隠岐 (海防艦)

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隠岐
終末公試のため浦賀を出港する隠岐 (1943年3月25日、東京湾)
終末公試のため浦賀を出港する隠岐
1943年3月25日東京湾
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
Flag of Japan.svg 第二復員省/復員庁
Flag of the Republic of China.svg 中華民国海軍
Naval Ensign of China.svg 中国人民解放軍海軍
艦種 海防艦(日本海軍)
特別輸送艦(第二復員省/復員庁)
布雷艇(中国人民解放軍海軍)
級名 占守型海防艦
建造費 5,112,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル急計画
起工 1942年2月27日
進水 1942年10月20日
竣工 1943年3月28日
除籍 1945年11月20日(日本海軍)
1947年8月29日(復員庁)
1982年(中国人民解放軍海軍)
要目(竣工時)
基準排水量 870トン
全長 77.70m
最大幅 9.10m
吃水 3.05m
主機 艦本式22号10型ディーゼルx2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.7ノット
燃料 重油200トン
航続距離 16ノットで8,000海里
乗員 定員146名[注釈 1]
兵装 三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x36個
最終時[1]
三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x5基、単装x10基
13mm単装機銃x3基
三式爆雷投射機x4基
搭載艇 短艇x4隻
ソナー 九三式水中聴音機x1基
九三式水中探信儀x1基
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隠岐(おき)は、日本海軍海防艦[2]。普遍的には択捉型海防艦の4番艦とされているが、海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の8番艦。

概要[編集]

海防艦隠岐(おき)は、日本海軍が浦賀船渠で建造した甲型海防艦1943年(昭和18年)3月28日に竣工すると第二海上護衛隊に編入され[2]、横須賀~トラック泊地間の船団護衛任務に従事した[3]1944年(昭和19年)7月上旬のサイパン島玉砕により第二海上護衛隊が解隊されると、横須賀鎮守府部隊に所属して小笠原諸島方面の船団護衛任務に従事した[3]。 11月21日、米潜水艦の雷撃をうけて損傷し、1945年(昭和20年)3月まで横須賀で修理をおこなった[3]。 3月5日、第一護衛艦隊の第103戦隊に編入され[2]、黄海~朝鮮半島方面で護衛任務に従事した[3]太平洋戦争を生き延びて、戦後は復員輸送に従事した[3]賠償艦として中華民国に引き渡されたが、国共内戦中国人民解放軍の手に落ち、その後中国人民解放軍海軍に所属して、1982年まで現役だった。

艦歴[編集]

計画-竣工[編集]

マル急計画の海防艦甲型、第310号艦型の4番艦、仮称艦名第313号艦として計画。1942年2月27日浦賀船渠で建造番号512番船として起工。8月20日、「隠岐」と命名。本籍を佐世保鎮守府と仮定され、占守型海防艦の8番艦に定められる。10月20日、進水。

1943年(昭和18年)3月28日、隠岐は竣工した[3]。本籍を佐世保鎮守府に定められる[3]第四艦隊第二海上護衛隊に編入される[3]。軍隊区分においては内南洋方面部隊護衛部隊に配される。

1943年-1944年3月 トラック方面護衛[編集]

1943年(昭和18年)4月20日、トラック行き船団を護衛し、横須賀を出発した[3]。30日、トラック泊地に到着する[3]。以後、1944年3月までトラック-横須賀間の護衛に従事。

8月27日、4827船団(海軍徴傭船田子の浦丸、同日威丸[注釈 2])を護衛しトラック発。9月3日、三宅島南東60km、北緯33度43分 東経140度00分 / 北緯33.717度 東経140.000度 / 33.717; 140.000の地点で田子の浦丸が被雷沈没したため、田子の浦丸の生存者を隠岐に移乗させる。9月4日、横須賀着。以降の9月中の行動は不明。

