入港[55][47]6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗。連合国軍の重用拠点ポートモレスビーの攻略とソロモン諸島における基地航空兵力の拡充は急務とされた[163]。そこで第四艦隊(司令長官井上中将)は『SN作戦』(南太平洋方面の航空基地適地調査・設営・各航空基地強化)と『「リ」号研究作戦』を下令[164]。ガダルカナル島航空基地の設置、ラエ、カビエン、ツラギ、ラバウル各基地の強化、またソロモン諸島航空基地適地の捜索等の諸任務に、第六戦隊・第十八戦隊(天龍龍田)・第六水雷戦隊(夕張、第29駆逐隊《追風夕月》)・第30駆逐隊(睦月望月卯月)等を投入する[165]

6月16日、第六戦隊第1小隊(青葉、加古)は呉を出撃、第十八戦隊(天龍、龍田)と合流後にトラック泊地へ向かい同月23日に到着[166]。到着直前、対潜哨戒に出撃した加古水上偵察機(1号機、搭乗員3名)が不時着[167]、開戦以来初の戦死者をだす[168]。トラック泊地にはミッドウェー海戦で大破した重巡最上(当時艦長曽爾章大佐、海兵44期)が停泊しており、加古艦長の高橋大佐は海軍兵学校同期の曽爾艦長を訪問している[169]

6月30日、第六戦隊第1小隊(青葉、加古)は第十八戦隊と共にトラックを出撃[170]。しばらくソロモン諸島方面を行動した[171]。7月10日、六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)が合流する[172][173]。当時の軽巡夕張以下第六水雷戦隊はガダルカナル島の基地設営輸送船団を護衛しており、第六戦隊はその支援に任じた[174][175]。7月14日、連合艦隊第二段作戦第二期の兵力部署改編により、第六戦隊・十八戦隊・各駆逐隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将:旗艦鳥海)を基幹とする外南洋部隊に編入される[176]。27日、第八艦隊は第四艦隊より外南洋部隊の指揮権を継承した[177]

沈没[編集]

1942年(昭和17年)8月8-9日、第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)は第一次ソロモン海戦に参加し、米重巡洋艦アストリア(USS Astoria, CA-34)、ヴィンセンス(USS Vincennes, CA-44) へ打撃を与え、クインシー (USS Quincy, CA-39) およびオーストラリアの重巡洋艦キャンベラ(HMAS Canberra) の撃沈に貢献した。本艦の砲弾消費は主砲192発、高角砲124発、25㎜機銃149発、魚雷10本だった[178]。また偵察のため発進させていた水上偵察機も未帰還となった[179]

この戦闘で「加古」は損害を被ることはなかったが、帰還中の8月10日に米潜水艦S-44に捕捉された[180][181][182]。当時、第八艦隊旗艦鳥海、軽巡2隻(天龍夕張)、駆逐艦夕凪はラバウルやショートランド泊地に向けて回航中で、第六戦隊4隻のみニューギニア島カビエンに向かっていた[183]。到着まで数時間程の行程で、戦闘航海3日目のため各艦とも疲労の頂点に達していたという[184]。 同日午前7時、海上は視界40kmで平穏、六戦隊は第1小隊(青葉、加古)と第2小隊(衣笠、古鷹)の小隊並陣・各艦距離800mで速力16ノットを発揮、青葉水上偵察機1が前路哨戒を行っていたが、之字運動(対潜警戒運動)は実施していなかった[183][185]。「S-44」は約650m(700ヤード)の距離から4本の魚雷を発射、そのうち3本(S-44側は4本命中と判定)が命中した[186][187][181]。外二軸運転のため舵の効きが悪く、回避は難しかった[188]。7時9-10分より加古は被雷、1発目は加古の一番砲塔右舷に命中、2発目及び3発目は加古の弾薬庫及び缶室の近くに命中し7時15分に右舷へ転覆、沈没した[189]。沈没地点南緯02度28分 東経152度11分 / 南緯2.467度 東経152.183度 / -2.467; 152.183[190]。当時の加古には准士官以上54名・下士官兵660名・傭人4名が乗艦しており、このうち准士官以上6名・下士官兵61名の計67名(傭人1名を加えた場合は68名)が戦死した[186][191]。第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠)は爆雷投射をおこなったのち、装載艇を放出してカビエンへ避退した[192]。第六戦隊姉妹艦の空気は一気に沈痛なものになったという[193]

