択捉 (海防艦)

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択捉
Japanese escort ship Etorofu 1943.jpg
基本情報
建造所 大阪鉄工所桜島工場
日立造船桜島造船所)
運用者  大日本帝国海軍
Flag of Japan.svg 第二復員省/復員庁
艦種 海防艦(大日本帝国海軍)
特別輸送艦(第二復員省/復員庁)
級名 占守型海防艦
建造費 5,112,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル急計画
起工 1942年3月23日
進水 1943年1月29日
竣工 1943年5月15日
最期 1947年10月13日解体終了
除籍 1945年10月5日(大日本帝国海軍)
1947年8月5日(復員庁)
要目(竣工時)
基準排水量 870トン
全長 77.70m
最大幅 9.10m
吃水 3.05m
主機 艦本式22号10型ディーゼルx2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.7ノット
燃料 重油200トン
航続距離 16ノットで8,000海里
乗員 定員146名[注釈 1]
兵装 三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x36個
搭載艇 短艇x4隻
ソナー 九三式水中聴音機x1基
九三式水中探信儀x1基
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択捉(えとろふ、旧字体:擇捉)は[1]日本海軍海防艦[2]。普遍的には択捉型海防艦の1番艦とされているが[3]海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の5番艦。艦名は運送船択捉丸[注釈 2]に次いで2代目。なお、常用漢字の制定後も資料(戦史叢書等)によっては、当時の命名時、その他法令令達上で使用された、旧字体の「擇捉」で表記されることも多い[2][4]

艦歴[編集]

建造[編集]

海防艦択捉(えとろふ)は、1941年(昭和16年)に決定したマル急計画により[3]、日本海軍が建造した急造海防艦[5][6]。海防艦甲型[6]、仮称艦名第310号艦として計画。1942年(昭和17年)3月23日大阪鉄工所桜島工場[注釈 3]で起工。8月20日、「択捉」と命名。本籍を佐世保鎮守府と仮定。

1943年(昭和18年)1月29日、進水。5月15日、竣工した[2]。同年3月には既に姉妹艦3隻(松輪佐渡隠岐)が竣工しており、択捉は4番目の竣工となった[4] 本籍を佐世保鎮守府に、役務を佐世保鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められる。佐世保鎮守府附属に編入[2]

昭和18年の行動[編集]

1943年(昭和18年)6月1日、択捉は南西方面艦隊麾下の第一海上護衛隊に編入される[1][2]。姉妹艦2隻(松輪、佐渡)に続き、第一海上護衛隊に配備された3隻目の海防艦となった[7]。同隊北支隊に配され、主として内地-台湾間の護衛に従事した[2]。8月1日、軍隊区分は廃止され、すべて第一海上護衛隊司令官の直率となった[7]

11月15日、日本海軍は海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)を新編する[8]。第一海上護衛隊所属の本艦も同部隊の麾下となった[9]。12月以降、大鷹型航空母艦(海鷹、大鷹、雲鷹、神鷹)は整備や修理を終えた艦から順番に海上護衛総司令部部隊に編入され、南西方面航路の護衛に従事することになった[10][11]

昭和19年の行動[編集]

1944年(昭和19年)4月上旬、択捉は「ヒ57船団」に加わる[12]。ヒ57船団は護衛艦(空母〈海鷹〉、海防艦〈択捉、壱岐占守第9号〉、他2隻)で加入船舶9隻を護衛し、4月1日門司を出撃[12]。高雄港やカムラン湾を経て、4月16日シンガポールに到着した[12]。 折り返しの「ヒ58船団」に所属[13]。ヒ58船団は護衛艦(海鷹、択捉、壱岐、占守、第9号海防艦)で加入船舶7隻を護衛し、4月21日シンガポールを出撃する[13]。5月3日、門司に到着した[13]

第一海上護衛隊は8月16日附で軍隊区分掃蕩隊第三掃蕩小隊を海防艦4隻(佐渡、松輪日振択捉)に改編し、同小隊は佐渡海防艦長の指揮下で行動することになった[14]

8月上旬、日本海軍は南西方面向け重要船団ヒ71船団を編成する[15][16]。第六護衛船団司令官梶岡定道少将を指揮官とするヒ71船団は、護衛艦(空母〈大鷹〉、駆逐艦2隻 〈藤波夕凪〉、海防艦〈平戸、倉橋、御蔵、昭南、第11号〉)で加入船舶20隻を護衛、門司を出撃した[15][16]。 立ち寄った馬公市伊良湖含め船舶5隻を分離、別の船舶1隻を加えて8月17日に出撃する[16]。この時、当初護衛艦8隻に加えて第一海上護衛隊の4隻(駆逐艦〈朝風〉、第三掃蕩小隊〈佐渡、松輪、日振、択捉〉)が護衛強化のためヒ71船団に加えられた[16]

