さんとす丸

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さんとす丸(さんとすまる)は、かつて大阪商船および商船三井客船(日本移住船)が所有し運航していた貨客船である。大阪商船所属の初代は日本最初の大型ディーゼル貨客船であるさんとす丸級貨客船のネームシップとして、南米への移民輸送に活躍。太平洋戦争中は特設潜水母艦、特設運送船として運用された。大阪商船および商船三井客船(日本移住船)所属の二代目は第二次世界大戦後に日本で建造された最初の大型貨客船であり、南米への移民輸送に活躍した。

さんとす丸・初代[編集]

SantosMaru Postcard2.JPG
「さんとす丸」(初代)
船歴
起工 1925年1月5日[1]
進水 1925年9月5日[1]
竣工 1925年12月10日[1]
その後 1944年11月25日に沈没
主要目
総トン数 7,266 トン(1942年)[2]
載貨重量トン数 7,453 トン[2]
全長 136.6 m[3]
垂線間長 131.28 m[2]
型幅 17.07 m[2]
型深 10.97 m[2]
吃水 (満載平均)7.687 m[2]
(空艙平均)3.427 m[2]
主機 ズルツァー ST60型ディーゼル機関 2基2軸[2][4]
出力 4,600馬力(計画)[2]
5,009.8 馬力(最大)[2]
航海速力 14 ノット[2]
最高速力 (半載状態)16 ノット[2]
船客定員 竣工時[3]
一等:38名
二等:102名
三等:760名
1941年[2]
一等:34名
三等:858名
乗員 132名[2]

概要[編集]

初代「さんとす丸」は、さんとす丸級貨客船のネームシップとして三菱長崎造船所1925年(大正14年)1月5日に起工し9月5日に進水、12月10日に竣工した。竣工後間もない12月18日に神戸港を出港して横浜港に向かい、12月22日に横浜を出港して処女航海の途につく[5][6]。さんとす丸級貨客船には352トン積みの冷蔵庫が備え付けられていたが、「さんとす丸」はこの処女航海で、静岡みかん約50トンを冷蔵庫に搭載していた[5]ぶゑのすあいれす丸級貨客船ぶゑのすあいれす丸りおでじゃねろ丸)が竣工した1930年(昭和5年)以降は、西回り南米航路はディーゼル船で統一されることとなり、年間11航海の定期航海を行った[7]。しかし、昭和5年10月には700名の移民を乗せて神戸を出港しようとする直前、ブラジル政府が入国禁止を通告してきたため移民の安否が気遣われたり[8]1935年(昭和10年)8月にも出港間際に移民制限令が出されて「大恐慌」と報じられるなど[9]、「さんとす丸」の航海は外的な要因もあって必ずしも順調なものばかりではなかった。

昭和5年時点の寄港地は、往航は神戸を振り出しに四日市、横浜を経て再び神戸に戻り、以後香港サイゴンシンガポールコロンボダーバンポート・エリザベスケープタウンと巡り、南アメリカ大陸にとりついてリオデジャネイロサントスモンテビデオを経てブエノスアイレスに到着、復航はサントス、リオデジャネイロ、ニューオーリンズガルベストンパナマロサンゼルスを経て横浜に帰着するものだった[10]。このような世界一周航路だっただけに船客も移民だけに限らず、往航だけに限ってみればシャム海軍士官の研修やオランダ領東インドへ向かう要人なども利用していた[11][12]1936年(昭和11年)からは、上述のブラジルの移民制限などを受けて始まったパラグアイへの移民輸送を開始し、昭和11年6月18日に第一陣のパラグアイ移民22家族170名を乗せて神戸からパラグアイに向かい、日系パラグアイ人の礎の構築に貢献した[13][14]。しかし、世界情勢の変化とともに南米航路も規模が縮小されることとなり、1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦勃発以降は優秀船の保護が行われることとなった[15]。その一方で、満州国への渡航客が急増したことと徴傭船が出たことにより、大阪大連線の輸送力が逼迫することとなった[16]。「さんとす丸」も1940年(昭和15年)からは南米航路から撤退して大阪大連線に移り、また台湾航路にも配された[17][18][19]

