筑紫丸 (特設潜水母艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
筑紫丸
Auxiliary Submarine tender Tsukushi Maru.jpg
筑紫丸
基本情報
船種 貨客船
クラス 筑紫丸級貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
Flag of Japan.svg 日本
Flag of Pakistan.svg パキスタン
所有者 大阪商船
Pan-Islamic S.S. Co. Ltd.
運用者 Flag of Japan.svg 大阪商船
 大日本帝国海軍
Flag of Pakistan.svg Pan-Islamic S.S. Co. Ltd.
建造所 川崎重工業神戸造船所
母港 大阪港/大阪府
姉妹船 浪速丸
航行区域 遠洋/近海
信号符字 JBVR
IMO番号 49767(※船舶番号)
改名 筑紫丸→Safina E Millat
建造期間 1009日
経歴
起工 1940年6月20日[1]
進水 1941年9月24日[1]
竣工 1943年3月25日[1]
除籍 不明
要目
総トン数 8,135トン[1]
純トン数 4,944トン
載貨重量 4,387トン[1]
排水量 不明
全長 141.2m[2]
146.30m[3]
垂線間長 134.70m[1]
型幅 18.0m[1]
型深さ 10.15m[1]
喫水 3.95m[2]
満載喫水 6.24m[1]
主機関 川崎製二段減速衝動式タービン 2基[1][4]
推進器 2軸[1][4]
最大出力 8,794SHP[1]
定格出力 7,400SHP
最大速力 18.63ノット[1]
航海速力 16.5ノット[3]
航続距離 不明
旅客定員 一等:50名(予定)[5]
二等:183名(予定)[5]
三等:546名(予定)[5]
乗組員 129名[3]
竣工当日の1943年3月25日徴用。
テンプレートを表示
筑紫丸
基本情報
艦種 特設潜水母艦(日本海軍)
特設運送艦(日本海軍)
特別輸送船(第二復員省/復員庁)
艦歴
就役 1943年3月25日(海軍籍に編入時。日本海軍)
呉鎮守府部隊呉潜水戦隊/佐世保鎮守府所管
1945年12月1日(第二復員省/復員庁)
佐世保地方復員局所管
除籍 1945年12月1日(日本海軍)
1946年8月15日(復員庁)
要目
兵装 特設潜水母艦時
15cm砲4門
九三式13mm機銃単装2基2門[6]
特設運送艦時
十年式12cm高角砲2門
九六式25mm単装機銃1基1門
九三式13mm機銃単装2基2門
110cm探照灯1基
90cm探照灯1基
中防雷具一型改一1組
装甲 なし
ソナー 仮称吊下式水中聴音機三型1組
徴用に際し変更された要目のみ表記。
テンプレートを表示

筑紫丸(つくしまる)は、かつて大阪商船が所有していた貨客船。大阪大連線(大連航路)用として建造され、建造途中で太平洋戦争が開戦したため特設潜水母艦および特設運送艦として就役する。戦争終結後は復員輸送艦として運用され、やがてパキスタン船主に売却されたがその後の状況ははっきりしない。

概要[編集]

1937年(昭和12年)に就航した黒龍丸級貨客船に続いて計画され、筑紫丸級貨客船の第一船として川崎重工艦船工場で建造された。大阪商船は、長く三菱長崎造船所に貨客船の建造を多く発注していたが、玉造船所に発注された報国丸級貨客船以降は川崎重工、三菱神戸造船所などに建造が発注されている[注釈 1]。筑紫丸は1940年(昭和15年)6月20日に起工して1941年(昭和16年)9月24日に進水するが、進水から3カ月足らずで太平洋戦争開戦を迎える。二番船として建造されていた浪速丸はそれに先立つ昭和16年4月18日に建造が中止され、解体された[7]。筑紫丸は艦船建造優先のスケジュールの合間を縫って建造が続けられ、1943年(昭和18年)3月25日に竣工するが、同時に日本海軍に徴傭され、特設潜水母艦として入籍し佐世保鎮守府籍となる[8]。なお、筑紫丸と入れ替わるように特設潜水母艦さんとす丸(大阪商船、7,267トン)が特設運送船に類別変更された[9]

筑紫丸は呉潜水戦隊に編入され、その旗艦となった[10]。4月1日付で新たに訓練を主体とする第十一潜水戦隊が編成され、呉潜水戦隊の役割を継承した[11]。筑紫丸も第十一潜水戦隊に移り、瀬戸内海にて母艦任務に徹する[6]。12月に入り、筑紫丸は南方への輸送任務に従事していった。12月21日門司出港のヒ27船団で南に下り、1944年(昭和19年)1月2日に昭南(シンガポール)に到着[12]。3月にはトラック諸島およびサイパン島方面への輸送を行った[13][14]。その後は再び瀬戸内海での母艦任務に戻り、6月13日に伊予灘で訓練中に沈没した伊号第三三潜水艦(伊33)の捜索活動を潜水母艦長鯨とともに行った[15]。詳しい時期は定かではないが、昭和19年末ごろには第二甲板の一部を撤去して石炭庫を設置[5]。その後は九州で産出の石炭を阪神地区などへ輸送する任務に徹し、1945年(昭和20年)1月20日付けで特設運送艦に類別変更された[8]。6月4日には周防灘本山沖で触雷するが、応急処置の結果沈没は免れた[16]。8月15日の終戦を無事に迎えた筑紫丸は1946年(昭和21年)8月15日付で除籍され8月20日付けで解傭となった[8]