11月2日、駆逐艦(第6駆逐隊)とともに4102船団(特設運送船衣笠丸)を護衛しトラック発。5日、海軍徴傭船日吉丸が船団に合流したところで船団を2つに分かち、隠岐は衣笠丸を、雷は日吉丸をそれぞれ護衛し各々横須賀へ向かう。8日、横須賀着。14日、3115船団(3隻[注釈 3]+雪風[注釈 4])を護衛し横須賀を出発する。 隠岐が航海中の11月15日、日本海軍は海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)を新編する。第二海上護衛隊も、海上護衛総司令部隷下となった。19日、船団指揮官より敵潜水艦撃滅の命令が下り、隠岐は対潜戦闘を行う[4]北緯22度15分 東経148度20分 / 北緯22.250度 東経148.333度 / 22.250; 148.333の地点で爆雷戦を行い爆雷22個消耗。魚雷3本を撃ちこまれたが、回避したという[5]。23日、トラック着。25日、4125船団(特設運送船玉島丸)を護衛しトラック発。12月10日、横須賀着。

12月11日、3211甲船団(特設運送船御嶽山丸、同筥崎丸)を護衛し横須賀発。道中で筥崎丸が落伍したため、御嶽山丸を引き続き護衛し、20日トラック着。21日0518時、駆逐艦天霧(第11駆逐隊)が護衛していた特設運送船照川丸が米潜水艦(スケート)の魚雷攻撃を受けて航行不能となる[6]。 第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将を指揮官とする照川丸救難隊[7](軽巡〈能代〉、駆逐艦〈浜風[8]〉)が編成され、トラック泊地を出撃する[9]。 また対潜掃蕩のため駆逐艦満潮(第24駆逐隊)が第二海上護衛隊の指揮下に入る[10]。トラックに在泊していた隠岐は1200時にトラックを発し対潜掃蕩に向かう[注釈 5]。隠岐は満潮駆逐艦長(原口曻中佐)の指揮下に入り[10]、掃蕩隊(満潮、天霧、隠岐)として行動した[9]。 2020時、照川丸は沈没した[6][9]。 2100時、現場に到着して対潜掃蕩開始。掃蕩隊(満潮、隠岐など)は照川丸沈没後も掃蕩をおこなうが手掛かりを得られず、23日になって対潜掃蕩を打ち切った(満潮は第二海上護衛隊の指揮下を離れ、トラックへ帰投)[10]。隠岐は落伍していた3211甲船団筥崎丸の護衛に向かう。24日、筥崎丸を伴いトラック着。27日、第46号哨戒艇とともに4227船団(特設運送船興業丸)を護衛しトラック発。30日、北緯16度25分 東経146度00分 / 北緯16.417度 東経146.000度 / 16.417; 146.000の地点で潜水艦を探知し爆雷戦を行う。1月5日、横須賀着。ここで杉山(隠岐海防艦長)は駆逐艦皐月艦長に転任した[11]

1944年(昭和19年)1月20日、3120船団(4隻[注釈 6])を護衛し横須賀発。2月4日、トラック着。13日、4212船団(4隻[注釈 7])を満珠第31号駆潜艇と護衛しトラック発。27日、横須賀着。

3月1日、3301甲船団(3隻[注釈 8])を満珠とともに護衛し横須賀発。3月4日、父島二見港に寄港して特設掃海艇第八拓南丸を護衛に加える。5日、3301甲船団は東松一号甲船団の指定を受ける。同日、父島発。12日、トラック着。17日、筑紫丸船団(4隻[注釈 9])を護衛しトラック発。24日、サイパンに一旦寄港し、横須賀に向け同日出港。27日、横須賀着。3月から5月までの間に横須賀防備戦隊作戦指揮下、軍隊区分戊直接護衛部隊に編入されたが、日付は不明。

1944年4月-5月 東松船団護衛[編集]

1944年3月31日、横浜に回航し東松四号船団(26隻)護衛部隊と合流。

4月1日1000時、択捉型海防艦天草第2号海防艦とともに、船団の前路掃蕩のため船団本隊より1時間早く木更津を出発し、船団が浦賀東水道を出たところで船団に合流した。3日、陸軍徴傭船東征丸が被雷沈没したため、駆逐艦朝凪、天草とともに現場に残り対潜制圧に従事。4日船団に合同したが、船団前方に潜水艦を探知したため爆雷戦を行う。6日、機関故障のため一時船団から落伍。8日、潜望鏡を発見し爆雷戦を行う。当初隠岐はパラオ行き船団の護衛に割り当てられていたが、ここまでの度重なる爆雷戦により爆雷の残量が少なくなったため、サイパン止船団の護衛に変更。隠岐の代わりとして第3号海防艦がサイパン止船団の護衛からパラオ行き船団の護衛に割り当てられた。9日、海軍徴傭船美作丸が被雷した際の爆雷戦で朝凪が爆雷を使い果たしたため、隠岐と朝凪が船団を嚮導してサイパンへ向かい、2400時サイパン着。入港後爆雷を補給して遭難地点へ向かい、11日まで対潜掃蕩に従事。15日、東松四号復航船団(8隻[注釈 10])を護衛しサイパン発。同日、潜水艦を探知し爆雷戦を行う。20日、舵故障のため落伍した白峰丸を護衛するため一時船団から離れる。同日、爆雷戦を行う。23日、船団は機関故障のため父島に回航した加古川丸と同船に同行した護衛艦艇2隻を除き、船団は東京に、護衛艦艇は横須賀にそれぞれ到着。

