祥鳳 (空母)

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剣埼/祥鳳
横須賀軍港にて(1941年12月20日)
横須賀軍港にて(1941年12月20日)
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 (運送艦[2] →)潜水母艦[3][4]航空母艦[5]
級名 剣埼型[2] (→ 瑞鳳型)
建造費 給油艦としての要求予算:18,000,000円[6]
母港 横須賀[7]
艦歴
計画 昭和9年第二次補充計画[8](1934年)
起工 1934年12月3日[1]
進水 1935年6月1日[1]
竣工 1939年1月15日(潜水母艦)[1]
1942年1月26日(航空母艦へ改造完成)[9]
最後 1942年5月7日沈没
除籍 1942年5月20日[10]
改名 剣埼[11] → 祥鳳[12]
要目(航空母艦時計画)
基準排水量 計画 11,163英トン[13]
または11,200英トン[14]
公試排水量 計画 13,000トン[13]
または13,100トン[15][注釈 1]
満載排水量 計画 14,053.60トン[16]
全長 205.50m[13]
水線長 計画 200.00m[13] または201.43m[14]
垂線間長 185.00m[13]
最大幅 船体最大幅 20.00m[13][注釈 2]
水線幅 18.00m[13]
深さ 11.50m[13]
飛行甲板まで 18.800m[17]
飛行甲板 長さ:180.0m x 幅:23.0m[13]
エレベーター(12x13m)1基、(12x10.8m)1基[18]
吃水 6.64m[15]
ボイラー 主缶:ロ号艦本式缶(空気余熱器付[14])4基[19]
補助缶:ロ号艦本式缶2基[19]
主機 艦本式オール・ギヤード・タービン(高中低圧[14])2基[19]
推進 2軸 x 300rpm、直径4.000m[19]
出力 52,000shp[13]
速力 28.2ノット[13] または28.0ノット[14]
燃料 重油 2,320トン[13]
航続距離 7,800カイリ / 18ノット[13]
乗員 竣工時定員787名[20]
搭載能力 九五式魚雷6本[21]
爆弾 250kg72個、60kg180個[22]
飛行機用軽質油 200トン[16]
兵装 12.7cm 40口径連装高角砲4基[23]
25mm 3連装機銃4基[23]
搭載艇 12m内火艇1隻、11m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、8m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船1隻[18]
搭載機 1942年1月20日付定数[24]
九六式艦上戦闘機12+4機
九七式1号艦上攻撃機(艦爆として)9+3機
常用21機、補用7機、計28機
搭載機区別字:シホ[25]
#艦載機も参照のこと。
潜水母艦時の要目は剣埼型潜水母艦を参照。
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祥鳳艦形図

祥鳳(しょうほう/しやうほう)は、日本海軍航空母艦[12][26]剣埼型潜水母艦剣埼(つるぎざき)として建造され[11][27][28]、のちに航空母艦へ改造された[29]太平洋戦争開戦後の1941年(昭和16年)12月22日、航空母艦として竣工[30]。この時に「祥鳳」と改名した[12]第四航空戦隊に編入される[31]。 1942年(昭和17年)5月、祥鳳は南洋部隊(指揮官井上成美中将、第四艦隊司令長官)の指揮下でポートモレスビー攻略作戦に参加。同作戦従事中の5月7日、米海軍機動部隊艦載機の攻撃で撃沈された(珊瑚海海戦[32]。本艦は、太平洋戦争の戦闘で最初に失われた日本海軍の空母となった[30][33]

歴史[ソースを編集]

艦名[ソースを編集]

剣埼の艦名は、神奈川県三浦半島東南の剱崎(劍崎)に依る[34][35]。 日本海軍の軍艦としては2代目となり[36]、初代「剣埼(剣崎)」は、海軍で最初にディーゼルエンジンを搭載した特務艦(運送艦/給油艦)[37][38]

剣埼[ソースを編集]

潜水母艦剣埼

ロンドン海軍軍縮条約により航空母艦の保有量を制限されていた日本海軍は、有事において短期間(軍令部希望1ヶ月 - 3ヶ月間)で航空母艦(空母)に改造できる艦船を建造することで、条約の制限を乗り切ろうとした[39][40]。そのような意図で建造されたのが空母3隻(祥鳳、瑞鳳龍鳳)の前身たる潜水母艦3隻(剣埼、高崎、大鯨)である[41]。最初から潜水母艦だった大鯨に対し、後発2隻(剣埼、高崎)は高速給油艦として設計されたが、建造中に潜水母艦へ変更された[42][43]

剣埼と高崎の姉妹艦2隻は横須賀海軍工廠で剣高(ケンタカ)と呼ばれていた[42]。2隻はマル2計画(第二次補充計画)で建造が決まり、1933年(昭和8年)6月に具体的な要求事項が決定したが、本当の建造目的(空母化)は軍事機密として伏せられていた[44]。この時点で、空母化を前提とした設計となっていた[43]

1934年(昭和9年)11月5日、日本海軍は正式に特務艦「剣埼 (ツルギザキ)」と命名[11][35]。 同年12月3日横須賀海軍工廠において、剣埼は潜水母艦大鯨、最上型巡洋艦3番艦鈴谷と同一船台で起工した[41]。準姉妹艦(大鯨)に引き続いて電気溶接技術を多用したが、同艦での溶接失敗経験を生かして作業は順調に進んだ[40][45][46]

1935年(昭和10年)6月1日午後5時45分、剣埼は進水した[1][47][35]。進水式に皇族の列席はなく、横須賀鎮守府司令長官末次信正大将の臨場下、村田豊太郎中将(横須賀海軍工廠長)、池田耐一造船少将(工廠造船部長)、福田烈造船中佐(進水主任)等が参加した[48]。大学生だった福井静夫も進水式を見学している[48]。 同日附で、山下知彦大佐は剣埼艤装員長に任命された[49]。 剣埼進水後、第2船台では直ちに高崎の建造がはじまった[48]

10月7日、山下(剣埼艤装員長)は横須賀海軍工廠総務部長へ転任[50]。後任の剣埼艤装員長は、大塚幹大佐(当時、特務艦早鞆艦長)となった[50]友鶴事件での復元性問題や、第四艦隊事件の船体構造問題を受けて、2隻(剣埼、高崎)も船体補強を実施した[51][41]。高崎は建造中のため船台上での補強を実施したが[48]、剣崎は進水済のため、約3年ほど横須賀港で繋留放置されている[52]

1936年(昭和11年)6月19日、横須賀海軍工廠で姉妹艦の高崎が進水した[48][53]。 7月8日、同工廠で空母飛龍が起工した[54]。 その時も、剣埼型2隻(剣埼、高崎)は建造途中のまま横須賀で停泊[55]、放置状態であった[56]。 10月7日、水崎正次郎大佐(高崎艤装員長)が早鞆特務艦長へ転任したことに伴い、大塚(剣埼艤装員長)は高崎艤装員長も兼ねることになった[57]12月1日、大塚(剣埼・高崎艤装員長兼務)が重巡洋艦古鷹艦長へ転任[58]したため、樋口曠大佐(当時、空母加賀副長)が剣埼艤装員長に任命された[58](大塚は1945年7月、戦艦長門艦長として戦死)。

1937年(昭和12年)5月20日、樋口(剣埼艤装員長)は舞鶴海軍航空隊司令へ転任した[59]。そのため柿本權一郎(高崎艤装員長)が剣埼艤装員長を兼務することになる[59]。 6月15日、柿本大佐は剣埼・高崎艤装員長の兼務を解かれ、橋本愛次大佐(当時、装甲巡洋艦浅間艦長)が剣埼艤装員長となる[60]。 11月16日、横須賀工廠で飛龍が進水した[54]。その時も剣埼型2隻(剣埼、高崎)は横須賀に繋留されていた[61]。 12月1日、橋本(剣埼艤装員長)は高崎艤装員長との兼務を命じられる[62]

1938年(昭和13年)9月15日、日本海軍は大鯨での経験を生かし、剣埼の高速給油艦から潜水母艦への改造に着手した[36]。 9月20日、橋本(剣埼艤装員長)は制式に剣埼艦長となった[63]。 11月20日、橋本(剣埼艦長、高崎艤装員長)は軽巡洋艦五十鈴艦長の兼務を命じられた[64]。同日、館山沖で全力公試を実施[65]。 同時期、剣埼は本艦を特務艦と宛名する郵便物に対し軍艦として扱うよう通達している[66]。 12月15日、橋本大佐は各艦艦長兼務を解かれて五十鈴艦長のみとなり[67]、高崎艤装員長には中里隆治大佐(大鯨艦長)[68]、剣埼艦長には第18潜水隊司令と第30潜水隊司令を兼ねていた福沢常吉大佐が[69]、それぞれ任命されている。

1939年(昭和14年)1月15日、「剣埼」は潜水母艦として竣工[70][1]横須賀鎮守府籍となる。しかし将来の布石として大型複合ディーゼルを導入したものの、運転公試で故障が発生[71]。その後も機関故障が続発、最大発揮速力は約17ノットに制限された[72]

