御真影

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

御真影(御眞影, ごしんえい)は、戦前日本において天皇肖像写真肖像画を敬って呼んだ語。エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇の肖像画をもとに作られた御真影がもっとも有名[1]。天皇の肖像写真については御写真(御冩眞)[2]ともいう。

教育現場の御真影は1890年代頃から本格的に配布されるようになり、これらは天皇自身と同一視され、最大級の敬意をもって取り扱われるようになり[1]1920年代からは奉安殿に保管されるようになった[2]。ただし、天皇の写真で儀礼的に丁重に取り扱われたのは教育現場に配布されたものなどごく一部に留まる。戦前に流布していた皇室写真の大半は、マスコミ等が1890年代頃から商業的に新聞や雑誌の付録に付けていた物であり、国民にとってはこちらの方が身近だったが、これらの取り扱いは全く各家庭や個人の自由に任される格好になっていた[1]

歴史[編集]

1873年に奈良県知事四条隆平が県庁に掲げるために天皇の肖像写真の下賜を申請し認められたことがきっかけとなり、各府県が次々と同様の申請をはじめた[3][2]。教育現場に本格的に下賜されるようになったのは1890年代からであり、教育現場に配布された御真影は天皇自身と同一視され、最大級の敬意をもって取り扱われるようになった[1]

宮内省から各学校に貸与され、奉安殿教育勅語と一緒に保管された。下付は強制ではなく、各学校からの請願の上、その学校が「優等」とされた場合に下付されることとなっていた。[要出典]宮内省から「貸与」されている物だけに、非常に慎重な取り扱いが要求され、1898年(明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)で、火事により明治天皇の御真影が焼けてしまった際には、当時の校長・久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を取って割腹自殺するという事件が起きたこともあった。また、1933年(昭和8年)、沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)で火事が起こって御真影が焼けてしまった際にも同様に、当時の校長が割腹自殺をした[4]。安全のため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。

しかし天皇の写真が儀礼的に丁重に扱われたのは教育現場などごく少数に限られる事例であり、戦前の皇室の写真は大半が役所や学校などの公共空間ではなく、商業マスメディアを通じて各家庭に持ち込まれたもので、それらの扱い方については全く各家庭に任されていた[1]1890年代から皇室のブロマイドや絵は市中で大量に売られており、商業誌や新聞にも掲載された。皇室グラビアは国民から非常に人気があったので商業誌にとっては読者獲得のコマーシャルの要素があったためである。これら商業誌を通じてお茶の間に届けられていた天皇の写真は学校現場の御真影よりもはるかにバリエーションが多く、国民にとって身近な物であった。国民の皇室に対する心情には教育現場の御真影よりこちらの方が大きく影響したと見られている[1]

明治初期の頃には民間が天皇の写真を販売するのを政府が禁止した時期があり、複写して販売する写真家が出て1874年(明治7年)4月には売買禁止が発令されたが、希望者が多かったため違反者は絶えず、1875年(明治8年)2月にも禁止が発令された[5]。しかし国民の間の需要は大きく、天皇の写真は闇で販売され続けた。そのため錦絵や石版画については比較的早期に黙認されるようになり、さらに1891年(明治24年)には皇室の肖像画や写真画の販売が解禁され、1898年(明治32年)には皇室写真の販売についても解禁された[1]

この解禁と印刷技術の発展によって商業誌や新聞は盛んに皇室の写真や絵の付録として付けるようになった。こうした皇室付録は当時の国民に非常に喜ばれ、これが付いている回は付いていない回と比べて売り上げが大きく上昇した。これらマスメディアによる写真販売を通じて大量の皇室グラビアが国民に広まった[1]。これらはスターのグラビアと同様の感覚で読み捨てられて消費されていった[1]

大正時代になると第一次世界大戦で欧州各国の皇室・王室が続々と廃止されたことへの危機感や大正デモクラシーなどの影響で政府内でもイギリス型の「開かれた皇室」を目指す動きが強まり、マスコミへの皇室写真撮影許可の機会が広がった[1]。大正天皇の病気の姿の撮影許可は認められなかったが、特に皇太子裕仁親王(昭和天皇)について撮影許可が増えた。1921年(大正10年)3月からの皇太子欧州歴訪は特に多くの写真が撮られ、背広などの「平民的」な皇太子の姿が連日メディアを踊り皇室人気が高まった[1]。この成功で自信を付けた政府は皇太子帰国直後の同年8月27日に各都道府県への内務省通達を出し、それによってマスコミはあらかじめ許可を受ければ皇室のスナップ写真を自由にとっていいこととなり、以前より近くからの皇室写真撮影が可能となった[1]。秘密主義的だった宮内省も背広姿で弟宮と移る皇太子の写真や皇太子の水着姿の写真など皇室のプライベートな写真を積極的にマスコミに貸与するようになった[1]。昭和に入った後もしばらくはこうした「平民的」な皇室写真がマスメディアを踊る状況は続いた[1]。当時輸入を担当していた小西六本店(コニカを経て現コニカミノルタ)が1928年(昭和3年)3月に出版したPR誌によると、昭和天皇夫妻の御真影はヘリアーで撮影されている[6]

しかし日中戦争第二次世界大戦が勃発するとこうした事態は急変し、皇室写真の撮影許可や新聞雑誌への掲載は政府から様々な干渉を受けることが増えた。そのため「平民的」な皇室の写真は大幅に減少し、大元帥を意識した軍服姿や軍務を執る姿の写真が天皇写真の多数を占めるようになった。ただ戦時中にあっても「平民的」な皇室写真が完全に消えたわけではなかった[1]

第二次世界大戦後[編集]

第二次世界大戦の敗北に伴い1945年(昭和20年)12月に文部省は学校からの御真影回収を指示し、これに応じて御真影は都道府県単位で回収され焼却処分(「奉焼」)された[7]。回収後再下付が行われるものとされていたが、実際には文部省は再下付に消極的だった[7]サンフランシスコ講和条約が発効し日本の占領が終わった1952年(昭和27年)6月に秋田県の敬愛学園高校が再下付を申請し認められたことを初めとして、1950年代には学校で御写真を掲げる儀式を再開する動きが一部にあった[7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 右田裕規 「皇室グラビア」と「御真影」 : 戦前期新聞雑誌における皇室写真の通時的分析 京都社会学年報 : KJS 9, 93-114, 2001-12-25
  2. ^ a b c 小原真史 御真影(御写真) | 現代美術用語辞典ver.2.0
  3. ^ 「御真影」物語|Webマガジンまなびと|学び!と歴史|大濱徹也2007年11月号
  4. ^ 「御真影」に殉じた教師たち 岩本努・著 1989年4月 大月書店より出版
  5. ^ 『クラシックカメラ専科No.38、プラクチカマウント』p.133。
  6. ^ 『クラシックカメラ専科No.8、スプリングカメラ』p.125。
  7. ^ a b c 小野雅章 戦後教育改革期の学校儀式と御真影再下付問題 : 1958年の学習指導要領改訂前後までの経緯を中心に 教育學雑誌 (46), 15-31, 2011-03-25

関連項目[編集]