1941年(昭和16年)1月24日、「さんとす丸」は日本海軍に徴傭され、次いで3月1日付で特設潜水母艦として入籍、横須賀鎮守府籍となる[20]。3月1日から5月31日まで舞鶴海軍工廠横須賀海軍工廠で特設潜水母艦としての艤装工事が行われた[20]。このあと、「さんとす丸」は「満珠丸」と改名するが[19]、理由については定かではない[注釈 1]。もっとも、徴傭した日本海軍では若干の例外を除いて「満珠丸」とは呼ばずに、旧名の「さんとす丸」を使っていた[21][注釈 2]。なお本項では以降、「若干の例外」を除いて「さんとす丸」に統一して記述する。

太平洋戦争開戦時には第二潜水戦隊付属の潜水母艦として支援にあたるが[21]1942年(昭和17年)1月の時点では横須賀にあって前線には出動していない[22]。2月から3月にかけては南方作戦に従事し[23]、8月20日付で第二潜水戦隊が解隊すると[24]、8月31日に編成された呉潜水戦隊に移って、旗艦として引き続き母艦任務に従事した[25]。その後、1943年(昭和18年)3月25日に、元来大阪大連線の貨客船として建造された「筑紫丸」(8,135トン)が竣工と同時に徴傭され特設潜水母艦として入籍し[26]、「さんとす丸」は「筑紫丸」と入れ替わるように特設運送船に類別変更された。特設運送船になってからの「さんとす丸」は一貫して輸送任務に従事し、1944年(昭和19年)のサイパン島に対する松輸送にも参加、3月20日館山出港の東松三号特船団では、特設運送船「浅香丸」(日本郵船、7,398トン)および「山陽丸」(大阪商船、8,360トン)とともにサイパン島およびトラック諸島への輸送に任じた[27]。5月にも第四十三師団を輸送する東松八号船団に加わり、5月19日にサイパン島に到着して第四十三師団の将兵を上陸させた[28]。また、これより前の3月上旬には、引き揚げ日本人を乗せていた「亜米利加丸」(大阪商船、6,307トン)とともに船団を構成して日本に向かっていたが、3月6日にアメリカの潜水艦ノーチラス (USS Nautilus, SS-168) の雷撃で「亜米利加丸」が沈没するという一幕もあった[29]

6月20日、「さんとす丸」はヒ67船団に加入して六連沖を出港する[30][31][注釈 3]。上述の「若干の例外」とはヒ67船団と、8月4日昭南(シンガポール)出港で復航のヒ70船団であり、一連の航海のみ「満珠丸」となっている[32]。7月9日に昭南に到着後、「さんとす丸」はビンタン島産のボーキサイトを積み込みヒ70船団に加入[19][32]、8月15日に六連に到着した[33]。10月から11月にかけてはフィリピンへの輸送作戦に従事し、SS艇5隻とSB艇1隻、合わせて6隻の機動艇、および護衛の第102号哨戒艇および第38号哨戒艇とともにタマ31B船団を編成して、11月12日に高雄を出港してマニラに向かう[34]バタン諸島を縫うように南下し、11月19日夜と20日午前に空襲を受けたが撃退して、11月21日にマニラに入港した[34]

11月23日10時、「さんとす丸」は第38号哨戒艇、第102号哨戒艇および第33号駆潜艇の護衛によりマタ34船団を編成、高雄に向けてマニラを出港[35][36]。このとき、「さんとす丸」は海軍部隊の人員を乗せていた。数は1,300名[37]、1,500名[38]、1,445名[19]と諸説あるが、どの数が正しいにせよ、部隊の中にはレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵」の生き残りが相当数含まれていた[19]。船団は12ノットから13ノットの速力で北上していったが11月24日23時ごろ、北緯20度14分 東経121度50分 / 北緯20.233度 東経121.833度 / 20.233; 121.833サブタン島近海を航行中にアメリカの潜水艦アトゥル (USS Atule, SS-403) にレーダーで探知される[39][40]。アトゥルは戦闘配置を令して浮上状態のまま目標に接近し、翌11月25日1時10分すぎに疾走深度を6フィート(約1.83メートル)に設定した魚雷を艦首発射管から6本、艦尾発射管から2本発射した[41]。アトゥルの発射した魚雷はまず第38号哨戒艇に2本が命中してこれを轟沈させ[42]、間もなく「さんとす丸」にも2本が命中していった[19][43]。「さんとす丸」はすぐには沈まなかったが救命ボートなどが破壊され[19][44]、間を置かずして沈んでいった。「さんとす丸」の遭難者のうち700名ほどが第102号哨戒艇および第33号駆潜艇に救助された[19][44]1945年(昭和20年)1月10日に除籍および解傭[20]

