南大東島
南大東島 | |
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所在地 |
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所在海域 | 太平洋 |
所属諸島 | 大東諸島 |
座標 |
北緯25度50分44秒 東経131度14分41秒座標: 北緯25度50分44秒 東経131度14分41秒 |
面積 | 30.53 km² |
海岸線長 | 21.2 km |
最高標高 | 75 m |
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南大東島(みなみだいとうじま)は、沖縄本島の約400km東方(宮崎県の真南)に位置する大東諸島の島で、沖縄県内では6番目に面積が大きい。
近年、航空機の大型化などで観光客が容易に訪れることが可能になり、豊かな自然を生かした観光地としても注目されている。
地理[編集]
南大東(南大東島) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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面積30.53km2[1]、周囲21.2km[2]、標高75m[3]の島で、気候は亜熱帯の海洋性気候に属している。盆地状の地形の影響のため冬の夜に晴れた際には放射冷却の影響が激しくなり、最低気温が10℃以下になることがある。
サンゴ礁が隆起して出来た隆起環礁の島である。周囲は断崖絶壁で、島の北端から北に10kmの位置にある北大東島のほか沖大東島を除いては、周囲400kmに渡って陸地のない絶海の孤島である。また、島の周りの海は非常に深く、沖へ2kmほど出れば水深は1,000mに達する。
島の中央が窪んでいるため、海岸付近の標高が最も高く内陸に進むほど低くなる皿状の形態である。これは典型的な隆起環礁として世界の地形学の教科書では説明モデルにもなっている。また、2007年には大東隆起環礁として日本の地質百選に選定された。現在でも年7cmほど北に移動をしており、島の北部の「バリバリ岩」などで裂け目を見ることができる。
20世紀になるまでたまに漂着民が着く程度の未開拓の地であったこともあって、独自の生態系をもっている。
気象観測での重要な拠点であり、特に気象衛星が運用される以前の日本の台風観測で、欠かせない役割を果たしていた。
- ギャラリー
湖沼[編集]
島内には、大小無数の湖沼が存在し、淡水の湖沼の水は農業用に利用されている。また、地下にも湖が存在する。なお、海水と淡水の湖沼が入り組んでいるが、地下の構造メカニズムは不明。
カヌーによる池の遊覧ツアーも行われている。
歴史[編集]
- 1885年 日本が北大東島と共に領有を諸外国に宣言。沖縄県に編入される[4]。
- 1900年 玉置半右衛門を中心とした八丈島からの開拓団により、大東諸島の開拓が開始される。
- 戦前は、南大東島で製糖業を営む企業である玉置商会〜東洋製糖〜大日本製糖が島全体を所有していた。特例として町村制は施行されず、それらの各企業に島の自治が全面的に委ねられていたため、日本の行政機関による地方行政がおよばず、公的届出なども事実上不可能な「社有島」であった。島民は、一部の管理的役職の者を除けば全て製糖会社にサトウキビを納める小作農であり、島への渡航手段から商店・学校・郵便局などにいたるまで全て社有であった。また、島民は重労働を強いられた上に収穫されたサトウキビは安く買い叩かれたほか、無許可の離島が禁じられるなど厳しい監視下に置かれていた。一方で、戦前この島を支配していた大日本製糖は「植民地経営上最も貴重なる参考資料なる可し」と自画自賛していた[5][6]。
- 1914年 八丈島系住民と沖縄系住民の対立激化。
- 1919年 大東寺建立。この頃、島内の人口が4,000人を超える。
- 1942年 日本軍駐屯開始。
- 1944年 戦況悪化のため、島民は八丈島や九州、沖縄本島へ強制疎開を命じられる。
- 1945年 2月から6月にかけてアメリカ軍の激しい空爆に晒される。4月1日、大東寺焼失。
- 1946年 沖縄のアメリカ軍政開始により、製糖会社による島の支配から脱する。村制が施行され、南大東村に。人口1,458人。
- 村制施行により大日本製糖の販売店の建物に村庁舎が設置される[7]。
- 1950年 トタン葺ぶき木造の村庁舎建設[7]
- 1960年 鉄筋コンクリート2階建ての村庁舎建設[7]
- 1972年 沖縄返還。
- 1979年 電話がダイヤル自動化。市外局番は09802、市内局番は2。
- 1989年 南大東漁港・山羊鼻地区の整備事業が始まる[8]。
- 1997年 新南大東空港の供用開始[9]。
- 2001年 鉄筋コンクリート2階建ての新・村庁舎が完成[7]
- 2002年 新種のカブトムシ。ヒサマツサイカブトが発見された。
- 2012年 トノサマバッタが島全体で大量発生しサトウキビに被害[10]。
方言[編集]
行政[編集]
1946年、琉球列島米国民政府の統治下に置かれるまでは日本領でありながら特定の自治体に属さず、1900年の玉置半右衛門による入植以降、玉置商会〜東洋製糖〜大日本製糖が島を「所有」し、製糖工場(現在も島の中核産業である)に付属する私設の学校・病院・郵便局まで設置される極めて特殊な自治体制が敷かれていた。
脚注[編集]
- ^ “平成26年全国都道府県市区町村別面積調 島面積 (PDF)”. 国土地理院. p. 108 (2014年10月1日). 2015年3月16日閲覧。
- ^ 南大東島のデータ(沖縄県企画部地域・離島課)
- ^ 沖縄県市町村別最高点一覧
- ^ “島の歴史”. 北大東村. 2016年8月17日閲覧。
- ^ 鎌田慧『ドキュメント・村おこし』筑摩書房、1991年、67-82頁。ISBN 4-480-85599-8。
- ^ 仲里効「〈内国〉植民地の誕生――開拓と植民のインターフェース――」『複数の沖縄 ディアスポラから希望へ』西成彦・原毅彦、人文書院、2003年、85-97頁。ISBN 4-409-24067-6。
- ^ a b c d “役場新庁舎が落成/南大東村”. 琉球新報. (2001年7月27日) 2013年10月23日閲覧。
- ^ “北大東に漁港整備 南大東「分区」で15年開港”. 琉球新報. (2007年12月27日) 2013年10月23日閲覧。
- ^ “県内3空港、供用開始式典日決まる”. 琉球新報. (1997年6月28日) 2013年10月23日閲覧。
- ^ “南大東島でバッタ大量発生 キビの被害拡大”. 琉球新報. (2012年10月5日) 2013年10月23日閲覧。
参考文献[編集]
- 『南大東村誌(改訂)』 南大東村誌編集委員会編、南大東村役場、1990年。
関連項目[編集]
- 南大東村
- だいとう
- 南大東空港
- 大東犬
- 大東糖業南大東事業所の砂糖運搬専用軌道 - 当島内にサトウキビなどを運搬するため1983年まで敷設されていた専用鉄道。営業用ではないものの、2003年に沖縄都市モノレールが開業するまでは戦後の沖縄県で唯一の鉄道であった。
- ケンコー全裸系水泳部ウミショー‐ヒロイン・蜷川あむろの出身地として描かれた。但し、作中では「台東島」と表記された。
- 日本の地理
- 日本の島の一覧
- 神々の深き欲望 - 当地でロケを行った日本映画。
外部リンク[編集]
- 南大東島ホームページ - 南大東村
- 南大東島 沖縄39離島情報サイト
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