古鷹 (重巡洋艦)

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古鷹
Japanese cruiser Furutaka.jpg
基本情報
建造所 三菱造船長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 重巡洋艦
級名 古鷹型重巡洋艦
艦歴
発注 1922年6月
起工 1922年12月5日 [1]
進水 1925年2月25日 [1]
竣工 1926年3月31日 [1]
最期 1942年10月12日、米艦隊の砲撃により沈没
除籍 1942年11月10日 [2]
要目(新造時 → 改装後[3]
基準排水量 7,950トン → 8,700トン
公試排水量 9,544トン → 10,630トン
全長 185.166 m
最大幅 16.55 m → 16.926 m
吃水 5.56 m → 5.61 m
主缶 艦本式缶重油専焼10基、同混焼2基 → 艦本式重油専焼缶10基
主機 三菱パーソンズ式オールギアードタービン4基4軸
出力 102,000馬力 → 103,340馬力(公試成績)
速力 34.6ノット(公試成績)
→ 32.95ノット(公試成績)
燃料 重油:1,400トン、石炭:400トン
→ 重油:1,858トン
航続距離 14ノットで7,000海里
乗員 627名 → 639名
兵装 竣工時[4]
50口径20cm単装砲6門
40口径8cm単装高角砲4門
61cm連装魚雷発射管6基12門
八年式魚雷24本
改装後
50口径20.3cm連装砲3基6門
45口径12cm単装高角砲4門
61cm4連装魚雷発射管2基8門
九三式魚雷16本
装甲 舷側76mm
水平32-35mm
主砲25mm
搭載機 1機 → 2機
(カタパルト0 → 1基)
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古鷹(ふるたか)は大日本帝国海軍古鷹型重巡洋艦1番艦である[5]。艦名は江田島海軍兵学校そばにある古鷹山に由来する[6]平賀譲造船官が設計し、世界で最初に20cm砲を搭載した巡洋艦となった[7][8][9]。1942年10月、サボ島沖海戦で沈没した。

艦歴[編集]

建造経緯 [編集]

大正時代中期までの日本海軍の主力巡洋艦は5500トン型軽巡洋艦で、同じ太平洋で強力な海軍を持つ米国のオマハ級軽巡洋艦に比べて軍艦性能で大きく後れを取っていた。平賀は基準排水量2890トンの船体に5500トン型軽巡洋艦に匹敵する兵装を備えた軽巡洋艦夕張を設計し、軍艦設計技術の高さを世界に示した[10]。平賀は夕張に引き続き、米国の15cm砲搭載軽巡洋艦に対抗できる兵装を備えつつ、快速で中部太平洋まで行動できる高い航海性能を備えた偵察巡洋艦として、夕張のコンパクトな設計思想を引き継いだ7100トン級巡洋艦を設計した[11]。これが古鷹型である。当初の計画では14cm砲を搭載する予定だったが、1922年(大正11年)2月に終了したワシントン海軍軍縮条約で、巡洋艦が「排水量10,000トン以下、砲口径5インチ以上8インチ以下」と定義された一方、保有トン数の制限は設定されなかった。そのため搭載する主砲は、条約下で米国巡洋艦を上回る20cm単装砲6基6門に変更された。

1922年(大正11年)8月11日、1番艦に衣笠、2番艦に古鷹の艦名が与えられた[12]。10月9日、1番艦の艦名が加古に変更された(詳細は加古参照)。12月5日、加古より18日遅れて三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工した[1]1925年(大正14年)2月25日に進水[1][13]1926年(大正15年)3月31日に竣工し[1]、横須賀鎮守府籍となった[14]。竣工時点で加古はクレーンの事故などで竣工しておらず、加古の竣工は7月20日と約4か月遅れた[15]。この結果、11月29日の艦艇類別等級表の改訂で古鷹が1番艦となった[16]。ただ計画段階から加古型(加古級)の呼称が浸透しており、改訂後も古鷹型と並んで加古型の表記が広く使われた。