2月5日、剣崎は、第二艦隊・第二潜水戦隊に編入された。2月6日、軽巡洋艦阿武隈から第二潜水戦隊旗艦を継承する[73]。 北支や南洋方面で活動。11月15日、艦隊の再編により第一艦隊・第四潜水戦隊に編入、剣埼は同潜水戦隊旗艦に指定された[74]。 同日附で、福沢(剣埼艦長)は第15防備隊司令へ転任(福沢は、太平洋戦争開戦時の工作艦明石艦長)[75]。後任の剣埼艦長は、伊藤尉太郎大佐(当時、運送艦野島特務艦長)となる[76]。 翌年に掛けて南支や南洋方面で活動。高速大型の最新鋭潜水母艦2隻(大鯨、剣埼)が潜水戦隊に加わったことで、潜水艦部隊の練度は大いに向上したという[70]。また潜水戦隊関係者の武技・体技大会も、格納庫を利用して開催された[77]。居住性も良く、潜水艦乗員からは「剣埼ホテル」と呼ばれたという[78]

一方で、剣埼型2番艦高崎は1935年(昭和10年)6月20日に起工(剣埼の進水から一ヶ月以内)、翌年6月19日に進水したが[79][53]、その後は前述のように剣埼と共に横須賀軍港で繋留放置されていた[51][56]。 未完成のまま放置されていたため先行して航空母艦へ改造中の高崎は[78]1940年(昭和15年)12月15日附で空母瑞鳳と改名され[80]、12月27日に竣工したがその際に『瑞鳳:1938年(昭和13年)1月15日起工、1939年(昭和14年)3月1日進水』という架空の起工・進水日を登録した[81]。また本艦の場合も『1939年(昭和14年)1月10日起工、1940年(昭和15年)2月23日進水』という架空の起工日と進水日を設定した[82]。このため本当の起工順は(1番艦:大鯨 - 2番艦:剣埼 - 3番艦:高崎)だが、航空母艦としての関係は(瑞鳳〈高崎〉 - 祥鳳〈剣埼〉 - 龍鳳〈大鯨〉)となった。

本艦(祥鳳)の空母改装は1940年(昭和15年)11月15日から横須賀海軍工廠ではじまった[36]。横須賀鎮守府第四予備艦となり、航空母艦への改造工事に着手。横須賀工廠ではすでに航空母艦翔鶴の建造がはじまり、進水も前年6月1日にすませていた[83]。 同日附で伊藤(剣埼艦長)は海軍潜水学校教頭へ転任[84]。翔鶴艤装員長城島高次大佐が、翔鶴艤装員長と剣埼艦長を兼務することになった[85]

祥鳳[ソースを編集]

剣埼は1940年(昭和15年)11月15から計画通りに航空母艦へ改造されたが、不調のディーゼル機関タービンと交換した。この工事に約1年掛かってしまった[42][82]。不調のディーゼルエンジンを陽炎型駆逐艦の艦本式ボイラーと艦本式タービンに換装したのである[86]

1941年(昭和16年)4月17日、城島大佐は翔鶴初代艦長に任命され、引き続き2隻(翔鶴、剣埼)艦長を兼務することになった[87]。 8月8日、城島大佐(翔鶴艦長、剣埼艦長)は両艦艦長兼務を解かれ、扶桑型戦艦2番艦山城小畑長左衛門艦長が剣埼艦長と山城艦長を兼務することになった[88]。 10月1日、小畑艦長(山城艦長、剣埼艦長)は兼務を解かれ、剣埼艦長は元山海軍航空隊司令伊沢石之介大佐となった[89]。 11月1日、横須賀鎮守府特別役務艦に定められる[90]12月20日、ほぼ改装が終わった剣埼(祥鳳)と交替で、横須賀で大鯨の空母改造がはじまり、それにともない同艦が予備艦となった[91]12月22日、改造完成により剣埼から祥鳳へと改名された[12][82][92]。 同日附で航空母艦に類別[5]。横須賀鎮守府籍[7][93]。 伊沢大佐(剣埼艦長)以下、剣埼乗組員は祥鳳乗組員となった[27]。また、艦艇類別等級別表の潜水母艦欄から剣埼型が削除された[5]

珊瑚海海戦にて魚雷攻撃を受ける祥鳳

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が勃発。12月22日、完成と共に第一航空艦隊所属の第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)[94][95]に編入された[96][97]

第四航空戦隊から連合艦隊附属に転出した春日丸級特設空母1番艦春日丸(大鷹)の代艦であった[98]。司令官角田少将は空母龍驤を旗艦として南方作戦蘭印作戦に従事しており、竣工したばかりの本艦は内地で訓練に従事した[98]。なお、祥鳳への改名に際し空母鳳翔または空母翔鳳とする誤記が多発、郵便物の誤配に悩まされた[26]

祥鳳の航空母艦としての最初の任務は、ニューブリテン島ラバウルへの零式艦上戦闘機(以下『零戦』)輸送任務であった[98][99]1942年(昭和17年)2月1日附で、本艦は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)に編入された[100]

2月4日、祥鳳は駆逐艦帆風と共に横須賀港を出港[101][102]、当時の祥鳳搭載機は九六式艦上戦闘機4(補用2)機、九七式艦上攻撃機9(補用4)機だった[103]。出港時の収容機は、九六艦戦6(内3機解体)、九七艦攻12(甲板上2機)、零戦9機であったという[97]。 2月6日、対潜哨戒中に九六艦戦が着艦に失敗、パイロットは帆風に収容されるも戦死した[102][104]。2月9日、第四艦隊(司令長官井上成美中将〈南洋部隊指揮官〉:旗艦鹿島)の根拠地トラック泊地に到着[102][97]

2月13日、祥鳳隊2隻(祥鳳、帆風)はトラックを出発して15日ラバウル北方150浬で零戦9機を発艦させ[97]、2月16日トラックへ戻った[105][106]。 航海中の15日、第四艦隊は本艦に対しパラオでの基礎訓練と同基地配備の九六艦戦12機をトラック泊地へ輸送するよう命じた[107][108]。2月18日、祥鳳隊(祥鳳、帆風)はトラックを出港するが、暗号解読により待ち伏せていたアメリカの潜水艦グレイリング (USS Grayling, SS-209) から狙われた(グレイリングの場合は赤城、加賀を標的としていた)[102]。400-500mまで迫ったもののグレイリングは攻撃に失敗し、日本側は何も知らぬまま航海を続けた[102]

2月20日、米空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) がラバウル東方海面に出現したため、井上中将は練習巡洋艦(旗艦)鹿島、敷設艦沖島を率いてトラックより出撃、さらに第六戦隊(司令官五藤存知少将:青葉、加古、衣笠、古鷹)と祥鳳にも迎撃を命じた[109][108]。 同日正午、祥鳳はトラックに向け反転[108]。21日に第六戦隊(五藤少将)の指揮下に入る[109][110]。レキシントン追撃のための措置だったが、本格的な交戦に至る前にラバウル航空隊に迎撃されてレキシントンは撤退した(ニューギニア沖海戦[111][112]。第四艦隊の追撃作戦は中止され、祥鳳はパラオへ向かった[109][113]。仮にこの時点で大型空母レキシントンと対決した場合、珊瑚海海戦と同じ結末を辿ったと思われる[109]

2月24日、空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)の艦載機がウェーク島を空襲した[109]。パラオへ向かっていた祥鳳は再び反転してトラック諸島近海に戻り[114]、2月26日トラック到着[115][113]。以後は同地で訓練に従事した[109]。3月上旬にもラバウル方面への航空機輸送任務を実施、零式艦上戦闘機20機がラバウルに進出した[116]

ドーリットル空襲[ソースを編集]

4月6日朝、搭載航空機を旧式の九六艦戦から零式艦上戦闘機に更新するため[117]、トラック泊地を出発[118]。4月11日夕方、2隻(祥鳳、帆風)は横須賀に到着した[119][120]。本艦は零戦18機(台南海軍航空隊用9機)、九六艦戦2隻(分解収納)、九七艦攻6機を搭載し、4月20日に横須賀を出港する予定だった[121]

4月18日、ウィリアム・F・ハルゼー中将率いるアメリカ軍の機動部隊(ホーネットエンタープライズ基幹)が日本本土東方海面に接近[122]、哨戒漁船第二十三日東丸に通報されたため、予定より十時間はやくジミー・ドーリットル中佐以下B-25ミッチェル爆撃機16機を発進させると、アメリカ軍機動部隊は西方へ退避[123]。昼間強襲を敢行したB-25隊は各地で爆撃に成功した。

ドーリットル空襲時の祥鳳は東京湾で航空隊発着艦訓練に従事中だったが、横須賀を爆撃したB-25に対し12.7cm高射砲2発を発砲した[124]。つづいてアメリカ軍機動部隊追撃のため、訓練を中止して横須賀へ入港[125][122]。当時の使用可能な祥鳳航空隊は零戦10、九六艦戦4、九六式艦上攻撃機6機であったという[126]

一方、米空母追撃の指揮をとる第二艦隊司令長官(前進部隊指揮官)近藤信竹中将は、まず横須賀在泊中の第四戦隊(愛宕〈第二艦隊旗艦〉、高雄)、第10駆逐隊(夕雲巻雲風雲)、第7駆逐隊()、第8駆逐隊(朝潮荒潮)、第4駆逐隊(野分)を率いて横須賀を出撃する[127][128]。 同時に三河湾に停泊中の重巡摩耶(第四戦隊)、桂島泊地の第五戦隊(妙高羽黒)、呉の軽巡神通第二水雷戦隊)に前進部隊への合流を指示し、祥鳳に対しても前進部隊編入を下令[128][129]。本艦は近藤中将(愛宕)の指揮下に入り、米軍機動部隊を迎撃することになった[130]

