隠岐 (海防艦)

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隠岐
終末公試のため浦賀を出港する隠岐 (1943年3月25日、東京湾)
終末公試のため浦賀を出港する隠岐
1943年3月25日東京湾
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
第二復員省/復員庁
中華民国海軍
中国人民解放軍海軍
艦種 海防艦(日本海軍)
特別輸送艦(第二復員省/復員庁)
巡邏艦/布雷艇(中国人民解放軍海軍)
級名 占守型海防艦
建造費 5,112,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル急計画
起工 1942年2月27日
進水 1942年10月20日
竣工 1943年3月28日
除籍 1945年11月20日(日本海軍)
1947年8月29日(復員庁)
1982年(中国人民解放軍海軍)
要目(竣工時)
基準排水量 870トン
全長 77.70m
最大幅 9.10m
吃水 3.05m
主機 艦本式22号10型ディーゼルx2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.7ノット
燃料 重油200トン
航続距離 16ノットで8,000海里
乗員 定員146名[注 1]
兵装 三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x36個
最終時[1]
三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x5基、単装x10基
13mm単装機銃x3基
三式爆雷投射機x4基
搭載艇 短艇x4隻
ソナー 九三式水中聴音機x1基
九三式水中探信儀x1基
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隠岐(おき)は、日本海軍海防艦[2]。普遍的には択捉型海防艦の4番艦とされているが[2]海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の8番艦。艦名は島根県にある隠岐島にちなむ。

概要[編集]

海防艦隠岐(おき)は、日本海軍が浦賀船渠で建造した甲型海防艦1943年(昭和18年)3月28日に竣工すると第二海上護衛隊に編入され[2]、横須賀~トラック泊地間の船団護衛任務に従事した[3]1944年(昭和19年)7月上旬のサイパン島玉砕により第二海上護衛隊が解隊されると、横須賀鎮守府部隊に所属して小笠原諸島方面の船団護衛任務に従事した[3]。 11月21日、米潜水艦の雷撃をうけて損傷し、艦前部を喪失する[4]1945年(昭和20年)3月まで横須賀で修理をおこなった[3]。 3月5日、第一護衛艦隊の第103戦隊に編入され[2]、黄海~朝鮮半島方面で護衛任務に従事した[3]太平洋戦争を生き延びて、戦後は復員輸送に従事した[3]賠償艦として中華民国に引き渡されて「固安」と改名[5]国共内戦中国人民解放軍鹵獲され「長白」と再改名され、中国人民解放軍海軍に所属して1982年(昭和57年)まで現役だった[6]

艦歴[編集]

計画-竣工[編集]

マル急計画の海防艦甲型、第310号艦型の4番艦、仮称艦名第313号艦として計画。1942年2月27日浦賀船渠で建造番号512番船として起工。8月20日、「隠岐」と命名。本籍を佐世保鎮守府と仮定され、占守型海防艦の8番艦に定められる。10月20日、進水。

1943年(昭和18年)3月28日、隠岐は竣工した[3]。本籍を佐世保鎮守府に定められる[3]第四艦隊隷下の第二海上護衛隊に編入される[3]。軍隊区分においては内南洋方面部隊護衛部隊に配される。

1943年-1944年3月 トラック方面護衛[編集]

1943年(昭和18年)4月20日、トラック行き船団を護衛し、横須賀を出発した[3]。30日、トラック泊地に到着する[3]。以後、1944年3月までトラック-横須賀間の護衛に従事。

8月27日、4827船団(海軍徴傭船田子ノ浦丸、同日威丸[注 2])を護衛しトラック発。9月3日夜、三宅島南東60km 北緯33度43分 東経140度00分 / 北緯33.717度 東経140.000度 / 33.717; 140.000の地点で、田子ノ浦丸がアメリカ潜水艦(ポラック)の雷撃により沈没する[7]。隠岐は田子ノ浦丸の生存者を収容した。9月4日、横須賀着。以降の9月中の行動は不明。

11月2日、駆逐艦(第6駆逐隊)とともに4102船団(特設運送船衣笠丸)を護衛しトラック発。5日、海軍徴傭船日吉丸が船団に合流したところで船団を2つに分かち、隠岐は衣笠丸を、雷は日吉丸をそれぞれ護衛し各々横須賀へ向かう。8日、横須賀着。14日、3115船団(3隻[注 3]+陽炎型駆逐艦雪風〈第16駆逐隊〉[注 4])を護衛し横須賀を出発する[9]。雪風は15日に館山から合流したとの史料もある[10]。 航海中の11月15日、日本海軍は海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)を新編する[11]南西方面艦隊隷下の第一海上護衛隊と、第四艦隊隷下の第二海上護衛隊も、海上護衛総司令部隷下となった[注 5]。 19日、アメリカ潜水艦デイス(艦長ジョゼフ・F・エンライト少佐)が第3115船団に触接し、平安丸(日本郵船、11,614トン)を狙った[13]。船団指揮官より敵潜水艦撃滅の命令が下り、隠岐は対潜戦闘を行う[14]北緯22度15分 東経148度20分 / 北緯22.250度 東経148.333度 / 22.250; 148.333の地点で爆雷戦を行い爆雷22個消耗。敵潜水艦より魚雷3本を撃ちこまれたが、回避したという[15]。デイスによる船団への被害はなかったが、隠岐もデイスを仕留められなかった[注 6]。 23日、トラック着。25日、4125船団(特設運送船玉島丸)を護衛しトラック発。12月10日、横須賀着。