加古沈没の一報をうけて宇垣纏連合艦隊参謀長は戦藻録に『道は九十九里を以て半すとの格言に相當するに非ざるか』と記録[194]チェスター・ニミッツ(当時太平洋艦隊司令長官)は潜水艦による加古喪失の効果について『アメリカ軍の惨敗をとにかく埋め合わせた』、『後日、日本海軍が東京急行に水上兵力を投入するにあたり、ずっと慎重で消極的な方法をとらせることになった』と指摘している[180]

高橋雄次大佐(加古艦長)を始めとする生存者650名は艦載艇に分乗し、一旦シンブリ島へ上陸した[195]。翌日、駆逐艦「卯月」(第30駆逐隊)と舟艇3隻に便乗してカビエンへ向かい、六戦隊姉妹艦に収容されている[196]。さらに特務艦石廊に乗船し、ラバウルへ向かった[197]。加古生存者のうち一部は、第一次ソロモン海戦で戦死者を出した重巡「鳥海」に補充要員として配属された[198][199]。加古主計長は横須賀で改装中の空母龍鳳(大鯨)の主計長となった[200]

9月1日、高橋雄次大佐は横須賀鎮守府附となる[201]。9月7日、旅順方面特別根拠地隊参謀兼副長に補職[202]。後日、最上型重巡洋艦3番艦「鈴谷」艦長に任命された[203][204]。 9月15日、「加古」は軍艦籍より除籍[205]。約1ヶ月後の10月11日-12日、サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)で日本海軍は米艦隊に対し失態を演じた[206]。本海戦で重巡1隻・駆逐艦3隻(古鷹吹雪夏雲叢雲)を喪失、「青葉」は大破、六戦隊司令官五藤存知少将も戦死した[207]。 11月10日附で第六戦隊は解隊、健在だった「衣笠」は第八艦隊直属、修理を要する「青葉」は呉鎮守府部隊に編入された[208]。同日附で2隻(重巡《古鷹》、空母《龍驤》)は軍艦籍より除籍された[209]。11月14日、第三次ソロモン海戦に参加した「衣笠」はアメリカ軍機の空襲により沈没(衣笠艦長戦死)[31][210]。第六戦隊に所属した重巡計4隻は「加古」沈没から約4ヶ月で「青葉」1隻を残すのみとなった[211]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』85-87頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 後藤章 大佐:1925年9月18日[36] - 1926年7月20日[42]

艦長[編集]

  1. 後藤章 大佐:1926年7月20日[42] - 1927年11月15日[71]
  2. 吉武純蔵 大佐:1927年11月15日[71] - 1928年12月10日[73]
  3. 秋山虎六 大佐:1928年12月10日[73] - 1929年11月30日[74]
  4. 近藤信竹 大佐:1929年11月30日[74] - 1930年6月18日[83]
  5. 中村亀三郎 大佐:1930年6月18日[83] - 1930年12月1日[75]
  6. 井上勝純 大佐:1930年12月1日[75] - 1931年12月1日[90]
  7. 古賀七三郎 大佐:1931年12月1日[90] - 1932年12月1日[93]
  8. 水戸春造 大佐:1932年12月1日[93] - 1933年11月15日[97]
  9. 横山徳治郎 大佐:1933年11月15日[97] - 1934年11月15日[109]
  10. 柏木英 大佐:1934年11月15日[109] - 1935年11月15日[117]
  11. 藍原有孝 大佐:1935年11月15日[117] - 1936年7月1日[118]
  12. 大島乾四郎 大佐:1936年7月1日[118] - 1936年12月1日[120]
  13. 岡村政夫 大佐:1936年12月1日[120] - 1937年12月1日[121]
  14. 鎌田道章 大佐:1937年12月1日[121] - 1938年10月20日[123]
  15. 緒方真記 大佐:1938年10月20日[123] - 1939年5月1日[124]
  16. (兼)伊藤皎 大佐:1939年5月1日[124] - 1939年7月1日[125]
  17. 江戸兵太郎 大佐:1939年7月1日[125] - 1939年11月15日[126]
  18. 堀江義一郎 大佐:1939年11月15日[126] - 1940年10月15日[135]
  19. 木下三雄 大佐:1940年10月15日[135] - 1941年9月15日[147]
  20. 高橋雄次 大佐:1941年9月15日[147] - 1942年9月1日(横須賀鎮守府附)[201]