8月18日朝、永洋丸が雷撃を受けて損傷、駆逐艦夕凪護衛下で高雄港に引き返した[16]ルソン島北西岸航行中の同日夜、天候悪化により船団隊形が乱れる最中[16]アメリカ潜水艦複数隻がヒ71船団を襲撃する。22時30分頃、大鷹は米潜水艦ラッシャー[17]の雷撃により北緯18度12分 東経120度22分 / 北緯18.200度 東経120.367度 / 18.200; 120.367地点で沈没した[15]。大混乱に陥った船団は次々に襲撃され4隻(帝亜丸、速吸、帝洋丸、玉津丸)が沈没、損傷艦(阿波丸、能代丸)を出す[16]。 択捉は運送艦能代丸の護衛につき、遭難現場にとどまって対潜掃蕩をおこなう第三掃蕩小隊僚艦3隻(佐渡、松輪、日振)と分離した[16]。第三掃蕩小隊は遭難現場を引き払いマニラへ移動中の8月22日朝、マニラ沖合で潜水艦2隻(ハーダーハッド)に襲撃され3隻(佐渡[18]、松輪[19]、日振[20])とも撃沈された[16]。残存艦が択捉のみとなった第三掃蕩小隊は、8月24日に編成を解かれた[14]。 なおヒ71船団はマニラで編成替を行い、加入船舶12隻を護衛艦(海防艦〈平戸、倉橋、第2号、御蔵〉、駆逐艦〈藤波〉、第28号駆潜艇)で護衛し、8月26日出撃(9月1日、シンガポール着)[16]。9月1日、シンガポールに到着した[16]。 択捉は姉妹艦占守と共に「マモ02船団」に加入し、内地に帰投した。

11月中旬、択捉はヒ81船団に加わる[21]。ヒ81船団は第八護衛船団指令案佐藤勉少将を指揮官とし、護衛艦(空母〈神鷹〉、駆逐艦〈〉、海防艦〈9号、11号、61号、対馬、択捉、昭南、久米、大東〉)で加入船舶11隻を護衛した[21]。この船団は石油輸送と共に、日本陸軍第23師団のフィリピン輸送の任務を負っていた。 11月14日、ヒ81船団は門司を出撃、中国大陸沿岸航路をたどるべく東シナ海を横断した[21]。11月15日、ヒ81船団は米潜水艦(クイーンフィッシュ)の襲撃をうけ、陸軍特殊船あきつ丸が被雷沈没する[21]11月17日夕刻、米潜水艦(ピクーダ)の雷撃で陸軍特殊船摩耶山丸北緯33度17分 東経124度45分 / 北緯33.283度 東経124.750度 / 33.283; 124.750地点で沈没した[21]。午後11時頃、米潜水艦(スペードフィッシュ[22]の雷撃により神鷹が北緯32度59分 東経123度38分 / 北緯32.983度 東経123.633度 / 32.983; 123.633地点で沈没した[21]。ヒ81船団は空母1隻・陸軍特殊船2隻を喪失し、陸海軍将兵合計6000名以上が戦死する結果となった。

12月12日、択捉は海防艦昭南久米第9号海防艦第19号海防艦と共に「ヒ82船団」を護衛してシンガポールを出港した。17日、船団はカムラン湾に到着する。同地で駆逐艦(第7駆逐隊)を加えた船団は、19日にカムラン湾を出港し、ベトナム沿岸を北上した。12月21日の朝、船団はアメリカ潜水艦フラッシャーに発見される。フラッシャーは船団を追跡[23]し、徐々に護衛の薄い方向に回りこんで攻撃態勢に入る。同日、第19号海防艦がシンガポールに向かう特設運送船(給油船)日栄丸(日東汽船、10,020トン)の護衛のため船団から分離し、反転してカムラン湾に向かう。翌22日午前5時頃、択捉を含む護衛艦5隻全てが船団の近くから離れてしまい、船団は一時的に護衛なしの状態となる。フラッシャーはこの好機を逃さず、北緯15度02分 東経109度08分 / 北緯15.033度 東経109.133度 / 15.033; 109.133の地点で攻撃を開始した。5時50分、フラッシャーは艦尾魚雷発射管から魚雷を4本発射[24]タンカー音羽山丸三井船舶、9,204トン)の船尾と中央部に魚雷が1本ずつ命中する。音羽山丸は航空機ガソリン17,000トンを積んでおり、数百メートルの火柱を上げて炎上しながら、左舷に倒れて船尾から沈没していった[25]。直後の5時51分には2TL型戦時標準タンカーありた丸(石原汽船、10,238トン)の左舷油槽に魚雷が1本命中。ありた丸も搭載していた航空機用ガソリン16,000トンが誘爆。火達磨となって6時22分に沈没していった[26]。6時30分ごろには、フラッシャーは特設運送船(給油船)御室山丸(三井船舶、9,204トン)に対して魚雷を4本発射し、御室山丸の船尾機関室前部に魚雷1本が命中する。重油16,000トンを積んでいた御室山丸は黒煙を上げながら沈没した[27]日本側は機雷敷設区域に入り込んだと考えたため、フラッシャーへの反撃を行わなかった。 24日9時00分、船団は高雄に到着した。ここで1TL型戦時標準タンカー橋立丸日本水産、10,021トン)が、積んでいた航空機用ガソリン17,000トンを台湾の守備隊用に回すことになったため船団から分離した。翌25日、航空機用ガソリン8,800トン、2,000トン、生ゴム1,000トンを積んだ逓信省標準TM型タンカーぱれんばん丸(三菱汽船、5,237トン)のみとなった船団を護衛して高雄を出港する。 同日(12月25日)、択捉は第十二航空艦隊千島方面根拠地隊に編入された[2]。26日、船団は基隆に寄港する。同地で第9号海防艦が船団から分離し、海防艦笠戸が加入する。同日、基隆を出港した船団は中国沿岸を北上し、舟山に寄港。1945年1月1日9時00分に舟山を出港し、3日に泗礁山泊地に到着。4日8時30分に泗礁山泊地を出港し、9日18時4分に船団は六連に到着した。択捉は佐世保で修理と整備をおこなった[1][2]