12月11日、3211甲船団(特設運送船御嶽山丸、同筥崎丸)を護衛し横須賀発。道中で筥崎丸が落伍したため、御嶽山丸を引き続き護衛し、20日トラック着。21日0518時、駆逐艦天霧(第11駆逐隊)が護衛していた特設運送船照川丸が、アメリカ潜水艦(スケート)の魚雷攻撃を受けて航行不能となる[17]。 第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将を指揮官とする照川丸救難隊[18](軽巡能代、駆逐艦浜風[19])が編成され、トラック泊地を出撃する[20]。 また対潜掃蕩のため駆逐艦満潮(第24駆逐隊)が第二海上護衛隊の指揮下に入る[21]。トラックに在泊していた隠岐は1200時にトラックを発し対潜掃蕩に向かう[注 7]。隠岐は満潮駆逐艦長(原口曻中佐)の指揮下に入り[21]、掃蕩隊(満潮、天霧、隠岐)として行動した[20]。 2020時、照川丸は沈没した[17][20]。 2100時、現場に到着して対潜掃蕩開始。掃蕩隊(満潮、隠岐など)は照川丸沈没後も掃蕩をおこなうが手掛かりを得られず、23日になって対潜掃蕩を打ち切った(満潮は第二海上護衛隊の指揮下を離れ、トラックへ帰投)[21]。隠岐は落伍していた3211甲船団筥崎丸の護衛に向かう。24日、筥崎丸を伴ってトラック着。27日、第46号哨戒艇とともに4227船団(特設運送船興業丸)を護衛しトラック発。30日、北緯16度25分 東経146度00分 / 北緯16.417度 東経146.000度 / 16.417; 146.000の地点で潜水艦を探知し爆雷戦を行う。1月5日、横須賀着。ここで杉山(隠岐海防艦長)は駆逐艦皐月艦長に転任した[22]

1944年(昭和19年)1月20日、3120船団(4隻[注 8])を護衛し横須賀発。2月4日、トラック着。 同地で、水上機母艦秋津洲(独立混成第五連隊の陸兵約1,000名が乗艦中)の護衛を任される[23]。2月8日、秋津洲と隠岐はトラック泊地を出撃、東カロリン諸島ポナペ島に陸兵を移送し、2月11日にトラック泊地へ戻った[24]トラック島空襲[25]直前の13日、隠岐は4212船団(4隻[注 9])を海防艦満珠第31号駆潜艇と護衛しトラックを出発した[26]。27日、4212船団部隊は横須賀に到着した[27]

3月1日、3301甲船団(3隻[注 10])を満珠とともに護衛し横須賀発。3月4日、父島二見港に寄港して特設掃海艇第八拓南丸を護衛に加える。5日、3301甲船団は東松一号甲船団の指定を受ける。同日、父島発。12日、トラック着。17日、筑紫丸船団(4隻[注 11])を護衛しトラック発。24日、サイパンに一旦寄港し、横須賀に向け同日出港。27日、横須賀着。3月から5月までの間に横須賀防備戦隊作戦指揮下、軍隊区分戊直接護衛部隊に編入されたが、日付は不明。

1944年4月-5月 東松船団護衛[編集]

1944年(昭和19年)3月、日本軍は中部太平洋方面に対する陸軍部隊と資材の緊急輸送作戦を行うことになり、これを松輸送と呼称した[28]。 3月31日、横浜に回航。東松四号船団(輸送船26隻、護衛隊〈五月雨、朝凪[29]、隠岐、天草、御蔵福江、ほか〉)[30]と合流、船団司令官清田孝彦少将の旗艦は白露型駆逐艦五月雨(第27駆逐隊)であった[31][32]。東松四号船団は松輸送の中で最大の規模であり、サイパン島、グァム島、トラック島、ヤップ島などへの兵士と資材の輸送を目的としていた[33]

4月1日1000時、択捉型海防艦天草第2号海防艦とともに、船団の前路掃蕩のため船団本隊より1時間早く木更津を出発し、船団が浦賀東水道を出たところで船団に合流した。翌日より、東松四号船団部隊はアメリカ潜水艦ガジョンサンドラスに接触された[33]。 3日午後、陸軍徴傭船東征丸が、アメリカ潜水艦(ポラック)の雷撃により沈没した[34]。 駆逐艦朝凪、海防艦(隠岐、天草)は現場に残り対潜制圧に従事する。4日になり船団に合同した。同日夜、東松四号船団前方に潜水艦を探知したため、僚艦福江御蔵とともに爆雷戦を行う[35]。6日、機関故障のため一時船団から落伍。 8日未明、アメリカ潜水艦トリガーは東松四号船団に触接し、旗艦五月雨に魚雷を発射した[36]。雷撃を回避した五月雨は反撃に転じ[37]、隠岐や朝凪も対潜掃蕩に加わった[38]。日本側は海面に湧きあがった油を確認して撃沈確実と記録したが[39]、トリガーは損傷しつつ生き延びていた[40]。 当初、隠岐はパラオ行き船団の護衛に割り当てられていたが、ここまでの度重なる爆雷戦により爆雷の残量が少なくなったため、サイパン止船団の護衛に変更された。隠岐の代わりとして第3号海防艦がサイパン止船団の護衛からパラオ行き船団の護衛に割り当てられた。 9日夕刻、海軍徴傭船美作丸(日本郵船、4,667トン)はアメリカ潜水艦シーホース[注 12]の雷撃により大破、曳航中に沈没した[41]。対潜掃蕩中に朝凪が爆雷を使い果たしたため、隠岐と朝凪が船団を嚮導してサイパンへ向かい、2400時サイパン着。入港後爆雷を補給して遭難地点へ向かう。五月雨(船団旗艦)と海防艦は対潜掃蕩をおこなった[42]。11日まで対潜掃蕩に従事。