古鷹と加古は20cm単装砲を前甲板と後甲板の中心線上に3基ずつ並べ、煙突を巨大化し、航行性を高めるために波型の甲板を採用した事に特徴がある[17]。ただ主砲の装填は人力式で、機械式に比べて給弾の遅さが建造当初から問題視されていた。準同型艦の青葉型重巡洋艦では機械装填式の20cm連装砲塔3基6門に変更されており、建造当初の古鷹型と青葉型の外見上の大きな違いとなった。

竣工後[編集]

昭和16年11月
1935年撮影 給油艦鶴見との洋上給油
1926年4月5日 就役当時の艦橋
1939年撮影 改装後の艦橋

1926年(大正15年)4月1日、古鷹は第五戦隊に編入された[18]。当初は古鷹、軽巡名取、軽巡由良、軽巡川内と5500トン型軽巡洋艦と戦隊を編制していた。9月25日、乗艦中の高松宮宣仁親王(海軍少尉)が長崎造船所で行われた青葉の進水式に立ち会うため、古鷹も進水式に参加した[19][20]。12月1日、第五戦隊は古鷹、加古、軽巡神通、軽巡那珂となった[18]

1927年(昭和2年)8月24日、第五戦隊は島根県美保関沖で演習中に僚艦が衝突する美保関事件に遭遇した。神通、那珂などが大破したが、古鷹は各艦と協力して沈没した駆逐艦と損傷艦の救援に従事した[21]。古鷹は戦艦比叡と共に損傷した那珂を護衛して舞鶴へ移動した[22]。 那珂乗艦中の皇族博義王が古鷹に移乗した[23]

1927年(昭和2年)12月1日の再編で、第五戦隊に古鷹、加古青葉衣笠の重巡洋艦4隻が初めて揃った[24][25]。古鷹は以降、太平洋戦争開戦まで3艦と共に第五、第六、第七戦隊を歴任した。1932年(昭和7年)2月1日、呉鎮守府籍に転籍した[14]1934年(昭和9年)6月29日、済州島沖で行われた演習に参加し、駆逐艦深雪と駆逐艦が衝突して深雪が沈没した。

1936年(昭和11年)8月14日午前4時、訓練終了後に青葉、衣笠、古鷹が縦列で航行中、衣笠が青葉の艦尾に衝突事故した[26]。後続の古鷹は衝突せず、同年度では無事故で演習でも優秀な成績をおさめた古鷹の評価が高まったという[27]

完成時に優秀な巡洋艦とされた古鷹型も、妙高型重巡洋艦高雄型重巡洋艦など1万トン級巡洋艦の就役と、大正~昭和初期の兵装や主機関、軍事装備品の急速な進歩に伴い、昭和10年代には重巡洋艦として性能や装備の遅れが目立ってきた。このため古鷹と加古は日本の重巡洋艦としては例外的に大規模な近代化改修を施し、船体、主機関や主砲塔の全換装、上部構造の大幅な改装が施された。古鷹は加古より遅れて1937年(昭和12年)3月16日に呉海軍工廠で着手し[14]1939年(昭和14年)4月30日に完成した。主砲塔は青葉型とほぼ同じ20.3cm連装砲3基6門で、魚雷発射管を艦内から甲板上に移設し61cm4連装魚雷発射管2基8門、九三式魚雷16本としたほか、高楼式の艦橋が連結構造になり、主機関の変更に伴って煙突が構造変更された(詳細は古鷹型重巡洋艦参照)。

  • 古鷹と加古の排水量は竣工時、当初計画から1割増えてほぼ8000トンとなり、喫水線が上がって舷窓が常に波浪をかぶるため「水族館」とも呼ばれたが、近代化改修でさらに1割増えて8700トンとなった。日本海軍は1934年に友鶴が転覆する友鶴事件が発生した後、艦艇全体で復原力の見直しが計られたが、事件後に大規模な改修を行った古鷹型の復原性能対策は排水量の増加に伴うバルジの増設程度にとどまり、平賀の造船設計思想の正しさを裏付けた。一方で古鷹型の設計当時の艦艇は、船体の強度を維持するため船体中心線上に隔壁を設置することが多く、古鷹も船体の軽量化と強度の両面から船体中央に隔壁が設置されていた。太平洋戦争開戦時には大口径の砲弾や爆発力の高い魚雷の開発が進み、命中した場合に片舷のみが浸水し傾斜が復原できなくなる危険性が指摘されていた。この問題は解消される機会がないまま古鷹は開戦を迎え、サボ島沖海戦で左舷への集中砲火を受けて沈没する一因になった[28]