5月4日、3503船団(14隻)を護衛し館山発。14日、テニアン島西方北緯14度57分 東経144度58分 / 北緯14.950度 東経144.967度 / 14.950; 144.967の地点でサイパン行き船団と分かれ、2隻(黄浦丸、海軍徴傭船春川丸)を隠岐、、特設駆潜艇第八昭南丸で護衛しグアムへ向かう。同日、北緯13度43分 東経144度42分 / 北緯13.717度 東経144.700度 / 13.717; 144.700の地点で黄浦丸が被雷沈没したため爆雷戦と遭難者の救助を行う。5月20日、東松八号復航船団(3隻[注釈 11])を護衛しサイパン発。26日、東京着。

1944年6月-11月 父島方面護衛[編集]

1944年6月6日、3606船団(13隻[注釈 12])を護衛し横浜発。7日、杉山丸が被雷したため対潜制圧を行う。8日、神鹿丸を八丈島まで護衛。9日、八丈島で3609船団部隊に合同し父島へ向かう。14日、美保丸船団(4隻[注釈 13])を護衛し父島発。17日、東京湾に到着し、隠岐は戊直接護衛部隊編入を解かれ甲直接護衛部隊に編入。

7月3日、3701船団(7隻[注釈 14])を護衛し館山発。4日、八丈島着。6日、船団(4隻[注釈 15])を護衛し八丈島発。8日、父島着。10日、4710船団(5隻[注釈 16])を護衛し父島発。14日、横須賀着。

同年7月上旬、サイパン島地上戦における日本軍守備隊玉砕時に第二海上護衛隊司令部は全滅し、7月18日附で第二海上護衛隊は解隊された[3]。隠岐は横須賀鎮守府横須賀防備戦隊に編入される[3]。役務を佐世保鎮守府警備海防艦に定められる。22日、3720船団(芝園丸、第一南洋丸[注釈 17])を護衛し館山発。26日、父島着。29日、4729船団(芝園丸、陸軍徴傭船第四東海丸)を護衛し父島発。8月2日、横須賀着。

8月10日、第105号特設輸送艦を護衛し横須賀発。13日、父島着。同日、4813船団(特設運送船九州丸、第一南陽丸)を護衛し父島発。16日、横須賀着。19日から9月1日まで横須賀海軍工廠で修理を行う。

9月5日、3901船団(特設運送船九州丸)を護衛し館山発。6日、八丈島着。7日、3901船団を護衛し八丈島発。10日父島着。11日、4910乙船団(八祥丸)を千鳥と護衛し父島発。同日、父島よりの方位280度130カイリの地点でB-24爆撃機3機の空襲を受け八祥丸が航行不能となったため、乗員と便乗者を救助のうえ同船を砲撃により処分。13日、横須賀着。21日、3920船団(い号米山丸、特設捕獲網艇興海丸)を護衛し館山発。26日、父島着。同日、4926船団(特設運送船い号壽山丸)を護衛し父島発。30日、横須賀着。

10月11日、3009船団(睦月丸)を第51号駆潜艇と護衛し横須賀発。16日、父島着。19日、4019船団(昭東丸)を護衛し父島発。23日、横須賀に到着し横須賀海軍工廠で訓令による兵器換装工事を行う。11月8日、工事終了。