戦後の筑紫丸は復員輸送艦となり、昭和21年3月には日高信六郎イタリア大使ら在欧外交官など一行の引き揚げに際しマニラから浦賀まで輸送した[5][17]。しかし、1947年(昭和22年)5月にはラングーンからの復員兵を乗せて日本に向かった際、シンガポール付近でエンジン故障を起こして立ち往生し、応急修理を行って日本に帰国する一幕もあった[18]。生まれ故郷の川崎重工で修理されたものの、以降は神戸港因島で係留され、神戸港外に係留中の1948年(昭和23年)5月4日にはエンジンルームを全焼する火災事故が発生した[5][19]。戦後の大阪商船は同じように戦争を生き残った高砂丸(9,347トン)とともに筑紫丸を持て余していたが[20]1952年(昭和27年)1月31日にパキスタンのパン・イスラミック・スチームシップに68万ドル(2億6000万円=当時)で売却され、船名も「サフィナ・E・ミラット」 (SS Safina e Mitlat) と改められた[3][5][21][22][23]。売却後、川崎重工で機関の整備が行われたものの、新たに配属されたパキスタンからの船員は複雑な機構を持つタービン機関に慣れておらず、大阪商船から派遣された社員が指導にあたった[4]。整備を終え、8月6日に神戸港を出港する予定だったものの発電機の不調で出港できなくなり、港の野次馬連中からは「あの船はいつ出港するか」とか「無事にカラチに着けるのか」などと冷やかされる始末だった[4]。神戸出港以降の消息はパン・イスラミック・スチームシップの船隊の一隻として紹介され[23]ムスリム巡礼船として使用されたという記録以外は断片的にしか分からず[3][5][21]、1955年にロイド船名録英語版の記録から抹消されたとも[3]、1953年3月16日にカラチ港で火災を起こしてスクラップになったとも[24]、あるいは1960年に紅海で火災事故により失われたとも言われているが[3][5][21]、詳細ははっきりしない。

余談[編集]

1944年8月23日、アメリカの潜水艦タング (USS Tang, SS-306) が北緯34度37分 東経137度50分 / 北緯34.617度 東経137.833度 / 34.617; 137.833の地点で一隻の商船を発見し、魚雷を3本発射して2本を命中させ、目標を撃沈した[25]。タングのリチャード・オカーン艦長はこの目標について、ぶゑのすあいれす丸のようにも見えるが、その船は確か病院船だった。それでも、10,000トンから15,000トンの船だっただろう」という趣旨のことを戦時日誌に記した[26]真珠湾に帰投後、戦果判定が行われ、タングは8月23日の攻撃で「15,000トンの海軍大型輸送船」を撃沈したと認定され[27]、その後の記録の精査で15,000トンが10,000トンに下方修正されたものの、「海軍大型輸送船」撃沈という判定は変わらなかった[28]

やがて戦争が終わり、JANAC英語版によって日本側記録とつき合わせた再調査が行われ、タングの1944年8月23日の撃沈戦果は "Tsukushi Maru Transport 8,135(tonnage) " と認定された[29]。日本側の記録では、確かにこの日に "Tsukushi Maru" が沈没しているが、この "Tsukushi Maru" は本稿における8,135トンの筑紫丸ではなく、前身が北海道炭礦汽船所有の石炭運搬船である三井船舶の1,857トンの貨物船筑紫丸だった[30][31]。JANACの調査は厳しく、再調査の末に撃沈スコアが大きく削減された潜水艦もあったが[32]、タングの撃沈した筑紫丸は、1,857トンの貨物船ではなく戦争に生き残った8,135トンの貨客船の方で認定されてしまった。ただし、「タング」を扱ったサイトの中には、1,857トンの筑紫丸に修正してあるものもある[33]

艦長[編集]

艤装員長
  • 関禎 大佐:1943年1月15日 - 1943年3月25日[34]
艦長
  • 関禎 大佐:1943年3月25日 - 1943年5月1日[34]
  • 溝畠定一 大佐:1943年5月1日[35] - 1944年7月27日
  • 高橋長十郎 大佐:1944年7月27日[36] - 1945年1月6日
  • 關本織之輔 大佐:1945年1月6日[37] - 1945年1月20日
特務艦長
  • 關本織之輔 大佐:1945年1月20日 - 1945年10月1日
  • 大友文吉 大佐/第二復員官:1945年10月1日[38] - 艦長 1945年12月1日 - 1945年12月25日
  • 上田泰彦 大佐/第二復員官:1945年12月25日[39] - 1946年8月15日