1940年(昭和15年)5月2日、内閣首脳の体験航海のため横浜に入港[29]。10月11日、紀元二千六百年特別観艦式で加古と共に供奉艦として参列した。1941年(昭和16年)3月1日の戦隊編制変更で、第一艦隊第六戦隊に古鷹、加古、青葉、衣笠の4隻が再び揃い、太平洋戦争開戦時の態勢が整った。9月15日、第六戦隊司令官に 五藤存知少将が就任した[30]

太平洋戦争緒戦[編集]

1941年(昭和16年)12月8日当時、第一艦隊に所属する古鷹など第六戦隊は南洋部隊(第四艦隊)に増派され、同部隊の指揮下に入っていた。第六戦隊は中部太平洋でグアム島攻略作戦を支援した後、ウェーク島の戦いに参加し、 真珠湾攻撃から戻った空母蒼龍飛龍、 重巡利根筑摩、 駆逐艦谷風浦風と共に増援部隊を編制したが、古鷹など第六戦隊が発砲する機会はなかった。

1942年(昭和17年)5月上旬、古鷹以下第六戦隊はMO(ポートモレスビー)攻略部隊に所属し、珊瑚海海戦に参加した。五藤少将が指揮するMO攻略部隊主隊は青葉、加古、衣笠、古鷹、空母祥鳳、駆逐艦で編制されていた。5月7日、MO攻略部隊は空母ヨークタウンレキシントン攻撃隊の空襲を受けた。祥鳳が沈没し、第六戦隊は乗員の救助を行ったが、退避命令が出たため現場海域を離れた[31]。20時40分、第六戦隊から古鷹と衣笠がMO機動部隊に編入され[32]、青葉、加古と分かれた。5月8日朝、古鷹と衣笠はMO機動部隊(空母瑞鶴、空母翔鶴、重巡妙高、重巡羽黒、駆逐艦6隻《有明夕暮白露時雨》)と合流した[33]。ただ「第六戦隊ハ航空戦隊ノ後方五キロニ続行セヨ」以外の指示がなく、また空母を中心とした輪形陣を組まなかったため、各艦は単独で米軍機動部隊艦載機の空襲に対処する事になった[34]。古鷹と衣笠は翔鶴の後方約8000m地点を航行中に空襲を受けた[35]。翔鶴が大破したため、古鷹は衣笠、夕暮、潮と共に、戦場を離脱する翔鶴を一時的に護衛した[36]。珊瑚海海戦の結果、ポートモレスビーの攻略は延期となり、第六戦隊は本土で整備を行うことになった。古鷹は6月5日に呉に到着した[14]ミッドウェー海戦で大敗した日本海軍はソロモン諸島防備を強化する方針を打ち出し、第六戦隊4隻は南方へ戻った。古鷹は7月4日、トラック泊地に到着した[14]

ガダルカナル島の戦い[編集]

1942年(昭和17年)8月7日、米軍はツラギ島ガダルカナル島に上陸し、南太平洋での本格的な反攻に転じた。ラバウルに向かっていた第六戦隊はガダルカナル島上陸の急報を受け、急きょ三川軍一中将の指揮下で重巡鳥海、軽巡天龍、夕張、駆逐艦夕凪と共に「挺身艦隊(挺身攻撃隊)」を編制した。艦隊は単縦陣を採り、鳥海、青葉、加古、衣笠の後に古鷹が続いた。8月8日深夜、同島北部のサボ島南側水道に突入し、午後11時43分に輸送船団を護衛していた米豪連合軍艦隊と最初の夜戦に入った。直後に雷撃を受けた豪重巡キャンベラが炎上して古鷹に接近し、さらに右舷から魚雷2本が接近したため、古鷹は左に転舵した。この結果、古鷹は先行艦と分離し、天龍、夕張が古鷹の後に続いた[37]。午後11時53分、鳥海がサボ島北側水道の別艦隊を発見し、米重巡アストリアに砲撃を加えた。この戦闘で、先行艦4隻と、分離した古鷹など3隻が期せずして左右から連合軍艦隊を挟撃する陣形となった。連合軍は重巡4隻が沈没し、日本が勝利を収めた。記録によれば、古鷹は主砲153発、高射砲94発、25粍機銃147発を発射した[38]