11月13日、3111船団[注釈 18](如月丸、特設運送船北開丸)を護衛し館山発。16日、聟島列島北之島よりの方位5度、80カイリの地点で如月丸がアメリカ潜水艦スキャバードフィッシュの攻撃を受け被雷沈没したため、如月丸の乗員33名を救助。如月丸の乗員を救助後に空襲を受けたが被害無し。17日、母島着。18日、4118船団(特設運送船九州丸、同北開丸)を護衛し母島発。21日、船団は八丈島よりの方位82度、110カイリの地点で再度スキャバードフィッシュの攻撃を受ける。隠岐は艦前部に被雷して艦橋より前の艦首を切断した[12]。北開丸は沈没した。隠岐の救援のため、鳥島沖で対潜掃討中の第4号海防艦第12号海防艦らが派遣される。隠岐は被雷後漂流し消息不明となっていたが、22日に館山海軍航空隊の捜索機により発見され、23日には別任務で出撃していた掃蕩隊の第56号海防艦に発見された。同日、救援のため派遣された海防艦らとも会合し、隠岐は第12号海防艦に曳航されて第4号海防艦らの護衛を受け、25日横須賀着。横須賀海軍工廠に入渠し1945年3月まで復旧修理を行う。修理の際、隠岐の艦首は直線を多用した簡易なものに作り替えられた。

1945年 対馬海峡-黄海[編集]

横須賀海軍工廠で修理中の1945年2月26日、鎮海警備府作戦指揮下に編入。3月5日、第一護衛艦隊麾下の第百三戦隊に編入された[3]。9日、館山発。11日に徳山の第三海軍燃料廠で燃料を補給し、12日門司着。13日、鎮海に到着したがヒ94船団東亜丸)護衛のため鎮海を出港。同船団を対馬北方まで護衛し、護衛後の15日、荷衣島に回航し戦隊旗艦春月と合流。20日、荷衣島を出港しジャカルタ丸を東経133度線まで護衛。21日、シモ01船団を護衛し黒山島沖で対潜掃蕩中の鵜来の増援に向かう。25日まで現地で掃蕩を行い、哨区に向かう。26日、北緯35度18分 東経123度15分 / 北緯35.300度 東経123.250度 / 35.300; 123.250付近でアメリカ潜水艦バラオの攻撃により第一新東丸が撃沈されたため、第19号駆潜艇とともに現場へ向かい対潜掃蕩を行う。28日、北緯34度50分 東経122度28分 / 北緯34.833度 東経122.467度 / 34.833; 122.467付近で浮上潜水艦の発見報告があり、現場へ向かい対潜掃蕩を行うが敵情を得ず、対潜掃蕩を31日で打ち切り荷衣島に帰投。

4月上旬は木浦周辺で対潜掃蕩に従事。4月14日、第二十号掃海艇とともに青島へ回航のため木浦発。19日、青島を出港してモ705船団第1分団を大東湾まで護衛。20日、モ705船団第2分団(8隻)を護衛するため大東湾発。21日に同分団と合同し、25日荷衣島着。第百三戦隊司令官は将旗を春月から隠岐に移揚し、同日船団(5隻)を護衛して荷衣島発。27日鎮海着。

6月2日、フタ01船団(彌彦丸)を護衛し釜山発。船団が荷衣島に仮泊したところで隠岐は船団から分離。20日、タフ船団(5隻[注釈 19])を護衛し青島発。7月1日、長山串北緯38度06分 東経124度36分 / 北緯38.100度 東経124.600度 / 38.100; 124.600の地点でアメリカ潜水艦ハッドの攻撃を受け第一大雲丸、坤利号、新蜜紹号、第72号海防艦が被雷沈没。隠岐は爆雷戦と遭難者の救助を行い、残された船を釜山まで護衛。終戦時は朝鮮半島南部に所在。

引渡しのため出港する直前の隠岐
(1947年8月25日、佐世保港)

戦後 復員輸送[編集]

1945年8月20日、釜山で触雷し小破。23日、佐世保に入港し修理を行う。26日、佐世保鎮守府第一予備海防艦に定められる。11月20日、帝国海防艦籍から除かれた。12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に定められる。

1947年1月6日、特別保管艦に指定される。8月25日、第三次引渡しのため佐世保を出港し青島へ向かう。29日に特別輸送艦の定めを解かれ、賠償艦として青島で中華民国に引き渡された。

中華民国海軍/中国人民解放軍海軍[編集]

中華民国に引き渡し時は接18号と仮称されたが、引渡し後に固安(Gu-An)と命名され、日本海軍の武装を施して第一海防艦隊に編入された。主機の状態が悪く行動に難があったとされる。