同型艦[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 鈴木は給糧艦「間宮」特務艦長、戦艦「金剛」艦長等を歴任。レイテ沖海戦時の第三戦隊司令官。金剛沈没時に戦死
  2. ^ 古村は重巡「筑摩」艦長、戦艦「扶桑」、戦艦「武蔵」艦長等を歴任

参考文献[編集]

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    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』
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    • Ref.C12070064400 『大正1年達完/達大正1年8月』。
    • Ref.C12070078400 『大正10年 達完/達大正10年3月』。
    • Ref.C12070078900 『大正10年 達完/達大正10年6月』。
    • Ref.C12070081000 『大正11年 達完/達大正11年10月』。

脚注[編集]

  1. ^ #鉄底海峡228頁
  2. ^ a b #ポケット海軍年鑑(1937)p.33『一等巡洋艦"加古 かこ" 加古は艦型要目共に古鷹と同様で全長176.78米、幅15.47米、平均吃水4.50米。備砲20糎砲6門は何れも單装砲塔式である。この點すぐ後に出來た二聯装砲塔の衣笠、青葉と何れが勝れてゐるかは論じないが、その威力に相違のある筈はなく、時と場合によつてこの種の7,000頓重巡が用ひられると考へればよい。一等巡洋艦加古は20糎砲巡洋艦の最初の艦で、國産日本海軍がやうやく世界に怖れられて來た頃の待望を一身に擔つて生れたのである。列強の20糎砲巡洋艦の第一艦と較べて、優れたりとも決して劣つてはゐない。』
  3. ^ #艦艇類別等級(昭和16年12月31日)p.2『軍艦|巡洋艦|一等|古鷹型|古鷹、加古』
  4. ^ #倫敦海軍会議(3)参考p.2『華府会議後帝国海軍予算|大正十二年|総予算二七五,一四四(千圓)|軍艦建造費一〇四,二〇三(千圓)|軍艦建造計畫{補助艦補充計畫(昭和四年完成)(総額?億?千圓)/巡洋艦 一万頓四隻(那智級)/七千百頓(加古級)/驅逐艦 廿一隻/潜水艦 廿八隻』
  5. ^ #観艦式場計画要領の件p.3『六.各艦ノ距離ヲ左ノ通トス (イ)戦艦巡洋戦艦加古型各艦及赤城 六百米 (ロ)其ノ他ノ軍艦特務艦及番外列各艦船 五百米 (ハ)驅逐艦潜水艦及掃海艇 三百米 右各頂間ノ艦船間ノ距離ハ大ナルモノニ従フモノトス』
  6. ^ #神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(1)p.2『…甲軍ノ後衛タル第三戦隊及竜田ヲ加古型ト仮想スルコトニ改メ23日午後三時信號發令セリ…』
  7. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.38『ニ等巡洋艦"夕張 ゆふばり" 全要目{排水量2,890頓 速力33.0節 備砲14糎砲6門 8糎高角砲1門 魚雷發射管4門 起工大正11年6月 竣工大正12年7月 建造所佐世保海軍工廠} 由良又は鬼怒などの軽巡洋艦が申し合せたやうに同型艦として續々出現し、どれが由良か鬼怒か見分けがつかない思ひをしてゐる中へ大正12年7月忽然として現はれた甚だ軽快さうな巡洋艦、ナリは小さいが由良や鬼怒に比べて全然艦型を異にしたスマートな姿であつたから見る者凡てが目を瞠つた。それが夕張であつた。排水量僅かに2,890頓で上記の兵装も而もその悉くが首尾線上に装備されてゐるのみならず、14糎砲は各2門宛を砲塔式に即ち2連装砲塔として備へて、速力は5,000頓級と同じ33節である。全く素晴らしい進歩である。今後はこれだと人々に思はせたが果たせるかな後年になつて計畫されたのがあの7,100頓の加古級である。即ちこの夕張は現在の一等巡洋艦完成の手引であつたとも見られるものである。』
  8. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.238『一、所謂八吋砲巡洋艦出現 - 大正十一年(一九二二)、巡洋艦「加古」同年十一月神戸川崎造船所にて起工、八吋砲(二十糎砲)六門を装備す、所謂「八吋巡洋艦」の嚆矢なり』
  9. ^ #ハンディ判艦艇写真集11pp.40-41『みごと敵艦隊に魚雷命中』
  10. ^ #重巡十八隻333-334頁『加古(かこ)』
  11. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.121『加古(かこ)|艦種 一等巡洋艦 姉妹艦に古鷹・青葉・衣笠あり|艦名考 川名に採る、加古川は又印南川、氷河(ヒノカハ)とも云ふ、丹波国氷上(ヒノカミ)郡ニ發源し上流を佐治川と云ひ、多紀郡の大雲川を併せ播磨国に入り海に注ぐ。|艦歴 此艦は元球磨型の第十五艦の筈なりしも、後に至り古鷹型に変更、従って他の姉妹艦三隻の名何れも山名なるも此艦のみは球磨級と共に川名に採る。』
  12. ^ #ハンディ判艦艇写真集11p.2『艦名の由来』-『加古(かこ)―河川名』