海戦後、第六戦隊4隻は鳥海、天龍、夕張、夕凪と分かれ、ニューアイルランド島カビエンへ向かった[39][40]。8月10日朝、加古が米潜水艦S-44の魚雷攻撃により沈没した[39]。第六戦隊各艦はカッターボートなどを降ろしてカビエンへ向かった[41]。その後、古鷹など第六戦隊3隻はカビエンで加古の乗員を収容した[42]

8月、古鷹、青葉、衣笠の第六戦隊と鳥海はガダルカナル島に兵員の揚陸を目指す輸送船団を支援するため、同島北方に向かった[43]が、8月24-25日に起きた第二次ソロモン海戦で第六戦隊が交戦する機会はなかった[43][44]。8月27日夕刻、古鷹は青葉と共にショートランド泊地に到着した[45]

沈没[編集]

第二次ソロモン海戦に敗れて兵員揚陸に失敗した日本軍は、ガダルカナル島への昼間の大規模な輸送揚陸が困難になったことを認識し、高速の駆逐艦による反復輸送(鼠輸送)への転換を余儀なくされた。さらに米軍が同島に完成させたヘンダーソン飛行場の無力化が、戦略上の喫緊の課題となった。ヘンダーソン基地艦砲射撃の作戦が立案され、10月11日、五藤少将が率いる第六戦隊と第11駆逐隊の初雪吹雪がガダルカナル島に向かった[46][47]。第三戦隊(司令官栗田健男中将)の戦艦金剛榛名、第二水雷戦隊の軽巡五十鈴などによる第二次飛行場砲撃隊も準備され、10月11日、第二航空戦隊の隼鷹飛鷹と共にトラック泊地を出撃した[48][49]。飛行場砲撃に先行してガダルカナル島への揚陸作戦が行われ、周辺海域には水上機母艦日進千歳、駆逐艦秋月綾波白雪叢雲朝雲夏雲の輸送隊が行動中だった[50]。当時、輸送隊や基地航空隊は米艦隊の動向をつかんでおらず[51]、日本側は米軍が水上部隊で反撃する可能性は低いと判断していた[52]。だが米軍は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻が迎撃の態勢を整え、10月11日夜間に第六戦隊をサボ島沖で迎え撃った[53][54]

10月11日夜、旗艦青葉は第六戦隊の左前方に出現した米艦隊を、日進などの輸送隊と誤認し、「我レ、アオバ」と発信。21時43分、青葉は米軍が放った照明弾下で砲撃を受け、初弾が艦橋を貫通して五藤少将らが戦死した[55][56]。青葉は右に転舵し、煙幕を張って避退した[57]。後続の古鷹は吊光弾を見て左に転舵し右砲戦に備えたが、青葉の右転舵を見て右に変針した[58][56]。しかし古鷹は煙幕に入りきれず、米艦隊の砲撃で魚雷の酸素が誘爆して大火災となり、夜間で格好の射撃目標となった結果、三番砲塔旋回不能、魚雷発射管破壊、機関室砲弾貫通、左舷浸水、機関故障と被害が拡大した[53]。古鷹は主に高射砲で応戦、主砲発射弾数は40発以下だったが、第二射以後で敵3番艦に損害を与えたという[53][56]。青葉は古鷹に砲火が集中する間に海戦域から離脱した[59]。青葉の右前方にあった吹雪は集中砲火を受けて沈没し、古鷹に後続していた衣笠と初雪は米重巡ソルトレイクシティー、軽巡ボイシと砲戦して損傷を与えた[60]が、サボ島沖海戦は日本軍の敗北に終わった。

  • 当時の古鷹主計長だった立野良郎によると、荒木伝艦長は第一次ソロモン海戦で夜戦中に隊列を二分した行動を以後も気にしていたという。この経験がサボ島沖海戦で古鷹の左転舵を中止し、青葉に続いて右に変針した判断につながったと推測している[44]