1949年2月、機関の損傷により青島港で停泊中、中国人民解放軍が青島に入城し鹵獲された。その後機雷敷設艦に改造されソ連製の10cm砲3門、37mm機銃3門と機雷40個を装備し、長白(Chang-Pai)(艦番号230)と命名された。

1955年、南海艦隊に編入され中国東南部沿岸への機雷敷設に従事した。1982年、除籍された。

艦長[編集]

艤装員長
  1. 青木久治中佐1943年2月20日 - 1943年3月28日
海防艦長/艦長
  1. 青木久治中佐:海防艦長 1943年3月28日 - 1943年7月1日
  2. 小林日本大尉:1943年7月1日 - 1943年8月2日
  3. 杉山忠嘉大尉/少佐:1943年8月2日 - 1944年1月8日
  4. 大内成文少佐:1944年1月8日 - 1945年2月13日
  5. 石川六雄少佐:1945年2月13日 - 1945年6月30日
  6. 大上一雄少佐:1945年6月30日 - 1945年10月8日、以後12月20日まで海防艦長の発令無し。
  7. 長倉義春第二復員官:艦長 1945年12月20日 - 1946年3月5日
  8. 森卓次第二復員官/第二復員事務官:1946年3月5日 - 退任年月日不明[注釈 20]
  9. 椋田實復員事務官:就任年月日不明[注釈 20] - 1947年1月20日、以後8月5日まで艦長の発令無し。
  10. 太田巍復員事務官:1947年8月5日 - 1947年8月29日[注釈 21]

脚注[編集]