昭和20年の行動[編集]

1945年(昭和20年)2月7日、佐世保を出港した[2]。2月25日、舞鶴に到着する[2]。以降は舞鶴大湊千島方面の護衛に従事した[2]。 同年4月10日大湊警備府第百四戦隊に編入された[2]北海道、千島方面の護衛に従事した[1]。終戦を稚内で迎える[2]10月5日、帝国海防艦籍から除籍[2]10月12日、帝国艦船特別輸送艦と呼称される。復員輸送に従事した[1]12月1日佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に定められる。

1946年(昭和21年)12月30日、特別保管艦に指定される。

1947年(昭和22年)8月5日、特別輸送艦の定めを解かれ、賠償艦としてアメリカ軍へ引き渡された[2]。しかし、アメリカ軍では戦時中の大量建造により、より高性能な自国の護衛駆逐艦の一部が余剰となっていたためすぐに売却され、9月7日-10月13日にかけて播磨造船所呉船渠で解体された。

艦長[編集]

艤装員長
  1. 前田清海 中佐1943年4月13日 - 1943年5月15日
海防艦長/艦長
  1. 前田清海 中佐:1943年5月15日 - 1943年8月20日
  2. 岡巌 中佐:1943年8月20日 - 1944年2月1日
  3. 池田暎 中佐:1944年2月1日 - 1944年7月1日
  4. 杉本安政 少佐/中佐:1944年7月1日 - 1945年11月10日
  5. 並木秀夫 中佐/第二復員官:1945年11月10日 - 艦長1945年12月20日 - 1946年4月1日[注釈 4]
  6. 繼一 第二復員事務官/復員事務官:1946年4月1日 - 1946年7月25日
  7. 溝口智司 復員事務官:1946年7月25日 - 1947年1月20日
  8. 草野家康 復員事務官:1947年7月17日 - 1947年8月5日

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この数字は特修兵を含まない
  2. ^ 日露戦争時の鹵獲汽船アフロダイト号
  3. ^ 大阪鉄工所の社号は1943年3月11日消滅し、日立造船の一部門となる
  4. ^ 充員召集を解除されたことによる自動解職