15日、東松四号復航船団(8隻[注 13])を護衛しサイパン発。同日、潜水艦を探知し爆雷戦を行う。20日、舵故障のため落伍した白峰丸を護衛するため一時船団から離れる。同日、爆雷戦を行う。23日、船団は機関故障のため父島に回航した加古川丸と同船に同行した護衛艦艇2隻を除き、船団は東京に、護衛艦艇は横須賀にそれぞれ到着。

5月4日、隠岐は駆逐艦朝凪(船団旗艦、第二護衛船団司令官清田孝彦少将)[43]水無月等とともに3503船団(14隻)を護衛し、館山を出発した[44]。 5月10日、第3503船団部隊をアメリカ潜水艦タンバーが襲撃する。慶洋丸(東洋汽船:6441総トン)が被雷して損傷、護衛艦艇は対潜攻撃をおこなった。14日、テニアン島西方北緯14度57分 東経144度58分 / 北緯14.950度 東経144.967度 / 14.950; 144.967の地点でサイパン行き船団と分かれ、2隻(黄浦丸、海軍徴傭船春川丸)を隠岐、、特設駆潜艇第八昭南丸で護衛しグアムへ向かう。同日、北緯13度43分 東経144度42分 / 北緯13.717度 東経144.700度 / 13.717; 144.700の地点でアメリカ潜水艦(サンドランス)の雷撃で黄浦丸(陸軍徴傭船、4,291トン)が被雷沈没した[45]。隠岐は爆雷戦と遭難者の救助を行う。5月20日、東松八号復航船団(3隻[注 14])を護衛しサイパン発。26日、東京着。

1944年6月-11月 父島方面護衛[編集]

1944年(昭和19年)6月6日、3606船団(13隻[注 15])を護衛し横浜発。第三護衛船団司令官門前鼎少将は駆逐艦松風将旗を掲げた[46]。この第3606船団が、サイパン島むけ最後の船団であった[46]。 8日、神鹿丸が機関故障をおこし護衛艦1隻(天草)を附されて反転、つづいて杉山丸がアメリカ潜水艦(ホエール)の雷撃で損傷した[47]。隠岐は対潜制圧を実施、また神鹿丸を八丈島まで護衛した。9日午前4時、今度は船団旗艦の松風が、アメリカ米潜水艦ソードフィッシュに雷撃され、轟沈した[48]。門前少将を含め多数が戦死、残船団は父島にむかった[49]

6月11日、米軍機動部隊はマリアナ諸島に来襲して空襲をおこなう[50]。サイパン島周辺の情勢や敵機動部隊の活動を考慮して船団のサイパン島行は中止され、父島で船団の再編がおこなわれた。14日、美保丸船団(4隻[注 16])を護衛し父島発。15日、ふたたびアメリカ潜水艦ソードフィッシュの雷撃により甘井子丸(貨物船、4,804トン)が沈没する[51]。また豊川丸が浮上潜水艦を体当たりによって撃沈した[52]伊号第六潜水艦との同士討ち)。17日、美保丸船団は東京湾に到着した。隠岐は戊直接護衛部隊編入を解かれ甲直接護衛部隊に編入。

サイパン地上戦の経過を鑑み、小笠原諸島の戦略的価値が重要視されるようになった[53]。またB-29邀撃のため、硫黄島の防備強化を企図した[53]。 7月3日、3701船団(7隻[注 17])を護衛し館山発。4日、八丈島着。6日、船団(4隻[注 18])を護衛し八丈島発。8日、父島着。10日、4710船団(5隻[注 19])を護衛し父島発。14日、横須賀着。

同年7月上旬、サイパン島地上戦における日本軍守備隊玉砕時に第二海上護衛隊司令部は全滅し、7月18日附で第二海上護衛隊は解隊された[3]。隠岐は横須賀鎮守府横須賀防備戦隊に編入される[3]。役務を佐世保鎮守府警備海防艦に定められる。22日、3720船団(芝園丸、第一南洋丸[注 20])を護衛し館山発。26日、父島着。29日、4729船団(芝園丸、陸軍徴傭船第四東海丸)を護衛し父島発。8月2日、横須賀着。

米軍機動部隊は8月4日から5日にかけて小笠原諸島に来襲し、同方面の日本軍の航空兵力や船舶は大きな被害を受けた(スカベンジャー作戦[54][55]。この被害を補充するため横須賀鎮守府は、軽巡(多摩木曾)、第18駆逐隊(不知火[56][57]、隠岐、第105号海防艦による緊急輸送作戦を実施した[58]。 8月10日、隠岐は第105号特設輸送艦を護衛し横須賀発。13日、父島着。同日、4813船団(特設運送船九州丸、第一南陽丸)を護衛し父島発。16日、横須賀着。8月19日から9月1日まで横須賀海軍工廠で修理を行う。 隠岐修理中の8月31日から9月2日にかけて、米軍機動部隊は小笠原諸島や硫黄島に来襲し、空襲や艦砲射撃をおこなった[59][58]。また米軍は占領したサイパン島テニアン島の飛行場を整備し、大型爆撃機による哨戒や空襲をおこなうようになった[60]。潜水艦と航空機による攻撃で、日本軍の輸送船と護衛艦艇に被害が続出した[61]