艦長[編集]

  • (兼)木山辰雄 大佐:1941年3月1日[45] - 1941年3月12日[46]
  • 松原寛三 大佐:1941年3月12日[46] - 1941年8月11日[47]
  • 関禎 大佐:1941年8月11日[47] -

同型船[編集]

さんとす丸・二代[編集]

Santos Maru 1952 (01) Scan10010.jpg
「さんとす丸」(二代)
船歴
起工 1952年7月12日[48]
進水 1952年9月20日[48]
竣工 1952年12月10日[48]
その後 1976年に解体
主要目
総トン数 8,280 トン[48]
載貨重量トン数 10,780 トン[49]
全長 144.93 m[50]
垂線間長 134.00 m[48]
型幅 18.80 m[48]
型深 11.80 m[48]
吃水 8.70 m(満載)[50]
主機 三菱スルザー ディーゼル機関 1基1軸[48]
出力 6,160馬力(計画)[48]
航海速力 14.6 ノット[50]
最高速力 18.8 ノット[48]
船客定員 竣工時[49]
一等:12名
特別三等:63名
1957年[51]
一等:12名
特別三等:50名
三等:558名
乗員

概要[編集]

戦争で壊滅的打撃を受けた第二次世界大戦後の日本の海運業界および造船業界は、1947年(昭和22年)から始まった計画造船の下で再建が進められた。もっとも、計画造船で建造される船舶の種類は、当初は貨物船とタンカーのみであった[49]。他方、大阪商船は1950年(昭和25年)11月にGHQの許可の下に南米航路を貨物船のみで再開していた[52]。おりもおり、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を契機として、南米移民が国策として復活することとなった[49]。南米移民輸送を「歴史的大任」と自認していた大阪商船は、再び移民船を差し立てることを計画する[51]。しかし、その移民船の整備については多少の紆余曲折があった。当時、大阪商船の手元には、かつて台湾航路に就航して病院船となり、戦争を生き延びた「高砂丸」(9,347トン)が残っており、当初はこの「高砂丸」を移民船に改装する計画があったが、予算の関係などで、いつのまにか沙汰止みとなった[53]。これと前後するように、日本政府は第8次計画造船で貨客船1隻を建造することとし、これを大阪商船に割り当てることとした[49]。これが、二代目の「さんとす丸」である。二代目「さんとす丸」は、戦争終結後初めて建造された外洋型貨客船でもあった[49]

二代目「さんとす丸」は三菱神戸造船所で昭和27年7月12日に起工し9月20日に進水、奇しくも初代と同じ12月10日に竣工した。平甲板方の船型を持ち、最上甲板に一等船室、その下には食堂と喫煙室が配され、特別三等船室は中甲板、特別三等食堂は上甲板後方にあった[49]1948年のSOLAS条約に適合した安全確保の設備も完備していたが、この点でも条約適用の日本最初の貨客船でもあった[49]。「ささやかな設備」と大阪商船が認めているように[51]、キャパシティ面では初代「さんとす丸」を初めとする戦前の南米航路就航船とは比べものにならなかったが、それはもとが貨物船で、貨客船への転換が決まってから特別三等船室を急遽増設したためである[54]。それでも、「さんとす丸」は大阪商船の移民船復活の第一歩を記すこととなった。

