硫黄島 (東京都)

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硫黄島
Iwo-to landsat1999.jpg
衛星写真
座標 北緯24度45分29秒
東経141度17分14秒
面積 23.73 km²
海岸線長 約22 km
最高標高 169 m
最高峰 摺鉢山(パイプ山)
所在海域 太平洋フィリピン海
所属国・地域 日本の旗 日本東京都
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硫黄島(東京都)の位置
硫黄島(東京都)の位置
硫黄島の
位置
硫黄島(東京都)の位置
硫黄島遠景(2007年)
摺鉢山遠景(2007年)
地図上の硫黄島
摺鉢山の噴気帯

硫黄島(いおうとう)は、小笠原諸島の南端近くに所在する、東西8 km、南北4 kmのである。

概要[編集]

行政区分上は東京都小笠原村に属し、東京都区部からは、南方におよそ1,200 kmに位置する。島内の最高峰は、摺鉢山(標高169 m)であり、硫黄島は周囲の島々と合わせて火山列島(硫黄列島)と呼ばれる列島を形成している。活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で噴気が有り、噴出する火山ガス(二酸化硫黄等)により特有の臭いが立ち込めている。これが硫黄島の名の由来である。また、歴史的呼称として硫黄島 (いおうじま)の別称もある。 ※名称については後述。

現在は海上自衛隊航空自衛隊基地が置かれており、基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されている。しかし、太平洋戦争大東亜戦争/第二次世界大戦)の激戦地(硫黄島の戦い)として知られ、旧島民らの慰霊などのための上陸は例外として許される。このため小笠原諸島に属しているが小笠原国立公園からは除外されている。

地理[編集]

東京都の小笠原諸島の島で、同諸島の行政府が置かれている父島からは300 km、本州グアム島南鳥島沖縄本島から、それぞれ1,200 kmから1,300 km程度のほぼ等距離に位置する。硫黄島の北方約75kmには北硫黄島、南方約58kmには南硫黄島があり、この三島で火山列島(硫黄列島)を構成する。三島とも同じ造りの海底火山の島であり、その体積富士山を遥かに凌ぐ。2014年(平成26年)の国土地理院による調査で、父島を抜き小笠原諸島で最大の島になっていることが分かった(23.73km2)が、隆起量が大きい事から外洋の荒波による浸食に耐え面積は拡大を続けている[1]

地学的知見[編集]

海底からの比高は2,000m以上で頂上部には直径約10kmのカルデラが形成されているが、カルデラの大半は海面下にあり、釜岩、監獄岩、東側沖の東岩などの岩礁群はカルデラ壁である[2]。島の大半は標高100 m前後の台地状の比較的なだらかな地形であり、島の最南端に位置する最高所(標高169 m)の摺鉢山(パイプ山)はカルデラ外縁の側火山で、その名の通り「すり鉢」を伏せたような形状をしている。

1980年に行われた地磁気観測の結果から、地下2kmよりも浅いところにキュリー温度を超える高温領域(マグマ溜まり?)が有ると推定されている[3]。また、震央から1000km以上離れた地震により硫黄島周辺で微少地震が活発化する現象が、1983年日本海中部地震、1984年九州南東沖の地震、1993年北海道南西沖地震などでの観測例が報告されている[4]

火山[編集]

島内各所から採集した岩石試料の分析からは、活動開始年代およびカルデラ形成年代は明かになっていない[2]が、島北部の北の鼻海岸付近で得られた炭化木片試料の年代測定では、約2800年前頃に活動があったと考えられている。

有史以降の活動[5]

小規模な噴気を除く顕著な活動は、1889年(明治22年)または1890年(明治23年)から記録が残り、水蒸気噴火や海面変色が1922年、1935年、1944年、1957年、1967年、1968年、1969年、1975年、1978年、1980年、1982年、1993年、1994年、1999年、2001年、2004年、2007年、2012年、2013年に記録されている。2012年の活動では、ミリオンダラーホール(噴気孔)から最大100m程度の距離まで泥噴出が観測された。2015年8月7日未明より北の鼻にて噴火。