注釈
  1. ^ この数字は特修兵、その他臨時増置された人員を含まない
  2. ^ 以下、2隻以下の船団のみ本文に被護衛艦船名を記す。3隻以上の船団は各々の注釈を、記事が存在する大規模船団については各リンクを参照のこと。
  3. ^ 特設航空機運搬艦慶洋丸、特務艦伊良湖、特設潜水母艦平安丸
  4. ^ 第二海上護衛隊司令部戦時日誌の記述では、雪風も被護衛対象である。該当の戦時日誌での雪風に関する記述は、常に輸送船の後ろにカッコ書きで記述されており、第二海上護衛隊作戦指揮下に編入され護衛に従事した他の連合艦隊所属駆逐艦の記述とは異なる。
  5. ^ 第二海上護衛隊司令部戦時日誌より。戦史叢書では隠岐も照川丸を護衛していたことになっているが、隠岐のトラック入港は20日0800時、天霧のトラック出港は同日1100時である。
  6. ^ 特設運送船伯耆丸、同興和丸、海軍徴傭船第六雲海丸、同桑港丸。駒宮『戦時輸送船団史』、p. 131では4120船団としているが、船団名が船団名付与標準(ごく簡単に説明すれば、横須賀鎮守府所管区域の内地からの往航船団は3000番台、内地への復航船団は4000番台)に合致しない。
  7. ^ 水上機母艦能登呂、特務艦伊良湖、海軍徴傭船辰浦丸、陸軍徴傭船日美丸。
  8. ^ 特設運送船慶洋丸、同辰春丸、海軍徴傭船備後丸。
  9. ^ 特設潜水母艦筑紫丸、特設運送船射水丸、陸軍徴傭船和浦丸、敷設艇由利島
  10. ^ マカッサ丸、加古川丸、日秀丸、台海丸(以上4隻陸軍徴傭船)、白峰丸、多佳山丸、東崗丸、第八雲洋丸(以上4隻海軍徴傭船)。
  11. ^ 特設運送船さんとす丸、陸軍徴傭船能登丸、同東山丸。
  12. ^ 横須賀防備戦隊戦時日誌より。淡路丸(陸軍徴傭船)、杉山丸、山珠丸、美保丸、甘井子丸、豊川丸、龍江丸、神鹿丸、東崗丸、昭瑞丸、(以上9隻海軍徴傭船)、東天丸(船舶運営会)、蒲泰丸、玉姫丸(以上2隻徴傭種類不明)。
  13. ^ 淡路丸(陸軍徴傭船)、美保丸、甘井子丸、豊川丸(以上3隻海軍徴傭船)。
  14. ^ 横須賀防備戦隊戦時日誌より。第七雲海丸、龍江丸(以上2隻海軍徴傭船)、彌榮丸(船舶運営会)、芝園丸、榮口丸、大壽丸(以上3隻徴傭種類不明)、公称第3995号(海軍雑役船)。なお第二十号掃海艇戦時日誌によれば、芝園丸は3701船団本隊より1日早く出港し、7月4日に八丈島で3701船団に合流したとある。
  15. ^ 芝園丸、第七雲海丸、彌榮丸、公称第3995号。
  16. ^ 八丈島からの船団に海軍徴傭船海光丸を加えたもの。
  17. ^ 第一南洋丸、第二南洋丸、あるいは第一南陽丸。横須賀防備戦隊戦時日誌上では「第何」の部分も含めて船名の表記ゆれがあるため同定不能。
  18. ^ 該当月の横須賀防備戦隊戦時日誌第一項(四)(イ)による。「三一一二船団」と一度書いた部分に対し、「二」に消し線を付し、その下に朱書きで「一」を書き加えている。同月の戦時日誌第四項(一)では「三一一二船団」と記載されている。
  19. ^ 第一大雲丸、坤利号、新蜜紹号、潮江丸、ほか1隻。
  20. ^ a b 現在公開中の第二復員省辞令公報および復員庁第二復員局辞令公報では、森第二復員事務官の退任発令と椋田復員事務官の就任発令は確認できない
  21. ^ 昭和21年7月1日付 復二第67号の定めによる自動解職
脚注
  1. ^ 佐世保海軍軍需部 兵器還納目録 海防艦隠岐
  2. ^ a b c 海防艦激闘記、226頁「隠岐(おき)」
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 写真日本の軍艦7巻、232-233頁「海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇隠岐◇」
  4. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 413.
  5. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 414.
  6. ^ a b #S18.12二水戦日誌(1) pp.44『二一日〇八二〇天霧(宛略)天霧機密第二一〇八二〇番電 〇五一八照川丸北緯九度四五分東経一五一度六分ニ於テ右六〇度ヨリ雷撃ヲ受ク 魚雷一番船舟倉ニ一 機関室ニ一命中船橋ヨリ後方大火災航行不能船員全部退去|無電』、p.8『(3)下旬 二十一日GF電令作第七七號ニ依リ照川丸救難隊編成セラレ(司令官)2Sd指揮官トナリ濱風、電、響ヲ率ヒ仝日一一〇〇「トラック」発一九三〇現場着、照川丸大火災掃蕩及護衛部隊(満潮、隠岐、金城丸、天霧)ト共ニ警戒中二〇二〇沈没、掃蕩隊ヲ残シ翌二十二日帰着、満潮二十三日帰着』
  7. ^ #S18.12十戦隊日誌(1)pp.32-33『聯合艦隊信令作第七七號』
  8. ^ #S18.12十戦隊日誌(1)p.6『(ル)濱風二〇日2Sd司令官ノ作戰指揮下ニ照川丸ノ救難作業ニ從事ス』
  9. ^ a b c #S18.12二水戦日誌(1)p.10『(1)能代(中略)二十一日 能代、浜風、雷、電ヲ以テ照川丸救難隊編成セラル (司令官)2Sd指揮一一五二「トラック」発一九〇〇現場(9°-45′N 151°-56′E)着仝船大火災護衛隊及掃蕩隊(満潮、隠岐、天霧)ト共ニ警戒中二〇二〇沈没救難隊帰途ニ就ク/二十二日午前「トラック」帰着(以下略)』
  10. ^ a b c #S18.12二水戦日誌(1)p.12(満潮)『二十一日 YB電令第十九號ニヨリ筥崎丸護衛ノ爲「トラック」発途中GF信令作第十九號ニ依リ(司令官)2KEgノ指揮下ニ入リ任務変更照川丸ノ救難及對潜掃蕩ニ急行 隠岐金城丸ヲ併セ指揮右任務ニ從事 照川丸沈没後尚掃蕩続行スルモ手掛ヲ得ズ二十三日早朝命ニ依リ現場発帰着(司令官)2KEgノ指揮ヲ解カル』
  11. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 415.
  12. ^ 海防艦激闘記、69-70頁「隠岐艦上の友、戦死す」

参考文献[編集]