「さんとす丸」は竣工後間もなく、54名のアマゾン移民を乗せて神戸港を出港[55]。当初は戦前と同様に西回り南米航路に就航していたが、1953年(昭和28年)4月の日本・アルゼンチン通商協定締結を機に、昭和28年5月からはパナマ運河経由の東回り南米航路に回った[56]1955年(昭和30年)ごろに移民輸送が一時頭打ちになるが、パラグアイ移民の再開およびドミニカボリビアへの移民が開始されるに及んでキャパシティの不足が懸念されたため、1957年(昭和32年)に改装が行われて新たに三等船客558名を収容できる船室を増設した[57]。翌1958年(昭和33年)には二代目の「あるぜんちな丸」(10,864トン)[55]が就航して華やかさを増すが、1959年(昭和34年)以降は日本において高度経済成長期(第一次)に差し掛かったことや受入国側の状況の変化、それにともなう移民の数の減少、そして「あるぜんちな丸」に関わる高額の諸経費支出によって採算が低迷する[58]1963年(昭和38年)に日本移住船(現:商船三井客船)が設立されて「さんとす丸」も移籍したが[59]、経営が不安定だったため親会社の大阪商船三井船舶に傭船に出たりもした[60]。その後は1972年(昭和47年)にパナマの船会社に売却されて「WINONA」と改名し、2年後の1974年には台湾の船会社に転売の上「HUI HSING」と再改名され、1976年に高雄で解体された[61]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #野間(2)#商船八十年史などは改名の事実は記してあるが、その理由までは言及されていない。
  2. ^ 日本海軍は、昭和16年11月7日付で同名のタンカー「満珠丸」(日本油槽船、6,515トン)を特設運送船(給油)として徴傭するが(#特設原簿 p.121)、このことを見越して旧名を使っていたのかどうかも定かではない。ただし、「さんとす丸」から「満珠丸」への改名自体は正式なものである(#日本汽船名簿)。
  3. ^ 「さんとす丸」の南方行きを7月のこととしている書物もあるが(#野間(2) p.451)、例えば7月13日六連出港のヒ69船団の記録には「満珠丸(さんとす丸)」の名はない(#ヒ69ヒ70 pp.2-3 、#駒宮 p.210)。

出典[編集]

  1. ^ a b c #創業百年の長崎造船所 pp.540-541
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n #日本汽船名簿
  3. ^ a b #日本の客船1 p.74
  4. ^ #野間(2) p.450
  5. ^ a b #大毎251114
  6. ^ #大毎251223
  7. ^ #商船八十年史 p.347
  8. ^ #大毎301223
  9. ^ #神戸350806
  10. ^ #商船八十年史 pp.347-348
  11. ^ #台日340507
  12. ^ #大時事350113
  13. ^ #大毎360601
  14. ^ #大朝360829
  15. ^ #商船八十年史p.115, pp.349-350
  16. ^ #商船八十年史 pp.282-283
  17. ^ #商船八十年史p.283
  18. ^ #神戸400330
  19. ^ a b c d e f g h #野間(2) p.451
  20. ^ a b c #特設原簿 p.103
  21. ^ a b #六艦1701 p.11
  22. ^ #六艦1701 p.45
  23. ^ #木俣潜 p.145,150
  24. ^ #木俣潜 p.225
  25. ^ #呉潜1709 p.3,7
  26. ^ #特設原簿 p.112
  27. ^ #駒宮 p.153
  28. ^ #駒宮 pp.174-175
  29. ^ #父特根1903 p.41
  30. ^ #駒宮 p.195
  31. ^ #郵船戦時下 p.757
  32. ^ a b #ヒ69ヒ70 pp.24-25
  33. ^ #駒宮 p.220
  34. ^ a b #駒宮 p.291
  35. ^ #PB38,1911(2) p.37
  36. ^ #一護1911 p.56
  37. ^ #PB38,1911(2) p.36,41
  38. ^ #PB102,1911 p.14
  39. ^ #SS-403, USS ATULEp.33
  40. ^ #PB38,1911(2) p.42
  41. ^ #SS-403, USS ATULE pp.33-34, pp.53-54
  42. ^ #PB38,1911(2) p.37,58
  43. ^ #SS-403, USS ATULE p.34
  44. ^ a b #PB38,1911(2) p.42
  45. ^ 海軍辞令公報(部内限)第598号 昭和16年3月1日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072080500 
  46. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第602号 昭和16年3月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072080500 
  47. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第688号 昭和16年8月11日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700 
  48. ^ a b c d e f g h i j #新三菱神戸五十年史 附録p.44
  49. ^ a b c d e f g h #新三菱神戸五十年史 p.143
  50. ^ a b c 「南米定期航路 新造貨客船 さんとす丸」大阪商船、1952年
  51. ^ a b c #商船八十年史 p.185
  52. ^ #商船八十年史 p.180
  53. ^ #木俣残存 p.359
  54. ^ 南米航路就航船舶 - 海運集約以前 大阪商船” (日本語). なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2012年7月26日閲覧。
  55. ^ a b #商船八十年史 p.353
  56. ^ #商船八十年史 pp.353-354
  57. ^ #商船八十年史 p.355
  58. ^ #野間(1) p.283
  59. ^ #商船八十年史 p.222, pp.356-357
  60. ^ #野間(1) p.285
  61. ^ 大阪商船の所有船舶 - 海運集約以前” (日本語). なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2012年7月26日閲覧。