隆起活動[編集]

数千年前の海底火山の活動で海底に火山砕屑物堆積し、それが隆起して誕生した島である。1911年の測量後の98年間で元山中央部は15m隆起した[2]。島内の隆起速度は均一ではなく、地点によってゆらぎによる変動を伴いながら隆起が続いている[6]過去数百年間の平均で、世界的にも珍しい年間約25 cmもの速度[要出典]で、現在も急速な隆起活動が続いているが、隆起量の割りに有感地震活動は少ない[7]。島西方にある釜岩はかつては一つの独立した島でトンボロを形成していたが、1950年代から1960年代の急激な隆起活動により現在は硫黄島と地続きとなっている[6]。なお、笠原稔、江原幸雄(1985)らの解析による隆起モデルでは、隆起の圧力源を鳥ケ原の下 1-2kmと北東海岸 1km沖の下3-4kmに2つの衝上型を配置すると、1952年から1968年の活動を最も良く解説できる[7]としている。

歴史[編集]

戦前[編集]

島北部には元山部落、東部落、西部落、南部落、北部落、千鳥部落の6つの集落があり、元山部落には硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心となっていた。また、島には父島から派遣された警察官1名が駐在していた。島南部は海軍省によって要塞地帯に指定され、一般島民の立ち入りが制限されていた。

当時の島内の産業は、硫黄採取鉱業、サトウキビコカレモングラス等の栽培農業、近海沿岸漁業等で、これらの産業は硫黄島産業株式会社が取り仕切っており、島民の大半は同社に直接、間接的につながっていた。島内での穀物生産は困難のため、本土からの移入に頼っていた。麻薬(医療用)使用目的としてのコカ栽培は、アジアではここと台湾だけであった。

当時の島民の証言によれば、「きちんと稼げていた」とのことであり、絶海の孤島ではあったが、島民の経済状態は悪くなかったようである。

島外との交通手段は、月1回の郵便船で母島へ渡り、そこから船で東京へ向かうルートと、2か月に1度の日本郵船(1935年1月8日に子会社の近海郵船に移管後、1939年9月8日で近海郵船が日本郵船に併合の為に再移管)の定期船「芝園丸」で東京へ直行するルートがあった。

戦後[編集]

コンクリート船の残骸と米海軍のLCAC

戦後、米国より施政権返還後の硫黄島は、海上自衛隊管理の航空基地が設置され、島内全域がその基地の敷地とされているため、原則として基地に勤務する自衛隊員以外は島に立ち入ることが禁止されている。ただし必要に応じて、飛行場等の整備・改修工事を行う防衛省北関東防衛局職員及び建設業者等の作業員並びに遺骨帰還事業を行う厚生労働省職員等の立ち入りが許可される。本島は潮風や硫黄による腐食が激しいため、基地施設等の補修が常時行われており、作業に従事するこの建設業者の住宅施設が存在する。また、海上自衛隊が火山観測を行なっており、国土地理院気象庁の職員も定期的に観測のために来島している[6]。1970年代後半には防災科学技術研究所の観測点が設置され、以降地震観測が継続されている[4][8]

火山活動による隆起が非常に激しいため、硫黄島にを築港することができず、船積みのボートが着けられる程度の小さな波止場(桟橋)しか存在しない。その関係で大型船舶は少し沖合いに停泊せざるを得ず、航空機で運べないような重量物は、おおすみ型輸送艦を使い、艦載のLCACで海岸から少し内陸のところにある揚陸施設に揚陸させる。航空燃料軽油などは、沖合いに停泊した民間タンカーから、揚陸施設へと長大ホースを伸ばして補給を行う。硫黄島への宅配便郵便物は通常の硫黄島の住所を記載しても届かない(日本郵便においても「交通困難地」とされている[9])。隊員の家族の仕送りや外部から業務用の資材や郵便物などは、自衛隊が指定した基地へ一括搬入することになる。