青葉、衣笠、初雪が離脱して海戦が終了した後も古鷹は海上に浮かんでいたが、水線下への被弾による浸水が進み、22時40分頃に航行不能となった[60]。米駆逐艦とみられる艦が接近したが反転し、交戦はなかった[44]。救援に向かっていた初雪との交信に成功し[61][44]、報告した位置より西に流されていた古鷹を初雪が発見した[62]。すでに左舷への傾斜が激しく、初雪は接舷を断念した[60][44]軍艦旗を降ろした後、古鷹は艦尾から沈没した[53]。沈没時刻10月12日午前0時28分、沈没地点サボ島の310度22浬[60]。荒木艦長ほか生存者は初雪[63]に救助されたが、日の出以降に空襲が予想されたため救助活動は午前2時で打ち切られた[60][64]。初雪はカッターボート2隻と円材を海上に残して帰投した[62][65]

古鷹の救援に日進輸送隊から第9駆逐隊の朝雲と夏雲、第11駆逐隊の白雪 [66]、叢雲が向かったが、夏雲と叢雲が空襲で沈没した[67][68]。10月16日時点での古鷹乗員の戦死者は33名(内士官2)、行方不明者は225名(内士官16)、救助518名(内士官34)[53][69]で、生存者の一部はニュージーランドの収容所と米軍捕虜尋問所「トレイシー」に移送された[70]。11月10日、古鷹は除籍された[2]。同日、第六戦隊は解隊[71][72]。古鷹の乗員は青葉に乗艦し呉に帰投した[73]。 11月14日、第三次ソロモン海戦で衣笠が米軍機の空襲を受けて沈没した。古鷹型と青葉型はソロモン海で3か月間に3隻を喪失し、青葉1隻となった。

公試成績[編集]

状態 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
改装後 10,630t 32.95kt 1939年(昭和14年)6月9日 宿毛湾外標柱間

エピソード[編集]

  • 古鷹には1926(大正14)年5月1日から12月1日まで高松宮宣仁親王が乗艦した[74]。宣仁親王は後年も古鷹での生活を懐かしんだ。高松宮日記によると、1927年(昭和2年)8月6日に戦艦比叡の乗員として古鷹を見た時『今日はじめて「比叡」にくらす。(中略)いやだいやだと云つて乗つけられた艦だから一層いやだ。目の前の「古鷹」がなつかしい』と記し[75]、8月15日に古鷹を再訪した際には『「古鷹」についであり、久し振りに行く。山浦君当直で駄目だつたが、会へたのでうれ〔し〕かつた。瀬下兵曹に電路図をかいてもらつて帰る。とてもいゝ。「比叡」なんか駄目ヽ』と残した[76]。8月24日の美保関事件時は比叡に乗艦していたが、博義王が古鷹に移乗したと聞いて『「古鷹」なら僕と代りたいものだ』と羨んだ[23]
  • 1939年11月15日から1940年10月15日まで、海軍砲術学校教官黛治夫中佐が古鷹副長を務めた[77][78]。この間、砲術科の黛が指導したことで、古鷹は戦闘訓練で抜群の成績を収めたという[79]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』87-89頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 塩沢幸一 大佐:1925年5月15日[80] - 1926年3月31日[81]

艦長[編集]