  13. ^ #2等巡洋艦1隻製造の件p.5『大正十年九月二十一日 二等巡洋艦加古製造費豫算』
  14. ^ #軍艦加古工事に関する件p.3『大正十一年三月十七日 佐鎮司令長官宛 二等巡洋艦一隻建造ノ件取止メ』
  15. ^ #軍艦加古工事に関する件p.5『理由 軍縮ノ結果船型ノ変更(職工維持上製造所変更)必要アルニ由ル』
  16. ^ a b #日本巡洋艦物語92-94頁
  17. ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十六日 海軍大臣男爵斎藤實 |艦艇類別標準|軍艦|巡洋艦|一等|七千頓以上|二等|七千頓未満』
  18. ^ #達大正10年3月p.14『達第四十三號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ニ左ノ通命名セラル|大正十年三月十九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|加古カコ 那珂ナカ 川内センダイ 神通ジンツウ』
  19. ^ #達大正10年6月p.17『達第百十八號 艦艇類別等級別表中巡洋艦二等ノ欄「鬼怒」ノ下ニ「、加古、那珂、川内、神通」ヲ加フ|大正十年六月九日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
  20. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『川内|二等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正11-2-16|大正12-10-30|大正13-4-29|(艦装備略)』
  21. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『那珂|二等巡洋艦|(艦要目略)|横濱船渠會社|大正11-6-10|大正14-3-24|大正14-11-30|(艦装備略)』
  22. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『神通|二等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正11-8-4|大正12-12-8|大正14-7-31|(艦装備略)』
  23. ^ #大正10年5月20日新艦起工予定及同造船所名の件p.1『巡洋艦 加古 大正十一年以後 佐世保海軍工廠』
  24. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ノ内加古ノ艦型ヲ一等巡洋艦ニ變更シ大正十一年度ニ於テ川崎造船所ニ於テ建造セシム|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
  25. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄ニ加古、衣笠、古鷹ヲ加ヘ同二等ノ欄加古、ヲ削ル』
  26. ^ #我海軍軽巡に関する問合せの件p.3『衣笠加古|7.100|未起工(契約済)|古鷹|7.100|未起工(契約済)|Ⅲ衣笠|7.100|仝右未起工』
  27. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十七號 軍備補充費ヲ以テ大正十一年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦二隻ノ内衣笠ノ建造年度ヲ大正十二年度ニ繰下ゲ建造所ハ未定トス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
  28. ^ 「1等巡洋艦工事予定概括表の件」pp.3
  29. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『加古|一等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正11-11-17|大正14-4-10|大正15-7-20|(艦装備略)』
  30. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『衣笠|一等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正13-1-23|大正15-10-24|昭和2-9-30|(艦装備略)』
  31. ^ a b c d e f g #ハンディ判艦艇写真集11p.105(重巡洋艦『衣笠』行動年表)
  32. ^ #軍艦加古p.13『一.進水式参列者(海軍側)仝(會社側))(略)五.川崎乗船所ニ建造中ノ軍艦神通艤装員(略)』
  33. ^ 「軍艦進水の件」pp3-4、「軍艦加古」pp.22
  34. ^ 大正14年4月11日(土)海軍公報第3729号 p.40』 アジア歴史資料センター Ref.C12070297000 『○軍艦進水 神戸川崎造船所ニ於テ建造ノ軍艦加古四月十日午前八時進水セリ』