島の西側に見える船の残骸は、島を占領した米軍が防波堤とするために1945年に擱座させたコンクリート船が台風で破壊されたものとされている[10][11]。うち、LCAC揚陸場近くの一隻は小型船の桟橋として利用されていた[12][13]。また、現在も島の地下には1万3千柱を超える戦死者の遺骨とともに、無数の不発弾が残され、この回収も困難な状況である。不発弾爆発の危険性等から、自衛隊員でも立ち入りが禁じられている地域も存在する。

大戦中に破壊された大砲や戦車の残骸、飛行場跡、地下壕跡、トーチカ跡等の戦争の痕跡が現在も数多く残っており、硫黄島の戦いで戦った兵士を慰霊、顕彰する施設・碑、かつて旧島民が暮らしていた集落墓地があったことを偲び、慰霊する施設・碑も数多く設置されている。

戦没者の遺骨帰還事業[編集]

引き続き硫黄島の戦いによる日本人戦没者の遺骨を収容、本土へ帰還させる課題が残されている。本土へ帰還した遺骨は現時点で約8千柱で、1万3千柱余りの遺骨は未だ硫黄島内地下に埋もれ残されたままである[14]。予算確保の問題と作業員人員確保の問題、埋葬地等の特定作業、既述した通り無数に埋まる不発弾へ対処、噴出する高温・有毒な硫黄ガスへの対処等で、その収容作業は困難を極める作業となっている。

これまでの収容作業は、主に硫黄島協会や戦没者遺族等のNPO法人ボランティア等の手で行われていたが、2010年度国家予算では滑走路部分の遺骨収容のための予算が初めて1億円を超えて計上され、2010年8月10日には菅直人首相の指示により、政府による「硫黄島からの遺骨帰還のための特命チーム」が設置された。今後はこれまでの遺族、関係者の証言等に加え、米国での資料調査により情報収集を行い、収容作業におけるNPO法人やボランティアからの協力の拡充、自衛隊との協力体制の拡充をし、自衛隊基地施設下をも含む全島における面的調査を強化することとしている。また、遺族者等の慰霊等のための渡航機会の拡充、インターネット等を活用した遺留品の公開を実施して戦争の悲惨さを広く知らしめるとともに、将来は硫黄島以外の戦域での遺骨帰還作業実施も予定されている。

なお、硫黄島で戦死した米軍兵の遺体の大半は、硫黄島の戦い後暫くは摺鉢山山麓を中心に墓地を造成し、柩一台一台の上に十字架を立てて手厚く埋葬されたが、現在は全てが米国本土へと帰還を果たしている。

旧島民の帰島問題[編集]

既述した通り、原則として基地に勤務する自衛隊員及び建設業者等の関係者以外の上陸は禁止されているが、戦没者の慰霊祭が現地で開催される際等には、旧島民や遺族、それに戦没者の遺族等の上陸が許可されている。

慰霊祭のときは、小笠原諸島父島から、小笠原海運貨客船おがさわら丸」で島へ向かい、船積みの小型ボートで島に上陸するか、航空自衛隊機を使用して来島することになる。また、遺族からの要望で2007年3月6日の慰霊訪問以降は、民間旅客機によるチャーター便が運航されることになった。2007年の訪問では、JALMD-90型旅客機を運用してチャーター便運航を実施したが、燃料補給が不可能なことから燃料を往復分積みこんだため、110名前後しか搭乗できなかった。

現在、一部の旧島民および遺族は日本政府に対して基地敷地の一部返還と帰島を求めているが、政府ならびに防衛省はこの要望に反応を示していない。このため、未だ島民の帰島は実現していない。映画『硫黄島からの手紙』の一部シーンは島内で撮影されたが、これはアメリカ国防総省から防衛庁(当時)を通しての東京都の特別許可によるものである。

沿革[編集]