4月19日、午前4時頃に横須賀を出発した祥鳳は千葉県野島崎附近まで駆逐艦2隻(朝雲山雲)に護衛されたあと[131]、単艦で前進部隊(第二艦隊)の後を追って東進した[128]。 祥鳳の護衛には第7駆逐隊(潮、曙、漣)が指定されていたが[132]、合流できないまま4月20日夕刻の作戦中止通達を迎え、各隊・各艦は母港への帰路についた[128][133]。 近藤長官は第7駆逐隊のかわりに第4駆逐隊(嵐、野分)を派遣する[128][134]。 合流後、3隻(祥鳳、嵐、野分)は23日朝になり横須賀へ帰着した[135][136]

珊瑚海海戦[ソースを編集]

米軍が撮影した祥鳳への攻撃

祥鳳は1942年(昭和17年)5月7日珊瑚海海戦において、MO攻略部隊主隊(青葉、加古、衣笠、古鷹、祥鳳、漣)として輸送船団を護衛中に、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受け撃沈された[137][138]。経過は以下のとおり。

日本軍は米豪遮断作戦の一環としてニューギニア島の要所ポートモレスビーの攻略を目指していた(ポートモレスビー作戦[139]。その布石として第四艦隊(司令長官井上成美中将:旗艦鹿島)の指揮下でニューブリテン島ラバウルを占領、さらにフロリダ諸島ツラギ島を確保して水上機部隊の進出を企図する[140]。連合軍にとってもポートモレスビーはオーストラリアの安全を守ると同時に、将来の反攻作戦における『跳躍台』として重要な拠点だった[139]。連合軍(イギリス軍、アメリカ軍)はすでに日本軍の暗号を解読しており[141]、祥鳳は新鋭空母龍鶴として認識されていた[142]。また日本軍の複雑な作戦計画に乗じて敵軍の各個撃破を狙える立場にあったが、投入できる空母は2隻(ヨークタウン、レキシントン)のみで、戦力的に充分とは言い難かった[139]。 一方の日本軍も、小型空母1隻(祥鳳)のほかに第五航空戦隊(司令官原忠一少将)の翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴瑞鶴)を投入することになった[143]。南洋部隊としては空母加賀(その後、第二航空戦隊〈蒼龍、飛龍〉に変更)の増援を要請したものの、兵力不足のため第五航空戦隊の2隻に変更されたという経緯がある[144]

4月24日、祥鳳は吹雪型駆逐艦(第7駆逐隊所属)と共に横須賀を出撃[145]。4月29日、トラック泊地に到着して第六戦隊(第1小隊〈青葉加古〉、第2小隊〈衣笠古鷹〉)と合同した[146][147]。だが第六戦隊との作戦打ち合わせは出撃前日に『辛うじて間に合った』という情況だった[148]。 トラック泊地での会議では、第四艦隊参謀川井厳大佐、第五航空戦隊参謀山岡三子夫中佐も出席して、おもに祥鳳の運用について討議したという[147]第五航空戦隊側は空母3隻(瑞鶴、翔鶴、祥鳳)を集中運用する方針を示し、祥鳳側も搭載機を戦闘機に統一した上で防空任務を担うことを希望した[147][143]。しかし第四艦隊は輸送船団の護衛を重視して、五航戦の案を却下した[147]。また祥鳳飛行長杉山利一少佐は、祥鳳を輸送船団から分離させ適宜行動するよう主張したが、第四艦隊側は「輸送船団を安心させるために船団の視界内を航行するように」と主張、祥鳳飛行長の意見は却下された[147]。輸送船団14隻の速力は約6 - 7ノットだった[149]

こうして祥鳳の任務はおおむね決定したが、第六戦隊司令官五藤存知少将としても『祥鳳は元来兵力微弱にして練度亦充分とは云ひ難い』小型空母の運用については悩むところがあり、水上機母艦部隊(神川丸聖川丸)航空隊と連携した上で、本艦任務を船団護衛上空と定めた[150][147]

MO攻略部隊主隊は4月30日トラック泊地を出撃するが、最初の任務はツラギ攻略部隊の上陸支援だった[151][152]。航空隊収容のため2隻(祥鳳、漣)は第六戦隊の重巡4隻から遅れた[153]。5月2日に第六戦隊と合流するが、敵飛行艇迎撃時に事故で戦闘機1を喪失した[154]。 5月3日、ツラギ攻略部隊はフロリダ諸島ツラギ島、ガブツ島等)を簡単に占領、ただちに水上機部隊の基地設営がはじまる[155][156]。作戦成功によりツラギ方面部隊の護衛をやめ、MO攻略部隊輸送船団護衛のために反転した[157]。5月4日、ヨークタウンはツラギ空襲を敢行、睦月型駆逐艦菊月(第23駆逐隊所属)を撃沈し、敷設艦沖島(第十九戦隊司令官志摩清英少将座乗)等に損害を与えた[158][159]。急報を受けた主隊(第六戦隊、祥鳳)は反転南下してアメリカ軍機動部隊を捜索したが、ヨークタウンは既に南へ避退しており発見できなかった[160]

5月5日昼間の船団護衛を実施後[161]、祥鳳はブーゲンビル島ショートランド泊地にて給油艦石廊から夜間燃料補給を行うことになった[162]。ところが作業不慣れのため約1時間しか補給できなかった[163]。 そこで5月7日夜にデボイネ諸島で宝洋丸より燃料補給を行う手筈が整えられた[164]。ショートランド出港後にオーストラリアより飛来したB-17重爆3-4機に爆撃されるが、特に被害はなかった[165][166]

同日、MO攻略部隊主隊、MO攻略部隊輸送部隊、デボイネ隊のいずれもアメリカ軍基地航空隊・機動部隊に発見され、5月7日の空襲は確定的となった[167]。また日本軍も九七式飛行艇がツラギ南方約600海里に空母1隻を含む艦隊を発見して通報、日米双方とも艦隊決戦に向けて準備を進めた[168]。第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)は索敵機発進のため一時主隊から分離し、5月7日0700に合流した[169]

5月7日朝、索敵に出たSBDドーントレス(ヨークタウン所属機)はルイジアード諸島ミシマ島北方海面に『空母2隻、重巡洋艦4隻』を発見して報告した[170][171]フランク・J・フレッチャー少将が指揮する空母2隻(レキシントンヨークタウン)から西北西に約175海里で、フレッチャー少将は日本軍主力空母部隊と判断、躊躇なく総攻撃を命じた[172]。攻撃隊90機以上(レキシントン隊50〈艦戦10、艦爆28、艦攻12〉、ヨークタウン隊43〈艦戦8、艦爆25乃至24、艦攻10〉)が発進した[173][174][175]。ところが偵察機が母艦に戻って報告したところ、『巡洋艦2隻(天龍龍田)と駆逐艦2隻』の誤報であることが判明した[176]。フレッチャー少将は激怒したが、日本軍輸送船団撃破を狙って攻撃隊を呼び戻さなかった[176]。つづいてアメリカ陸軍のB-17重爆から空母1隻および数隻の艦隊を発見したとの報告が入り(最初の攻撃目標から北方35マイル地点)、アメリカ軍攻撃隊はこの『小型空母』に向かった[176]

一方、祥鳳以下MO攻略部隊主隊も朝から哨戒機や偵察機を発進させていたが、古鷹・衣笠偵察機(青葉経由)からアメリカ軍機動部隊発見の報告を受け、祥鳳は攻撃隊発進準備に着手する[177][178]。当時のアメリカ軍機動部隊は、MO攻略部隊主隊の東南東160海里(片道1時間20分ほど)に位置していた[179]。だが直衛機の収容に手間取り[180]、攻撃隊を発進させる前にアメリカ軍攻撃隊が来襲した[181][178]

午前8時30分、祥鳳も艦戦3・艦攻1を収容、艦戦3を発進させた[182][178]。同時刻には青葉・加古からも水上機が発進した[183]。また5隻(重巡4隻〈青葉、加古、衣笠、古鷹〉、駆逐艦1隻〈漣〉)は祥鳳を中心とした輪形陣を形成し、対空戦闘に備えた[184]

午前9時前後、アメリカ軍機がMO攻略部隊主隊に対する攻撃を開始した[185]。最初の急降下爆撃(レキシントン攻撃隊と推定)[171]は回避に成功[186][187]。 続いて空襲下で零戦3機を発進させるも日本時間9時20分(現地時間11時20分)頃から次々に爆弾と魚雷が命中した[188][189]。 零戦3機、九六艦戦3(乃至2)の護衛では、90機を越えるアメリカ軍機の爆撃雷撃同時攻撃を防ぐのは不可能だった[190][191][192]TBD艦上攻撃機デヴァステイターより魚雷が投下され7本が命中、SBD急降下爆撃機ドーントレスより投下された爆弾13発が命中[190]。他に艦攻1機が魚雷を抱いたまま祥鳳左舷に自爆(特攻)したとされる[193]。上空で戦闘を目撃したアメリカ軍の戦闘機パイロットが悲惨な光景に動揺するほどの徹底的な攻撃が、小型空母の祥鳳に叩き込まれた[194]。レキシントン攻撃隊は爆弾7発命中と魚雷9発命中、ヨークタウン攻撃隊は爆弾14発と魚雷10本命中を報告しており、これは双方の航空隊が同時に攻撃を仕掛けたため戦果が重複したものとされる[171]。また軽巡洋艦1隻破壊も報告したが、該当艦は存在しない[171]