  35. ^ 大正13年12月2日(火)官報第3648号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955832 p.11
  36. ^ a b 大正14年9月19日(土)官報第3923号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956072 p.4
  37. ^ 大正14年9月30日(水)海軍公報第3869号 p.23』 アジア歴史資料センター Ref.C12070299000 『○事務所設置 軍艦加古艤装員事務所ヲ神戸川崎造船所内ニ設置シ本月二十八日ヨリ事務ヲ開始セリ』
  38. ^ #巡洋艦加古引渡期日延期pp.3-4
  39. ^ #ハンディ判艦艇写真集11p.45(竣工直後写真)
  40. ^ 大正15年3月10日(水)海軍公報第3995号 p.34』 アジア歴史資料センター Ref.C12070302600 『○事務所移轉 軍艦加古艤装員事務所ヲ神戸川崎造船所内ニ設置中ノ處呉海軍工廠第三船渠軍艦加古内ニ移轉シ本月二日ヨリ事務ヲ開始セリ』
  41. ^ #軍艦加古工事予定概括表改正の件pp.4-5
  42. ^ a b c d 大正15年7月22日(木)官報第4174号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956325 p.3
  43. ^ 大正15年7月22日(木)海軍公報第4106号 p.31』 アジア歴史資料センター Ref.C12070304100 『○事務所撤去 軍艦加古艤装員事務所ヲ神戸川崎造船所内ニ設置中ノ處本月二十日撤去セリ』
  44. ^ 「軍艦加古工事予定概括表改正の件」pp.3
  45. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『古鷹|一等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正11-12-5|大正14-2-25|大正15-3-31|(艦装備略)』
  46. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『青葉|一等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正13-2-4|大正15-9-25|昭和2-9-20|(艦装備略)』
  47. ^ a b c d e #ハンディ判艦艇写真集11p.104(重巡洋艦『青葉』行動年表)
  48. ^ #宣仁親王殿下御発着の件p.13
  49. ^ #青葉進水式儀礼p.7『附圖』
  50. ^ 大正15年9月28日(火)海軍公報第4161号 p.34』 アジア歴史資料センター Ref.C12070304600 『○軍艦進水 三菱造船株式會社長崎造船所ニ於テ建造ノ軍艦青葉本月二十五日午前十時十五分進水セリ』
  51. ^ #青葉進水式儀礼p.11『15.9.25 第五戦隊司令官 海軍大臣 青葉進水式ニ關スル任務無事終了 午後二時』
  52. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.28『一等巡洋艦"加古 かこ" 加古は艦型要目共に古鷹と同様で全長176.78米、幅15.47米、平均吃水4.50米。備砲20糎砲6門は何れも單装砲塔式であるから、この點すぐ後に出來た衣笠、青葉の2艦をして一日の長たらしめてはゐるが、従来の巡洋艦が採り來つた形式と比較したならばその斬新振りに満足すべきであらう。この型に於て眼新らしく見られる前部甲板の彎曲してゐるのは高速航行に際して前方3個の砲塔及び艦橋(ブリツヂ)が飛沫に冒されるのを防ぐためである。又後部甲板が全部と反對に下つてゐるのはこの不要部分を割いてこれを武装の方に振當てた苦心の跡を物語るもの。尚この型は後檣の下に飛行機格納庫を有してゐる。後檣に副ふて飛行機揚収用の"デリツクderrick"が見えるであらう。』
  53. ^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.34『一等巡洋艦"衣笠 きぬがさ" 衣笠も亦要目に於ては加古、古鷹と同様であるがその主砲たる20糎砲の配列が單装砲塔から二聯装砲塔へと變化した。即ち前部に2個、後部に1個の砲塔としたため單装6砲塔の加古級に比し半籔の砲塔で足りることゝなり従つて甲板上にも大いにゆとりが出來た。後檣下には大きな飛行機格納所があり"カタパルトCata-Pult"は後檣の後に廻つた。尚外誌によると加古級の搭載し得る燃料は石炭400頓と、重油1,200頓であるが、衣笠、青葉になると石炭は同様400頓であるが、重油は1,600頓に増加してゐるといつてゐる。』