  • 1543年、ベルナルド・デ・ラ・トーレ (Bernardo de la Torre) 船長スペイン船サン・ファン・デ・レトラン (San Juan de Letran) が発見した。
  • 1779年にはジェームズ・クック率いるレゾリューションおよびディスカヴァリーにより、サルファーアイランドと命名された。
  • 1887年東京府による探査が行われた。
  • 1889年6月、父島の住民田中栄次郎が、父島で建造した帆船南洋丸にて十余名とともに、鮫漁と硫黄採取を目的として入植し、硫黄島の開拓が開始された。(記録に残る初めての日本人の入植)
  • 1891年9月9日勅令により日本領土に編入。島名を「硫黄島」とし、東京府小笠原島庁所属とする[15]
  • 1892年、本格的に硫黄採掘事業が開始された。
  • 1940年4月、普通町村制に移行。当時の人口は1,051人。硫黄島村は1952年サンフランシスコ講和条約米国領となるまで続いた。(なお、戦前の硫黄島は京橋区だったとする資料があるが、誤りである。)
  • 1943年6月、島内調査を実施。硫黄島村の人口は192戸1,018人(男533人、女485人)。
  • 1944年大本営マリアナ諸島の防備強化と合わせて小笠原諸島の防備強化を開始し、陸軍部隊(「伊支隊」指揮官:厚地兼彦大佐、4,883名)と海軍部隊(「硫黄島警備隊」指揮官:和智恒蔵中佐、1,362名)が硫黄島に進出した。この段階では島民も在島していたが、陸海軍部隊は上記要塞地帯に指定された島南部に展開したため、少数の島民が部隊に行商に出かけるほかは、部隊と島民の接触は少なかった。
  • 1944年5月22日参謀本部は、小笠原防備をさらに増強することを目的として第109師団を創設。栗林忠道中将を師団長に任命し、栗林中将は6月8日に硫黄島に着任した。
  • 1944年6月15日アメリカ軍サイパン島上陸とあわせて硫黄島を空襲。翌日の空襲と合わせて島内の各部落はほぼ焼失した。
  • 1944年6月下旬、その後も空襲と艦砲射撃が続いたため、島民に対しては父島経由で内地へ疎開する命令が内示され、3回(7月1日7月12日7月14日)に分けて島民の疎開が行われた。軍に軍属として徴用された者(約230名)を除く全島民が硫黄島を離れ、島民が生活を営んだ硫黄島村の歴史は幕を閉じた。
  • 1945年2月から3月にかけて行われた硫黄島の戦いで、日本軍が2万129人が戦死し、米軍は2万8686人の戦死傷者(戦死6,821名・戦傷2万1865名)を出す大激戦が繰り広げられた。そして3月17日、硫黄島は米軍に占領された。摺鉢山に米軍海兵隊によって星条旗を掲げる際に撮った写真は、米バージニア州アーリントン国立墓地(米国の戦没者専用墓地)にある「合衆国海兵隊記念碑」のモデルにもなっている。
  • 終戦後、島はアメリカ合衆国の施政権のもとにおかれ、1960年代までアメリカ空軍基地として核兵器保管などに用いられた。
  • 1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還されたが[16]、硫黄島村ではなく、小笠原村[17]字硫黄島という扱いとなる。
  • 1976年、常時地震観測開始[7]
  • 1985年2月19日、硫黄島の米軍上陸40年目に当たる日に、「名誉の再会」と呼ばれる行事が行われた。参加したのは硫黄島戦に参加した両軍の兵士、場所は米軍が上陸した二ッ根浜である。会場中央には両面に文が刻まれた石碑が建てられ、和文が刻まれた山側には日本人参加者が、英文が刻まれた海岸側には米国人参加者が整列した。除幕と献花が行われたあと、参加者たちは碑に向かって歩み寄り、握手・抱擁を交わし合った。その後、1995年3月には50周年記念、2000年3月には55周年の日米合同慰霊祭がこの碑の前で行われている。
  • 1994年2月12日、天皇皇后両陛下が慰霊のため来島。
  • 2005年6月19日小泉純一郎内閣総理大臣が、現職首相として初めて来島。
  • 2009年7月22日の日食では、鹿児島県トカラ列島悪石島奄美群島奄美大島など天候悪化により観測が難しかったが、硫黄島では天候良好で超高速インターネット衛星きずなを通じた映像中継を実施された。なお、船により硫黄島周辺に滞在しての日食ツアーも開催された。
  • 2013年4月14日安倍晋三内閣総理大臣が政府主催の戦没者追悼式に出席するために訪島した[18][19]
  • 2015年3月21日、日米合同慰霊追悼式。硫黄島協会と米国退役軍人らの団体の共催。出席者日米計約550人。塩崎厚生労働大臣中谷防衛大臣閣僚として初参列[20]