9月5日、3901船団(特設運送船九州丸)を護衛し館山発。6日、八丈島着。7日、3901船団を護衛し八丈島発。10日父島着。11日、4910乙船団(八祥丸)を千鳥と護衛し父島発。同日、父島よりの方位280度130カイリの地点でB-24爆撃機3機の空襲を受け八祥丸が航行不能となったため、乗員と便乗者を救助のうえ同船を砲撃により処分。13日、横須賀着。21日、3920船団(い号米山丸、特設捕獲網艇興海丸)を護衛し館山発。26日、父島着。同日、4926船団(特設運送船い号壽山丸)を護衛し父島発。30日、横須賀着。

10月11日、3009船団(睦月丸)を第51号駆潜艇と護衛し横須賀発。16日、父島着。19日、4019船団(昭東丸)を護衛し父島発。23日、横須賀に到着し横須賀海軍工廠で訓令による兵器換装工事を行う。11月8日、工事終了。

11月13日、3111船団[注 21](如月丸、特設運送船北開丸)を護衛し館山発。16日、聟島列島北之島よりの方位5度、80カイリの地点で如月丸がアメリカ潜水艦スキャバードフィッシュの攻撃を受け被雷沈没したため、如月丸の乗員33名を救助。如月丸の乗員を救助後に空襲を受けたが被害無し。17日、母島着。18日、4118船団(特設運送船九州丸、同北開丸)を護衛し母島を出発する。21日、船団は八丈島よりの方位82度、110カイリの地点で再度スキャバードフィッシュの攻撃を受ける。隠岐は艦前部に被雷して艦橋より前の艦首を喪失した[62]。北開丸は沈没した[4]。同時期、古谷卓夫中佐を指揮官とする対潜掃蕩小隊(海防艦3隻、駆潜艇4隻)が横須賀を出動し、小笠原方面で対潜掃蕩に従事していた[4]。隠岐の救援のため、鳥島沖で対潜掃討中の第4号海防艦第12号海防艦らが派遣される。隠岐は被雷後漂流し消息不明となっていたが、22日に館山海軍航空隊の捜索機により発見され、23日には別任務で出撃していた掃蕩隊の第56号海防艦に発見された。同日、救援のため派遣された海防艦らとも会合し、隠岐は第12号海防艦に曳航されて第4号海防艦らの護衛を受け、25日、横須賀着[63]。横須賀海軍工廠に入渠し1945年3月まで復旧修理を行う。修理の際、隠岐の艦首は直線を多用した簡易なものに作り替えられた。

1945年 対馬海峡-黄海[編集]

横須賀海軍工廠で修理中の1945年(昭和20年)2月26日、鎮海警備府作戦指揮下に編入。3月5日、第一護衛艦隊麾下の第百三戦隊(愛司令官久宗米次郎少将、旗艦「春月」)[64]に編入された[3]。9日、館山発。11日に徳山の第三海軍燃料廠で燃料を補給し、12日門司着。13日、鎮海に到着したがヒ94船団東亜丸)護衛のため鎮海を出港。同船団を対馬北方まで護衛し、護衛後の15日、荷衣島に回航し戦隊旗艦春月と合流。20日、荷衣島を出港しジャカルタ丸を東経133度線まで護衛。21日、シモ01船団を護衛し黒山島沖で対潜掃蕩中の鵜来の増援に向かう。25日まで現地で掃蕩を行い、哨区に向かう。26日、北緯35度18分 東経123度15分 / 北緯35.300度 東経123.250度 / 35.300; 123.250付近でアメリカ潜水艦バラオの攻撃により第一新東丸が撃沈されたため、第19号駆潜艇とともに現場へ向かい対潜掃蕩を行う。28日、北緯34度50分 東経122度28分 / 北緯34.833度 東経122.467度 / 34.833; 122.467付近で浮上潜水艦の発見報告があり、現場へ向かい対潜掃蕩を行うが敵情を得ず、対潜掃蕩を31日で打ち切り荷衣島に帰投。

4月上旬は木浦周辺で対潜掃蕩に従事。4月14日、第二十号掃海艇とともに青島へ回航のため木浦発。19日、青島を出港してモ705船団第1分団を大東湾まで護衛。20日、モ705船団第2分団(8隻)を護衛するため大東湾発。21日に同分団と合同し、25日荷衣島着。第百三戦隊司令官は将旗を春月から隠岐に移揚し、同日船団(5隻)を護衛して荷衣島発。27日鎮海着。

6月2日、フタ01船団(彌彦丸)を護衛し釜山発。船団が荷衣島に仮泊したところで隠岐は船団から分離。20日、タフ船団(5隻[注 22])を護衛し青島発。7月1日、長山串北緯38度06分 東経124度36分 / 北緯38.100度 東経124.600度 / 38.100; 124.600の地点でアメリカ潜水艦ハッドの攻撃を受け第一大雲丸、坤利号、新蜜紹号、第72号海防艦が被雷沈没。隠岐は爆雷戦と遭難者の救助を行い、残された船を釜山まで護衛。終戦時は朝鮮半島南部に所在。

