機動部隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

機動部隊(きどうぶたい)とは、機動性の高い部隊。陸軍では、戦車装甲車などを装備した部隊を、海軍では、航空母艦を中心に巡洋艦駆逐艦で編制された部隊を意味する[1]城砦陣地、洋上戦における泊地などの「機動出来ない戦闘部隊」である守備兵力の対語である[2]

機会に乗じて相手にすばやく接近し、敵指揮官・部隊の精神的バランスを崩壊させるための部隊として、「歩兵」と「騎兵(戦車)」に区分されることがある[3]。また、日本の空母部隊においては、軍隊区分による部隊号として使用された[4]。海外の空母部隊も機動部隊と日本語訳されることがある。

陸上部隊[編集]

歴史上、機動部隊を「歩兵」と「騎兵(戦車)」に区分すると、歩兵は地域を占領確保し、維持できる唯一の部隊であり、騎兵は襲撃によって敵を撃破できる唯一の部隊であるが、地域を占領確保することはほとんど不可能である[5]

紀元前490年、マラトンの戦いにおいて、マラトンに上陸したアケメネス朝ペルシア軍が弓射部隊と機動部隊を縦重にしたため、機動部隊は身動きができなくなり、混乱して劣勢のアテナイ軍に撃破された。機動部隊は前後左右に運動しながら行われるので、火力部隊の配置が機動部隊の行動の邪魔になることを回避しなければならなかった。以来、ヨーロッパの陸軍は、火力部隊の展開は両側に配置するか、機動部隊の行動しない間隙に配置するようにしている[6]

陸軍における機動部隊の概念は、時代や兵制、技術の発展や各国軍の方針により様々であるが、おおむね主力部隊と比較して高速機動力を発揮、あるいは任務に応じた部隊である。その編制には、騎兵や自動車化歩兵などの機動力に優れた兵種が多く含まれる。常設の部隊ではなく、迂回別働隊などの必要に応じてタスクフォースとして臨時に編成されることも多い。

陸上の機動部隊の例としては、アルジェリア戦争中のフランス軍の例が挙げられる。アルジェリア戦争でフランス軍は40万人を超える大軍を動員したが、駐留軍14個師団の内10個師団は指定された地域に張り付け、その地域内で警備とゲリラの平定を担当していた。残りの2個機甲師団と2個空挺師団が機動部隊として運用され、主要都市部やゲリラの篭る山岳地帯からサハラ砂漠モロッコチュニジア国境地帯など縦横無尽に展開し、貼り付け師団を補完する形で状況に応じ各地で作戦した。

なお、相対的に優れた機動力を持つ騎兵部隊や機甲部隊や機械化部隊および航空部隊などを総称して、機動部隊と呼ぶこともある。第二次世界大戦時の日本陸軍エアボーン部隊(挺進部隊)はその創設にあたって、陸軍全部隊から精鋭が募集されたが、秘匿性を維持するために「空挺部隊・落下傘部隊・挺進部隊」などと称さず「機動部隊」と称されていた。

艦隊[編集]

第二次世界大戦[編集]

大日本帝国の旗 大日本帝国

1941年4月に空母を主体とした第一航空艦隊(長官は南雲忠一中将)が編成され、真珠湾攻撃(12月実施)のために軍隊区分で他艦隊の補助戦力をこれに加えて「機動部隊」が編成された。これは史上初の用兵思想で編成された部隊であった[7]。これは、1937年に発生した支那事変で複数の航空隊を軍隊区分で第一、第二連合航空隊とし、さらに2つを合わせて連合空襲部隊を編成したことで、第三艦隊所属の航空隊が統一指揮下で航空作戦を展開したため、航空兵力集中運用、航空艦隊編成の思想に影響したという意見がある[8]。また、1940年6月9日に第一航空戦隊司令官小沢治三郎少将が海軍大臣に提出した「航空艦隊編成に関する意見書」の影響が指摘される。意見書の内容は、全航空部隊は、建制において統一指揮下に集め、最高指揮官は練度を詳知し、不ぞろいのないように計画指導し、統一指揮のために通信網を整備し、慣熟訓練をする必要があるので、そのために訓練も1つの指揮下に航空戦力を集めるべきであるというものであった[9]。一航艦は南方作戦において活躍し、1942年6月のミッドウェー海戦によって壊滅した。

1942年7月、新たな主力空母部隊の第三艦隊が編制され、1944年3月1日には第二艦隊(戦艦を中心とした部隊)と編合して第一機動艦隊が編制された。「機動」という語が艦隊の部隊号として初めて採択された。航空主兵思想に切り替わったという見方もあるが、実体は2つの艦隊を編合したに過ぎないという見方もある。ただ、前衛部隊を軍隊区分によらずに指揮下の部隊から充当できた[10]。機動部隊である第三艦隊が統一指揮を行ったのは、南太平洋海戦(1942年10月)後の研究会で草鹿龍之介少将から「機動部隊指揮官が所在部隊を統一指揮する必要がある。第二艦隊司令長官が指揮するのは作戦上具合が悪い」と意見したことで、1943年8月に解決し、建制上は1944年3月になった[11]

1944年6月、マリアナ沖海戦で第一機動艦隊の艦載機は壊滅状態になり、11月、レイテ沖海戦で機動部隊の空母を全て失う。同年11月15日、第一機動艦隊及び第三艦隊は解体された[12]