祥鳳では短時間のうちに過剰ともいえる爆弾と魚雷が命中して大火災となった為、乗組員は手の施し様がなくなった。9時31分(現地時間11時31分)に総員退艦が発令される[195][196]。 だが、相当数の乗組員が配置についたまま沈んだ[197][198]。 退去命令より間もない9時35分(現地時間11時35分)に祥鳳は艦首から沈没し始め、アメリカ軍が沈めた史上初の空母(日本が喪失した最初の空母)となった[195][199]。アメリカ軍攻撃隊はSBDドーントレス3機喪失[200]。祥鳳直衛隊機は3機が行方不明となり、零戦2・九六艦戦1がデボイネ諸島へ向かい、同地で不時着した[178][192]奥宮正武によれば1機は友軍地上部隊に誤射され撃墜された可能性があるという[201]。祥鳳戦闘機隊の納富健次郎大尉は、翌年11月のブーゲンビル島沖航空戦で戦死した[202]

MO攻略部隊主隊はアメリカ軍機の再空襲を避けるため、祥鳳生存者の救助を中止して北上した[203][204]。各艦は丸太、木片、救助用具、空樽などを投下すると、夕刻救助に戻る旨を祥鳳漂流者に手旗信号で伝え沈没現場を離れた[205][206]。 12時15分、五藤司令官は漣を祥鳳の沈没現場に向かわせた[207]。3時間後に到着して救助を開始[208]。祥鳳全乗組員836名のうち、准士官以上3名・下士官兵約600名の計631名が戦死、生存者205名(負傷者72名)と記録されている[209]。傭人3名(散髪、料理、洗濯)も戦死[210]。乗員839名中生存者は203名とも[178]。伊沢石之介大佐(祥鳳艦長)は生還した[211]。また沈没時に乗艦してた報道班員(従軍記者)も救助されたが、漂流中にフィルムの乳剤が解けたため、戦闘中の祥鳳及び乗組員写真は現存しない[212]

18時55分、第六水雷戦隊旗艦(司令官梶岡定道少将)の軽巡夕張は溺者の声を聞いて第30駆逐隊(睦月、弥生、望月)と共に救助活動を行った[213]。駆逐艦弥生は祥鳳乗員2名を救助[214]。つづいて母艦を見失った漣内火艇を発見し、同艦に帰艦させた[215]。 その後、祥鳳生存者は給油艦石廊に移動後、トラック泊地で内地送還を待った[216]。その際に伊沢大佐(祥鳳艦長)が加古の高橋艦長を訪問してる[216]。 5月17日、妙高型重巡洋艦2隻(妙高羽黒)は第27駆逐隊(時雨白露有明)に護衛されてトラック泊地を出発する[217][218]。祥鳳艦長以下生存者約200名は妙高と羽黒に分乗して呉に向かった(5月22日、到着)[217][219]

5月7日のMO機動部隊(翔鶴、瑞鶴)の攻撃は、索敵機が給油艦ネオショーを空母と誤認報告してこれに集中攻撃を行い、肝腎のアメリカ軍機動部隊には手を出さなかった[170]。第六戦隊偵察機からの報告でヨークタウン、レキシントンに薄暮攻撃を敢行するも、アメリカ軍戦闘機に迎撃されて戦果なく大損害を受けた[220]。結果的に見て、祥鳳喪失(アメリカ軍攻撃隊の祥鳳への集中攻撃)は第六戦隊や攻略部隊輸送船団を間接的に守ったことになり、これはアメリカ側も「この種の海戦ははじめてなので仕方が無いが、空母を過剰に叩きすぎて巡洋艦や輸送船団を見逃してしまった」と認めている[221]。一方で、機動部隊同士の戦闘においてはMO機動部隊(翔鶴、瑞鶴)がチャンスを生かせなかったことで無駄になったといえる[222]。 深夜になり第六戦隊は二分割され、第1小隊(青葉、加古)は第六水雷戦隊等と共に輸送船団護衛を続行、第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊(第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第五航空戦隊〈瑞鶴、翔鶴〉、第7駆逐隊〈潮、曙〉、第27駆逐隊〈時雨白露夕暮〉)と合流して5月8日の戦闘に臨んだ。また、祥鳳沈没により南洋部隊指揮官(井上成美第四艦隊司令長官)はポートモレスビー攻略船団に対し退避を命令した[221]。海からポートモレスビーを攻略する日本軍の企図は頓挫し、オーストラリアは日本軍の脅威から解放された[221]

撃沈後[ソースを編集]

旗艦鹿島に乗艦しラバウルに進出していた南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官は、当時の心境について「東郷大将ハ如何ナサレシヤ」(東郷〈連合艦隊司令長官〉は旅順港閉塞作戦で戦艦2隻〈初瀬八島〉を喪失)と思い出して平静を務め、「大事ナ陛下ノ御艦、而モ大事ナ空母ヲ最初ニ沈メタノガ自分ダト思フト実ニ自責ノ念ニ耐ヘズ。切腹シテスムナラ易イコトナルモ、切腹シタッテ沈ンダ艦ヲ如何セン。如何ニシテモ申訳ナシ、残念ダ、不運ダトモ思フ」と回想している[223]。連合艦隊参謀長宇垣纏少将は陣中日誌『戦藻録』の中で、祥鳳の沈没について「祥鳳は特務艦剱崎の改造に依りて本年早々竣工第四艦隊に入れたるもの其壽命の短かりしを惜む。同艦飛行機の内戰闘機の一部は救助せられたるも艦攻は如何にせしや。大戰果の夢は去れり。戰は相手あり。思ふ様には行かぬものなり。敵の来襲豫期しある場合、今少し統一ある兵力の使用出来ざるものや。」と言及している[224]

真珠湾空襲以降、日本軍の攻勢に押されていた連合国軍にとって、祥鳳(アメリカ軍認識では龍鶴)の撃沈は、日本海軍主力艦艇の初の撃沈であった[221][225]。その戦果は戦意高揚のため大いに宣伝されたが[226]、実際には大破だった翔鶴も撃沈したと錯覚していた[227]。 対する日本軍は国民の動揺を抑えるため大本営発表で『我方損害、給油艦を改造せる空母1隻』と発表している[195][228]。 また第四艦隊(司令長官井上成美中将)が受けた衝撃も相当なものだったという[178]戦史叢書では『兵力不足に加えて、広正面の作戦を担当していた南洋部隊としては、軽空母とはいえ、種々交渉の末ようやく与えられた、虎の子の空母であったからであろう。』と結んでいる[178]。上記のように日本軍のポートモレスビー海上攻略構想は本海戦をもって頓挫し、珊瑚海海戦はアメリカ軍の戦略的勝利で終わった[221][229]

5月20日、航空母艦から祥鳳の削除が発表された[230]。また水上機母艦瑞穂と同日附で軍艦籍から除籍された[10][231]

艦載機[ソースを編集]

計画

1942年1月30日

1942年4月23日

  • 艦載機20機(零式艦上戦闘機10機+九六式艦上戦闘機+4機+九六式艦上攻撃機6機)

1942年5月7日

  • 艦載機23機(零式艦上戦闘機7機+九六式艦上戦闘機5機+九七式艦上攻撃機10機)

同型艦[ソースを編集]

同型艦として、瑞鳳型航空母艦瑞鳳が挙げられることがある[52]。1942年5月7日、珊瑚海海戦で祥鳳は撃沈しており、1943年9月25日付の艦艇類別等級別表では、瑞鳳型は瑞鳳龍鳳となっている[232]

艦長[ソースを編集]

剣埼艤装員長
  1. 山下知彦 大佐:1935年6月1日[49] - 1935年10月7日[50]
  2. 大塚幹 大佐:1935年10月7日[50] - 1936年12月1日[58]
  3. 樋口曠 大佐:1936年12月1日[58] - 1937年5月20日[59]
  4. (兼)柿本權一郎 大佐:1937年5月20日[59] - 1937年6月15日[60] (本職:高崎艤装員長)
  5. 橋本愛次 大佐:1937年6月15日[60] - 1938年9月20日[63]
艦長
  1. 橋本愛次 大佐:1938年9月20日[63] - 1938年11月20日[64]
  2. (兼)橋本愛次 大佐:1938年11月20日[64] - 1938年12月15日[67] (本職:五十鈴艦長)
  3. 福澤常吉 大佐:1938年12月15日[69] - 1939年11月15日[75]
  4. 伊藤尉太郎 大佐:1939年11月15日[76] - 1940年11月15日[84]
  5. (兼)城島高次 大佐:1940年11月15日[85] - 1941年4月17日[87] (本職:翔鶴艤装員長)
  6. (兼)城島高次 大佐:1941年4月17日[87] - 1941年8月8日[88] (本職:翔鶴艦長)
  7. (兼)小畑長左衛門 大佐:1941年8月8日[88] - 1941年10月1日[89] (本職:山城艦長)
  8. 伊澤石之介 大佐:1941年10月1日[89] - 祥鳳艦長 1941年12月22日[27] - 1942年5月20日[233]