引渡しのため出港する直前の隠岐
(1947年8月25日、佐世保港)

戦後 復員輸送[編集]

1945年(昭和20年)8月19日、釜山で触雷し小破[65]。23日、佐世保に入港し修理を行う。26日、佐世保鎮守府第一予備海防艦に定められる。11月20日、帝国海防艦籍から除かれた。12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に定められる。

1947年1月6日、特別保管艦に指定される。8月25日、第三次引渡しのため佐世保を出港し青島へ向かう。29日に特別輸送艦の定めを解かれ、賠償艦として青島で中華民国に引き渡された。

中華民国海軍/中国人民解放軍海軍[編集]

中華民国に引き渡し時は接18号と仮称されたが、引渡し後に固安(Gu-An)と命名され、日本海軍の武装を施して海防第一艦隊に編入された[6]。主機の状態が悪く行動に難があったとされる[6]

1949年(昭和24年)2月、機関の損傷により青島港で停泊中、中国人民解放軍が青島に入城し鹵獲された[6]。その後機雷敷設艦に改造されソ連製の10cm砲3門、37mm機銃3門と機雷40個を装備し、長白(Chang-Pai)(艦番号230)と命名された[6]

1955年(昭和30年)、南海艦隊に編入され中国東南部沿岸への機雷敷設に従事した[6]。1982年(昭和57年)、除籍された[6]

艦長[編集]

艤装員長
  1. 青木久治中佐1943年2月20日 - 1943年3月28日
海防艦長/艦長
  1. 青木久治中佐:海防艦長 1943年3月28日 - 1943年7月1日
  2. 小林日本大尉:1943年7月1日 - 1943年8月2日
  3. 杉山忠嘉大尉/少佐:1943年8月2日 - 1944年1月8日
  4. 大内成文少佐:1944年1月8日 - 1945年2月13日
  5. 石川六雄少佐:1945年2月13日 - 1945年6月30日
  6. 大上一雄少佐:1945年6月30日 - 1945年10月8日、以後12月20日まで海防艦長の発令無し。
  7. 長倉義春第二復員官:艦長 1945年12月20日 - 1946年3月5日
  8. 森卓次第二復員官/第二復員事務官:1946年3月5日 - 退任年月日不明[注 23]
  9. 椋田實復員事務官:就任年月日不明[注 23] - 1947年1月20日、以後8月5日まで艦長の発令無し。
  10. 太田巍復員事務官:1947年8月5日 - 1947年8月29日[注 24]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この数字は特修兵、その他臨時増置された人員を含まない
  2. ^ 以下、2隻以下の船団のみ本文に被護衛艦船名を記す。3隻以上の船団は各々の注釈を、記事が存在する大規模船団については各リンクを参照のこと。
  3. ^ 特設航空機運搬艦慶洋丸、特務艦伊良湖、特設潜水母艦平安丸
  4. ^ 雪風は1943年11月15日から12月17日の間、給糧艦伊良湖等の横須賀、トラック間の護衛作戦に従事した[8]
  5. ^ 海上護衛総司令部新編時の第二海上護衛隊は、旧式駆逐艦(夕月追風朝凪)、海防艦(隠岐、福江御蔵平戸)、他3隻という編制だった[12]
  6. ^ エンライト少佐は自らデイス艦長の職を辞したあと陸上勤務にまわり、後日、潜水艦アーチャーフィッシュ艦長として最前線に復帰し、大和型戦艦改造空母信濃を撃沈する[16]。信濃沈没時の護衛は第17駆逐隊(雪風浜風磯風)であった。
  7. ^ 第二海上護衛隊司令部戦時日誌より。戦史叢書では隠岐も照川丸を護衛していたことになっているが、隠岐のトラック入港は20日0800時、天霧のトラック出港は同日1100時である。
  8. ^ 特設運送船伯耆丸、同興和丸、海軍徴傭船第六雲海丸、同桑港丸。駒宮『戦時輸送船団史』、p. 131では4120船団としているが、船団名が船団名付与標準(ごく簡単に説明すれば、横須賀鎮守府所管区域の内地からの往航船団は3000番台、内地への復航船団は4000番台)に合致しない。
  9. ^ 水上機母艦能登呂、特務艦伊良湖(1月20日に米潜水艦シードラゴンの雷撃で大破、内地で修理予定)、海軍徴傭船辰浦丸、陸軍徴傭船日美丸。
  10. ^ 特設運送船慶洋丸、同辰春丸、海軍徴傭船備後丸。
  11. ^ 特設潜水母艦筑紫丸、特設運送船射水丸、陸軍徴傭船和浦丸、敷設艇由利島
  12. ^ 木俣滋郎著『日本海防艦戦史』44ページでは、シーホースによる美作丸撃沈を「4月8日」と記述している[33]
  13. ^ マカッサ丸、加古川丸、日秀丸、台海丸(以上4隻陸軍徴傭船)、白峰丸、多佳山丸、東崗丸、第八雲洋丸(以上4隻海軍徴傭船)。
  14. ^ 特設運送船さんとす丸、陸軍徴傭船能登丸、同東山丸。
  15. ^ 横須賀防備戦隊戦時日誌より。淡路丸(陸軍徴傭船)、杉山丸、山珠丸、美保丸、甘井子丸、豊川丸、龍江丸、神鹿丸、東崗丸、昭瑞丸、(以上9隻海軍徴傭船)、東天丸(船舶運営会)、蒲泰丸、玉姫丸(以上2隻徴傭種類不明)。
  16. ^ 淡路丸(陸軍徴傭船)、美保丸、甘井子丸、豊川丸(以上3隻海軍徴傭船)。
  17. ^ 横須賀防備戦隊戦時日誌より。第七雲海丸、龍江丸(以上2隻海軍徴傭船)、彌榮丸(船舶運営会)、芝園丸、榮口丸、大壽丸(以上3隻徴傭種類不明)、公称第3995号(海軍雑役船)。なお第二十号掃海艇戦時日誌によれば、芝園丸は3701船団本隊より1日早く出港し、7月4日に八丈島で3701船団に合流したとある。
  18. ^ 芝園丸、第七雲海丸、彌榮丸、公称第3995号。
  19. ^ 八丈島からの船団に海軍徴傭船海光丸を加えたもの。
  20. ^ 第一南洋丸、第二南洋丸、あるいは第一南陽丸。横須賀防備戦隊戦時日誌上では「第何」の部分も含めて船名の表記ゆれがあるため同定不能。
  21. ^ 該当月の横須賀防備戦隊戦時日誌第一項(四)(イ)による。「三一一二船団」と一度書いた部分に対し、「二」に消し線を付し、その下に朱書きで「一」を書き加えている。同月の戦時日誌第四項(一)では「三一一二船団」と記載されている。
  22. ^ 第一大雲丸、坤利号、新蜜紹号、潮江丸、ほか1隻。
  23. ^ a b 現在公開中の第二復員省辞令公報および復員庁第二復員局辞令公報では、森第二復員事務官の退任発令と椋田復員事務官の就任発令は確認できない
  24. ^ 昭和21年7月1日付 復二第67号の定めによる自動解職