  • 『浦賀・追浜百年の航跡 1897-1997』、住友重機械工業株式会社横須賀造船所、1997年。
  • 隈部五夫ほか『海防艦激闘記 護衛艦艇の切り札として登場した精鋭たちの発達変遷の全貌と苛烈なる戦場の実相』潮書房光人社、2017年1月。ISBN 978-4-7698-1635-5
    • (68-76頁)当時「天草」機銃指揮官・海軍中尉小泉国雄『海防艦「天草」太平洋"対潜哨戒"道中記 対潜学校出の若き中尉が綴る東奔西走八七〇トン武運艦苦闘の日々
    • (77-88頁)艦艇研究家杉田勇一郎『占守型に始まった甲型エスコート艦列伝 戦争後期の苛烈な戦局に投入された急造護衛艦全タイプの実像
    • (223-243頁)戦史研究家伊達久『日本海軍甲型海防艦戦歴一覧 占守型四隻、択捉型十四隻、御蔵型八隻、日振型九隻、鵜来型ニ十隻の航跡
    • (244-287頁)三十五突撃隊隼艇搭乗員・海軍二等兵曹正岡勝直『付・戦力の中核 海軍小艦艇かく戦えり 海防艦、敷設艦艇、駆潜艇、哨戒艇など特設艦船を含む補助艦艇奮戦の全貌
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月。ISBN 47698-2009-7
    (409-418頁)獅子奮迅 <駆逐艦「皐月」艦長・杉山忠嘉中佐の証言>(杉山は、那智水雷長を経へて隠岐海防艦長。その後、皐月駆逐艦長)
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
  • 福井静夫 『昭和軍艦概史III 終戦と帝国艦艇 -わが海軍の終焉と艦艇の帰趨-』、出版共同社、1961年。
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 防衛研修所戦史室 『戦史叢書』、朝雲新聞社
  • 第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、1969年。
  • 第39巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(4) -第三段作戦前期-』、1970年。
  • 第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦後期-』、1971年。
  • 第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦中期-』、1974年。
  • No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、1979年。
  • No. 111 太平洋戦争海空戦シリーズ 『終戦時の帝国艦艇』、1986年。
  • 『写真 日本の軍艦 重巡Ⅲ 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦』第7巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年2月。ISBN 4-7698-0457-1
  • 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 51 『真実の艦艇史2』、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4


  • 法令、令達
  • 昭和15年4月10日付 内令第243号。
  • 昭和17年8月20日付 達第233号、内令第1548号、内令第1554号、内令第1556号。
  • 昭和18年3月28日付 内令第518号、内令第519号、内令第520号。
  • 昭和19年7月18日付 内令第876号。
  • 昭和20年8月26日付 内令第749号。
  • 人事発令
  • 昭和18年2月23日付 海軍辞令公報(部内限)第1057号。
  • 昭和18年3月29日付 海軍辞令公報(部内限)第1082号。
  • 昭和18年7月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1162号。
  • 昭和18年8月3日付 海軍辞令公報(部内限)第1184号。
  • 昭和19年1月10日付 海軍辞令公報(部内限)第1296号。
  • 昭和20年2月17日付 秘海軍辞令公報 甲 第1724号。
  • 昭和20年7月11日付 秘海軍辞令公報 甲 第1853号。
  • 昭和20年11月6日付 海軍辞令公報 甲 第1973号。
  • 戦時日誌、任務報告
  • 第四艦隊戦時日誌。
  • 第二海上護衛隊司令部戦時日誌。
  • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101800。
  • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030050000。
  • 横須賀防備戦隊戦時日誌。
  • 昭和19年4月24日付 東松四号船団部隊機密第6号 「東松四号船団部隊任務報告」。
  • 第二十号掃海艇戦時日誌。
  • 第百三戦隊戦時日誌。
  • 佐世保海軍軍需部 兵器還納目録 海防艦隠岐。
  • 法令、令達
  • 昭和20年12月1日付 内令第6号。
  • 昭和20年12月20日付 内令第12号、官房人第19号。
  • 人事発令
  • 昭和21年1月24日付 第二復員省辞令公報 甲 第42号。
  • 昭和21年4月5日付 第二復員省辞令公報 甲 第100号。
  • 法令、令達
  • 昭和21年7月1日付 復二第67号。
  • 昭和22年1月6日付 復二第11号。
  • 昭和22年8月29日付 復二第606号。
  • 人事発令
  • 昭和22年1月29日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第129号。
  • 昭和22年8月14日付 復員庁第二復員局辞令公報 第51号。

関連項目[編集]