脚注[ソースを編集]

注釈[ソースを編集]

  1. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.2によると転輪安定儀を搭載した場合は基準排水量11,262英トン、公試排水量13,100トン、満載排水量14,154トン、公試平均吃水6.64m、満載平均吃水7.01m。
  2. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.92によると最大幅18.14m

出典[ソースを編集]

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  1. ^ a b c d e f #艦船要目公表範囲(昭和17年6月30日)p.8『劍埼|潜水母艦|201.26|18.11|6.43|12,000|19.0|8|横須賀工廠|起工年月日9-12-3|進水年月日10-6-1|竣工年月日14-1-15|12.7高角c/m4|探照燈2|艦本式内火機械4|タービン-|推進軸2|馬力13,000』
  2. ^ a b #海軍制度沿革巻八p.106、「昭和九年十一月五日(内令四三五) 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 運送艦ノ部中靑島ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | 劍埼型 | 劍埼、高崎 |」
  3. ^ #海軍制度沿革巻八p.101、「昭和十三年九月十五日(内令七七六) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦、潜水母艦ノ部中大鯨ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | 劍埼型 | 劍埼、高崎 |」
  4. ^ #海軍制度沿革巻八p.106、「昭和十三年九月十五日(内令七七七) 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 運送艦ノ部中「劍埼型」ノ項ヲ削ル」
  5. ^ a b c #内令昭和16年12月(3)p.30『内令第千七百十號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十六年十二月二十二日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦、航空母艦ノ項中「瑞鳳」ノ下ニ「、祥鳳」ヲ加ヘ、同潜水母艦ノ項中「劍埼型」ノ項ヲ削ル』
  6. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.422
  7. ^ a b #内令昭和16年12月(3)p.29『内令第千七百七號 軍艦 祥鳳 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十六年十二月二十二日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  8. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.433
  9. ^ 中川努「主要艦艇艦歴表」p.6#日本海軍全艦艇史
  10. ^ a b #内令昭和17年5月(2)p.49『内令第八百八十號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 祥鳳 軍艦 瑞穂 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|昭和十七年五月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  11. ^ a b c 昭和9年11月5日付 海軍達 第191号。「剣」の字は、正しくは「劍」。#海軍制度沿革巻八p.402、「特務艦劍埼及高崎命名ノ件|昭和九年十一月五日(達一九一)|艦艇製造費ヲ以テ昭和九年度ニ於テ建造ニ著手ノ特務艦二隻ニ左ノ通命名ス|横須賀海軍工廠ニ於テ建造|特務艦 ツルギザキ|特務艦 タカサキ
  12. ^ a b c d #達昭和16年12月(2)p.14『達第三百九十六號 潜水母艦劍埼改造ニ付左ノ通命名ス 昭和十六年十二月二十二日 海軍大臣嶋田繁太郎 航空母艦 祥鳳(シャウホウ)』《註》本来の文字は「示羊」だが機種依存文字のため「祥」とする。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.2
  14. ^ a b c d e #昭和造船史1pp.780-781
  15. ^ a b #軍艦基本計画資料Sheet11、祥鳳の値。
  16. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.51
  17. ^ #海軍造船技術概要p.296
  18. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.44
  19. ^ a b c d 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.33
  20. ^ 海軍定員令 「第52表ノ3 航空母艦定員表其ノ6」、昭和16年7月10日付 内令第784号改正分、および昭和16年12月22日付 内令第1708号改正分。士官44、特務士官18、准士官25、下士官206、兵494。この数字は航空関係要員を含み、特修兵は含まない。
    昭和16年7月10日付 内令第784号(瑞鳳の定員2名増)』 アジア歴史資料センター Ref.C12070157500 。『昭和16年12月22日付 内令第1708号(「第52表ノ3 航空母艦定員表其ノ6」に祥鳳を追加)』 アジア歴史資料センター Ref.C12070159700 。
  21. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.10
  22. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.29
  23. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.6
  24. ^ #日本海軍の航空母艦p.142、巻末資料:航空母艦関係、飛行機定数。
  25. ^ 昭和17年2月16日付 内令兵第12号』 アジア歴史資料センター Ref.C12070227200 
  26. ^ a b 昭和17年1月24日(土)海軍公報(部内限)第4002号 p.28』 アジア歴史資料センター Ref.C12070418900 『○艦名誤記ニ關スル件照合 客年十二月二十二日軍艦劍埼ハ軍艦祥鳳ト改名セラレタル處新艦名ヲ翔鳳或ハ鳳翔ト誤記スル尚有之爲ニ本艦宛郵便物ハ他ニ誤送セラレ又ハ延着、未着等事務遂行上支障多キニ付發送ニ當リテハ特ニ注意相成度(軍艦祥鳳)』
  27. ^ a b c 昭和16年12月22日(発令12月22日付)海軍辞令公報(部内限)第3977号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C12070398900 『官房機密第一二二七七號 本年十二月二十二日航空母艦祥鳳命名ノ際舊潜水母艦劍埼ノ職名ヲ有スル者ハ特ニ發令セラルルモノノ外別ニ辭令ヲ用ヒズシテ航空母艦祥鳳ノ各相當職員ニ補命セラレタル義ト心得ベシ 昭和十六年十二月二十二日 海軍大臣』
  28. ^ #補助艦艇奮戦記169頁『剣埼(つるぎさき)』
  29. ^ 日本潜水艦物語219-221頁『わが潜水母艦の諸特徴』
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  34. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.193『劍崎(つるぎざき)【二代】 艦種/特務艦(運送艦) 艦名考/岬名に採る。相模國三浦半島の南部安房國の洲崎と相對して東京海灣の門口を成す。〔註〕初代劍崎は亦運送船にして排水量1,970頓、速力11浬、今は除籍。』
  35. ^ a b c 昭和10年6月4日海軍公報第2478号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C12070350500 『○正誤 昨三日本欄進水文中「劍崎●」ハ「劍埼○」ノ誤』
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  37. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.105『劍崎(つるぎざき)【初代】 艦種/特務艦(運送艦) 艦名考/岬名に採る、劍崎は相模國三浦半島の一角にして、東南の方、安房の洲崎と斜に相對し東京海灣の門口をなす。艦歴/主推進機として重油機關(四衝式單働2基)を装備せる初めての艦なり、昭和8年9月除籍。』