出典[編集]

  1. ^ 佐世保海軍軍需部 兵器還納目録 海防艦隠岐
  2. ^ a b c d 海防艦激闘記 2017, p. 226隠岐(おき)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 写真日本の軍艦7巻、232-233頁「海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇隠岐◇」
  4. ^ a b c 戦史叢書85 1975, p. 279.
  5. ^ 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 142a旧海防艦「隠岐」(接一八号)
  6. ^ a b c d e f g 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 142b旧隠岐
  7. ^ 昭和18.8.15~昭和18.12.31 太平洋戦争経過概要その6(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 18年9月1日~18年9月14日、p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C16120636800 (18-9)|3|1950|田子ノ浦丸(B船3521t)ハ33°43N 140°Eニテ雷撃ヲ受ク(横運)|〃(太平洋)|沈没|
  8. ^ 駆逐艦雪風手記 1999, p. 218.
  9. ^ 潜水艦攻撃 2016, pp. 231a-232○米潜水艦デース(1943年11月19日)
  10. ^ 大西、よもやま物語 1983, p. 221.
  11. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 206–207海上護衛総司令部創設
  12. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 38–40海防艦、第一線へ
  13. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 47–48隠岐、デースを損傷さす
  14. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 413.
  15. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 414.
  16. ^ 潜水艦攻撃 2016, p. 231b.
  17. ^ a b #S18.12二水戦日誌(1) pp.44〔 二一日〇八二〇天霧(宛略)天霧機密第二一〇八二〇番電 〇五一八照川丸北緯九度四五分東経一五一度六分ニ於テ右六〇度ヨリ雷撃ヲ受ク 魚雷一番船舟倉ニ一 機関室ニ一命中船橋ヨリ後方大火災航行不能船員全部退去|無電〕、同戦時日誌 p.8〔 (3)下旬 二十一日GF電令作第七七號ニ依リ照川丸救難隊編成セラレ(司令官)2Sd指揮官トナリ濱風、電、響ヲ率ヒ仝日一一〇〇「トラック」発一九三〇現場着、照川丸大火災掃蕩及護衛部隊(満潮、隠岐、金城丸、天霧)ト共ニ警戒中二〇二〇沈没、掃蕩隊ヲ残シ翌二十二日帰着、満潮二十三日帰着 〕
  18. ^ #S18.12十戦隊日誌(1) pp.32-33〔 聯合艦隊信令作第七七號 〕
  19. ^ #S18.12十戦隊日誌(1) p.6〔 (ル)濱風二〇日2Sd司令官ノ作戰指揮下ニ照川丸ノ救難作業ニ從事ス 〕
  20. ^ a b c #S18.12二水戦日誌(1) p.10〔 (1)能代(中略)二十一日 能代、浜風、雷、電ヲ以テ照川丸救難隊編成セラル (司令官)2Sd指揮一一五二「トラック」発一九〇〇現場(9°-45′N 151°-56′E)着仝船大火災護衛隊及掃蕩隊(満潮、隠岐、天霧)ト共ニ警戒中二〇二〇沈没救難隊帰途ニ就ク/二十二日午前「トラック」帰着(以下略) 〕
  21. ^ a b c #S18.12二水戦日誌(1) p.12(満潮)〔 二十一日 YB電令第十九號ニヨリ筥崎丸護衛ノ爲「トラック」発途中GF信令作第十九號ニ依リ(司令官)2KEgノ指揮下ニ入リ任務変更照川丸ノ救難及對潜掃蕩ニ急行 隠岐金城丸ヲ併セ指揮右任務ニ從事 照川丸沈没後尚掃蕩続行スルモ手掛ヲ得ズ二十三日早朝命ニ依リ現場発帰着(司令官)2KEgノ指揮ヲ解カル 〕
  22. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 415.
  23. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 46a-47飛行艇母艦を護衛して
  24. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 46b-47.
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  27. ^ 日本海防艦戦史 1994, p. 49b.
  28. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 213–214松輸送の護衛
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  34. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年4月1日~19年4月20日、p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C16120641100 (19-4)|3|1500|内南洋方面緊急輸送中ノ東松四號船団(T×26 護衛艦×11)南下中 鳥島ノ南西約60′ニ於テ東征丸 (A船2814t)敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|太平洋 陸軍|東征丸沈没 護衛艦×2ヲ以テ敵潜掃討竝ニ救難中|