  1. 塩沢幸一 大佐:1926年3月31日[81] - 1926年12月1日[82]
  2. 菊井信義 大佐:1926年12月1日[82] - 1927年11月15日[83]
  3. 有馬寛 大佐:1927年11月15日[83] - 1928年12月10日[84]
  4. 大西次郎 大佐:1928年12月10日[84] - 1929年11月30日[85]
  5. 田尻敏郎 大佐:1929年11月30日[85] - 1930年12月1日[86]
  6. 町田進一郎 大佐:1930年12月1日[86] - 1931年12月1日[87]
  7. 神山忠 大佐:1931年12月1日[87] - 1932年12月1日[88]
  8. 高山忠三 大佐:1932年12月1日[88] - 1933年11月15日[89]
  9. 斎藤二朗 大佐:1933年11月15日[89] - 1934年11月15日[90]
  10. 角田覚治 大佐:1934年11月15日[90] - 1935年11月15日[91]
  11. 水野準一 大佐:1935年11月15日[91] - 1936年12月1日[92]
  12. 大塚幹 大佐:1936年12月1日[92] - 1937年12月1日[93]
  13. 友成佐市郎 大佐:1937年12月1日[93] - 1938年4月20日[94]
  14. 岡村政夫 大佐:1938年4月20日[94] - 1938年12月15日[95]
  15. 伊藤皎 大佐:1938年12月15日[95] - 1939年11月15日[78]
  16. 白石万隆 大佐:1939年11月15日[78] - 1940年10月19日[96]
  17. 中川浩 大佐:1940年10月19日[96] - 1941年11月28日[97]
  18. 荒木伝 大佐:1941年11月28日[97] - 1942年11月10日[98]

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『古鷹|一等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正11-12-5|大正14-2-25|大正15-3-31|(艦装備略)』
  2. ^ a b #S1709呉鎮日誌(5)p.17『十日〇〇〇八海軍大臣→十日一〇五〇各鎮長官 各警長官 各艦隊長官|官房機密第一〇〇〇八八三番電 十日附古鷹、龍驤ヲ軍艦籍ヨリ除カル』
  3. ^ 要目は主に加古の値。古鷹の値は改装後の公試排水量、機関出力、速力。
  4. ^ #日本軍艦集2600年版p.28『一等巡洋艦 古鷹(ふるたか) 基準排水量7,100噸、長さ176.78米、幅15.47米、平均吃水4.5米、速力33節、備砲20糎砲6門、12糎高角砲4門、魚雷發射管12門』
  5. ^ #艦艇類別等級(昭和16年12月31日)p.2『軍艦|巡洋艦|一等|古鷹型|古鷹、加古』
  6. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.120『古鷹(ふるたか) 艦種一等巡洋艦 加古・青葉・衣笠は其の姉妹艦なり。艦名考山名なり、安藝國江田島に在る古鷹山に採る。艦歴所謂8吋砲巡洋艦の魁をなしたる艦なり。』
  7. ^ #ハンディ判艦艇写真集11p.27(引き渡し直後寫眞)
  8. ^ #日本軍艦集2600年版p.28『古鷹は世界最初の八吋砲巡洋艦で世界の造船家を唖然足らしめた。』
  9. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.27『一等巡洋艦"古鷹 ふるたか" 飛躍的進歩を遂げた我が造艦技術は、今や世界の驚異とされ1隻の艦艇が我に出現すれば忽ちそれは世界列強の注目研究するところとなる。就中この古鷹の出現ほど世界をあつと云はせたものはあるまい。實にこの艦の計畫された時などは外國人は口を揃へて、「わずか7,100噸の排水量の艦に20糎砲が6門その上に魚雷發射管が12門も積めるわけがない」と云つて信じなかつたものである。が「これですつかり出來上つたから見て呉れ」とばかりに大正15年3月竣工した古鷹を見せつけられた世界は二度吃驚した。計畫通りの兵装が施されてゐるばかりでなく、それまでの巡洋艦型を美事に脱却したスマートさ。即ち古鷹の出現は世界巡洋艦に大革新を齎したと共に日本人の偉大さを世界に再認識せしめたのである。』
  10. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.38、夕張の項『排水量僅かに2,890頓で上記の兵装も而もその悉くが首尾線上に装備されてゐるのみならず、14糎砲は各2門宛を砲塔式に即ち2連装砲塔として備へて、速力は5,000頓級と同じ33節である。全く素晴らしい進歩である。今後はこれだと人々に思はせたが果たせるかな後年になつて計畫されたのがあの7,100頓の加古級である。即ちこの夕張は現在の一等巡洋艦完成の手引であつたとも見られるものである。』
  11. ^ #東京帝国大学総長平賀譲p.2『…殊ニ古鷹、加古、青葉、衣笠級巡洋艦ノ如キハ世界ノ驚異トシテ造船史上ニ一時代ヲ劃セルモノニシテ昭和三年帝國學士院ハ學士院賞ヲ授與シテ其ノ功績ヲ表彰セリ(以下略)』
  12. ^ #達大正11年8月p.8『達第百五十一號 軍備補充費ヲ以テ大正十一年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル|大正十一年八月十一日 海軍大臣男爵加藤友三郎|川崎造船所ニ於テ建造 衣笠キヌカサ|三菱長崎造船所ニ於テ建造 古鷹フルタカ』
  13. ^ 大正14年2月26日(木)海軍公報第3693号 p.4』 アジア歴史資料センター Ref.C12070296600 『○軍艦進水 長崎三菱造船ニ於テ建造ノ軍艦古鷹二月二十五日午前十時進水セリ』
  14. ^ a b c d e #ハンディ判艦艇写真集11p.42(重巡洋艦『古鷹』行動年表)
  15. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『加古|一等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正11-11-17|大正14-4-10|大正15-7-20|(艦装備略)』
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参考文献[編集]