  38. ^ #海軍制度沿革巻八コマ218『◎給油船劍埼命名ノ件 大正五年六月二十六日(達一〇三)軍備補充費ヲ以テ呉海軍工廠ニ於テ製造スヘキ千百噸級給油船ヲツルギザキト命名ス』
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  72. ^ #福井空母物語84頁
  73. ^ 昭和14年2月10日(金)海軍公報(部内限)第3132号 p.42』 アジア歴史資料センター Ref.C12070379600 『○旗艦變更 第八戰隊司令官ハ二月八日旗艦ヲ由良ヨリ阿武隈ニ變更セリ|第二潜水戰隊司令官ハ二月六日旗艦ヲ阿武隈ヨリ劍埼ニ變更セリ』
  74. ^ 昭和14年11月17日(金)海軍公報(部内限)第3362号 p.45』 アジア歴史資料センター Ref.C12070381900 『○旗艦指定 第一艦隊司令長官ハ十一月十五日第六戰隊ノ旗艦ヲ加古ニ、第一水雷戰隊ノ旗艦ヲ阿武隈ニ、第四潜水戰隊ノ旗艦ヲ劍埼ニ孰モ指定セリ』-『将旗撤去 舊第八戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ阿武隈ヨリ撤去セリ』
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  82. ^ a b c #内令昭和17年5月(2)p.22『祥鳳|艦種:航空母艦|長(米)197.21|幅(米)17.87|喫水(米)5.50|排水量(噸)(基準)9,500|速力(節)25|短艇数8|製造所:横工廠|起工年月日昭和14-1-10|進水年月日15-2-23|竣工年月日16-12-22|大砲12.7c/m高角8|探照燈4|「タルビン」2|艦本式4|推進器數2|馬力40,000』
  83. ^ #艦船要目公表範囲(昭和17年12月31日)p.2『翔鶴|航空母艦|長(米)230.00|幅(米)26.00|喫水(米)6.20|排水量(噸)(基準)20.000|速力(節)30|(短艇數)12|横須賀工廠|昭和12-12-12|14-6-1|16-8-8|(艦装備略)』
  84. ^ a b 昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第555号 p.4』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 
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  101. ^ #祥鳳日誌(3)p.8『4日0700祥鳳艦長(宛略)祥鳳帆風ヲ率ヒ「トラック」ニ向ケ横須賀發(略)』
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  103. ^ #祥鳳日誌(4)p.3『(ロ)使用可能兵力 九六式四號艦上戰闘機 常用四機補用二機/九七式一號艦上攻撃機 常用九機/補用四機』
  104. ^ #祥鳳日誌(3)pp.23,p.59『(ハ)戦斗死傷者ノ概況 二月六日午前七時五十一分一飛白井賢治郎対潜警戒飛行中着艦ノ際墜落シ直ニ駆逐艦帆風ニ収容通應加療セルモ頭蓋底骨折ニ依リ午前九時三十分戦死セリ』
  105. ^ #祥鳳日誌(3)p.3『2月13日第四航空隊所属戦斗機空輸任務ヲ帯ビ「トラック」發同15日「ラバウル」ノ北方150浬ノ地点ニテ飛行機ヲ發艦空輸シ任務ヲ了ヘ2月16日「トラック」ニ皈投ス』
  106. ^ #叢書49南東方面83頁
  107. ^ #祥鳳日誌(3)p.9『15日1730四艦隊長官(宛略)一.祥鳳及帆風ハ現在任務終了次第パラオニ回航シ在パラオ九六式戦斗機12機ヲ収容ノ上PT(トラック)ニ皈投スベシ(略)』
  108. ^ a b c #叢書38中部太平洋(1)431-432頁『祥鳳のトラック南方海面への待機』
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  111. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)42-43頁
  112. ^ #ニミッツの太平洋海戦史42頁
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  114. ^ #祥鳳日誌(3)p.3『同日夕刻敵機動部隊ノ敗走後支援部隊指揮官ノ指揮ヲ解カレ再ビ前記任務ヲ以テ「パラオ」ニ廻航中2月24日「ウエイキ」島附近ニ来襲セル敵機動部隊ニ對處スベク命ニ依リ再度反転「トラック」南西方海面ニ急行中「トラック」ニ入泊同地ニ在リテ訓練ニ従事スベキ旨發令アリ』
  115. ^ #祥鳳日誌(3)p.3『2月26日「トラック」着爾後同地ニ在リテ警戒碇泊シ飛行機隊ノ基地訓練ヲ實施シツツアリ』
  116. ^ #S1703第24航空戦隊日誌(経過)p.10『○八日祥鳳ニ依リ零戦二〇機「ラボール」基地ニ空輸完了ス』
  117. ^ #祥鳳日誌(7)p.2『第四航空戦隊第二小隊祥鳳用九六式艦上戰闘機ヲ零式艦上戰闘機ニ交換ノ爲横須賀ヘ皈還時ニ於ケル作戰』
  118. ^ #祥鳳日誌(7)p.2『本小隊ハ4月6日0700 4F機密第806番電ニ依リ横須賀ニ向ケ「トラック」發 當時敵潜水艦大島竝ニ小笠原列島線附近ニ出没シ亦列島線以東ハ敵機動部隊ノ機動スル懸念アリシ情況ナリ』
  119. ^ #祥鳳日誌(7)p.8『4.11(天候略)1650横須賀入港』
  120. ^ #S1704横鎮日誌(6)pp.20-21『一一(天候略)四.出港 神祥丸/入港 祥鳳、帆風、吉田丸』
  121. ^ #S1704横鎮日誌(2)p.36『十三日一三〇〇祥鳳艦長|十三日一四〇〇 四艦隊長官(横鎮長官)|本艦四月二十日横須賀發、四月二十五日トラツク着ノ豫定搭載機材左ノ通 零式戰闘機一八(内九ハ台南空用)九六式戰闘機二機(解體)九七式一號艦攻六機』
  122. ^ a b 日本空母戦史202-204頁『米空母の東京空襲(四月十八日)-祥鳳、ホーネットを追う』
  123. ^ #ニミッツの太平洋海戦史46頁
  124. ^ #祥鳳日誌(5)p.4『1350|初弾發砲 後射撃中止消耗高角砲戰二發』
  125. ^ #祥鳳日誌(5)p.2『一.形勢 本艦横須賀ニテ作戰準備中4月18日北方部隊所属監視船第二三日東丸ノ敵發見通報アリ警戒ヲ厳ニシ各部出動準備ヲ促進スルト共ニ予定ノ如ク東京湾ニ出動發着艦訓練ニ従事セリ 1258横鎮管下ニ空襲警報發令續イテ敵機京濱地方空襲セリ 依テ本艦ハ予定作業ヲ中止シ飛行機隊ノ急遽収容其ノ他出動準備ノ爲横須賀ニ入港セリ』
  126. ^ #祥鳳日誌(8)p.2『(ロ)使用可能兵力 零式一號艦上戰闘機 十機/九六式四號艦上戰闘機四機/九六式一號艦上攻撃機六機』
  127. ^ #祥鳳日誌(5)p.7『18日1605前進部隊指揮官(略)前進部隊本日ノ出撃要領左ノ通定ム 一.愛宕出港時刻1700/二.出撃順序(イ)一〇駆七駆八駆四戦隊ノ順序(以下略)』
  128. ^ a b c d e #叢書29北東方面184-185頁『前進部隊の作戦』
  129. ^ #S1704横鎮日誌(3)p.19『十八日一五〇〇第二艦隊長官(宛略)一.前進部隊(愛宕高雄四驅(二小隊缺)十驅、八驅ノ二艦)本十八日一八〇〇東京出撃シ取敢ズ四月十九日〇五〇〇地點ハフモ〇〇ニ達スル如ク行動ス/二.右部隊ニ摩耶及祥鳳ヲ加フ 前進部隊本隊トス』
  130. ^ 写真太平洋戦争3巻34-37頁『ドーリットル空襲に対する日本海軍の反撃〕
  131. ^ #祥鳳日誌(5)pp.8-9『18日1640前進部隊指揮官(略)三.摩耶ハ別電ノ如ク本隊ニ合同スベシ 祥鳳ハ準備出来次第前進部隊本隊ニ合同スル如ク行動スベシ 朝雲山雲ハ祥鳳ノ出撃時祥鳳艦長ノ協議ニ應ジ野島崎附近迄同艦警戒ニ任ズベシ爾後ノ前進部隊各隊艦ハ所定ノ如ク行動スベシ』
  132. ^ #S1704横鎮日誌(4)p.5『二十日〇八二〇 二艦隊長官(宛略)第七驅逐隊ハ祥鳳ニ合同シ同艦長ノ指揮ヲ受ケ其ノ警戒ニ任ズベシ〇八二〇』
  133. ^ #S1704横鎮日誌(4)p.33『二十三日〇八〇〇 二艦隊長官|二十三日一八〇五聯合艦隊長官 軍令部總長(横鎮長官)|一.十八日一三〇〇頃敵「ノースアメリカン」型一機横須賀ニ來襲横鎮下各砲台及在泊艦船ト共ニ之ヲ撃攘セリ/二.十八日一八〇〇 四戰隊(摩耶鳥海缺)四驅(2D缺)十驅逐隊(秋雲缺)七驅逐隊、朝潮荒潮ヲ率ヰ東京灣出撃灣外ニテ摩耶ヲ併セ十九日早朝敵ノ進攻地點ヲ推定索敵ニ努メタルモ敵情ヲ得ズ/三.二十日中敵ノ補給或ハ再度空襲準備地點ヲ水底索敵ヲ行ヒタルモ又敵情ニ關シ得ル所ナシ/四.二十日午後ハ五戰隊(那智缺)祥鳳及二水戰(驅逐隊缺)ヲ加ヘ且北方部隊、警戒部隊、二十六航戰、二十一航戰、三潜戰等ヲモ統一指揮シ北寄リニ索敵ヲ續行セルモ適確ナル敵情ヲ得ズ既ニ東方ニ遁走セルモノト判断シアリシ所遇々本行動ノ任務ヲ解カレ原部署ニ復舊スルコトトナレリ/五.二十二日一一三〇須美壽島南方ヲ西航中ノ ソ聯船調査ノ爲摩耶及巻雲ヲ分派セル外敵ニ遭遇セズ直率部隊ハ同夜東京灣ニ歸投シ本行動ニ於ケル前進部隊内臨時部署ヲ解ケル』