  54. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.30『一等巡洋艦"青葉 あをば" これは衣笠と艦型も要目も寸分違はぬと云つてよい同型艦。しかも起工、進水(大正15年)竣工ともに同じ年と云ふ、因縁深い姉妹艦である。昭和10年度はこの青葉とそれに古鷹、衣笠の3隻で第六戰隊を編成し聯合艦隊の第二艦隊に属してゐる。軍縮會議の結果生まれた巡洋艦と云ふものゝ定義を記して見ると、大正10年(1921年)のワシントン會議では巡洋艦の基準排水量は10,000頓を超ゆるを得ず。又備砲の口徑は8吋(20,31糎)を超ゆるを得ず。と云ふことに制限し、更に昭和5年(1930年)の倫敦會議では巡洋艦は1,850頓以上10,000頓以下のものとし、その中備砲口徑6,1吋を超ゆるものを甲級巡洋艦、5,1吋以上6,1吋以下の備砲を有するものを乙級巡洋艦とした。(1,850頓以下でも5,1吋を超える大砲を積めば巡洋艦と見做す)』
  55. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #ハンディ判艦艇写真集11p.43(重巡洋艦『加古』行動年表)
  56. ^ 大正15年5月31日(月)海軍公報第4061号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C12070303300 『○郵便物發送先 第五戰隊司令部及古鷹川内由良宛(以下略)』
  57. ^ a b c #海軍制度沿革(巻4、1939)p.41『大正一五.一二.一(内令二四六)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 金剛 比叡/第五戰隊 加古 古鷹 神通 那珂/第二水雷戰隊 夕張 第五 第二十二 第二十九 第三十驅逐隊/第二潜水戦隊 長鯨 第七 第十七潜水隊|大正十五年(略)第二艦隊 四.一(内令八一)古鷹(五戰)/八.一(内令一七四)加古(五戰)|大正十五年 第二艦隊 五.一(内令一〇二)名取(五戰)』
  58. ^ 大正15年8月6日(金)海軍公報第4118号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C12070304300 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ本月五日第五戰隊司令官ノ旗艦ヲ古鷹ヨリ加古ニ變更セリ』
  59. ^ 大正15年9月4日(土)海軍公報第4142号 p.14』 アジア歴史資料センター Ref.C12070304500 『○郵便物發送先 第二艦隊司令部及軍艦霧島比叡、第五戰隊司令部 軍艦加古古鷹川内由良、第二水雷戰隊司令部 軍艦五十鈴第三驅逐隊(汐風島風灘風夕風)、第五驅逐隊(驅三驅五驅七驅九)、第二十九驅逐隊(驅一一驅一三驅一五驅一七)、第三十驅逐隊(驅一九驅二一)、第二潜水戰隊司令部 軍艦長鯨、第七潜水隊(伊一伊二)、第十四潜水隊(呂二六呂二七)、第十七潜水隊(伊五一伊五二)宛(以下略)』
  60. ^ 昭和2年5月24日(土)海軍公報第116号 p.47』 アジア歴史資料センター Ref.C12070308800 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ自五月二十八日至六月十四日第五戰隊司令官ノ旗艦ヲ加古ヨリ古鷹ニ變更ス』
  61. ^ 昭和2年6月16日(木)海軍公報第135号 p.14』 アジア歴史資料センター Ref.C12070309100 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ本月十五日第五戰隊司令官ノ旗艦ヲ古鷹ヨリ加古ニ變更セリ』
  62. ^ 大正15年12月2日(木)官報第4283号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956433 p.9
  63. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(2)p.11『軍艦神通ハ昭和二年八月二十四日聯合艦隊第八回基本演習ニ参加シ乙軍第五戦隊第二小隊ノ先頭艦トシテ二番艦那珂ヲ率ヒ仝日午後十時美保湾錨地ヲ出港…』
  64. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(3)p.50『触接及襲撃要領』
  65. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)pp.7-16』
  66. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(3)pp.46-47『実施経過概要 午後十時演習開始各隊予定ノ如ク行動ヲ開始ス午後十一時六分左翼列ノ第五戦隊第二小隊ハ甲軍伊勢型ヲ発見触接探照灯ヲ用ヒ之ヲ友軍ニ通報ス爰ニ於テ第二十六及第二十七駆逐隊ハ第五戦隊第一小隊ヨリ分離進撃ス 第二小隊ト概ネ竝進セシ第一小隊ハ其頃艦首ニ長門型ラシキモノヲ発見シテ之ガ艦尾ニ触接運動中十一時二十六分葦ヨリ衝突救助ヲ要スル旨信号ニ接シ反転現場ニ至リ損傷艦ノ救助溺者捜索ニ従事ス』
  67. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.12『当時遭難地附近ニ在リテ極力短艇等ヲ以テ救難ニ従事シツツアリシ艦艇左ノ如シ 伊勢加古古鷹鬼怒阿武隈由良龍田第二十六第二十七駆逐隊』