  35. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年4月1日~19年4月20日、p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C16120641100 (19-4)|4|2125|CD福江ハ松四號船団護衛東京湾ヨリ「サイパン」ニ向ケ航行中 父島ノW約80′ニ於テ敵(潜水艦)探知|太平洋 2KEG|CD御藏ト共ニ之ヲ攻撃効果概ネ確実|
  36. ^ 潜水艦攻撃 2016, p. 245a○米潜水艦トリッガー(1944年4月8日)
  37. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 270a四月八日(航海中)
  38. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年4月1日~19年4月20日、p.19」 アジア歴史資料センター Ref.C16120641100 (19-4)|8|0240|東松四號船団護衛中ノCD隠岐ハ「パガン」島ノNW約190′ノ地点ニ於テ将ニ攻撃ニ移ラントスル敵(潜水艦)潜望鏡ヲ近距離ニ発見|太平洋 2KEG|全艦及朝凪ハ直ニ協同反覆攻撃ヲ行ヒタル所附近海面ニ約2kmニ亘ル油湧出セリ撃沈確実|
  39. ^ 戦史叢書85 1975, p. 218.
  40. ^ 潜水艦攻撃 2016, p. 245b.
  41. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年4月1日~19年4月20日、p.22」 アジア歴史資料センター Ref.C16120641100 (19-4)|9|1630|海軍運送船美作丸(4500t)(横運)ハ1AF大宮島向ケ人員器材ヲ搭載船団航行中「サイパン」ノW方約50′地点ニ於テ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|太平洋|損傷「サイパン」ニ向ケ曳航セルモ10日0100「サイパン」ノW方約30′ニテ遂ニ沈没 人員ハ殆ンド全部救助|
  42. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 270四月九日(航海中)
  43. ^ 佐藤、艦長続編 1984, pp. 93a-95「朝凪」小笠原海域に沈む
  44. ^ 佐藤、艦長続編 1984, p. 93b.
  45. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)第三段期作戦(船舶被害「沈没」之部 19年5月3日~19年5月31日、p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C16120642600 (19-5)|14|1430|「サイパン」南西方|黄浦丸|太平洋 陸軍|四二九一|(空欄)|「ガム」ニ向フ途中敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没|
  46. ^ a b 大井篤 2014, p. 260.
  47. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、pp.25-26」 アジア歴史資料センター Ref.C16120642900 (19-6)|8|0700頃/0800頃|第三護衛船団司令官(門前少将)ノ指揮スル六隻船団(護衛艦八隻)ハ去ル六日「サイパン」ニ向ケ館山ヲ出撃セル所 父島N約200′附近ニテ神鹿丸(B船)機関不調 護衛艦一隻ト分離反転/(0800頃)杉山丸(海軍省)被雷撃護衛艦二隻ヲ附シ分離反転|太平洋|神鹿丸 杉山丸}東京湾帰投|
  48. ^ 陽炎型(光人社) 2014, pp. 263–264松風(まつかぜ)
  49. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C16120642900 (19-6)|9|0400頃|第三護衛船団司令官ノ指揮スル残四隻(護衛艦五隻内一隻ハ特掃)ハ南下中父島ノNE40′附近ニテ旗艦松風雷撃ヲ受ク|太平洋|松風 大爆發 沈没/護衛艦ニテ敵(潜水艦)攻撃効果不明/生存者 准士官以上一名 下士官兵七名/船団ハ一應父島ニ避泊スル如ク行動|
  50. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 195–196米軍機動部隊来襲
  51. ^ 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月11日~19年6月20日、pp.24-25」 アジア歴史資料センター Ref.C16120643000 (19-6)|15|0103|甘井子丸(海軍省 貨 4804t)ハ父島ヨリ帰投ノ途中父島NWニテ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|太平洋|甘井子丸 沈没/護衛艦ハ右(潜水艦)ヲ捕捉攻撃撃沈概子確実|/(19-6)|15|(空欄)|八丈島ノSE120′ニ於テ豊川丸(海軍省5123t)ハ浮上セントスル敵(潜水艦)ヲ衝撃シ之ヲ転覆セシメサラニ爆雷攻撃ヲ加フ|内地|敵(潜水艦)撃沈|
  52. ^ 戦史叢書85 1975, p. 222.
  53. ^ a b 戦史叢書85 1975, p. 227a硫黄島の防備強化
  54. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 254–255小笠原諸島防備強化
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  56. ^ #S19.04一水戦日誌(6) p.5〔(二)經過(1)第十八駆逐隊ハ帝洋丸ヲ護衛横須賀ニ囘航痕聯合艦隊命令ニ依リ木曽多摩ト共ニ南方諸島緊急輸送任務ニ從事ノコトトナリ十一日〇二〇〇父島ニ向ケ横須賀出撃所定任務ヲ完了シ十四日呉着一號三型電探装備其ノ他緊急整備工事實施 〕
  57. ^ #S19.04一水戦日誌(6) pp.8-10〔(三)麾下艦船ノ行動 〕
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参考文献[編集]