  134. ^ #祥鳳日誌(5)p.15『21日0630 2F長官→祥鳳艦長7dg司令|2F機密第5611番電 一.祥鳳艦長ノ7dgニ對スル指揮ヲ解ク7dgハ單独横須賀ニ回航セヨ/二.4dgハ祥鳳ニ合同横須賀入港迄同艦長指揮ヲ受ケ警戒ニ任ズベシ』-『21日0955祥鳳→2F長官|0955嵐野分本艦ニ合同1142十八節1300針路200度速力九節1400』
  135. ^ #祥鳳日誌(8)p.2『(イ)敵軍一般ノ情勢 十八日0700敵機動部隊(空母三隻ヲ含ム部隊)犬吠埼ノ東600浬ニ現レタルニ依リ18日1500二艦隊機密(タナ878)電ニ依リ前進部隊本隊編入直ニ訓練ヲ中止シ出撃準備ヲ完成シ19日0400前進部隊ニ合同ノ爲横須賀出撃飛行機隊ノ一部ヲ収容爾後前進部隊ニ續行敵情ヲ得ズ20日2140二艦隊機密第557番電(前進部隊電令作第16號)ニ依リ23日0835横須賀皈着』
  136. ^ 日本空母戦史204頁では4月22日帰投。
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  145. ^ #S1704横鎮日誌(6)pp.49-50『二四(天候略)三.朝潮、荒潮〇八四〇 谷風、浦風、濱風一四〇〇 祥鳳及漣一五〇〇横須賀出港ス(以下略)』
  146. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.12『(一)自4月23日至4月30日MO主隊ハ「トラック」ニ在リテ諸般ノ作戦準備ヲ行フ4月29日祥鳳及漣「トラック」ニ皈投合同ス』
  147. ^ a b c d e f #叢書49南東方面193-194頁『MO攻略部隊』
  148. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.5『然レドモ4月18日ノ内地空襲ニ煩サレMO機動部隊ノ來着ハ遅レ殊ニ祥鳳ハ作戰直前搭載戰斗機ヲ零戰ニ変更ノ爲横須賀ニ回航シ僅々数回ノ訓練ノ後急遽「トラック」ニ歸投、MO攻略部隊主隊ニ合同シ得タルハ同地出撃前日ニシテ辛ジテ作戰打合ヲ了シタル状況ナリ 之ヲ要スルニ南洋部隊ニ増派セラレタル部隊ノ編入來着ノ状況ハ作戰直前漸ク間ニ合セタル次第ニシテ各方面ノ作戰打合セ心志ノ疎通ニ関シ充分ノ余裕アリタリトハ認メ難キ状況ナリ』
  149. ^ #鉄底海峡63-64頁
  150. ^ #S1612六戦隊日誌(4)pp.7-8『(イ)祥鳳ノ用法ト水上航空基地ノ轉進』
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  153. ^ #S1612六戦隊日誌(4)pp.12-13『(二)4月30日0815MO主隊ハ「トラック」出撃祥鳳漣ハ飛行機収容ノタメ後レ5月2日洋上ニ合同爾後豫定ノ如ク行動ス』
  154. ^ #祥鳳日誌(9)p.2『4月30日1300「トラック」発南水道出撃後飛行機隊ヲ収容シ5月2日0600ボーゲンビル水道北方海面ニ於テ第六戦隊ニ合同ス ボーゲンビル水道ニ於テ敵飛行艇2ヲ発見シ之ガ攻撃ノ爲戦斗機発艦ノ際発動機不調ノ爲一機墜落人員兵器共ニ亡失ス』
  155. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)52頁
  156. ^ #日米諜報戦97-99頁『ツラギ島の日本軍攻撃に米機動部隊出撃』
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  161. ^ #祥鳳日誌(9)p.3『5月5日午後輸送船團上空直衛ニ任ズ此ノ間2回ニ亙リ敵機(一機)来襲セルモ其ノ都度撃退シ敵害ナシ』
  162. ^ #祥鳳日誌(9)p.3『同日2300「ショートランド」仮泊石廊ヨリ燃料ヲ受給ス』
  163. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.16『(五)5月5日曇(略)祥鳳ハ日没迄上空警戒實施2300「ショートランド」入泊石廊ヨリ補給ヲ開始セントセシモ當時月齢19ニシテ相當視界良好ナリトハイヘ作業不慣ノ爲意外ニ進捗セズ漸ク0430補給開始0530之ヲ中止スルノ已ムナキニ至レリ本日0835敵機ハ祥鳳漣ヲ1030神川丸ヲ夫々發見電報セリ』
  164. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.17『(六)5月6日 曇後半晴 MO主隊0630「ショートランド」出撃 0640敵KdBニ對スル顧慮上RZP攻畧部隊ノ「ルイセード」方面進出ヲ約六時間遅延セシメ7日夕刻「ジョマード」水道ヲ南下スル如ク計画ヲ変更MO主隊モ之ニ前後シ同水道ヲ南下スルコトトシ祥鳳ノ補給ハ7日夜間「デボイ子」ニ於テ寶洋丸ヨリ實施スルコトニ改メ電令ス(MO攻畧部隊電令作第9號0640)0830敵B-17三機来襲戦斗機發進砲撃撃退ス敵ハ投弾スルモ命中セズ雲中ニ遁走ス』
  165. ^ 日本空母戦史216頁
  166. ^ わが血戦記コマ16-17(原本15-17頁)『敵機來襲』
  167. ^ #S1612六戦隊日誌(4)pp.18-19『0915乃至1300頃迄ニ敵機ハ掩護部隊ノ大部分及在「デボイ子」部隊ヲ發見ス 是ニ於テMO攻畧部隊ハ全部隊敵ノ發見スル處トナリ敵KdBハ我ノ南東500浬ニ在リ且敵触接機ハ「ウッドラーク」攻畧ヲ豫想セルガ如キ電報ヲ発信セル轉ヨリ明7日敵KdBハ當部隊ニ来襲スルノ算大ナリト認メタルモMO機動部隊ハ當部隊ニ近ク基地航空部隊ノ攻撃準備成レルヲ知リ敵撃滅ノ好機ナリトシ當部隊ハ自隊全力ヲ以テ対空警戒ニ任ジツヽ既定ノ通作戰ヲ續行セント決意シ1300其ノ旨各部ニ報告通報ス(6S機密128番電1300)』
  168. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)54頁
  169. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.20『(七)5月7日半晴(略)0700 2D/6S合同ス』
  170. ^ a b #ニミッツの太平洋海戦史53-55頁
  171. ^ a b c d #猛き艨艟127-129頁『祥鳳沈没』
  172. ^ #太平洋の試練(下)153頁
  173. ^ 暁の珊瑚海、115、120ページ
  174. ^ 日本空母戦史218頁
  175. ^ #太平洋の試練(下)153頁では(艦戦8、艦爆53、艦攻22)
  176. ^ a b c #太平洋の試練(下)154頁
  177. ^ #祥鳳日誌(9)p.3『5月7日沈没迄ノ経過 0515戰闘争配備ヲ完成シ0530船團上空直衛ノ爲艦戰4艦攻1ヲ發艦/0630頃青葉ヨリ敵機動部隊「デボイネ」ノ160度140浬ニ在リトノ通報ニ接シ直ニ艦攻雷撃準備ヲナス』
  178. ^ a b c d e f g #叢書49南東方面282-285頁『祥鳳の沈没』
  179. ^ 日本空母戦史219頁
  180. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.22『0808衣笠機ハ敵空母飛行機發艦ヲ報ズ直チニ祥鳳ニ飛行機全力發艦ヲ令シタルモ上空警戒機ノ収容補給ニ努メツヽアリテ急速發進ノ見込立タズ(略)次イデ衣笠一號機ハ敵空母ハサラトガ型1不詳1計2隻ト報ズ』
  181. ^ #祥鳳日誌(9)pp.8-9『本艦作戦任務ニ鑑ミ主トシテ戰闘機13(内零戰7九六戰5)ヲ以テ専ラ攻略部隊上空直衛ニ當リ艦上攻撃機10ヲ以テ對潜直衛竝ニ戰斗機隊ヲ誘導ニ任ズルト共ニ機ニ臨ミ敵飛行機基地亦ハ艦艇ヲ攻撃セントス而シテ5月7日近接セル極メテ有力ナル敵航空部隊ニ會シ身ヲ殺シテ攻略部隊ノ警戒ニ任ズルト共ニ艦攻隊ノ捨身攻撃ヲ企圖シ雷撃準備ヲ急ギタルモ遂ニ先制奇襲ノ機ヲ逸シタリ』
  182. ^ #祥鳳日誌(9)p.4『0830頃艦戰3ヲ發艦・艦戰4艦攻1ヲ収容シ敵空襲ニ備ヘツツ艦攻隊ノ攻撃準備ヲ急グ』
  183. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.23『0830青葉2號機加古1號機ヲ触接交代機トシテ發進ス』
  184. ^ #鉄底海峡65頁
  185. ^ #祥鳳日誌(9)p.4『0850頃舟左110度方向四万米ニ敵飛行機隊(15機以上)ヲ發見ス 次デ敵ハ2隊ニ分進シ本艦上空ニ来襲シ來レルヲ以テ0907頃取舵ニ転舵爆撃回避運動ヲ開始ス』