硫黄島航空基地[編集]

管制塔

硫黄島航空基地(いおうとうこうくうきち)は、海上自衛隊が管理する飛行場で、海上自衛隊は航空管制及び基地の施設管理等のために硫黄島航空基地隊(航空集団第4航空群)を、救難及び小笠原諸島等の急患輸送のために73航空隊硫黄島分遣隊(航空集団第21航空群)を置いている。航空自衛隊は訓練機の飛行統制や後方支援のために硫黄島基地隊(中部航空方面隊)を置いており、実験機や戦闘機の訓練基地として使用している。航空自衛隊における名称は硫黄島分屯基地(いおうとうぶんとんきち)。入間基地の分屯基地という扱いとされている。陸上自衛隊は太平洋戦争により、島に残された不発弾を処理する人員数名を派遣している。基地にある滑走路は2650×60の1本のみだが、2650×30の平行誘導路が、トラブルによる主滑走路閉鎖時に離着陸の可能な緊急滑走路として整備されている。

自衛隊員等が常駐していることから硫黄島は有人島となっているが、所在する海上自衛隊員は神奈川県綾瀬市、航空自衛隊員は埼玉県狭山市にそれぞれ住民登録しており、硫黄島のある東京都小笠原村ではない。周囲に有人島が存在しないため、硫黄島通信所にてアメリカ海軍空母艦載機による艦載機離着陸訓練 (FCLP; Field Carrier Landing Practice) および夜間離着陸訓練 (NLP; Night Landing Practice)(タッチアンドゴー)が行われているほか、航空自衛隊の各種実験飛行や戦闘機の移動訓練といった、日本本土では実施が難易な用途にも使用できる貴重な拠点であるほか、国内で唯一、陸・海・空の3自衛隊の統合的作戦演習が可能な場所でもある。なお、防衛大学校および防衛医科大学校の学生等が本島を見学する場合は、航空自衛隊のC-1またはC-130を利用する。

島は東京とグアム島を結ぶ民間航空路下に存在することから民間機を含む緊急避難用としても用いられており、自衛隊専用飛行場にもかかわらず国際航空運送協会3レターコードが設定されている。実際に、2003年3月30日にはグアム仙台行きのコンチネンタル航空931便(ボーイング737)がエンジン片方停止により、2014年11月9日には関西国際空港グアム行きのデルタ航空294便(ボーイング757-200)が左エンジンの不具合によりそれぞれ緊急着陸している。

戦没者慰霊訪問の為のチャーター機が羽田空港から、若しくはグアム国際空港から飛ぶことがある。また、小笠原諸島から本土への患者緊急搬送時には、当該基地で海上自衛隊のUH-60Jヘリコプターから海上自衛隊・航空自衛隊または海上保安庁の輸送機へと乗り換え搬送を実施する場合がある。

通信[編集]

郵便番号小笠原村内で父島母島以外に振られた共通番号である「100-2100」である[21][22]

ただし、全域が基地に指定されていて一般住民が存在しない特殊性から、日本郵便は「交通困難地」に指定しており[9]ため、この島への郵便物や荷物宅配便は通常の硫黄島の住所を記載しても届かない(他社も同じ)。物資や郵便物は海上自衛隊の場合は厚木航空基地[21]、航空自衛隊の場合は入間基地[22]気付として送付し、そこからは自衛隊内部での搬入扱いとなる。

