博義王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
博義王
HIH Fushimi Hiroyoshi.jpg
博義王
続柄 伏見宮博恭王第一王子
身位
敬称 殿下
His Imperial Highness
出生 1897年12月8日
死去 (1938-10-19) 1938年10月19日(40歳没)
配偶者 一条朝子
子女 光子女王
博明王
令子女王
章子女王
父親 伏見宮博恭王
母親 博恭王妃経子
テンプレートを表示

博義王(ひろよしおう、1897年明治30年)12月8日 - 1938年昭和13年)10月19日)は、明治・大正期の伏見宮家皇族海軍軍人[1][2]。 最終階級は海軍大佐[3][2]。 伏見宮第25代当主の伏見宮博恭王第1王子[4]。伏見宮の継承はしていないが、伏見宮博義王と通称されることもある[5][6]

来歴・人物[編集]

東京府立四中を経て、当時の皇族の軍学校入学の慣例として海軍兵学校入学。海兵第45期で卒業し、海軍将校となる。この頃より気管支喘息が持病となった[3]1927年(昭和2年)8月24日美保関事件発生時、衝突事故で損傷した川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」に同艦水雷長として勤務していた[7]

1935年(昭和10年)11月15日、博義王中佐(那珂副長)は敷設艦「厳島」艦長に補職[8]1936年(昭和11年)12月1日、第3駆逐隊司令平塚四郎中佐が第30駆逐隊司令へ転任[9]。日本海軍は博義王(厳島艦長)を第3駆逐隊司令に任命する[9]。また皇族附武官も浦孝一中佐から早川幹夫中佐に交代した[9]1937年(昭和12年)の第二次上海事変に際し、引き続き第3駆逐隊司令として出征する[3][10]。同年9月25日、黄浦江にて作戦中、乗艦の峯風型駆逐艦4番艦「島風」が中国軍の射撃を受け、博義王は左手を負傷した[11]。同乗の早川幹夫中佐も重傷を負った(後日、早川は第二水雷戦隊司令官として島風型駆逐艦島風沈没時に戦死)[12]。博義王負傷の報は米内光政海軍大臣より昭和天皇に伝えられ、天皇は直ちに負傷見舞いを送っている[13][14]。10月25日、博義王第二女の令子女王が死去する[15]。前線の博義王は10月29日の葬儀に出られなかった[16]

同年11月15日、博義王は吹雪型駆逐艦3隻()で編制された第6駆逐隊司令に補職される[17]。揚子江方面で行動中、病気療養(潰瘍性口内炎)のため1938年(昭和13年)3月24日に帰国(芝浦着)、築地の海軍軍医学校に30日まで入院した[18]。4月18日、宮城にて昭和天皇および香淳皇后に対面した[18]。4月20日附で第6駆逐隊司令を免じられ、海軍大学校教官となる(第5駆逐隊司令江戸兵太郎中佐が、第5駆逐隊と第6駆逐隊司令を兼務)[19]

1938年(昭和13年)10月18日より持病の喘息が悪化[2]10月19日午前2時、心臓マヒのために薨去[20][2]。治療のため医者が薬を注射したところ、1時間後に急死したという。享年42(満40歳)[20]。死亡により海軍大佐に進級[2]。父宮よりも早く薨去したため、伏見宮は承継しなかった。

血縁[編集]