  186. ^ #祥鳳日誌(9)pp.4-5『0910先ヅ敵3機艦尾約8500米ニ進入スルトキ砲撃ヲ開始シ内1機ヲ撃墜ス他ノ2機ハ進入高度3500米乃至4000米ニテ急降下ニ入リ投下高度約1000米ニテ我ヲ爆撃シ至近弾1ヲ認ム次デ他十數機ノ艦爆舟右側ヨリ来襲同様ノ要領ニテ我ヲ爆セルモ概ネ四,五十米以内(内二十米以内数發)ニ弾着シ何等ノ被害ナク回避撃攘セリ』
  187. ^ わが血戦記コマ18-20(原本19-23頁)『初彈敵機に命中』
  188. ^ #祥鳳日誌(9)p.5『0917頃艦戰3ヲ發艦中後續敵飛行機隊(爆撃機雷撃機戰闘機各二十機以上)我ニ来襲シ來ルヲ認メ發艦終了ト共ニ取舵轉舵ス次デ舟右ニ敵雷跡ヲ認メ面舵ニ轉舵中0920飛行甲板後部昇降機前方ニ爆弾命中シ飛行甲板大破上部格納庫後部ニ火災ヲ生起ス間モナク舟右後部ニ魚雷命中シ動力電源破損操舵装置故障シ人力操舵ヲ行ハントセルモ續發スル爆弾魚雷ノ被害ニ依リ人力操舵モ不能トナリ艦内通信装置亦殆ンド不能トナル』
  189. ^ わが血戦記コマ20-22(原本23-27頁)『敵彈下の奮戰』
  190. ^ a b 日本空母戦史220頁
  191. ^ #太平洋の試練(下)155頁
  192. ^ a b #母艦航空隊150-151頁『眼下に見たわが母艦の最期』
  193. ^ 日本空母戦史221頁(操縦ミスによる事故の可能性あり)。祥鳳戦闘詳報にも『自爆敵機ノ命中』の記録あり。
  194. ^ #太平洋の試練(下)157頁
  195. ^ a b c 日本空母戦史221頁
  196. ^ #祥鳳日誌(9)pp.5-6『當時既ニ船体機関ノ被害類発シ速力漸次減退スルト共ニ砲身折損スルモノアリ又随所ニ死傷者多発スルモ毫モ屈セズ防戰防火防水ニ必死ノ努力ヲ盡セリ 然レドモ0930遂ニハ別圖第二ノ如ク爆弾魚雷自爆敵機ノ命中ニ依リ満身創痍船体爆煙火災ニ包マレ浸水亦装填砲甲板ニ達シ茲ニ全ク運動ノ自由ヲ失スルニ及ビ萬策盡キタルヲ以テ涙ヲ呑ミテ総員ニ退去ヲ令ス時ニ午前9時31分ナリ』
  197. ^ #祥鳳日誌(9)pp.6-7『然レドモ乗員ハ尚退去スルモノナク砲員ハ折レ残リタル残砲ヲ以テ身水中ニ没スル迄上空ニ残存スル敵機ノ砲撃ヲ撃續シ又其ノ他ノ配置ニアリテモ身浸水スル迄戰闘配置ヲ去ラズ奮戰力闘死力ヲ盡シテ尚マレマズ爲ニ上甲板以下ノ配置員ハ概ネ退去ノ暇ナク戰闘配置ニ就キタル儘沈ミ行ク艦ト其ノ運命ヲ共ニシ壮烈無比ノ戰死ヲ遂ゲタリ時ニ午前9時35分頃ナリ 此ノ間我戰闘機6ハ克ク衆敵ト交戰奮闘シ敵機ヲ撃墜戦斗機3機ハ「デボイネ」ニ不時着セルモ他ノ3機ハ消息不明ナリ』
  198. ^ #Z旗高く32頁『あの空母がぐつと海中に艦尾を突込んだ時、艦尾がぐーんと浮きあがつた、その時スクリユウはなほも全速で猛烈に廻りつゞけてゐた。これはとりもなほさず機關長以下機關兵全員が協力一致、最後の一瞬まで自らの任務に最善をつくしてゐたに他ならないのだ。さらに又、マスト高く掲げられた軍艦旗を降さうと一生懸命作業を續けていた○○兵曹は、遂に軍艦旗と共にあの海底深く突込んで壮烈な最後を遂げたのだつた。』
  199. ^ #鉄底海峡68頁(加古艦長の回想では9時32分沈没)
  200. ^ 日本空母戦史223頁ではSBD×2、TBD×1喪失。
  201. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)55頁
  202. ^ わが血戦記コマ27-28(原本36-38頁)『納富大尉のこと』
  203. ^ 日本空母戦史222頁
  204. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.24『是ニ於テMO主隊ハ敵ノ第二次空襲ヲ一時避ケル爲北東方ニ避退スルト共ニ0930MO攻畧部隊ニ対シ急速北方避退ヲ下令ス』
  205. ^ #青葉は沈まず44頁
  206. ^ 日本空母戦史222頁(宮村文雄報道班員〈青葉乗艦〉によれば信号は『ゆっくり、やっておれ。あとで迎えに来る』)
  207. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.25『1215漣ヲ分離シ速ニ祥鳳沈没位置(デボイ子ノ59度52.5浬)ニ急行生存者救助ニ当ラシム』
  208. ^ #S1612六戦隊日誌(4)p.28『1930漣ハ1530現地着日設迄ニ祥鳳艦副長以下百名ヲ救助シ更ニ救助續行中ト報ズ』
  209. ^ #祥鳳日誌(8)p.18『死傷者調査表』
  210. ^ わが血戦記コマ24-26(原本31-35頁)『全員最後の一秒まで』
  211. ^ #暁の珊瑚海(文庫)175頁
  212. ^ #野元、航母(2013)338-339頁
  213. ^ #S1704六水戦日誌(7)p.9『一八五五|(司令官)6sd|漂白セヨ附近ニ溺者アリ|海上ヨリ夕張及「助ケテ呉レ」ナル声ヲ聞キ附近ニ祥鳳遭難者アルモノト認メ行進ヲ停止ス』
  214. ^ #S1704六水戦日誌(7)p.17『〇六二八|睦月|(司令官)6sd|テ|昨日彌生ノ救助セシ祥鳳乗員左ノ如シ 一飛曹奥川登、二曹岡崎虎吉』
  215. ^ #S1704六水戦日誌(7)p.9『一九〇二|彌生|(司令官)6sd|我短艇ヲ卸シ全員ヲ救助ス|漣内火艇祥鳳乗員救助中自艦ノ位置ヲ失セルモノ来ル漣ニ通知皈艦セシム』
  216. ^ a b #鉄底海峡75頁(伊沢は海軍兵学校43期。加古の高橋艦長は兵学校44期)
  217. ^ a b #S1703五戦隊日誌(3)p.26『二.内地回航 五月十七日5S(那智欠)27dgハ南洋部隊ヨリ除カレ夫々前進部隊及北方部隊ニ編入セラレ一五〇〇「トラツク」ニ於ケル補給ヲ打切リ27dg(夕暮欠)ヲ併セ指揮シ之ヲ直衛トシテ一五一五横須賀ニ向ケ「トラツク」ヲ出港セリ。出港ニ際シ横須賀ニ皈還スヘキ翔鳳生存者同艦々長以下約二百名ヲ妙高羽黒ニ分乗セシム』
  218. ^ #S1703五戦隊日誌(3)p.32『一七|「トラツク」(天候略)|〇七四五「トラツク」入泊補給/一五一五横須賀ニ向ケ「トラツク」発|GF機密第一五八番電接受5S(那智欠)27dg南洋部隊ヨリ除カレ夫々前進部隊北方部隊ニ編入、27dgハ5S内地皈着迄(司令官)5Sノ指揮ヲ受クルコトニ発令セラル』
  219. ^ #S1703五戦隊日誌(3)p.33『二二|内海西部 呉(天候略)一三三〇呉着』
  220. ^ #猛き艨艟130-131頁
  221. ^ a b c d e #太平洋の試練(下)158頁
  222. ^ 日本空母戦史223頁
  223. ^ #わが祖父「珊瑚海海戦経過概要」97-98頁
  224. ^ #戦藻録(1968113頁『五月七日 木曜日 雨』
  225. ^ #日米諜報戦107頁
  226. ^ 写真太平洋戦争3巻86-87頁『祥鳳の最期』
  227. ^ 日本空母戦史243頁
  228. ^ #海軍作戦史(昭和18)85頁『而し敵の攻撃を勇敢であつた。最優秀な航空母艦の乗組員に選ばれるだけあつて、捨身になつて我が方に肉迫した。左から、右から我航空母艦には魚雷が迫つた。それを全速力で左右に回避してゐたが遂に胴腹に魚雷が命中し、やがて艦尾近くに當つた魚雷のため、航空母艦は沈没した。この航空母艦は油槽船を改装した小型のものであつた。航空母艦乗組員は戰火のはげしい海上に九時間漂流した。水が澄み鱶が迫つた事もあつたが、海上の漂流者は愛國行進曲などを唄ひながら元氣に泳ぎつゞけた。漂流者の中には重傷者もあつたので、元氣な者達は不自由な海中でありながら、材木の端や樽、救命具などを集めて急造筏を造り、負傷者を乗せていたはつた。漂流しながらも美はしい戰友愛が海中に花を咲かせてゐた。』
  229. ^ #日米諜報戦108頁
  230. ^ #内令昭和17年5月(2)p.48『内令第八百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十七年五月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ項中「、祥鳳」ヲ、同水上機母艦ノ項中「瑞穂、」ヲ削ル|潜水艦、一等ノ部中伊號五十二ヲ「伊號百五十二」ニ、同五十三型、伊六十二型、伊六十五型及伊六十八型ノ各項ヲ左ノ如ク改ム |伊百五十三型|伊號第百五十三、伊號百五十四、伊號百五十五、伊号第百五十六、伊號第百五十七、伊號第百五十八、伊號第百五十九| |伊百六十二型|伊號第百六十二、伊號第百六十四| |伊百六十五型|伊號第百六十五、伊號第百六十六| |伊百六十八型|伊號百六十八型、伊號第百六十九、伊號第百七十二、伊號第百七十四、伊號第百七十五』
  231. ^ #S1705横鎮日誌(4)p.22『二十日〇〇〇〇大臣(宛略)官房機密第九四四番電 二十日附祥鳳及瑞穂ヲ軍艦籍ヨリ除カル』
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参考文献[ソースを編集]

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関連項目[ソースを編集]