固定電話は引かれており、自衛隊基地の外線1回線が公開されている[21][22]。これによると、硫黄島の市外局番は04998、市内局番は4、加入者番号は1xxxである。まず、市外局番04998は小笠原MAの局番であり、MAのエリア内と重なる小笠原村内であれば市内通話扱いとなる。ただし、収容局は隣接する父島でも母島でもなく、東京本土にある「新立川」である[23]。ここには航空自衛隊立川分屯基地陸上自衛隊立川駐屯地がある。次に、市内局番4が硫黄島に割り当てられた番号であり、ここからが村内の父島 (2) や母島 (3) とは別となる。

電気通信事業者が提供する移動体通信(主に電話)のうち、携帯電話については島内に基地局は存在しない(2013年現在)ほか周辺からの電波も届かないためサービスエリア外となっており、移動体通信(同)は衛星電話に限られる。

2013年8月に携帯電話基地局の調査および設置工事に関する業者募集が行われた[24]際には、ソフトバンクモバイルが応札している[25]

移動体通信ではない通信として、アマチュア無線局が運用されることがある。

島名について[編集]

島名は、島の至るところで見られる成分の硫黄に由来する。

硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう」、海軍の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていた。アメリカ合衆国ではこの海図の表記に従い「Iwo Jima(イオージマ)」とし、終戦後、同島は米軍の統治下にあったことから「Iwo Jima」と呼称されていた。1968年に同島の施政権が日本国に返還された際に国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」に戻されたが、1982年の地形図改訂の際に小笠原村は同島の呼称を「いおうじま」と東京都に報告、都ではこれに基づき「いおうじま」と公報したため、地形図においても「いおうじま」と呼称されるようになった。各報道機関でも同島を「いおうじま」と報道したことにより、2007年までは「いおうじま」と呼ばれることが多かった。

硫黄島の呼称を「いおうとう」に統一するようにという要望は、旧島民およびその子孫などの間から古くからあった。この要望に応え、2007年3月に小笠原村議会では、第1回議会定例会の最終日に、同島の呼称を「いおうとう」に統一する「硫黄島の呼称に関する決議案」を提出し採択された。これにより、小笠原村は地名の修正を国土地理院へ要望した[26]

2007年6月18日、国土地理院および海上保安庁海洋情報部海図の作成を担当[27])にて構成される「地名等の統一に関する連絡協議会」は「硫黄島」の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」に変更する同日協議された結果を発表した[26]。また、併せて北硫黄島は「きたいおうとう」に、南硫黄島は「みなみいおうとう」にそれぞれ変更された[26]。これにより火山(硫黄)列島の三島とも「島」の公式呼称はこれまでの「じま」から「とう」となった。国土地理院では、2007年9月発行の地形図から、ついで海上保安庁の発行する海図でも「いおうとう」が正式な表記となっている。

この変更直前まで国土地理院、海上保安庁の他、日本放送協会 (NHK) でも「いおうじま」としていたが、小笠原村役場と『日本の島ガイドSHIMADAS』を発行する財団法人日本離島センターでは「いおうとう」としていた。

アメリカ合衆国の資料においても、一部はこの変更に追従して「Iwo To(イオートー)」と改められており、JTWCの台風進路予想図などはその一例である。一方、「Iwo Jima(イオージマ)」は第二次世界大戦中最大の激戦だった記念地としてアメリカ合衆国でも特に有名であることから、この名称に特別な感情をもつ者もアメリカ海兵隊の関係者を中心に多くおり、退役軍人組織のひとつである「ベテランズ・オブ・フォーリン・ウォーズ」はこの変更に不快感を示した。なお、実際に改名反対の声明を出した団体もあるという[28]。なお、2006年にアメリカ合衆国で制作された映画「硫黄島からの手紙」の読みは「いおうじまからのてがみ (Letters from Iwo Jima)」である。

舞台となった主な作品[編集]