高松宮妃喜久子とは従兄妹にあたる。

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ #皇室近状コマ46『ヒロヨシ王 博恭王第一王子 明治三十年十二月八日御誕生 海軍中佐 大勲位』
  2. ^ a b c d e 昭和13年10月19日号外 国立国会図書館デジタルコレクション コマ1『告示◎宮内告示第二十七號 海軍大佐大勲位博義王殿下本日午前二時東京府東京市麹町區紀尾井町四番地伏見宮邸ニ於テ薨去セラル 昭和十三年十月十九日 宮内大臣 松平恒雄|敍任◎昭和十三年十月十九日 海軍中佐大勲位博義王 任海軍中佐|◎宮廷録事(略)◎博義王殿下御容体 海軍大佐大勲位博義王殿下ニハ去ル八月二十八日以來軽微ナル御持病ノ氣管支喘息御發作アリシモ比較的輕易ニ拝セシカ本月十八日午前一時頃急劇ニ激烈ナル御發作アリ今十九日午前一時再ヒ強烈ナル御發作アリ種々御手當申上ケタルモ同二時心臓麻痺ニテ薨去遊ハサル』
  3. ^ a b c #昭和天皇実録七巻649-650頁『博義王略歴』
  4. ^ #皇室画報コマ26『伏見宮家』
  5. ^ #皇室近状コマ41『御武勲赫々 尊き御身を以て上海、黄浦江上に於て驅逐隊司令として御奮戰、御名譽の御負傷あらせられ誠に恐懼の極みである。赫々たる武勲を立てさせられ御歸還の伏見宮博義王殿下〔御右〕』
  6. ^ #皇室近状コマ75(原本62頁)『伏見宮博義王殿下 御奮戰中名譽の御負傷』
  7. ^ 「美保関沖で夜間演習中軍艦四隻の大衝突」1927年8月6日付 大阪朝日新聞(神戸大学附属図書館 新聞記事文庫)
  8. ^ 昭和10年11月16日 国立国会図書館デジタルコレクション コマ9(原382)遠藤昌免厳島艦長、コマ10(原383)博義王補職、コマ11(原384)皇族附武官浦孝一中佐
  9. ^ a b c 昭和11年12月2日 国立国会図書館デジタルコレクション コマ21(原73)平塚免職、コマ22(原74)博義王・早川補職(原74)浦免職
  10. ^ #皇室近状コマ81『博義王殿下第一線に(八、三一)』
  11. ^ 支那事変実記2輯コマ133-134(原本255-256頁)『伏見宮博義王には、第三驅逐隊司令として重要任務に御従事中のところ、本日午後黄浦江江遡航中、日本優先浦東桟橋附近に據れる敵を發見攻撃中、午後三時四十分頃敵彈のため畏くも御左手に御負傷遊ばされたが、御自ら破片をお抜き遊ばされた後、假繃帶まで御自身で遊ばされ、極めて御元氣に、再び御任務に就かれたといふ。此の殿下の御勇敢さに麾下の将兵一同は感激、一層任務に邁進せんことを誓つたと傳へらる。』
  12. ^ #皇室近状コマ75(原本62頁)『繃帶を巻かせられ病院御見舞』
  13. ^ #皇室近状コマ82『博義王御戰傷に御見舞(九、二六)』
  14. ^ #昭和天皇実録七巻420-421頁『(昭和十二年九月)二十六日(博義王の負傷)』
  15. ^ #昭和天皇実録七巻441-442頁『(昭和十二年十月)二十六日 火曜日(令子女王薨去)』
  16. ^ #皇室近状コマ84『御父宮は戰線に(一〇、二五)/御葬儀(一〇、二九)』
  17. ^ 昭和12年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報 号外第91号 p.23柴田力大佐(免6dg司令)、p.24大石堅志郎中佐(補3dg司令)・博義王(補6dg司令)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  18. ^ a b #昭和天皇実録七巻542-543頁『(昭和十三年四月)十八日 月曜日(中支より帰還の博義王と御対面)』
  19. ^ 昭和13年4月20日(発令4月20日付)海軍辞令公報(部内限)号外第171号 p.32』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073700 
  20. ^ a b #昭和天皇実録七巻649頁『(昭和十三年十月)十九日 水曜日(博義王薨去)』
  21. ^ #皇室近状コマ83-84『伏見宮令子女王殿下薨去(一〇、二五)』
  22. ^ 昭和12年10月26日 国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『◎宮内省告示第三十二號 令子女王殿下本日午前二時十五分東京府東京市麹町區紀尾町四番地伏見艇ニ於テ薨去セラル 昭和十二年二十五日 宮内大臣松平恒雄』
  23. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]