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  • 駆逐艦雪風手記編集委員会『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。 
  • 隈部五夫ほか『海防艦激闘記 護衛艦艇の切り札として登場した精鋭たちの発達変遷の全貌と苛烈なる戦場の実相』潮書房光人社、2017年1月。ISBN 978-4-7698-1635-5 
    • (68-76頁)当時「天草」機銃指揮官・海軍中尉小泉国雄『海防艦「天草」太平洋"対潜哨戒"道中記 対潜学校出の若き中尉が綴る東奔西走八七〇トン武運艦苦闘の日々
    • (77-88頁)艦艇研究家杉田勇一郎『占守型に始まった甲型エスコート艦列伝 戦争後期の苛烈な戦局に投入された急造護衛艦全タイプの実像
    • (223-243頁)戦史研究家伊達久『日本海軍甲型海防艦戦歴一覧 占守型四隻、択捉型十四隻、御蔵型八隻、日振型九隻、鵜来型ニ十隻の航跡
    • (244-287頁)三十五突撃隊隼艇搭乗員・海軍二等兵曹正岡勝直『付・戦力の中核 海軍小艦艇かく戦えり 海防艦、敷設艦艇、駆潜艇、哨戒艇など特設艦船を含む補助艦艇奮戦の全貌
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社、1984年4月。ISBN 4-7698-0231-5 
    「縁の下の役割」<駆逐艦「梅」艦長・大西快治少佐のの証言>(松輸送当時、駆逐艦朝凪艦長)
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月。ISBN 47698-2009-7 
    (409-418頁)獅子奮迅 <駆逐艦「皐月」艦長・杉山忠嘉中佐の証言>(杉山は、那智水雷長を経て隠岐海防艦長。その後、皐月駆逐艦長)
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8 
    • (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9 
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
  • 福井静夫 『昭和軍艦概史III 終戦と帝国艦艇 -わが海軍の終焉と艦艇の帰趨-』、出版共同社、1961年。
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 防衛研修所戦史室 『戦史叢書』、朝雲新聞社
    • 第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、1969年。
    • 第39巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(4) -第三段作戦前期-』、1970年。
    • 第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦後期-』、1971年。
    • 第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦中期-』、1974年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。 
  • 丸スペシャル潮書房
    • No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、1979年。
    • No. 111 太平洋戦争海空戦シリーズ 『終戦時の帝国艦艇』、1986年。
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 重巡Ⅲ 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦』 第7巻、光人社、1990年2月。ISBN 4-7698-0457-1 
  • 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。
  • 歴史群像編集部編『帝国海軍真実の艦艇史2 史料の精査と傍証の積み重ねで解き明かす定説の真偽と知られざる逸話の実相』 第51巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2005年8月。ISBN 4-05-604083-4 
    • (137-148頁)田村俊夫「帝国海軍 真実の艦艇史2〔第7章〕 中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り」


  • 海軍省
    • 法令、令達
      • 昭和15年4月10日付 内令第243号。
      • 昭和17年8月20日付 達第233号、内令第1548号、内令第1554号、内令第1556号。
      • 昭和18年3月28日付 内令第518号、内令第519号、内令第520号。
      • 昭和19年7月18日付 内令第876号。
      • 昭和20年8月26日付 内令第749号。
    • 人事発令
      • 昭和18年2月23日付 海軍辞令公報(部内限)第1057号。
      • 昭和18年3月29日付 海軍辞令公報(部内限)第1082号。
      • 昭和18年7月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1162号。
      • 昭和18年8月3日付 海軍辞令公報(部内限)第1184号。
      • 昭和19年1月10日付 海軍辞令公報(部内限)第1296号。
      • 昭和20年2月17日付 秘海軍辞令公報 甲 第1724号。
      • 昭和20年7月11日付 秘海軍辞令公報 甲 第1853号。
      • 昭和20年11月6日付 海軍辞令公報 甲 第1973号。
    • 戦時日誌、任務報告
      • 第四艦隊戦時日誌。
      • 第二海上護衛隊司令部戦時日誌。
      • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101800。 
      • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030050000。 
      • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030086900。 
      • 横須賀防備戦隊戦時日誌。
      • 昭和19年4月24日付 東松四号船団部隊機密第6号 「東松四号船団部隊任務報告」。
      • 第二十号掃海艇戦時日誌。
      • 第百三戦隊戦時日誌。
      • 佐世保海軍軍需部 兵器還納目録 海防艦隠岐。
  • 第二復員省
    • 法令、令達
      • 昭和20年12月1日付 内令第6号。
      • 昭和20年12月20日付 内令第12号、官房人第19号。
    • 人事発令
      • 昭和21年1月24日付 第二復員省辞令公報 甲 第42号。
      • 昭和21年4月5日付 第二復員省辞令公報 甲 第100号。
  • 復員庁第二復員局
    • 法令、令達
      • 昭和21年7月1日付 復二第67号。
      • 昭和22年1月6日付 復二第11号。
      • 昭和22年8月29日付 復二第606号。
    • 人事発令
      • 昭和22年1月29日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第129号。
      • 昭和22年8月14日付 復員庁第二復員局辞令公報 第51号。

関連項目[編集]