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 三菱長崎造船所と疎遠になった理由については、大阪商船出身の船舶研究家である野間恒は「永年発注してきた三菱長崎造船所との関係が微妙になり」という書き方でしか表現していない(#野間 p.203)。大阪商船は1939年(昭和14年)に十五銀行所有の川崎造船所株を大量に譲り受けて影響力を強めているが(#大朝390411)、そのこととの因果関係は不明である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m #川重社史年表諸表 pp.190-191
  2. ^ a b #筑紫丸引渡目録p.1
  3. ^ a b c d e f g #日本の客船1p.145
  4. ^ a b c d #神戸港 p.54
  5. ^ a b c d e f g h i #野間 p.588
  6. ^ a b #木俣潜 p.585
  7. ^ #川重社史年表諸表 pp.192-193
  8. ^ a b c #特設原簿 p.112
  9. ^ #特設原簿 p.103
  10. ^ #呉潜1803 p.50
  11. ^ #坂本p.143
  12. ^ #駒宮 p.119
  13. ^ #駒宮 p.152
  14. ^ #海防艦戦記 p.113
  15. ^ #十一潜1906 p.28
  16. ^ #筑紫丸2006 p.23
  17. ^ 日本ニュース 戦後編 第12号” (日本語). NHK 戦争証言アーカイブス. 日本放送協会. 2012年6月14日閲覧。
  18. ^ #神戸港 p.10
  19. ^ #神戸港p.14,18
  20. ^ #木俣残存 p.44,358
  21. ^ a b c #木俣残存 p.44
  22. ^ #神戸港 p.53
  23. ^ a b The Islamic Review archives June 1953 (PDF)”. The Islamic Review archive. The Woking Muslim Mission (1953年). 2012年6月14日閲覧。
  24. ^ IJN Submarine Tender TSUKUSHI MARU: Tabular Record of Movement” (英語). Imperial Japanese Navy Page. Bob Hackett, Sander Kingsepp, Peter Cundall. 2012年6月14日閲覧。
  25. ^ #U.S.S. Tang (SS-306) p.99,121
  26. ^ #U.S.S. Tang (SS-306) p.99
  27. ^ #U.S.S. Tang (SS-306) p.127
  28. ^ #U.S.S. Tang (SS-306) p.129
  29. ^ #Roscoe p.558
  30. ^ #戦時遭難史 p.111
  31. ^ #野間 p.338
  32. ^ UMAXな人第二十二回:ミッドウェイ海戦における米潜水艦ノーチラスの戦い” (日本語). 大塚好古のホームページ. 大塚好古. 2012年6月14日閲覧。
  33. ^ Tang (SS-306)” (英語). uboat.net. uboat.net. 2012年6月14日閲覧。
  34. ^ a b 『日本海軍史』第10巻、164頁。
  35. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1106号 昭和18年5月1日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072090800 
  36. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1552号 昭和19年8月3日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100300 
  37. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1690号 昭和20年1月11日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  38. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1954号 昭和20年10月16日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072135000 
  39. ^ 第二復員辞令公報 甲 第44号 昭和21年1月26日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072162300 

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08011359800 『筑紫丸引渡目録(昭和二十年十月五日現在)』。
    • Ref.C08030129900 『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 呉潜水戦隊戦時日誌』、30-51頁。
    • Ref.C08030129000 『自昭和十九年六月一日至同年六月三十日 第十一潜水戦隊戦時日誌』、15-33頁。
    • Ref.C08030129000 『自昭和二十年六月一日至二十年六月三十日 特務艦筑紫丸戦時日誌』、21-44頁。
  • 新聞記事文庫(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3. 
  • 川崎重工業(編) 『川崎重工業株式会社社史 年表・諸表』 川崎重工業、1959年
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • 岡田俊雄(編) 『大阪商船株式会社八十年史』 大阪商船三井船舶、1966年
  • 木俣滋郎 『写真と図による 残存帝国艦艇』 図書出版社、1972年
  • 坂本金美 『日本潜水艦戦史』 図書出版社、1979年
  • 海防艦顕彰会(編) 『海防艦戦記』 海防艦顕彰会/原書房、1982年
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年ISBN 4-87970-047-9
  • 野間恒、山田廸生 『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』 海人社、1991年ISBN 4-905551-38-2
  • 木俣滋郎 『日本潜水艦戦史』 図書出版社、1993年ISBN 4-8099-0178-5
  • 野間恒 『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』 野間恒(私家版)、2004年
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年
  • McDaniel, J. T. (2005). U.S.S. Tang (SS-306) American Submarine War Patrol Reports. Riverdale, Georgia: Riverdale Books Naval History Series. ISBN 1-932606-05-X. 
  • 松井邦夫 『日本商船・船名考』 海文堂出版、2006年ISBN 4-303-12330-7
  • 村井正、花谷欣二郎 『船からみた第2次大戦後の神戸港 -外航貨客船などの入港実績を中心に-』 (私家版)、2009年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 生存した船 筑紫丸” (日本語). 戦時下に喪われた日本の商船. 三輪祐児. 2012年6月14日閲覧。