  68. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.13『那珂ハ25日午前2時40分防水区画補強工事及防水畫出シ方終了自力航行ニ差支ナキヲ確メタル旨報告ニ接シ比叡及古鷹之ヲ護衛シ舞鶴ニ回航セシム25日午後5時無事到着セリ』
  69. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.14『神通ハ損傷最甚シク二十五日午前八時其ノ防水補強作業終了シ金剛ハ之ヲ艦尾曳ニテ舞鶴ニ回航加古之ヲ護衛シ二十六日午前九時無事舞鶴着』
  70. ^ #故海軍大佐水城圭次位階追陞ノ件p.6
  71. ^ a b c 昭和2年11月16日(水)官報第266号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956726 p.8
  72. ^ a b c d e 昭和2年12月2日(金)官報第279号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956739 p.7後藤補職、p.8井沢・澤田免職、p.9丸茂・池内補職、仲村免職
  73. ^ a b c d e 昭和3年12月11日(火)官報第587号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957052 p.7吉武免職、秋山・後藤補職、p.9丸茂免職・西尾補職
  74. ^ a b c d e f g h 昭和4年12月2日(月)官報第878号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957345 p.11後藤補職・近藤補職・秋山免職、p.12太田免職・池内免職・中村補職、p.13有賀免職・土井補職・三好補職
  75. ^ a b c d e f g 昭和5年12月2日(火)官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957646 p.9後藤補職・中村免職・井上補職、p.11中尾免職・市村補職・三好免職、p.12市来補職
  76. ^ 昭和2年12月3日(土)海軍公報第277号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C12070311200 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ本月一日第五戰隊司令官ノ旗艦ヲ加古ヨリ衣笠ニ、第二水雷戰隊司令官ノ旗艦ヲ夕張ヨリ名取ニ變更セリ』
  77. ^ 昭和3年1月23日(月)海軍公報第313号 p.11』 アジア歴史資料センター Ref.C12070313500 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ自一月二十三日至二月十四日第五戰隊司令官ノ旗艦ヲ一時衣笠ヨリ加古ニ變更ス(略)』
  78. ^ #グロスター公奉迎(1)p.14『加古、古鷹 英皇族「グロスター」公殿下奉迎並御乗艦「サフォーク」接伴任務報告』
  79. ^ #グロスター公奉迎(1)pp.21-23『(ロ)訪問交換 (略) (ニ)招待関係』
  80. ^ #増補 軍艦物語p.28『…がいつだったか観艦式の時に日本の新しい巡洋艦の加古だとかイギリスの一萬噸巡洋艦のサフォークとをお互に見せっこした時にイギリスの士官が斯う言った事がある』
  81. ^ a b c d #ハンディ判艦艇写真集11p.42(重巡洋艦『古鷹』行動年表)
  82. ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)p.43『昭和四.一一.三〇(内令二七五)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 妙高 那智 足柄 羽黒/第五戰隊 加古 衣笠 青葉/第二水雷戰隊 鬼怒 第十一 第十二 第十九驅逐隊/第二潜水戦隊 長鯨 第十八 第十九潜水隊|(編入略)|昭和四年(略)第二艦隊 一一.七(内令二五〇)古鷹(五戰)』
  83. ^ a b c 昭和5年6月19日(木)官報第1040号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957507 p.4
  84. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.43『昭和五.一二.一(内令二二八)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 妙高 那智 足柄 羽黒/第五戰隊 青葉 古鷹/第二水雷戰隊 鬼怒 第十一 第十二 第十九驅逐隊/第二潜水戦隊 長鯨 第十九 第二十八潜水隊|(編入略)|(削除略)』
  85. ^ 昭和18年3月10日(発令3月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1066号 p.37』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089900 