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 海防艦激闘記225頁「択捉(えとろふ)」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 写真日本の軍艦7巻232頁「海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇擇捉◇」
  3. ^ a b 海防艦激闘記81-84頁「占守型をほぼ踏襲した択捉型」
  4. ^ a b 海上護衛戦(戦史叢書)211頁『海防艦』
  5. ^ 海上護衛戦(戦史叢書)75頁『護衛用艦艇の建造』
  6. ^ a b 海上護衛戦(戦史叢書)209-210頁『海防艦の竣工と護衛艦艇の増勢』
  7. ^ a b 海上護衛戦(戦史叢書)231-2323頁『本期間における兵力増減状況』
  8. ^ 海上護衛戦(戦史叢書)301-303頁『海上護衛総司令部の設置』
  9. ^ 海上護衛戦(戦史叢書)344頁『第一海上護衛隊の護衛作戦/概要』
  10. ^ 海上護衛戦(戦史叢書)309-311頁『護衛空母の海上護衛総司令部部隊編入』
  11. ^ 海上護衛戦(戦史叢書)378頁『護衛空母による護衛』
  12. ^ a b c 海上護衛戦(戦史叢書)378-379頁『海鷹(旧名あるぜんちな丸)/(一)ヒ五七船団』
  13. ^ a b c 海上護衛戦(戦史叢書)379頁『海鷹/(二)ヒ五八船団』
  14. ^ a b 海上護衛戦(戦史叢書)354-355頁『護衛強化と掃蕩隊の編成』
  15. ^ a b c 海上護衛戦(戦史叢書)380頁『大鷹(旧名春日丸)/(三)ヒ七一船団』
  16. ^ a b c d e f g h i j k 海上護衛戦(戦史叢書)384-385頁『ヒ七一船団の被害』
  17. ^ 航空母艦物語305-306頁「レーダー像から姿を消す(大鷹VSラシャー)」
  18. ^ 海防艦激闘記226頁「佐渡(さど)」
  19. ^ 海防艦激闘記225-226頁「松輪(まつわ)」
  20. ^ 海防艦激闘記233頁「日振(ひぶり)」
  21. ^ a b c d e f 海上護衛戦(戦史叢書)381-382頁『神鷹(旧獨商船シャルンホルスト号)/(五)ヒ八一船団』
  22. ^ 航空母艦物語307-309頁「夜空をこがして(神鷹VSスペードフィッシュ)」
  23. ^ #SS-249, USS FLASHERp.179
  24. ^ #SS-249, USS FLASHERp.181,195
  25. ^ #駒宮p.306
  26. ^ #駒宮pp.306-307
  27. ^ #SS-249, USS FLASHERp.181,193

参考文献[編集]

  • 隈部五夫ほか『海防艦激闘記 護衛艦艇の切り札として登場した精鋭たちの発達変遷の全貌と苛烈なる戦場の実相』潮書房光人社、2017年1月。ISBN 978-4-7698-1635-5
    • (77-88頁)艦艇研究家杉田勇一郎『占守型に始まった甲型エスコート艦列伝 戦争後期の苛烈な戦局に投入された急造護衛艦全タイプの実像
    • (223-243頁)戦史研究家伊達久『日本海軍甲型海防艦戦歴一覧 占守型四隻、択捉型十四隻、御蔵型八隻、日振型九隻、鵜来型ニ十隻の航跡
    • (244-287頁)三十五突撃隊隼艇搭乗員・海軍二等兵曹正岡勝直『付・戦力の中核 海軍小艦艇かく戦えり 海防艦、敷設艦艇、駆潜艇、哨戒艇など特設艦船を含む補助艦艇奮戦の全貌
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年
  • 野元為輝ほか『航空母艦物語 体験で綴る日本空母の興亡と変遷!』潮書房光人社、2013年6月。ISBN 978-4-7698-1544-0
    • (300-309頁)戦史研究家大浜啓一『青い目の見た軽空母七隻の最後 海中深くひそむ米潜水艦と鷹型空母の息づまる対決
  • 『日立造船株式会社七十五年史』、日立造船株式会社、1956年。
  • 戦史叢書 第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、朝雲新聞社、1969年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。
  • 丸スペシャル No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、潮書房、1979年。
  • 『写真 日本の軍艦 重巡Ⅲ 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦』第7巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年2月。ISBN 4-7698-0457-1
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 51 『真実の艦艇史2』、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4


  • 明治38年9月1日付 達第120号。
  • 昭和15年4月10日付 内令第243号。
  • 昭和17年6月17日付 内令第1091号。
  • 昭和17年8月20日付 達第233号、内令第1548号、内令第1554号、内令第1556号。
  • 昭和18年5月15日付 内令第942号、内令第952号。
  • 昭和19年6月5日付 内令第738号。
  • 昭和20年10月1日付 軍務一第180号。
  • 昭和20年10月12日付 軍務一第192号。
  • 昭和18年4月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1093号。
  • 昭和18年5月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1115号。
  • 昭和18年8月21日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1196号。
  • 昭和19年2月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1310号。
  • 昭和19年7月6日付 海軍辞令公報 甲 (部内限) 第1526号。
  • 昭和19年7月8日付 海軍辞令公報 甲 (部内限) 第1529号。
  • 昭和20年11月22日付 海軍辞令公報 甲 第1989号。
  • 第一海上護衛隊戦時日誌
  • 千島方面根拠地隊戦時日誌
  • 昭和20年12月1日付 内令第6号。
  • 昭和20年12月20日付 内令第12号、官房人第19号。
  • 昭和21年4月17日付 第二復員省辞令公報 甲 第109号。
  • 昭和21年5月21日付 第二復員省辞令公報 甲 第137号。
  • 昭和21年12月30日付 復二第508号。
  • 昭和22年8月5日付 復二第555号。
  • 昭和21年8月2日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第37号。
  • 昭和22年1月29日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第129号。
  • 昭和22年8月4日付 復員庁第二復員局辞令公報 第48号。
  • 昭和22年8月14日付 復員庁第二復員局辞令公報 第51号。

関連項目[編集]