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

アメリカ海軍の空母部隊(エアクラフトフォース)は太平洋戦争開戦前、ウィリアム・ハルゼー中将の指揮する空母3隻、水上機母艦2隻からなる部隊が補助戦力としてハワイにあった(開戦時には二つに分けられていた)。これは戦艦部隊の決戦の支援が任務であったが、日本のように戦艦部隊と完全に二分化されたものではなかった[13]。アメリカ海軍には、タスクフォースという任務に対応する部隊編成の思想があり、当時、戦艦部隊はタスクフォース11、空母部隊はタスクフォース16、タスクフォース17となっており、この思想は開戦以降の作戦に役立った。1941年12月、真珠湾攻撃で戦艦を失い、戦艦部隊直衛防空兵力として行動していた空母を空母部隊に戻して「ヒットアンドラン作戦」で日本の拠点に空襲を開始した。その後、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦で日本の機動部隊と交戦し、日本の進攻を阻止した[14]

1943年、ガダルカナル島の戦いに勝利したアメリカ海軍は、兵力を艦型別に編成するタイプ編成と臨時に作戦任務部隊を編成するタスク編成を導入し、この編成で10月より反攻作戦を開始した[15]。1943年8月、空母「サラトガ」を中心としてフレデリック・シャーマン少将の指揮下でタスクフォース38が誕生し、終戦まで活躍した。この部隊は第3艦隊所属の場合にタスクフォース38、第5艦隊所属の場合にタスクフォース58と名称を変更していた。末期には正規空母軽空母18隻で空母群5つを展開していた。

イギリスの旗 イギリス

イギリス軍では、1942年初旬にインド洋作戦で、一航艦の来襲を察知した東洋艦隊の戦艦5隻、空母3隻からなる機動部隊が行動していた[16]。沖縄作戦では、空母4隻を中心とした機動部隊がアメリカ艦隊と行動していた。

大戦以降[編集]

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

冷戦時代にアメリカ海軍は強大な機動部隊を整備した。ソビエト連邦軍対艦ミサイル潜水艦に備えて、防衛システムをさらに発展させた。

アメリカ海軍の空母機動部隊は空母打撃群(CSG)と呼ばれ、原子力空母ニミッツ級)1隻を中心にして周辺をイージス巡洋艦タイコンデロガ級)、イージス駆逐艦アーレイ・バーク級)、、攻撃型原子力潜水艦ロサンゼルス級バージニア級)等で護衛している。随伴している艦艇は合計で5~6隻程度。旗艦任務はブルー・リッジ級のような指揮専用艦や通信機能の充実している大型揚陸艦などが有機的に受け持つ。

ニミッツ級の最大搭載機数は90機であるが、冷戦の終結により、F-14艦上戦闘機A-6艦上攻撃機S-3艦上哨戒機などを退役させたため、現在はF/A-18C/DE/F戦闘攻撃機が50機程度、EA-6BまたはEA-18G電子戦機が数機、E-2早期警戒機が数機、対潜哨戒救難用SH-60 シーホーク数機、合計70機程度と一時期よりは搭載機数が押さえられている。

世界中に展開するアメリカの空母打撃群には、高速で随伴する補給艦も同行している。また、水面下では原子力潜水艦が随伴していて、機動部隊の前路哨戒やトマホーク巡航ミサイルの攻撃任務を行う。原子力潜水艦よりも更に前方は、世界中に前方展開している陸上基地から飛来したP-3C地上配備哨戒機が前路哨戒をし、空母から飛び立ったE-2早期警戒機が空を監視する。

空母打撃群と並ぶアメリカ海軍のもう一つの機動部隊といえるのが遠征打撃群(ESG)である。従来からあった両用即応グループを拡張したもので、強襲揚陸艦ワスプ級)、ドック型揚陸艦・輸送揚陸艦ホイッドビー・アイランド級ハーパーズ・フェリー級サン・アントニオ級)にイージス艦を含む水上戦闘艦艇を3隻と攻撃型原子力潜水艦1隻を加えて対地・対空・対水上・対潜の攻撃能力を高めたものとなっている。上記の揚陸艦には約2,200名の海兵隊遠征隊(MEU)が乗り組んでいる。上陸作戦を行う場合にはこれらが主戦力となる。強襲揚陸艦にはハリアーIIV/STOL攻撃機を20機程度搭載可能で、限定的ではあるが空母打撃群の代替的な行動が可能となっている。

イギリスの旗 イギリス

STOVL機を搭載した軽空母中心の機動部隊も現れ、イギリス海軍のものはフォークランド紛争で活躍した。

イギリス海軍の機動部隊は、軽空母インヴィンシブル級)を中心にして駆逐艦42型)とフリゲート(23型)で護衛している。護衛艦艇は2隻-4隻程度。原子力潜水艦(トラファルガー級)を同行させる事もある。アメリカ海軍と同じくトマホークを発射する能力を持たせている。

搭載機はシーハリアー/BAe ハリアー IIV/STOL攻撃機が16機程度、HAS.シーキング早期警戒型ヘリコプター3機、マーリン HC.1哨戒ヘリコプター数機、合計24機程度。

出典[編集]

  1. ^ デジタル大辞泉
  2. ^ 松村劭『名将たちの決定的戦術』PHP文庫刊
  3. ^ 松村劭『戦術と指揮』PHP文庫刊
  4. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 74頁
  5. ^ 松村劭『戦術と指揮』PHP文庫刊
  6. ^ 松村劭『戦術と指揮』PHP文庫刊
  7. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 69頁
  8. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 67頁
  9. ^ 提督小沢治三郎伝刊行会編 『提督小沢治三郎伝』 原書房41頁
  10. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 74頁
  11. ^ 戦史叢書77巻 大本営海軍部・聯合艦隊(3)昭和十八年二月まで 318頁
  12. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 113頁
  13. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 98頁
  14. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 99頁
  15. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 101-102頁
  16. ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 25頁

関連項目[編集]