  86. ^ #エムデン見学交換(1)p.13『二.資料募集ノ件 「エムデン」ハ大戦ノ経験ニ鑑ミ獨独特ノ造船技術ニヨリ建造セルモノニシテ兵器等ニ於テハ学ブ所尠ナカラシモ一般艤装電気通信器及大戦ノ教訓ヲ活用セル諸点等参考トスベキ点多カラルベシト認メラル依ッテ構内関係各部職員ニテ仝艦ヲ見学スルヲ有利ト認ム此ノ際我海軍ヨリハ加古ヲ交換的ニ見学セシメ可然、ソノ範囲ハ追テ各部ト協議決定ノコトト致シ度』
  87. ^ #エムデン見学交換(2)p.3『エムデン見学ノ件覚 六-六-三〇 (略) (イ)艤装一般特ニ居住施設(加古級ト比較)』
  88. ^ #エムデン見学交換(4)p.2『船殻 (略)工作法に関しては外観上特に注意を惹きたるものなし。唯本級の進水は1925年の一月にして我古鷹級と建造の期を同じくせるが当時我海軍に於て電気溶接を実際に応用することの未だ行はれざりしに反し彼に於ては後に述ぶるが如き要領にして相当広範囲に溶接を使用し居る点は独逸に於ける溶接技術の進歩と云ふ点に於て相当注目に値するものと思考す。』
  89. ^ #天皇海軍兵学校卒業式行幸及八丈島大島御立寄の件取止めp.4『聖上陛下ニハ過般山城ニテ小笠原及奄美大島方面ニ行幸アラセラレ至極御満足ノ処更ニ「八丈島ヲ見ル機会アラバ此方面モオヨソ見聞サレタルコトトナル」トノ御意ヲ漏ラセラレタリ又平素ヨリ加古級御展覧ノ御意モアラセラルル様拝察スルニ付明年好季ニ加古級ニテ八丈島行幸ノ議アルモノトシテ内々海軍ニテ研究ヲ希望ス本件ハ宮内省高官トモ打合セアリ』
  90. ^ a b c 昭和6年12月2日(水)官報第1478号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957946 p.10井上免職・古賀補職
  91. ^ 昭和7年4月4日(月)海軍公報第1548号 p.15』 アジア歴史資料センター Ref.C12070332300 『○事務所設置 驅逐艦谷田風、江風残務處理事務所ヲ當分ノ間軍艦加古内ニ設置ス』
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  95. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.46『昭和八.五.二〇(内令一八二)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 高雄愛宕摩耶鳥海/第五戰隊/第六戰隊 衣笠加古青葉/第二水雷戰隊 神通 第七 第八 第十一 第十二驅逐隊/第二潜水戦隊 球磨 第十八 第十九潜水隊/第二航空戰隊|(編入略)|(削除略)|五.二〇聯合艦隊、第一航空戰隊及第三艦隊ヲ常設ト爲ス(内令一七九乃至一八一)艦隊編制改定セラル但シ當分ノ間第一艦隊第二戰隊、第三潜水戰隊、第二艦隊第五戰隊、第二航空戰隊及第三艦隊第五水雷戰隊ハ之ヲ編制セズ(内令一八三)』
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  102. ^ 昭和9年7月2日(金)海軍公報第2209号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C12070344300 『○旗艦變更 第三艦隊司令長官ハ去月三十日堅田ヨリ勢多ニ、呉警備戰隊司令官ハ昨一日加古ヨリ敷波ニ、同日敷波ヨリ阿武隈ニ旗艦ヲ孰モ變更セリ』
  103. ^ 昭和9年7月10日(火)海軍公報第2216号 p.26』 アジア歴史資料センター Ref.C12070344300 『○旗艦變更 横須賀警備戰隊司令官ハ本月七日北上ヨリ木曾ニ、呉警備戰隊司令官ハ昨九日阿武隈ヨリ加古ニ旗艦ヲ孰モ變更セリ』
  104. ^ 昭和9年7月18日(水)海軍公報第2223号 p.14』 アジア歴史資料センター Ref.C12070344400 『○旗艦變更 呉警備戰隊司令官ハ昨十七日旗艦ヲ加古ヨリ神通ニ變更セリ』
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  106. ^ 昭和9年7月25日(水)海軍公報(部内限)第1849号 p.26』 アジア歴史資料センター Ref.C12070348100 『○郵便物發送先(略)第四艦隊司令部、軍艦伊勢、第五戰隊司令部、軍艦足柄羽黒加古(以下略)』
  107. ^ 昭和9年7月25日(水)海軍公報(部内限)第1849号 p.31』 アジア歴史資料センター Ref.C12070348100 『○郵便物發送先 第五戰隊發送先 第五戰隊司令部、軍艦足柄、羽黒、加古宛(以下略)』
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  209. ^ #S1709呉鎮日誌(5)p.17『十日〇〇〇八海軍大臣→十日一〇五〇各鎮長官 各警長官 各艦隊長官|官房機密第一〇〇〇八八三番電 十日附古鷹、龍驤ヲ軍艦籍ヨリ除カル』
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関連項目[編集]