前述のとおり激戦地となったことから、小説や映画など多くの作品で採りあげられている。

  • 硫黄島の砂』 - 1949年に公開されたアメリカ映画。硫黄島の星条旗を主なテーマとしている。
  • 硫黄島』 - 1959年に公開された日本の映画。原作は菊村到の同名小説。
  • 硫黄島プロジェクト(硫黄島の戦いを日米双方の視点から描く。)

注釈[編集]

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脚注[編集]

  1. ^ 重村利幸(1996) 硫黄島の面積の長期変動 地学雑誌 Vol.105 (1996) No.4 P448-458
  2. ^ a b c 長井雅史、小林哲夫:小笠原硫黄島の火山形成史 地学雑誌 Vol.124 (2015) No.1 p.65-99
  3. ^ 大島章一ほか 硫黄島の地磁気異常分布 地学雑誌 Vol.94 (1985-1986) No.6 P502-515
  4. ^ a b 鵜川元雄、藤田英輔、熊谷貞治:遠地地震により遠隔誘発された硫黄島火山の微小地震活動 地学雑誌 Vol.111 (2002) No.2 P277-286
  5. ^ 硫黄島 有史以降の火山活動 気象庁
  6. ^ a b c 基準点測量で捉えられた硫黄島の地殻変動 国土地理院時報(2009),119 (PDF)
  7. ^ a b c 笠原稔、江原幸雄:硫黄島における臨時地震観測と常時微動 (付隆起モデル) 地学雑誌 Vol.94 (1985-1986) No.6 P464-473
  8. ^ 火山活動連続観測網 硫黄島 防災科学技術研究所
  9. ^ a b 交通困難地・速達取扱地域外一覧 (PDF) - 日本郵便
  10. ^ U.S. Embassy Tokyo Blog - 硫黄島の記憶――今日の深まる絆
  11. ^ Beachead Cargo, Iwo Jima, Arvin S. Gibson, Staff Sergeant, U.S. Army, Transportation Corps, Hq. and Hq. Co., AGF, APO 86
  12. ^ 硫黄島 : ぷらぷらカメラ ひトリ歩き
  13. ^ Photos from Iwo Jima « Hot Air
  14. ^ 硫黄島からの遺骨帰還プランに基づく平成23年度の取り組み状況 (PDF) 首相官邸
  15. ^ 明治24年勅令第190号(島嶼所属名称、明治24年9月10日付官報所収)
  16. ^ 1968年(昭和43年)6月12日条約第8号「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定
  17. ^ 1968年(昭和43年)6月1日法律第83号「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律
  18. ^ 首相が硫黄島と父島訪問…遺骨収容加速の考え 読売新聞 2013年4月14日
  19. ^ 安倍首相、硫黄島を訪問 遺骨回収「着実に進める」 朝日新聞 2013年4月14日
  20. ^ 読売新聞2015年3月22日夕刊13S版39面
  21. ^ a b c 海上自衛隊 部隊所在地一覧”. 朝雲新聞社. 2013年10月27日閲覧。
  22. ^ a b c 航空自衛隊 部隊所在地一覧”. 朝雲新聞社. 2013年10月27日閲覧。
  23. ^ 収容局毎のカバーエリア”. NTT東日本. 2013年10月27日閲覧。
  24. ^ 海上自衛隊硫黄島航空基地における携帯電話サービスのための携帯電話基地局の設置事前調査及び設置工事に関する業者の募集について”. 防衛省. 2015年5月6日閲覧。
  25. ^ 激戦地で絶海の孤島、硫黄島で携帯が使えるように”. 防衛省. 2015年5月6日閲覧。
  26. ^ a b c 国土地理院 2007.
  27. ^ 海上保安庁 2011.
  28. ^ 「「イオウジマを返せ」「歴史書き換えだ」硫黄島の呼称変更でアメリカ激怒」産経新聞 2007年6月22日

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 硫黄島 - 東京都小笠原村
  • 硫黄島(海域火山データベース) - 海上保安庁海洋情報部