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(外務省外交史料館)
    • Ref.B10070603800 『移民運送船之研究』。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050081300 『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、14頁。
    • Ref.C08030020400 『自昭和十七年一月一日至昭和十七年一月三十一日 第六艦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030020500 『自昭和十七年二月一日至昭和十七年二月二十八日 第六艦隊戦時日誌』、1-29頁。
    • Ref.C08030129700 『自昭和十七年八月三十一日至昭和十七年九月三十日 呉潜水戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030129900 『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 呉潜水戦隊戦時日誌』、30-51頁。
    • Ref.C08030273100 『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十日 父島方面特別根拠地隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030708100 『ヒ六九ヒ七〇船団作戦経過概要並所見』。
    • Ref.C08030626900 『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月二十五日 第三八号哨戒艇戦時日誌』、22-33頁。
    • Ref.C08030626900 『第三八号哨戒艇戦闘詳報』、34-60頁。
    • Ref.C08030631400 『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第百二号哨戒艇戦時日誌』、34-60頁。
    • Ref.C08030141700 『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第一海上護衛隊戦時日誌』。
  • 新聞記事文庫(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
  • (issuu) SS-403, USS ATULE. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-403_atule?mode=a_p. 
  • 三菱造船(編) 『創業百年の長崎造船所』 三菱造船、1957年
  • 新三菱重工業神戸造船所五十年史編さん委員会(編) 『新三菱神戸造船所五十年史』 新三菱重工業株式会社神戸造船所、1957年
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • 岡田俊雄(編) 『大阪商船株式会社八十年史』 大阪商船三井船舶、1966年
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会 『日本郵船戦時船史』下、日本郵船、1971年
  • 木俣滋郎 『写真と図による 残存帝国艦艇』 図書出版社、1972年
  • 山高五郎 『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』 至誠堂、1981年
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年ISBN 4-87970-047-9
  • 野間恒、山田廸生 『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』 海人社、1991年ISBN 4-905551-38-2
  • 木俣滋郎 『日本潜水艦戦史』 図書出版社、1993年ISBN 4-8099-0178-5
  • 野間恒 『豪華客船の文化史』 NTT出版、1993年ISBN 4-87188-210-1
  • 野間恒 『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』 野間恒(私家版)、2004年
  • 正岡勝直「日本海軍特設艦船正史」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、 92-240頁。
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、 92-240頁。
  • 松井邦夫 『日本商船・船名考』 海文堂出版、2006年ISBN 4-303-12330-7
  • 山田廸生「名船発掘・日本 140 さんとす丸(初代) 世界水準に達した日本最初の移民船『LA MAR 第214号』第37巻第3号、公益社団法人日本海事出版協会、2012年、 60-61頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]