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    • Ref.C04015462000 『帝国新造巡洋艦古鷹に関し新聞紙上に現はれたる英米専門家の批評報告の件』。
    • Ref.C04015780800 『観艦式場計画要領の件』。
    • Ref.C04015073900 『宣仁親王殿下御発着の件』。
    • Ref.C04015074100 『青葉進水式に於ける儀礼に関する件』。
    • Ref.C04015668100 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(1)』。
    • Ref.C04016103200 『第2艦隊地方饗宴状況』。
    • Ref.C05035389100 『衣笠機密第62号 11.8.14軍艦衣笠、青葉追衝報告』。
    • Ref.C11080470500 『第1411号 昭和3年12月20日 昭和4年度艦船役務予定表の件』。
    • Ref.C11080482500 『第1406号 昭和4年12月11日 昭和5年度艦船役務予定表送付の件』。
    • Ref.C05021175900 『官房機密 第1310号 14.12.15昭和6年(教育)年度艦船役務予定の件』。
    • Ref.C11080545400 『昭和6年12月7日 昭和7年度艦船役務予定表送付の件』。
    • Ref.C11080575700 『昭和10年11月14日 昭和11年度帝国艦船役務予定表送付の件(各国武官宛)』。
    • Ref.C11080597400 『第5578号 昭和11年12月9日 昭和12(教育)年度帝国艦船役務予定表送付の件』。
    • Ref.C13071974300 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿2.3』。
    • Ref.C08051772000 『昭和16年~昭和20年戦隊水戦輸送戦隊行動調書』。
    • Ref.C08030045300 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030045400 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030045500 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030045600 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030045700 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030045800 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
    • Ref.C08030727700 『昭和17年5月8日第7駆逐隊戦闘詳報・珊瑚海海戦』。
    • Ref.C08030571200 『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 軍艦加古戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030571300 『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 軍艦加古戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030571400 『昭和17年7月1日~昭和17年7月31日 軍艦加古戦時日誌』。
    • Ref.C08030571500 『昭和17年8月7日~昭和17年8月10日 軍艦加古戦闘詳報』。
    • Ref.C08030748100 『昭和17年8月8日 軍艦加古戦闘概報(ソロモン海域6S戦闘経過図)』。
    • Ref.C08030586700 『昭和17年9月11日~昭和18年7月22日 軍艦日進戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030586800 『昭和17年9月11日~昭和18年7月22日 軍艦日進戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030113900 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030114000 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030325500 『昭和17年9月1日~昭和17年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030325900 『昭和17年9月1日~昭和17年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08050116900 『艦船艦齢線表 昭和17年8月』。
    • Ref.C12070064400 『大正1年達完/達大正1年8月』。
    • Ref.C12070078400 『大正10年 達完/達大正10年3月』。
    • Ref.C12070078900 『大正10年 達完/達大正10年6月』。
    • Ref.C12070080800 『大正11年 達完/達大正11年8月』。
    • Ref.C12070081000 『大正11年 達完/達大正11年10月』。
    • Ref.C12070082500 『大正12年 達完/達大正12年9月』。

関連項目[編集]

  1. ^ 昭和17年11月20日(発令11月10日付)海軍辞令公報(部内限)第993号 p.6』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088300